学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

再考:宇治川合戦の不在について

2023-09-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山田重忠は流布本でもそれなりに活躍していますが、慈光寺本では単に合戦で活躍しただけでなく、藤原秀澄に大胆な鎌倉攻撃案を提案しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その38)─「山道遠江井助ハ、尾張国府ニゾ著ニケル」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

承久の乱が勃発から僅か一ヶ月後に鎌倉方の圧勝で終わったことを知っている我々から見れば、この鎌倉攻撃案は莫迦げた誇大妄想のように思えますが、しかし、慈光寺本では相当詳細に描かれていて、決して軽い扱いではありません。
また、提案を受けた秀澄の対応、更に提案がなされた前後の状況の描写を加えれば、全体として慈光寺本でも有数の長大なエピソードとなります。
慈光寺本における山田重忠(慈光寺本では「重貞(定)」)の役割についてあれこれ考えてみた結果、現在の私は、慈光寺本作者は承久の乱の結果を決して歴史の必然とは考えず、京方が勝利できた可能性はあったのではないかと探っていて、その結果、重忠に仮託した鎌倉攻撃案を思いついたのではないか、と考えています。
つまり、慈光寺本作者は歴史上に実在した山田重忠を描きたかったのではなく、作者が熟慮の末に考案した鎌倉攻撃案を託する存在として山田重忠を見出し、無位無官であった実在の山田重忠には相応しくない敬語を用いて、作者にとって理想的な重忠像を作り出したのではないか、というのが現在の私の仮説です。
こう考えると、慈光寺本に宇治河合戦が存在しない理由も一応説明できます。
即ち、尾張河合戦でのあまりにあっけない京方の敗北により戦争全体の流れが決まってしまい、宇治河合戦の時点では、どんなに頑張っても京方が勝つ可能性はそもそもなかった、従って作者には宇治河合戦を描く意欲がなくなってしまった、というものです。
作者はもちろん宇治川合戦に関する相当詳細な知識は持っていたけれども、根が「気まぐれ」なので、結局は面倒になって止めてしまった、ということなので、「気まぐれ」が理由になるか、と怒る方もおられるかもしれませんが、しかし承久の乱を描いた作品に宇治河合戦が存在しないというのはあまりに異常であり、合理的な説明は困難なので、最終的には作者の性格に求めるしかないと思います。
慈光寺本作者は「国王ノ兵乱十二度」と書きながら九回の「国王兵乱」しか描かず、「十二ノ木戸」と書きながら十ヵ所しか挙げないような人なので、「気まぐれ」であることは間違いないですね。

「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15eee017cc56d552fbcf5492a1fdfeed

また、森野宗明氏が詳細に分析された敬語使用の態様からも、敬語使用の「不斉性」について合理的な原理・原則を見出すことは困難なので、宇治河合戦の不在という慈光寺本の最大級の「不斉性」についても、結局は作者の「気まぐれ」な性格に求めるしかないと私は考えます。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その10)─「こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

ところで私は以前、慈光寺本の想定読者を三浦光村に限定する立場から、何故に慈光寺本には宇治河合戦が存在しないのかについて、

-------
実は、慈光寺本の作者が藤原能茂で、能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村だと考えると、この問題は極めて簡単です。
というのは、光村は承久の乱に参加しているので、自らは宇治川合戦に直接関与していないものの、兄・泰村が宇治川合戦で奮戦しており、宇治川合戦の経緯については能茂以上に熟知しています。
従って、能茂は宇治川合戦について書く必要が全くなかった訳ですね。
【中略】
他方、主戦場となった宇治川合戦に加わらなかった「三郎光村」は特に活躍する場もなく、流布本には名前だけがチラッと出ただけで終わってしまいます。
ということで、宇治川合戦を描くと泰村の活躍だけが目立ち、光村にしてみれば良い気分ではないでしょうから、能茂にとっては書く必要がなかったばかりか、書かない方が賢明だったでしょうね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f50591ba57eb3bb9dec78e1d61f644c6

と考えていました。
しかし、慈光寺本の想定読者を特定少数に拡大すべきだろうと考えるようになったため、宇治河合戦の不在についても、従来の立場をそのまま維持することはできません。
ただ、私見では三浦光村が想定読者の一人であることは間違いないので、以前に書いたことを全部否定する必要もなく、こちらも作者に宇治河合戦を描く意欲を減退させた理由の一つであろうと思います。
作者には宇治河合戦を描きたいと思う意欲を減退させるいくつかの理由があり、根が「気まぐれ」なので、「国王ノ兵乱十二度」や「十二ノ木戸」の場合と同様、中途半端に終えてしまった、ということだろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山田重忠の名前も「重貞」と誤記された。こればかりは、ただ嘆息するしかない」(by 青山幹哉氏?)

2023-09-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山田重忠関係の情報を求めて『愛知県史 通史編2 中世1』(愛知県、2018)を見てみましたが、「第二章 鎌倉幕府と尾張・三河」「第三節 承久の乱とその後」を執筆されているのは青山幹哉氏と松島周一氏とのことで(p756)、私が関心を抱いている部分は青山氏が担当されているようですね。
青山氏の見解は『新修名古屋市史 第二巻』(名古屋市、1998)で概ね確認済みのため、『愛知県史』で特別に注目する必要がある箇所は(私の狭い関心の範囲では)ありませんでした。

盛り付け上手な青山幹哉氏(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/995da08b3874a5eef6a5a63eb589ad9a

慈光寺本の中でも格別に胡散臭い杭瀬河合戦に疑問を抱かれていない青山氏は、もちろん私の「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(仮称)に入っておられますが、「『承久記』の世界」というコラム(p97)は、青山氏(たぶん)の慈光寺本への理解が率直に示されていて、やっぱりな、と思いました。

-------
 『承久記』の世界

 『承久記』は、承久の乱を描いた軍記物である。今日、伝存する『承久記』は、慈光寺本・前田家本・流布本(古活字本など)・承久軍物語の四系統に分類され、このうち慈光寺本が最も古態を示し、鎌倉中期に成立したと考えられている。前田家本は近世大名の前田家に伝わった写本であり、流布本は慶長古活字本・元和古活字本、整版本、内閣文庫所蔵本などを総称したものである。前田家本と流布本の関係については、いまだ定説がない。承久軍物語は、流布本を基に版本の『吾妻鏡』の記事を取り入れ、江戸時代に成立したとされる。
 慈光寺本は、ほかの諸本と比べて、勢多・宇治の合戦記事が欠落していたり、尾張・美濃の合戦の記述内容も異なるなど、構成や内容が大きく相違している。軍記物としては未熟さが感じられるが、逆に同時代史の記述としてみれば、情報の錯誤はあるものの、後代の視角や作為が加えられていない、率直な叙述といえるであろう。特に後醍醐天皇の倒幕という後世の歴史を知る由もないゆえ、それを投影して承久の乱の目的を幕府打倒とすることもなく、あくまでも北条義時追討としている点は高く評価できる。また、幕府方の重要人物である三浦義村を義時と対等に描写する筆致は、三浦氏を北条氏の下位とする『吾妻鏡』の記事に疑念を抱かせるに足りるものであろう。
 慈光寺本はその題箋に「承久記 慈光寺 全」とあるため、その名称が付けられた。「慈光寺」が公家の慈光寺本家を指すものであれば、作者として、上皇・女院・将軍家の事情に通じた文筆官人が想像できる。承久の乱については、乱への関与を疑われることを恐れて記事を隠滅したからか、京都の貴族の日記に記事がない。そのため、慈光寺本の歴史学的価値も相対的に高いものとなった。ただ、惜しむらくは、作者に尾張・三河に関する情報が乏しかったことである。山田重忠の名前も「重貞」と誤記された。こればかりは、ただ嘆息するしかない。
-------

「惜しむらくは、作者に尾張・三河に関する情報が乏しかったことである」とありますが、慈光寺本を通読した人の多くは「尾張・三河に関する情報」の量は、決して少なくないどころか、流布本等と比べてむしろ多いと感じるのではないですかね。
ただ、妙に詳しい感じがする記事がある一方で、地名・人名・内容等、本当に正確なのだろうかと疑わしく思われる記事も多く、質に関しては玉石混淆と感じる人が多いのではないかと思います。
ま、別に「尾張・三河に関する情報」に限らず、上下巻通じて慈光寺本はそんな感じですが、それにしても「山田重忠の名前も「重貞」と誤記された」ことは本当に不思議です。
山田重忠は京方では数少ないヒーローなので、慈光寺本が成立した1230年代ならば、「尾張・三河に関する情報」に乏しい人でも、その名を知らないはずはない存在です。
それなのに、「尾張・三河に関する情報」が、玉石混淆ではあっても相当に豊富な慈光寺本で、何故に「誤記」されているのか。
もしかしたら、これは単純な「誤記」なのではなく、慈光寺本作者は、ここに描かれた「重貞(定)」は歴史上に実在した山田「重忠」ではなく、私が創作した人物なのだ、ということを読者に知らせるために、敢えて「重貞(定)」としているのではないか、などと思ったりしないでもありません。
ま、それはともかく、「引用・参考文献一覧」で第二章第三節の部分を見ると、

-------
日下力「前田家本『承久記』本文の位相」日下力ほか編『前田家本承久記』(汲古書院、2004)
『新修名古屋市史 第2巻』「第2章 公武両政権下の尾張」(名古屋市、1998)
関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)
長村祥知「第1章 後鳥羽院政期の在京武士と院権力─西面再考─」『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015、初出2008)
西島三千代「慈光寺本『承久記』の乱認識」『国文学研究』130(早稲田大学国文学会、2000)
野口実「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」『研究紀要』18(京都女子大学宗教・文化研究所、2005)
目崎徳衛「山田重忠とその一族」『貴族社会と古典文化』(吉川弘文館、1995、初出1986)
-------

といった文献が並んでいて(p759以下)、コラム筆者の見解がどのように形成されたかを窺うことができます。
当ブログでは、上記の文献のうち、今のところ西島三千代の論文には言及していませんが、私も一応目を通してはいます。
上記コラムでも「特に後醍醐天皇の倒幕という後世の歴史を知る由もないゆえ、それを投影して承久の乱の目的を幕府打倒とすることもなく、あくまでも北条義時追討としている点は高く評価できる」といった部分は、西島氏が最初に言い出して、長村氏に影響を与えたのではないかと思いますが、私は全く賛成できないですね。
関幸彦氏の著書は「承久記」とだけ記されているのは全て慈光寺本であり、「慈光寺本中心史観」が徹底していて、面白いといえば面白い本ですね。
私にとっては、多くの学者があまり論じない周辺的部分が興味深いので、後で引用させてもらうかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦昭江氏「京方武士群像」(その5)

2023-09-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「山道ノ人々ハ、皆悉落ニケリ。武田・小笠原ハ、大井戸・河合責落テ、河ヲ下リニカケケレバ」という状況の下、「鵜沼瀬ニオハシケル神土殿」と「上田刑部」との会話は、

 神土:「河ヲ下ニカクル武者ハ、敵カ味方カ」
 上田:「アレコソ武田・小笠原ガ、大井戸・河合責落シテ、河ヲ下リニカクルヨ」
 神土:「其儀ナラバ、人ドモ皆々思切テ軍セン」
 上田:「人ノ身ニハ、命程ノ宝ハナシ。命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ。軍ヲセンヨリハ、落テ
     尼野左衛門ニ見参シテ、武蔵殿ヘ参リ、宦シテ世ニアラン支度ヲシ給ヘ、神土殿」
 神土:「此儀、サモ有ナン」

というものですから、「上田刑部」が「神土殿」と同じく京方であることは明らかですね。
慈光寺本において「上田刑部」はここ一箇所にしか登場しませんが、「廻文ニ入輩」の美濃国に「上田」がいて(岩波新大系、p310)、藤原秀康の第一次軍勢手分に「山道大将軍」の一人として「上田殿」がおり(p334)、藤原秀澄による第二次軍勢手分に「伊義渡ヲバ、開田・懸桟・上田殿固メ給ヘ」とあるので(p335)、おそらく「上田刑部」は上田一族の人なのでしょうね。
なお、久保田淳氏によれば「上田」は「池田(揖斐)郡の地名」(p311)とのことです。
さて、錦氏は、「「侍はワタリ者、草の靡〔なびく〕にこそよけれ」(流布本『承久記』)という倫理観と「二君に仕えず」という倫理観が混在していた時代であったともいえよう」と言われますが、「侍はワタリ者」云々は、武田・小笠原軍が大井戸で勝利して京方の潰走が始まった後、次のエピソードの中で使われている表現です。

-------
 又京方より、「大竹小太郎家任」とて喚〔をめい〕て出来たり。信濃国住人岩間三郎親子、向様に歩ませけるが、「如何に大竹殿か。哀れ、あしく計ひ給ふ者かな。わ殿は元は武蔵国住人ぞかし。今こそ京方へも参給たれ。其も関東より進らせたり。侍はわたり物、草の靡〔なびき〕に社〔こそ〕よれ。今日有事も無物を、能〔よく〕計ひ給はで」と云ば、真〔まこと〕にもとや思けん、扣〔ひかへ〕て案ずる所を、岩手父子押双べて、組取て引張。大力とは云へ共、指〔さし〕殺して首を取。此大竹小太郎と申は、関東へ「侍の相撲取て健〔したた〕かならん者を被進〔まゐらせ〕よ」と院より被召しかば、岳部〔をかべ〕右馬允五郎と、此大竹とを並べて、「何れ共有なん。され共、力は猶大竹にてこそ有め」とて被進たり。元は家光と名乗りけるを、西面に被召て、院の家任とは付させ給たりけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024daabee36d9b91265f6459d2ecaf3

後鳥羽院が幕府に「相撲の強い武士を進上せよ」と命じたので幕府が大竹「家光」を送ったところ、西面に採用された大竹は後鳥羽院から「家任」という名前をもらったのだそうで、大竹はそれなりに立身出世した後、承久の乱に巻き込まれて運命が暗転してしまった人ですね。
大竹は腕力はあっても頭は弱く、「侍はワタリ者」云々は、そんな大竹を「信濃国住人岩間三郎親子」が騙し討ちするために用いた甘言です。
まあ、それなりにリアルな感じがする話ですが、武田信光と小笠原長清の密談エピソードはどうなのか。
こちらは、

-------
武田・小笠原ハ美濃国東大寺ニコソ著〔つき〕ニケレ。此両人ノ給フ事、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」。武田、返事セラレケルハ、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝〔かた〕バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習〔ならひ〕ゾカシ、小笠原殿」トゾ申サレケル。
 去程ニ、相模守ハ御文カキ、「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜〔わたしたま〕ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」ト書テ、飛脚ヲゾ付給フ。彼両人是ヲ見テ、「サラバ渡セ」トテ、武田ハ河合ヲ渡シ、小笠原ハ大井戸ヲ渡シケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908

という話ですが、「美濃国東大寺」という場所が不審であり、武田と小笠原の密談を誰がどのように知ったのかも不審であり、まるでその密談を聞いたかのような絶妙なタイミングで北条時房が恩賞を約束する「御文」を送ってくるのも不審であり、さらにどのような資格・権限で、東海道軍の時房が東山道軍の武田・小笠原に「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」などと約束できるのかも不審です。
要するにこれは慈光寺本の創作で、こんなものを史実と信じたら、歴史研究者としての資質が疑われますね。

慈光寺本の「大炊の渡」場面と流布本の「河合・大井戸」場面との比較(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fca7898aa7f53ad0b6bca08138f1f81b
「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

錦氏は、自分は武田・小笠原の密談エピソードが史実だと主張している訳ではなく、慈光寺本にそう書いてあるのを紹介しただけ、当時の武士の「倫理観」を窺わせる話として採用しただけ、と言われるのかも知れませんが、そうした配慮があるならば、それなりの文章を書くべきでしょうね。
私としては、武田・小笠原の密談エピソードを、実証的な歴史研究者らしい配慮もなく紹介する錦氏を、「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(仮称)に載せざるを得ないですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦昭江氏「京方武士群像」(その4)

2023-09-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
(その2)で引用した部分の最後に、

-------
【前略】もちろん幕府方についた国房流源氏の流れをくむ源光行のほうもぬかりはなかった。もし、上皇方が勝利した場合にそなえて、子国衡のみは上皇方に参戦させている。なお、『承久記』に登場する土岐判官代は、この国衡を指している。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1815323806f37721d7934d3a0df79f6

とありますが、「土岐判官代」は『吾妻鏡』六月三日条に、京方で「池瀬」に配置された「朝日判官代。関左衛門尉。土岐判官代。開田太郎」の中に出てきます。
しかし、慈光寺本には見当たらず、流布本には「気瀬〔いきがせ〕へは富来次郎判官代・関左衛門尉、一千余騎にてぞ向ける」(『新訂承久記』、p79)とあって、この「富来次郎判官代」が『吾妻鏡』の「土岐判官代」と同一人物のようですね。

流布本も読んでみる。(その16)─「如何に、義時が首をば誰か取て進らするぞ」
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その9)─尾張河合戦での「遊軍」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa6707fc53f0f162bcb11a7de366dcc2

『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)を見ると、今野慶信氏は六月三日条の「土岐判官代」の注記で、「光行 生没年未詳。土岐光衡の男。御家人として幕府に仕える一方、後鳥羽の西面に祗候していた」(p226)とされていますが、錦氏は「土岐判官代」は光行の子の国衡とされる訳ですね。
さて、上記部分に続いて東大寺領大井荘の話がありますが、細かくなるので省略します。
そして、

-------
 一方、合戦以前には佐々木広綱の所有していた饗庭荘地頭職が、乱後、幕府御家人土佐光行にもたらされたように、茜部荘・市橋荘・郡上山田荘・伊自良荘など、承久の乱後、地頭職等の荘園の利権が幕府御家人に移動した例は美濃国内に数多い。これらの没収利権地の分布から、かなり多くの美濃国内勢力が上皇軍に参戦したことが推定できる。同国が、もともと院分国であったことや、美濃守護である大内惟信が上皇方であったことも、その背景として考えられよう。
-------

と続きますが(p67)、「土佐光行」は「土岐光行」の誤植でしょうね。

土岐光行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E5%85%89%E8%A1%8C

ウィキペディアにも「土岐判官代」を光行とする説が出ていますが、「戦以前には佐々木広綱の所有していた饗庭荘地頭職が、乱後、幕府御家人土佐光行にもたらされた」のが正しいのであれば、京方の「土岐判官代」が土岐光行ということはあり得ないでしょうね。
乱後の幕府の処断は極めて厳格であり、京方として戦った御家人が、仮に何らかの形で赦免されたとしても、それは命だけは勘弁してやるということで、乱後に新たに地頭職を与えるなどということは考えられないですね。
ま、それはともかく、続きです。(p67以下)

-------
 これまで、承久の乱の際に、上皇方に参戦したのは西国の武将、幕府方に参戦したのは東国の武将が多かったといわれてきたが(田中稔「承久京方武士の一考察」)、近年の検証では、上皇方武将の出自は全国的に検出され、京都を中心として同心円的な広がりをみせるといわれる(宮田敬三「「承久京方」表・分布小考」)。乱が短期決戦で終了したため、遠国の者は参戦することができなかったという事情も勘案しなければなるまい。もし、戦闘が長期化したら、その上皇方軍勢の同心円は、さらに拡大していたことであろう。
 陸路交通の要衝である美濃国内での動員状況を見ると、『承久記』では圧倒的に幕府方優勢に記されているが、現実的には、それほど上皇方・幕府方兵力の差異はなかったのかもしれない。尾張川をめぐる攻防戦で上皇方が善戦すれば、戦況も異なっていたことであろう。慈光寺本『承久記』では、幕府方に付いた武田信光が小笠原長清に「鎌倉勝たば鎌倉に付きなんず。京方勝たば京方に付なんず。弓箭取る身の習ぞかし」と語っている。一方で、上皇方に参戦した神土は、敗戦目前となった際、幕府方の上田刑部から「人の見には命ほどの宝はなし。命あれば海月の骨にも申す譬えの候なり。軍をせんよりは、落ちて尼野左衛門に見参して、北条泰時殿へ仕えるとよい」と説得され幕府方に降参するが、北条泰時は「弓矢とる身と成ては、京方につかば、ひたすら京方になり。鎌倉方に付かば、ひたすら鎌倉に付くべきだ」として、この神土殿父子九騎の首を切り、金竿に懸けたという。「侍はワタリ者、草の靡〔なびく〕にこそよけれ」(流布本『承久記』)という倫理観と「二君に仕えず」という倫理観が混在していた時代であったともいえよう。
-------

「美濃在地勢力」は以上です。
錦氏は「陸路交通の要衝である美濃国内での動員状況を見ると、『承久記』では圧倒的に幕府方優勢に記されているが」と言われますが、流布本にも慈光寺本にもそのような記述はないように思います。
あるいは先の「土岐判官代」と同様に『吾妻鏡』との勘違いかとも思いましたが、『吾妻鏡』でも、もちろん全体の戦力では「圧倒的に幕府方優勢」であるとはいえ、「美濃国内での動員状況」については「圧倒的に幕府方優勢」との記述はなく、ここはちょっと謎ですね。
また、錦氏は「幕府方の上田刑部」と言われますが、「神土殿」と「上田刑部」と会話を見ると、「上田刑部」は明らかに京方ですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

まあ、そんな細かなことはともかく、私には錦氏が武田信光と小笠原長清の会話を史実と思われているらしいことが驚きです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦昭江氏「京方武士群像」(その3)

2023-09-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に「城南寺に召集された軍勢で、美濃勢力と確認される」のは「兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本」とありますが、これは「諸国ニ被召輩」のことですね。
「諸国ニ被召輩」に載るのは全部で31人(項目)で、美濃10人(項目)が突出して多いですね。
なお、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では、「美濃国ニハ夜比兵衛尉……」と、美濃国の最初の一人は「夜比兵衛尉」となっています。
ただ、久保田淳氏の脚注でも、この人は「未詳」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その17)─「廻文」と「諸国ニ被召輩」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f

錦氏が言及される人名の中で慈光寺本に興味深いエピソードが載っている人としては、まず「高桑殿」が挙げられます。
といっても、

-------
荒三郎ガ物具脱置〔ぬぎおき〕、胡籙〔やなぐひ〕ナル中差〔なかざし〕二筋、弓ニ取具シテ、ツト河ノ底ヘゾ入ニケル。水ノ底ヲ一時計〔ひとときばかり〕這テ、向ノ岸ノ端ニ浮出テ、高桑殿ヲ見附〔みつけ〕、「アハレ、敵〔かたき〕ヤ。討〔うた〕バヤ」ト思ヒケルガ、「討ハヅシツルモノナラバ、此〔ここ〕ニテ死ナンズ」ト思ヒケレドモ、ヌレタル矢ヲハゲテ、思フ矢束〔やつか〕飽マデ引テ放チタレバ、高桑殿ノ弓手〔ゆんで〕ノ腹ヲ、鞍ノ末マデコソ射附タレ。馬ヨリ逆〔さかさま〕ニ落テ、此世〔このよ〕ハ早ク尽〔つき〕ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88c823c32fa110d009d3bf7d40b7f892

と武田方の「荒三郎」に射殺されるだけの役ですが。
次に「蜂屋入道父子三騎」の場合、最初に、

-------
 二宮殿ト蜂屋入道ト戦ケリ。蜂屋入道ハ、二宮殿ノ勢廿四騎マデ射流タリ。渡付〔わたりつき〕テ後、蜂屋入道ト二宮殿ト組タリケリ。蜂屋入道ハ多ノ敵討取テ、我身ニ痛手負〔おひ〕、自害シテコソ失ニケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8825fac5abc8d50c23fa7da54c8801b3

と「蜂屋入道」の自害が記された後、少し置いて、

-------
 蜂屋蔵人、是ヲ見テ、「加様〔かやう〕ノ所ハニグル甲〔かう〕ノ者、落ナン」ト思ツゝ、鞭ヲ揚テ、高山ヘゾ入ニケル。同三郎、是ヲ見テ、追付〔おひつき〕申ケルハ、「何〔いづれ〕ヘトテオハスルゾ。加程〔かほど〕ニ成ナンニ、落行〔おちゆき〕タリトモ、蝶〔てふ〕ヤ花ヤト栄〔さかゆ〕ベキカ。返シ給ヘ。父ノ敵〔かたき〕討ン、蔵人殿」ト云ケレドモ、聞〔きか〕ヌ顔ニテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

とあり、「蜂屋入道」の子の「蜂屋蔵人」は戦場から逃げ出し、これを見た「同(蜂屋)三郎」から、逃げずに父の敵を討とう、と言われますが、聞こえないフリをして去って行きます。
この後、「蜂屋三郎」は「武田六郎」に、「武田六郎ト見奉ルハ僻事カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王ノ末葉蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。父ノ敵討ントテ、参テ候ナリ。手次ノホドモ御覧ゼヨ」と声をかけてから戦いますが、応援に来た「武田八郎」に首を取られてしまいます。
三番目に、「神土殿」は藤原秀澄による第二次軍勢手分で「売間瀬」(鵜沼瀬)の担当であることが記された後、

-------
 山道〔せんだう〕ノ人々ハ、皆悉〔ことごとく〕落ニケリ。武田・小笠原ハ、大井戸・河合責落〔せめおとし〕テ、河ヲ下リニカケケレバ、鵜沼瀬〔うぬまのせ〕ニオハシケル神土〔かうづち〕殿ハ是ヲ見テ、「河ヲ下ニカクル武者ハ、敵カ味方カ」ト問ハレケレバ、上田刑部申ケルハ、「アレコソ武田・小笠原ガ、大井戸・河合責落シテ、河ヲ下リニカクルヨ」ト云ケレバ、神土殿、「其儀ナラバ、人ドモ皆々思切テ軍〔いくさ〕セン」トゾ申サレタル。上田刑部申ケルハ、「人ノ身ニハ、命程ノ宝ハナシ。命アレバ海月〔くらげ〕ノ骨ニモ、申譬〔まうすたとへ〕ノ候ナリ。軍ヲセンヨリハ、落テ尼野左衛門ニ見参シテ、武蔵殿ヘ参リ、宦〔みやづかへ〕シテ世ニアラン支度〔したく〕ヲシ給ヘ、神土殿」トゾ申タル。「此儀、サモ有〔あり〕ナン」ト思ヒ、尼野左衛門ニ見参シテ、武蔵殿ヘゾ参タル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

と、「上田刑部」の助言に従って「武蔵殿」北条泰時に降伏しますが、卑怯者だとして「神土殿父子九騎」はあっさり処刑されてしまいます。
流布本には「神土殿」は登場しませんが、『吾妻鏡』には京方敗北後の六月二十日条に、

-------
【前略】及晩。美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人。於貴舟辺。本間兵衛尉生虜之。又多田蔵人基綱梟首云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、「美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人」が貴船近辺で「本間兵衛尉」に生捕りにされたとなっています。
神土頼経は慈光寺本が明白に『吾妻鏡』と齟齬している一例で、野口実氏のように「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」する立場の危険性を示す例とも言えますね。
なお、「神土殿」が降伏する際に「尼野左衛門」が泰時への仲介役となっていますが、「尼野左衛門」は「天野左衛門」として別の箇所に名前だけ登場し、更に野口実氏は、「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019)において、幕府の東海道軍の第四陣の筆頭に、

------
 義時ハ軍〔いくさ〕ノ僉議ヲ始ラレケリ。【中略】四陣、佐野左衛門政景・二田四郎。五陣、紀内殿・千葉次郎ヲ始トシテ、海道七万騎ニテ上ルベシ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

と登場する「佐野左衛門政景」を天野政景とし、政景は「義村の代官か」とされています。
仮に野口説が正しいとすると、慈光寺本における天野政景像はあまり整合性が取れていないような感じもします。

流布本も読んでみる。(その51)─「天野四郎左衛門尉」と天野政景
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0dbe803a8c9fddc61db05446bf7783eb
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦昭江氏「京方武士群像」(その2)

2023-09-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』(新人物往来社、2009)には、錦昭江氏の「京方武士群像」の直前に野口実氏の「承久の乱」が載っていて、これは後に「序論 承久の乱の概要と評価」と改題されて、野口編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)の冒頭に掲げられています。
野口氏の基本姿勢は、

-------
 承久の乱の史料

 従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などに拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
 そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dff5c1b2c6954c573300de3316234306

というものですが、実際には「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」するのはなかなか困難であり、野口氏は一部で慈光寺本自体を「再構成」し、殆ど新たな「創作」に踏み込んでおられるように思われます。

「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90bf212c9c3b54e64c94d20179e5ff44

錦昭江氏も「とくに諸本のなかで古態を示すといわれる慈光寺本『承久記』」(p57)に即して叙述を進められており、基本的な方針は野口氏に倣っておられるようですね。
さて、前回引用した部分に、「まず、小笠原長清軍の市川新五郎が川を渡りはじめると、武田信光軍も水練巧みな十九歳の荒三郎が潜って浅瀬をさぐる」とありますが、流布本では武田が小笠原を出し抜いて渡河し、慌てた小笠原が続いて渡河するという順番となっています。
慈光寺本の「荒三郎」ストーリーは波瀾万丈で面白いのですが、要するに小笠原軍には渡河のノウハウがなく、武田軍に教えてもらいました、という話ですね。
しかし、現代のウクライナ戦争を見ても明らかなように、いつどこでどのように渡河するかは戦略・戦術の基本であり、小笠原軍に独自のノウハウがなく、武田軍に教えてもらったというのは不自然ですね。
流布本では武田・小笠原は互いに戦功を競った熾烈なライバルだということが明確になっており、私は流布本の方が信頼性が高いように感じます。
武田信光と小笠原長清の密談等、全体的に慈光寺本の「大炊の渡」場面には不自然な記述が多いですね。

慈光寺本の「大炊の渡」場面と流布本の「河合・大井戸」場面との比較(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fca7898aa7f53ad0b6bca08138f1f81b
「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

ま、それはともかく、続きです。(p65以下)

-------
美濃在地勢力

 この美濃の合戦では、どのような武将が実際に戦ったのであろうか。城南寺に召集された軍勢で、美濃勢力と確認されるのは「兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本」であり、その後、実際に各渡での戦闘に登場するものと照合すると、「蜂屋入道父子・垂見左衛門(本巣郡)・高桑(羽島郡)・開田(本巣郡)・上田(揖斐郡)・寺本(揖斐郡)・神土蔵人頼経・蜂屋冠者(神土頼経の従兄弟)」があげられよう。
 各武将の出自を、『尊卑分脈』で探ってみると、清和源氏重宗流の系図に、まず、開田重国・木田重知父子について、それぞれ「承久京方美濃国大豆戸において討たれ了〔おわんぬ〕」「父同時討たれ了」と記されている。ほかに木田重季が「承久京方誅了」、高田重朝・重村・重慶兄弟が「同時に討たれ了」、児島重茂、甥重継・重通兄弟、足助重成が「承久京方討たれ了」、尾張国山田重忠・重継父子が「承久の乱の時討たれ了」、同兼継が「承久の乱の時十四歳越後国に配流、七年を経て謝免出家」等、確認される。系図によれば、これら開田氏・木田氏・小島氏・山田氏は、みなさきの源重宗の流れをくむものであり、また、同じく清和源氏頼綱流にも、上皇方となった神土蔵人頼経とその従兄弟蜂屋冠者の名が確認される。鎌倉幕府海幕以来、清和源氏重宗流および頼綱流の子孫たちは、美濃国内、木田郷・開田郷(岐阜市)、上有智(美濃市)・を根拠地として雌伏していたのであったが、上皇方と幕府方の軍勢が美濃国内で激突するという状況にあって、両勢力は、順調に頼朝の庇護をうける国房流に対抗し、勢力を挽回する絶好の機会ととらえたのであったろう。もちろん幕府方についた国房流源氏の流れをくむ源光行のほうもぬかりはなかった。もし、上皇方が勝利した場合にそなえて、子国衡のみは上皇方に参戦させている。なお、『承久記』に登場する土岐判官代は、この国衡を指している。
-------

検討は次の投稿で行います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦昭江氏「京方武士群像」(その1)

2023-09-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
歴史上に実在した山田重忠ではなく、慈光寺本において創作された山田「重貞(定)」の役割について検討する前に、重忠周辺の武士について、錦昭江氏「京方武士群像」(『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)に基づいて少し知識を補充しておきたいと思います。
この論稿は、

-------
承久の乱前史─美濃源氏の内紛
上皇方の武将たち
美濃の合戦
美濃在地勢力
戦後の美濃国
-------

と構成されていますが、先ずは「承久の乱前史─美濃源氏の内紛」の冒頭を見ることとします。(p57)

-------
 『承久記』は、その題名のとおり、承久の乱の顛末を語る軍記物語である。物語では、後鳥羽上皇と幕府の確執からはじまり、合戦の推移と敗北した上皇方の公家・武将たちの末路を描くが、軍記物語でありながらも、合戦譚の部分はそれほど多くはない。承久の乱における主たる合戦場は美濃・瀬田・宇治であるが、とくに諸本のなかで古態を示すといわれる慈光寺本『承久記』では、瀬田・宇治合戦部分を欠き、美濃合戦が語られるのみで、その後は、延々と敗北した武将たちの悲劇を語る。成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落したのであろうか(杉山次子「承久記諸本と吾妻鏡」)。いずれにしても、承久の乱における諸合戦のうち美濃合戦での上皇方敗北は、この乱の帰趨をかなり決定づけるものであったことは間違いないようだ。
-------

慈光寺本に「成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落した」とする杉山次子説は、別にきちんとした論拠に基づく主張ではなく、単なる思い付き程度のものですね。
私は杉山説は成り立たないと考えています。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d

ついで「上皇方の武将たち」を見ることとします。(p61)

-------
【前略】
 はたして、この時上皇方は、どのような武将で編成されていたのであろうか? まず、「海道の大将軍」となったのが藤原秀康である。秀康は、藤原秀郷の流れをくむ武将で、河内国讃良を本拠としていた。後鳥羽上皇の下北面に選ばれた後、侍身分ではありながらも下野・上総をはじめ数ヵ国の国守を歴任するなど破格の待遇をうけていた。上皇の和歌所の寄人〔よりうど〕でもあり、また、大内裏造営における中核的役割を担っており、弟秀澄とともに「中央権力と結びつき、その私兵となってきた畿内武士の典型」といわれている(上横手雅敬「承久の乱の諸前提」)。
-------

藤原秀康が「上皇の和歌所の寄人〔よりうど〕でもあり」とありますが、これは弟の秀能と混同されているようですね。
秀康・秀能・秀澄の三人兄弟のうち、秀能は新古今時代の新進気鋭の歌人として著名ですが、錦氏はあまり和歌の世界には興味を持たれていないようですね。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5cd02ed73a6421ca3596c6ab42ed763
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/faea43e5df2f914947b0b31be431cbd9

この後、三浦胤義と佐々木広綱についての説明がありますが、省略して「美濃の合戦」に入ります。(p63)

-------
 先述のように、慈光寺本『承久記』に語られる具体的な戦闘は、美濃国内のみに限られる。京を出立し美濃に到着した上皇方東海道将軍藤原秀澄は、軍勢一万ニ千騎を各十二の木戸(城冊)に分散して防衛する策を取る。尾張住人山田重定〔しげさだ〕は、東海・東山両軍を河川諸流の合流点である洲俣(墨俣)に集結して幕府軍と対決し、一気に尾張国府を攻略し関東へ攻め上る案を主張するが、受け容れられなかったという。
-------

いったん、ここで切ります。
「上皇方東海道将軍藤原秀澄は、軍勢一万ニ千騎を各十二の木戸(城冊)に分散して防衛する策を取る」とありますが、秀澄がどのような資格・権限でこのような軍勢配置を行うことができたのかは全く不明です。
この点、錦氏は特に気にされておられないようですが、慈光寺本の大きな謎の一つですね。
なお、「十二の木戸」とありますが、実際に数えてみると十ヵ所しかなく、これも謎です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d

さて、続きです。(p63以下)

-------
 一方、幕府方東海道軍は、尾張国一宮に集結後、本体は洲俣へ、他の軍勢は、東山道軍を救援すべく尾張川(木曽川)の各渡に発遣した。暁に及び、幕府方東山道軍武田信光・小笠原長清軍が大井戸(可児市)に到着し、河を挟んで上皇方大内惟信軍と対峙した。まず、小笠原長清軍の市川新五郎が川を渡りはじめると、武田信光軍も水練巧みな十九歳の荒三郎が潜って浅瀬をさぐる。強い馬は上流を、弱い馬は下流をと、幕府方五千騎が渡河をはたすと、上皇方大内惟信や蜂屋入道、高桑殿は防戦するがかなわず、惟信の子は討死、惟信も戦線を離脱した。蜂屋入道も負傷し自害、蜂屋入道の子蔵人は逃亡、子三郎は奮戦するも戦死し、上皇方は「皆悉〔ことごとく〕落ニケリ」というありさまであった。大井戸の下流鵜沼瀬(各務原市)を防衛していた神土蔵人頼経は降参。板橋(各務原市)では、荻野次郎佐衛門・山田重継(重忠の子)、伊義渡(各務原市)では開田・懸桟・上田らが奮戦するも落ちていく。火の御子では打見・御料・寺本らが、尾張熱田大宮司に懸けつめられて討死。大豆戸(摩免戸・各務原市)では、本隊である藤原秀康・三浦胤義が打って出て戦い、多くの敵と戦うが、やがて落ちていった。食渡(羽島郡岐南町)では惟宗孝親・下条・加藤判官(光定)が待ち受けていたが、関政綱ら大軍が、河端の堂を破壊して作った筏に乗って渡河に成功すると、戦わずして逃げていった。上瀬では滋原左衛門・摂津渡辺党の翔が対戦し、とくに翔は、「我は翔、我は翔」と馳せ廻り、敵を多数討ち取るが、最後はやはり落ちていった。こうして東山道の諸木戸は幕府軍によって次々破られてしまった。
 洲俣は藤原秀澄が防衛していたが、戌刻(午後七時~九時)には敗走し、最後に山田重定は、東山道と東海道の出会う杭瀬川(揖斐川)にて一人「火が出る程に」戦い抜いたが、衆寡敵せず、ついに落ちていった。
-------

検討は次の投稿で行います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人

2023-09-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
従前の私の仮説、

(1)慈光寺本の作者は藤原能茂
(2)能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
(3)目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

のうち、(2)と(3)については少し緩めるべきだろうと考えを改めましたが、慈光寺本と流布本の網羅的検討を経て、更に森野論文の強烈な刺激を受けた後も、(1)については私は全く変更の必要を感じていません。
森野論文の最大の功績は慈光寺本における敬語秩序の不安定さを摘出したことですが、これは慈光寺本作者の身分意識(=差別意識)が不安定であることを示しています。
藤原能茂は行願寺(革堂)別当程度の僧の家に生まれた人であり、藤原秀能の猶子となることにより身分的上昇を図ったとしても、客観的には、公家社会・武家社会いずれにおいても、さほど高く評価された人とは思えません。
しかし、能茂は幼いころから寵童として後鳥羽院と特別な関係を持ち、承久の乱後は隠岐における後鳥羽側近の中心に位置し、最後は後鳥羽院の遺骨を首に懸けて帰洛するなど、身体的にも精神的にも後鳥羽院に密着した存在です。
こうした特殊な経験から、能茂の主観的な身分意識が、その出自を遥かに超えて上昇したとしても不思議ではありません。
他方、慈光寺本においては、後鳥羽院自身の言葉として「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」と能茂の出自が明確にされ、併せて後鳥羽院の能茂に対する特別な愛情が強調されています。
また、能茂が出家したことが後鳥羽院の出家の動機となっており、更に能茂は後鳥羽院と一緒になって七条院と歌の贈答を行うなど、能茂は殆ど後鳥羽院と精神的に一体化したような存在として描かれています。
このように、慈光寺本において能茂は極めて特殊な描かれ方をされており、これは慈光寺本の作者を「彼堂別当ガ子」程度の出自にそれなりの誇りを持ちつつ、同時に後鳥羽院と殆ど一体化した身分意識も併せ持つ、主観的な身分意識が極端に不安定な人物、即ち能茂と考えるべきことを示していると思います。

森野宗明論文の評価(その2)─能茂の主観的な身分意識(=差別意識)の特異性
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c4d926eb017d0367bef7850f223b036

以上のように、森野論文を踏まえた結果、私は今まで以上に慈光寺本の作者を藤原能茂だろうと確信しているのですが、しかし、慈光寺本作者は身分意識だけでなく、他の面でもいろいろと不安定な人です。
まず、何といっても奇妙なのは、慈光寺本の冒頭近くに置かれた「国王ノ兵乱十二度」の話で、作者は十二度と繰り返すにも拘わらず、実際に数えてみると九度しかなく、しかもその内容には不審な点が多々あります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その7)─「国王兵乱」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16

また、尾張河合戦の場面でも、「十二ノ木戸」と明記しながら、実際に数えてみると十ヵ所しか存在せず、その中には「阿井渡」「火御子」のように他の史料に登場しない地名もあります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
盛り付け上手な青山幹哉氏(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/995da08b3874a5eef6a5a63eb589ad9a

「国王ノ兵乱十二度」と明記しながら九度しか挙げず、「十二ノ木戸」と明記しながら十ヵ所しか挙げない人物は、いったいどのような性格なのか。
久保田淳氏は「其間ニ国王兵乱、今度マデ具シテ、已ニ十二ヶ度ニ成」(岩波新大系、p299)に付した脚注において「以下の叙述では九か度の兵乱を記す」とするだけで何の感想も述べず、「十二ノ木戸」には注記もありませんが、改めて考えてみれば本当に変な話です。
まあ、慈光寺本作者が几帳面な人物ではなかったことは間違いなく、文章を丁寧に推敲する習慣があったとも思えず、素直に考えればずいぶん適当な人であり、いい加減な人ですね。
森野氏は、

-------
 さて、こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが、そこに何等かの意味を見いだそうとすれば、慈光寺本『承久記』の性格をどう捉えるか、そこまで足を踏みこまざるを得ない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

と言われていますが、「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」も慈光寺本の「不斉性」の典型であり、あれこれ考えても「不斉性」を統一的に説明する原理・原則はなさそうなので、結局、「作者の気まぐれ」と考えるのが一番良さそうにも思えてきます。
作者が「気まぐれ」な人だとすれば、慈光寺本全体を貫く確固とした基本方針、制作目的を探究すること自体が無駄な作業かもしれません。
ただ、いい加減なところが多々あるとはいえ、慈光寺本は全体として決して支離滅裂ではなく、大変な手間と時間をかけて制作された作品であることは間違いありませんから、作者にはこの作品を書かなければならなかった何らかの事情があり、それなりの目的があり、想定読者もいたはずです。
しかし、そうかといって全てをガチガチの統一的な原理・原則で説明する必要はなく、多分に「気まぐれ」の要素を含みつつ、何らかのそれぞれ異なる事情、目的で書かれた場面の寄せ集め程度に思っておく方が良いのかもしれません。
例えば異常な分量で描かれている伊賀光季追討場面や、父子を合計すれば相当な分量になる佐々木広綱・勢多伽丸関係記事などは想定読者との関係で一応説明できそうですが、山田重忠関係記事には今のところ想定読者との関係は見出せません。
そして、何より山田「重忠」が一貫して「重貞(定)」と誤記されている点も気になります。
山田重忠関係記事が異常な分量で、敬語の点でも極めて特殊であることは、伊賀光季・佐々木広綱父子関係とは別の観点からの説明が必要なように思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再考:慈光寺本の想定読者と執筆目的

2023-09-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
従前の私の仮説では想定読者(三浦光村)と執筆の目的を直結させていましたが、想定読者の範囲を拡大すれば、執筆の目的も、何らかの形で藤原能茂の味方をしてくれる人を増やすため、程度と考えることも可能となり、必ずしも宝治合戦と結びつけなくても良さそうだなと思えてきました。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その2)─執筆の目的
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e731640f95dc7466f6c3a996f5c0c68b

慈光寺本は、その反幕府的内容から、決して不特定多数への公表を予定した作品とは考えられませんが、かといって三浦光村だけを狙った特注品ではなく、秘密保持ができることを条件に、特定少数の読者を想定した作品の可能性もありそうです。
例えば隠岐守護の佐々木泰清など、慈光寺本の読者としてふさわしい感じがします。

佐々木泰清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B3%B0%E6%B8%85

佐々木泰清と藤原能茂の交流の可能性を考える上で、田渕句美子氏『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第五章 後鳥羽院とその周辺」「第二節 隠岐の後鳥羽院」が大変参考になります。
この論文は、

-------
一 隠岐と都─『明月記』から─
二 おびただしい交流・交差
三 隠岐からの伝来─『夫木抄』をめぐって─
四 最晩年と置文
-------

と構成されていますが、「二 おびただしい交流・交差」に、藤原家隆男の隆祐について次のような記述があります。(p150以下)

-------
   二 おびただしい交流・交差

 隠岐の後鳥羽院との間に和歌など文化的レベルでの交渉を持った人々について、以下順不同に取り上げる。
①家隆
  【中略】
②隆祐
 『隆祐集』には彼ら親子と隠岐との交流を語る貴重な資料として屡々取り上げられている箇所があり、久保田淳氏の「藤原隆祐について」に詳しい。四一から五〇に『遠島御歌合』の歌があり、このあとに後鳥羽院の家隆への言葉として隆祐への賞賛と激励が書かれ、そして隆祐の感激が記され、続いて嘉禎三年(一二三七)『十首和歌』が五一から六〇に置かれ、続いてまた後鳥羽院の更なる賞賛が少輔局の女房奉書として隆祐に伝えられている。七七の「三十六人撰歌歌被人」とあるのは前述『明月記』天福元年(一二三三)七・八月の後鳥羽院の命による『三十六人撰』(散佚)であろう。二七五「故入道より、隆祐は歌某が跡ありと御覧ずるよし遠所より被仰下侍るなり、今は心安きよしなどこまかに被仰たりし返事に」という詞書も見える。そして三〇九「法皇隠岐国にて崩御、夢とのみ承るのち程へて、守護左衛門尉泰清がもとより、年来あひたてまつりし御所は目の前の煙と成りはてて、露の命とまりがたく侍りし人人をさそひぐして都ヘおくりたてまつりし心のうち、(下略)」など、隠岐の守護佐々木泰清が崩御のことや自分の悲嘆を詳しく隆祐に手紙で知らせ、隆祐はそれに対する返事と三〇九から三一二の歌を送り、その返しとして泰清は三一三から三一六の歌を送ってきた。佐々木泰清は義清の次子で、義清は頼朝の家臣であり、高綱の弟にあたる。承久の乱後出雲守・隠岐守・隠岐守護となり、その後義清の長子政義が隠岐守護となるが、三浦泰村と争い無断出家したため、弟の泰清が出雲・隠岐の守護となった。
-------

いったん、ここで切ります。
『新編国歌大観』第四巻の「隆祐集」を見ると、隆祐と泰清の贈答歌は次のようなものです。

-------
      法皇隠岐国にて崩御夢とのみ承るのち程へて、守護左衛門尉泰清
      がもとより、年来あひたてまつりし御所は目の前の煙と成りはて
      て、露の命とまりがたく侍りし人人をさそひぐして都ヘおくりた
      てまつりし心のうち、心なき海士の袖まで朽ちぬべくみえ侍りし
      よし、くはしく申送りて侍りし返事の次に、あまた書付け侍りし
      中に

三〇九 たちのぼる煙と成りし別路にゆくもとまるもさぞまよひけん
三一〇 なれなれておきつ島もりいかばかり君もなぎさに袖ぬらすらん
三一一 世中になきをおくりし御幸こそかへるもつらき都なりけれ
三一二 此世には数ならぬ身のことの葉をいさめし道も又絶えにけり

      返し                     泰清

三一三 たちのぼる煙ののちのわかれぢを見しはまよひの夢かうつつか
三一四 世中になきながらかへる御幸にはあらぬ衣の袖もはつれき
三一五 島守もむなしき舟のうかびいでてのこるなぎさのすむかひぞなき
三一六 わかのうらの道の心をおほせけん君のみ跡はさぞしのぶべき
-------

二人の歌を見ると、三〇九(隆祐)と三一三(泰清)、三一〇(隆祐)と三一五(泰清)、三一一(隆祐)と三一四(泰清)、三一二(隆祐)と三一六(泰清)がきちんと対応しており、縁語なども巧みに使われていて、泰清の和歌の才能はなかなかのものですね。
さて、田渕論文に戻って続きです。(p152)

-------
 泰清は関東御家人・隠岐の守護として後鳥羽院を監視する立場であるが、家隆・隆祐が隠岐へ頻繁に連絡する中で泰清とも親しくなり、家隆・隆祐とはこれ以前にも和歌や手紙のやりとりをしていたのであろう。そして泰清自身、後鳥羽院を深く敬愛し、それを隆祐もよく知っていた上での贈答である。泰清の和歌はこの四首以外には他に見当らないが、後鳥羽院から和歌の指導を受けたりしていたのではないか。その子の時清は勅撰歌人となり、『続古今集』以下に四首入集し、宗尊親王家歌壇の歌人として活躍した。その歌才の種を蒔いたのは後鳥羽院であったかもしれないということになる。また田村柳壹氏が紹介された『遠島百首』第二類本付載歌に見える詞書の、「よしきよが女かきあつめさせたらむ御哥見たきよし女房にいたくせめ申ければ」の「よしきよが女」は、佐々木義清の娘、すなわち泰清の姉妹であろう。ここにも守護佐々木一族の和歌の上での後鳥羽院への敬愛が窺われるのである。
 前掲の天理図書館烏丸本、および天理図書館蔵藤原隆祐奥書本『新古今集』の奥書の「此本、是後鳥羽院於隠岐、手自有御撰定而家隆卿之許被送遣也、此号御撰本、仍彼卿自筆書写之、而所止置家也、朱合点之外、皆除之云々、」は、家隆のもとへ隠岐本(少なくともその一つ)が送られたことを示している。
-------

隆祐関係は以上ですが、田渕氏は泰清が「後鳥羽院から和歌の指導を受けたりしていたのではないか」と推測されていますね。
藤原能茂は隠岐においては後鳥羽院に仕えていた人々の中心であり、公務の上で守護の泰清と接点があったのは当然ですが、泰清はもちろん、その姉妹も相当親しく後鳥羽院周辺と接していたとのことですから、能茂も泰清とは公私にわたって親しかったのでしょうね。
上記贈答歌の詞書に「露の命とまりがたく侍りし人人をさそひぐして都ヘおくりたてまつりし」とあるので、泰清は後鳥羽院崩御後に帰洛する人々を京まで送って行ったようですが、その中には後鳥羽院の遺骨を頸に掛けた能茂もいたはずです。
ということで、仮に能茂が、承久の乱についてこんなものを書いてみました、と慈光寺本を義清に手渡したとしても、義清は別に「反北条氏的内容であってけしからん」などと息巻いて鎌倉に注進することもなく、「佐々木一族の高綱を冷酷な人物として描いていてけしからん」などと怒るでもなく、「こういう見方もありますな」と丁寧に読んでくれたのではないかと私は想像します。
更に想像を逞しくすれば、佐々木広綱・高綱・勢多伽丸についての情報源は佐々木泰清の可能性もありそうですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森野宗明論文の評価(その6)─慈光寺本の想定読者との関係

2023-09-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
歴史上に実在した山田重忠ではなく、慈光寺本において創作された山田「重貞(定)」の役割については、タイトルを改めて別途検討したいと思います。
さて、山田重忠とは別に、森野論文で私が従来の自分の仮説を修正する必要を感じたのは慈光寺本の想定読者の問題です。
私は、

(1)慈光寺本の作者は藤原能茂
(2)能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
(3)目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

という仮説に基づき、二月十二日に「もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)」を始めて以降、七月三日の「(その77)」まで、この仮説が慈光寺本の記事と矛盾しないかを網羅的に検証してみました。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bef1581e4af838417cc067d8247cfb42
(その2)─執筆の目的
(その3)─「正義の人」光村
(その77)─「アサマダキニ神祇官行幸ナル」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfa23fd6c7c30ae50c7206a4be6c6dfd

その結果、当初の自分の仮説を変更する必要は特に感じませんでしたが、慈光寺本において伊賀光季・寿王父子と佐々木広綱・勢多伽丸父子に関する膨大な記事が存在する理由については合理的な説明ができませんでした。
伊賀光季関係記事は慈光寺本全体の約16%を占めており、異常な分量です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その5)─数量的分析
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef2c3462c18b57069e06b1d9bc07a00e

また、佐々木広綱は伊賀光季追討場面において重要な役割を占めていますが、広綱に直接関係する部分を抜粋すると、

 酒宴場面……13行(岩波新大系、p312・313)
 合戦場面……13行(同、p319・320)

合計26行となり、全体(1044行)の、

 26/1044≒0.025

となります。
他方、広綱子息の勢多伽丸関係記事は63行、全体の約6%ですから、広綱父子を合計すれば約8.5%であり、これも相当な分量です。
そして、今回、森野論文を読んでみたところ、伊賀光季と佐々木広綱は敬語の点でも特別な存在であることが確認できました。
即ち、伊賀光季は「北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物」であり、佐々木広綱は敬語の点では光季以上に重んじられている上に、勢多伽丸にも敬語が使われています。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その6)─「特定の武士に対する別格的待遇を云々することはできない」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5eb6514704b0b5a9cb0773423c3099a
(その7)─「北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd89fbd8dd17d78e07b4d78f6b50b044
(その9)─「合戦場面とまことに対蹠的」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cc78e1666a412482aed6aad7a630872
森野宗明論文の評価(その3)─後鳥羽院に近すぎるが故のパラドックス
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/062bec81ca816c9247ed8ce9ecdeabd5

三浦光村を想定読者とする私の従前の仮説では、伊賀光季・佐々木広綱関係記事の分量の多さと、そこにおける敬語使用の頻度の高さを説明できませんが、改めて考えてみれば、想定読者を絶対に三浦光村だけに限定しなければならない理由もありません。
慈光寺本は北条義時を大悪人とする点だけでも1230年代に公表できた作品とは思えませんが、逆に秘密保持が可能であれば、光村以外の想定読者がいてもよかったはずです。
例えば、伊賀光季の妹は北条義時の後室で、二人の間には政村が生まれていますが、貞応三年(1224)、北条義時死去をきっかけに起きた政変(伊賀氏の変)において、伊賀一族は大変なダメージを蒙り、政村も危うい立場に置かれています。
従って、藤原能茂が三浦光村を中心に反北条嫡流の勢力を糾合しようと思った場合、政子・泰時に煮え湯を飲まされた伊賀一族の残党、そして政村は絶好のターゲットとなったはずです。
そして、そうした人々が慈光寺本の読者だったとすれば、慈光寺本における伊賀光季・寿王父子の活躍は本当に嬉しいものとなったはずです。

伊賀氏事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B0%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

また、佐々木氏の場合、広綱の子孫は絶え、佐々木氏の嫡流は宇治川合戦で大活躍した高綱の子孫となります。
ただ、高綱流以外でも佐々木一族はそれなりに繁栄しており、中でも注目したいのが出雲・隠岐の守護を兼ねた佐々木義清とその子孫です。
隠岐守護ということは後鳥羽院監視の責任者でもある訳ですが、しかし、義清の子の泰清は後鳥羽院周辺の歌人との交流が確認でき(田渕句美子氏『中世初期歌人の研究』、p151)、決して後鳥羽院関係者と敵対していた訳ではありません。
慈光寺本では佐々木高綱が勢多伽丸に極めて冷酷であったことが詳しく描かれるので、高綱子孫が慈光寺本を読めば愉快ではなかったでしょうが、しかし、高綱流に頭を抑えられていたであろう高綱流以外の佐々木氏であれば、高綱が宇治河合戦で活躍せず、勢多伽丸との関係で嫌な人物として描かれている慈光寺本のストーリーは好感を持って読まれたかもしれません。
ところで、慈光寺本に膨大な分量の記事で描かれる人物とは逆に、非常に重要な存在でありながら、慈光寺本においては奇妙に無視されている人物に大江親広がいます。
親広は伊賀光季と並ぶ京都守護でしたが、何故か慈光寺本では京都守護ではなく、僅かに一箇所、「諸国ニ被召輩」の最後に「近江国ニハ佐々木党・少輔入道親広」とチラッと出て来るだけで、その存在感が極めて希薄です。
これも親広の関係者、例えば宝治合戦で三浦側に立った親広弟の毛利季光が想定読者の一人だったとすれば、季光を刺激しないように配慮した、といった事情を考えることができそうです。
慈光寺本の想定読者の範囲については、後で改めて検討したいと思います。

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その15)─慈光寺本における大江親広
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4d074844ec821a5a8232f92aff9eaf8

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森野宗明論文の評価(その5)─山田「重貞(定)」の「不斉性」

2023-09-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
西田直敏氏は1931年生まれなので森野宗明氏より一歳下、北海道大学・甲南大学教授を経て現在は甲南大学名誉教授とのことで、国語学者もご長寿の方が多いですね。

西田直敏(1931生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E7%9B%B4%E6%95%8F

さて、西田論文も参考にしつつ、慈光寺本の敬語使用について何らかの原則が働いているのではないかとあれこれ考えてみたのですが、結局、よく分りませんでした。
おそらく森野氏も様々な可能性を探られたはずで、素人の私が思いつく程度のことは既に森野氏が検討・却下済みなのだろうと思います。
それにしても「敬語は、社会的な身分制度が確立し、家柄によって世襲的な地位が固定していた貴族社会では、一つの社会倫理・規範として、個人の表現行為を大きく制約し、むやみに逸脱することを許さぬものであった」(西田、p29)にもかかわらず、1230年代という極めて早い時期に、慈光寺本は同時代の「社会倫理・規範」である敬語秩序、即ち身分秩序(=身分意識・差別意識)をあっさりと逸脱しており、それは森野氏の用いる「独自的」「個性的」「異色の一語に尽きる」といった表現でもまだ足りず、「革命的」と言ってもよいほどではないかと思われます。
南北朝時代あたりまで下るならともかく、何故に1230年代にこのような「革命的」作品が生まれたのか。
森野氏は成立年代論には直接関与されませんでしたが、美濃・尾張という地域、そして山田重忠の存在を重視され、

-------
 さて、山田重忠に対する言語待遇であるが、慈光寺本では、すでに触れた最期の死に場所を求めて院御所に参向する条を除けば、各場面を通じてほぼ斉一に敬語の適用がみられる例外的人物である。彼の動作・存在に関する尊敬表現だけに限っても、二一例の使用例を数えることができる。『沙石集』における山田重忠への敬語の使用も、このクラスの人物の言語待遇としては、数尠いもので注意されるが、その暗合になんらかの意味が見いだせないかどうか。『沙石集』の場面での人物相互間の上下関係をみると、重忠が卓越しており、他はその郎従、領民で比較的に敬語が使用されやすい条件のあることが認められるが、作者自身の直接的な待遇評価の現われなのか、取材源そのものに敬語の使用があり、その反映なのか、この場合もにわかには決しがたい。ただ、すくなくも、この作品の作者にとって、重忠に対して敬語の用いられることが、格別の異和感を与えるものではことだけはたしかであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2668ec0ac8dbecde4a98a5dc8ae855b4

と、「取材源」を美濃・尾張に、作者を無住に求めて行かれます。
私も森野氏に倣って山田重忠への敬語の使用頻度を確認してみましたが、確かに重忠が「各場面を通じてほぼ斉一に敬語の適用がみられる例外的人物」であることは間違いありません。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その17)─「彼の動作・存在に関する尊敬表現だけに限っても、二一例の使用例」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/38392b77921c28cd4e29f9252dbdcf1b

私は無住作者説は成立年代論の点で全く無理と考えますが、しかし、余りに「例外的」な重忠の存在が、慈光寺本の敬語秩序、即ち身分秩序(=身分意識・差別意識)を歪めている可能性はあると思います。
即ち、慈光寺本の作者が無位無官の「山田殿」を称揚するために重忠を敬語で待遇し、それに引き摺られる形で、重忠と同程度の社会的身分の者たちも引き上げられている可能性です。
ただ、奇妙なことに、慈光寺本では山田「重忠」を一貫して「重貞(定)」と表記しており、同音異字ならともかく、読み方が違っていますから、勘違いとしてもあまりに軽率で奇妙な話です。
また、流布本では帰洛後の重忠の自害の様子が、

-------
 山田次郎は嵯峨の奥なる山へ落行けるが、谷河の端にて、子息伊豆守・伊与房下居〔おりゐ〕て、水を吸飲て、疲れに臨みたる気にて休居たり。山田次郎、「哀れ世に有時、功徳善根を不為〔せざり〕ける事を」と云ければ、伊予房、「大乗経書写供養せらる。如法経行はせて御座す。是に過たる功徳は候はじ」と申せば、山田次郎、「され共」と云所に、天野左衛門が手者共、猛勢にて押寄たり。伊豆守、「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」とて、太刀を抜て立揚り打払ふ。其間に山田次郎自害す。伊豆守、右の股を射させて、生取〔いけどり〕に成て被切にけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc

と丁寧に描かれますが、慈光寺本では重忠登場の最終場面は、

-------
 紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

とあっさり終わってしまって、自害は描かれません。
このように、慈光寺本では重忠は敬語の点で極めて重視される一方、名前とその最期は軽い扱いであり、ここにも「不斉性」が存在します。
とすると、慈光寺本作者は歴史上に実在した重忠そのものを重視しているのではなく、作者が創作した作品の中で「重貞(定)」に託した役割を重視している可能性も考えられます。
そして慈光寺本だけに表れる「重貞(定)」の特別な役割というと、それは何といっても藤原秀澄に対する大胆な鎌倉攻撃案の提示ですね。
承久の乱の結果を知っている我々にとっては、「重貞(定)」の鎌倉攻撃案はあまりに空想的、あまりに無謀で実現不可能な莫迦げた作戦のように思われますが、仮に作者がこれを素晴らしい名案として本気で考えていたとすればどうか。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その38)─「山道遠江井助ハ、尾張国府ニゾ著ニケル」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森野宗明論文の評価(その4)─西田直敏氏「平家物語の敬語」

2023-09-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野論文に戻ります。
(その3)では、藤原秀康・三浦胤義など、上層武士であるにも拘わらず敬語が用いられる割合が少ない人がいることに一応の説明を試みてみましたが、これは慈光寺本における敬語使用の特異性、即ち、

-------
 一 なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ
   以下)まで及んでいるということである。
 二 その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ。
 三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大
   きい場合がある。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fda8933cd3c115f87f3a9c8c03776d4

の三点のうち、三(のごく一部)について一応の原則が成り立つのではないか、程度の話でした。
私は一、二についても何か原則を見出せないかと思って、付け焼刃で中世の敬語表現の勉強を少ししてみたところ、一番参考になったのは森野論文でも言及されていた西田直敏氏の「平家物語の敬語」(『敬語講座3 中世の敬語』所収、明治書院、1974)でした。
この論文は、

-------
一 『平家物語』の敬語の諸相
二 地の文の敬語
 1 地の文における敬語と人物の関係
 2 注意すべき敬語の用法
 3 地の文における敬語の省略
 4 地の文において敬語が用いられない場合
 5 地の文における敬語の文学的技巧
三 会話の文の敬語
 1 話し手と聞き手との間に身分的な上下関係がある場合
 2 話し手と聞き手とがほぼ対等である場合
 3 話し手と聞き手とが親子・夫婦などの関係にある場合
 4 会話の文における敬語の文学的技巧
-------

と構成されていて、基礎的事項の説明から『平家物語』における詳細な分析まで丁寧になされていますね。
「二 地の文の敬語」には、

-------
【前略】このように、地の文に用いられた敬語は、作者(語り手)の作中人物に対する言語的価値づけ・言語的待遇であると同時に、後述する会話の文の敬語とあいまって、読者や聞き手に登場人物を立体化して示す技法でもある。
 敬語は、社会的な身分制度が確立し、家柄によって世襲的な地位が固定していた貴族社会では、一つの社会倫理・規範として、個人の表現行為を大きく制約し、むやみに逸脱することを許さぬものであった。
-------

とあり(p29)、ついで尊敬表現(ごく高い敬意を示す場合と一般に広く用いられる表現)と謙譲表現の概略が述べられた後、「1 地の文における敬語と人物の関係」において、

(イ)地位・身分の明らかな宮廷の人々
(ロ)女性
(ハ)子ども
(ニ)僧侶
(ホ)武士

のそれぞれについて、『平家物語』の具体例に即して敬語表現が詳論されます。
(ホ)の武士の場合、

-------
 ①平氏一門は貴族社会において藤原氏をしのぐ勢力を持ち、清盛は「左右を歴ずして内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将にあらねども兵仗をたまは(ッ)て随身を召し具す。牛車輦車の宣旨を蒙(ッ)てのりながら宮中に出入す。ひとえに執政の臣のごとし」(巻一・鱸)という昇進ぶりで、「すべて一門の公卿十六人、殿上人三十余人」(巻一・吾身栄花)という有様であった。したがって、公卿の列に連なる人々はもちろん、その子ども、妻などにはすべて、原則として「給ふ」クラスの敬語が用いられている。殿上人クラスでは敬語がつかないが、平氏一門の殿上人、清経・有盛・忠房・経正・行盛・忠度・教経・知章・師盛・敦盛等々には敬語表現が用いられる。侍には、肥後守貞能、越中前司盛俊など受領クラスであっても敬語は用いられない。また、一般には平清盛が実質的には最高の権力を握っていながら、敬語表現の上では、ごく敬度の高い敬語表現はなく、摂政・関白よりも一段低い待遇を受けているのは、門閥を極めて重視する当時の考え方の現われである。
【中略(具体例)】
 ②源氏一門では、正二位大納言右大将に到る源頼朝には、ほぼ一貫して「給ふ」段階の敬語が用いられているが、そのほかでは、公卿に列した源三位頼政およびその嫡子伊豆守仲綱、木曽義仲、源範頼、源義経、源行家などの大将軍、家臣では後に鎌倉幕府の執権になる北条四郎時政に「給ふ」クラスの敬語が用いられているところがある。これらの人々は常に敬語をもって待遇されているわけではないが、源氏を代表する武将として、ある程度の敬意が払われたものである。侍には敬語は用いられない。
【後略(具体例)】
-------

とあります。(p38以下)
『平家物語』には数多くの伝本がありますが、西田論文では「鎌倉末期に出て、平曲の詞章としての『平家物語』を完成したといわれる覚一検校の定めた本文である覚一本を中心に考察することとし、テキストに日本古典文学大系『平家物語』上下(岩波書店、昭34・35)を用いる」(p27)としています。
従って、1230年代に成立した慈光寺本より一世紀遅れることになりますが、その『平家物語』覚一本でも、敬語に関しては「社会的な身分制度が確立し、家柄によって世襲的な地位が固定していた貴族社会」の伝統を相当強固に維持していた訳ですね。
しかし、侍身分、それも尾張・美濃の土豪に毛の生えたような連中に敬語を濫発する慈光寺本においては、敬語が「一つの社会倫理・規範として、個人の表現行為を大きく制約し、むやみに逸脱することを許さぬもの」どころか、奔放に逸脱しまくっていますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(補遺)

2023-09-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
土屋論文が本当に面白いのは「二、「後鳥羽天皇像」の不安定な構図」に入ってからで、

-------
 かねてより、この画像について不思議に思っていたことがある。それは院の座す上畳が水平ではなく、時計回りの方向に傾斜をつけて描かれている点である。これに合わせて体部も同様に傾き、右肩はやや上がり、左肩はやや下がり、さらに右脚は膝を大きく持ち上げ、対して下げた左脚は指貫が上畳の縁に掛かっている。これが画面の切り詰めなどによる水平軸の変更の結果でないならば、極めて不安定な構図である。
-------

という問題意識に基づく詳細な分析があります。
私など、そう言われて初めて、なるほど斜めになっているな、と思ったくらいなので、絵画の分析には全く向いていないですね。

「水無瀬神宮のご案内」(水無瀬神宮公式サイト内)
https://www.minasejingu.jp/info.html

第二節以下に比べると、第一節の分析は、特に美的センスを持たない歴史ないし国文学の研究者が調べても大体同じような結論になるはずですが、しかし、美術史学界において、「『吾妻鏡』のみに頼って「後鳥羽天皇像」を「隠岐配流直前、藤原信実によって描かれた落飾前の御影」と決着する」傾向は極めて強固であり、今後もおそらく変わらないでしょうね。
(その1)で少し触れた注(1)を引用すると、

-------
(1)戦後の主な言及では、藤懸静也「水無瀬宮蔵後鳥羽院俗体御影に就て」(『國華』六七九号、一九四八年)、白畑よし「鎌倉期の肖像画について」(『MUSEUM』二十八号、一九五三年)が疑問を呈すのに対し、米倉廸夫「藤原信実考」(『美術研究』三〇五号、一九七七年)、京都国立博物館編『日本の肖像』(中央公論社、一九七八年。解説中野玄三)、宮次男「鎌倉時代肖像画と似絵」(『新修日本絵巻物全集』二十六巻、角川書店、一九七八年)、マリベス・グレービル(池田忍訳)「家業としての絵画制作」(『美術研究』三六〇号、一九九四年)、若杉準治『似絵(日本の美術四六九号)』(至文堂、二〇〇五年)、京都国立博物館「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展図録(二〇一九年。解説井波林太郎)など、これを肯定的に捉えるのがここ半世紀の傾向のようである。
-------

とのことで、今や存命の研究者で、『吾妻鏡』に記された信実筆の「御影」が水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」であることに「肯定的」ではない人は存在しないようです。
私が見た範囲でも、例えば『日本美術全集第8巻 鎌倉・南北朝時代Ⅱ 中世絵巻と肖像画』(小学館、2015)では、同巻の「責任編集」加須屋誠氏が後鳥羽天皇像の解説を担当されています。
そして、

-------
73 後鳥羽天皇像
  伝藤原信実 国宝 水無瀬神宮 大阪
  13世紀前半 紙本着色 1幅 40.3×30.6cm

 後鳥羽天皇(一一八〇~一二三九)は高倉天皇の第四皇子。源平の争乱のさなかの寿永二年(一一八三)、平氏が安徳天皇とともに都落ちしたため、祖父・後白河院の詔により皇位に就くことになった。建久九年(一一九八)譲位。以後、土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の三代二三年間、上皇として院政を敷く。承久三年(一二二一)、北条義時追討の宣旨を発して挙兵。しかし、幕府方に完敗した。本作品は、この承久の乱の敗北後、仙洞(院御所)から鳥羽離宮へ移送された後鳥羽の姿を描いている。
 烏帽子をかぶり、直衣を着た俗体像(僧侶ではない一般人の姿)。敗北のショックを隠せない、憂いに満ちた表情が印象的だ。その顔貌は薄い墨線の重ね描きで表わされる。後鳥羽本人を目の前にしての、対看写照(本人を目の前にしてその姿を写し取ること)であることがわかる。描いたのは似絵の名手・藤原信実。『古今著聞集』によれば『随身庭騎絵巻』(カラー図版67)も彼の作と考えられる。
 後鳥羽が隠岐に流されてのち、紙本小画面の本作品をもとにして、絹本大画面の肖像画が制作されたと思われる。それは祟りなす後鳥羽の怨霊を慰撫するために建てられた水無瀬御影堂に奉られた。しかし、この絵は現存しない。(水無瀬神宮に現在伝わる法体像〔僧侶としての姿〕は、室町時代の作)。今に遺った本作品は配流の直前に急ぎ描かれたものであったが、だからこそ生前の後鳥羽の面影を直截に伝えるがゆえに、彼を思慕する者あるいはその怨霊を畏怖する者により、大事に保管されたに違いない。
 勝者が掲げるフォーマルな肖像画よりも、敗者の飾らぬイメージが、歴史的には意義深い。勝者の言説=創られた歴史の「他者」として、それは無言の訴えを今に伝えるからである。
(加須屋誠)
-------

などと書かれていますが、加須屋氏の頭の中には『吾妻鏡』という「勝者の言説=創られた歴史」に対する疑いは微塵も存在しないようです。
「敗北のショックを隠せない、憂いに満ちた表情が印象的だ」などとありますが、平時の後鳥羽院の表情を見た人はみんな死んでしまっていますから、これが本当に「敗北のショックを隠せない、憂いに満ちた表情」なのかは不明であり、私には加須屋氏の単なる思い込みのように思われます。
「後鳥羽が隠岐に流されてのち、紙本小画面の本作品をもとにして、絹本大画面の肖像画が制作され」、「それは祟りなす後鳥羽の怨霊を慰撫するために建てられた水無瀬御影堂に奉られた」かどうかも怪しく、少なくとも史料的根拠で裏付けることは無理ですね。
「勝者が掲げるフォーマルな肖像画よりも、敗者の飾らぬイメージが、歴史的には意義深い」のかもしれませんが、この絵が承久三年七月八日、「敗者」であることが確定した時期の作品かは史料的には極めて疑わしく、これも加須屋氏の単なる思い込みではなかろうかと思われます。
全体的に非常に格調の高い文体で書かれてはいるものの、内容は「開運!なんでも鑑定団」レベルですね。

加須屋誠(1960生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E9%A0%88%E5%B1%8B%E8%AA%A0
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(その3)

2023-09-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p18)

-------
 俗体像は『吾妻鏡』に、法体像は『六代勝事記』以下に、二幅ともの伝来は『後鳥羽院御霊託記』にと、これらを整合的に説明することはできないのである。にもかかわらず、『吾妻鏡』が重視されてきたのは、俗体像たる「後鳥羽天皇像」の存在感や強烈な個性に拠るものだろう。すなわち作品としての高度な完成度、豊かな物語性、後鳥羽院を祀る水無瀬神宮伝来という由緒は、この御影を『吾妻鏡』と分かちがたく結びつける状況証拠に満ちている。だが、信実筆の御影がなぜ水無瀬神宮に伝えられたのか、これらの文献は語っていない。さらに他のテキスト同様、『吾妻鏡』もまた同時代史料ではなく、後代の編纂物である点は改めて留意すべきである。
 さらに『吾妻鏡』は、字句の配列上は「上皇御落飾、御戒師御室(道助)」、「先之、召信実朝臣、被摸御影」の順で記されるが、間にある「先之」を続く「召信実朝臣」に掛かるよう「これに先だち信実朝臣を召して」と読まれてきた。だがこの「先之」を、「御戒師御室(道助)、之を先とする」などと読み下し、「先」という語を道助が出家を導いたといった意味で取ることができるならば、この時の御影は俗体像ではなく法体像だったことになる。他の用例を確認する必要があるが、いずれにせよ『吾妻鏡』のみに頼って「後鳥羽天皇像」を「隠岐配流直前、藤原信実によって描かれた落飾前の御影」と決着するのは早計と言うべきかもしれない。
-------

第一節は以上です。
「「先」という語を道助が出家を導いたといった意味で取る」のは、ちょっと無理っぽい感じがしますね。
さて、土屋氏は「法体像は『六代勝事記』以下に」と言われますが、『六代勝事記』には、

-------
(上略)同八日、(上皇)御出家、大軍かこみて、とりだにもたゝねば、錦の帳をへだて
ざりし、三千のたぐひも、この世の御姿を、見たてまつらず、玉のみぎりに侍りし臣妾も、
にうわの御こゑをきくなし、信実めして、御姿をうつさせて、御覧ずるにも、みじかゝら
ぬ御いのちのみぞ、うらめしくおぼしめさるゝ。
-------

とあって、確かに「御出家」が先に、信実云々が後に出て来るものの、最初に「御出家」という重大な事実を掲げて、後からその日の出来事を細かく書いているとも読めますね。
つまり、必ずしも出家と信実云々を時系列で記したと見る必要はなく、この記述からは俗体か法体かは不明と言わざるを得ないと私は考えます。
『増鏡』『高野日記』も、やはり俗体か法体かは不明ですね。
法体であることが明確なのは『承久記』の慈光寺本と流布本のみです。
ところで『吾妻鏡』の成立は1300年前後と考えられており、『増鏡』と『高野日記』は十四世紀です。
慈光寺本は1230年代成立で間違いなさそうで、慈光寺本が流布本に先行すると考えるのが通説(定説?)ですから、結局のところ、土屋氏が参照している史料の中では慈光寺本が一番早いということになります。
その慈光寺本では、

-------
 サテ、御タブサヲバ七条院ヘゾマイラセ給フ。女院ハ御グシヲ御覧ズルニ、夢ノ心地シテ、御声モ惜マセ給ハズ伏沈〔ふししづみ〕、御涙ヲ流シテ悲ミ給フゾ哀ナル。替リハテヌル御姿、我床シトヤ思召レケン、院ハ信実ヲ召レテ、御形ヲ写サセラル。御覧ズルニ、影鏡〔かげかがみ〕ナラネドモ、口惜ク、衰テ長キ命ナルベシ。今ハ、此御所、世ヲ知食事〔しろしめすこと〕叶フマジケレバ、朝マダキニ、大公〔おほきみ〕モ九条殿ヘ行幸ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

となっており、「変わり果ててしまった自分のお姿を、御自分でも見たいとお思いになられたのか、後鳥羽院は藤原信実を召して、御肖像を描かせた」ですから、法体像であることは明確ですね。
さて、私自身は「原流布本」が慈光寺本に先行し、かつ慈光寺本作者は藤原能茂であって、後鳥羽院出家の場面における能茂の役割は非常に胡散臭いと考えています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8

即ち、閻魔王の使いのように後鳥羽院を責め立てていた北条時氏が、「能茂に今一度だけ会いたい」との後鳥羽院の言葉を聞くや、突然涙を流し、父・泰時に手紙を書いて能茂を後鳥羽院に会わせるように提案し、その手紙を見た泰時は、時氏は十七歳の若さなのに、これほど立派な手紙を書きました、と「殿原」に見せびらかします。
時氏の手紙に感動した泰時は能茂に出家を命じますが、これは出家させることで合戦に参加した能茂を助命し、かつ、後鳥羽院に出家を促すことを意図しているようです。
そして、出家姿の能茂を見た後鳥羽院は、自分も出家を決意し、仁和寺御室を御戒師として出家します。
仁和寺御室を始めとして、後鳥羽院の出家の事情を見たり聞いたりした人々は、身分の高い者も低い者も涙を流しました、とのことですが、ここでは後鳥羽院・北条時氏・北条泰時・仁和寺御室らの全ての登場人物、朝廷・幕府・寺家の最高クラスの人々が能茂を中心として目まぐるしく動き回っており、まるで能茂が主役の舞台のようです。
まあ、これだけご都合主義の場面を創作するのは能茂以外にありえないだろうと私は考えますが、しかし、信実の似絵エピソードに限れば、これは能茂を主役とする演劇の舞台装置の一部であり、特に疑う理由もなさそうです。
結局、俗体像か法体像かという問題に限っては、慈光寺本を疑う必要はなく、そして(私見では)慈光寺本に先行する流布本も法体像であることを明確にしている以上、後鳥羽院出家時に信実が描いたのは法体像だろうと思われます。
従って、水無瀬神宮所蔵の「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」は、少なくとも承久三年七月八日に描かれたものではなく、信実が描き、七条院に贈られた法体像はいつしか失われてしまったのでしょうね。
ただ、「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」が信実作を騙った偽物かというと、出家以前、全く別の機会に後鳥羽院が信実に描かせていた可能性もあるので、そこは何とも言えないですね。
ということで、私見は13日に述べたことから特に変更はありません。

目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その12)─水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9308b3f160507cf01d0331261d799141
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(その2)

2023-09-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分、「これらの出来事は『吾妻鏡』以外でも『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』『同(古活字本)』『増鏡』『高野日記』に記録を留めるが、その内容が若干異なる」に付された注(2)に、

-------
(2)これらの諸記録に関しては、平田寛『絵仏師の時代』(中央公論美術出版、一九九六年)参照。なお、平田氏は『承久記』について古活字本を掲げるが、それよりも古態を留めるとされる慈光寺本は記事内容が大きく異なるため議論の俎上にあげる。慈光寺本は『新日本古典文学大系』四十三巻(岩波書店、一九九二年)に拠る。
-------

とあったので、詳しい分析があるのかと思って平田著を確認してみたところ、特にないですね。
同書は「研究篇」と「史料篇」の二分冊から成っており、「研究篇」には、「仏画の宅間派と対照的に、やまと絵とくに肖像画の領域で一貫した画系をつくった」「隆信・信実という、ともに似絵名人と称された父子とその末裔たち」(p45)に関する若干の検討があります。
そして「承久三年(一二二一)七月八日、信実朝臣が、御落飾にさきだち後鳥羽上皇御影を模したことは、水無瀬宮のその御影図とその他の諸記録によって、よく知られている」(p46)とあります。
そこで「史料篇」を見ると、『吾妻鏡』『六代勝事記』『増鏡』『高野日記』『承久記』(流布本)の関係場面が載っていますが、「御落飾にさきだち」に関する説明は一切なく、ちょっと拍子抜けですね。
『吾妻鏡』・『増鏡』と流布本の内容は既に何度も言及済みですが、整理のために改めて平田著の史料篇を引用すると、

-------
352 承久三年(一二二一)七月八日、信実朝臣、御落飾に先だち後鳥羽上皇の御影を模す。

〔吾妻鏡 第二五 承久三年七月〕
六日戊子 上皇自四辻仙洞、遷幸鳥羽殿被、大宮中納言実氏、左宰相中将信成、左衛門少尉能茂、
以上三人、各騎馬供奉御車之後、洛中蓬戸、失主閉扉、離宮芝砌、以兵為墻、君臣共後悔断腸者歟。
八日庚寅 持明院入道親王守貞、可有御治世云々、又止摂政道家、前関白家実、被蒙摂政詔云々、
今日、上皇御落飾、御戒師御室道助、先之、召信実朝臣、被摸御影。

〔六代勝事記〕群書類従
(上略)同八日、(上皇)御出家、大軍かこみて、とりだにもたゝねば、錦の帳をへだて
ざりし、三千のたぐひも、この世の御姿を、見たてまつらず、玉のみぎりに侍りし臣妾も、
にうわの御こゑをきくなし、信実めして、御姿をうつさせて、御覧ずるにも、みじかゝら
ぬ御いのちのみぞ、うらめしくおぼしめさるゝ。

〔増鏡 第二 新島守〕日本古典文学大系
本院(ごとば)は隠岐の国におはしますべければ、先鳥羽殿へ、網代車のあやしげなるに
て、七月六日いらせ給、今日を限りの御ありき、あさましうあはれなり、物にもがなやと
思さるゝもかひなし、その日やがて御髪おろす、御年四十に一二やあまらせ給らん、まだ
いとをしかるべき御ほどなり、信実の朝臣召して、御姿うつしかゝせらる。七条院へ奉ら
せ給はんとなり。

〔高野日記〕
(上略)隠岐の国へをもむかせたまふになり侍りしとき、御かたみとて、この(信実)朝臣
 めして、御影をかゝせたまひて、七条女院へまいらせられしといふをも、おがみたてまつ
 り侍る。それにて御影堂はたてられしとか。乱たるよには、いかゞなすべきもはからず、
 ひとひもはやく、水無瀬へも大原へも行て見させたまへかし。

〔承久記〕校註国文叢書
(上略) 同八日、六波羅より御出家あるべき由申入れければ、則ち御戎師を召されて、御
ぐしおろされ御座す。忽に花の御姿の替らせ給ひたるを、信実を召して似せ絵に移らせられ
て、七条院へ奉らせ給ひければ、御覧じも敢へず、御目も昏れさせ給ふ御心地して、修明門
誘ひ進らせられて一つ御車に奉り鳥羽殿へ御幸なる。
-------

とのことで(p184)、これを見ると、『吾妻鏡』は俗体と見るのが自然ですが、『六代勝事記』は俗体か法体か不明、『増鏡』も不明、頓阿の『高野日記』も不明ですね。
「校註国文叢書」(流布本)の『承久記』は法体であることが明確で、これは慈光寺本も同じです。
結局、「御落飾にさきだち」の根拠となるのは『吾妻鏡』だけですね。
さて、土屋論文の続きです。(p18)

-------
 水無瀬神宮には「後鳥羽天皇像」と同様の紙形に基づくと思われる法体像も伝わるが、俗体像、法体像の二幅がなぜ伝えられたのか、諸文献での記述の揺れのなかでいくつかの解釈が示されてきた。例えば隠岐遷幸前、俗体、法体二種の御影が描かれたと解されることもあるが、そのような記載はどの文献にも見られない。また、『後鳥羽院御霊託記』(『続群書類従』九六四)に収める嘉禎二年(一二三六)十月十五日付「伊王左衛門入道西蓮参隠岐於御前蒙勅宣記」には、後鳥羽院が宸筆の「俗体影一舗、法体影一舗」等を祀った霊廟を建てるよう西蓮(藤原能茂)に勅を下したと記され、これを水無瀬神宮の俗体、法体像に当てる見方もある。この二幅の御影は西蓮の所領・物集女庄にあった後鳥羽院御影堂に祀られていた可能性も指摘され、加えて「後鳥羽天皇像」が宸筆とは考え難いことから、これを根拠とするにも心もとない。
-------

いったん、ここで切ります。
「この二幅の御影は西蓮の所領・物集女庄にあった後鳥羽院御影堂に祀られていた可能性も指摘され」に付された注(4)を見ると、これは宮島新一氏の『肖像画』(吉川弘文館、1994)です。
確認してみたところ、同書には『後鳥羽院御霊託記』と「伊王左衛門入道西蓮」に関する相当に詳しい記述があり、大変参考になったのですが、当面の問題からは離れてしまいますので、現時点での引用と検討は控えます。
藤原能茂(西蓮)は後鳥羽院の怨霊とともに伝説の世界で大活躍する人で、おそらくそれは能茂自身が生前に色々と怪しい工作を行い、伝説の種を蒔いていたからに違いないのですが、しかし、伝説の世界に入り込むと歴史的実在としての能茂が見えにくくなってしまいます。
田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)を読んで以来、「伝承と霊託の世界」へ入り込んだ能茂にも若干の興味はありますが、能茂の実像の解明を終えるまでは「伝承と霊託の世界」に深入りするのは控える、というのが当ブログの当初からの方針です。
ま、要するに『後鳥羽院御霊託記』は色々と怪しすぎて使えない、ということですね。

何故に藤原能茂を慈光寺本作者と考える研究者が現れなかったのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eabb3d82a87a07dbc7a4cbad9bbd1f93
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする