投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月29日(水)21時10分30秒
前回投稿で紹介した丸山陽子氏『コレクション日本歌人選13 兼好法師』(笠間書院、2011)のカバーの裏に、
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兼好法師
俗名は「吉田兼好」。ごぞんじ『徒然草』に優れた人生批評を残した文人である。京都・吉田神社の出身で、頓阿らと並ぶ二条派四天王の歌人として活躍、半僧半俗の一生を過ごした。二度以上鎌倉を訪れ、関東の事情にも通じていた。「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」といったその達観した人生訓は、江戸時代に入って褒めたたえられた。『太平記』の塩冶判官高貞の妻に横恋慕した足利尊氏の執事高師直から頼まれて恋文を代筆したなどという、世故にたけた通人としての逸話もある。
http://kasamashoin.jp/2011/04/post_1777.html
とあって、著書自身が書かれたのか笠間書院の編集者によるのかは分かりませんが、僅か6年半前の文章なのに、何故かひどく昔の話のような感じがしてしまいます。
小川剛生氏の新発見は国文学研究者、特に『徒然草』や『兼好法師自撰家集』を専門にしていた人たちにとっては大地震や大津波に匹敵する事象かもしれないですね。
ま、それはともかく、兼好法師が描いた堀川具親像と比較するために、『増鏡』で堀川具親が登場する場面を紹介してみます。
巻十三「秋のみ山」からの引用です。(井上宗雄『増鏡(下) 全訳注』、講談社学術文庫、1983、p63以下)
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大納言典侍〔すけ〕のこと
内には万里小路大納言入道師重〔もろしげ〕といひし女〔むすめ〕、大納言の典侍〔すけ〕とて、いみじう時めく人あるを、堀川の春宮権大夫具親〔とうぐうごんのだいぶともちか〕の君、いと忍びて見そめられけるにや、かの女、かき消ち失せぬとて求めたづねさせ給ふ。
二、三日こそあれ、程なくその人とあらわれぬれば、上〔うへ〕、いとめざましく憎しと思〔おぼ〕す。やんごとなき際〔きは〕にはあらねど、御おぼえの時なれば、厳しくとがめさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣さまほしきまで思されけれども、さすがにて、つかさみなとどめて、いみじう勘ぜさせ給へば、かしこまりて、岩倉の山庄にこもりゐぬ。花の盛りにおもしろきをながめて、
うきことも花にはしばし忘られて春の心ぞ昔なりける
典侍の君はかへり参れるを、つらしと思す物から、「うきにまぎれぬ恋しさ」とや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしもあらず正身〔さうじみ〕はなほすき心ぞたえずありけんかし。
たえはつる契りをひとり忘れぬもうきも我が身の心なりけり
とて、ひとりごたりける。末ざまには公泰〔きんやす〕の大納言、いまだ若うおはせしころ、御心と許して給はせければ、思ひかはして住まれし程に、かしこにて失せにき。
<現代語訳>
天皇には、万里小路大納言入道師重といった人の娘で、大納言の典侍といって、たいへん寵愛を受けている人があったのを、堀川の春宮権大夫具親卿が、たいそう内々に見そめられたのか、その女性が宮中から消え失せてしまったというので、探し求められた。
二、三日はわからなかったが、まもなく具親の仕業ということが現れたので、天皇は意外なことで気にくわないとお思いになる。この大納言の典侍は尊貴な身分ではないが、御寵愛の厚い時なので、厳しく具親をお咎めになって、ほんとうに(光源氏のように)須磨の浦へも流したいとまで思はれたが、さすがにそれまでは出来なくて、官職をみな解いて、厳しく処罰されたので、具親は謹慎して(洛外の)岩倉の山荘に閉じこもっていた。花盛りでおもしろいのをながめて、(つぎの歌を読んだ)
この身のつらさも、美しい花を見ていると、しばらくは忘れられて、
春という季節の楽しい心は昔と変わらないことよ。
典侍の君は帰って参ったのを、天皇は、薄情な女だとは思われるが「つらい思いにとりまぎれず、やはりその人が恋しいこと」というのであろうか、いよいよかわいがりなさるのを、本人はそれほど(有難い)とも思わず、好き心がたえなかったようであるよ。
絶えてしまった(男との)契りをひとり忘れずに頼みにしているのも、
またいろいろ思い悩むこのつらさも、結局はわが心から起きたことであるよ。
と、ひとりつぶやいたのであった。後には、公泰の大納言がまだ若くいらっしゃったころ、天皇の御意志でお許しになったので、たがいに愛しあっていっしょに(夫婦として)住まれているうちに、その公泰のもとでなくなったのであった。
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『源氏物語』っぽい脚色がなされていますが、井上氏の「語釈」によれば、権中納言春宮権大夫の具親が文保二年(1318)八月八日解官、「依女事也」と『公卿補任』にあるそうなので、基本的には史実ですね。翌年閏七月還任だそうですから、丸々一年間謹慎していたことになります。
前回投稿で紹介した丸山陽子氏『コレクション日本歌人選13 兼好法師』(笠間書院、2011)のカバーの裏に、
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兼好法師
俗名は「吉田兼好」。ごぞんじ『徒然草』に優れた人生批評を残した文人である。京都・吉田神社の出身で、頓阿らと並ぶ二条派四天王の歌人として活躍、半僧半俗の一生を過ごした。二度以上鎌倉を訪れ、関東の事情にも通じていた。「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」といったその達観した人生訓は、江戸時代に入って褒めたたえられた。『太平記』の塩冶判官高貞の妻に横恋慕した足利尊氏の執事高師直から頼まれて恋文を代筆したなどという、世故にたけた通人としての逸話もある。
http://kasamashoin.jp/2011/04/post_1777.html
とあって、著書自身が書かれたのか笠間書院の編集者によるのかは分かりませんが、僅か6年半前の文章なのに、何故かひどく昔の話のような感じがしてしまいます。
小川剛生氏の新発見は国文学研究者、特に『徒然草』や『兼好法師自撰家集』を専門にしていた人たちにとっては大地震や大津波に匹敵する事象かもしれないですね。
ま、それはともかく、兼好法師が描いた堀川具親像と比較するために、『増鏡』で堀川具親が登場する場面を紹介してみます。
巻十三「秋のみ山」からの引用です。(井上宗雄『増鏡(下) 全訳注』、講談社学術文庫、1983、p63以下)
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大納言典侍〔すけ〕のこと
内には万里小路大納言入道師重〔もろしげ〕といひし女〔むすめ〕、大納言の典侍〔すけ〕とて、いみじう時めく人あるを、堀川の春宮権大夫具親〔とうぐうごんのだいぶともちか〕の君、いと忍びて見そめられけるにや、かの女、かき消ち失せぬとて求めたづねさせ給ふ。
二、三日こそあれ、程なくその人とあらわれぬれば、上〔うへ〕、いとめざましく憎しと思〔おぼ〕す。やんごとなき際〔きは〕にはあらねど、御おぼえの時なれば、厳しくとがめさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣さまほしきまで思されけれども、さすがにて、つかさみなとどめて、いみじう勘ぜさせ給へば、かしこまりて、岩倉の山庄にこもりゐぬ。花の盛りにおもしろきをながめて、
うきことも花にはしばし忘られて春の心ぞ昔なりける
典侍の君はかへり参れるを、つらしと思す物から、「うきにまぎれぬ恋しさ」とや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしもあらず正身〔さうじみ〕はなほすき心ぞたえずありけんかし。
たえはつる契りをひとり忘れぬもうきも我が身の心なりけり
とて、ひとりごたりける。末ざまには公泰〔きんやす〕の大納言、いまだ若うおはせしころ、御心と許して給はせければ、思ひかはして住まれし程に、かしこにて失せにき。
<現代語訳>
天皇には、万里小路大納言入道師重といった人の娘で、大納言の典侍といって、たいへん寵愛を受けている人があったのを、堀川の春宮権大夫具親卿が、たいそう内々に見そめられたのか、その女性が宮中から消え失せてしまったというので、探し求められた。
二、三日はわからなかったが、まもなく具親の仕業ということが現れたので、天皇は意外なことで気にくわないとお思いになる。この大納言の典侍は尊貴な身分ではないが、御寵愛の厚い時なので、厳しく具親をお咎めになって、ほんとうに(光源氏のように)須磨の浦へも流したいとまで思はれたが、さすがにそれまでは出来なくて、官職をみな解いて、厳しく処罰されたので、具親は謹慎して(洛外の)岩倉の山荘に閉じこもっていた。花盛りでおもしろいのをながめて、(つぎの歌を読んだ)
この身のつらさも、美しい花を見ていると、しばらくは忘れられて、
春という季節の楽しい心は昔と変わらないことよ。
典侍の君は帰って参ったのを、天皇は、薄情な女だとは思われるが「つらい思いにとりまぎれず、やはりその人が恋しいこと」というのであろうか、いよいよかわいがりなさるのを、本人はそれほど(有難い)とも思わず、好き心がたえなかったようであるよ。
絶えてしまった(男との)契りをひとり忘れずに頼みにしているのも、
またいろいろ思い悩むこのつらさも、結局はわが心から起きたことであるよ。
と、ひとりつぶやいたのであった。後には、公泰の大納言がまだ若くいらっしゃったころ、天皇の御意志でお許しになったので、たがいに愛しあっていっしょに(夫婦として)住まれているうちに、その公泰のもとでなくなったのであった。
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『源氏物語』っぽい脚色がなされていますが、井上氏の「語釈」によれば、権中納言春宮権大夫の具親が文保二年(1318)八月八日解官、「依女事也」と『公卿補任』にあるそうなので、基本的には史実ですね。翌年閏七月還任だそうですから、丸々一年間謹慎していたことになります。