学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『増鏡』に登場する堀川具親

2017-11-29 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月29日(水)21時10分30秒

前回投稿で紹介した丸山陽子氏『コレクション日本歌人選13 兼好法師』(笠間書院、2011)のカバーの裏に、

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兼好法師
俗名は「吉田兼好」。ごぞんじ『徒然草』に優れた人生批評を残した文人である。京都・吉田神社の出身で、頓阿らと並ぶ二条派四天王の歌人として活躍、半僧半俗の一生を過ごした。二度以上鎌倉を訪れ、関東の事情にも通じていた。「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」といったその達観した人生訓は、江戸時代に入って褒めたたえられた。『太平記』の塩冶判官高貞の妻に横恋慕した足利尊氏の執事高師直から頼まれて恋文を代筆したなどという、世故にたけた通人としての逸話もある。

http://kasamashoin.jp/2011/04/post_1777.html


とあって、著書自身が書かれたのか笠間書院の編集者によるのかは分かりませんが、僅か6年半前の文章なのに、何故かひどく昔の話のような感じがしてしまいます。
小川剛生氏の新発見は国文学研究者、特に『徒然草』や『兼好法師自撰家集』を専門にしていた人たちにとっては大地震や大津波に匹敵する事象かもしれないですね。
ま、それはともかく、兼好法師が描いた堀川具親像と比較するために、『増鏡』で堀川具親が登場する場面を紹介してみます。
巻十三「秋のみ山」からの引用です。(井上宗雄『増鏡(下) 全訳注』、講談社学術文庫、1983、p63以下)

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大納言典侍〔すけ〕のこと

 内には万里小路大納言入道師重〔もろしげ〕といひし女〔むすめ〕、大納言の典侍〔すけ〕とて、いみじう時めく人あるを、堀川の春宮権大夫具親〔とうぐうごんのだいぶともちか〕の君、いと忍びて見そめられけるにや、かの女、かき消ち失せぬとて求めたづねさせ給ふ。
 二、三日こそあれ、程なくその人とあらわれぬれば、上〔うへ〕、いとめざましく憎しと思〔おぼ〕す。やんごとなき際〔きは〕にはあらねど、御おぼえの時なれば、厳しくとがめさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣さまほしきまで思されけれども、さすがにて、つかさみなとどめて、いみじう勘ぜさせ給へば、かしこまりて、岩倉の山庄にこもりゐぬ。花の盛りにおもしろきをながめて、
  うきことも花にはしばし忘られて春の心ぞ昔なりける
 典侍の君はかへり参れるを、つらしと思す物から、「うきにまぎれぬ恋しさ」とや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしもあらず正身〔さうじみ〕はなほすき心ぞたえずありけんかし。
  たえはつる契りをひとり忘れぬもうきも我が身の心なりけり
とて、ひとりごたりける。末ざまには公泰〔きんやす〕の大納言、いまだ若うおはせしころ、御心と許して給はせければ、思ひかはして住まれし程に、かしこにて失せにき。

<現代語訳>
 天皇には、万里小路大納言入道師重といった人の娘で、大納言の典侍といって、たいへん寵愛を受けている人があったのを、堀川の春宮権大夫具親卿が、たいそう内々に見そめられたのか、その女性が宮中から消え失せてしまったというので、探し求められた。
 二、三日はわからなかったが、まもなく具親の仕業ということが現れたので、天皇は意外なことで気にくわないとお思いになる。この大納言の典侍は尊貴な身分ではないが、御寵愛の厚い時なので、厳しく具親をお咎めになって、ほんとうに(光源氏のように)須磨の浦へも流したいとまで思はれたが、さすがにそれまでは出来なくて、官職をみな解いて、厳しく処罰されたので、具親は謹慎して(洛外の)岩倉の山荘に閉じこもっていた。花盛りでおもしろいのをながめて、(つぎの歌を読んだ)

 この身のつらさも、美しい花を見ていると、しばらくは忘れられて、
 春という季節の楽しい心は昔と変わらないことよ。

 典侍の君は帰って参ったのを、天皇は、薄情な女だとは思われるが「つらい思いにとりまぎれず、やはりその人が恋しいこと」というのであろうか、いよいよかわいがりなさるのを、本人はそれほど(有難い)とも思わず、好き心がたえなかったようであるよ。

 絶えてしまった(男との)契りをひとり忘れずに頼みにしているのも、
 またいろいろ思い悩むこのつらさも、結局はわが心から起きたことであるよ。

と、ひとりつぶやいたのであった。後には、公泰の大納言がまだ若くいらっしゃったころ、天皇の御意志でお許しになったので、たがいに愛しあっていっしょに(夫婦として)住まれているうちに、その公泰のもとでなくなったのであった。
------

『源氏物語』っぽい脚色がなされていますが、井上氏の「語釈」によれば、権中納言春宮権大夫の具親が文保二年(1318)八月八日解官、「依女事也」と『公卿補任』にあるそうなので、基本的には史実ですね。翌年閏七月還任だそうですから、丸々一年間謹慎していたことになります。
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『兼好法師自撰家集』に登場する堀川具親

2017-11-29 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月29日(水)09時50分48秒

兼好が弘安6年(1283)生れだとすると永仁2年(1294)生れの堀川具親より11歳上ですが、小川剛生氏も簡単に触れている『徒然草』第238段のエピソード(『兼好法師』p89)では、身分的にはともかく、精神的には兼好が具親の保護者的な立場にあるような感じがします。
具親は『兼好法師自撰家集』の末尾近く、286首中の278番目にも登場しますが、こちらでは二人の関係について若干異なった印象を受けますね。
『新日本古典文学大系47 中世和歌集 室町篇』(岩波書店、1990)から引用してみます(p59)。

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 前坊御まへに月の夜、権大納言殿さぶらはせ給て、御
 酒などまいりて御連歌ありしに、候よし人の申さ
 れたりければ、御さかづきをたまはすとて

まてしばしめぐるはやすき小車〔をぐるま〕の

 といひをかれて、つけてたてまつれとおほせられし
 かば、たちはしりて逃げんとするを、長俊の朝臣に
 ひきとゞめられしかば

かゝる光の秋にあふまで

 と申す
-------

「前坊」邦良親王(御二条天皇第一皇子、1300-26)の御前に、月の夜、「権大納言殿」堀川具親が伺候して御酒などを召し上がって、連歌が行なわれた。その時、兼好がいることをある人が親王に申し上げると、親王が兼好に御盃を下さるといって、前句を言われた。そして、付句を奉れと仰せられたので、兼好がそこを急ぎ出て逃げようとするのを、五辻長俊に引き留められたので、付句を申し上げた訳ですね。
こんな風に書くと、私が兼好家集をスラスラ読解しているように見えるかもしれませんが、丸山陽子氏『コレクション日本歌人選13 兼好法師』(笠間書院、2011)の解説をパクっだけです。
引続き、丸山氏に解説してもらうと(p29以下)、

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 前句「小車」は、「めぐる」の縁語で、月日のめぐる速さにたとえている。当時皇太子であった親王が、やがて天皇に即位する意を込めたのである。ただし、親王は結局即位できず、二十七歳でこの世を去っている。対する兼好は、「光の秋」を読む。連歌が行なわれた月夜の景として、秋の月光を詠むのだが、ここに、親王にお会いして盃をいただく光栄に浴した喜びの心を込めたのである。それぞれに自身の思いを表現したのである。
 兼好は、この時親王から盃を賜り、連歌をすることになろうとは、夢にも思っていなかったのだろう。兼好が親王と連歌するに至ったのは、家司〔けいし〕として仕えた堀川家の具親につき従い、親王の御所に控えていたことがきっかけであった。
 兼好にとって、親王との連歌は、後に忘れ難い体験として記憶に残ったことであろう。
-------

ということですね。
兼好が逃げ出そうとしたことに若干の演劇性・遊戯性が伺えるので、小川説に従って兼好は堀川家に「家司として仕えた」のではないと解すると、このあたりの人間関係もより自然な感じになるように思われます。
ま、それはともかく、兼好のような地下歌人が邦良親王と親しく交わることができたのは堀川具親のおかげで、堀川家の縁故を得たことは兼好に大変なメリットを与えた訳ですね。

堀川具親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%85%B7%E8%A6%AA
邦良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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『とはずがたり』と『徒然草』に登場する久我通基

2017-11-28 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月28日(火)11時50分52秒

「徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基」は『とはずがたり』にも登場しますので、ここでその場面を紹介しておきます。
『とはずがたり』全五巻のうち、前三巻までは宮廷生活篇で、変態っぽい後深草院と愛欲の妄執に身を焦がす「有明の月」を中心にあんなことやこんなことが次々に起き、後深草院二条は後深草院の子を一人、「雪の曙」(定説では西園寺実兼)の子を一人、「有明の月」(仁和寺御室、法助法親王説と性助法親王説あり)の子を二人産んだ後、後深草院の正室である東二条院の命令で宮廷を追い出されます。
四・五巻は出家修行篇と呼ぶ国文学者もいますが、ま、諸国漫遊篇という感じで、四巻では何の説明もないまま既に出家していた二条は東国に下り、鎌倉・信濃善光寺・浅草などに滞在し、帰京してからも奈良の社寺や伊勢の内宮・外宮を訪問したりします。
五巻に入ると二条は西国に向い、厳島・足摺岬・讃岐白峯訪問後、備後和知で地方豪族の内紛に巻き込まれたりします。
帰京すると東二条院の訃報を聞き、ついで後深草院の臨終を見舞い、崩御後、葬列を裸足で追いかけたりします。
そして後深草院三回忌に深草の法華堂に詣でた後、「万里の小路の大納言師重」(北畠親房の父)から来た手紙の返事に一首を贈り、次いで「久我の前の大臣」と和歌の贈答をします。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、講談社学術文庫、1987、p440)

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【前略】久我の前の大臣は、同じ草葉のゆかりなるも忘れがたき心地して、ときどき申し通ひ侍るに、文遣はしたりしついでに、彼より、
  都だに秋のけしきは知らるるを幾夜ふしみの有明の月
問ふにつらさのあはれも、忍びがたくおぼえて、
  秋を経て過ぎにしみよも伏見山またあはれそふ有明の空
またたち返り、
  さぞなげに昔を今と忍ぶらん伏見の里の秋のあはれに
------

この後、後深草院と東二条院の娘である遊義門院へ贈った一首の次は「跋文」なので、『とはずがたり』全五巻の本当に最後の最後に「久我の前の大臣」との歌の贈答が出てくるのですが、この人は二条の従兄弟・久我通基で確定していて、異説を聞きません。
さて、ここで小川剛生氏の『新版 徒然草 現代語訳付き』(角川文庫、2015)から、久我通基が登場する第195段の訳を見ると、

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第一九五段 ある人が、久我畷〔こがなわて〕を通っていた時、小袖を着て大口袴〔おおくちはかま〕を穿いた人が、木彫りの地蔵の像を田んぼの水に浸して、丁寧に洗っていた。不思議に思って見ているうちに、狩衣〔かりぎぬ〕を着た男が二、三人現れて、「ここにいらっしゃったぞ」と言って、この人を連れて去っていった。久我内大臣通基〔こがないだいじんみちもと〕公でいらっしゃった。
 正気でいらっしゃった時には、落ち着いていて思慮深く、品の良い方でいらっしゃった。
------

ということで(p394)、精神障碍者の話ですから教科書などには載りませんが、決して後味は悪くなく、むしろ清々しい印象を残す逸話ですね。
これを単独で読むならば何の問題もないのですが、『とはずがたり』跋文直前の二条と久我通基との歌の贈答と照らし合わせると、ちょっと妙な話になってきます。
というのは、嘉元二年(1304)崩御の後深草院の三回忌の仏事は徳治元年(1306)七月に行われていて、二条と師重・通基との歌の贈答も同じ時期なのですが、通基は徳治三年(延慶元年、1308)に亡くなっています。
『徒然草』第195段では、久我家の別荘があった久我畷近くでの目撃談の日時は明示されていませんが、文章全体の雰囲気からすると通基は相当長く患っていたような印象を受けます。
そこで、仮に『徒然草』の著者が『とはずがたり』を読んでいたとしたら、精神を病んでいた方と歌の贈答が出来たなんて、二条さんはずいぶん器用な方ですね、という嫌味になりそうですね。

久我通基(1240-1308)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E9%80%9A%E5%9F%BA
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堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その2)

2017-11-27 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月27日(月)20時31分1秒

続きです。(p88以下)

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 ここに「小坂禅尼の遺命に任せて」とある。定有と釼阿との間では自明なので事情は略されてしまっているが、「小坂禅尼の遺言で、(具親母は真乗院に)扶持されている」ということなのであろう。小坂禅尼とは村上源氏嫡流の久我家の人で、徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉である。禅尼は多くの荘園を譲られて、下醍醐の勝倶胝院のパトロンでもあり(この寺はやはりとはずがたりに登場する。作者が後宮から出奔して、秘密の出産を遂げた尼寺である)、醍醐寺・仁和寺など東密系寺院に顔が利いたのであろう。そこで早く寡婦となった同じ村上源氏一門の具親母を憐れんでか、真乗院に寄寓させたのであろう。なお小坂は例の祇園社の門前で(66頁)、禅尼はここに住んでいたのである。地縁によって貞顕は小坂禅尼と知己であった可能性が高く、ゆえにその遺命である旨を持ち出したのであろう。ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。
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堀川具親の母親が数えで21歳くらいの息子と同年齢の真乗院顕助と性的関係にあって同居しているというだけでも「醜聞」であるのに、その関係は小坂禅尼なる「村上源氏嫡流の久我家の人」の遺言に基づいて形成されたもので、しかも具親は母親とそんな「醜聞」っぽい関係にある顕助と仲良しであり、「顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆」なのだそうですが、若干微妙な感じが漂いますね。
ま、これは釼阿宛て定有書状の「一躰」その他の解釈の問題なので深入りせず、というか私には深入りする能力がないのですが、私にとって具親・具親母・顕助の関係以上に奇妙なのは、小川氏が『とはずがたり』の「作者が後宮から出奔して、〔下醍醐の勝倶胝院で〕秘密の出産を遂げた」ことを小説の上の出来事ではなく、事実と考えておられる点ですね。
私は『とはずがたり』全体を自伝風小説と考えているのですが、その中でも「有明の月」関係は特に創作であることが明らかな部分と思っています。
しかし、小川氏の認識は私と正反対のようです。
ま、これも追々検討して行きたいと思います。
なお、小坂禅尼は「徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉」なので、『とはずがたり』作者の後深草院二条の従姉妹ですね。
「後久我太政大臣」久我通光(1187-1248)の息子に通忠(1216-1251)、雅忠(1228-1272)がいて、通忠が通基(1240-1308)と久我禅尼の父、雅忠が後深草院二条(1258-?)の父という関係です。
小坂禅尼について詳しく知りたい人は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)などを見て下さい。

『中世久我家と久我家領荘園』
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1699

そして兼好と堀川家の関係ですが、

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 定有は、この話が成就した暁には、堀川家が代々権利を有している陸奥国玉造郡の国衙領の年貢を称名寺に寄進するとか、具親を称名寺の壇那の一人に迎えるとか、あれこれと好条件を出して、釼阿を動かそうと必死である。貞顕の一家はそれほどに京都でも注目されていたのである。首尾はどうなったかは分からないが、ここで結ばれた縁によって、かねて貞顕・顕助に随従していた兼好が堀川家にも出入りするようになったと考えられる。兼好もこの交渉に一役買っていたのかも知れない。これ以前、兼好が堀川家と関係した確実な証拠はない。二百三十八段第二条は、皇太子尊治親王の御所に伺候する具親のもとに「用ありて参りたりしに」、具親が論語の「悪紫之奪朱也」という句の所在する巻をさがしあぐねていて、見事その役に立ったエピソードである。これは尊治の即位前、つまり文保二年(一三一八)二月以前のことであるから、兼好は若き具親にすぐに気に入られたのであろう。
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ということで(p88以下)、確かにこの話は「当時の公武融合の実例として興味深い」ですね。
金沢貞顕が堀川家に接近しようとしたのではなく、逆に堀川家の方が具守の娘「女御代琮子」の名義で有する家産(播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職)を確保するために武家有力者の後立てを求めて金沢貞顕に擦り寄った、というのが基本的構図で、兼好は金沢貞顕側の人間として堀川家に接触し、縁故を得た訳ですね。
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堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その1)

2017-11-27 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月27日(月)12時27分45秒

『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』で私が若干の疑問を感じたのは村上源氏・堀川家に関する部分です。
『徒然草』と『兼好歌集』には堀川家関係者が頻りに登場しており、従来は兼好は堀川家に「家司」として仕えていたのであろうと言われていた訳ですが、小川氏は次のように述べます。(p85以下)

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 堀川家に迎えられた貞顕の娘

 通説では兼好の主家とされてきた公家、堀川家との縁も、実は兼好出家後の正和年間後半、真乗院と金沢貞顕を介して結ばれたと考えられる。少し煩瑣となるが、当時の公武融合の実例としても興味深いので、紹介しておきたい(図版3-5)。
 貞顕は正和三年(一三一四)十一月に六波羅探題北方の職を解かれて東下した。その直前、定有なる人物が、貞顕の女子一人を堀川家に迎えることを称名寺の釼阿に持ち掛けた。定有は醍醐寺の僧らしい。堀川家と貞顕は直接に接触せず、それぞれの代理人の定有と釼阿とが交渉しているのである。
 当時の堀川家は、具守(百七段に登場する「堀川内大臣殿」)の晩年に当たり、早世した嫡男具俊の息、権中納言具親を養子にして家嫡に定めていた。問題は具守の女で具親には伯母であり姉となる琮子の身上であった。彼女は永仁六年(一二九八)十月、後伏見天皇の大嘗会御禊で女御代を務めた。女御代はそのまま入内することが多いが、後伏見は当時十一歳、かつ三年後に退位したので、琮子は入内の機会を失って実家に止まっていた。しかし一度は女御に擬されたので、朝廷から皇室領荘園の播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職が与えらえた。堀川家では未婚である琮子の将来を鑑み、その猶子(名目上の養子)となる、後見のしっかりした女性を捜していたのである。釼阿宛ての定有書状を引用する(金文一六六三号)。

  抑も粗ら申さしめ候、彼の御方〔貞顕〕の御捨子一人両人の間、猶子の事、御秘計に預かり候
  の条、何様たるべく候や、かの黄門〔具親〕の姉女御代〔琮子〕、一子無く候、又黄門母儀も此の卿〔具親〕の外、
  他子無く候、その上彼の卿母儀は、真乗院〔顕助〕と一躰の条、定めて御存知候か、小坂禅尼の
  遺命に任せて、扶持に預かり候、仍て真乗院と彼卿と当時内外無く申し奉り候、かた
  がた以てその寄せ候か、御女子多くおはしますの由承り候、其の中定めて御捨子おはし
  ます□□猶々御和讒候はゞ喜び存じ候、

 貞顕には娘がたくさんいらっしゃるので、きっと「御捨子」がおありではないでしょうか、「和讒(働きかけ、斡旋の意)」していただければありがたいです、とかなり不躾な依頼である。このやりとりからすると、それまで堀川家は金沢流北条氏とまったく接点を持たなかったらしい。そこで真乗院顕助と具親母は「一躰」であり、だから顕如と具親もまた隔てなく交際していると告げて、貞顕の警戒を解こうとしたのである。
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兼好の生年は明確ではありませんが、弘安六年(1283)という江戸時代からの説があって、小川氏も「不自然でなく、当面この説に従ってよいであろう」と言われています。(p54)
顕助(1294-1330)は金沢貞顕(1278-1333)が一七歳のときに生れた庶長子で、嘉元三年(1305)、仁和寺真乗院に迎えられ、八代目院主となります。(p83)
釼阿はかなり年長で、弘長元年(1261)生まれですね。
さて、『徒然草』第238段の自賛七箇条に登場し、兼好と非常に親しかったことが伺われる堀川具親は顕助と同年の生まれなので、「一躰」(いったい)云々はなかなか意味深長です。

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 「一躰(一対)」とは婚姻関係を意味する語である。正和三年ならば、具親は顕助と同年で二十一歳、かりにその母が三十八歳くらいとしても、顕助と「一躰」というのは醜聞であろう。釼阿に「定めて御存知候か(きっともう御存知でしょうが)」というのは、ほんらい隠すようなことなのだけれど、というニュアンスを含む。しかし当時の高僧が女性を養うことは珍しくなく、とはずがたりの「有明の月」も、作者とまさに「一躰」になる(「有明の月」も仁和寺の高僧ということになっていた)。少なくとも顕助と具親母は生活をともにしていたのである。
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ということで(p87以下)、いささか唐突に『とはずがたり』が登場するのですが、この後に続く部分も含め、小川氏は『とはずがたり』が自伝風小説ではなく、事実の記録と考えておられるようですね。
長くなったので、いったん切ります。

>筆綾丸さん
>以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。

小川説が学説史上の画期となるのは間違いないでしょうね。
金沢文庫古文書の解釈は私のような素人には近づけない世界なので、歴史学者の評価を聞きたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

卜部四郎太郎兼好 2017/11/25(土) 19:11:26
小太郎さん
ご紹介の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』を第二章まで読んでみました。何かを云々できる知識はありませんが、以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。
-----------------
 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍房釼阿とも親しく交流し、正安元年(1299)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(1305)夏以前、恐らくこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(1308)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。(53頁~)
-----------------

明日から小旅行に出るので、次回の投稿は一週間後です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=68UpSPzdBZY
これはスターリン賞を受賞したとのことですが、佳い曲ですね。
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小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

2017-11-25 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月25日(土)11時05分58秒

暫く止める、みたいに書いた後もロシア・ソ連ものをズリズリと引きずり、工藤精一郎・鈴木康雄訳『ゴルバチョフ回想録 上巻』(新潮社、1996)を読み始めていたところ、これが上下二段組みで765ページもあるためなかなか進まず、気分転換に小川剛生氏の話題の近刊、『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書)を読んでみました。

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兼好は鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれた。六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後、出家して「徒然草」を著す――。この、現在広く知られる彼の出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものである。著者は同時代史料をつぶさに調べ、鎌倉、京都、伊勢に残る足跡を辿りながら、「徒然草」の再解釈を試みる。無位無官のまま、自らの才知で中世社会を渡り歩いた「都市の隠者」の正体を明らかにする。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/11/102463.html

小川剛生氏の著書・論文についてはこの掲示板でも何回か取り上げたことがあり、2014年3月、「卜部兼好伝批判―「兼好法師」から「吉田兼好」へ―」が話題になったときには、何としても入手しなければ、みたいに興奮したのですが、暫くして熱が冷め、そのうち本になるだろう、みたいに思って、結局読まず仕舞いでした。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/69c1b4fe0cedad95f41ad2e44f775c94

あれから三年半経って出版された『兼好法師』の参考文献を見ると(p223)、

「徒然草と金沢北条氏」荒木浩編『中世の随筆─成立・展開と文体』<中世文学と隣接諸学10>竹林舎、平26
「卜部兼好の実像─金沢文庫古文書の再検討」明月記研究14、平28・1
「徒然草をどう読むか─「作者問題」と併せて考える」日本女子大学国語国文学会研究ノート44、平28・2
「兼好法師の伊勢参宮─祭主大中臣氏との関係を考証し出自の推定に及ぶ」日本文学研究ジャーナル1、平29・3
「勅撰集入集を辞退すること─新千載集と冷泉家の門弟たち」『中世和歌史の研究 撰歌と歌人社会』塙書房、平29
「「河東」の地に住む人々─佐々木導誉と是法法師」藝文研究113、平29・12

という具合に、小川氏は徒然草関係について着々と論文を積み重ねて来たのですね。
小川氏は「はしがき」で、

------
 現在、徒然草ないし兼好に関する論文は三〇〇〇篇をはるかに超え、昭和四十二年度以降の半世紀に限れば約二三〇〇篇に上る(単著を除く)。実に一年に四〇篇以上が発表された計算となる。研究は隆盛を極めているが、細分化も不可避である。著名な作品は、それ自体を論じてしまえば足りてしまう懐の深さがあるにしても、通説を無批判に踏襲し作品に自閉する安易な姿勢がなかったとは言えまい。現代人にとって兼好はまず徒然草作者であるとはいっても、作品から帰納された作者像を兼好の実人生として記述してきたことが異様な偏りを生んだ。作品とは一定の距離を保ちつつ、できるだけ外部の史料を活用して、兼好の伝記を記述するのが最上であろう。
------

と書かれていますが、私も一時期、徒然草にかなり興味を抱き、さすがに千の単位にはならないものの、相当数の論文を読んだことがあります。
ここ十年くらいは中世文学から離れていたので最近の研究水準は把握していなかったのですが、小川氏の今回の著書を読む限りでは、小川氏自身の論文を除くと「通説を無批判に踏襲し作品に自閉する」のではなく、実証的な歴史学ときちんとした接点を持った論文はそれほど出ていないようですね。
昨日、一気に読み終えた時点では本当に素晴らしい本だと思ったのですが、一日経ってみると若干の疑問も湧いてきます。
読まなければならない本は沢山あるのですが、久しぶりにちょこっとだけ徒然草の世界に戻ってみようかな、という誘惑も感じ、少し悩んでいるところです。
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青木春雄『現代の出版業』(その2)

2017-11-23 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月23日(木)11時14分14秒

前々回の投稿で、

-----------
さて、以前、猪瀬直樹氏がどこかで書いていたのですが、青木書店の創業社長は別に左翼思想に凝り固まった人ではなく、会社の経理面だけをしっかり握っていて、後はゴリゴリ左翼で仕事中毒の役員・従業員に全て任せ、豪邸に暮らして平日の真昼間からゴルフ場に行ったりして、優雅なブルジョワ生活を満喫していたそうですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04f448f3e905cba3909964e6bd3e5782

と書いてしまったのですが、これは青木冨貴子氏が少し自虐的に冗談っぽく語った言葉を元左翼学生の猪瀬直樹氏が生真面目に受け止め、それをゴルフ嫌いの私が更に大袈裟に記憶していた結果なのかもしれないですね。
『現代の出版業』を読む限り、青木春雄氏には共産党やそのシンパの人にありがちな傲岸さや独善性はなく、淡々と数字を挙げて理詰めで説明するストイックな姿勢は一流企業の財務担当重役みたいな感じです。
ただ、そうはいっても、機械的な合理主義者では終戦直後の荒々しい出版界で生き残れるはずもなく、第Ⅱ部「第三章 現代の出版人」の「2 出版人の意識革命」あたりには青木氏の熱血ぶりが少し伺えますね。(p186以下)

-------
 私事になるが、四十九年四月から、自分が創業し三十年近く育ててきた出版社の社長を退いたが、今のところまだ会長職にあるので"私人"といっても一出版業者であることに変りはない。私の社会人生活は三十五年間の出版界ぐらしがすべてである。他の産業界のことは何も知らないといっていい。そして戦前の編集者経験七年だけで、いきなり出版社経営に入った。二十九歳の時である。それからの二十八年間は編集出身者の出版社経営がいかに難しいか、という定説を身をもって体験したつもりである。
 私の学生生活は戦前の高等商業が最後で、それも在籍中に主婦の友社の入社試験を受けて編集者になった。嫌々学んだ経営学の初歩知識が、十年近いブランクを経て出版経営の原始段階に役立つとは予想外だった。文字通り浅学菲才で、しかも赤手空拳のスタートだったが、私をふくめた数人のスタッフを支えていたものは、若さと出版への情熱にほかならない。世の中のためになる仕事をしよう、そのためには個人的生活を犠牲にしてもやむをえない─ということが、疑いや不満もなく通用する時代だった。
 敗戦後の混乱が一応、落着きをみせ、出版界の再建も軌道に乗るようになった創業十年後になると、社内の事情は多少かわってきいた。自分たちの生活をとりまく近代化社会の豊かさが目にみえてくるにつれて、自分たちの個人生活のみじめさが耐えがたくなってきた。良い本を造ろうという目標だけでなく、自分たちの、そして家族たちの生活をいくらかでも向上させたい、という願いがともなってきたのである。
 いま振り返ってみると、この間の私たちの仕事には、これら二つの執念がこめられた意欲的な成果が残されている。わが社ばかりではない。岩波書店であれ、筑摩書房であれ、歴史的に立派な業績を持つ出版社の草創期を見れば、このことは誰の目にもあきらかに映るにちがいない。つまり出版という事業は、いうなればハングリー企業であるべきだ。いや、ハングリー企業の状態でなければ創造的出版や、賭けをともなう野心的企画は生まれないということである。
-------

青木冨貴子氏の「富貴子」という命名はずいぶんな成金趣味だなあ、みたいなことを以前チラッと思ったことがあるのですが、これも1948年という「ハングリー」な時期の「家族たちの生活をいくらかでも向上させたい、という願い」の現れだったようですね。

青木冨貴子(1948-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%86%A8%E8%B2%B4%E5%AD%90
青木冨貴子オフィシャルウェブサイト
http://www.aokifukiko.com/index.html

ところで、ウィキペディアで「青木春男」になっているのはともかくとして、「一般財団法人日本出版クラブ」サイトでも「青木春男」なのはいかなる事情によるのですかね。
「一般財団法人日本出版クラブ」には「出版平和堂」という施設があって、

-------
出版平和堂は風光明媚な箱根・芦ノ湖を望む高台に、本を開いて伏せた形で建立されている、いわば出版文化の殿堂です。出版関連13維持団体等によって維持・運営がなされ、お堂内には、日本の出版界を築き上げ、繁栄に導いた物故功労者のお名前と功績が刻まれた銅の記銘板が掲げられています。
毎年秋には、(財)日本出版クラブが主催する「出版功労者顕彰会」が無宗教・無宗派の形式によって執り行われ、この場に集った出版関係者及び顕彰者のご家族は、先達の功績を讃え、感謝すると共に、業界の繁栄を誓い、世界の平和を祈願します。
皆様も、ぜひこの地を訪れ、出版界の先達のお名前を胸に刻み、その歴史や思いに触れてみませんか。

http://www.shuppan-club.jp/?page_id=17#about

という具合に紹介されているのですが、この「日本の出版界を築き上げ、繁栄に導いた物故功労者のお名前と功績が刻まれた銅の記銘板」の「顕彰者名簿」を見ると、「回数39」の8名中に、

------
青木春男
青木書店社長(創業者)
日本書籍出版協会副理事長 東京出版協同組合常任理事 日本出版クラブ常任理事
T6.10.5
H18.4.28

http://www.shuppan-club.jp/?page_id=79

とあります。
『歴史学研究』のバックナンバーを見ても「発行人」は全て「青木春雄」となっていて、これが本名であることは間違いないと思いますが、新聞の死亡記事や友人のホームページ、ウィキペディア記事のみならず、「一般財団法人日本出版クラブ」の「顕彰者名簿」ですら「春男」となっているのはどうしてなのか。
もしかしたら晩年に正式に改名したような事情があったのですかね。
ちょっと妙な感じですね。
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青木春雄『現代の出版業』(その1)

2017-11-22 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月22日(水)10時17分48秒

新聞の死亡記事と古くからの友人だという財界人のエッセイに「青木春男」となっていたので、私もこれが本名だろうと思ったのですが、正しくは「青木春雄」ですね。
国会図書館サイトで『現代の出版業』(日本エディタースクール出版部、1975)という本を見つけ、実際に同書を確認してみたところ、奥付に、

-------
青木春雄(あおきはるお)
1917年神奈川県に生まれる.1939年横浜専門学校商学部在学中に主婦之友社編集局入社.美術主任,満洲版編集主任を経て,1946年退社.この間,1年半応召.同年生活研究社を友人と創立.1947年同社を離れ,青木書店を創業.現在同社代表取締役会長.日本書籍出版協会設立発起人に加わり,以後同会副会長・副理事長を歴任.現在理事.他に出版クラブ,出版健保組合,日本出版学会等の理事を兼ねる.ユネスコ東京出版センター主催「アジア出版研修コース」講師.
-------

とあります。
「まえがき」の後半部分から少し引用してみると、

-------
 私は編集者あがりの一出版経営者である。それも零細に近い中小出版企業に属する出版社を三十年近く懸命に経営していたにすぎない。取り柄といえば、出版界生活の過半を出版業者団体の役員としてすごしてきたので、各出版社の事情や業界の実情を比較的にくわしく見、聞きしてきた経験であろうか。そうした立場上、私は今から五年前に、日本出版学会の機関誌『出版研究』創刊号に「出版経営(試)論」と題する一文を発表させられたことがある。これはユネスコ東京出版センターが毎年、東南アジア諸国の研究生を招いて実施している出版研修コースの講義ノートを、日本人向けに補修したものであった。
 発表直後に、こうした経済的な面から出版にアプローチしたものが少ないとかで、このテーマを拡充して<エディター叢書>の一冊に入れるよう、吉田公彦氏からつよくすすめられた。とはいっても、私にとって簡単にできる仕事ではないし、またそのつもりも時間もあったわけではない。
 たまたま昨年の春、私は永い間の社長業から会長という半ば隠居役についたのを機会に、乞われるままに業界紙や機関誌などに出版に関する個人的考えを連載させてもらった。おかげで一年後には吉田氏との約束を果たせそうな分量になったので、同社編集部で整理してもらったところ、構成上どうしても書き足さなければならない部分が出てきた。
 そのために約一ヵ月間、この作業に没頭する羽目になったが、作業中に日頃から気にかけていた<出版界の新人研修用テキスト>になるようなものを、この際、本書へ盛り込もうと意図した。それが本書の総論にもあたる、第Ⅰ部第一章「出版業の職能と機構」である。
 この章は、企業としての出版のあらましを知ろうとする人たちのために書かれたが、一方で、経験者のために多少、立ち入った説明を<注>としてできるだけ加えることにより、第二章以下の各論とあわせて通読にたえるように工夫したつもりである。【後略】
-------

といった具合です。
また、全体の構成を見るために「目次」から大項目だけを抜粋してみると、

-------
まえがき
Ⅰ 出版業とは何か
 第一章 出版業の職能と機構
 第二章 戦後出版の発展と企業動向─出版体質のターニングポイント
 第三章
Ⅱ 今日の出版業
 第一章 出版企業の現代的課題
 第二章 出版生産と定価政策
 第三章 現代の出版人
Ⅲ 出版業と流通問題
 第一章 出版流通資本の生成と発展
 第二章 出版流通改革論
 付論  流通論を深める三つの論理
-------

となっていて、私もパラパラと眺めてみましたが、まあ、正直に言って、「企業としての出版のあらましを知ろうとする人たち」以外にとってはそれほど面白い内容ではなく、あくまで実務的なビジネス書ですね。
青木書店といえば世間的には大月書店と同種の共産党系出版社という印象が強いと思いますが、青木春雄氏の文体には思想の臭いが全く感じられないので、ちょっとびっくりです。
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歴史学研究会と青木書店の「熟年離婚」(その3)

2017-11-20 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月20日(月)12時32分2秒

青木書店の出版点数に関して、単なる好奇心から、もう少しだけ数字を見てみます。
書籍総数2,691件は多すぎるので、キーワードに「歴史」を入れて、歴史関係だけの出版点数を見ると合計670件、全体の約25%ですね。
これを10年分ずつ比較すると(カッコ内は累計)、

2010~ ( 17) 17
2000~09(159)142
1990~99(292)133
1980~89(381) 89
1970~79(500)119
1960~69(569) 69
1950~59(666) 97
1945~49(670) 4

ということで、個人的には青木書店は昭和の出版社のようなイメージがあったのですが、1990年代が133点、2000年代が142点と、平成に入って出版活動はむしろ活発化していますね。
この時期をもう少し細かく5年毎に見ると、

2015~ (2) 2
2010~14(17) 15
2005~09(69) 52
2000~04(159)90
1995~99(232)73
1990~94(292)60

ということで、2000年代前半が創業以来の一番のピークですから、その後の凋落ぶりが余計目立ちます。
さて、以前、猪瀬直樹氏がどこかで書いていたのですが、青木書店の創業社長は別に左翼思想に凝り固まった人ではなく、会社の経理面だけをしっかり握っていて、後はゴリゴリ左翼で仕事中毒の役員・従業員に全て任せ、豪邸に暮らして平日の真昼間からゴルフ場に行ったりして、優雅なブルジョワ生活を満喫していたそうですね。
猪瀬氏はこの話を、同じノンフィクション作家仲間で、青木書店社長の娘でもある青木富貴子氏から聞いたそうなので、情報源としてこれほど確実な話はありません。
信州大学全共闘議長という左翼活動歴を持つ猪瀬直樹氏は、貧しい青年労働者や地方出身の勤労学生が乏しい生計費をやりくりして購入した左翼出版物の対価が左翼出版社社長の遊興費になっていることを知って、何とも複雑な気持ちになったそうですが、確かにゴルフ場云々は資本主義社会の構造を鮮やかに映し出す心温まるエピソードで、私も、成る程、世の中はそういう風に出来ているのか、とひどく感心した覚えがあります。
その青木書店の創業社長、青木春男氏の名前で少し検索してみたら、同氏は2006年に88歳で亡くなったそうですね。

-------
青木春男氏死去/青木書店創業者、同社相談役

 青木 春男氏(あおき・はるお=青木書店創業者、同社相談役)4月28日午後11時44分、心不全のため東京都青梅市の病院で死去、88歳。神奈川県出身。【中略】
 45年青木書店を創業。二女は、ジャーナリストの青木冨貴子さん。

鈴木弘という財界人(日刊工業新聞社元役員)のホームページに、

--------
 青木春男さん亡くなる

「青木さんが亡くなられました」、と先月30日にKCCに行ったら、倶楽部の人に告げられた。しばらくお目に掛からないとは思っていたが、私より年長であり、この冬の寒さに自重されているくらいに思っていたのだが、矢張りショックだった。
 青木さんは私と同じ昭和44年の入会だけれど、私はそれ以前から存知上げていた。私が東京商大を卒業した24年の春、出版の道に進みたいという希望を父に話しその就職先を相談したら、講談社、主婦の友社そしてホーム社の中から選べといわれ、私は一番小さいホーム社をお願いした。そこの社長は本郷保雄氏(故人)、この方は主婦の友の編集長を長く勤められ、戦後に独立されてこの社を創立されたのである。【中略】
 私の直属にあたる方が中尾是正氏(故人)であったが、この方は主婦の友社で先生のもとにおられ、ホーム社創業のとき先生に従って移られたと承知している。私はこの中尾氏の紹介で青木さんを存じ上げることになったのだが、青木さんも主婦の友社で本郷先生のもとにおられ、戦後独立されて青木書店を創業されたのである。有り難いことに私は本郷先生の教え子の一人に数えて頂き、青木さんとは仲間としてお付き合いさせて頂いた。だから私がホーム社に入ってから20年後に、KCCでお目に掛かったのは偶然ではあるが、嬉しいことであった。


とありますが、鈴木氏の他のページを見ると、この「KCC」は「霞ヶ関カンツリー倶楽部」のことで、つい先日、トランプ大統領と安倍首相がプレーしたことでも話題になった超一流名門ゴルフ場ですね。

「KCCの創立者」

青木春男氏が鈴木弘氏と一緒に「霞ヶ関カンツリー倶楽部」の会員になった昭和44年(1969)といえば大学紛争真っ盛りの時期で、猪瀬直樹氏もゲバ棒を振ったりして活躍されていた頃でしょうが、日本有数の左翼出版社社長という地位は、別に超一流名門ゴルフ場の会員になることの妨げにはならなかったようですね。
ま、それはともかく、相談役の青木春男氏が亡くなった2006年はなかなか微妙な時期で、青木書店の出版活動の転機になっているような感じもします。

>筆綾丸さん
藤原彰氏と江口圭一氏は随分前に亡くなっているよなー、と思って検索してみたら、二人とも2003年に死去されていますね。
14年前に鬼籍に入っている人の著書が「話題」の書では、笑うに笑えません。

藤原彰(1922-2003)
江口圭一(1932-2003)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

武田薬品の慧眼 2017/11/18(土) 16:58:26
小太郎さん
出版社には失礼ながら、「いったい何時の「話題」なのか、と嫌味を言うのも気の毒な「鬼気迫る」状態です」のところで、思わず吹き出してしまいました。

キラーカーンさん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=747hGK6pSpQ
https://www.youtube.com/watch?v=nH-iIYtrnVk
作曲の完成日(1941.12.17)は真珠湾攻撃の10日後で、大日本帝国の絶頂期、というか、下り坂を転げ落ち始めたときですね。
選曲の意図は不明ですが、「チーチン・プイプイ」がソ連邦崩壊後のプーチンの出現を予言していて(たんに発音が似ているというだけのことですが)、武田薬品の慧眼には「鬼気迫るもの」がありますね。
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歴史学研究会と青木書店の「熟年離婚」(その2)

2017-11-18 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月18日(土)10時39分28秒

昨日はちょっと軽い調子で書いてしまいましたが、「会告」の下に載っている編集長・鈴木茂氏の「編集室から」を読むと、事態はけっこう深刻なようですね。

-------
 会告でお知らせしてある通り,本号より発行元が青木書店から績文堂出版に変更されることになった。会員の皆さんには,先月号の『月報』(No.687)で小沢弘明委員長よりお伝えしてあるので,お読みいただいた方も多いと思う。また,詳しい経緯については,本年5月の総会で報告される予定である。
 歴研編『戦後歴史学と歴研のあゆみ 創立60周年記念』(1993年5月)所収の座談会には,1959年3月号をもって岩波書店からの発行が停止し,青木書店の協力で再刊されるまで2カ月の空白があり,2号が休刊となった経緯が語られている。そこでは30年以上も前の出来事として,ある種懐旧的な雰囲気が漂っているが,当時の休刊を告げる会告には,本会の財政が危機的状況に陥り,再刊の見通しも立たないまま休刊に追い込まれた窮状が吐露され,鬼気迫るものがある。
 今回は前回とは異なり,発行元の変更は十分な準備期間をおき,円滑に実現した。また,青木書店も出版社としての営業を続けることになっている。歴研の課題は,出版不況が深刻化する中で,歴史研究の成果をどのように広く社会に伝えるかについて真剣に考えることであろう。皆様の忌憚のないご意見をお願いする次第である。
-------

ということで、「青木書店も出版社としての営業を続けることになっている」は穏やかではない表現です。
これを読んで、青木書店の経営はそんなに悪いのか、とチラッと思ったものの、別に私には特定の出版社の経営状態を知る手がかりはないので、ま、とりあえずということで、またまた国会図書館サイトで検索してみました。
青木書店の書籍総数は2,691件で、岩波書店の37,417件あたりと比べると見劣りはしますが、それでも相当な件数です。
しかし、近年は出版点数が激減していて、

2011年 1件
2012年 7件
2013年 1件
2014年 4件
2015年 2件
2016年 0件
2017年 0件

となっていて、ちょっとびっくりですね。
実際、同社サイトを見ても、トップページの「話題」に載っている6点は、

保立道久『黄金国家』、2004年
時津裕子他『認知考古学とは何か』、2003年
西口清勝『現代東アジア経済の展開』、2004年
宮澤誠一『明治維新の再創造』、2005年
藤原彰『餓死した英霊たち』、2001年
江口圭一『十五年戦争小史〔新版〕』、1991年

http://rr2.aokishoten.co.jp/index.php

という具合で、いったい何時の「話題」なのか、と嫌味を言うのも気の毒な「鬼気迫る」状態です。
まあ、これでは定期刊行物の出版元を続けるのも実際上無理で、過去の栄華を偲びつつ、細々と余生を送る以外はないのでしょうね。
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歴史学研究会と青木書店の「熟年離婚」(その1)

2017-11-17 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月17日(金)11時30分19秒

学問的関心からではなく、純度100%の俗物根性に基づき『歴史学研究』956号(2017年4月)を確認してみたら、「会告」として一応の事情説明が出ていました。(p66)

--------
『歴史学研究』発行元変更について

 本号より『歴史学研究』の発行元を,従来の(株)青木書店から績文堂出版(株)へと変更することになりました。
 青木書店には,本誌の発行元が岩波書店から変更されるにあたって再刊にご協力いただき,同書店から発行された本誌は,230号(1959年6月)から955号(2017年3月)まで,計726号にのぼります。
また,会誌の発行だけでなく,数々の講座をはじめとした企画出版活動にもご尽力いただいており,本会は青木書店と50年以上にわたって,文字通り二人三脚で歩みをともにしてきたといえます。このたび,青木書店の今後の出版活動についての方針もあって,同書店からの本誌の発行を終えることとなりましたが,これまで同書店から出版されていた本会編集の書籍,会員が執筆した書籍等については,継続して版元となっていただきます。青木社長をはじめ,これまで本会にご助力いただいた,歴代の編集,営業の方々に心から謝意を表するとともに,引き続きご協力をお願いいたします。
 新たな発行元となる績文堂出版は,およそ70年にわたる出版活動の実績を有する出版社です。これまで歴史学関連の書籍を多く手がけてきたわけではありませんが,本会との関係では,2011年より毎年,『歴史学研究』増刊号の制作を引き受けていただいており,ここ数年は,本会が編集した単行本の制作もお願いしてきました。会誌発行にかかわる専門的な知識や経験は蓄積されており,引き続き印刷・製本をお引き受けいただく奥村印刷(株)とともに,本会としては,この上ないパートナーと確信しています。
 出版不況が喧伝される厳しい状況ではありますが,新しい態勢のもとで本誌の発行に全力を尽くしてまいる所存です。会員・読者はじめすべての関係者のみなさまのご理解とご協力をお願い申し上げます。

  2017年3月 歴史学研究会委員会
--------

ということで、金婚式を超え、実に58年に及ぶ歴史学研究会と青木書店の結婚生活は、青木書店側からの「性格の不一致」を理由とする離婚の申し入れを受けて話合いを重ねた結果、両者の間に生まれた子供たちの養育費負担割合についても合意が出来て、この度、無事に協議離婚が成立した訳ですね。
1932年生まれの歴史学研究会は85歳、1945年生まれの青木書店は72歳で、「文字通り二人三脚で歩みをともにしてきた」二人の間にもいつしかスキマ風が吹き、とうとう熟年離婚に至った訳ですが、歴史学研究会は離婚の協議を進める一方で、6年前から交際している績文堂出版(70歳前後)との間で再婚の準備も行なっており、績文堂出版は世間に隠れての愛人の身から、晴れて正式の妻になったということですね。
「これまで歴史学関連の書籍を多く手がけてきたわけではありませんが」に若干引っかかったので、国会図書館サイトで「績文堂」を検索してみたら、書籍は320件あって、一番古いのは山宮允『詩文研究』(大正7)ですね。
ただ、これは「績文堂出版」ではなく「績文堂」で、大正7年(1918)というと99年前ですから「およそ70年にわたる出版活動の実績」と整合性が取れません。
「績文堂」の出版物は、

大山茂昭編『ノイツアイトリツヘル』(Neuzeitlicher Lesestoff fur Mittelklassen)、1933
土方辰三編註『ワンアクトプレイズ』(Sekibundo new English texts)、1934
片岡彦一郎『最新北アルプス登山』、昭和9
吉岡呂峰編書『通俗書道入門. 漢字之部 上巻』、昭和10
本内達蔵『帝国潜水艦』、昭和18

など33冊ありますが、旧制中学や旧制高校の参考書みたいな本が多いですね。
「績文堂出版」になってからの最初の書物は、

櫻井武平『やさしい科学:ラジオ放送 』、1950

で、これを出発点とすると、確かに「およそ70年」となりますね。
以後は受験参考書みたいなものを多く出す傍ら、衛生学・生理学の教科書、『鍼灸経絡治療』『訓注銅人腧穴鍼灸図経』のような東洋医学系(?)、『琉球古武道』上中下三巻など雑多な本を出し、1980年代以降は法律書・文学書もチラホラありますね。
1985年の森滝市郎他『非核未来にむけて : 反核運動40年史』、翌86年の反核1000人委員会編『太平洋を非核の海に』以降、左翼っぽい本も多少はありますが、青木書店のように左翼思想を鮮明にしている訳でもなく、『アクチュアリーの書いた生命保険入門』(2003)『マーケティング・ノート : マーケティングをこえたマーケティングの本』(2005)『保険代理店ITハンドブック』(2005)みたいなビジネス実用書もあって、正直、何をやっているのかよく分からない出版社ですね。
歴史学研究会との蜜月関係は、果たしてどのくらい続くのでしょうか。

>筆綾丸さん
>ショスタコーヴィチの音楽
1920年代までは演劇・絵画などでもそれなりに新鮮な活動が展開されますが、スターリンの支配が強化されるにつれて、全部潰されてしまいますね。
スターリンはミュージカルが大好きで、ハリウッドに対抗すべく、金に糸目をつけずにミュージカル映画を製作させ、今でも一部のソ連ミュージカルファンから高く評価されているそうですが、個人的にはあまり見たいとは思いません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ロシア風刺画 2017/11/17(金) 00:33:22
小太郎さん
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO23503600V11C17A1BC8000/
日経文化欄(11月16日)に、レーニンを対象にした面白い風刺画が掲載されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81
暗いソ連時代の唯一の救いは、ショスタコーヴィチの音楽ではあるまいか、と思っています。
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岩波・青木・績文堂

2017-11-16 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月16日(木)10時12分36秒

ここ暫く、チマチマとソ連関係の本を読んできて、初歩的な知識は一応入手でき、漠然と感じていたいくつかの疑問も解消したのですが、まあ、世界史の中でも極端に陰気な出来事の多い分野なので、そろそろ少し方向を変えようかなと思っています。
ロシア・東欧への興味は持続しており、少し時間を置いてから、もう一度深めて行きたいですね。

>筆綾丸さん
「訪問販売等に関する法律」が大幅に改正されて名称も「特定商取引に関する法律」に変わったのが2000年(平成12)なので、青木書店は少なくとも17年ほど時代に遅れていますが、績文堂出版は更に時代から取り残された存在のようですね。
『歴史学研究』の発行元が岩波書店から青木書店になったのは1959年で、このときは金銭トラブル(累積赤字の処理)と、それをめぐる感情のこじれ(歴研側の一部の傲慢な発言に岩波の重役・小林勇が激怒)が原因だったそうですが、今回は何があったのか。
ま、大きなお世話でしょうが。

「渡邉一族の四季」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

綱領 2017/11/15(水) 17:07:09
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
歴史学研究会綱領の第一条に、「われわれは、科学的真理以外のどのような権威をも認めない・・・」とあるので、特定商取引法は「科学的真理以外」の「権威」なのでこれは認めない、ということになるのでしょうか。かなりヤバい会社のようですが、会員は誰も疑問を抱かないのかな、と疑問を抱きますね。
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績文堂出版と特定商取引法

2017-11-15 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月15日(水)10時50分30秒

ツイッターで『歴史学研究会編集 現代歴史学の成果と課題 第2巻 世界史像の再構成』(績文堂出版、2017)という本を見かけて購入しようかなと思ったのですが、私は績文堂出版という出版社を全く知らなかったので検索してみたら、この会社は今年4月から青木書店に代って歴史学研究会の機関誌『歴史学研究』の発行元になっているんですね。
私は歴史学研究会の会員ではなく、近所の大学図書館で時々『歴史学研究』をパラパラめくっている程度の読者なのですが、迂闊なことに発行元が変わったことに気づいていませんでした。

http://www.sekibundo.net/index.html

どんな会社なのかなと思って、同社サイトを少し見てみたのですが、代表者の氏名も書いてありません。
しかし、同社が通信販売を行なっていることからすると、これはちょっと異常なことです。
というのは、特定商取引法という法律があって、訪問販売・通信販売・電話勧誘販売等の消費者トラブルが発生しやすい取引形態について、業者が守るべきルールを定めているのですが、通信販売の場合は広告に表示すべき事項として13項目が定められているんですね。

消費者庁・特定商取引法ガイド
http://www.no-trouble.go.jp/
通信販売
http://www.no-trouble.go.jp/what/mailorder/

こういう規制があるので、通信販売業者のサイトには必ず「特定表取引法に基づく表記」があります。
例えば青木書店の場合、リンク先のような記載があって、まあ、「訪問販売法に基づく表示」という古い法律名になっているのはご愛嬌ですが、法定事項はすべて具備されていますね。

http://rr2.aokishoten.co.jp/page/purchaseguide#NO_A7

これに対し、績文堂出版の場合は、「購入方法」を見ても代表者または業務責任者の氏名がなく、返品方法等に関する定めもなくて、全然ダメですね。

http://www.sekibundo.net/kounyu.html

ということで、私は四日前に、

-------
特定商取引法に基づく表示について

こんにちは。
貴社の出版物の購入を検討しているのですが、私にとってなじみのない出版社なので、
特定商取引法に基づく表示を確認してみようと思ったところ、貴社サイトには特に
表示がないようです。
貴社は青木書店に代わって「歴史学研究」の発行元になったとのことなので、もちろん
信用のある会社とは思いますが、特定商取引法に基づく表示がないのは何故でしょうか。
あるいは私が見逃しているのでしょうか。
ご連絡願いたく。
--------

というメールを送ったのですが、未だに返事が来ません。
正直、この会社は大丈夫なのかな、という不安が生じますね。
なお、つい先日、

------
 オウム真理教から改称した「アレフ」が、別の仏教関係の勉強会を名乗って女性を勧誘した際、必要な書面を交わさなかったとして、北海道警は13日、特定商取引法違反の疑いで札幌市白石区と福岡市博多区の施設など5カ所を家宅捜索した。
http://www.sankei.com/affairs/news/171113/afr1711130007-n1.html

などというニュースがあり、まあ、これはオウム取締りのために警察があらゆる法律を使っているという側面があるのでしょうが、特定商取引法違反は決して軽い話ではないですね。
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レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」

2017-11-14 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月14日(火)10時59分28秒

エレーヌ・カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』を通読すると、『ワイドカラー版少年少女世界の名作』シリーズの「レーニン」には決して登場しないレーニンの傲岸・粗暴・不寛容・冷酷、また労働者・農民に対する蔑視の深さに、まあ、ある程度の予備知識はあったとはいえ、改めて驚かされます。
暖かい家庭に育ったお坊ちゃまなのに、何故こんなに歪んだ人間になってしまったのだろうか、という謎は残ったままなのですが、女性関係については、家庭環境の影響が比較的ストレートに残ったようですね。
レーニンとイネッサ・アルマンドの関係について、次のような記述があります。(p212以下)

-------
 手紙の断片から明らかとなる二人の関係は、レーニンに深刻な問題を課していた。ナジェージダ・クループスカヤの問題である。確かな歴史家たちの行なった研究によれば、クループスカヤは早い時期にこの状況を悟り─彼女はレーニンと離れることが決してなかったのだから、彼の気持ちのいささかの変化にも気付くのだった─苦しみ、反発し、それから毅然として地位を明け渡すと申し出た。しかしレーニンにはそのつもりはなかった。イネッサ・アルマンドとの関係は内密の関係なのだ。イネッサはレーニンを彼女に返し、クループスカヤは敬われる妻であり続け、イネッサに友情を感じるようになった。夫と妻と愛人の三角関係ということだろうか。もちろん違う。レーニン夫妻とイネッサはよく会い、時には一緒に旅行していたが、この三人の行く所、瞠目すべき品位と相互の深い尊敬の念が明らかにうかがえた。彼女にとってクラクフは退屈な町であり、そこに住むのが嫌でならなかったが、おそらくは困難な感情的状況に困惑したためでもあろう。一九一三年に彼女はしばらくレーニンの許を離れ、パリに居を構えた。しかしイネッサと別れる決心をしたのはレーニンの方である。もっとも従来通りの親密な関係は続いた。一九一三年十二月、彼女はレーニンに「彼のそばに残ることさえできるのならば、キスしてくれなくてもかまわない」と手紙を書いている。一九一四年五月の手紙でレーニンは彼女にこう懇願している。「私のことを怒らないでくれ給え。君の大きな苦しみの原因は、私のせいだということは良く分かっている」。一ヵ月後、レーニンは彼女にこう頼んでいる。「こちらに来る時には、二人の手紙をすべて持って来てくれ給え」。二人の書簡は、保存されているものを見た限りでは、信頼に溢れると同時に悲痛で、レーニンが自分自身と彼女とにいかに犠牲を強いたかを露に示している。その理由はレーニンの性格を考えれば理解できる。彼は恋愛に関しては、多くのボリシェヴィキが抱いた自由な考え方を持つことは決してなかった。アレクサンドラ・コロンタイが自由恋愛を擁護し、さらにはより一般的にセックスの自由を擁護したのに対して、彼は厳しく批判した。謹厳実直な秩序の人であるレーニンは、仲睦まじい家庭で受けた教育、そして十九世紀末のロシア社会の倫理規範の命ずる行動様式に常に忠実であった。
--------

<彼女はレーニンに「彼のそばに残ることさえできるのならば、キスしてくれなくてもかまわない」と手紙を書いている>とありますが、これは直接話法で書くのであれば「あなたのそばに」でないと意味が通じないですね。
ま、正直、理屈っぽすぎてなかなか理解しにくいレーニン・クループスカヤ・イレッサの「三角関係」は、少なくとも精神的な関係としては相当長く続いたようで、

-------
彼女が他界した時、打ちのめされ悲嘆に暮れたレーニンの姿は、居合わせた者すべてに深い印象を与えた。それでも彼は彼女を終の棲家まで送る葬列に加わるのであった。心に距離を強いたにもかかわらず、あらゆることが証明しているように、彼女に対して抱く愛は無傷のまま残ったのである。
-------

のだそうです。(p213)

ウィキペディアのイネッサ・アルマンドの記事は日本語版もそれなりにしっかり書かれていますが、写真が多いのは英語版なので、英語版にリンクを張っておきます。

Inessa Armand(1874-1920)
https://en.wikipedia.org/wiki/Inessa_Armand
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「少年少女世界の名作 レーニン」(その4)

2017-11-12 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月12日(日)10時56分51秒

国会図書館サイトで「深田良」を検索すると「個人著者標目」に「飯野彰, 1914-1977」と出てくるのですが、これが本名なのですかね。
この人は飯野彰の名前で『牛一匹の広場』(現代社、1959)を出した後、深田良の名前で、

『鏡の中の顔』(創思社、1969)
『断層回路:共産党背面史』(都市問題・出版部、1971)
『法燈を掲げる人々:本願寺の苦悩と栄光』(医事薬業新報社、1973)
『小説久保勘一』(創思社出版、1974)

の四冊を出していますが、テーマにあまり一貫性が感じられません。
『断層回路:共産党背面史』というタイトルからは、日本共産党を除名された人なのかな、と想像(妄想?)したくなりますが、これも実物を見ないと何ともいえないですね。
ま、それはともかく、もう少し引用を続けます。(p152以下)

-------
 ところでこのシルビンスクの町は、三つの区に分かれていました。山の手の丘はベネツ(かんむりという意味)とよばれ、金持ちや貴族が住み、町を見おろしていました。そしてその下のだらだら坂の途中が、商人の住むところで、商業の中心地となっていました。
 麦やさかな、羊毛、石炭などの市場が開かれ、名物の馬市では、近くの村から農民がおおぜい集まり、一週間仕事を休んで、お祭りさわぎをするのです。
 一番下の谷底のような低いところは、貧しい人たちの住まいでした。倒れそうな小屋やバラックからは、いやなにおいが鼻をつき、ぼろをきた子どもだちが、地面でどろだらけになり、やせおとろえたぶたや、毛のぬけた犬などが、うろうろと食べ物を捜しもとめていました。
-------

川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)には、シルビンスクに住む「ナターシャ叔母さん」について、

-------
 ナターシャ叔母さんは父の妹にあたる人だった。家はシルビンスクの大通りに面していて、ピカピカに磨かれた硝子窓がはまっていた。町でいちばん早く電気を引いたのは叔母さんの家で、その夜は見物人が山のように押し寄せたそうだ。叔母さんは小さなチョコレート工場をもっていて、町一番の高級チョコレートを売っている。ワレンティンの家もチェレンガ一の雑貨商だが、とても叔母さんのところの比ではない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2c84d2eba3ce5b688586f12950208a5

とありましたが、時期はレーニンの子ども時代から少しずれるとしても、たぶんナターシャ叔母さんの「小さなチョコレート工場」も「だらだら坂の途中」の商業地区にあったのでしょうね。

Ulyanovsk
https://en.wikipedia.org/wiki/Ulyanovsk

※追記1
「切手と文学」というブログに、川端康成から飯野彰宛てに出された昭和28年の年賀状が載っていて、ブログ主は、

------
宛名人である飯野彰氏は、日本文芸家協会会員、日本美術教育会員、東京作家クラブ会員であった小説家飯野一雄氏のことと思われます。飯野氏は、深田良の筆名で執筆を行っていましたが、昭和34年には飯野彰の筆名にて『牛一匹の広場』なる本を出版しています。
http://ikezawa.at.webry.info/200905/article_2.html

と書かれていますね。

※追記2
九州大学の「スカラベ人名事典」によると、深田良は、

-------
1914(大正3)年、東京の生まれ。小説家・出版業。本名・飯野一雄。早稲田大学卒。「日本文化財」の編集長を経て、無形文化財の専門書の出版にたずさわり、以後執筆に専念する。日本文芸家協会会員、日本美術教育会員、東京作家クラブ会員。昭和52年6月27日死去。経営していた創思社出版からは『麻生百年史』『定本嘉穂劇場物語』など、福岡・筑豊に関する著作を刊行し、また福岡県筑紫野市に九州編集部を置き、周辺地域の出版に貢献した。〈著書〉『牛一匹の広場』(飯野彰の筆名・現代社、昭34)『鏡の中の顔』(創思社, 昭44・6)『断層回路―共産党背面史』(都市問題出版部、昭46・9)『小説久保勘一』(創思社出版、昭49・5)『遠賀川 筑豊三代』(創思社出版、昭50・8)『小説三木武夫』(創思社出版、昭50・11)『日本の美術』(飯尾一雄著・岩崎書店、昭36、中学生の美術科全集7)『法燈を掲げる人びと―本郷寺の苦悩と栄光』(医事薬業新報社、昭48)〔参考〕「卍」第5号(1978.7.5)追悼号 【坂口 博】
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/442204?hit=-1&caller=xc-search

という人物だそうですね。
国会図書館サイトで検索した著書を見て、どうにもテーマに一貫性がないように感じましたが、これは小さな出版社の経営者として、自己の好みとは関係なく、経営を維持するために確実に利益が出る出版物を社長自ら執筆していた、といった事情があったのでしょうね。
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