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Terror of jurisdiction ~加古川事件について

2007年04月27日 20時41分34秒 | 法と医療
これが典型例ですね。現実に取り得る対応が無理なのに、それを求めるというものです。

健康、病気なし、医者いらず

こちらの記事を読んで知りました。


新聞記事はコレ>asahicom:加古川市に3900万円賠償命令 心筋梗塞の男性死亡 - 関西

(一部引用)

橋詰均裁判長は「効果的な治療を受けていれば90%程度の確率で助かった」として、請求通り約3900万円を支払うよう同市に命じた。

判決によると、男性(当時64)は03年3月30日、自宅で心筋梗塞の症状が出たため、午後0時15分ごろ、妻が同病院に連れて行った。担当医師は同0時40分ごろ、急性心筋梗塞と診断して点滴を始めたが、症状が変わらないため、同1時50分ごろ、効果があるとされる経皮的冠動脈再建術(PCI)が可能な同県高砂市の病院への転送を要請した。しかし男性の容体は悪化し、同3時35分ごろに加古川市民病院で死亡した。判決は「約70分も転送措置が遅れており、医師に過失があると言わざるを得ない」とした。




この判決のポイントとしては、①転送要請が70分遅れた、②この遅れがなければ効果的治療を受けられた、③その結果90%程度の確率で助かった、というものです。
つまり、「70分遅れずに転送できていて、PCI が実施できていれば、90%程度の確率で助かる」ということですね。これはまさに「50m間隔で救命員を配置しておけば助かったに違いない」の論理ではないでしょうか。現実に困難なことを「当然である」として裁判所が主張するものです。
第一に、日本全国で70分以内に転送可能かつPCI を即時実施可能な医療機関網が整備されているのか。大都市だけの特殊な事情で時間基準を語られても現実には実行不可能である。「○○分以内に治療を受けられれば助かった可能性」を語る時には、普遍性のある基準を適用するべきである。70分以上とか2時間以上行かないと無理だという地域もあるのなら、それらは「治療を受けられる権利、助かる権利があったにも関わらず、国や自治体がPCI を実施可能な医療機関を整備しておかなかったことは不法行為に該当する」ということなのか?

<寄り道:
参考までに言えば阪神大震災の時、「15分以内に派遣要請でき、自衛隊や米軍が展開していれば助かった可能性が高い」ということはあるだろう。検死では15分以内の死亡が65%であったが、残り35%はそれ以降の死亡である。つまり、救助が1時間以内とか2時間以内に到着していれば助かった可能性はあった。5時間も6時間も経過してから要請したりしなければ、神戸市内にもっと早く救助部隊が到着できた。即ち首長に過失があったと言わざるを得ない、と言えよう。>


第二に、受け入れ先が決まっていない時に救急車が来ても、行き先がないと動きようがない。救急隊は「何処に行きますか」とまず確認するであろうし、受け入れ病院もないのに、運んで行ってはくれない。行き先指定は、基本的に医師が行う以外にない。受け入れを打診された側は、結論を直ぐに出せるものではない。奈良の死亡事件でも触れたが、連絡のやり取りや受け入れ決定過程で時間がかかってしまうのは回避できない。要請側要因ではない(電話をかけるしかできないので、時間を浪費しているのは要請側ではない)にも関わらず、これを過失と認定されてしまえば、お手上げであろう。

大体、診断がついていて、「ここではできない」ってことがハッキリと判っているものを、どうしてもここに置いておかねばならない、などと誰も考えたりはしない。しかもAMI という事態がどういったものであるかなど、裁判官に言われたくはないであろう。

遺族感情としては、数時間前まで普通に歩いていたのに、僅かな時間で死亡に至ったことや特別な治療(テレビなんかに出てくるような緊急手術みたいなものか…)もしてくれず、ただ放置されていたということへの不満があるのは想像できるが、「どうにもできない」場面というのは必ずあるのであり、その場で最善を尽くしたとしても救命できない例は存在するのである。


裁判官の判決にあった「90%程度の確率で救命できた」という理屈は、恐らくAMI の時間経過と死亡率の関係から推定されたものと思われる(これは私の推測に過ぎないので判決文を読んでみないと判らないのであるが)。発症から時間経過と伴に「死亡率がどんどん高くなる」というのは確かにそうなのだが、たとえ「1時間以内」に治療開始であっても「全員が助かる」訳ではないのである。仮に9割が救命されたとしても、死亡は10%存在するのである。

急性心筋梗塞治療の最前線

こちらの記事によれば、「専門施設のある病院到着後の死亡率は5~10%」となっており、「専門施設があるからといって全例助かるわけではない」し、死亡率をゼロにできるわけではないのである。

裁判官は「降水確率90%」という時に雨が降らなかったとすれば、「90%の確率で雨が降るのに雨が降らないはずない、絶対にオカシイ」と言って過失認定(笑)するのかもしれないが、そもそも考え方が根本的に間違っているのである。100例集めれば90例は救命できた、ということであっても、特定の「1例」が10例に入るものか90例に入るものかは特定できるとは限らない。降水確率90%の予報の時、雨が降ることを約束するものではないし、100回中10回程度くらいは雨が降らないことも有り得るのである。今日も明日も同じ降水確率90%である時、今日雨が降ったからといって、「明日もきっと雨が降る」とか「今日降ったから明日は降らない」とか決定できるものでない。明日はやはり「90%の確率」で降るか降らないかのどちらかとしか言えない。

裁判官の論理を用いるならば、「降水確率90%」と言った時には、「明日必ず雨が降ります」と絶対的に正確な予言をしているのと同じである。「救命率が90%であれば、必ず助かった」という予言を判決で述べているのであり、裁判所とは胡散臭い霊能者と同じような予言を授ける場所なのであろうか?(もしも特定の1例が救命可能な90%に入る、ということを明確に主張するのであれば、裁判官はその立証責任を負うはずであろう。なぜ救命できないかもしれない10%に入ることなく、残りの90%であるのかそれを証明する必要があるだろう)。

他の法曹は、なぜこうした判決について真剣に検討したりしないのであろうか?
本当に検討されているとすれば、このような判決は出されるはずはないのではないかと思う。裁判官たちの能力について、誰もその責任を負わず、結果責任も問われず、過失認定されることがないからなのではないか?こうした判決が放置されていることに疑問を感じざるを得ないのである。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その2

2007年04月27日 16時26分36秒 | 法と医療
シリーズの続きです。

◎医療については刑事責任を問うべきではない、と言えるか

前回は業務上過失致死罪について書いた。もっと大きな問いとして、刑事責任を問うことについて書いてみたい。
よく聞くのは、「過誤を無くすことにはならない」とか、「ミスを隠すことになるので逆によくない」といったものがある。確かにそうした一面はあるのかもしれない。けれども、全てを不問とすることが望ましいのかと言えば、それには懐疑的だというのが私の意見である。

やや現実離れした想定になってしまうのであるが、所謂「人体実験」のような、医療行為を用いた「非倫理的行為」が絶対に生じることはなく、それら事実が皆無である、という確信は持てないからである。言い方によって印象は変わるかもしれないが、漫画などで描かれるような狂人的科学者の人体実験とまでは行かないまでも、「新たな挑戦」「誰もやったことのない手術」といった未開領域に携わることは今後も起こってくるので、そうした時に「何の歯止めもなくて大丈夫なんだろうか」という不安は残るのである。手続の問題とか、体制整備の問題なども関係してくるのであるが、「倫理的に」責任を負うだけでいいのか、ということである。新技術を生み出すことは必要であるし、その恩恵を受けられるようになった方がよいことは多々あるが、それを医療者側の倫理だけに依存することは、システムとして問題があるのではなかろうか、ということだ。

よって、医療側に課せられる責任としては、行政責任、民事責任は当然であるとして、刑事責任を完全に外すのがいいかと言えば、残しておくのは仕方のないことではないか。現在紛糾の種となっているのは、刑事責任の適用範囲が拡大されたり不可解な適用の仕方であったりするので、そのあり方を考えるのは当然としても、完全に刑事責任を負わせないようにすることがベストであるとは思われないのである。

理由としては、大体次のようなものを挙げておきたい。

・生命身体に重大な影響を及ぼす強力な権限を有している
・医療行為と称して倫理に反することが実行可能である(人体実験等)
・社会通念上許容し難い過失は起こり得る(誰もが思う重大な過失等)
・犯罪行為を目的として行われる可能性がある(見せかけ殺人等)

もしも今のような刑事責任の問い方というものを改善できていくならば、理不尽な責任追及は減少していくはずで、そうであるなら、仮に刑事責任を負っていても圧倒的大多数の医療従事者たちには問われないことが多くなるであろう。なので、今の刑事責任の追及の仕方を変えるべきではあっても、刑事責任を無くすことが良いということにはならないのではないかと思う。


これまでの問題点の大きな部分は、責任を問うているのが警察であったり、検察であったりすることで、「何もよく判っていない連中が、彼らの理屈に基づいて闇雲に追及している」という反感が多いのではなかろうか。この辺は当事者たちの意見を聞いた訳ではないので、実際どうなのか全く知らないのであるが、少なくとも「何にも知らないヤツラ」に、「オマエがやったんだろう、ミスったんだろう」みたいな犯人扱いを受けることが我慢ならないのではないかな。更に取調とか逮捕等という事態で犯人扱いをされると、報道による被害によって社会的制裁を受けることが多々あり、そこでも被害が拡大することになるので、許容し難いということではないか。

裁判所の判断にしても、専門的知識を欠いており(それは全ての分野の専門家になれないので止むを得ないのだが)、裁判官ごとでバラツキや主観が大きく左右してしまい、妥当性に欠けている面が見られるということなのではないか。これら司法権力への不信感が募っていることの解消を考えるべきであろう。裁判官側からすると、遺族感情とか遺族補償への配慮という別な側面もあり(刑事事件に限らず、民事事件にそうした傾向が窺えるかもしれない)、やや無理な理屈が持ち出される可能性はあるかもしれない。

なので、医療行為の妥当性とか責任の判定というものと、賠償の問題とをシステム的には分離しておくことが望ましいと思う。医療行為の有責性には関係なく、保険によるカバーがあるべき、ということである。これまで問題になりがちであったのは、「賠償責任の発生」が医療側の過失認定に密接につながっており、その為に必ず過失を認定しなければ「賠償されない」ということが起こってしまうことだったのではないかと思えるのである。医療側の過失がないとしても、言ってみれば「事故保険」のようなもの(疾病に起因しない、医療行為に伴うaccident)として支払対象とする、というようなことだ。これについては、本シリーズで後ほど検討してみたい。


まとめとしては、

・刑事責任を負うことは残されるべき
・取調を警察や検察から他へ移すべき
・専門性に基づいて判定が必要
・責任の判定と賠償は分離すべき

といったところでしょうか。
次からは、具体的な内容を書いてみようと思います。