続きです。(p59以下)
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二 承久の乱をめぐって
建暦・建保期には後鳥羽院歌壇の活動がしだいに下火になると共に、後鳥羽院は次第に武芸などに力を入れ、討幕へ向けて動き出す。以下、『百錬抄』『皇代暦』『吾妻鏡』『承久記』『承久三年四年日次記』『六代勝事記』『保暦間記』『鎌倉年代記』他により、承久の乱の経緯をごく簡単にたどっておく。
討幕の意を決した後鳥羽院は、承久三年(一二二一)五月十四日、鳥羽城南寺の流鏑馬ぞろえと称して兵を召集し、親幕派筆頭の西園寺公経・実氏父子を監禁し、全国に北条義時追討の院宣を下した。十九日、この報をうけた幕府は直ちに出撃を決定、二十二日には、北条時房・泰時、名越(北条)朝時、三浦義村らの率いる計十九万の大軍が、三方から京都に進発した。京方の院側も、六月三日、美濃・尾張国に軍勢を発向させ、五日、本格的な合戦となった。しかし京方の軍は、『吾妻鏡』六月六日条によれば、「官軍不及発矢敗走」という状態であり、殆ど戦いらしい戦いもせずに敗走した。十二日、院は宇治・勢多を守るため軍を発したが、十四日、宇治の戦いも大敗に終わった。十五日、後鳥羽院は義時追討の院宣を撤回し、今度の乱が、自らの意志によるものでなく、謀臣の言に従ったまでであると弁明、十九日には京方残党追捕の院宣を下した。鎌倉方によって、京方の残党狩りが続けられ、公卿や武士達は、或いは斬られ、或いは自害した。後鳥羽院は出家、隠岐へ、順徳院は佐渡へ配流され、土御門院は土佐へ遷御、仲恭天皇に代わって後堀河天皇が即位して、朝廷はさまざまな政治的実権を失うに至った。
この乱を通じて、秀能の兄秀康は、『尊卑分脈』に、
承久三年兵乱時、院御方総大将、初度向美乃国豆戸、追手大将軍也
とある通り、総大将として出陣している。六月二日、秀康は東海道の大将軍として要所の摩免戸(豆戸)へ向ったが、六日敗走した(『吾妻鏡』『承久記』)。同八日、秀康は負傷して帰京し、十四日には宇治で戦ったが、又しても敗走した(『承久記』)。十九日には院から秀康追捕の院宣が下され、知行を没収された(『吾妻鏡』)。秀康は奈良に逃れ、九月二十五日、北条時房は奈良に兵を派遣するが、奈良の僧徒が蜂起しこれに抗した。しかし十月七日、遂に河内で捕らえられ、処刑された(『皇代暦』『承久三年四年日次記』『河内志』。ただし『尊卑分脈』等では自害になっている)。また、秀能の弟秀澄も、各史料にその名が見え、前掲の諸史料により承久三年六月二日東海道の大将軍として発向したこと、秀康と共に奈良に逃れるが、やはり河内で捕えられ処刑された経緯を知ることができる。更に、秀能の猶子能茂も、同様に東海道を守るため将軍の一人として出陣したこと(『承久記』)、七月六日、院の鳥羽殿遷御に供奉し、院の望みにより召されて対面し、出家して西蓮と名を変え、隠岐へ随行したことが知られる。なお能茂については第四章第一節、及び第五章でも述べる。
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いったん、ここで切ります。
田渕氏は『承久記』が流布本なのか慈光寺本なのかを明確にされていませんが、ごちゃまぜのようですね。
例えば「秀能の猶子能茂も、同様に東海道を守るため将軍の一人として出陣したこと(『承久記』)」とありますが、これは慈光寺本に拠っていて、流布本では能茂は北陸道へ向かっています。
ちょっと分からないのは「同八日、秀康は負傷して帰京し、十四日には宇治で戦ったが、又しても敗走した(『承久記』)」とある点で、慈光寺本にも流布本にも秀康が負傷した旨の記事はありません。
慈光寺本にはそもそも宇治川合戦が存在しないので、「十四日には宇治で戦った」は流布本ですが。
流布本と慈光寺本で秀康の描かれ方はかなり異なっていて、流布本では「総大将」という感じではなく、他の多くの武将とともに後鳥羽院に個別に指示を受けて対応しているだけです。
他方、平岡豊氏の言われるように「慈光寺本『承久記』は院宣を与えられる相手として秀康を何度も登場させ」ており、他の武将とは明らかに扱いが異なっていて、こちらは「総大将」的な感じはします。
この点、後で詳しく比較してみるつもりです。
平岡豊氏「藤原秀康について」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce47efa1716a05ac0bda76c0b98d7a72
さて、肝心の秀能はどうなのか。(p81)
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しかしながら、『尊卑分脈』に、「承久三年兵乱之時、追手大将也」と記されている秀能の参戦は、『尊卑分脈』以外の史料には見えない。又、『系図纂要』に、秀康・秀澄の項にはそれぞれ、承久の乱に参戦し自害・討死したことが記されているが、秀能の項には、「承久三年於熊野出家如願」と書かれているのみであり、参戦したことは記されていない。秀能の一族では、秀康・秀澄をはじめ秀康の子秀信、また秀能自身の子秀範、従兄弟宗綱等多くが承久の乱時に戦死あるいは刑死している。しかし秀能は、乱後熊野に逃れて出家しているのである(『尊卑分脈』『系図纂要』『如願法師集』)。
これまでは秀能の伝として『尊卑分脈』中の「承久三年兵乱之時、追手大将也」という一文がそのままに信じられてきた。しかしこの他に全く乱における秀能の役割を伝える史料がないため、山木幸一氏は、「露の身のいのちはかぎりありければきえぬといひてとしもへにけり」(『如願法師集』二四六)の解釈から、一時期死んだと称して身を隠していたかと推定した。
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うーむ。
「山木幸一氏」に付された注(6)には、
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(6)「藤原秀能の生活と表現」(『東洋女子短期大学紀要』第一一号、昭和五四・三)→『西行和歌の形成と受容』(昭和六二、明治書院)
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とあり、私は山木論文は未読ですが、「露の身のいのちはかぎりありければきえぬといひてとしもへにけり」という歌から「一時期死んだと称して身を隠していたかと推定」するのはあんまりではないかと思います。
この後、秀能は参戦していないとする田渕氏の見解が丁寧に書かれていますが、少し長くなったので、次の投稿で紹介します。
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