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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その41)─「誰カ昔ノ王孫ナラヌ」

2023-05-02 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で、北条時房が尾張一宮の近くで行った「軍ノ手駄」(いくさのてだて)には「欠落」があると書きましたが、ここは何とも変な感じがする箇所ですね。
久保田淳氏は時房の発言を「今度ノミチノ固〔かため〕ハ、上﨟次第ゾ、大豆渡〔まめど〕ヲバ武蔵守、高桑ヲバ天野左衛門、大井戸・河合〔かはひ〕ヲバ」と括っていますが、大井戸(大炊渡)は東山道軍の担当であり、時房に勝手に配置を決める権限があったとは思えません。
もちろん、東海道軍と東山道軍の間で軍勢配置に関する調整はあったでしょうが、それは時房が東山道軍の大将である武田信光・小笠原長清に一方的に命令するような形ではなかったはずです。
そもそも慈光寺本の場合、例えば序文で「国王ノ兵乱十二度」とありながら、どう数えても十二にならないような奇妙な例が存在します。

(その7)─「国王兵乱」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16

「国王ノ兵乱十二度」のように慈光寺本には随所に「やっつけ仕事」感が漂う箇所があり、ここも、あるいは作者が書いている途中で、ちょっと調べが足りなかったなあと思い、後でやろうと思って忘れてしまったとか、面倒だからこれでいいや、とあえて推敲せずに放置した可能性もあるのではないかと私は疑っています。
要するに慈光寺本成立後の偶然の「欠落」ではなく、最初から不十分・不正確な記述だった可能性ですね。
それと、武田信光と小笠原長清の密談については、かなり多くの研究者が着目され、これが武士の赤裸々な実態なのだ、武士とはこういう存在なのだ、みたいな主張をされています。
しかし、この記述を事実の記録とするのには慎重であるべきだと私は考えます。
そもそも、この話が武家社会においてどこまで知られていたのか。
慈光寺本は杉山次子氏によって1230年代に成立したことが主張され、多くの研究者が賛成して今では通説となっています。
私もそれを否定しませんが、1230年代であれば武田信光・小笠原長清は二人とも存命です。
仮に武田・小笠原家の関係者が、武田信光・小笠原長清は大井戸で戦端が開かれる直前まで、内心では幕府か京方のいずれにつくかを決めておらず、北条時房によって目の前にぶら下げられた巨大なニンジンを見てやっと決断し、渡河を行なった、という記述を見た場合、けっこうなトラブルが発生するように思われます。
ここまで侮辱されている以上、武田・小笠原家から作者に刺客が放たれても不思議ではないような内容です。
ということは、この密談エピソードは、慈光寺本が成立当時には公開されておらず、限定された読者に渡された秘密の書であったことを示しているように思われます。
ま、私自身は作者が藤原能茂、想定読者が三浦光村の作品と考える訳ですが、では作者がこの密談エピソードを入れた理由は何か。
私は、このエピソードは山田重忠の鎌倉攻撃案と関連していて、山田重忠案にリアリティを持たせるための、追加的・補強的な材料なのではないかと考えます。
もちろん、事実の記録ではなく、慈光寺本作者の創作ですね。
武田信光・小笠原長清の密談の内容を部外者が知ることは不可能であり、北条時房が、まるで二人の密談を聞いたかのような絶妙のタイミングで二人に手紙を送ることも実際上は考えられないですね。
さて、続きです。(岩波新大系、p340以下)

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小笠原一ノ郎等市川新五郎ハ、扇ヲ上〔あげ〕テ、向〔むかひ〕ノ旗ヲゾ招キタル。「向ノ旗ニテマシマスハ、河法シキノ人ゾ。ヨキ人ナラバ、渡シテ見参セン。次々ノ人ナラバ、馬クルシメニ渡サジ」トゾ招〔まねき〕タル。薩摩左衛門立出テ申ケルハ、「男共、サコソ云トモ、己等〔おのれら〕ハ権太夫ガ郎等ナリ。調伏〔てうぶく〕ノ宣旨蒙ヌル上ハ、ヤハスナホニ渡スベキ。渡スベクハ渡セ」トゾ招タル。新五郎是ヲ聞〔きき〕、腹ヲ立テテ、「マサキニ詞〔ことば〕シ給フ殿原哉。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。武田・小笠原殿モ、清和天皇ノ末孫〔ばつそん〕ナリ。権太夫も桓武〔くわんむ〕天皇ノ後胤ナリ。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。其儀ナラバ、渡シテ見セ申サン」トテ、一千余騎コソ打出タレ。
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流布本では武田が小笠原を出し抜いて渡河し、慌てた小笠原が続いて渡河するという順番ですが、慈光寺本は異なります。

流布本も読んでみる。(その19)─「軍に出るよりして、再び可帰とは不覚。是こそ吉日なれ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6872bfb97130022f99fc08b331d99495

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