学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

年末のご挨拶

2009-12-29 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月29日(火)23時46分9秒

私は今日が仕事納めでした。
明日、佐渡に日帰りで行ってレンタカーで島内を廻り、明後日に帰省する予定です。
年内の投稿はこれが最後かと思います。
皆様、良いお年をお迎えください。

>職人太郎さん
某所、見ました。
私は「歴史オタク」というより「歴史家オタク」かもしれませんね。
史料そのものより、史料を映し出している鏡としての歴史研究者の資質・傾向・類型に興味があります。
掲載紙等、後で教えてください。

>筆綾丸さん
玉や石も美しいですね。
青空文庫で読んだばかりの薄田泣菫「石を愛するもの」を連想しました。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000150/files/4901_18424.html

曹操の陵墓については、当分の間、論争が続きそうですね。

http://sankei.jp.msn.com/world/china/091229/chn0912291728004-n1.htm
http://big5.ce.cn/xwzx/gnsz/gdxw/200912/28/t20091228_20703584.shtml
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源氏物語研究の水分

2009-12-26 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月26日(土)13時30分21秒

>筆綾丸さん
『源氏物語』から流れ出た古注釈書は『水原抄』(源光行・源親行)、『河海抄』・『珊瑚秘抄』(四辻善成 )、『細流抄』(三条西実隆)、『山下水』(三条西実枝)、『岷江入楚』(中院通勝 )、『湖月抄』(北村季吟)という具合に非常に水分が多いですね。
幽斎は、細川という水っぽい家名は何と古今伝授にふさわしいのだろう、と笑みを浮かべたことがあったかもしれないですね。

古注釈の歴史(進藤重之氏「古典の窓」より)
http://www.cims.jp/star/kororin/kotyu.html
http://www.cims.jp/star/kororin/top.html

>北畠治房
町史にそんな書き方をされる人物も珍しいと思いますが、北畠治房が関わった小野組転籍事件の経緯を見ると、見識と豪腕を併せ持った人物ではありますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%B5%84#.E5.B0.8F.E9.87.8E.E7.B5.84.E8.BB.A2.E7.B1.8D.E4.BA.8B.E4.BB.B6

検索してみたら、薄田泣菫の「中宮寺の春」というエッセイに北畠治房が登場していました。
薄田泣菫は1877年生まれ、北畠治房は1833年生まれなので、44歳違いのコミカルなコンビですね。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000150/files/48325_31494.html

薄田泣菫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%94%B0%E6%B3%A3%E8%8F%AB

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「黄庭堅とエクリチュール」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5258
「煙管屋鳩平 実は 北畠治房」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5259
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辰口信夫

2009-12-26 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月26日(土)13時15分13秒

>Akiさん
引用しておきましょう。

----------
Inside the bible, there is a picture of Misako, her older daughter standing on the lawn, taken by Tatsuguchi and a dried flower of primrose from Attu.

But the most intriguing things are found on the blank space of inside cover. Tatsuguchi wrote there: ''therefore choose life Deut. 30:19,'' a quoted scripture from Deuteronomy in the Old Testament, which probably was his favorite verse and served as his main guideline as a doctor and a person.

On the next page, he wrote down mottos, on medical tape which he used to secure the cover.

They say: ''Always the sun will shine...The most manifest sign of religion is cheerfulness...I would rather be sick than idle...There is no failure save in giving up... It's solemn thing to die, but it's far more solemn thing to live.''
----------

何となく岩井俊二監督『Love Letter』のラストシーンを連想してしまいました。
辰口信夫については詳しい紹介をしてくれているサイトもありますね。


※Akiさんの下記投稿へのレスです。

2009/12/24(木) 00:57:58
Nobuo Tatsuguchi

>小太郎さん
あの映画はもともとアメリカ人向けに作られたものなので、時代背景の描写などは表面的すぎるところはあるでしょうね。ただ、ほとんどのアメリカ人は、特攻隊の兵士は洗脳されて人間性を失った人たちだと思っているので、アメリカ人があの映画を見ると、特攻をおこなっていたのが普通の人間的な感情を持った人たちだったことを知って、衝撃を受けるようです。その一点だけでも、あの映画は、アメリカ人の日本人理解を促すという点で、すごく貢献してくれているようです。
(きのう紹介したものは、アメリカのサイトに置いてあったのに英語の字幕を付けてなかったのが理解に苦しむところではあります。字幕入りのものは無料で公開することができなかったとか、何か事情があるのかもしれません。)

特攻隊に関しては、下記のサイトも、英語圏の人たちの理解を助けるのに役立っているようです。日本サイドの視点とアメリカ人の視点を比較して紹介しているほか、特攻隊兵士の手紙など1次資料の英訳も行っていて、充実しています。

Kamikaze Images
http://wgordon.web.wesleyan.edu/kamikaze/

あと、アッツ島の戦いについての下記のページの話も、アメリカ人は複雑な感情を抱かされるようです。というか、日本人の私も、最後のところを読んで降参しました。予想外のオチ(?)だったので、参りました。軍医としてアッツ島の戦いに従軍して戦死した辰口信夫の死の真相を追う話です。好きな話なので、リンクを貼ってしまいます。(話は、全部で3ページあります。数字のところをクリックすると、続きのページに飛べます。)

http://findarticles.com/p/articles/mi_m0WDQ/is_2005_August_15/ai_n14940739/

中世史と関係なくてすみません~。
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リサ・モリモト氏

2009-12-23 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月23日(水)22時00分35秒

Akiさんが紹介された映画を観てみましたが、原題は Wings of Defeat(敗北の翼)で、邦題とは印象が異なりますね。
日米の旧軍人へのインタビューと古い映像だけで構成された映画かと思ったら、若い女性監督自身がかなり積極的に登場して、日系二世のルーツ探訪という要素を取り入れています。
最後の方のアニメが妙に古風で出来も良くて、日本人が作ったのだろうと想像したのですが、クレジットを見るとジェフ・カストロとなっていました。
インタビューを受けた人たちは、戦後、特攻隊当時の自分たちは何だったのかを繰り返し問い続けてきた方たちでしょうから、それなりに深い思索を経たのでしょうが、一部の方の歴史認識は過度に単純化されていて物足りない面もありました。
アメリカで育った女性監督には、アメリカ人とは異なる視点を得られて新鮮な歴史探訪が出来たのかもしれませんが、全体的に情緒的過ぎて、対象を突き放して客観的に見ようとする姿勢が弱かったように感じました。

http://www.edgewoodpictures.com/wingsofdefeat/statement.html
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黄山谷

2009-12-23 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月23日(水)01時29分16秒

>筆綾丸さん
『源氏物語古註釈叢刊』で『岷江入楚』をパラパラ眺めてみましたが、大学受験用参考書を連想させるほどの懇切丁寧な注釈書ですね。
書名は北宋の黄山谷の詩「岷江初濫觴、入楚乃無底」に由来するものだそうです。
定家の『源氏物語奥入』が岷江の初めならば、この書は楚に入って底なきが如き河となったもので、それは「世くだり、人の心おろかにして、はかなきふしまでをもらさず注釈せんとするがゆゑなり」だそうです。

国会図書館の解説も簡明ですね。

-------------
『源氏物語』の代表的注釈を集大成したもの。細川幽斎(1534-1610)の勧めにより着手、約10年を費やして、慶長3年(1598)6月完成した。書名は宋の黄庭堅の詩句に基づき、長江の源流である岷江が下流の楚に入り大河になるように、初期の簡単なものから始まった注釈が、後世に到り膨大なものになったことを表わす。幽斎の命名である。

http://www.ndl.go.jp/exhibit60/copy1/1ise_2.html

黄山谷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%BA%AD%E5%A0%85

>Aki さん
19日に私が雪の中を走り回っていた場所は冬に事故が多いので有名だったようで、地元の人に呆れられてしまいました。

>満州
私の父は朝鮮の留学生と戦後も暫く親しくつきあっていたそうですが、やがて音信不通になったようです。
旧制中学の知り合いだったのか、連絡が取れなくなった事情は何だったのか等、後で聞いてみます。
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新島のマリア・マグダレナ

2009-12-20 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月20日(日)10時53分42秒

検索してみたら、四日市のイタリアンレストラン「サンマルコ」の「ソムリエの夜話No.13 残花」に、次のような記述がありました。

-------------
権典侍中院氏は、その後、御代が変わり、後水尾天皇の側近となり幕府との交渉をこなしていた兄の中院通村が江戸へ下向したおり、小田原の海を見て「妹がこの向うの島に流され今も存命している」と語っている事で、消息が確認できる。 “ひく人のあらでや終(ツイ)にあら磯の 波に朽ちなん 海女のすて舟”と妹を哀れんで、歌を書き付けている。その時すでに13年の歳月が通りすぎていた。兄妹ですら哀憐の歌を詠み、通り過ぎる術しかなかった。
この一連の話を書こうと思い立った頃、A紙の土曜版に八丈島に流された二人の上臈の後日譚が載っていて、その偶然に驚いた。なんと彼女らのその後の消息はスペインに残っていた。スペインの古都トレドのイエズス会記録所にマカオ駐在の神父よりもたらされた1619年の年次報告書にラテン語で“新島に内裏宮廷の異教徒の流罪になった婦人が何人かいた。その中の二人がキリシタンの名をつけマグダレナ、マリアと称した。二人を信仰に導いたのは、おたあジュリアと言う朝鮮出身の婦人で新島へ流され、そこで女官達と知り合った。この改宗事件でおたあは、神津島に、二人の女官は八丈島へと移されたと記載されているそうだ。おたあの流罪は慶長17年。同時期の流人、近藤富蔵と言う侍が、細かく書き記した「八丈実記」と合致する。さらに年報によるとマグダレナは島の代官に言い寄られ、拒んだ為、鼻と耳をそがれ首を刎ねられたとあり「自分の血で洗礼を受け殉教の栄冠を与えられた」と記されているそうだ。

http://www.munieru.com/sanmarco/yawa/yawa.html

何とも不思議な話ですが、「A紙の土曜版」を確認してみたいですね。
それにしても、二人合わせてマリア・マグダレナとは。
マリア・マグダレナの前身がprostituteであったことを考えると、深い意味がありそうに思わせる名前ですね。
全然深い意味はないのかもしれないですけど。

ジュリアおたあ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%9F%E3%81%82
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権典侍中院氏(也足女)

2009-12-20 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月20日(日)10時37分9秒

別にそれほど重要な話ではないのですが、中院となると捨て置けない感じもするので、引用してみます。(「也足軒・中院通勝の生涯」p25)

-------------
 帰洛以来、この頃までの十年間が也足の最も花やかな時期だったのではあるまいか。師幽斎の存在はもとより大なるものではあったが、晩年は耄碌し(智仁親王御記十四年十一月廿九日)、「十ヶ年以来玄旨耄碌無筋事ヲモ時々ハ被申ケル」(当代記)といった為体で、也足こそが、堂上はもとより京都文化界の最高指導者だったのである。
 慶長十三年頃から、或はそれ以前から後陽成天皇側近の女房、新大典侍広橋氏・権典侍中院氏(也足女)・中内侍水無瀬氏・菅内侍唐橋氏・さぬき等が傾城かぶき女の如く洛中に出行、花山院忠長・ 飛鳥井雅賢・難波宗勝・烏丸光広ら公家の輩並びに若干の武士もこれに応じて酒宴を張り、密通の事などがあり、世情の聞こえも喧しいものがあったが、就中広橋・唐橋は天皇寵愛の女性でもあったので、逆鱗は十四年七月四日に至って爆発し、女官を各々その家に錮した。重き者は死罪にすべしとの綸言であったが、家康がこれを宥め、多くは配流に決し、十月一日也足女は広橋氏らと共に雨中を駿府に送られ、取調べを受けた末、伊豆新島に配流された。也足の心情の推移は連々として家集(「新一人三臣」として大日本史料に掲出)にみえる。
 九月卅日、明日出立の日には、

  おもひやれながかるまじき老いの身の
  かぎりもまたぬこの別ぢを

と詠じたが、その如く、憂愁の堆積によって半年余を経て没しさるのである。また也足に深甚の同情を籠めて歌を取交したのは藤原惺窩で、この折の一連の歌が惺窩先生倭歌集に見えている。なおこの女の年齢は不明だが、通村の妹で、二十歳位か。広橋氏らと共に赦されて帰洛するのは、十五年を経た元和九年九月廿七日のことである。
-------------

ウィキペディアには「猪熊事件」として立項されていますが、ずいぶん古めかしい説明の仕方ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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流離の十余年

2009-12-20 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月20日(日)00時19分35秒

東京出張で青空を見上げてから戻ってくると、世界が一変していました。
十二月の雪の記録を遡れば、暖冬続きの昨今では今回が平成に入って以来最高の大雪だそうで、会社の駐車場の隅に止めてあった私の車は30センチ以上の雪をかぶっており、慣れないスノーブラシを使っての雪降ろしは車一台分だけでもかなりの労働でした。
作業終了後、やはり雪国では長靴が必需品だなと思って近所のショッピングモールに行き、除雪用のスコップも併せて購入しました。
まさかこの年になって長靴を買うとは思っていませんでしたが、長靴を履いて新雪を踏みしめていると、何だか小学生に戻ったような気分になります。
夕方からは雪道の訓練で4時間ほどドライブしてきたため、さすがに疲れました。

さて、東京出張のついでに国会図書館に1時間ほど寄り、井上宗雄氏の「也足軒・中院通勝の生涯」(『国語国文』448号、1971)を入手しましたので、少し紹介してみます。(p17)

-------------
 慶長三年は也足四十三歳、畢生の大作『岷江入楚』が完成を見た年である。幽細の慫慂を受け、実枝の講釈を頼りとし、不遇締緒の身を励ましつつ十年にして詳注五十五帖をまとめ終えた由の仮名序を、六月十九日付で書きつけている。屈折した心情を底に秘めた、見事な和文である。機械的に網羅した諸注集成ではなく、源氏物語を本質的に把握しうるように配慮された諸注の生かし方と自見とで貫かれていて、恐らく古注釈の最高峰であろう。王朝的雰囲気を解しえぬ層の拡大している時代なればこそ、十全なる古典理解にはかかる詳注が必要なのであった。流離の十余年の辛酸がその必要性を彼に体得せしめ、また述作の使命感を助長したものでもあったろう。幽斎は七月七日に真名の跋を与え、かつ「細川家記」によると「氷てもながれ底なき入江かな」の発句を贈った。なおこの後也足はしばしば源氏講釈を行い、その折々に追補などを行ったようである。
-------------

中院通勝が「流離の十余年の辛酸」を嘗めたのは正親町天皇の勅勘を受けたからですね。
そして丹後に逐電したのだそうです。
父も貴族としてはすごい人生を送っていますが、娘は更にすごいですね。
こちらは伊豆新島に十五年間流されていたそうです。

岷江入楚
http://www.ndl.go.jp/exhibit60/data/R/005/01/005-01-031r.html

>筆綾丸さん
「鎌倉殿」「将軍家」の使い分けについては論文がありそうですね。

>職人太郎さん
ご紹介、ありがとうございます。
こちらですね。

http://plaza.rakuten.co.jp/sozo9daime/

私の住所は新潟市からはかなり離れているのですが、機会を見つけて訪問してみます。
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食べ物と建物

2009-12-17 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月17日(木)01時15分46秒

『徒然草』では北条時頼と大仏宣時が味噌を肴に酒を飲んだというエピソードも倹約奨励の話として有名ですが、檜皮葺についての先の検討を踏まえると、これも少し微妙な話ですね。
食べ物は質素だったかもしれないけれど、建物自体は誰が見てもここに権力が存在しているのだなあと思えるような豪奢な大邸宅の、そのまた一番立派な建物で、ほぼ確実に檜皮葺だったでしょうね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-215-nobutokiason.htm

松下禅尼の障子の話も、建物が檜皮葺だったら、一点豪華主義ならぬ一点節約主義の相当いやみな話になりかねませんね。
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鰤起こし

2009-12-17 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月17日(木)00時50分52秒

>筆綾丸さん
なるほど鰤起こしですか。
検索するといろいろ出てきますね。

--------------
冬の雷には特異なものがあります。突然、電光が走り大きな雷鳴が轟き、それも「一発」で終わるのです。気象の専門家はこれを「一発雷」と呼びます。
http://www.argos-net.co.jp/snow/snow0101.htm

季語にもなっているんですね。

--------------
黒曜の鏃煌々鰤起こし
http://www7b.biglobe.ne.jp/~utuwasaijiki/07-topic/topic-01/t-005.html

ブチブチ文句は言いつつも、北陸は食べるものはおいしいなあ、と思います。
↓の写真はなかなかいいですね。

http://blog.eihokaku.net/?eid=143050
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冬の稲妻

2009-12-16 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月16日(水)00時50分27秒

昨日は霙から雪になり、少し積もりました。
私は新品の冬タイヤを試すため、仕事を終えてから雪の中を2時間ほど車で走り廻っていましたが、途中で視界が悪くて標識を見落としたためか、河川敷の堤防工事現場に迷い込んでしまい、かなりあせりました。
今日は一日中冷たい雨でしたが、午後、何の前触れもなく大きな落雷があり、その時の振動は一瞬地震かと思うほどでした。
かといって落雷が連続する訳でもなく、たった一回だけで終わってしまい、何だか妙な感じでした。
夜になると、前日の苦労に懲りることなく、山間部を中心に3時間ほどドライブしてきました。
移動手段の点では、ここ数日の練習で何とかこの冬を乗り切れるかな、という感じもしてきましたが、ま、雪国の生活は本当に大変ですね。

>Aki さん
>うちの父も同世代
この掲示板では詳しくは書きませんでしたが、私の父とAki さんのお父さんは同じ旧制中学の同級生ですからね。
Aki さんから送って頂いた昔の集合写真には、父も本当に感謝していました。
お互い一度も直接の面識はないのに、それぞれの父親の13歳のときの顔を知っているというのも不思議な関係ですね。

>「クリスチャンが共産主義に入れ込むはずがない」
以前、網野善彦氏の父系について調べていたときにも感じましたが、実際には戦前の日本において、キリスト教と社会主義・共産主義はかなり親和性があったのではないかと思います。
キリスト教と共産主義の関係という観点からは、中沢新一氏の家系も興味深いですね。

>筆綾丸さん
私としては、松下禅尼の逸話は為家の裕福さを比較検討するための材料にはならないのではないかと思います。
宝治合戦を主導した安達家の軍事力とそれを支えた財力は大変なものであって、無理やり現代に引き直せば多数の従業員を抱える巨大企業のようなものであるのに対し、藤原為家の財力はあくまで芸能人などの高額所得者レベルではないか、と思います。
後でまた書きます。
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雪が降る前に・・・

2009-12-14 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月14日(月)00時01分39秒

>Akiさん
前回の投稿はAkiさん向けに書いたので、レスをいただけてありがたいです。
雪道になる前に車の運転に慣れておかないと命にかかわるので、昨日は練習を兼ねて越後一宮の弥彦神社に参詣し、今日も上越市の浄興寺まで行ってから海岸線を北上し、直江津・柿崎・柏崎・刈羽(原子力発電所)・出雲崎をぐるっと廻ってきました。
いったん自宅で食事してから、今度は夜間走行の練習で近所の山道を走っていたら道に迷ってしまい、先ほど帰宅したところです。
感想も書きたいのですが、少し疲れましたので、また後で。

歓喜踊躍山浄興寺
http://www.johkohji.com/ayumi/index.html
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隠し題

2009-12-12 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月12日(土)11時51分19秒

『日本国語大辞典』のサイトに丁寧な解説がありますね。

-------------
第三の勅撰和歌集である『拾遺集』にも「物名」の部立があります。その中の荒船の御社

  茎も葉もみな緑なる深芹は
   洗ふ根のみや白く見ゆらむ(三八四。藤原輔相)
  茎も葉もみな緑である根が深い芹は洗う根だけが白く見えているのだろうか。

を、鎌倉時代の順徳天皇の歌論『八雲御抄』(一)では、五文字以下はやさしいが、これは
「あらふねのみやしろ」という九字がよく隠れていると賞賛しています。

http://www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb04_01.html

「あかりしやうじ」は7文字で難しいので、現代風に少しアレンジして「ガラス窓」の題で作ってみようと思ったのですが、なかなか難しいですね。

 いにしへの熊野御堂の八咫烏
  惑ふ衆生のしるべなりけり

ま、鎌倉の武家歌人レベルですかね。
『源氏物語』を下敷きにしていろいろ考えてみましたが、私の才能では無理ですね。

 どちらから須磨と明石にお越しかと
  蛸や平目が清盛に聞く

和歌ではなく、狂歌になってしまいます。
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あかり障子

2009-12-12 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月12日(土)11時18分49秒

田渕句美子氏の『阿仏尼』、入手して少し読んでみました。
参考文献に井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)が載っていますが、「中世」がついていなければ土木工事の報告書のような、この武骨なタイトルの論文は、意外なことに阿仏尼研究のみならず後深草院二条研究にとっても必読文献です。
このあたりもきちんと押さえているのはさすがです。

68頁の『井蛙抄』の挿話は面白いですね。

-------------
 また、次のようなエピソードが、『井蛙抄』巻六・雑談にある。
  或人物語云、中院禅門と阿仏とゐられたる所へ、為氏まかりて、縁にてこはづくり
  て、あかり障子をあけて入らんとせられけるを、阿仏房、障子の尻を押へて、「あ
  かり障子を隠し題にて一首あそばし候へ。あけ候はん」と申されければ、とりあへ
  ず、
     いにしへのいぬきがかひし雀の子飛びあがりしやうしとみるらん
  と詠まれければ、あけて笑ひて入られけり。たはぶれながら、にくき心にてやあり
  けん。源承法眼の説とてかたりき。
為家と阿仏が嵯峨中院で同居していた時であろうか。為氏が訪れてあかり障子をあけ
て入ろうとした時、阿仏が戯れに、「あかり障子を隠し題にして一首お詠みなさいませ、
そうすれば開けますよ」と言った。隠し題とは、ある事物を、和歌の意味に関係なく、
音節に詠み込むものだが、為氏が即座に、『源氏物語』若紫巻を下敷きにして詠んだ。
犬来(いぬき)という侍女が、飼っていた雀を逃がしてしまい、幼い紫上が悲しんだという場面
をふまえ、「上がりしや憂し」を「あかりしやうじ」と重ねたのである。
 この話は『岷江日楚(みんごうにっそ)』にも引かれている。ここでは為氏の才を示す風流譚として語
られているが、『源氏物語』の内容は、当然彼らの間で共有されていたわけである。
-------------

「あかり障子」と聞いて即座にこんな歌を詠むのですから、トップレベルの歌人たちの教養と技倆はたいしたものですね。

頓阿の『井蛙抄』は随分前にこの掲示板でも話題になりましたが、『岷江日楚』は時代がかなり下るので、私は名前に聞き覚えがある程度でした。
中院通勝の源氏物語注釈書なんですね。

http://www.asahi.com/ad/clients/ryukoku/200805/200805c2.html
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『阿仏尼』

2009-12-10 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月10日(木)22時30分41秒

>筆綾丸さん
今日は長距離ドライブをして少し疲れましたので、早めに寝ます。
田渕句美子氏の『阿仏尼』、早速注文しました。
田渕氏は国文学者ですが、歴史学の論文も丁寧に読んでいる方ですね。

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