フリーターやニートのことについては、今までにいくつか記事に書いてきました。未だに疑問が晴れないのは、「経済学理論がニートという存在をなくせるのか」ということです。これと似てるのは、最近言われる「コミュニケーション能力の問題」といったことを経済学理論が解決してくれるのか、ということですね。
景気がいい時の学生は何故かコミュニケーション能力に優れており、景気が悪いとその能力も悪くなる、というような学説が存在するのかもしれないですが。正しい経済財政政策をもってすれば、それらが解決するというのも本当なんだろうか、と思うのですね。これは誰しもそう感じると思います。
参考記事:
格差社会1
格差社会2
格差社会3
格差社会4
格差社会5
格差社会6
格差社会7
格差社会8
急に仕事を辞めたり、遅刻ばかりするフリーターは、景気が悪くて仕事に恵まれなかったが故にそういう対応なのでしょうか?人間個人の問題ではなくて、単なる景気動向によるとしたら、それも何故なのか判りません。
話が飛びますが、我が家に「人生ゲーム」があるんですけれども、これはとても古いヴァージョンでして、独身の時に買ったものです。因みに、「人生ゲームⅢ」です。子供と遊ぶ時にも、常にこれしか使ってこなかったので、時代には全く合っていません。多分92~93年頃のものだと思います(湾岸戦争ネタとかも満載です)。
で、この中に、スタート直後に選択がありまして、就業するコースとフリーターコースがあるんですね。こんな時代の人生ゲームに既に採用されてる訳です、フリーターコースが。止まったマスの仕事が気に入れば、就業コースの人達は仕事に就けるのですが、フリーターコースの人は仕事に就けない代わりに、臨時収入が多くもらえるという特典があった訳です(しばらく進むと就職チャンスがある)。当時の雇用状況は、バブル期の売り手市場でしたので、フリーターとして好きな仕事を気が向いた時にやれば、ある程度稼げたのですね。
人生ゲームの途中で、自分の意志で仕事に就かない場合やハイリスクコースで仕事を失ったりすると、「プーたろう」になってしまうのです(破産した場合もそうだったかな?難民キャンプ送りの時だったか?ちょっと忘れました)。
懐かしいですね。当時は勝ち組=「まる金」、負け組=「まるビ」と呼ばれていたね。言ってみれば、プーたろうは今のニートみたいな状況ですね。「いつまでもプーたろうじゃあなあ」などと言っていたのかもしれませんね。昔のフリーターというのは、ある程度自分の道を自分で切り拓いて、やりたいことをやり、その後に正規の仕事(就職するとか、自分で会社作るとか)をしてた方が多かったと思いますが、今はそういうのとは変わってしまってますね。バブル崩壊と共に、フリーターを続けざるを得なくなった人々もいたのかもしれません。
まあ、景気が良くてもバブル期のようにフリーターは生まれてくる、ということですね。現在のフリーターとは違ってるのかもしれないですね。定義というか、フリーターという言葉そのものにも、変質している面があるかもしれません。
今は、仕事がないから仕方なくフリーターという人も多いと思いますが、「自分が何をやりたいか判らないからフリーター」という人もいます。「とりあえずフリーター」という感じで、まるで人生ゲームのように進路の選択肢に既に入ってしまってることもあるかもしれません(高校教師の話などではそういう面があると思われる)。もしそうだとすれば、いかに景気が回復しようとも、新卒時にフリーターを選択してしまう割合は減少しないかもしれません(絶対数はいずれ減るでしょう。少子化ですから)。
バブル期並みの新卒に対する求人増加ということで考えると、それほど雇用環境が悪化してるとも言えませんね。もしも、来年度の新卒でフリーターの割合が激減していたら、やはり景気悪化によるフリーター増加だったという面が強くなるでしょうね。ですが、あんまり減ってないとしたら、その理由というのは何が考えられるのでしょう?
あと、正社員からフリーターになる割合が結構いることも謎ですね。単に賃金ということだけであれば、就業状況が厳しいのだから、敢えて退職(転職目的で?)を選択することの利点があまり判らないのですが、「嫌な仕事だから辞めよう」とかの理由だろうと思います。こういう考え方が経済学的な理論では、どのような理解なのかもちょっとよく判りません。これも人間の問題ではなくて、ちゃんとマクロ経済による理由が存在する、という主張なんだろうなと思いますけれども。
それと、国内の仕事が減るってことは経済学理論では有り得るんだろうか?「海外に仕事を取られてしまって、国内の仕事が減る」という現象が有り得ないならば、海外との価格競争というのは、全く無くてもいいような気がするけど。事業を放棄した方が有利なんではないでしょうか?他の産業に即シフトした方が得するんであれば、その方がいいと思うけど。他の産業は誰がどうやって産み出すのかは判りませんが。
また変な例ですけれども、日本でタオル工場を運営していたが、価格競争が厳しくなり、中国に工場を移転するということを考えてみる。仮に中国で土地を買い、工場を建設し、日本から機械類一式を持っていき、現地の人々を雇っておけば人件費が日本の10分の1で済み、5年で元が取れるということにしましょう。今後の見通しを立てて、このまま日本国内での生産を継続すると、構造的に赤字となってしまう、という予測があれば、移転を決定することは十分理解できますね。タオルに余程の付加価値を持たせるとか、別な何かが起こらなければ、販売価格が今と同じくらいか、むしろ安価な輸入品が多くなってくることで、相対的に価格を下げざるを得ないということもあるかもしれないですね。そういう訳で、国外移転を行うと、日本の工場労働者達は仕事を失う訳ですね。景気がよくなったからといって、タオル工場が海外へ移転することを止められるでしょうか?景気がいいと、タオルの販売額が劇的に回復する、とか?それは恐らく困難だろうと推測しています。
工場は海外へ移転しても、人員がそのまま全部移転する訳ではないので、普通はその分仕事が減ってしまいますね。もっと生産性の高い仕事に就けると望ましいのですが、そういう労働生産性の高い仕事というのは、だれでも就ける訳でもありません。イメージとしては、先進国の中で、順番に労働生産性の高い仕事の割り振りをしていき、どんどん所得の低い側へ向かって、仕事が分配されていく、というような感じです。どんなのが労働生産性が高いのかはよく判りませんが、例えば、金融業、IT関連、特殊な製品の製造業、自動車・・・・と言う風に、各先進国に割り振って行く訳です。そうすると、輸入出来ない仕事もあるので、そういうのは自国内で賄わなければなりませんが、大体はその他の競合地域とで割る振ることになる、ということですね。香港やルクセンブルクとかに沢山ある金融企業ですが、こういう生産性の高い仕事も、タオル工場を国外に移転したからとて日本に大挙してやってきてはくれません。日本の金融機関がそういった海外の投資銀行とか金融会社を「押しのけて」仕事を増大させるということでもないですし。ヘッジファンドが国内に何本も誕生して、運用担当者の需要不足をもたらした様子もないですね。
結局、国外に仕事が移転したからといって、もっと労働生産性の高い仕事ばかりが増えるということが必然的にもたらされるのでしょうか。タオル工場が無くなった後の残された労働者達は、別な仕事を探すしかないのですが、前の工場よりも高い生産性の仕事に果たして就くことが出来るでしょうか?景気が良くなれば、更に生産性の高い仕事が大幅に増える、ということならば、それはそれでいいですが。因みに具体的な求人増加が見込める職種というのは、何なんでしょうね。現在、就業してない人達がその仕事を選択しないか採用されず、タオル工場閉鎖で失業したとしても就ける仕事というのは、どんなのか気になります。
国内で低賃金の業種に就業するのと、海外からの労働者が就業するのは、かなり意味が異なるでしょうね。例えば、貨幣価値が10倍異なれば、日本で法定最低賃金で働いて最低の生活水準であっても(かの国から見れば十分ご馳走と言える食事や飲み水かも。上流の生活水準ってこと)、給料の一部を送金するだけで、向こうでは結構な金持ちとなれますね。渡航費用でどのくらい投資したかにもよりますが(中にはぼったくりブローカーが数百万円も取ってるといった報道があったりします)、先行投資がかなり少ないので(たとえかの国で教育投資をしていたとしても)、リターンが期待できますね。
ところが、日本国内でずーっと生活してきて、教育を受けたりしていると、既に多額の先行(教育)投資をしている為、そのリターンを得ようとすると、とてもじゃないが安い賃金の仕事に就業する意味がない、ということはあるかもしれません。先行投資が非常に少なければ、仮に安い賃金の仕事に就業したとしても、金が入ってくればそんなに損する感じがしないかも。教育投資が少ないと、低賃金の仕事に就いてもいい、という妥協が生じやすいのかもしれない。昔で言えば、集団就職という形で中卒の人々が工場の働き手となったり、左官屋とか大工の見習いという具合に、それぞれが割りと早い段階で「選択」していた面があった。義務教育だけだったから、大きな先行投資は多分なかったでしょう。「選ばれた人々」だけが大学教育を受け、そういう人々は「大卒」としての給与体系に基づいて中卒や高卒よりも高い賃金を受け取ることとなっていた。当然似たような職種であっても、中卒や高卒とは最初から違っていた。
けれども、必ずしもそういう面ばかりではなくて、昔だって「大学は出たけれど」という時代も既にあったし、逆に教育を受ける事で放蕩したりすることもあったのではないか、と思う。昔の人達は、芸術だ、音楽だ、文学だ、などと言って、ろくに仕事もせずに自分の世界に耽っていた人々もいたはずだ。そういう人々はいつの時代にもいるはずだろう、と思う。だが、そんな連中ばかりとなっては、本当に困るが。
元の話に戻るが、もしも国際的に競争していくとなれば、強い者から自分の好きな仕事を選んでいける、というゲームみたいなものなんじゃないか、と思う。お金が多くもらえて労働生産性の高い仕事は人気があるので、先に選ばれてしまう。金融業がタックスヘイブンとかに持っていかれるようなものです。ルクセンブルクもそうですかね。そういう海外に仕事を取られると、日本企業がその仕事を選択するということが難しくなるのではないのかな。勿論選んでもいいけど、どれ位仕事が取れるか、採算が取れるか、不明ですね。人数が少なくて済み、尚且つ生産性が高い為に報酬も凄く高くなりますね。ヘッジファンドのファンドマネージャーとかもそうですね。で、残った他の仕事、例えば製造業とかを選択していく、ということになりますが、半導体みたいに「給料は日本人の半分でいいです」という人々が海外に現れると、どうしてもそちらの方が低コストなので、仕事を奪われることになる。じゃあ、半導体製造を他国に譲ったとして、今まで就業していた人々を失業させないようにする為には別な仕事が必要になるけど、半導体製造の時と同じ給与水準の仕事を作り出せるのかどうかは判らない。
イメージとしては、先のタオル工場の例では、中国と同じ賃金であれば運営できるかもしれないが、それは日本国内では無理であり、そこまで賃金を安くは出来ない。法定最低賃金が決まってるし。タオル工場と一緒に人員ごと中国に移転すれば今までと同じように運営でき、生活も出来る(日本と全く同じではないが)。この場合には失業がないけど、人員の移転という大きな障壁がある。タコ漁の漁師さんもモロッコで暮らせば、今までと同じようにタコ漁で生活していける。でも人員移転はかなり困難です。そうなるとモロッコ産のタコと国内タコは競合してしまい、国内タコは価格競争にさらされて負けることも多い。そうなれば、タコ漁で生活していた人達は別な仕事に就かなければならない。もっと生産性の高い、タコ漁を辞めた後にピッタリの仕事があるとしたら、もっと前からタコ漁をさっさと辞めてそちらを選択している人達が多いはずではないかな。「国際競争という競争はない」というのが真実だとすれば、こうした人々に仕事をもたらすことができるはずで、途上国に仕事を任せる(国際競争によって奪われたのではないから)ということであるなら、もっと生産性の高い仕事に皆が就けるはずではないかと思う。
炭鉱が無くなって、この仕事は海外に移りましたが、日本国内では炭鉱夫が占めていた雇用の分は別な仕事に振り替っているだろうと思います。なので、産業構造が変化するということは、海外との競争によっても起こるだろうと思います。その後の変革ではきっと炭鉱よりも生産性の高い仕事になったであろうな、と思います。ただその変革の際には、かなりのコストがかかったであろうし、新たな仕事が出てくるまでは待たねばなりません。炭鉱夫達が大量に失業したとしても、その分海外から仕事を増やしてくれる訳でもないでしょうし。でも、そういう人々を雇えるだけの仕事の量が、多分増えていったのでしょうね。これはどういった要因なのか、良く判らないですけど。
景気がいい時の学生は何故かコミュニケーション能力に優れており、景気が悪いとその能力も悪くなる、というような学説が存在するのかもしれないですが。正しい経済財政政策をもってすれば、それらが解決するというのも本当なんだろうか、と思うのですね。これは誰しもそう感じると思います。
参考記事:
格差社会1
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格差社会8
急に仕事を辞めたり、遅刻ばかりするフリーターは、景気が悪くて仕事に恵まれなかったが故にそういう対応なのでしょうか?人間個人の問題ではなくて、単なる景気動向によるとしたら、それも何故なのか判りません。
話が飛びますが、我が家に「人生ゲーム」があるんですけれども、これはとても古いヴァージョンでして、独身の時に買ったものです。因みに、「人生ゲームⅢ」です。子供と遊ぶ時にも、常にこれしか使ってこなかったので、時代には全く合っていません。多分92~93年頃のものだと思います(湾岸戦争ネタとかも満載です)。
で、この中に、スタート直後に選択がありまして、就業するコースとフリーターコースがあるんですね。こんな時代の人生ゲームに既に採用されてる訳です、フリーターコースが。止まったマスの仕事が気に入れば、就業コースの人達は仕事に就けるのですが、フリーターコースの人は仕事に就けない代わりに、臨時収入が多くもらえるという特典があった訳です(しばらく進むと就職チャンスがある)。当時の雇用状況は、バブル期の売り手市場でしたので、フリーターとして好きな仕事を気が向いた時にやれば、ある程度稼げたのですね。
人生ゲームの途中で、自分の意志で仕事に就かない場合やハイリスクコースで仕事を失ったりすると、「プーたろう」になってしまうのです(破産した場合もそうだったかな?難民キャンプ送りの時だったか?ちょっと忘れました)。
懐かしいですね。当時は勝ち組=「まる金」、負け組=「まるビ」と呼ばれていたね。言ってみれば、プーたろうは今のニートみたいな状況ですね。「いつまでもプーたろうじゃあなあ」などと言っていたのかもしれませんね。昔のフリーターというのは、ある程度自分の道を自分で切り拓いて、やりたいことをやり、その後に正規の仕事(就職するとか、自分で会社作るとか)をしてた方が多かったと思いますが、今はそういうのとは変わってしまってますね。バブル崩壊と共に、フリーターを続けざるを得なくなった人々もいたのかもしれません。
まあ、景気が良くてもバブル期のようにフリーターは生まれてくる、ということですね。現在のフリーターとは違ってるのかもしれないですね。定義というか、フリーターという言葉そのものにも、変質している面があるかもしれません。
今は、仕事がないから仕方なくフリーターという人も多いと思いますが、「自分が何をやりたいか判らないからフリーター」という人もいます。「とりあえずフリーター」という感じで、まるで人生ゲームのように進路の選択肢に既に入ってしまってることもあるかもしれません(高校教師の話などではそういう面があると思われる)。もしそうだとすれば、いかに景気が回復しようとも、新卒時にフリーターを選択してしまう割合は減少しないかもしれません(絶対数はいずれ減るでしょう。少子化ですから)。
バブル期並みの新卒に対する求人増加ということで考えると、それほど雇用環境が悪化してるとも言えませんね。もしも、来年度の新卒でフリーターの割合が激減していたら、やはり景気悪化によるフリーター増加だったという面が強くなるでしょうね。ですが、あんまり減ってないとしたら、その理由というのは何が考えられるのでしょう?
あと、正社員からフリーターになる割合が結構いることも謎ですね。単に賃金ということだけであれば、就業状況が厳しいのだから、敢えて退職(転職目的で?)を選択することの利点があまり判らないのですが、「嫌な仕事だから辞めよう」とかの理由だろうと思います。こういう考え方が経済学的な理論では、どのような理解なのかもちょっとよく判りません。これも人間の問題ではなくて、ちゃんとマクロ経済による理由が存在する、という主張なんだろうなと思いますけれども。
それと、国内の仕事が減るってことは経済学理論では有り得るんだろうか?「海外に仕事を取られてしまって、国内の仕事が減る」という現象が有り得ないならば、海外との価格競争というのは、全く無くてもいいような気がするけど。事業を放棄した方が有利なんではないでしょうか?他の産業に即シフトした方が得するんであれば、その方がいいと思うけど。他の産業は誰がどうやって産み出すのかは判りませんが。
また変な例ですけれども、日本でタオル工場を運営していたが、価格競争が厳しくなり、中国に工場を移転するということを考えてみる。仮に中国で土地を買い、工場を建設し、日本から機械類一式を持っていき、現地の人々を雇っておけば人件費が日本の10分の1で済み、5年で元が取れるということにしましょう。今後の見通しを立てて、このまま日本国内での生産を継続すると、構造的に赤字となってしまう、という予測があれば、移転を決定することは十分理解できますね。タオルに余程の付加価値を持たせるとか、別な何かが起こらなければ、販売価格が今と同じくらいか、むしろ安価な輸入品が多くなってくることで、相対的に価格を下げざるを得ないということもあるかもしれないですね。そういう訳で、国外移転を行うと、日本の工場労働者達は仕事を失う訳ですね。景気がよくなったからといって、タオル工場が海外へ移転することを止められるでしょうか?景気がいいと、タオルの販売額が劇的に回復する、とか?それは恐らく困難だろうと推測しています。
工場は海外へ移転しても、人員がそのまま全部移転する訳ではないので、普通はその分仕事が減ってしまいますね。もっと生産性の高い仕事に就けると望ましいのですが、そういう労働生産性の高い仕事というのは、だれでも就ける訳でもありません。イメージとしては、先進国の中で、順番に労働生産性の高い仕事の割り振りをしていき、どんどん所得の低い側へ向かって、仕事が分配されていく、というような感じです。どんなのが労働生産性が高いのかはよく判りませんが、例えば、金融業、IT関連、特殊な製品の製造業、自動車・・・・と言う風に、各先進国に割り振って行く訳です。そうすると、輸入出来ない仕事もあるので、そういうのは自国内で賄わなければなりませんが、大体はその他の競合地域とで割る振ることになる、ということですね。香港やルクセンブルクとかに沢山ある金融企業ですが、こういう生産性の高い仕事も、タオル工場を国外に移転したからとて日本に大挙してやってきてはくれません。日本の金融機関がそういった海外の投資銀行とか金融会社を「押しのけて」仕事を増大させるということでもないですし。ヘッジファンドが国内に何本も誕生して、運用担当者の需要不足をもたらした様子もないですね。
結局、国外に仕事が移転したからといって、もっと労働生産性の高い仕事ばかりが増えるということが必然的にもたらされるのでしょうか。タオル工場が無くなった後の残された労働者達は、別な仕事を探すしかないのですが、前の工場よりも高い生産性の仕事に果たして就くことが出来るでしょうか?景気が良くなれば、更に生産性の高い仕事が大幅に増える、ということならば、それはそれでいいですが。因みに具体的な求人増加が見込める職種というのは、何なんでしょうね。現在、就業してない人達がその仕事を選択しないか採用されず、タオル工場閉鎖で失業したとしても就ける仕事というのは、どんなのか気になります。
国内で低賃金の業種に就業するのと、海外からの労働者が就業するのは、かなり意味が異なるでしょうね。例えば、貨幣価値が10倍異なれば、日本で法定最低賃金で働いて最低の生活水準であっても(かの国から見れば十分ご馳走と言える食事や飲み水かも。上流の生活水準ってこと)、給料の一部を送金するだけで、向こうでは結構な金持ちとなれますね。渡航費用でどのくらい投資したかにもよりますが(中にはぼったくりブローカーが数百万円も取ってるといった報道があったりします)、先行投資がかなり少ないので(たとえかの国で教育投資をしていたとしても)、リターンが期待できますね。
ところが、日本国内でずーっと生活してきて、教育を受けたりしていると、既に多額の先行(教育)投資をしている為、そのリターンを得ようとすると、とてもじゃないが安い賃金の仕事に就業する意味がない、ということはあるかもしれません。先行投資が非常に少なければ、仮に安い賃金の仕事に就業したとしても、金が入ってくればそんなに損する感じがしないかも。教育投資が少ないと、低賃金の仕事に就いてもいい、という妥協が生じやすいのかもしれない。昔で言えば、集団就職という形で中卒の人々が工場の働き手となったり、左官屋とか大工の見習いという具合に、それぞれが割りと早い段階で「選択」していた面があった。義務教育だけだったから、大きな先行投資は多分なかったでしょう。「選ばれた人々」だけが大学教育を受け、そういう人々は「大卒」としての給与体系に基づいて中卒や高卒よりも高い賃金を受け取ることとなっていた。当然似たような職種であっても、中卒や高卒とは最初から違っていた。
けれども、必ずしもそういう面ばかりではなくて、昔だって「大学は出たけれど」という時代も既にあったし、逆に教育を受ける事で放蕩したりすることもあったのではないか、と思う。昔の人達は、芸術だ、音楽だ、文学だ、などと言って、ろくに仕事もせずに自分の世界に耽っていた人々もいたはずだ。そういう人々はいつの時代にもいるはずだろう、と思う。だが、そんな連中ばかりとなっては、本当に困るが。
元の話に戻るが、もしも国際的に競争していくとなれば、強い者から自分の好きな仕事を選んでいける、というゲームみたいなものなんじゃないか、と思う。お金が多くもらえて労働生産性の高い仕事は人気があるので、先に選ばれてしまう。金融業がタックスヘイブンとかに持っていかれるようなものです。ルクセンブルクもそうですかね。そういう海外に仕事を取られると、日本企業がその仕事を選択するということが難しくなるのではないのかな。勿論選んでもいいけど、どれ位仕事が取れるか、採算が取れるか、不明ですね。人数が少なくて済み、尚且つ生産性が高い為に報酬も凄く高くなりますね。ヘッジファンドのファンドマネージャーとかもそうですね。で、残った他の仕事、例えば製造業とかを選択していく、ということになりますが、半導体みたいに「給料は日本人の半分でいいです」という人々が海外に現れると、どうしてもそちらの方が低コストなので、仕事を奪われることになる。じゃあ、半導体製造を他国に譲ったとして、今まで就業していた人々を失業させないようにする為には別な仕事が必要になるけど、半導体製造の時と同じ給与水準の仕事を作り出せるのかどうかは判らない。
イメージとしては、先のタオル工場の例では、中国と同じ賃金であれば運営できるかもしれないが、それは日本国内では無理であり、そこまで賃金を安くは出来ない。法定最低賃金が決まってるし。タオル工場と一緒に人員ごと中国に移転すれば今までと同じように運営でき、生活も出来る(日本と全く同じではないが)。この場合には失業がないけど、人員の移転という大きな障壁がある。タコ漁の漁師さんもモロッコで暮らせば、今までと同じようにタコ漁で生活していける。でも人員移転はかなり困難です。そうなるとモロッコ産のタコと国内タコは競合してしまい、国内タコは価格競争にさらされて負けることも多い。そうなれば、タコ漁で生活していた人達は別な仕事に就かなければならない。もっと生産性の高い、タコ漁を辞めた後にピッタリの仕事があるとしたら、もっと前からタコ漁をさっさと辞めてそちらを選択している人達が多いはずではないかな。「国際競争という競争はない」というのが真実だとすれば、こうした人々に仕事をもたらすことができるはずで、途上国に仕事を任せる(国際競争によって奪われたのではないから)ということであるなら、もっと生産性の高い仕事に皆が就けるはずではないかと思う。
炭鉱が無くなって、この仕事は海外に移りましたが、日本国内では炭鉱夫が占めていた雇用の分は別な仕事に振り替っているだろうと思います。なので、産業構造が変化するということは、海外との競争によっても起こるだろうと思います。その後の変革ではきっと炭鉱よりも生産性の高い仕事になったであろうな、と思います。ただその変革の際には、かなりのコストがかかったであろうし、新たな仕事が出てくるまでは待たねばなりません。炭鉱夫達が大量に失業したとしても、その分海外から仕事を増やしてくれる訳でもないでしょうし。でも、そういう人々を雇えるだけの仕事の量が、多分増えていったのでしょうね。これはどういった要因なのか、良く判らないですけど。