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医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その3

2007年04月29日 16時36分16秒 | 法と医療
これまでは主として司法側の問題について取り上げてきました。今回は医療側の問題点について考えてみたいと思います。

かつて民事事件の医療裁判というのは、原告側(遺族とか本人とか)が勝つことは容易ではありませんでした。うろ憶えですが、勝訴率は3割強くらいで、近年は増えてきていて5割くらいになっていたと思います。昔は「原告の立証責任」という壁があったからであろうと思います。基本的に原告側が被告(医療)側の「過失について立証しなければならない」ということになっていて、あくまで素人に過ぎない原告側が医療側のミスを適切に証明することは、誰がどう考えても不利であり困難です。しかも、素人の意見を「ハイ、そうですか」と裁判所が認めてくれるはずはありませんので、必ず「鑑定医」を見つけて専門的立場からの意見を附与して、医療側の過失があったことを立証せねばならなかったのです。その嫌な役回りである鑑定医を見つけ出すというのは、多くの原告にとって大変なものであったろうことは想像に難くはありません。そういうこともあって、中々「勝てない裁判」というのが医療裁判であったろうと思います。

しかし、時代とともに裁判所の考え方が変わってきて、高度に専門的な分野について原告側に立証責任を課すのは厳しすぎる・不公平である、ということが認められるようになり、被告側が立証責任を負う方向へと進むことになりました。鑑定医の意見についても、昔より改善されてきました。これら要因もあり、勝訴率は上がってきたのではないかと思われます。最近の司法側の姿勢については、これまでの記事でも触れてきましたので、ここでは省くことに致します。大雑把に言うと、このような流れで今日に至った、ということです。

医療裁判の実情に詳しい訳でもないのですが、私の個人的印象を書いておきたいと思います。


・勝利至上主義的な医療裁判

まず第一に、昔の裁判のあり方とか、論点についてかなり問題があったのではなかったかと思います。医療側のありがちな行為としては、所謂「カルテ改竄」です。証拠として提出しなければならないでしょうけれども、原告側はそれら記録から過失を探し当てたりしなければならなかったので、記録が不正確であったり書き換えられたりしてしまえば、証拠など見つけられるはずもありません。そうした行為は多かったかどうかは知りませんけれども、ないとは言えなかったでしょう。裁判所は「不誠実な証拠」に基づいて判断を下さざるを得ませんでした。故に、簡単には勝てない、と。

それから、被告側弁護人は当然ついていたでしょうけれども、この弁護人自体が「悪い方向」へと導いた面もあったかもしれません。それは裁判のテクニックであって、非難されるべきものではないかもしれませんが、「裁判に勝つこと」と「問題を解決へと導くこと、真実を明らかにすること」というのは全くの別物であった、ということです。更に、そうした裁判を積み重ねても、「医療側の過誤防止」などには繋がり難かったのであろうと思うのです。それは「原告が負ける=これまで通りでいいんだ」という勝手な解釈で改善せずにやるとか、あくまで個別の問題としてしか医療側が受け止めておらず、医療界全体で「何とか改善していこう」という風には動いていかなかった、ということなのではないかな、と。

不正確かもしれませんが、昔の判決文などを目にする機会があって、ありがちな医療側主張に「特異体質であった」というのを幾度か見たように思います。「特異体質」を理由として原告敗訴というのは、事件の原因にも迫っておらず、科学的な考え方でもありません。そもそも「特異体質」なる体質など存在しているのかさえ疑問であると言わざるを得ません。しかし、当時にしてみると、「特異体質に過ぎなかった」、だから患者は他の人には有り得ない反応を示したんだ、それ故医療側には過失がなかったんだ、という「定型的な流れ」と言いますか裁判上の論点として駆使されがちな「お決まりのパターン」ということだったのではないかと思います。これを主導したのは誰かと言いますと、そういう判例の流れを作った裁判官たちであり、それを巧みに利用して何度も主張を繰り返していた「被告側弁護士」です。医療側はそうした「司法の欠陥」というか、司法側の盲点・不備に乗じていたに過ぎず、「本当は知っているけど黙っておこう」という態度で過してきたのではないかと思うのです。医療側は原因究明という立場を殆ど放棄してきたのではないでしょうか。そういうことを長年繰り返していたんだろうな、と。

これら背景があった医療裁判に関して、医療側が常に真実を明らかにしようとしていたなら、もっと違った形が現在にはできていたかもしれませんし、そういう方向に誘導してきた「裁判のテクニック」とか「裁判のあり方」というものについて司法側ももっと深く検討するべきであったのではないかと思うのです。それでも、段々と司法側の対応が変わっていって、原告に不利な要因ばかりではなくなってきています(むしろ、医療側が目の敵にされているかもしれません)。最近の裁判で「特異体質であった」とかいう主張を見たことはありませんし(笑)。

<寄り道:
特異体質であった、との理由が通用しなくなったのは何故なのか判りませんが、勝手に想像させてもれえば、何度も何度も「御馴染み」の理由であったので、さすがに裁判官も「こんなに特異体質というものが度々あるのはオカシイんじゃないか?」とふと疑問に思った人がいたのかもしれませんね(笑)。だって、この人もあの人も「みんな特異体質」ということであれば、極めて稀なのではなくて「(ひょっとして)ありがちな体質なんではないか?」と普通は疑問に思いますよね。実際にどれくらいこの理由が通用していたのかは、よく知らないので、判例数として多かったかどうか判りませんが。>


・コミュニケーションの不足

第二に、裁判になるというのは、医療側の対応に問題があったケースが多いのではないかということです。不幸な転帰となった例が全て訴訟提起されるということではないと思いますし、発端としてありがちなのではないかと思うのは、感情のこじれのようなものがある場合なのではないかな、と。通常の人であると、医療側が「誠実に、隠したりウソをついたりせずに」対応をしているのであれば、裁判に訴える、という風にいきなり紛争とはなり難いのではなかろうか、と思うのです。そこでは何が一番不足しているかというと、多分「対話」なんだろうな、と思うのです。原告側としては、「話しを聞きたい、真実を知りたい」ということが大半なのではないかと思われ、そこで「相手に判るように、きちんと理解できるように」説明したりすることが必要なんだろうと思いますけれども、それが中々難しかったりします。特に、医師が時間を多く割いて遺族等と会話を積み重ねるというのは、現状の医療システムからすると大変なのです。そのような余裕が医療側にはないのであろうな、と思うのです。医療側は相手が「納得できない」と言い続ける限り、際限なく説明を繰り返さざるを得なくなるでしょう。そういうことが負担になっている場合もあるかもしれないですね。或いは、感情的に許せない、だから相手を罰して欲しい、何らかの制裁・苦しみを与えて欲しい、というような気持ちになることがあるかもしれません。

現在の医療制度の大きな欠陥の1つには、こうした「会話の為のコスト」というものが考慮されておらず、医療側が実行しようとしても、絶望的な状況であることです。医師本人が話すことは当然必要なのですが、患者・家族側の聞きたいことというのは、必ずしも専門的なことばかりとは限らないし、的はずれであったりどうでもいいような質問なんかも多く含まれることも多々あり、それを全て担当医師が応対しなければならないというのはかなり困難なことなのです。そういう「会話を積み重ねられる人」が誰か必要なのですが、看護師が対応していることがあるかもしれませんけれども、ありとあらゆる説明をできるかと言えば、それは難しいのですよね。つまり医師と患者やその家族を結ぶ通訳者といいますか、仲介者が必要なのではないかな、と。説明する側がよく知っていることを話すのと、説明を受ける側がそれを理解できるのとは違いがあるのです。聞く側の理解力や理解可能な内容などは、個人差によってかなり大きな開きがあり、説明にかける時間も随分と違うのではないかと思われます。

事前説明の不足や会話不足を補うという意味で、医師以外の人材が必要であろうと思います。判決に見られる詳細な「説明義務」を果たしていく、ということを達成する上でも、こうした専門性の高い(医師と同等のレベルが求められるであろう)人材の配置が可能な医療制度が必要だろうと思います。もしも医師にそれを行わせるのであれば、その為のコストを認めるべきであり、医師以外の人材でもよしとするのであれば、その人材配置に係るコストを認めるべきであろうと思います。


・期待権と医療水準の乖離

最後に、患者側の期待と医療側が提供可能な医療の質の乖離について考えてみたいと思います。患者側には「当然こういう医療を受けられるであろう」という期待権が認められており、医療側は現在の医療水準に照らして妥当な水準の医療を提供する義務があると考えられています。「提供するべき義務を負う医療水準とはどのレベルなのか」ということは、過失認定においても重要なのです。近年の裁判の傾向で見れば、この水準がかなり高く設定されていると思われる面があり、原告側主張では「当然受けられたであろう医療の質」をかなり上げてきていると思うのです。そしてそれが認められ、勝訴することで、患者側期待は更に大きく膨らみ、医療側に負担を強いる結果となっているのであろうな、と思われます。期待権の権益は現実(医療現場の実態)を無視しており、社会的に可能な範囲(行政施策上の範囲)を超えて拡張していく一方である、ということです。

紛争例では、「何もしてくれなかった」という遺族側主張が見られますが、「医師であれば全ての治療行為が提供できる」とか「病院であれば最善の治療を受けられる」というような、現実には困難としか思えない過度な期待というのが根底にあるような気がします。加古川事件のように「点滴だけしかしてくれなかった」というのも、その場ではTNGやリドカインを入れていたので、治療行為は行われているわけです。それを理解して欲しいと言ったとしても、「納得できない」という究極の反論を返されてしまえば(以前にも書いたが、相手が納得するまで説明(or謝罪)する、というのは永遠に納得してくれないことが有り得るので究極的なのである)、それ以上はどうにもできないのです。


また例で考えてみます。
「カレー店」が多数存在するとして、「カレーを食べられる」という期待には応えるべきでありましょうが、全ての店で「カツカレー」が食べられるべき、というのは難しい場合があります。それとも、「ちょっと辛口の美味いカツカレーに目玉焼き乗せ」というメニューであるとか、「餃子カレーも食べさせてくれ」という期待をされても、できないものはできないのです。患者側期待として、例えば、90%以上のカレー店では「カツカレーを出している」という一般的に認識されている事実があるとすれば、「カツカレーを食べられたはずなのに」ということは言えるかもしれないが、「ちょっと辛口の美味いカツカレーに目玉焼き乗せ」という稀なメニューを「期待していたのに食べられなかった」と主張することは無理なのではないでしょうか。提供(医療)側としては、取りあえず「カレーを出す」ということくらいしかできないので、たとえ相手の意に沿わないにせよ「カレーを出す」のです。これを「何もしてくれなかった」「放置された」と言われてしまうと、「当店は万能ではなく、置いてないメニューは作れません」としか答えようがないのです。「だって、店に入る前に入り口に書いてなかったから判らない」とか、「カレー店としか理解できない、他との区別がつかないからしょうがない」とか、そういう理由を投げかけられても、全てのカレー店のメニューを詳しく表示したり全員に理解できるようにさせることは無理なのです。それをやろうとするなら、分厚い医学書と同じ情報を各個人に理解してもらうしかないのではないでしょうか。もの凄い複雑なメニューが必要になってしまう、ということです。

もっと厳しいのは、カレー店で「○○パスタのオイルは通常Aなのに、A以外の種類に変わっていたことが何故判らなかったのか」とか言われてしまうことです。パスタについては、カレー屋さんにとってはよく判らないことが多いだろうと思うのですが、「パスタは専門外ですので…」という言い訳は通用しない、ということでしょうか。日本全国で「自分の好きな食べたいカレーのメニューが何でも作れる」カレー店を整備し、カレーばかりには限らず「パスタにも、うどんにも、ソバにも、中華まんじゅうにも、にも、にも…にも」精通しているスーパーカレー屋を生み出せる錬成システムを、誰も何の努力も負担もすることなしに「作っておいてくれ」=だから「全員できるのは当然である」ということなんでしょうか。

医療側が「当店は普通のカレーライスしかやってません」とか、「カツカレーはできます」とか、そういう情報提供を行ってこなかったことにも問題があったかもしれません。それは情報開示というか、技量に関する幻想を抱かれないように、「あれもこれもできるわけじゃないんですよ」と平易に言わなかった、ということなのではないかと。業界内部では、「ああ、こういう症例は~~大学病院に行きなさい、紹介するから」とか、そういう人的繋がりでやってきたのかもしれませんが、他の多くの人々にとっては医師の区別なんかは正しくできないわけですし、技量を見抜くことも勿論できないので、「平均的な医師とはこれくらいで、スーパードクターは滅多にいないんですよ」と明確にしてこなかったのかもしれません。普通の人々にとってのブラックボックスがブラックボックスであるがままにしてきた、ということの結果が、「スーパードクター」のような幻想を生み出してしまったのではないのかな、と。


・まとめ

このように、医療側にも色々な原因を作ってきた責任はあるので、今後それらの改善に向けて努力を求められていると考えるべきではないかと思います。ただ単に「無理なんだ、できないんだ、間違ってなんかいないんだ」ということを言うだけでは、普通の人々にも司法界の人々にも、理解は得られ難いのではないかと思います。