山田重忠は流布本でもそれなりに活躍していますが、慈光寺本では単に合戦で活躍しただけでなく、藤原秀澄に大胆な鎌倉攻撃案を提案しています。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その38)─「山道遠江井助ハ、尾張国府ニゾ著ニケル」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その38)─「山道遠江井助ハ、尾張国府ニゾ著ニケル」
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承久の乱が勃発から僅か一ヶ月後に鎌倉方の圧勝で終わったことを知っている我々から見れば、この鎌倉攻撃案は莫迦げた誇大妄想のように思えますが、しかし、慈光寺本では相当詳細に描かれていて、決して軽い扱いではありません。
また、提案を受けた秀澄の対応、更に提案がなされた前後の状況の描写を加えれば、全体として慈光寺本でも有数の長大なエピソードとなります。
慈光寺本における山田重忠(慈光寺本では「重貞(定)」)の役割についてあれこれ考えてみた結果、現在の私は、慈光寺本作者は承久の乱の結果を決して歴史の必然とは考えず、京方が勝利できた可能性はあったのではないかと探っていて、その結果、重忠に仮託した鎌倉攻撃案を思いついたのではないか、と考えています。
つまり、慈光寺本作者は歴史上に実在した山田重忠を描きたかったのではなく、作者が熟慮の末に考案した鎌倉攻撃案を託する存在として山田重忠を見出し、無位無官であった実在の山田重忠には相応しくない敬語を用いて、作者にとって理想的な重忠像を作り出したのではないか、というのが現在の私の仮説です。
こう考えると、慈光寺本に宇治河合戦が存在しない理由も一応説明できます。
即ち、尾張河合戦でのあまりにあっけない京方の敗北により戦争全体の流れが決まってしまい、宇治河合戦の時点では、どんなに頑張っても京方が勝つ可能性はそもそもなかった、従って作者には宇治河合戦を描く意欲がなくなってしまった、というものです。
作者はもちろん宇治川合戦に関する相当詳細な知識は持っていたけれども、根が「気まぐれ」なので、結局は面倒になって止めてしまった、ということなので、「気まぐれ」が理由になるか、と怒る方もおられるかもしれませんが、しかし承久の乱を描いた作品に宇治河合戦が存在しないというのはあまりに異常であり、合理的な説明は困難なので、最終的には作者の性格に求めるしかないと思います。
慈光寺本作者は「国王ノ兵乱十二度」と書きながら九回の「国王兵乱」しか描かず、「十二ノ木戸」と書きながら十ヵ所しか挙げないような人なので、「気まぐれ」であることは間違いないですね。
「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15eee017cc56d552fbcf5492a1fdfeed
また、森野宗明氏が詳細に分析された敬語使用の態様からも、敬語使用の「不斉性」について合理的な原理・原則を見出すことは困難なので、宇治河合戦の不在という慈光寺本の最大級の「不斉性」についても、結局は作者の「気まぐれ」な性格に求めるしかないと私は考えます。
森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その10)─「こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e
ところで私は以前、慈光寺本の想定読者を三浦光村に限定する立場から、何故に慈光寺本には宇治河合戦が存在しないのかについて、
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実は、慈光寺本の作者が藤原能茂で、能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村だと考えると、この問題は極めて簡単です。
というのは、光村は承久の乱に参加しているので、自らは宇治川合戦に直接関与していないものの、兄・泰村が宇治川合戦で奮戦しており、宇治川合戦の経緯については能茂以上に熟知しています。
従って、能茂は宇治川合戦について書く必要が全くなかった訳ですね。
【中略】
他方、主戦場となった宇治川合戦に加わらなかった「三郎光村」は特に活躍する場もなく、流布本には名前だけがチラッと出ただけで終わってしまいます。
ということで、宇治川合戦を描くと泰村の活躍だけが目立ち、光村にしてみれば良い気分ではないでしょうから、能茂にとっては書く必要がなかったばかりか、書かない方が賢明だったでしょうね。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f50591ba57eb3bb9dec78e1d61f644c6
と考えていました。
しかし、慈光寺本の想定読者を特定少数に拡大すべきだろうと考えるようになったため、宇治河合戦の不在についても、従来の立場をそのまま維持することはできません。
ただ、私見では三浦光村が想定読者の一人であることは間違いないので、以前に書いたことを全部否定する必要もなく、こちらも作者に宇治河合戦を描く意欲を減退させた理由の一つであろうと思います。
作者には宇治河合戦を描きたいと思う意欲を減退させるいくつかの理由があり、根が「気まぐれ」なので、「国王ノ兵乱十二度」や「十二ノ木戸」の場合と同様、中途半端に終えてしまった、ということだろうと思います。