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サンバの幻想?

2006年07月22日 16時39分10秒 | 社会保障問題
数日前、筑紫さんのニュース番組をチラッと観たら、気になったので取り上げることにします。それは産婦人科医の減少と、出産難民化という問題でした。


普通に考えると、少子化が進んでいるのだから、将来的に需要はどんどん減少していくので、医師の実数は今までよりも必要なくなる。需給関係だけ考えれば、小児科や産婦人科を選択する人数が減る方が好ましいはずだし、合理的であると言えるのではないか。経営原資をみんなが払ってくれて、赤字だろうが不採算だろうがよいのであれば、小児科や産婦人科医を規制して強制配置することも一法ではあると思うが。患者層の数が減っていき、収益的にはマイナスが予想される分野に、無理矢理「おまえが産婦人科医になれ」とか言うわけにもいかないのだから、仕方がないでしょうね。ある程度まで医師数が減少していけば、他よりも競争が少なくなって「それなりに儲けられる」という水準になるでしょうから、そこまで行けば新規参入者のインセンティブとなるのではないでしょうか。


番組中では、産科医減少の事態を改善する為の方策として、「助産師」(昔で言う「助産婦」、看護婦が看護師、保健婦が保健師と名称変更されたのと同じです)の活用を図るべきだ、というような論調でした。まあ、それはそれで一つの案であろうと思いますね。行政の方では、数年前から議論を重ねてきているようですから、今後何らかの方向性が出てくるのではないかと思います。


ここで、ある種の懐古主義的な運動というか、「女性の為の出産」とかみたいな、一部の錯覚とか誤解があるのではないかと思うので、そのことについて書いてみたい。


女性の生物学的な機能としては、「出産」というのが自然なものとして大体備わっている。それはそうだろうと思いますね。犬でも猫でも同じですね(人間の女性が犬や猫と同じだ、とかそういうことを言うワケではないですから。お間違いなきようにお願いします)。病院なんかに行かなくても、はっきり言えば野っ原とかでも産めてしまう、ということです。数千年前とか数万年前には、病院もなければ、特別な設備もないところで、誰もが出産していたんですから(笑)。そうでなければ、人類は滅亡してしまっていたでしょう。なので、出産は自然なことであり、特に病院での特別な保護がなければならないというものでもない、という面はあります。


戦後であっても、出産を自宅で行っていた人たちはたくさんいました。必ずしも病院で出産しなくても、家で十分可能だと言えます。その当時には、所謂「産婆さん」というのが呼ばれたりして、出産に立会い、子どもを取り上げたりしていたようです。田舎になると、免許を有する産婆さんがいなくて、ただ単に「おばあさん」が取り上げたりしたことも多々あったようです。(病院や産婆院に行くまで)遠距離だから、と言う理由ばかりではなく、金がないから、ということも理由の一つになっていたかもしれません。或いは、出産経験が多くなれば(今よりも子どもの数が多かった)、「病院になんていかなくても平気さ」というツワモノも増えていったかもしれませんし(笑)。要するに、「産婆さん」と、ただの「婆さん」と微妙に違いますけれども、そういう人々が出産をさせていたのです。


現代でそういうことのできる女性の数は非常に減っていると思います。これはある意味、文明化の影響かもしれません。それこそ脳の都市化、先入観が作り上げた「不安」「恐怖」とか「自分にはできない、無理だ、危険だ」という妄想の一部なのかもしれません。正確には判らないですが、その結果、大昔みたいに「誰でも自分で産む」ということができなくなってきたのかもしれません。馬とかクジラとかは、自分で産んで自分で育ててきたので絶滅してないはずで、人間だけが特別で、1人で出産できない、というのはオカシナ話なのです。出産についての「経験」や「伝承」が、時代経過と伴に失われて行ったのだろうな、と思います。


そこで近頃登場したのが、「自宅出産」とか「産婆さん」の見直し、というような風潮ですね。「昔はできたのに、今できないわけが無い」というのはその通りと思います。上述した「助産師」の話も、その延長線上にあると思います。これを復活させることで、「女性の権利が・・・云々」とか、「女性にとっての出産の意味づけがどうのこうの・・・」とか、そういう論調の一部に利用されている面があるかもしれません。私の意見としては、「自宅で産みたい」「産婆・助産師の出産をしたい」という人は、希望通りにすればいいのではないかと思います。でもそれが、「女性の地位・権利がなんたらかんたら」とかとは無関係なので、そういうのを喧伝するのは止めて欲しいと思います。酷い言い方をすれば、馬小屋でも出産できますので。出産自体は、特別なことでも何でもないんですから(たまに「嬰児殺し」事件が報道されたりしますが、そういう事件の場合には、たった一人で出産していることも多いですよね?)。あと、それを選択するのであれば、相応の覚悟をしておくべきでしょうね。リスクの問題ですが、よく考えて、判った上で選んでもらいたい、ということです。


昔の「産婆さん」や「婆さん」での出産というのは、現代と何が異なるかと言えば、自然に近い、ということであり、もっと端的に言えば、母体も出生児も「死ぬ確率」は高くなる、ということです。昔の周産期(妊娠22週以降~出産後1週)における母体死や出生児死亡はかなりの数に登っていたと思われます。母体の栄養状態や環境という要因もあると思いますが、「自然に近い」ということはそれなりの「死亡数」が必ず発生する、ということを意味しています。病院などで「救える数が増える」というのは、より不自然である、ということでもあります。ハッキリ言えば、昔ならば「未熟児」として死んでいたものが、今ならば「助けられる」ということに他ならないのであり、これは生物の選択システムとしては甚だ「不自然」で、結果的に「弱い遺伝子」が残される、ということでもあるかもしれません。


日本の周産期死亡は3.3(出生千人対)、早期新生児死亡は1.1(同)です。周産期死亡というのは、1000の出生数がある時、母体又は出生児の死亡が3.3人ある、という意味です。この水準は先進諸国の中でもダントツに少なく、先進国の大体半分くらいであり、早期新生児死亡は半分~3分の1程度に過ぎません。経年的にも、大きく減少してきました。これらは、医療の努力によって、「不自然さ」を追求していくことで達成されたのです。私が生まれた後の1970年でも、今の約7倍くらいは死亡していたのですよ。「産婆さん」の出産が今よりもはるかに多く行われていた当時は、それなりに「死んでいた」ということです。このことを受け入れられるという覚悟をする人たちは、どのような出産を選んでもいいと思いますね。

統計要覧

(リンクが貼り付けられないので、この第1-24表を見て下さい)


因みに、先進国以外となるとデータがあまりわからないのですが、テロの巣窟であるアフガニスタンでは、母体死だけで2.57、新生児死亡は17となっています。つまり、日本の昭和45年頃と似たような水準ということですよ。恐らくアフリカの栄養事情や生活事情の悪い環境であれば、もっと死亡数は多くなると思われます。これでも、「婆さん」(「産婆さん」もそうかもしれないが)の歴史の中で、伝承が何万年かに渡って行われた「知の集積」によって、人間という種族の死亡数は減ってきたはずですが、それでも現代医療の水準の方が優れているのです。出産を自然に任せておくということはどういうことなのか、考えてみることも必要でしょうね。


きっと、自然の選択システムは、無慈悲であり、残酷であり、冷徹なものなのです。他の動物にしても、過酷な選択を受けてきたはずです。つまり、出産に伴って必ず一定数は死亡していく、ということです。直ぐに死ぬことが、遺伝病を持つ個体や弱い個体を排除し、強い遺伝子を残していくという結果になってきたのかもしれません(イジメの問題とも関係しているのではないかと個人的には思っていますが、それはまた別の機会に)。そういう選別が自動的に行われる、ということです。それが最も「自然な状態」なのだろうと思います。このようなシステムに逆らって命を救ってきたのが、小児科であったり産婦人科であったりしたのでしょう。


先日にもちょっと触れました(プロフェッショナルと責任)が、医療の現場では厳しい風当たりもないわけではありません。たとえ通常ではない、稀な事例であったとしても、「救えなかった」ということは責任を追及されます。そのような情勢の中で、どの程度のリスクを取って、或いは知って、「自宅出産」や「助産師による出産」が許容できるでしょうか。もしも死亡例があって、一例でも問題となれば(過失か否かは関係なく)、医療従事者の責任追及とか行政の責任・管理体制とかが厳しく非難されると思います。メディアにしても、「たとえ新生児死亡率が上がったとしても、自宅で出産させる利益の方が大きい」などという主張を果たしてするでしょうか?(笑)


何故事前に診断できなかったのか、何故リスクが判らなかったのか、そういう追及だけはあるでしょう。産婦人科医にしても、ハイリスクグループだけ受け持ってくれ、と言われたとして、利益はそれで出せますか?医師一人当たりの診る患者数は減らせると思いますが、逆に収益にならない、時間とリスクだけが大きい患者ばかりになってしまって、経営できなくなるので早晩ギブアップするのではないかと思ったりもします。それなりの訴訟リスクも抱えることになりますし。私はそういう業界の人間ではありませんので、実際のところは判りかねますが。


出産のリスクは取りたくない、でも、女性の権利がどうの、生き甲斐がどうの、だとか、産婆は良かった、自然な出産が良かった、だとか、思い違いが多すぎなのではないかと思えますね。その代わり、昔は死んでいったんですよ。一定数は死ぬことになってしまうのですよ。その覚悟がありますか?あるなら、別に構わないと思いますよ。そのことをメディアは伝えるべきだろうね。「問題のない部分」だけを取り上げて言うのは簡単なんですよ。「何故最善の医療を受けられなかったのか?」――後からそういうことを決して言わないで欲しい。