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大江広元と親広の父子関係(その7)

2021-11-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月30日(火)16時10分13秒

上杉著に戻って、「頼朝が急死したことが事態を一変させた」の続きです。(p97以下)

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 朝廷と幕府の緊張関係が持続する中、頼朝が亡くなった直後の二十二日前後に、後藤基清・中原政致・小野義成という三人の武士による通親襲撃事件(三人がいずれも左衛門尉であったことから「三左衛門の変」とよばれた)が起きる。事件の背景は不詳であるが、この頃公家政権内で通親と対立関係にあった一条家の思惑と幕府内にくすぶる反通親感情が引き起こした事件であることは疑いないだろう。だが、通親より事件の報を受けた幕府は、通親を支持する方針を明確にし、事件を起こした三人の武士は処断される。すでに触れたことだが、『愚管抄』には、事件後の幕府の方針決定は、広元が通親の「方人(味方)」であったことによると記されている。
 広元と通親の関係の親密さはかなりのものであったといえるだろう。広元が公家政権内の政治勢力分布を認識した上で、公家政権の実力者となった通親との融和をはかる現実的な対応を選択したという面もあるだろうが、かつて頼朝の意に反してなされた任官における通親の助力に対する恩義を、広元が長く心に留めておいたことの表われといえるかもしれない。
-------

ここで岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(岩波書店、1967)を見ると、建久七年(1196)十一月の九条兼実関白罷免、八年七月の大姫死去、同十月の一条能保死去、九年(1198)一月の土御門践祚、同九月の一条高能保死去などを記した後、

-------
 かかるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家して、同十三日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつつかと人思たりき。「今年必しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたりけり。万の事存の外に候」などぞ、九条殿へは申つかはしける。【中略】
 その比不か思議の風聞ありき。能保入道、高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに基清・政経・義成など云三人の左衛門尉ありけり。頼家が世に成て、梶原が太郎左衛門尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云たりけるにか、それを又、「かくこれらが申候なり」と告たりけるほどに、ひしと院の御所に参り籠て、「只今まかり出てはころされ候なんず」とて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又広元は方人にてありけるして、やうやうに云て、この三人を三右衛門とぞ人は申し、これらを院の御前わたして、三人の武士たまはりて流罪してけり。さて頼朝が拝賀のともしたりし公経・保家をひこめられにけり。能保ことにいとをしくして左馬頭になしたりしたかやすと云し者など流(さ)れにけり。二月十四日の事にやとぞ聞へし。又文学上人播磨玉はりて思ふままに高雄寺建立して、東寺いみじくつくりてありしも、使庁検非違使にてまもらせられなどする事にてありけり。三左衛門も通親公うせて後は、皆めし返されてめでたくて候き。
-------

とあります。(p283以下、カタカナをひらがなに変換)
本文だけだと何が何だか分かりませんが、「補注(巻第六)二七」を見ると、

-------
二七 【中略】梶原景季とこの騒ぎとの関係は愚管抄以外に所見しないので詳しいことは判明しないが、ことによると頼朝の死を報ずる幕府使節として西上したことがあったかもしれない。いずれにしても通親に基清らを告げ口をしたのは景季であったに相違ない。
 明月記によると、通親が右大将に任じられた正月二十日の二日後の二十二日から不安の事態が生じた。
  廿二日。巷説云、院中物忩、上辺有兵革之疑。御祈千万、被引神
  馬。新大将(通親)籠候御所不出里亭是有事故云々。
 広元の出生は諸説があって明確でない。【中略】
 広元が通親と親しかったことは、建久二年四月一日の除目で広元が通親の支持によって明法博士と左衛門大尉に任ぜられたことで知られる。
【中略】
 一条家の郎等三人は正治元年二月十四日に逮捕された。その事に当ったのは、新中納言頼家の雑色であり、三人を院御所に渡したあと、三月四日に関東に下向させたが、最後の処分は明確でない。
  二月十四日。武士等相具左衛門尉中原政経・藤原基清・小野義賢(義成)
  参院御所。是件三人可乱世間之由、有其聞之故也。各預賜武士(百錬抄)
  三月四日。天晴。三人金吾(政経・基清・義成)昨今下向関東云々。
  不同道各武士等預之相具。此輩七人(父子)解官云々。廿ニ日。天晴。
  被遣関東金吾三人、不請取自路追上、左右可随勅定由申之。或云、
  斬罪云々(明月記)
 公経・保家・隆保の閉門は二月十七日に発令された。また文覚を検非違使庁の監視下においたのはその前夜であった。
  十七日。今暁宰相中将(公経卿)・保家朝臣・隆保朝臣被止出仕云々。
  巷説。公卿七人可滅亡。不知誰人。文学上人(年来依前大将(頼朝)
  之帰依其威光充満天下諸人追従僧也)。夜前検非違使可守護之由被宣下
  云々。別当(通資)相倶官人参院、夜半許廷尉三人承之云々(明月記)。
 隆保の流罪はやや遅れて、五月二十一日に決定実行された。理由は後鳥羽上皇に対する謀反を計画したことにありとされ(皇帝紀抄)、四月二十三日には上皇の前で通親が隆保らを糺明した(明月記、二十六日)。
 基清らの処分で判明しているのは、基清が三月五日に讃岐国守護職を罷免されたこと(東鑑)、文覚が三月十九日に佐渡国に流されたこと(百錬抄)がおもであるが、基清は早くゆるされたらしく、東鑑、正治二年二月二十六日の将軍頼家鶴岡八幡宮社参随従の中にその名が見える。文覚には建仁二年十二月二十五日に召返の宣旨が発せられた(東寺長者補任)。隆保も建仁三年六月二十五日に本位に復した(百錬抄)。基清は同年十二月三十日の除目で左衛門尉に復任した(明月記)。
-------

ということで(p513)、武士のみならず、一時は「公卿七人可滅亡」の噂すら立つなど、朝廷内部で相当の混乱があった訳ですね。

>筆綾丸さん
広元の辞状だけでも論文が書けそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「広元の所存」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11003
「妄想」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11004
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大江広元と親広の父子関係(その6)

2021-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月29日(月)11時37分12秒

五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡5 征夷大将軍』(吉川弘文館、2009)で建久三年(1192)二月四日条を見ると、次の通りです。(p141)

-------
四日、丁未。大夫尉(中原)広元が使者として上洛した。これは昨年閏十二月の頃より、太上法皇(後白河)のご病気が次第に重くなり、そのお体がお腫れになったことによる。幕下(源頼朝)は頻りに祈祷され、この度は廷尉(広元)に託して、秘蔵の鳩作の御剣を石清水八幡宮に奉納され、また神馬を奉られた。広元は一昨年に上洛し、去年もまた法住寺殿の修理の担当者として在京し、検非違使として賀茂祭(の行列)に供奉した。重要な事が連続し、たまたま去年の冬の月末に(鎌倉に)帰ってきていた。「重ねての上洛は気の毒なことだが、天下の大事なので差し遣わす。」と、(頼朝は)直に仰ったという。
-------

ついで三月二日条を見ると、次の通りです。(p143以下)

-------
二日、甲戌。廷尉(中原)広元の書状が京都より(鎌倉に)届いた。「検非違使のことは既に辞表を提出しました。その案文を謹んで献上します。」という。このことはたいそう(頼朝の)御心に叶っていたという。その辞表は次の通り。
   正五位下行左衛門大尉中原朝臣広元が謹んで申し上げます。
   格別に朝廷の御恩をいただき、帯びてきた左衛門尉・検非違使の職を辞めさせてほしいと請う
   状。
  右、広元は昨年四月一日に明法博士・左衛門大尉に任じられ、すぐに検非違使の宣旨をいただき
  ました。三つの恩は一人では堪えられない重職です。そこで同十一月五日にまず李曹の儒職(明
  法博士)を辞退し、気のすすまないまま棘署(検非違使庁)の法官に留まりました。しかしひそ
  かによく考えてみますと、代々の先祖は身を立てて、宮中に仕えましたが、(私の)一族で跡を
  伝えている者は皆、南堂の風を学んでおります。しかし校尉(左衛門尉)は王の爪牙であって、
  もっぱら天皇の車の警固をします。廷尉(検非違使)は民の銜勒であって、牢獄の警固を致すべ
  きものです。広元の性格は暗愚であり、どうして薫豊両日の夢を弁えることができましょうか。
  (広元の)心は明察ではなく、あたかも紫雄三代の塵を隔てているようなものです。早く過分に
  名誉ある官職を辞退し、忠誠を尽くす以上のことはありません。望み請うことは、天皇の慈悲を
  得て、まげて私の思いを取り上げて下さい。そうすれば、内には見下す人々の目を避けることが
  でき、外には(私の分不相応を)論じる人々の口を止められるでしょう。畏怖の思いは慰め難い
  ものです。広元が謹んで申し上げます。
    建久三年二月二十一日          正五位下行左衛門大尉中原朝臣広元
-------

更に同条の注を見ると、

-------
2 李曹 法曹。法官。
3 棘署 ここでは検非違使庁を指す。
4 南堂 鄒斌。中国宋代の好学の士。
5 校尉 律令制では軍団の将校をいうが、ここでは左衛門尉を指す。
6 爪牙 主君を守る家臣。
7 銜勒 馬に手綱をつけるため、馬の口にくわえさせる金具。
8 薫豊両日 薫り、豊かに実る日。栄えることをいう。
-------

とのことです。(p250)
さて、筆綾丸さんが、

-------
北闕之月と南堂之風は対句で、前者は宮城(内裏)を守る武官、後者は朝廷に学問を以て使える文官を指していて、北闕之月を鎌倉幕府とし、南堂之風を京都勤務とするのは間違いだと思います。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10996

と書かれている部分、「北闕」は宮城で間違いないでしょうが、「南堂」が人名であれば対句として綺麗に対応している訳でもなさそうですね。
ま、「南堂」が本当に人名なのかを含め、私に特に意見があるということではありませんが。
なお、上記引用部分の担当者は尹漢湧(ユン ハンソン)氏(1970生、東京大学大学院)とのことです。

>筆綾丸さん
>広元は明法博士を辞してから左衛門大尉と検非違使を罷めていますが、順番が違うのではないか

上杉氏は「広元は、前述したような明法博士任官の異例さを特に重く見て、まずこの職を辞すことにしたのであろう」とされますが(p87)、確かにすっきりしない感じは残りますね。
ただ、二月四日条に賀茂祭への供奉が言及されているように、検非違使が名誉の職だと評価されていて、簡単に辞めたくはなかったともいえそうです。
広元の息子、時広も検非違使を強く望んで実朝との間にトラブルを起こしており、検非違使への執着は親子二代にわたっていますね。(p189)

-------
建保六年八月大廿日戊午。霽。藏人左衛門尉時廣爲致禁裏奉公。申可上洛之由。行村爲申次。而御氣色頗不快也。先日已交其号於仙籍。下向之上者。強不可好還參歟。所存之企。似褊關東也。心中殊不審云々。行村垂面於地。無申旨兮。退出傳仰之趣於時廣。々々又申云。愚存更以京都非爲宗。雖懸望於廷尉。勞未至之刻。爲勤御拝賀前駈。白地下向之間。未被除籍歟。枉蒙恩許。達前途之後。即令參向。可抽夙夜之忠云々。行村重難令披露之由。辞之退出云々。

八月大廿一日己未。晴。時廣上洛事。以昨之趣。泣依愁申于右京兆。令申達給之間。可上洛云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma23b-08.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「辞職の順番」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11000
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大江広元と親広の父子関係(その5)

2021-11-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月28日(日)11時18分12秒

五味文彦・本郷和人・西田友広編『現代語訳吾妻鏡』はいつも利用している図書館にあるので購入していなかったのですが、たまたまその図書館が蔵書整理で休館中なので、広元辞状の検討は少し後になります。
さて、上杉著の続きです。(p89以下)

-------
 二月二十二日、上皇の病状が深刻であることが、広元の使者によって鎌倉に伝えられている。そしてついに、三月十三日、後白河上皇は六条殿で六十六年の波乱の生涯を閉じた。後白河の死とともに頼朝使者としての任が終わった広元は、五月五日に京を離れるが、九条兼実はその前日の日記に、「広元、将軍に思い飽かるるか。これ廷尉(検非違使)の事によりてなり。然るべし然るべし」(『玉葉』五月二日条)と記している。「検非違使任官問題で、広元が頼朝に不快に思われた。当然のことだ」というのである。
 かりに広元が実務に追われて辞状作成の暇が得られなかったにせよ、頼朝の意図を知ってから広元がすべての官職を手放すまでの期間はかなり長い。源通親の計らいで後白河より与えられた官職に、広元は未練を持っていたのではないだろうか。政敵源通親に接近したことに由来する広元への兼実の恨みつらみはともかくとして、任官問題をめぐり広元と頼朝の関係が極めて不安定な状態にあったことを、兼実はしっかり見ていたのである。自分の不満を頼朝が代弁してくれたことに兼実はさぞ満足したであろうが、広元に対する兼実の感情には誠に執念深いものが感じられる。
 こうして、広元の真意はともあれ、頼朝と広元の関係を阻害する要因は解消された。広元の生涯の中で、建久初年の任官問題は極めて危うい事態をもたらすものであった。
-------

長々と引用してきた広元の無断任官問題はこれで終わりです。
広元が三つの官職に任じられたのが建久二年(1191)四月一日、明法博士を辞したのが同年十一月五日、残り二つを辞したのが翌三年二月二十一日ですから、上杉氏の言われるように「頼朝の意図を知ってから広元がすべての官職を手放すまでの期間」はかなり長いですね。
しかも明法博士の辞任だけで誤魔化そうとしたら、頼朝から改めて厳重な警告が入った感じで、広元としては、そこまで侮辱するならお前(頼朝)とは縁を切るぞ、くらいの気持ちになったかもしれません。
ま、朝廷に戻ったところで頼朝の後ろ盾を失った広元など誰も相手にしなかったでしょうから、結局、広元は幕府に残らざるを得なかったのでしょうね。
ところで、建久二年(1191)時点で久安三年(1147)生まれの頼朝は四十五歳、一つ年下の広元は四十四歳で、広元の鎌倉下向の時期は不明ですが、「源頼朝に仕えた広元の鎌倉での仕事を具体的に伝える最も古い資料は、『玉葉』寿永三年(一一八四)三月二十三日条の記事」(p13)なので、その時から数えても既に七年経っています。
しかし、それでも広元と頼朝との間には相互に根本的に理解できない部分が残っており、その危うい関係を「兼実はしっかり見ていた」ことになりますね。
では、「誠に執念深い兼実」の政敵であった源通親は、広元の無断任官問題をどう見ていたのか。
それを直接裏づける史料はなさそうですが、ある意味、頼朝と広元の対立の原因を作ったともいえる通親としては広元に同情しつつ、事態の推移を見守っていたということだろうと思います。
そして、この後、大姫入内問題は兼実の意向に反する形で進展し、結局、建久七年(1196)十一月の兼実の失脚につながります。(p96以下)

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 建久三年に後白河が没し、兼実が朝廷政治を総覧するようになってから、しばらくの間、朝幕関係は安定したものとなった。だが、後白河妃高階栄子(丹後局)と源通親の思惑による建久七年十一月の兼実関白罷免(いわゆる建久七年政変)、さらには建久九年(一一九八)正月に頼朝の意向を無視してなされた後鳥羽天皇の土御門天皇(通親の外孫)への譲位、通親の後鳥羽院別当就任といった朝廷内の出来事が、朝幕関係に新たな緊張をもたらした。『玉葉』『愚管抄』の記述からは、反幕府派公卿の代表ともいうべき通親の勢力の伸長を恐れる頼朝が、建久九年頃に自ら上洛して兼実の政権復帰をはかる動きを見せていたことをうかがうことができる。
 もしこの上洛が実現していたならば、朝幕交渉における広元の手腕がどのような形で発揮されたか誠に興味深いところであるが、建久十年(一一九九、四月二十七日に正治に改元)正月十三日に、前年末に落馬した時の傷が原因となって頼朝が急死したことが事態を一変させた。
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「『玉葉』『愚管抄』の記述からは、反幕府派公卿の代表ともいうべき通親の勢力の伸長を恐れる頼朝が、建久九年頃に自ら上洛して兼実の政権復帰をはかる動きを見せていたことをうかがうことができる」のは確かですが、『愚管抄』の著者・慈円(1155-1225)は九条兼実の六歳下の同母弟で、両書は「九条家史観」ともいえる偏った立場で書かれており、源通親の客観的位置づけは難しいところがあります。
そして、『吾妻鏡』も建久七年正月から、頼朝が死去する建久十年正月までの記事を欠いているので、結局、この時期の朝幕関係と、そこにおける広元の役割は分かりにくいですね。

慈円(1155-1225)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86
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『歴散加藤塾』さんのサイトについて

2021-11-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月27日(土)21時09分14秒

>筆綾丸さん
『歴散加藤塾』さんのサイトについては私は何も知らなくて、便利なので利用させてもらっているだけです。
本来ならば自分で『国史大系』あたりを用いて原文を写すべきなのでしょうが、難しい漢字を打ち込むのが大変なので、借用させてもらっています。
読み方や語句の解釈については私も多少の意見を持つことがありますが、自分が主張したい論点と特に関係がなければ実際上触れる余裕もありません。
ただ、前回投稿で、特に読みに争いのないだろうと思われる部分についても引用させてもらいましたが、紛らわしい行為だったので修正しました。
今後は原文のみ引用する形にしたいと思います。
御指摘の内容については、後で五味文彦・本郷和人・西田友広編『現代語訳吾妻鏡』を参照してみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「対句」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10996
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大江広元と親広の父子関係(その4)

2021-11-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月27日(土)12時44分21秒

義経等の前例を熟知している広元が何故に無断任官したのは分かりませんが、やはり前例は武士に関するものであって、貴族社会の一員であった自分には関係ない、と思っていたのでしょうか。
それと、自分が頼朝から任されて対応しているのが大姫入内問題である以上、交渉役として相応の身分がないと体面が立たず、そうした事情は頼朝も当然理解してくれているはずだ、と思っていたのかもしれません。
さて、広元は三つの官職のうち、まず明法博士を辞しますが、事態はこれではおさまりません。(p88)

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 明法博士こそ辞したものの、いぜん左衛門大尉・検非違使の官職を帯びつづけた広元は、この年の十二月末頃鎌倉に戻っている。後白河の病気見舞いのために広元が上洛したことを記す『吾妻鏡』建久三年(一一九二)二月四日の記事に「この廷尉(ひろもと)去々年(建久元年)上洛し、去年(建久二年)また法住寺殿修理の行事として在京、当職として賀茂祭に供奉す。重事連綿たり。たまたま去冬月迫(十二月末頃)に帰参す」とあることより知られる事実である。したがって、頼朝の容認しない官職を帯した広元が、わずかの間とはいえ鎌倉での生活を送っていたことになる。翌年二月初頭の上洛までの間に頼朝と広元が接触した形跡が『吾妻鏡』にまったく見られないが、あるいは両者の不穏な関係を示唆するものかもしれない。
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念のため『吾妻鏡』を確認すると、

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建久三年二月小四日丁未。大夫尉廣元爲使節上洛。是自去年窮冬之比。 太上法皇漸御不豫。玉躰令腫御云々。依此御事也。幕下頻御祈祷。今度則付廷尉。被奉秘藏御劔〔鳩作〕於石淸水宮。又有神馬。此廷尉去々年上洛。去年又爲法住寺殿修理行事在京。爲當職賀茂祭供奉。重事連綿。適去冬月迫歸參。重上洛雖爲不便事。依爲天下大事差進之旨。直被仰之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma12-02.htm

とのことで、「重上洛雖爲不便事。依爲天下大事差進之旨。直被仰之云々」ですから、この記事自体は頼朝の配慮を感じさせない訳ではないものの、まあ、他に適役がいないという事情もありそうですね。
上杉著に戻って続きです。

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 右記のように、広元は後白河上皇の病気見舞いの使者として、翌建久三年二月四日に鎌倉を発ち、十三日に京に入っている。この機を得て広元は、二十一日に、ようやくにして残る左衛門大尉・検非違使の職を辞する文書(辞状)をしたためている。「正五位下行左衛門大尉中原朝臣広元誠惶誠恐謹言 ことに天恩を蒙り、帯するところの左衛門尉・検非違使職を罷〔や〕まれられんことを請うの状」という書き出しで始まるこの時の広元の辞状は、辞状が鎌倉に届けられた三月二日の『吾妻鏡』の記事に収められている。
 辞状には、いかにも豊富な漢文の知識を持った文官が書いたというべき難解な語句と表現が散りばめられているが、要点を端的に述べれば、三つの官職を兼ねることは負担が重いので、前年の十一月五日に明法博士は辞したものの、残る二つの武官職についても、自分の家業と能力から考えて任が重いので辞したい、ということになる。
 この辞状を載せる『吾妻鏡』三月二日条の地の文には、辞状の写しを見た頼朝が「この事はなはだ御意に叶う」すなわち「満足した」という記事が見える。広元の辞職の直接的要因が頼朝の意向であったことは明らかだが、さすがにそのことを辞状に書くわけにはいかなかったろう。今も昔も、人が職を辞する時の言葉には、空々しい文句が現れるものである。
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ここも『吾妻鏡』を確認すると、次の通りです。

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建久三年三月小二日甲戌。廷尉廣元書状自京都參着。當職事既上辞状訖。其案文謹献上云々。此事太相叶御意云々。彼状云。
  正五位下行左衛門大尉中原朝臣廣元誠惶誠恐謹言。
  請殊蒙 天恩被罷所帶左衛門尉檢非違使職状
 右廣元去年四月一日任明法博士左衛門大尉。即蒙檢非違使 宣旨。三箇之恩。一所不耐。是以同十一月五日。先遁季曹之儒職。憖居棘署之法官。竊以。累祖立身。雖趨北闕之月。一族傳跡。皆學南堂之風。而校尉者王之爪牙也。専爲輦轂之警衛。廷尉者民之銜勒也。宜致囹圄之手足。爰廣元性受暗愚。爭弁薫豊兩日之夢。心非明察。宛隔紫雄三代之塵。不如早謝榮於非分之任。竭忠於方寸之誠耳。望請天慈。曲照地慮。然則内避〔瞰〕鬼之廻眸。外〔弭〕議人之聚口。難慰悚競之至。廣元誠惶誠恐謹言。
   建久三年二月廿一日             正五位下行左衛門大尉中原廣元

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma12-03.htm

上杉氏は「さすがにそのことを辞状に書くわけにはいかなかったろう」と言われますが、元暦二年(1185)四月十五日条に記された例の頼朝の人物評、緻密な人間観察に基づく悪口雑言罵詈讒謗を思い起こすと、この文章の至るところに頼朝の広元評と悪口が散りばめられているような感じがしないでもありません。
お前は検非違使になったそうだが、学者育ちのお前が悪人どもの取り締まりができると本気で思っているのか、京都と鎌倉の両方で忠勤を励むとはずいぶん忙しいことだな、みたいな感じでネチネチ言われたのではないか。
そして「瞰鬼之廻眸」は頼朝という「鬼」の冷酷な視線を露骨に表現しているようにも思われます。

>筆綾丸さん
>現代で言えば、東大(文)卒後、外務省を経て最高裁に入り(有り得る)、長官になる(有り得ない)

最近の事情は知りませんが、外務省の幹部職員は殆どが法学部出身で、しかも在学中に外交官試験に合格して大学は中退、入省後に海外の大学に留学というケースが多かったと思います。
外語大出身者とか、作家の佐藤優氏のように特別に語学ができる人の多くは専門職として別採用ですね。
そして、外交官出身で最高裁に入る人は実際上は国際法局(旧条約局)に限られていて、法律家として非常に優秀な人が多いです。
歴代の最高裁判所長官は裁判官出身者が大半ですが、外交官出身者がなっても全然おかしくはないはずですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「正四位下」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10994
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大江広元と親広の父子関係(その3)

2021-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月26日(金)12時53分17秒

無断任官問題はあくまで広元と頼朝との関係の問題であって、広元と親広、そして広元と通親の関係を左右した訳ではありませんが、広元の人生において相当深刻な、ある意味危機的な事態を招いた特別な事件だったので、少し詳しく見ておきます。
この問題をきちんと分析したのは上杉和彦氏が初めてだと思いますが、『人物叢書 大江広元』の刊行以降もあまり注目されることはないようですね。
世間では承久の乱研究の若手第一人者と言われている長村祥知氏など、親広が承久の乱で死んでしまったと堂々書かれているくらいなので、上杉著を読まれていないどころか、上杉著の存在自体を知らないのではないかと不安になります。

大江親広は「関寺辺で死去」したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d
「零落」の意味等について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdb2cdce8331e85e809ba8c9cdde0d4a

ま、そんな嫌味はともかく、上杉著の続きです。(p84以下)

-------
 少し後のことであるが、建久十年(正治元年。一一九九)正月に起きた後藤基清・中原政致・小野義成による通親襲撃未遂事件(いわゆる三左衛門の変)の際に、広元が通親を擁護する姿勢をとったことに対し、慈円が『愚管抄』の中で、広元は通親の「片人〔かたうど〕」(味方)であると記している。またさらに後のことだが、承久の乱に際して後鳥羽方についた親広(広元の長子)は通親の猶子となっており、広元と通親の関係の親密さは、極めて深いものであったということができる。
 広元にしてみれば、かつて外記として奉仕した兼実を敬遠する気持ちがあったかもしれない。兼実にとっても、一外記官人にすぎなかった広元が破格の出世をしたことに、心穏やかならぬものがあったにちがいない。兼実の述べる「おそらく頼朝卿の運命尽きんと欲するか。誠にこれ獅子中の蟲獅子を喰らうごときか」という言葉には、自らの協調関係をさしおいてまで通親に接近しようとする頼朝の対朝廷政策転換に対する糾弾とともに、広元に対する不信感があからさまに示されているといえるだろう。
 もっとも、広元にとって、兼実が切歯扼腕すること自体は何程のことでもなかったかもしれない。だが、やがて兼実のみならず頼朝が広元の任官に不快の念を持つことにより、広元は厳しい状況に追い込まれることになるのである。
-------

勝手に朝廷の官職を得た者に対して頼朝が激怒した事例としては、何と言っても『吾妻鏡』元暦元年(1184)八月十七日条に記された義経の一件が有名です。

-------
元暦元年八月大十七日癸酉。源九郎主使者參着。申云。去六日任左衛門少尉。蒙使宣旨。是雖非所望之限。依難被默止度々勳功。爲自然朝恩之由。被仰下之間。不能固辞云々。此事頗違武衛御氣色。範頼義信等朝臣受領事者。起自御意被擧申也。於此主事者。内々有儀。無左右不被聽之處。遮令所望歟之由有御疑。凡被背御意事。不限今度歟。依之可爲平家追討使事。暫有御猶豫云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-08.htm

また、研究者は翌元暦二年(1185)四月十五日条も思い浮かべるはずです。

-------
元暦二年四月小十五日戊辰。關東御家人。不蒙内擧。無巧兮多以拝任衛府所司等官。各殊奇怪之由。被遣御下文於彼輩之中。件名字載一紙。面々被注加其不可云々。
 下 東國侍内任官輩中
  可令停止下向本國各在京勤仕陣直公役事
   副下 公名注文一通
 右任官之習。或以上日之勞賜御給。或以私物償朝家之御大事。各浴 朝恩事也。而東國輩。徒抑留庄薗年貢。掠取國衙進官物。不募成功。自由拝任。官途之陵遲已在斯。偏令停止任官者。無成功之便者歟。不云先官當職。於任官輩者。永停城外之思。在京可令勤仕陣役。已厠朝烈。何令篭居哉。若違令下向墨俣以東者。且各改召本領。且又可令申行斬罪之状如件。
   元暦二年四月十五日
 東國住人任官輩事

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma04-04.htm

この後、二十四名の交名が添えられていて、そこに記された頼朝の人物評が極めて面白いことも有名ですが、とにかく「墨俣以東」に来たら本領を没収した上で首を斬るとまで言うのですから尋常ではありません。
広元も当然これらの先例を熟知していたはずですが、自分は元々文官だから関係ないと思ったのか。
さて、建久二年(1191)四月一日の除目で広元が明法博士・左衛門大尉・検非違使に任ぜられた後も、暫くは広元は淡々と仕事を続けますが、約半年後、『吾妻鏡』に異変が記されます。(p87以下)

-------
【前略】『吾妻鏡』建久二年十月二十日条に、「広元朝臣、明法博士を辞すべきの由これを申し送る。関東に伺候するの輩〔やから〕、顕要の官職をもってほしいままに兼帯すること然るべからず。辞せしむべきの旨、仰せ下さる」と見える。「広元が、明法博士の職を辞する旨を京都に伝えた。鎌倉幕府に使える者が、勝手に朝廷の要職を兼ねることは好ましくないから、職を辞するように、との頼朝の仰せがあった」という内容である。
 長期間の在京を続けている間に、広元が直接に後白河より破格の任官を許されたことが、家人への恩賞付与を他者に委ねることに極めて強い嫌悪感を示す頼朝の感情を逆なでし、頼朝の仰せによって広元は明法博士の職を辞したのである。広元は、前述したような明法博士任官の異例さを特に重く見て、まずこの職を辞すことにしたのであろう。実際に広元が明法博士職を去るのは十一月五日のことである(後掲の建久三年二月二十一日付広元辞状による)。
 無断任官問題が源義経の破滅の引き金になったことを、そのとりなしを依頼された広元がよもや忘れたはずはあるまい。それほどに肩書きの魅力は大きかったとみるべきか、はたまた広元なりの何らかの深慮があったのか、そのあたりは定かではないが、この時の任官問題は、頼朝の忠実な側近としての広元の経歴において、おそらくただ一度といってよい、頼朝の不興を買う出来事となったのである。
-------

ということで、広元は明法博士・左衛門大尉・検非違使の三つの中、先ずは明法博士を辞したのですが、頼朝の怒りがこれで治まった訳ではありません。
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大江広元と親広の父子関係(その2)

2021-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月26日(金)10時02分4秒

広元が嫡子・親広を、親広が父・広元をどのように思っていたかを直接窺うことのできる史料は恐らく存在しておらず、周辺事情から考えるしかありませんが、その際にポイントとなるのは源通親(1149-2002)との関係です。
源通親とは何者なのか。
その概要はリンク先の橋本義彦氏『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)を参照して頂くとして、とりあえずは同年の生まれの九条兼実(1149-1207)と犬猿の仲だった人物と押さえておけば十分です。

「はしがき」
http://web.archive.org/web/20150830053507/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto.htm
「村上の源氏」
http://web.archive.org/web/20150830053503/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto-yoshihiko-murakaminogenji.htm

さて、大江広元と源通親の関係はどのようなものだったのか。(上杉著、p80以下)

-------
二 任官問題の波紋

 建久元年(一一九〇)の末に鎌倉へ戻る頼朝と広元が別行動をとったことには、実務官僚として法住寺殿造営の職務にあたるという理由があったのだが、広元の長期間の在京は、彼の身に思わぬ難題を投げかけることとなった。それは、広元に対する後白河上皇からの直接の官職付与という出来事をきっかけに起きた。
 建久二年(一一九一)三月二十七日、九条兼実は、広元が五位の衛門尉に補任されようとしているとの情報を知って驚き、「未曾有か」と日記に記している(『玉葉』)。兼実の得た情報は正確であり、四月一日の除目で、広元は明法博士・左衛門大尉に任じられるとともに、使宣旨を受けて検非違使となった(『尊卑分脈』『系図纂要』が建久四年のことするのは誤り)。兼実は同日の日記に次のように記す。
【中略】
 要するに、広元の出身である大江氏は文章道・明経道を家業としており、大江氏の人間である限り、大外記や明経博士といった文官あるいは学問に関わる官職に任じられるべきであるから、衛門府のような武官や明法道系の官職を与えることは異例であるというのである。【後略】
-------

広元が幕府で果たした法曹官僚としての役割からすれば、広元が武官となったことはともかく、「明法博士」など、むしろ当たり前のようにすら感じられますが、当時はそこに厳格な家格の壁があり、広元の家柄では「明法博士」となることは極めて異例な出来事だった訳ですね。
ということで、兼実が「未曾有か」と記した一応の事情は理解できますが、実はこの裏には兼実の怒りを生んだ更に別の事情があります。(p82以下)

-------
【前略】実は兼実の怒りの要因は、任官の先例からの逸脱のみではなかった。前掲の『玉葉』の記述は以下のように続く。
  この事、通親卿追従〔ついしょう〕のため諷諫を加うと云々(中略)およそ言語の及ぶところ
  にあらず。おそらく頼朝卿の運命尽きんと欲するか。誠にこれ獅子中の蟲〔むし〕獅子を喰ら
  うごときか。悲しむべし悲しむべし。
「この事、通親卿追従のため諷諫(ここでは「それとなく指示する」の意)を加う」という記述に示されるように、兼実の心をさらに乱した理由は、兼実の政敵である源通親が後白河に助言したことで広元の任官が実現したことであった(「諷諫」の語は普通「諫めて制止する」の意に用いられるから、異例の任官を行なおうとする後白河を通親が諫めた、と解釈する余地もある。もしそうであるならば、通親が広元の立場の悪化を慮ったのかもしれないが、「追従」の語との関連から本文のように解釈しておく)。
 鎌倉初期の公武関係史研究ですでに明らかにされているように、源頼朝は、建久年間頃より、朝廷との交渉の窓口として親しい関係を続けてきた親幕派公卿兼実と一定の距離を置くようになり、かわって兼実とライバル関係にあった後白河近臣源通親に接近しはじめる。頼朝は、娘大姫の後鳥羽天皇入内という重大案件を、通親のルートで実現しようと図っており、その具体的折衝には広元も一枚からんでいた可能性が高い。
 通親と広元の交流がこれより以前にさかのぼる可能性はあるが、建久初年の朝幕交渉過程で通親と広元の関係が親密なものとなり、通親による口添えで広元の破格の任官が実現したのだろう。ちなみに、前述の『和歌真字序集』紙背文書の第十一号文書に、「博士御所望〔しょもう〕事、尤穏便歟〔もっともおんびんか〕」という記述が見られるが、これは、広元が明法博士への任官を望んだことに関連するものである。
-------

広元の異例の任官の背景には大姫入内問題があり、広元はあくまで頼朝の意を汲んで通親に接近した立場です。
しかし、その任官は頼朝の事前の了解を得てはいなかったため、広元の立場は若干微妙なものとなります。

>筆綾丸さん
>呉座氏は広元という人がぜんぜん見えていないような気がしますね。

そうですね。
『日本中世の領主一揆』(思文閣出版、2014)を読んだときは呉座氏の法的感覚の鋭さに驚いたのですが、その鋭さもどうやら民衆レベル限定のようで、広元のような法律の化け物の相手をするのは無理みたいですね。

「呉座勇一氏、角川財団学芸賞受賞」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1f6b164c6cae99d62867946f8b846a6
「中世人の名誉感情に関わる問題」(by呉座勇一氏)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/777ce1b5aa1b724554390d8046d17881

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「歌姫」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10990
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大江広元と親広の父子関係(その1)

2021-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月25日(木)12時22分23秒

呉座勇一氏は『頼朝と義時』において、

-------
 けれども広元は「時を移せば関東武士の結束が乱れて敗れるだろう。運を天に任せて早く出撃すべきだ」と主張した。政子の演説によって御家人たちは奮い立ったが、彼らの士気は時間が経てば低下する。官宣旨の内容もいずれは御家人たちの間に広がる。「朝敵の義時さえ討てば我が身は安泰になる」と保身に走る者が出ぬとも限らない。鉄は熱いうちに打て、である。広元の卓見には感心させられる。もっとも、広元嫡男の親広が後鳥羽方についたという情報が既に鎌倉に入っていたので、疑われぬようにあえて強硬論を唱えたのかもしれない。
-------

と書かれていて(p297)、広元の「強硬論」が「疑われぬように」するため、即ち自身の「保身に走」った結果である可能性を主張されています。
私自身は呉座説に全く賛同できませんが、上杉和彦氏も『人物叢書 大江広元』において次のように書かれています。(p163以下)

-------
 かつて「合戦のことはわからない」と語った広元が、東国武士顔負けの強行論を述べたのはなぜだったのだろうか。幼い日に目の当たりにしたかもしれない保元・平治の乱や、頼朝の伊豆での挙兵、そして度重なる鎌倉幕府内部の武力抗争の勝敗の帰趨が、いずれも機敏な先制攻撃によって決してきたことを広元が熟知していたことは理由の一つにちがいない。また、頼朝の時代以来奉公を続けてきた幕府に戦いを挑んだ後鳥羽に対し、広元が心底より怒りを覚えていたという面もあっただろう。あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない。
【中略】
 広元は、承久の乱における最大の功労者の一人であった。特に義時にとっての広元の存在は、有能な文官官僚であるのみならず、精神的支えともなるかけがえのない宿老であったといえよう。乱後、後鳥羽方についた親広は処刑を免れ、父の所領の一つである出羽国寒河江に隠れ住むことになるのだが、幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざというしかない。
-------

「合戦のことはわからない」云々は比企氏の乱に際しての話ですね。
私自身は「あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない」という上杉氏の見解にも全く賛同できませんが、大江広元と親広の父子関係には分かりにくいところがあります。
そもそも「親広」の「親」は源通親の「親」であって、親広の存在自体に鎌倉初期の公武関係が反映されているのですが、その点を上杉著で確認しておきます。
まずは、親広が本当に源通親の養子であったどうかですが、

-------
 頼家の時代には、広元の長子である親広が、父とともに頼家側近としての活動を行うようになる。『吾妻鏡』における親広の初見は、正治二年(一二〇〇)二月二十六日の頼家の鶴岡八幡宮参詣に、広元とともに御後衆をつとめた記事である。親広は、諸史料の中では一貫して源姓で登場している。その理由は、『江氏家譜』に「久我内大臣通親公の猶子となり、源を号す」とあるように、源通親の養子になったことに求めることができる。もっとも『尊卑分脈』にはこの件に関する該当記事が見えず、親広が通親の養子となったことを明記する良質な史料はない。逆に『安中坊系譜』のような史料には「摂津源氏の武士である多田行綱が親広の外祖父であったことによる」という説明が見えるが、広元と通親の緊密な関係や、親広の「親」の字が通親に通じるものなどを考慮すれば、親広と通親の養子関係は事実であったと考えてよいだろう。
-------

ということで(p107)、「寒河江の地に伝来する安中坊〔あんちゅうぼう〕大江家所蔵『安中坊系図』」は信頼性が劣る史料であり(p185)、通親との養子関係は間違いなく存在したと思われます。
なお、『吾妻鏡』正治二年二月二十六日条には、

-------
正治二年二月大廿六日壬午。晴。中將家御參鶴岡八幡宮。御除服之後初度也。於上宮被供養御經。導師弁法橋宣豪云々。
御出供奉人
 先陣隨兵十人
【中略】
 次御後衆廿人〔束帶布衣相交〕
  相摸守惟義      武藏守朝政
  掃部頭廣元      前右馬助以廣
  源右近大夫將監親廣  江左近將監能廣
【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma16b-02a.htm

とあって、親広は「源右近大夫將監親廣」という具合いに、確かに源姓で登場していますね。
さて、では「広元と通親の緊密な関係」はいかなるものであったかというと、これは建久年間に遡ります。
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「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)

2021-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月25日(木)10時18分2秒

>筆綾丸さん
>広元は誠に恐るべき人で、文官なのに(文官ゆえに?)、なぜ、それほど冷徹な判断ができたのか

承久の乱の戦後処理の法的性格を問うことは、大江広元とは何者かを問うことと殆ど同じ問題ですね。
大江広元の幕府に対する貢献は大変なもので、『吾妻鏡』にも広元の業績が多々記されていますが、広元の人間性を窺う材料となると意外に少ないですね。
上杉和彦氏の『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)によれば、そもそも「広元が残した著作物あるいは詩歌の類は一切知られていない」(p176)そうです。

-------
鎌倉時代前期の政治家。もとは朝廷の実務官人であったが、源頼朝に招かれ草創期の幕府の中心的存在となる。政所別当として守護・地頭制の整備に関わり、朝廷・幕府間の交渉で卓越した政治手腕をふるった。頼朝没後、将軍頼家・実朝を支えつつ、北条氏とも協調を図り武家政権の確立に貢献した文人政治家の実像を、新史料を駆使して浮き彫りにする。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33584.html

そして、上杉著によれば、

-------
 『吾妻鏡』をはじめとする諸史料に多くの事蹟を残す広元であるが、彼にまつわる説話・伝承の類は誠に乏しい。いわゆる説話集や軍記物語などに広元が登場する場面はほとんどないといってよい(『平家物語』に登場するわずかな事例は、「第二 新天地鎌倉へ」で紹介した)。
 多くの政治的活動とその功績が具体的に知られる一方で、広元個人の人柄を語る史料は意外に見出しにくいが、『吾妻鏡』にはこんな話が見える。武蔵国の御家人である熊谷直実が、法然に師事し遁世者として晩年をおくったことはよく知られているだろう。承元二年(一二〇八)九月三日、熊谷直実の子である直家が、十四日に京都東山で死去することを予言した父の往生を見届けるための上洛を幕府に申し出た。これを聞いた広元は、「兼ねて死期を知ること、権化〔ごんげ〕にあらざる者、疑い有るに似る」と述べた上で、厚い信仰心による直実の熱心な修行ぶりを称える言葉を発している。自分の死を予言し従容としてそれに臨む父、父の予言の正しさを確信し往生を見届けようとする子の行動に対し、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない者が、前もって死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という言葉をもらさずにおれぬ広元は、よくいえば合理的思考の人、悪くいえば冷淡な性格の持ち主といえるだろう。
 また、同じく『吾妻鏡』に見える、実朝暗殺直前に凶事を察知して思わず落涙した広元が「自分は、成人してから一度も涙を流したことがない私」と語ったという記事も、広元の冷徹な人間像を強調するものといえよう。
 文献史料の上から、広元の真の人間性を十全に知ることは容易ではない。広元とは、現実に彼が行なった政治行動のみによって、その人となりを後世に伝えた人物ということになろう。
-------

とのことですが(p178以下)、『吾妻鏡』が伝える二つのエピソードは相互に矛盾しているようにも思われます。
即ち、広元ならば、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない【広元】が、前もって【実朝の】死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という「合理的思考」をしそうなものだからです。

-------
承元二年九月小三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薫修。仰而可信歟云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma19a-09.htm

-------
建保七年正月大廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拝賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
【中略】
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24a-01.htm

また、実朝暗殺記事は従来から脚色が疑われており、広元が本当にこうした発言をしたかどうかには疑問が残りますが、しかし、自分は成人してから泣いたことがないという広元の述懐自体にはリアリティがあります。
あるいは、これは広元の単独エピソードを、実朝暗殺記事の元ネタの提供者、あるいは『吾妻鏡』の編者が実朝暗殺記事に挿入した可能性もありそうですね。
なお、熊谷直実と直家の父子エピソードは、大江広元と親広の父子関係を関係を考える上で、直接の判断材料となるものではないにしても妙に気になる話ですが、この点は次の投稿で書きます。

「飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜& 安全地帯 with 井上陽水」
https://www.uta-net.com/movie/1266/

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「煮え切らない男」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10986
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後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その2)

2021-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月24日(水)12時31分27秒

前回投稿で確認したように、呉座勇一氏は後鳥羽配流を「未曾有の事態」としながらも、「治天の君である後鳥羽が実質的に「謀反人」として断罪されたのだ」としていて、法的に「謀反人」だとはされません。
また、細川重男氏も「事実上の配流」云々と「事実上の」であることを頻りに強調されます。

細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた承久の乱の戦後処理
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e05d683e265d6d485eee705dc3dd51a

本郷和人氏も、『北条氏の時代』において、

-------
 武家が貴族たちの刑罰を決めて、次々と処刑していくというのは、前例のない、タブーを破る行為でした。貴族たちもどこかで、「なんだかんだ言っても命だけは助かるだろう」くらいに思っていたはずです。しかし、義時は甘くなかったのです。【中略】
 さらに日本史を決定的に変えたのは、後鳥羽上皇すら罪に問うたことでした。これは、武士が朝廷をも凌駕する力を得たことの象徴となりました。【中略】
 後鳥羽上皇は、亡くなるまで何度も「都に帰りたい」と幕府に頼みました。しかし、幕府は断固拒否したため、乱の十八年後の一二三九(延応元)年に隠岐の地で崩御しました。ほかの上皇も配流地で崩御しています。
 ただし天皇や上皇を殺すことはしませんでした。討幕運動を何度も行った後醍醐天皇が配流で済んだのは、承久の乱が前例となったためかもしれません。
-------

という具合いに(p120以下)、「日本史を決定的に変えた」とまで言われながら、その戦後処理の法的性格を検討されようとはしません。
私自身は承久の乱の戦後処理の法的性格について特異な考え方をしていますが、中世人も三上皇配流を法的にどう説明するのか、それなりに悩んだと思われます。
一例として、配流から百年以上経ってはいますが、『増鏡』巻二「新島守」には、

-------
 さてもこのたび世のありさま、げにいとうたて口をしきわざなり。あるは父の王を失ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説き給ひためれ。まして世下りて後、唐土にも日の本にも国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それもみな一ふし二ふしのよせはありけむ。もしはすぢことなる大臣、さらでもおほやけともなるべききざみの、少しのたがひめに世に隔たりて、その恨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて君の亡び給へるためし、この国にはいとあまたも聞えざめる。されば承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれもみな猛かりけれど、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院、御位にてうち勝ち給ひしかば、天照御神も、御裳濯川の同じ流れと申しながら、なほ時の国主をまもり給はする事は強きなめりとぞ、古き人々も聞えし。また信頼の右衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、つひに空しきかばねをぞ道のほとりに捨てられける。かかれば古りにしことを思ふにも、猶さりともいかでか三皇・今上あまたおはします皇城の、いたづらに亡ぶるやうはあらん、と頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは、この世一つの事にもあらざらめども、迷ひのおろかなるまへには、なほいとあやし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07

という記事があります。
律令の条文に上皇配流の規定があるはずもありませんが、先例、即ち朝廷の慣習法まで視野を広げると、一番近いのは「保元に崇徳院の世を乱り給ひし」ケースですね。
ただ、このときは「治天の君」ではなかった崇徳院が「時の国主」後白河天皇に対して反乱を起こしたということで、「治天の君」である後鳥羽院が「むげの民と争ひて」天皇の廃位という事態を招いた承久の乱とは明らかに異なります。
従って、慣習法(先例)まで含めた律令法の大系においても、今上帝廃位・三上皇配流を合法化することは困難です。
しかし、幕府の指導者たちは、全く法的説明のない無法状態に耐えられたのか。
自分たちは野獣のようなアウトローで、強いから何でもやってよいのだ、と思っていたのか。
まあ、私はやはり、彼らもそれなりに自分たちの行動を合法化・正当化していたと思います。
その論理は、結局のところ自分たちは律令法の大系に拘束されない存在なのだ、幕府は天皇を頂点とする律令国家から独立した存在なのだ、ということになると思いますが、そうした論理を構築できる能力を持つ人は限られています。
そもそも律令法を知らない人が律令法を超える論理を構築することは無理ですから、幕府指導者の中で律令法を熟知する人物、即ち大江広元ということになりますね。
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後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)

2021-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月24日(水)10時00分39秒

>筆綾丸さん
>後鳥羽院の処刑(護送中の変死を含む)をどのくらい検討したのでしょうね。

これは全くなかったと思います。
そもそも後鳥羽院の配流を実質的に誰が決定したかですが、多くの研究者は義時だと考えているようです。
例えば呉座勇一氏は『頼朝と義時 武家政権の誕生』において、

-------
 人生で何度も窮地に立たされた後白河法皇でさえ、平清盛や木曽義仲に幽閉されたに留まる。上皇が臣下と戦って敗れて流罪になるなど、未曽有の事態である。治天の君である後鳥羽が実質的に「謀反人」として断罪されたのだ。この断固たる措置は、義時の意向によるものだろう。
-------

とされています。(p311)
しかし義時が本当にこのような「未曾有」の「断固たる措置」を取れたのか。
『吾妻鏡』には、義時にそうした断固たる指導者としての資質があったのかを疑わせる二つのエピソードがあります。
一つは開戦に際しての義時の逡巡です。
呉座著によれば、

-------
幕府首脳部の作戦会議
 承久三年五月十九日の夕刻、北条義時の屋敷で幕府首脳部が今後の戦略を協議した。参加者は義時・泰時(義時の長男)・時房(義時の弟)、大江広元、三浦義村、安達景盛らである。
 論点は、積極攻勢策か迎撃策か、どちらを選択するかにあった。東海道の要衝である足柄・箱根の両関所を固めて防衛に専念するという意見が強かった。
 先の政子の演説に見えるように、幕府は後鳥羽上皇に反逆するのではなく、後鳥羽院の「君側の奸」を討つという大義名分を掲げている。とはいえ、京都に向かって攻め上れば、「朝敵」のそしりは免れないだろう。義時らが及び腰になるのも無理はない。
 けれども広元は「時を移せば関東武士の結束が乱れて敗れるだろう。運を天に任せて早く出撃すべきだ」と主張した。【中略】
 会議で結論が出せなかったため、義時は鎌倉殿代行の政子に、積極攻勢策と迎撃策の二案を提示し、決断を求めた。【後略】
-------

ということで(p297)、義時は積極攻勢策という「断固たる措置」の採用を決断できず、政子に判断を委ねた訳です。
そして、積極攻勢策で行くという政子の判断が下されたにも関わらず、五月二十一日になると「動揺した幕府首脳部は再び迎撃策に傾いた」訳ですが(p298)、十九日の会議参加者のうち、誰が「再び迎撃策」を提案したのかは不明です。
しかし、義時が、既に「断固たる措置」を取るとの政子の裁定が出ているのに何を言っているのだ、と反論しなかったことは明らかです。
他方、

-------
 これに対して広元は、「上洛を決定しながら、なかなか出陣しないから、迷いが生まれて反対意見が出てしまった。武蔵の武士を待つために時を重ねれば、彼らも心変わりするかもしれない。北条泰時が自身一騎だけでも出陣すれば、東国武士は後に続くだろう」と再び積極策を説いた。
 そこで政子は、年老いて病に倒れていた三善康信にも諮問したところ、康信も「大将軍一人でも早く出撃すべきだ」と答えた。広元と康信の意見が一致したことで義時もついに決断し、泰時に出撃を命じた。【後略】
-------

ということで、義時は「断固たる措置」を迅速に執行せず、グダグダとした混乱を生んだ張本人ですね。
この点、呉座氏は、

-------
 それにしても、一連の戦略決定の過程で、義時の影は奇妙なほど薄い。「朝敵」と名指しされた義時にしてみれば、自身の意見を積極的に示しづらかったのだろう。想像をたくましくすれば、当事者である義時の考えを広元や政子が代弁した側面もあるのではないか。
-------

と言われますが(p299)、私にはわざわざ「想像をたくましく」しなければならない理由がさっぱり分からず、呉座氏の単なる妄想だろうと思います。
さて、義時が「未曾有」の「断固たる措置」を取ったことを疑わせるもう一つのエピソードは六月八日の落雷騒動です。
呉座著にも関連する記述がありますが(p308)、正確を期して『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を参照させてもらうと、

-------
 同じ日の戌の刻に鎌倉で雷が義時の館の釜殿に落ち、人夫一人がこのために死亡した。亭主(義時)はたいそう恐れて大官令禅門(覚阿、大江広元)を招いて相談した。「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」。広元が言った。「君臣の運命は皆、天地が掌るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断を仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は、関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に、奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のため占なわせてみて下さい」。(安倍)親職・(安倍)泰貞・(安倍)宣賢らは、最も吉であると一致して占なったという。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5f1aa30870eb0fb2e92841c6967436a

といった具合です。(p114)
私自身はこのエピソードを必ずしも事実の正確な記録とは考えず、精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思いますが、いずれにせよ、ここから窺われる義時像は「未曾有」の「断固たる措置」を取る指導者とは程遠い感じです。
では、いったい誰が後鳥羽配流を断固として主張したのか。
開戦の経緯を鑑みれば、私には答えは自明のように思われます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「姫の前のあとさき」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10983
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六人部暉峰と六人部是香

2021-11-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月23日(火)12時41分39秒

>筆綾丸さん
六人部暉峰(1879~1956)は名前を聞いたこともありませんでしたが、六人部(むとべ)というと、国学者の六人部是香が連想されます。

-------
没年:文久3.11.28(1864.1.7)
生年:文化3(1806)
幕末の国学者,神道家,歌学者。通称は縫殿,美濃守。号は葵舎,篶舎。六人部忠篤の子。幼少に父と死別,伯父の山城国乙訓郡向日神社(向日市)祠官六人部節香の養子となり,その職を継いだ。文政6(1823)年江戸に出て平田篤胤に入門し,よく研鑽して,平田派関西の重鎮として重んじられた。その著『顕幽順考論』は,人間存在を顕と幽との両世界に分けて神の性質について説いたもので,孝明天皇に進講するという栄誉に浴した。晩年は職を子の是房に譲って隠居,京都三本木に神習舎を開いて門人に教授した。歌学の造詣深く,歌格(歌の規則)研究の集大成ともいうべき『長歌玉琴』を著した。<参考文献>佐佐木信綱『歌学論叢』
(白石良夫)

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E4%BA%BA%E9%83%A8%E6%98%AF%E9%A6%99-17010

毎日新聞記事によれば、

-------
 上村松園と同時代に京都画壇で活躍し、その後忘れられた女性画家がいた。名を六人部暉峰(1879~1956年)という。近代日本画の巨匠、竹内栖鳳に師事し、やがて栖鳳との間に7人の子をもうけ、表舞台から退いた。【中略】 暉峰は向日神社の神官の家に生まれ、10代前半で栖鳳に入門した。

https://mainichi.jp/articles/20211121/ddm/014/040/016000c

とのことなので、年齢差が七十三歳ですから、是香の孫くらいですかね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「白川殿攻落図 」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10980
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本郷和人氏『北条氏の時代』について

2021-11-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月23日(火)12時00分16秒

本郷和人氏の新刊、『北条氏の時代』(文春新書)を途中まで読んでみました。

-------
鎌倉幕府150年の歴史をつくった謎の一族、北条氏。
名もなき一介の一族はなぜ、日本の歴史を変えることができたのか――。
北条氏の時代を象徴する「七人の得宗(当主)」を中心に読み解く。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613373

「姫の前」については、比企氏の概要を述べる際に、

-------
 このように頼朝の政権下で権力を握っていたのは、外戚の時政ではありませんでした。頼朝政権内で時政より重んじられていたのは、すでに紹介した頼朝の乳母であった比企尼とその一族でした。頼朝は比企尼の娘たちを有力な御家人たちに次々と嫁がせ閨閥を形成しています。
【中略】
 さらにこの次女と三女は、頼朝の嫡男で後継者の頼家の乳母となっています。頼家は、北条政子の子供でありながら、乳母は北条家の関係者ではなく、比企氏から複数選ばれたのです。さらに、頼家の妻には比企家の当主・能員の娘若狭局(生没年不詳)を迎えています。のちに本書の主人公となる北条時政の子義時の最初の妻・姫の前(?~一二〇三)もまた、比企一族の娘です。
-------

とあって(p44)、姫の前が比企氏の乱で一族とともに死んでしまったという扱いですね。
ただ、伊賀氏の乱に関する記述の中では「義時はもともと比企朝宗の娘を妻にしていたのですが、比企の乱の後に彼女と離縁しています」ともあるので(p129)、この二つの記述の関係をどう考えたらよいのか、九月以降に離縁し、年内に死去したのか、という問題もありますが、恐らく本郷氏は何も考えておられず、単なる勘違いだろうなと思われます。
森幸夫・細川重男・呉座勇一氏の場合、あくまで義時の視点から「姫の前」を見ているだけで、「姫の前」から義時がどのように見えるかに考えが及ばない、つまり思考がマッチョに過ぎる点を私は批判したのですが、本郷氏はそもそも「姫の前」に全然興味がないようですね。
私としては、「ずっこける」という古語を用いなければ対応できない事態です。
ま、こうした細かい点はともかく、本郷氏の大局を見る能力はやはり参考になります。
例えば「第四章─民を視野に入れた統治力」の冒頭には、

-------
経時の時代
 二十年近くにわたった泰時の治世の後を継いだのは、孫にあたる北条経時でしたが、病弱だったこともあり、わずか四年政務を執っただけで引退し、その後すぐに亡くなっています。執権として在職した時期は短かったのですが、幕府の本質にかかわる重要な事件が起こっています。それが北条家による将軍「解任」事件でした。
 実はこの事件の背景となる不安定要因は、前の代の北条泰時のころから潜在していたものでした。泰時は破綻を破綻のまま抱え込むようなタイプの人だったといえるでしょう。良くいえば、器が大きく、なんでも取り込める、悪くいえば問題を先送りしてしまう人物なのです。たとえば北条一門の"反逆児"、名越朝時が北条本家に対抗意識を燃やしていることは明らかでしたが、政権内にとりこもうとしています。後鳥羽の正統を復活させようとした九条道家にも徹底的な排除はおこなわず、後には復権を許しました。
 結果的には泰時が自分の世代で処理しなかった問題が、次の世代で大爆発することになったといえます。
-------

とありますが(p172以下)、「泰時は破綻を破綻のまま抱え込むようなタイプの人だった」という人物評には、なるほどなと思わされます。
それと、本郷氏が年来主張されている「撫民」と浄土宗との関係も、やはり興味深いところです。
本郷氏の関心とはズレますが、私は「姫の前」を調べていて鎌倉時代の浄土真宗と接点を持つことになりました。
というのは、源具親と「姫の前」の間に生まれた源輔通(1204-49)の女子が後深草院二条の父・中院雅忠の後室となり、『とはずがたり』にも「大納言の北の方」「まことならぬ母」として登場しているのですが、輔通の異母弟には小野宮禅念という僧侶がいます。
そして小野宮禅念は親鸞の娘覚信尼の後夫であり、その息子が浄土真宗の歴史の上では極めて重要な人物である唯善なのですが、驚いたことに唯善は「大納言雅忠の猶子」であり、従って後深草院二条とも何らかの関係があったかもしれない人物ですね。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65800c8bdbfcba6cde8d34f56280c945

そこで、浄土真宗は全く不得意な分野ながら、中院雅忠が浄土真宗の歴史の中で果たした役割の断片でも見つけることはできないだろうかと思って、素人なりにあれこれ調べてみたのですが、結局何も分からず、放置したままです。
この辺りも余裕ができたら再度取り組んでみたいですね。

今井雅晴氏「唯善と山伏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfd71231cec964dfed9964b7a203e5ac
今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4202e02e274c369f47c699f70c68404a
重松明久『人物叢書 覚如』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c860bee63eefcce083e9a8a8f899a57
『慕帰絵詞』に登場する「小野宮中将入道師具」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e717946835992c753bed16d75f6da3
二人の「宮内卿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa2b899cb15e8906fc13509f17b2c57d
ミスター宮内卿を探して
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d226c24b2af0c6b9dac3e9af550da63
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細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた承久の乱の戦後処理

2021-11-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月22日(月)11時10分20秒

『頼朝の武士団』の「洋泉社歴史新書y版参考文献」を見ると、文献の多い順に野口実11、安田元久9、元木泰雄・湯山学6、関幸彦5、高橋昌明4、石井進・奥富敬之・細川重男3、となっていて(2以下略)、野口実氏の影響力の強さが窺われますが、野口氏の最近のツイートを見ると、『頼朝の武士団』をディスっているのかな、みたいに感じられるものが多いですね。
特に、

-------
地方武士たちが内乱に身を投じた根本的な理由が、一族間の内紛や在地支配における利害関係の衝突に基づくことは言うを俟たず、その行動が中央の政治情況に大きく規定されていたことは銘記されなければならない。こうした観点からすれば、頼朝が内乱の最終的な勝者となった理由も判然とするであろう。
頼朝が後白河院の武力を担った義朝の遺子であり、院近臣を輩出した熱田大宮司家出身の女性を母とし、少年期に院の同母姉の上西門院に仕え、従五位下右兵衛権佐という官歴をもつ存在であったことの意味は大きい。当然、「武家の棟梁」にとって必要欠くべからざる属性は「情」などではなかったのである。

https://twitter.com/rokuhara12212/status/1461133870984687617

というツイートは、明らかに細川著の、

-------
エピローグ─鎌倉幕府の青春時代─

 「頼朝時代の鎌倉幕府の根幹にあったモノは、何か? 一言で答えよ」
 と問われたならば、私は、
「情である」
 と答える。
 まだまだまったく脆弱であった組織や制度を強力に支えていたのは、良くも悪しくも、源頼朝を中心に形成されていた人間関係であった。
「感情の動物」である人間一人一人が結ぶ関係は、脆い。それが、鎌倉幕府という巨大な人間集団を形成し維持する役割を果たし得たのは、その人間関係の中心に源頼朝があったからである。蜘蛛の巣状に重要に結ばれた「情」の連鎖の中心には、常に頼朝があった。
 この時代の鎌倉幕府をまとめ上げていたのは、頼朝という個性であった。
 頼朝という個性を中核とした「情」の連鎖無くしては、そもそも鎌倉幕府は存在せず、よってその武力も財力も、そして勝利もあり得なかったであろう。
-------

という記述(p255以下)への批判なのでしょうね。
私自身は「鎌倉幕府の青春時代」までは細川氏の言われることに相当の説得力を感じますが、ただ、大姫入内問題あたりから後になると、頼朝と御家人たちの間にも相当の隙間風が吹いていたように思われます。
ま、この時期、『吾妻鏡』の欠落も目立つので、詳しい事情は分かりませんが。
さて、私の個人的関心からは、承久の乱の戦後処理の部分も気になります。
この点、細川氏は『吾妻鏡』の記述に基づき、時系列に沿って、承久三年(1221)七月八日、行助入道親王(後高倉院)の「御治世」が決定されたことについて「空前絶後」と評し、

-------
 異例のテンコ盛りであるが、当時は院政が朝廷政治の「あるべき姿」であり、幕府を含めて、それが当時の人々の「常識」であった。そして、人は「あるべき姿」と考えるものを守ろうとするのである。
-------

とされ(p358)、七月十三日、

-------
八日に出家した後鳥羽院は、隠岐国に遷御(天皇・上皇・皇太后などが居所を変えること)するため、都を出御(天皇・上皇・将軍などが外出すること)した。事実上の配流である。
-------

とされ(同)、以後、順徳院(佐渡)・六条宮雅成親王(但馬)・冷泉宮頼仁親王(備前)のそれぞれについて「事実上の配流」という表現を繰り返されます。
そして「コラム⑥」(p361以下)では、政子が「事実上の将軍」であることについて詳しい説明があり、更に「9 義時・政子と御家人間抗争の終焉」では、

-------
 『吾妻鏡』は、政子をその神功皇后の「再生」(転生。生まれ変わり)と記すのであり、すなわち政子を鎌倉殿(征夷大将軍)歴代に加えている。
 これは何も『吾妻鏡』だけの贔屓の引き倒しではなく、政子を鎌倉将軍歴代に入れる史料は多い。主なものを史料名のみ記すと、『鎌倉年代記』・『武家年代記』・『将軍次第』(以上、鎌倉時代末期成立)・『鎌倉大日記』(南北朝時代末期)・『御当家系図』(密蔵院甲本。戦国時代成立)・『相顕抄』(織豊期には存在)などなど。
 前近代には、神功皇后が第十五代天皇とされていたように、政子は事実上の第四代鎌倉殿とされていた。そしてこれまで見て来たように、実朝暗殺後の政子は、実際に事実上の鎌倉殿として活動していた。「尼将軍」は実質をともなっていたのである。
-------

とされます。(p374以下)
このように、細川氏は何度も「事実上の」を繰り返されますが、それは後鳥羽院等の「配流」は律令法の大系で説明できないからであり、また、政子が「事実上の鎌倉殿」とされるのは、政子が征夷大将軍に任官されておらず、これも律令法の大系では何とも説明しづらい存在だからですね。
この「事実上の鎌倉殿」という表現は、結局のところ細川氏が天皇を頂点とする一つの国家を疑うべからざる前提としていることを示していますが、「東国国家論」に立てば、別にその首長たる地位は他国(西国国家=朝廷)に認定してもらう必要はないので、政子は事実上でなく「合法的」な鎌倉殿といえそうです。
また、後鳥羽院等の「配流」は、律令法の大系では説明できないとしても、「西国国家」と「東国国家」が戦争し、「西国国家」が無条件降伏した結果生まれた新しい「国際法秩序」の下では、これも事実上ではなく「合法的」な配流といえそうです。

承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c

>筆綾丸さん
本郷著、私も読み始めました。
感想は後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「セルラー国家とGPS」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10978
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細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」

2021-11-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月21日(日)14時07分30秒

細川重男氏の『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(朝日新書、2021)では、最初に、

-------
北条義時に書かせた起請文
 義時絡みでは、もう一つエピソードがある。
 建久二年(一一九一)、義時は恋をしたのである。相手は比企尼の孫娘(子息朝宗の娘)で幕府の官女(侍女。メイドさん)であった姫前〔ひめのまえ〕。スゴイ!美人(容顔はなはだ美麗)であったそうである。
 義時は万事に消極的なタイプであるが、この時ばかりは違い、何通も何通もラブレター(消息)を送った。しかし、姫前は「権威無双の女房(官女におなじ)」と称されており、プライドの高い、いわゆるタカピーなタイプだったらしい。ぜんぜん相手にしてもらえず、義時はモンモンとした日々を過ごしていた。
 この時点で、義時は二十九歳。長男の泰時がもう九歳である。満で八歳、ちびまるこちゃんの一コ下、小学二年生の父親でもある、いい歳をした大人が「中学生でもあるまいに」と思うのであるが、まァ、義時はそういう人である。
 翌建久三年になって、これを聞きつけた頼朝が、自ら仲介に乗り出した。
 頼朝は姫前に向かい、
「『絶対離婚しません』て起請文(神仏への誓約書)、書かせるから、結婚してやれ」
 (将軍家これを聞こしめされ、離別を致すべからざるのむね、起請文を取りて行き向かうべきのよし、件の女房に仰せらるるの間)
と命じた。
 おそらく頼朝が直接、義時に起請文を書くことを命じたのであろう。この時、十六歳違いの義兄と義弟との間で、どんなやり取りがあったのであろうか。次のような会話が思い浮かぶ。
【中略】
 かくて義時は起請文を記し、めでたく姫前と結婚したのであった。
 建仁三年(一二〇三)九月、義時を含めた北条氏は姫前の実家比企氏を滅ぼし(比企の乱)、結果、姫前は義時と離婚して、貴族と再婚することになるが、それはずっと未来のことである。
-------

とあって(p249以下)、次いで、比企氏の乱の最終局面で、

-------
 ところで、この事件における義時の存在感は意外なほどに軽い。小御所攻撃の大将格であっただけで、後は仁田一族の早とちりで自邸を攻められただけである。
【中略】
 義時にしても、愛妻姫前は比企朝宗の娘であり、小御所攻撃は本音で言えば、やりたくない仕事であったろう。北条一族が生き残るか滅びるか、運命の決まる事態であったのだから、戦わざるを得なかったではあろうが。
 姫前はおそらくは比企の乱の直後に義時と離婚し、村上源氏の朝廷貴族源具親と再婚して、翌元久元年輔通を生み、承元元年(一二〇七)三月二十九日に没した(森二〇〇九)。義時との間に生まれた朝時(建仁三年十歳)・重時(六歳)の家系名越流・極楽寺流は共に北条氏の有力庶家となる。
 義時も姫前も、比企氏滅亡後に夫婦であることはいたたまれなかったであろうが、義時が頼朝の命で書いた「絶対離婚しません」という起請文の誓いは守られなかった。
-------

とあり(p299以下)、細川氏の認識が森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)に由来するものであることが分かります。
ただ、比企氏の乱の戦闘自体は九月二日の一日限りですが、比企氏は当時大勢力だったので、その関係者の捜索・処分は長引き、いくら義時の正室とはいえ、「姫の前」も自身の運命について不安が全くなかった訳ではなさそうです。
また、一族滅亡とはいえ、武家社会の最高クラスの女性が京都に移動するにはそれなりの時間がかかるでしょうし、また貴族社会の一員に再嫁するにもそれなりの時間がかかるはずです。
更に再婚相手の源具親にしてみれば、比企氏の乱の直後だと、比企氏の女性を匿った、みたいに幕府に疑われかねない非常に怖ろしい時期ですね。
ところで、源輔通が元久元年(1204)の何月に生まれたのかは分かりませんが、細川氏の言われるように「姫前はおそらくは比企の乱の直後に義時と離婚し、村上源氏の朝廷貴族源具親と再婚」したのだとすれば、「姫の前」が輔通を妊娠したのは前年の十月から当年の三月くらいまでの間になるはずで、ずいぶん忙しいスケジュールです。
まあ、そこまで慌ただしい話ではなく、むしろ比企氏の乱の前に義時と「姫の前」は離婚しており、「姫の前」が京都に行って源具親と再婚した後、比企氏の乱が勃発した、と考える方が自然ではないかと思います。
もともと「姫の前」は義時に全く好意を持っていなくて、頼朝が命じたから仕方なく義時と結婚してあげたという立場であり、「姫の前」自身は「「絶対離婚しません」という起請文」を書いたりしていません。
そして、「姫の前」が義時との間の第二子・重時を生んだ翌年の建久十年(正治元、1999)正月、頼朝が没しているので、「姫の前」としては頼朝への気兼ねがなくなって、心晴れやかに義時に三行半を突き付けたのではないかなと私は想像します。
そうだとすれば、義時にしてみれば比企氏の乱は「やりたくない仕事」どころか、「姫の前」と比企家にかかされた恥を雪ぐ絶好の機会であったことになります。
ということで、「姫の前」との離婚は、比企氏の乱の結果ではなく、むしろ原因の一つの可能性もありそうですね。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612

さて、『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)の後、森氏は更に研究を進められ、「歌人源具親とその周辺」(『鎌倉遺文研究』40号、2017)という論文を書かれていますが、武家社会、特に六波羅の官僚層に詳しい森氏も歌壇の分析は苦手のようで、私としてはあまり参考になる情報は得られませんでした。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その3)~(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46c1bc2dcb83e23319bf2e7efdcc0396
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
比企尼と京都人脈
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55341373fc51df8abada0bf0571afc5c
紅旗征戎は吾が事に非ざれど……
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5ab6f8837755b2f0369eff23b10473b
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