学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その9)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続)

2023-10-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山本みなみ氏が、鎌倉方の東海道・東山道・北陸道三軍の数を『吾妻鏡』に依拠しながら、何故に京方の東海道・東山道・北陸道三軍の数を慈光寺本に依拠するかというと、これは『吾妻鏡』と流布本には三軍の数字が出ていないからですね。
『吾妻鏡』六月三日条では「官軍」を「北陸道」軍と「東山道」軍に二分した上、大井戸渡・鵜沼渡・池瀬・摩免度・食渡・洲俣・市脇の七箇所に配置された人名を載せていますが、軍勢の数は出ていません。
なお、同条では「北陸道」軍も同日に出発したとしており、また、尾張河で戦ったのは全て「東山道」軍であって、東海道軍は存在しません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

他方、流布本では、北陸道軍の派遣は五月十五日の伊賀光季追討場面の後、「推松」派遣の直前に、

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 北陸(道)へは、討手を可被向〔むけらるべし〕とて、仁科次郎・宮崎左衛門尉親式〔ちかのり〕・糟屋左衛門尉・伊王左衛門尉、是等を始として官軍少々被下ける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3

とあって、ずいぶん早く派遣したような書き方ですが、人数は出ていません。
そして、「推松」帰洛後、尾張河合戦に備えた「九瀬」への派遣の場面は、

------
 先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。大炊〔おほひ〕の渡へば、駿河大夫判官・糟屋四郎左衛門尉・筑後太郎左衛門尉・同六郎左衛門、是等を始として、西面者共二千余騎を被差添。鵜沼の渡へは美濃目代帯刀〔たてはき〕左衛門尉・川瀬蔵人入道親子三人、是等を始て一千余騎ぞ被向ける。板橋へは朝日判官代・海泉太郎、其勢一千余騎ぞ向はれける。気瀬〔いきがせ〕へは富来次郎判官代・関左衛門尉、一千余騎にてぞ向ける。大豆渡〔まめど〕へは能登守秀安・平九郎胤義・下総前司盛綱・安芸宗内左衛門尉・藤左衛門尉、是等を始として一万余騎にてぞ向ひける。食〔じき〕の渡へは阿波太郎入道・山田左衛門尉、五百余騎にて向ふ。稗島〔ひえじま〕へは矢野次郎左衛門・原左衛門・長瀬判官代、五百余騎にて向けり。墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

とあって、大炊の渡・鵜沼の渡・板橋・気瀬・大豆渡・食渡・稗島・墨俣・市河前の九箇所に派遣された軍勢の数、合計一万七千五百余騎が記されていますが、ここには北陸道軍は含まれていません。
また、尾張河の「九瀬」に派遣されたとあるだけで、東海道軍・東山道軍と区別している訳ではありません。
結局、東海道・東山道・北陸道の三軍に分けた上で、それぞれの軍勢の数を記しているのは慈光寺本の藤原秀康による第一次軍勢手分だけなので、山本氏はその数字を採った訳ですね。
しかし、『吾妻鏡』では京方の東海道軍が存在せず、尾張河に派遣されたのは「東山道」軍と一纏めしており、流布本でも単に尾張河の「九瀬」に派遣されたとしているように、京方には「東海道」軍と「東山道」軍を分ける必要性がなくて、慈光寺本が三軍に分けていること自体が極めて不自然です。
そして、慈光寺本だけで軍勢の数を比較すると、鎌倉方は、

 (東)海道 七万騎
 (東)山道 五万騎
  北陸道  七万騎

です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

他方、京方は

 (東)海道 七千騎
 (東)山道 五千騎
  北陸道  七千騎

となって、ちょうど鎌倉方の十分の一ですね。
まあ、慈光寺本では三軍合計が一万九千騎ではなく、「一万九千三百廿六騎」という妙に細かい数字となっていますが。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その32)─「押松ガ義時ガ首持テ参ラン、御覧ゼヨ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

それにしても、

   鎌倉方:京方=10:1

という比率は余りに綺麗すぎて、いかにも作っていそうな感じがします。
また、藤原秀澄の第二次軍勢手分で「十二ノ木戸」(実際には十箇所)に一万二千騎を配していることや、杭瀬河合戦で山田重忠勢が三百騎、「小玉党」が三千騎となっていることにも通じているような感じもします。
京方が合計一万九千騎という数字は、別に「慈光寺本妄信歴史研究者」だけでなく、相当多くの歴史研究者が気楽に使っているように見えますが、慈光寺本の作者には奇妙な数字マニア的な性癖があって、慈光寺本に出て来る数字は全般的に相当怪しいことに注意すべきですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
盛り付け上手な青山幹哉氏(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/995da08b3874a5eef6a5a63eb589ad9a
コメント
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