学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

ダブルキャスト

2015-03-30 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月30日(月)10時03分15秒

私も一応「ダブルキャスト」という言葉だけは知っていたものの、アラムニーの公演形態について、この言葉を使ってよいのかな、と疑問を抱いていたのですが、「モーツァルト!」の編曲・演奏を担当された菊地友夏氏のブログを見たら、普通に「ダブルキャスト」とありますね。


公演には私並みの頻度で来ていた中高生ファンもたくさんいて、開演前にその子達の会話を聞くともなく聞いていると「○○さんは裏では△△を演じている」といった言い方をしていましたが、「表」「裏」というのが演劇通の表現なんですかね。

>筆綾丸さん
昭和天皇御製は「うつりならむ」では語調が整わないなと思って検索してみたら、正しくは「うつりしならむ」みたいですね。

「皇室なごみエピソード集」

私は半藤氏が保守反動の論客と思われていた頃の著作はある程度読んでいるのですが、氏が『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』(岩波ブックレット、2005)の共著者になって以降、少し莫迦にして遠くから眺めていました。
ちょうどよい機会ですから、『「昭和天皇実録」の謎を解く』は読んでみようと思います。


>革命派の配役が異質
これは確かにそうですね。
革命との関係は史実とはずいぶん離れていますが、アラムニーの脚本家が独自色を出している部分ではないようです。
映画『アマデウス』はモーツァルトを演じたトム・ハルスの熱演が記憶に残りますが、トム・ハルスの経歴を見ると、『アマデウス』以降はあまりパッとしない感じですね。
あの役の印象が強烈すぎて、映画制作者側からは使いづらい俳優になってしまったんですかね。

Tom Hulce

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

死すべき王妃へのレクイエム 2015/03/29(日) 15:09:25
小太郎さん
前回引用の半藤氏の発言に対して、対談者の保阪氏は以下のように応じていて、神の末裔で大祭司としての「大天皇」という三番目の顔には関心を示していません。天皇と言えば充分で、「大天皇」というような余計な概念は要らない、と思われているのかもしれませんね。
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保阪 天皇と大元帥の二重性というのは、昭和史を考える上での要のひとつですね。ある局面で昭和天皇が立憲君主として発言しているか、大元帥として発言しているかで、まったく違う「顔」が見えることがあるからです。『実録』を読む際には、そこを見極めなくてはなりません。しかし現実には、そう簡単には読みと取れませんけれど。(102頁)
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http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ootu2.html
以下の発言を読んで、天皇に辞世の歌と言ってよいのか、わかりませんが、また悲劇の皇子と比較しては失礼ですが、
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
という歌を、なんとなく思い浮かべました。
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保阪 勝手なことを言えば、御製集『おほうなばら』に入っている、天皇最後の御製を、『実録』の最後の一行にしたらよかったのではないかと思うんです。

あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりならむ

昭和六十三年、那須御用邸の庭に、キツツキの一種のあかげらが来ていたのを詠んだ歌です。あかげらが、木をつついては次の木へ移っていくのを遠くでおぼろげに聞く。それは代替わりを予兆しているように思えるんですね。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E5%AE%A3%E8%A8%80
『アマデウス』という優れた映画がありましたが、キャストを較べると、革命派の配役が異質で、ピルニッツ宣言などを踏まえたものでしょうか。
死の前後が逆になりますが、絶筆『レクイエム』はマリー・アントワネットに前もって捧げた鎮魂曲だったのかもしれないですね。
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ミュージカル劇団アラムニー(その3)

2015-03-28 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月28日(土)12時32分29秒

2005年の上毛新聞記事、というか武正菊夫氏の寄稿の中で、「かつて競い合い、啓発し合った者同士」という表現には特に興味を惹かれました。
というのは、劇団アラムニーの公演形態の中にも「競い合い、啓発し合」うシステムが組み込まれているような感じがするからです。
劇団アラムニーは「マエストーソ組」と「ブリランテ組」の二つに分かれていて、それぞれが3会場で1公演ずつ、合計6回公演するのですが、「マエストーソ組」と「ブリランテ組」は宝塚のように完全に独立していているのではなく、メンバーが重なりあっているのが特徴です。
「モーツァルト!」のパンフレットから、主要な出演者16人の役名と人物紹介をそのまま抜書きすると、

-------
ヴォルフガング・・・光に魅入られた神の申し子
レオポルト・・・ヴォルフガングの父で作曲家
ナンネール・・・ヴォルフガングにすべてを委ねる姉

コンスタンツェ・・・ヴォルフガングの妻となる奔放な娘

フリードリン・・・したたかに生きるウェーバー家の父
セシリア・・・フリードリンの妻で人生の達人
ヨゼファ・・・家族に寄り添うウェーバー家の長女
アロイズィア・・・ウェーバー家の次女で劇団のプリマ

アルコ伯爵・・・音楽に精通する教会派の貴族
サリエリ・・・ウィーン宮廷の主席作曲家

シカネーダ・・・前衛劇団の主宰者で劇作家
ホーファー・・・シカネーダーを愛する知的な女優
フランツ・・・革命派のオルグで進歩的な男優
バルバラ・・・フランツを補佐する革命派のオルグ
ヨハン・・・喜劇が専門でノリのいい役者
ベネディクト・・・音感に優れた形態喜劇の役者
-------

となっています。
モーツァルトの妻、コンスタンツェはウェーバー家の三女ですね。
さて、「マエストーソ組」と「ブリランテ組」の両方で同じ役を演じているのは一人(ホーファー役)だけで、8人が「マエストーソ組」と「ブリランテ組」で別々の役を演じています。
例えば「マエストーソ組」でシカネーダーを演じている人が「ブリランテ組」ではフリードリンを、「マエストーソ組」でヨゼファを演じている人が「ブリランテ組」ではナンネールを演じているといった具合で、対応関係に特に規則性はありません。
主役のヴォルフガングを含め、引き算して一組あたり7人は別の組には(名前のついた役としては)出ないことになりますね。
16人中、9人が重複しているというのは絶妙のバランスで、「ブリランテ組」と「マエストーソ組」では全体として明らかに個性の違いが現われますが、興味深いのは二つの役を演じることが各々の役者に与える効果です。
ひとつの舞台を違う役で演じるということは、全体の中で自分をどのように位置づけるかの認識を豊かにし、個々の役の解釈にも深みを与えることになりそうです。
また、自分と同じ役を演じる人との間には当然に「競い合」う関係が生まれるはずですが、単純なライバルではなく、解釈の違いをどう演技に反映させるかについて「啓発し合」う関係になりそうですね。

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ミュージカル劇団アラムニー(その2)

2015-03-28 | 映画・演劇・美術・音楽

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月28日(土)11時16分4秒

2月22日に群馬県を中心に活動するミュージカル劇団アラムニーの藤岡公演に行ったことを書きましたが、その後、伊勢崎公演と安中公演にも行ってみました。

前回投稿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/09129e61868f42b213826f350c4dd828

3回も行ったのかと言われそうですが、先週土日に行われた安中公演は21日(土)に前半だけ観て、どうしてもはずせない用事のために泣く泣く中途退出し、22日(日)の千秋楽にまた行ったので、正確には全6回中の3回半です。
内容はモーツァルトの死に至る事情を史実を巧みに組み込んで演劇的に再構成したもので、音楽史の素養に乏しい私は一度目の観劇では全体をきちんと把握できず、モーツァルトについて少し勉強して臨んだ二度目で、ああ、なるほど、と納得し、千秋楽では二度目に若干冗長に思えた部分がやはり必要だったことを理解して、実に巧みに練り上げられた脚本だなと感心しました。
もちろん演技も素晴らしくて、特に千秋楽は完璧としか言いようがありませんでした。
見終わって数日間、時々頭の中に「僕こそ音楽」「影を逃れて」「プリンスは出て行った」「ダンスはやめられない」といった歌が響いていたのですが、ほどよく頭も冷え、いつもの分析癖がムクムクと湧いてきたので、少し検討してみたいと思います。
といっても、「モーツァルト!」そのものより、アマチュアとしては尋常ではなく高いレベルの作品が生まれる構造が私の関心の対象です。
まず、前回投稿の時点では私には群馬県の音楽事情がよく分かっていなかったのですが、やはり劇団参加者の入団時のレベルがもともとかなり高いようですね。
アラムニー参加者は太田女子高と前橋女子高の音楽部出身者が中心だそうで、両校とも高校野球で言えば甲子園出場の常連高みたいなものかもしれません。
例えば太田女子高については、こんな記事(読売新聞)がありました。

-------
音楽部がミュージカルも

 太田女子高音楽部は年1回の定期演奏会で、合唱だけではなくミュージカルを上演するユニークな発表活動を25年間続けている。
 顧問の森尻彩教諭(28)によると、ミュージカルを初めて上演したのは1989年。前年の文化祭で、部員から「オペレッタ(小歌劇)をやりたい」という声が上がり、上演したのがきっかけだった。
 初回から外部講師に演出を依頼し、オリジナル脚本で上演してきた。今年6月の定期演奏会では「努力しないで出世する方法」の題名でも知られる1961年ブロードウェー初演の「ハウ・トゥー・サクシード」を原作に上演し、観客から「感動した」と好評を得た。

http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004076/20131115-OYT8T00057.html

次に、これも当たり前といえば当たり前の理由ですが、優れた指導者が存在しているんですね。
「モーツァルト!」演出・脚本の武正菊夫氏の名前で検索すると、2005年の群馬県の地元紙、上毛新聞の次の記事が出てきます。

--------
 県内に数ある劇団の中で、ただひとつミュージカル専門の劇団とうたっているのには訳がある。彼女たちは前橋女子高校と太田女子高校音楽部のOGであり、高校生時代に本格的なブロードウェー作品を作り上げたメンバーなのだ。(中略)
 三年間、朝練・昼練・夕練をこなし、学業と部活を両立させた彼女たちは、高校生としての制約の中で自己表現と舞台づくりのノウハウを学び、大きく成長した。(中略)
 高揚した気持ちを受験勉強に置き換えた彼女たちは大学生になり、自由な気風の中で劇団を立ち上げ、アラムニー(卒業した女の子たち)と名付けた。
 かつて競い合い、啓発し合った者同士が一歩大人に近付き、声楽やバレエを本格的に学ぶ中でより本格的なミュージカル作りを進めている。

http://www.raijin.com/news/kikaku/opinion2005/opinion20050220.htm

この記事の時点では武正菊夫氏が「外部講師」として直接、太田女子高・前橋女子高音楽部を指導していたようですね。
10年経っているので、その後、事情は多少変わっているのかもしれませんが、「演出家を志し英国へ留学、ピーター・チーズマンに師事。帰国後、劇団「円」を創設。芸術大学講師」という経歴を持つ武正菊夫氏の存在は大きいのでしょうね。

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「勝俣鎮夫先生に」(by 山内昌之氏)

2015-03-27 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月27日(金)21時57分16秒

山内昌之氏にとってソ連崩壊を挟んで出したスルタンガリエフ二部作は特に感慨の深い著作のようで、『イスラムとロシア その後のスルタンガリエフ』(1995)の「あとがき」には次の記述があります。

-------
 これまでに出したいくつかの本のなかでも、私にとってひときわ思い出に残る書物は、『スルタンガリエフの夢』(一九八六年)ということになろうか。現在では東京大学出版会の常務理事となられた渡辺勲氏と、氏など「現代歴史学研究会」のメンバーとの合宿を含めた共同作業も忘れがたい思い出である。ところで、史料が皆無に等しい無名の人物の足跡をたどって、それを歴史の暗がりから引き出す作業は、私が育ったイスラム史研究の厳しい実証感覚からすれば、かなりのためらいを感じさせたのも事実である。
 私は、ソ連でイスラムと民族問題が大きな意味を持つことをそれなりに予見していたが、ソ連がまるごと消滅するとは思いもよらないことであった。『スルタンガリエフの夢』を書くために、イギリスやフランスなど内外の文書館と研究図書館を探っても、史料の点では満足のいく成果が得られなかったのも、今となっては懐かしい。モスクワのレーニン図書館からは、複写や貸出を依頼するごとに、閲覧禁止文献だという返事をもらったのも嘘のような気がしてくる。(後略)
---------

よく分からないのは『イスラムとロシア その後のスルタンガリエフ』の巻頭に「勝俣鎮夫先生に」とあることで、なぜこの本が日本中世史の勝俣鎮夫氏に献呈されているのか。
1995年当時、勝俣鎮夫氏と山内昌之氏は東大教養学部の同僚ですから一応の接点はありますが、少なくとも同書の内容はおよそ勝俣鎮夫氏の専門とは関係がないので、ちょっと不思議ですね。

>筆綾丸さん
半藤一利氏は『中央公論』2010年8月号の加藤陽子氏との対談でも、

-------
そして終戦の時の昭和天皇は、「天皇陛下」よりも、「大元帥陛下」よりもさらに上を行く、「大天皇陛下」として、講和の大権を行使するわけです。まああくまで私の仮説ですが。


と言われていて、最近のお気に入りの理論のようですね。
ただ、「大元帥陛下と天皇陛下の上に、神の末裔としての大天皇陛下がいて、大元帥はその家来なのだ」というのは、特異な状況の中で大井篤という迫力のある人物が力強く言い切ったから何となく説得力があっただけかもしれず、理論的にはすっきりした説明とは言い難いですね。

>柴勝男という軍務局の大佐
「ミズーリ」での降伏文書調印式には、随員としてちゃっかり参加しているそうですね。


※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

天皇の情報源 2015/03/25(水) 21:11:16
小太郎さん
ご丁寧にありがとうございます。

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610099
『「昭和天皇実録」の謎を解く』を面白く読みました。
昭和十六年十二月十二日の閣議決定事項に、「給与、刑法の適用等に関する平時、戦時の分界時期は昭平時、戦時の分界時期和十六年十二月八日午前一時三十分とすることが等が定められる」(197頁)とあり、一部の法の適用に平時、戦時の分界時期を設定するということを初めて知りました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
なぜ午前一時三十分なのか、とウィキをみると、「12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進」とあり、一番機の発艦時間なのか、全機の発艦が済んだ時間なのか、不明ですが、これに合わせてあるのですね。

http://kenpouq.exblog.jp/23267144/
岩田行雄氏が何者か、知りませんが、このクイズは半分くらいしか解答できません。

戦中も戦後も、天皇の重要な情報源は米国の短波放送だった、という話は初めて知りましたが、次のような発言を読むと、情けなくなりますね。
--------------
 保阪 後に御用掛の寺崎英成が当時のことを振り返って、「陛下は米国の短波で日本軍の所在を知る状態」と日記に書いていますが、(『昭和天皇実録』の記述により)それが裏付けられた格好ですね。陸海軍は天皇に本当のことを報告しないから、アメリカの放送を頼りにしていた。大日本帝国の内実は形骸化していた。じつに皮肉というか、ひどい話です。
 御厨 「情報、天皇に達せず」とはよく言われますが、「短波放送、天皇に達す」という状態だったわけですね。(255頁)
--------------

天皇のペルソナ 2015/03/27(金) 18:50:40
「「昭和天皇実録」の謎を解く」で、半藤氏は次のように述べられていますが、一部の軍のエリートは実に興味深い思想の持主だったのですね。
---------------
半藤 実は私は、昭和天皇には三つの顔がある、と考えているんです。ひとつは「立憲君主」としての天皇、もうひとつは陸海軍を統帥する「大元帥」。そして両者の上位にさらに、皇祖皇宗に連なる大祭司であり神の裔である「大天皇」がおわす、というのが私の仮説です。この天皇と大元帥は、一身でありながら、時に重大な相剋や齟齬を生じさせ、それに大天皇である昭和天皇は深く悩まれたのではないかと思うのです。
 実は、この神の末裔である「大天皇」という考えは、海軍の参謀だった大井篤さんの話にヒントを得ているんです。
 終戦時、陸海軍の軍人のなかで、「俺たちは大元帥陛下の家来であって、天皇の家来じゃない」と言って、天皇の玉音放送による終戦を認めない人たちがいた。放送が終わったあと、大井さんが麾下の護衛艦隊の全部隊に「抵抗すべからず。戦争は終わった」という指令を出したところ、東京の海軍省にいた柴勝男という軍務局の大佐が、「すぐに指令を撤回せよ。まだ俺たちは負けていない」という。「天皇陛下は詔勅を出されたではないか」と大井さんが返すと、「我々の上には大元帥がいる。大元帥の命令は出ていない」と、柴大佐はなおも頑張る。それに対して、大井さんはこう反論したというのです。
「大元帥陛下と天皇陛下の上に、神の末裔としての大天皇陛下がいて、大元帥はその家来なのだ。大天皇が戦争をやめると言ったんだから、俺たちはその命令を聞かなくてはならない」と。
 柴のように考えていた軍人が多かった証拠に、『実録』の昭和二十年八月十六日には、まだ外地にいる軍にポツダム宣言受諾を知らせるため、宮様方を派遣したことが出てきます。この十六日、大元帥としての「大陸令」「大海令」が陸海軍に改めて出されるんです。(100頁~)
---------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E7%AF%A4
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祗園社+渡守(わたす)社=沼名前(ぬなくま)神社

2015-03-25 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月25日(水)20時44分49秒

>筆綾丸さん
『日本歴史地名大系 広島県の地名』(平凡社、1982)を見てみましたが、全体的にあっさりした書き方で、明治維新前後についても、

-------
 なお祗園社境内に渡守神社が鎮座していたため、明治四年に沼名前神社の社名を復活する際、渡守社と祗園社いずれを沼名前神社とすべきか議論が起こり、いちおう祗園社をもって沼名前神社と定めたが、明治八年になって渡守社を沼名前神社と認めることになり、両社の併合のうえ沼名前神社が成立した(福山市史)。
-------

といった簡単な記述しかありません。
京都の八坂神社や愛知の津島神社の場合、社僧が還俗して神官になったり、境内の仏教的建築物を破却するなど大騒動になっていますが、沼名前神社の場合はそれほどでもなかったんですかね。
ま、『福山市史』すら確認していない段階で適当なことを言っても仕方ありませんが。

>スルタンガリエフ
私もスルタンガリエフの名前はもちろん、「ムスリム民族共産主義」という思想の存在すら知りませんでした。
ウィキペディアの記述はしっかりしていますが、参考文献からも明らかなように山内昌之氏の著書の受け売りですね。
ロシア革命もイスラムの観点から眺めるのは新鮮で勉強になりますが、ヨーロッパ中世の装飾写本とか、やりたいテーマがいろいろあって、今のところはちょっと手が出せないですねー。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

イプセン作「王の棺」 2015/03/23(月) 21:57:44
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
恥かしながら、スルタンガリエフはもちろん、バシコルトスタン共和国という名前すら知りませんでした。

そうか、廃仏毀釈の影響も考えられるのですね。

http://kdskenkyu.saloon.jp/tale23mur.htm
後深草院二条の言うように、鞆の津は室の津と並び、歴史上、遊女で有名ですね。

http://www.bbc.com/news/uk-england-leicestershire-31990721
リチャード三世のオーク製の新しい柩は王の子孫であるカナダ人の大工マイケル・イプセン(イブスン?)氏が作ったとのことですが(……descendants of Richard III's family, including Michael Ibsen who built the coffin……)、イプセンさん、稀有の仕事には感無量だったでしょうね。
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タタールでござーる。

2015-03-23 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月23日(月)20時57分46秒

にわか勉強でタタールについて調べ始めたところ、山内昌之氏の『スルタンガリエフの夢』(東大出版会、1986)と『イスラムとロシア その後のスルタンガリエフ』(東大出版会、1995)に出会い、ムスリム民族共産主義者でスターリンの粛清の犠牲者となったスルタンガリエフ(1882-1940)に興味を惹かれたのですが、深入りすべきかどうか、ちょっと思案しているところです。

ミールサイト・スルタンガリエフ

>筆綾丸さん
鞆の浦は後深草院二条ゆかりの地なので、私も前々から行きたいと思っているのですが、なかなか機会がありません。
検索したら玉井幸助校訂の岩波文庫版『問はず語り』を翻刻しているサイトがありました。

「問はず語り 巻五 須磨・明石・鞆の津」

>宮司を辞めた事情
沼名前神社は元はスサノオノミコトを祭る祗園社だそうですから、個人の不祥事以外に廃仏毀釈による混乱の影響の可能性もありそうですね。

>「森下氏の義歯」
シュールですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

崖の上のポニョ 2015/03/22(日) 18:38:12
小太郎さん
http://tomo-gionsan.com/
http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/otake/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86%E3%81%AE%E6%B5%A6
森下博のウィキに、「備後国沼隈郡鞆町(現広島県福山市鞆町)に沼名前神社の宮司の長男として生まれる。しかし父は宮司を辞め煙草の製造販売に転業」とありますが、父は沼名前神社で何か問題を起こしたのでしょうね。宮司を辞めた事情が知りたいところです。
数年前、鞆の浦を訪ねた時、この沼名前神社で結婚式の一団に出会い、また、保命酒と七卿落で有名という太田家を見学しました。
朝鮮通信使の迎賓館となった福禅寺から、この辺がいわゆる「鞆幕府」とかいう奴だな、と穏やかな瀬戸内を眺めましたが、現在では、『崖の上のポニョ』で有名という話でした。仁丹氏が鞆の浦の出身とは、知りませんでした。
ご引用の特別展に「森下氏の義歯」がありますが、なぜこんなものを展示するのか、よくわかりません。これも「民俗資料」ということですかね。
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「鞆の大恩人森下博 : 広告王仁丹の生涯」

2015-03-22 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月22日(日)10時16分54秒

>筆綾丸さん
イブラヒムは1857年、森下博は1869年生まれなのでイブラヒムが12歳年上であり、二人が出会った1909年の時点ではイブラヒムが52歳、森下博が40歳ですね。
森下博が駆使した独創的な宣伝手法とそれに投下した莫大な資金量を見ると、森下にとって広告は自社の商品を宣伝するための手段ではなく、広告による大衆操作自体が目的で、商品はそのための手段のような感じもしてきます。
明治ニッポンが生み出した大衆操作・情報操作の天才かもしれないですね。
国会図書館サイトで検索したところ、福山市鞆の浦歴史民俗資料館編『鞆の大恩人森下博:広告王仁丹の生涯』(2014)という展覧会図録があるそうで、まあ、これ自体は郷土の偉人顕彰が目的でしょうが、参考文献を見れば面白い論文がひっかかりそうな予感がします。

福山市鞆の浦歴史民俗資料館

森下博がイブラヒムに自分の経歴を偽った理由は何だったのか。
大阪までの退屈な移動時間をもてあまして奇妙な外国人相手に与太話を楽しんだだけなのか、それとも丁稚奉公で出発する以外なかった自分の人生を振り返り、別の人生があったかもしれないとロマンチックな空想に耽っていたのか。
ま、それは分かりませんが、40歳の森下博は少壮事業家として油の乗り切っていた時期ですから、単なる好奇心や気晴らしで容貌魁偉なイブラヒムに近づいたのではなく、こいつは何か宣伝に使えないかな、という下心はたぶんあったのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

梵音響流 2015/03/21(土) 12:17:56
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E4%B8%8B%E5%8D%9A
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商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り・・・
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大阪朝日新聞(明治38年7月21日)の広告をみると、そうか、花柳病のビスマルクは毒滅で治癒して名宰相になれたのか、と錯覚してしまいます(宣伝文句をどう読んでも、なぜビスマルクなのか、残念ながら、よくわからない。最近流行のラッスンゴレライのようなものか)。
現在であれば、名誉棄損で訴えられるかもしれず、また、疑わしい薬効は不当景品類及び不当表示防止法違反になるような気がしますね。
ルーデサックは roedezak という阿蘭陀語らしく、緒方洪庵先生の蘭学塾に於ける有難い梵音響流(ぼんのんこおる)のよう趣がありますね。そういえば、何の関係もありませんが、ゲイ=リュサックの法則というのがありますね。
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「仁丹氏」の謎(その2)

2015-03-19 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月19日(木)22時14分0秒

ということで、これで終わっていたらイブラヒムの出合った「仁丹氏」は森下仁丹創業者の森下博を騙った別人ではないかという感じがしますが、続きがあります。

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 その後は話題を変えた。彼は大阪まで素晴らしい道連れになってくれた。
 仁丹さんはかつて兵役を務めたとき海軍将校であったという。広告がすべて提督の姿をしているのはそのためである。日露戦争のときには要塞の防衛につき、その一方では志願して負傷者の手当にもあたったという。
 翌日の朝、大阪に着いた。そこから近くの京都や奈良を見物に出かけ、夕方大阪に戻ると、車中で仲良くなった仁丹さんの家を訪ねた。その晩は彼の家に泊まることになった。住まいはすべてヨーロッパ風で、食事なども完璧であった。偶然の出会いからではあったが、彼とはすっかり懇意になってしまった。
さらに変わったことに、夜の一〇時になると主人はこう言った。
 「寝台の支度はできています。この家は夜になると誰もいなくなりますから、ご用がありましたらこのベルを鳴らしてください。召使いが来ます。どうぞお休みください」。
 「それでは、あなたはどこへ行かれるのです」。
 「私どもの家は向こうにありましてね。ここはお客様用なのです。電灯はよろしければ消してください。つけたままでも構いませんよ。では、おやすみなさい」。
 私は広壮な邸宅にたった一人取り残されることになった。仁丹さんとその家族は小さな住まいで暮らしているのである。翌日の早朝、大阪を発ち、鉄道でまっすぐ下関に向った。
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「森下仁丹歴史博物館」サイトで日露戦争が始まる前の時期を見ると、

-------
思うに委せぬまま苦しんだ森下南陽堂の救世主となったのが、1900年(明治33年)2月11日に世に送り出した梅毒新剤「毒滅」である。「毒滅」の処方は笹川三男三医学博士の開発。商標にはドイツの宰相ビスマルクを使用し、森下博は家財の一切を広告費につぎ込んで、日刊紙各紙に全面広告を出し、全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、大々的な宣伝を行った。
http://www.jintan.co.jp/museum/story/index01_02.html

のだそうで、更に、

-------
現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる「赤大粒仁丹」が世に出たのは、日露戦争最大の難所とされた旅順要塞陥落のニュースに日本中が沸き返っていた、1905年(明治38年)2月11日のことであった。「毒滅」の成功で従業員も増え、資金的にも余裕ができた森下南陽堂は、新しい総合保健薬「仁丹」の開発に着手、1902年(明治35年)8月25日には店舗も手狭になった淡路町から東区道修町1丁目(現・中央区)へと移した。
http://www.jintan.co.jp/museum/story/index01_03.html

とのことですから、創業者の森下博が「かつて兵役を務めたとき海軍将校」で、「日露戦争のときには要塞の防衛につき、その一方では志願して負傷者の手当にもあたった」はずはありません。
翻訳者ももちろん「仁丹氏」と森下博の経歴の違いに気づいていて、注(54)において、

-------
(54) 森下は若いときから広告の重要性に気づき、日清戦争で召集され台湾に赴いた時に、救急、清涼の丸薬のアイデアを得たという。イブラヒムは仁丹の広告を「提督の姿」と記しているが、これは大礼服の誤解である。当時森下の本宅は大阪天王寺にあり、その庭園は大阪でも有数のものであったという。なお、イブラハムの記す森下の経歴には誤りが目立つ。
-------

としていますが、「イブラハムの記す森下の経歴には誤りが目立つ」原因は何なのか。
まあ、素直に考えれば、この部分はイブラハムの創作ではなく、森下博が自分の経歴を偽ったことになるんでしょうね。

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「仁丹氏」の謎(その1)

2015-03-19 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月19日(木)21時37分27秒

「訳者解説」において小松久男氏(東大名誉教授)は、「イブラヒムの伝える個別の情報にはさまざまな誤認があり、年月日や数値にもしばしば混乱や誤記が見られる。同時代の日本側資料とつきあわせてみると、その記述には脚色ないし創作と思われる箇所も認められる」けれども、「滞在記としてはおおむね正確であった」「この点ではジャーナリスト・イブラヒムの力量を認めてよいだろう。日本人との会話の多くは通訳を介してのものだったはずだが、彼はその内容をかなり正確に記憶ないし記録していたことがわかる」と評価されています。(p485)
しかし、「仁丹氏」に関しては、森下仁丹創業者の森下博(1869-1943)以外の人間ではありえないのに、イブラヒムが記録する「仁丹氏」の経歴は森下博の経歴と全く違っていますね。
少し長くなりますが、引用してみます。(p446以下)

--------
 本州の南岸に沿って急行列車は走る。今回は一等車である。乗客はあまり多くなく、日本人が七、八人にヨーロッパ人が二人いるだけである。
 一時間ほどすると日本人の一人と知り合いになった。このような長旅で知り合いができなければ、人間退屈してしまうというものである。
 この人物は日本ではたいへん有名な男らしい。しかし、彼の名声に私は合点がいかない。
 日本人は男女を問わず、しばしば口中に丸薬をころがす。これが何でできているのか、私は知らない。しかし、日本人はみなこれを用い、「仁丹」と呼ぶ。この丸薬のおかげで彼は日本全国に知られているのである。彼の名前も仁丹で、この丸薬の考案者だという。これはなんともすばらしい奇遇である。友人がこの丸薬を用いるのはいつも見ていたし、私もまれに口にしたことがあった。それは良い香りのするもので、口を清浄にする。ただし、その作用の良否は知る限りではなかった。
 かくして、偶然にもこの仁丹氏と対面することになったわけである。そこで、彼の発明した丸薬について説明を願うことにした。
 まず本人は代々大阪の人で、東京の医学校を卒業した後アメリカへ渡り、そこで三年間勉学と仕事に励んだという。この丸薬を発明したのは、日本に帰ってからのことである。これには数々の効能があるという。第一の効能は害がないことだというが、最大の効能もまたこれではないかと思う。その第二として、これを常用すれば歯痛にならぬという。それはそうかもしれない。口はいつも清潔に保たれるからである。さらに、それは胃も浄化するらしいが、ともかくいくつもの効能を数え上げた。
 しかし、私の本心は効能を尋ねることではなかった。六六頁で仁丹氏の広告についてふれたと思う。これをあらためて本人に聞いてみた。
 「ずいぶん広告を出しておられると聞いています。聞くところによれば、広告だけで年に三五万円も使われたそうですが、実際のところはどれほどのものなのでしょう」。
 「そうですね、朝鮮や中国の分も入れればそれくらいは使ったかもしれません。入れなくとも、まあ近いところでしょう。今年の広告費はまだ知りません」。
 「朝鮮や中国でも広告を出しているのですか」。
 「中国ではそれほど多く出してはいません。もっぱら天津、北京、上海などの大都市だけです。しかし、朝鮮や満洲ではどんな町にもあります。大きな村でも全部に広告を出しています」。
 考えてみれば奇妙なことである。たかが丸薬のためにいったいいくら使えば気がすむのだろうか。仁丹氏はたいそう博学な人物である。ヨーロッパの全土を回ったという。このような人物がこんな丸薬を商売にするとは、まことにもって不可解なことである。いずれにせよ、広告費の詳細をさらに尋ねる気にはいま一つならなかった。
-------

いったんここで切りますが、「森下仁丹歴史博物館」サイトを見ると、「創業者・森下博は、1869年(明治2年)11月3日、広島県沼隈郡鞆町(現・福山市)で、佐野右衛門・佐和子の長男として生まれた。幼名は茂三」とのことで、そもそも「代々大阪の人」ではなく、また、「東京の医学校を卒業した」ことはなく、「アメリカへ渡り、そこで三年間勉学と仕事に励んだ」こともありません。
「ヨーロッパの全土を回った」こともなさそうで、丁稚奉公の年期明け後、大阪でずっと商売を営んでいただけみたいですね。

森下仁丹歴史博物館「創業者紹介」
http://www.jintan.co.jp/museum/story/index01_01.html
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最後の最後に「仁丹氏」

2015-03-19 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月19日(木)13時13分13秒

>筆綾丸さん
>漢字擁護論
『ジャポンヤ─明治日本探訪記』は原書の翻訳以外に当時の日本側の新聞・雑誌記事や訳者の解説が含まれ、全体で五百ページを超える分量なので、まだ全部は読めていないのですが、漢字擁護論については講演会で聞いた日本人の議論を細かく記録しているだけで、イブラヒムに独自の見解がある訳ではないようですね。
イブラヒムは異常に観察の細かい人で、巣鴨監獄訪問記では囚人の耳の後ろ側まで見ています。(p141)

-------
 それから工場(たいそう大きな作業場)に入った。まさに見習うべきはここであった。非常に長い廊下の両側に部屋が並んでいる。まず、布を織っている部屋にやって来た。戸口から入っていくと、監督が何ごとか怒鳴った。すべての囚人が作業をやめておじぎをした。次に監督が再び怒鳴ると、一斉に作業を再開した。(中略)
 次は傘の工場である。われわれの知っている傘のあらゆる部品が別々の部屋で作られ、五番目の部屋から完成品となって出てくる。いちばん単純な傘からきわめて精巧な婦人物までが生産されていた。私はこの傘工場の鍛冶場に注目した。ここで働く職工たちの清潔さは驚嘆すべきものであった。火夫の耳の後ろまで見たが、汗にまみれていたにもかかわらず垢ひとつなかった。
-------

あちこち歩き回り、政府高官や大学教授から職人・人力車曳きまで、あらゆる階層の人々と話し合い、この巣鴨監獄レベルの観察記録を延々と綴るイブラヒムは非常に面白い人ですが、井筒俊彦の文章から当初イメージしていた宗教家の相貌は殆ど見られず、ちょっと得体の知れない人のような感じもしてきます。
ちなみに「仁丹」については既に紹介した部分だけでも妙に長々と書いていますが、イブラヒムの日本滞在記の最後の最後、「日本を発つ」にあたって、「さて、ここで日本人と日本国に関する私の考察をご披露しておこう」と八ページを費やして細々と書いた更にその後に、東京から大阪へ向かう急行列車の車中で「仁丹氏」と偶然出会い、仲良くなって「仁丹氏」の大阪の邸宅に泊めてもらった、という記事が出てきます。
つまりイブラヒムの長大な日本滞在記は「仁丹氏」に関する何じゃこりゃ的な記事で終わる訳で、読後感に微妙な味わいを醸し出しますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

歌舞伎と鳥居 2015/03/17(火) 17:30:55
小太郎さん
イブラヒムの漢字擁護論というのも妙な感じですが、アジア主義者との交流や東京回教学院の設立といった政治目的絡みなのでしょうね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%96%AA%E3%81%AE%E7%A4%BC
現代の官僚として最も成功した一人である古川貞二郎(元内閣官房副長官)氏の『私の履歴書? 大喪の礼』(日本經濟新聞平成27年3月16日付)に、以下のような記述がありますが、これは「歴史」になるのでしょうね。
------------
会場の新宿御苑で法的性格の全く違う皇室行事の葬場殿の儀と国の儀式である大喪の礼を一体として行う。両者を区別するため二つの儀式の間に幔門を閉じ、改めて開く方式を採用した。歌舞伎からヒントを得た。問題は鳥居を立てるかどうかだった。
内閣法制局が鳥居に反対し、小渕さんが「なぜいけないんだ」と詰問する場面もあった。自民党内の声も大事である。葬場殿の儀では鳥居を立て、幔門が閉じている間に撤去することでこの問題は解決することができた。
------------

また、「元号は的場順三内政審議室長の担当だったが、閣議決定から発表までの段取りは当方の仕事だ」とありますが、複数の元号案がどのような経過で内閣官房に上げられ、どのような議論を経て閣議決定されたのか、というような微妙な機微は公文書にはならず、何年経過しても正式に公表されることはない、というのがこの国の歴史なんでしょうね。そして、歴史家たちの探偵ゴッコが始まる。・・・
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「ジンタンという日本人は、ある丸薬を発明した」(by アブデュルレシト・イブラヒム)

2015-03-16 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月16日(月)21時57分3秒

岩波書店サイトで『イスラーム原典叢書 ジャポンヤ─明治日本探訪記』を見ると、

--------
ロシア出身のムスリムである著者は,ユーラシア大旅行の途次,1909年に日本を訪問した.伊藤博文・大隈重信らとの交流や,学校・協会・監獄から漢字擁護論・「仁丹」広告にいたる様々な見聞の記録は極めてユニークで,イスラーム世界の日本観に大きな影響を与えた.日本側の関連資料を多数併載し,明治日本のイスラーム認識も浮かび上がらせる.

https://www.iwanami.co.jp/book/b257074.html

とあって、この短い広告文の中で「仁丹」が若干浮いているような印象を受けますが、実際に『ジャポンヤ』の該当部分を読むと、岩波の宣伝担当者が「仁丹」に込めた気持ちが何となく伝わってきますね。(p65以下)

--------
 日本は宣伝広告の方面においては、ヨーロッパさえも凌駕する。あらゆる商売が「広告」によって宣伝を行っている。
 すでに横浜にいる時に、広告の多いことには驚かされていたが、横浜から東京までの幹線道路、はたまた汽車や電車の線路の両側に、絶え間なく、さまざまな形で繰り広げられている広告には、すっかり目を奪われたものだった。しかし、今夜、東京の広告を見たとたんに、これまで目にしてきたものなどは消し飛んでしまった。ここではネオンサインの掲げられていない建物は一つも見当たらない。建物の入口や通りの電柱につけられた広告、専用の広告塔、空中につるされた広告など、まさに驚嘆すべきものである。
 ジンタンという日本人は、ある丸薬を発明した。この丸薬は日本ではたいへん有名で、「仁丹」と呼ばれている。この人物は、広告だけで年に三五万円もの金を使うといわれる。これは約四万リラに相当する。東京では、あらゆる通りで、この男の提督姿の広告を見ることができる。そして、いずれも夜になると色とりどりのネオンで一年中光り輝いている。
 この丸薬の効能は、口臭をおさえることにあるようだ。たかが口臭剤の発明者が、広告費だけで年に四万リラも使うのだから、もはや推して知るべしである。この丸薬は、日本でどれだけ消費され、日本国民全体で口をすっきりさせるために、いったいどれだけの金が使われているのだろう。
 日本中で、男女を問わず、ふところに「仁丹」をしのばせていないような人はめったにいない。トルコでタバコがそうであるように、日本では「仁丹」なのである。いつでも誰のふところにも、一包の丸薬がある。
---------

「森下仁丹歴史博物館」
http://www.jintan.co.jp/museum/index.html

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アブデュルレシト・イブラヒム

2015-03-16 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月16日(月)21時18分10秒

>筆綾丸さん
イスラーム思想史より現代の中東国際政治に興味があるのに池内恵から井筒俊彦へ向うのはいささか無理が多かったので、軌道修正して山内昌之氏の著作を読み進めることにしました。

井筒俊彦と司馬遼太郎の対談に登場する謎の老人「アブド・ラシード・イブラーヒーム」は、現在ではアブデュルレシト・イブラヒムと呼ばれるのが一般で、経歴もずいぶん詳しく分かっているんですね。
井筒・司馬対談は初出が『中央公論』の1993年1月号なので、おそらく対談そのものは1992年の秋頃に行ったのでしょうが、1991年にはアブデュルレシト・イブラヒムが初めて日本を訪問した時の記録を翻訳した『ジャポンヤ─イスラム系ロシア人の見た明治日本』(小松香織・小松久男訳、第三書館)も出版されています。
そして、その増補版が『イスラーム原典叢書 ジャポンヤ─明治日本探訪記』として岩波書店から出ており、昨日入手してパラパラ眺めているのですが、なかなか面白いですね。

アブデュルレシト・イブラヒム(1857-1944)
年8月17日

国際シンポジウム「アブデュルレシト・イブラヒムとその時代―トルコと日本の間の中央ユーラシア空間―」

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

藤宮先生の扇子たち 2015/03/14(土) 13:14:09
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%86%8A%E9%87%8E%E8%A9%A3
「妖気漂う折口信夫」は「妖気漂うイブン・アラビー」としても間違いではないような感じがしますね。折口は、一言でいえば、自分はマレビトだ、と信じていた人なんでしょうね。
三島の『三熊野詣』という短編は皮肉で秀抜な折口評になっていますが、三島が井筒を小説にしていたら、どうなっていただろう、と思います。

ご引用の『読むと書く』に、「井筒俊彦はロラン・バルトの読者であり続けた」とありますが、意識零度や存在零度はやはりバルトの借用ですね。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062193948
原武史氏の『皇后考』を読み始めたのですが、プロローグに折口の「女帝考」からの引用があります。まさに折口の文体であって、わずかこれだけの字数で自分を刻印できるというのは、名人芸というほかないですね。(名文とか美文とか良い文とかいうのではないのですが)
---------------
神功皇后の昔には、まだ中天皇に類した名称は出来なかったものであろうと思われる。そうして、実際は、中つ天皇として、威力を発揮遊ばしたのだということが出来る。
皇后とは中つ天皇であり、中つ天皇は皇后であることが、まずひと口には申してよいと思うのである。
---------------

ルイ・マシニョン教授 2015/03/14(土) 18:03:12
---------
・・・西暦十世紀の偉大な神秘家ハッラージ(中略)という人はフランスの故マッシニョン(L.Massignon )教授の研究で一躍有名になった神秘家でありますが・・・(『イスラーム哲学の原像』62頁)
---------
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Massignon
ウィキの解説中の Criticisms of Massignon's focus にある、
-----------
Massignon was sometimes criticized by Muslims for giving too much importance to Muslim figures that are considered somewhat marginal by Islamic mainstream, such as al-Hallaj and for paying too much attention to Sufism, and too little to Islamic legalism.
-----------
という批評などは、池内恵氏の井筒評にとてもよく似ていますね。
なお、井筒の表記では Massignon がマッシニョンですが、イタリア語であれば massi が促音になるものの、フランス語では促音にはならないので、マシニョンが正しい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%BF
http://fr.forvo.com/tag/paris_metro_stations/by-date/page-2/
一例として、Gambetta(ガンベッタ)という表記を、まだときどき見かけますが、イタリア人ならばこれで良いとしても、フランス人なのでガンベタです。パリ市内の Gambetta 駅、Gambetta 広場、Gambetta 通りは、すべて Léon Gambetta へのオマージュです。
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「師と朋友」

2015-03-14 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月14日(土)09時32分25秒

井筒俊彦は父親について熱心に書く一方、母親については全然触れないみたいで、ちょっと不思議ですね。
今のところ福島県出身ということしか分かりません。
井筒と関係の深かった大川周明など、最晩年の自伝『安楽の門』では亡き母を褒め称え、自分の宗教は母親教だ、みたいなことを言っているのと対照的です。

>筆綾丸さん
>折口
『読むと書く-井筒俊彦エッセイ集』(慶応大学出版会、2009)に収録された「師と朋友」を見ると、井筒は論語の「朋アリ遠方ヨリ来ル、マタ楽シカラズヤ」を引用して「朋」を「互いに切磋琢磨しつつ同じ一つの目標に向かって進もうとする仲間」と定義した後、次のように述べていますね。

--------
 学問は自分ひとりでするもの、孤独者の営みでなければならないと私は若い頃から勝手に思いきめていた。(中略)だがそうかといって、特に人付き合いが悪かったわけではない。仲のいい友達は、その時その時で私にもあった。だから、もし「朋」と「友」を区別して考えるなら、私には友はあったが朋はなかった、ということになるだろう。(中略)
 もともと西脇順三郎先生の斬新な詩論にひかれて文学部に移った私だったが、折口先生にだけは少なからず関心があった。さっそく講義に出てみた。伊勢物語の購読。異常な体験だった。古ぼけた昔のテクストが、新しい光に照らされると、こうまで変貌してしまうものなのか。私は目をみはった。が、それよりも、どことなく妖気漂う折口信夫という人間そのものに、私は言い知れぬ魅惑と恐怖とを感じていたのだった。危険だ、と私は思った。この「魔法の輪」の中に曳きずりこまれたら、もう二度と出られなくなってしまうぞ、と。はたして弥三郎は、かつてのイケダ哲学なぞどこへやら、手放しで折口国文学の流れの中に身を投じて行った。そしてそういう彼のまわりを、同じ折口鑽仰者の固い朋構造が、がっしり取りかこんでしまったのである。私にとってそれは近寄り難い城砦だった。その中にいる弥三郎は、もう私の朋ではなかった。友だった。
--------

原文には<友>と<朋>に傍点が振ってあるのですが、省略しました。

『読むと書く-井筒俊彦エッセイ集』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

四百年忌 2015/03/13(金) 17:53:00
小太郎さん
井筒が折口の講義を受けていたというのは、興味深いですね。

http://www.lefigaro.fr/culture/2015/03/12/03004-20150312ARTFIG00333--madrid-les-ossements-retrouves-seraient-bien-ceux-de-cervantes.php
ご引用の文の中にセルヴァンテスの名がありますが(1616年没)、ル・フィガロによれば、マドリードの教会で骨の一部が発見されたそうで、柩にあるM.C.は Miguel de Cervantès のイニシャルのようです。徳川家康の没年と同じで、今年は四百年忌になるのですね。

http://imitationgame.gaga.ne.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
『イミテーション・ゲーム』を観ました。がさつな『アメリカン・スナイパー』とは違い、とても佳い映画ですね。
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広瀬哲士(その2)

2015-03-13 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月13日(金)09時52分23秒

>筆綾丸さん
>『あむばるわりあ』
若松英輔氏の『井筒俊彦 叡知の哲学』に、「西脇順三郎が山本健吉との対談『詩のこころ』で言うには、西脇門下になった後も、井筒は折口信夫の講義を受け続けただけでなく、その内容を西脇に伝え続けたという」(p37)とあったので、図書館で『詩のこころ』(日本ソノ書房、1969)を探し出して読んでみましたが、当該部分(p201)には井筒俊彦の名前が出ているだけでした。
山本健吉は明治40年(1907)生まれなので西脇順三郎より13歳年下で、慶応の国文科卒ですね。
二人の語り口を少し紹介すると、

-------
山本 (前略)先生と私どもがついた折口信夫先生とは、慶応の教員室や教授会でもお会いになっていたでしょう。で、わりあいに話が合ったんじゃないですか。
西脇 ぼくはねえ、折口先生からは日本文学の民俗学のほうを習おうと思って、こういうことは日本にありますか、と聞いたりしました。私もそういうことが好きでしたから、ただ日本ばかりじゃなく一般にそういう民俗学が好きでした。というのは古代文学が好きでしたから。で、古代文学をやるには、いわゆる民俗学を知らないと不都合が起こる、土人学を知らないと・・・いまの土人は、古代の人も大体そうだったろうということのいい例証になるんですよ。
-------

といった具合で、1969年(昭和44)頃には「土人」・「土人学」などという言葉が平気で使えたんですね。
ちなみに西脇順三郎の「一般にそういう民俗学」というのは、実際にはフレーザーなどの「イギリスの民俗学」であって、山本が「先生の詩集の『アムバルワリア』なんていう題もやはりそういうところからきているわけでしょう」と聞くと、西脇はあっさり肯定しています。
この後、二人は島崎藤村・佐藤春夫・萩原朔太郎を論じ、更に「笑い」について相当な分量の会話が続くのですが、そこにひょこっと広瀬哲士の名前が出てきたのには驚きました。(p263)

-------
山本 やはりシェークスピアとセンヴァンテスじゃないでしょうか。
西脇 ええ、そういうことですね。チョーサなんかはもうすでにウィットの文学ですから。若いときはそうじゃないものも書いたけれども。ベルグソンの「笑い」についての研究を初めて訳したのは慶応大学の広瀬哲士さんという人ですが、あの人の序文がおもしろいですよ。
"日本人は笑いを喪失した"と書いてあるんですよ。"ゆえにおれはこれを訳して、みなに読ませるんだ"というような序文があるんですよ。シナの影響を受けたと言ったかな。それは孔子か何かのことを言っているのかどうかしらんけど。
山本 広瀬先生というのは、私どもはフランス語を習いましたけど、おかしみのない人ですねえ。
西脇 ええ、全然ないんですよ。その人がひそかにベルグソンの笑いを訳したっていうことは・・・自分にまず笑いがないんではないのかな(笑)。日本の国民にそれをこと寄せたというか、ちょっとおもしろいけれども、少なくともロシア文学の影響で日本はだいぶ深刻になったでしょう。まあピューリタンも多いんですね。日本では。キリスト教的に、笑いを禁止したんです。そういうときに訳が出た。
--------

ま、広瀬哲士は蓑田胸喜を慶応に呼んだ人ですから、若いころから「おかしみ」とは縁のない人だったという指摘は納得できます。

原理日本社と慶応大学を繋ぐもの
中里成章氏「『パル判事』を上梓するまで」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/855889d7a9bb46a1966d49d845f50dd1

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

蝶の旅 2015/03/11(水) 15:20:50
小太郎さん
てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
が、西脇順三郎の『あむばるわりあ』にないのはシュルレアリスム的な不条理ですが、もしかすると、この蝶は井筒俊彦かもしれませんね。

『イスラーム哲学の原像』に、存在零度(=実在のゼロ・ポイント)、意識零度(=意識のゼロ・ポイント)という用語が出てきますが(110頁~)、これはおそらく、バルトの『零度のエクリチュール(Le Degré zéro de l'écriture)』から借用したもので、意外にミーハー(死語?)なところがあるな、と思いました。

------------------
なお、ここでちょっとご注意しておきますが、イブン・アラビーの術語として「存在(ウジュード」という言葉は存在というものではありません。つまり存在者ではない。存在(esse)であります。すなわち、彼の哲学の基礎をなす「存在」というのは存在的活力、宇宙に偏在し十方に貫流する形而上的生命的エネルギーでありまして、何か実体的なものではありません。ハイデッガー的な言い方をしますと、「ザイン(Sein)」であって「ダス・ザイエンデ(das Seiende)」ではないのです。ですからイブン・アラビーの存在の哲学は、ハイデッガーのいう意味で徹底的に「存在」的であって、「存在者」的ではありません。ただ、この存在的エネルギーは、その自己限定の道程において階層的にものを生み出していきますので、この意味において存在者も哲学的に問題となるというだけのことであります。どう問題になるかといいますと、存在エネルギーの仮りの結晶体、仮構的な現われの形としての性質が問題となるのであります。(113頁~)
------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9%E7%B2%92%E5%AD%90
形而上的生命的エネルギー(存在的エネルギー、存在エネルギー)は、質量とエネルギーの等価性を示す有名なアインシュタインの公式とは何の関係もないと思いますが、ウジュードやザインが、よく理解できないものの、どこかヒッグス粒子に似ているような感じがします。井筒のいう零度とは自発的対称性の破れのことであろうか・・・。(なお、ウィキの画像は韃靼海峡を渡っている蝶のようにも見えますね)

------------------
Tat tvam asi (「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものとされ、特にヴェーダーンダ哲学の伝統では「大文章(マハーヴァーキヤ)」(=根本命題)と称され、古来インド系思想の特徴ある基礎観念として絶大な働きをなしてきたものである。「汝はそれなり」。「汝(トヴァム)」とは個我、すなわち個的人間の主体性の中心軸、いわゆるアートマンのことであり、「それ(タット)」とは全存在の根源的リアリティ、万有の形而上的最高原理、いわゆるブラフマンのこと。要するに、「汝はそれなり」とは、アートマンとブラフマンの一致、すなわち個的人間の主体性は、その存在の極処において、全宇宙の究極的根底である絶対者、ブラフマン、と完全に一致するということを意味する。(『イスラーム思想史』421頁~)
------------------
タット・トヴァム・アスィとコギト・エルゴ・スムは形がよく似ていて、Tat tvam asi の asi と Cogito ergo sum の sum が「存在」を表わし、それは、イブン・アラビーのウジュードであり、ハイデッガーのザインであり、現代物理学の so-called Higgs boson である、というようなことなのだろうな、たぶん。
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二人のタタール人

2015-03-11 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 3月11日(水)09時42分0秒

池内恵氏の著作のうち、入手しやすいものは大体読んでみましたが、実に優秀な方ですね。
同氏の発想の骨格の部分は理解できたので、次は井筒俊彦の著作を少しずつ読んで行こうと思います。
ま、現実の中東政治は井筒俊彦が語る「イスラーム神秘主義」のような深遠な思想で動いているわけではなさそうですが、日本における中東言説の問題点を探る上でも井筒俊彦の基本的理解は必要な感じがしますので。

>筆綾丸さん
>異形の老人
井筒俊彦と司馬遼太郎との対談「二十世紀末の闇と光」(著作集別巻、p369以下、初出は『中央公論』1993年1月号)で、井筒は

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ところで、司馬さんの『韃靼疾風録』ね、私は大好きなんです。中身を読む前に、あの題を拝見しただけで、感激してしまいました。「韃靼」という言葉が、何ともいえない興奮を呼ぶんです。といいますのは、若い頃私の前に二人の韃靼人が現われましてね、その二人との運命的な出会いがあったために私はアラビア語をやり、イスラームをやって、おまけに学問というのはどういうものか、学問はかくあるべきだ、というようなことを学んだからです。
(中略)
とにかく、タタールという言葉を聞いただけで興奮するんです。そのタタール人二人の指導で私は学問の世界に入っていったわけですから。
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と言っていて、ほほう、と思いつつ先を読むと、井筒が最初に出会ったタタール人、アブド・ラシード・イブラーヒームは百歳近い老人で、

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自分では、「百を越えている」なんていっていましたが(笑)、おそらくそれは嘘で、だいたい九十五以上だったと思います。私は、いろいろな言葉を勉強するのが好きで、ほかの言葉は数ヶ月でだいたい読めるようになるんですが、アラビア語となると高い障壁が目の前に立ちはだかった感じでにっちもさっちもいかない。あの頃はアラビア語を教えてくれる学校もない、いい独習書もない、もちろん、オーディオ・ヴィジュアルの装置も発達していない、といった状態で。それで、何とかいい先生はいないかと思っていたら、あるとき偶然に、アラビア語がアラビア人よりできるトルコ人が東京にいる、と聞いたんですね。
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という具合に面白そうな展開になり、実際、この後になかなか興味深い話が続きます。
ま、それはいいんですが、若松英輔氏の『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶大出版会、2011)によると、井筒が出会ったときのアブド・ラシード・イブラーヒームは「だいたい九十五以上」でもなく、実際には80歳だったそうで、井筒青年はこの「異形の老人」にからかわれていたみたいですね。
ま、それもいいんですが、井筒俊彦の話は少し面白すぎるところが多いので、まあ、全体的に15~20%引きくらいで読めばよいような感じもします。

『井筒俊彦 叡知の哲学』

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生ひにけらしな 妹見ざる間に 2015/03/09(月) 17:59:03
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92_(%E8%83%BD)
世阿弥の『井筒』に擬えれば、前シテは西脇順三郎、後シテは井筒俊彦の鬘能で、テーマはシュルレアリスムとスーフィズム、と言ったところでしょうか。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%83%A8%E5%AE%B6
水本邦彦氏の『村ー百姓たちの近世』に、「(甲賀の美濃部氏一族は)豊臣から徳川への政権移行期、家康方として働いたことをきっかけに幕府の旗本に取り立てられ、新しい領主の一員として七つの家筋に分かれて発展していった」(59頁)とありますが、美濃部達吉・亮吉父子は言うまでもなく、五代目古今亭志ん生や女優の池波志乃も、この一族なんですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b190500.html
昨日、書店で苅米一志氏の『日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法』を眺めました。帯文に「なぜそう読めるのか」とあるのですが、以下の「者」がなぜ以下のように読み分けられるのか、何の説明もありません。文脈及び文字列からして、昔からこう読み慣わしてきたのでこう読んでいる、というだけのことで、これでは羊頭狗肉であって、要するに、多くの古文書を読んで覚えるしかない、という身も蓋もない話にすぎないと思われました。

? 者(~は) ? 者(~ば) ? 至~者(~に至りては) ? 然者(しからば・しかれば)? 若~者(もし~ば) ? 者(てへれば) ? 者(てへり)

追記
http://www.bbc.com/news/science-environment-31772140
離陸速度は40?/hくらいなので、自転車の追走が微笑ましいですね。アブダビ発の飛び石の飛行ルートを見ると、南京から一気にハワイへ飛ぶらしく、着陸許可は国交省で拒否されたのか、日本は素通りされていて、なんとも寂しいかぎりです。こういう記事を読むと、語弊がありますが、古文書など読んでてもしょうがねえな、という気がしてきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E9%A6%96%E9%95%B7%E5%9B%BD%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99
スンナ派の多いUAEでは、
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宗教機関GAIAEは2014年2月、ムスリムが火星へ旅行したり移住することを禁ずるファトワー(宗教見解)を発表。イスラム教は命がアラーから与えられているとして、信者の自殺を禁じており、死ぬ確率の方が高い火星へ行くのは自殺行為に等しいと判断したためである。
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とありますが、うーむ・・・。

異形の老人 2015/03/10(火) 14:43:30
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/5/4201190.html
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(1980年)に、イブン・アラビー(1165-1240)が紅顔の少年であった頃における、大哲学者イブン・ルシド(1126-98)即ちアヴェロイスとの一度きりの運命的な出会いの話があります(18頁~)。
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(アヴェロイスは)にこやかに少年を迎え、やさしく肩を抱いて、ただ一言「そうか?」と申しました。これに対して少年は「そうだ」と答えました。ただそれだけの対話です。一方が「イエス?」と聞く、他方が「イエス」と答えるということですね。まあ、そこまでは大変けっこうだったんです。この返事を聞いて老先生アヴェロイスは湧き起る歓喜に異様な興奮を示したとイブン・アラビーは回想録に書いております。ところがこの「イエス」がアヴェロイスの場合、どんなところから出てきたかということを即座に悟った私はーと、イブン・アラビーが申しておりますー突然、これと正反対の「ノー」という言葉を老人に投げつけてやった。そしてつけ加えていうのに「イエスとノー」、この「イエス」から「ノー」への移り変りの道程で精神は質量から離脱し、頭は胴体から切り離される、と。これを聞いたとたんにアヴェロイスは顔面蒼白となり全身に震えがきて、それきり一言もものをいわなくなったと、イブン・アラビーはその場の模様を書いております。
イエスとノー。イエスとは積極的な思弁哲学的思惟の道と、それを通じて確立される神と実在の哲学を肯定すること、ノーとは神と実在とを現象的意識において否定しつつ、その否定の道の極処、無の深淵において開顕する絶対者に逢着しようとする神秘道のことであります。質量的なものに纏綿された肉体的「われ」の思惟であるスコラ哲学と、万有無化の道をたどりつつ、自ら無の主体となる、スーフィー的体験の否定道とがここに際立った形で対照的に現われております。そしてまたイブン・アラビーばかりか、スコラ哲学の大立者だったアヴェロイスすら、この二つの道の鋭い対立をいかに生き生きと実存的に意識していたかということを如実に物語る面白いエピソードであります。哲学とスーフィズムの対立、哲学と神秘主義の対立、われわれが観念的に考えるような生易しい対立ではなくて、命を賭けた対立であったということがよくわかります。
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井筒にはイブン・アラビーを批判的に見るという態度が欠落していて、回想録に漂う胡散臭さに何故疑義を呈さないのだろうか、と不思議な気がします。イエスとノーにまつわる哲学とスーフィーの解釈など、イブン・アラビーの晩年の自慢話の一つなのではないだろうか。異様な興奮や顔面蒼白の話などは、老人の少年に対する性的なるものープラトン的な同性愛・少年愛ーの現われと読めなくもない。七十歳近い老人になっても、イブン・アラビーの言説をこうも純粋に信じられるという精神には、なにか異様なものがあるようにすら思われます。これも一つの神秘主義なのであろうか。アッシャイフル・アクバル(al-shaikh al-akbar)すなわち最大の師としてのイブン・アラビーの絶対的無謬性なのであろうか。
コメント
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