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検証作業というか・・・

2005年12月11日 19時06分42秒 | 社会全般
学者さん達は自分の研究してる内容などについて、色々と議論したり論文書いたり、書物に書いたりするんですけれども、それはどういう「検証」を受けてるのか全く不明のものも多いですね。特に、所謂昔で言う文系に。研究というのが、「誰かが書いた著書」として存在しており、その人が真実を書いてるかどうかは常に不明のことが多くて、言ってみれば「色んな学説」が氾濫している訳です。理系では、再現性があるとか、数値的答えが常に導き出されて誰でも確認出来るとか、仮説検証が別な人々によってある程度行われるということが多いのではないか、と感じています。


当然、世の中に認められようと思えば、有力学会雑誌や科学雑誌―代表的なのはNatureやScienceなどですね―に論文投稿しなければならず、そこで採用されるかどうか、というのも一つの目安というか、ハードルとなっています。たまに虚偽というかニセの論文投稿もあったりしますが、全体の中での割合はそれほど多くはない(検証してないから不明ですけど)かもしれません。普通は複数科学者に査読を受けて、論文が採用されるか却下されるか決まりますから、少なくとも自分以外の第三者達が複数で検討する、という作業が行われます。


ところが、文系の人達というのは、「誰々が何々に書いてた」ということが大きな拠り所で、大袈裟な表現をすれば「本」命(ほんいのち、です、本命ではなく、笑)みたいな印象を受けなくもない。あと、有力な人物が言ったとか書いたということも重要です。それは「有名人」(その業界内で知られた、という意味ですね)ということであって、無名人がどんなに良さそうな主張してもあまり信じられないかもしれません(日常生活でも、普通はそうですけど)。理系の研究というのは、例えば何かの調節を司る「新たなタンパク質を見つけた」という、普通の大学院生が書いた研究論文であっても、一流誌に採用され、他の研究者達にも確認されて(再現性があるということも有利なのでしょうが)認められれば、多くはその事実を受け入れますね。それまで何の研究成果がなくてもいいのです。有名である必要性も全くありません。そういう事実の積み重ねによって、知見が深まっていくということですね。


基礎研究ばかりではなく臨床的な研究でもいいんですが、先頃話題となったゲフニチブの作用についても、開発段階以前から多くの研究論文で有効性が確認されている(主に動物実験などでも)訳ですが、大規模疫学研究などでは「有意差なし」という結果も出てきたりするのです。高名な薬理学者やガン治療研究者が「この薬はガンに有効なんだ」と言ったことが重要なのではなくて、「研究結果」という客観的事実が重要視されることも多い(厚生労働省は民族的差異により違いがあるので、一概に言えない(日本人に対して有用でないとは断定できない)というような見解を示していました)のです。それが概ね議論の際に必要な基礎的材料と思われます。


文系の方々は、そうした基礎的な判断材料がうまく提示できなかったり、情報の分析が正しいのか正しくないのか、という検証もあまりされず、第三者からの評価もあまり受けず、ただ著書に書いてあることを挙げたり、文献として羅列に加えるのですが、それにどういう科学的な意味があるのかは通常提示されてません。結局「最初に言い出した者」の言うことを信じているのか、それを信じないとしたら否定する科学的根拠とは何か、ということが殆ど不明なのです。社会学とか経済学における(他も色々あるかもしれませんが、よく判らないのでとりあえず例示)研究者達が信じる共通の理論とか原則みたいなものは、一体何なのでしょう?証明できないようなことをいくら取り上げて議論したとしても、何が正しい(正しそう?)のか誰も判定できないように思うけどね。そういうのが、無駄な議論の積み重ねになってる、としか感じないけど。これは以前にも書いたんですけれども(諮問会議批判噴出)。


いつものように、変な例で考えてみたいと思います。
「最近の日本人は赤信号であっても横断歩道を渡ったりすることが多くなり、これは国民の規範遵守の意識が低下していることの顕れである」
こういうご意見があるとします。普通に考えると、まあそうかもな、って思うのですが、本当にそういう国民的な傾向を示しているのか、誰も知らないんですね、実は。で、議論となれば、違うとかそうだとか分かれるのですが、双方とも幾つか考えられる証拠を出して来るのです。

これも全く適当(実在しませんからね)な例を出してみます。
・証拠A
「学者Xは著書~~の中で、『近年の企業や官公庁の偽造事件、不祥事隠蔽事件などからは、規範やモラルの崩壊が見られる』と述べている。」
・証拠B
「赤信号で横断している人を見たことがあるか、という調査では約9割が「見たことがある」と答えている」
・証拠C
「自動車の運転者の違反状況を調べると、赤信号(無視)の反則は経年的に減少傾向である」
・証拠D
「赤信号で渡る時、罪の意識を感じる人は約70%」
・証拠E
「学者Yは著書~の中に、『違法行為を犯す者は、それ以前に小さな規則を破ってる者が多い』と述べている」

こんな感じでいくつか出されたとしましょう。で、上の規範の問題に関する議論があったりすると、自分の意見の強化として学者XやYの述べた言葉が選抜されてきて、「ほら他の学者もこう言ってるでしょ」と提示しなければならんのです。でも中には、「学者Xはトンデモな学者だから、証拠Aは認め難い」とか反論される(笑)こともままあるわけです。企業倫理の信頼失墜は日本国民全部の低下を示す訳でないですし。でも、そういう部分から恐らくこうだろう、という状況証拠みたいな感じで出されてくる。で、その証拠採用にまた別の議論となってしまったりする。反論としては、証拠Cなどが出されたりして、「赤信号無視は減ってる傾向も見られる」ということが本当なのかどうか、ということが議論されるのです。運転者と歩行者は違うだろ、事故に繋がる場合の被害を想定すれば云々・・・という具合ですな。証拠Bで「見たことがある」ということと、常時横断している人の数は違う、交差点で信号待ちしてても、赤信号で横断してるのは待ってる人達の半分もいない、とかも言われる。証拠Dの如く、多くは罪の意識を感じているから、規範が崩壊してるわけではない、とかも。学者Yの主張は、犯罪者を対象としていて通常の国民の実態とは関係ない、犯罪者ではなくとも校則違反とか小さな違法行為の経験はきっとあるはずだ、とか。他にも都会では車の通行量が多いので渡る割合は少なく、田舎では滅多に車が通らないから殆どの人が赤信号で渡る、これは単に車の通行量という周囲環境の問題であって規範意識の問題ではない、とか。


こういう簡単な意見であっても、いくらでも議論の余地があって、それぞれにもっともらしいことを言うわけですね。そのうち、「そんなのは科学じゃない、論理的じゃない」「想定してる前提が違う」とかまで行き着く訳です。普通は、そんなの議論の開始前に判明してるんですね。本来科学的じゃないような事柄を扱うのに、科学的であると信じて疑わない人々が無駄な議論を重ねようとするのです。そもそも議論の以前から、当事者達にそういう意識がないんですね。


赤信号問題であれば、例えば東京の何処かと群馬の何処かで調べて、どの位の割合が赤信号で横断したか、その結果、通行量が影響したのか、横断者達の何の要因なのか、などと検討するんでしょうが、通常面倒なのでそういう調査はされないですね。であれば、単に「こう思う」の域を出ないものなのだ、ということを受け入れていればいいのですが、「それは違う、君達は間違ってる」ということを言い続けるのですね。証拠そのものの正しさの証明すら出来てないものを、双方の議論の土台とか前提に採用するのが、本当に「科学的」ってことなんでしょうか?何だかよく判らんのですが。


ですが、全くの適当な論評をする人達(例えばテレビで解説するとか、新聞・雑誌などに登場する人達)は、極々当然のように日本人の傾向について「総括」してしまったりする訳ですね。この前の選挙結果後に数多く出た、論評のようなもんです。それはそれでいいのですが、そういう「科学的じゃないもの」を、いかにも「科学」として扱う人々が存在することが腑に落ちないのです。それは決して「科学的な考察」などではなくて、純粋に「語り手の思い、印象」に過ぎません。普通はいちいちそんな「断り」をしなくとも、受け手が理解しているはずなのですが、中にはそれを科学的事実であるかのように扱おうとする人々がいるのですね。テレビの解説者が言ったことに対して「俺は違うと思う」という意見をぶつけることは何ら問題はないです。それは感じ方や考え方の違いであったりするので、意見の相違自体は何ら問題ないですね。例えば「小児の臓器移植も法的に認められるべき」という意見に賛否両論あっても不思議でも何でもないです。普通は「どちらが正しいか、どちらが正当か」ということは中々結論が出難いものだろうと思います。ところが、そういう事柄や意見に対して、「科学的・論理的な思考を持っていれば、必ず正しい一つの結論が導き出せるのである」という主張をするのは、それが本当に科学的・論理的なのですか?と疑問に思う訳です。正しさを確かめることが出来ないものに、いくら「そっちが間違ってる」という主張を繰り広げても、判定できないのですから。


私も今までに、経済学に関するいくつかの資料を見つけてきて、紹介したりしました。それは、見かける議論では経済学が正しさを中々証明できず、どちらも意見の一致をみることもなく、そういう非常に「曖昧な学問」なのだろう、と考えたからです。他の文系的な分野での話も同じで、非常に曖昧な条件の下に意見が出されることが多いですね。であれば、通常は考えられる一つ一つの要因などについて、一致点を探し、相違があれば、何が違うかを考えるものと思いますが。知らないことが多すぎる状態で、大きな議論を進めようとする人々が多いのですね。これも何でかな?って思いますね。


せめて裁判みたいに、証拠を一つ一つ確かめていき、その結果考えられる結論を得るのが、まだましだろうと思いますけど。また例で考えてみましょう。この前にあった記事(話題シリーズ17)ですけれども、文系的思考が読み取れるかもしれませんので。それは「株式市場の売買代金が半期で最高を記録し、個人のネット取引が多かった」という事実から導き出された「個人投資家が頻繁に繰り返す売買によって、株式市場の指数(日経平均やTOPIXなど)が上昇した」というものです。

証拠1:個人投資家のネット口座数増加
証拠2:ネット経由取引の売買代金は史上最高
証拠3:市場全体の売買高は空前の増加
証拠4:株式市場の指数上昇

これら証拠はそれぞれ数値データなので、客観性に優れていますね。つまり争う余地は少ない、ということです。なので、全部の証拠を採用していきましょう、ということになりますね。ここまでは、どちらも争点はありませんね。

で、ここからが問題です。これらデータをどのように解釈するのか、ということになりますが、新聞記者氏は上述のように個人のネット取引の売買代金が最高なので、当然株価上昇もそうしたネット経由の個人によるものだと決定したのですが、事実から言えることと推測されることが必ずしも一致するとは限らない訳ですね。しかも、実は関連が確かでないこと(売買代金増加と株価上昇)をあたかも関連する事項として結論を導き出すためにこうした誤解を生じる可能性が高いですね。

証拠1から言えること:特にネット取引の参加者が増加した=株式取引の裾野が広がってきた可能性、でも同一個人が複数所有かも
証拠2から言えること:現在、個人はネット取引が割と多いんだねー
証拠3から言えること:個人が頻繁に売買してるが、特定の人だけが凄く多いのか、全体に多くなってきたかは不明
証拠4から言えること:株価は上昇したんだね=誰が買ってるかは不明(ひょっとして個人?・・・かな?)

この程度でしょうね。だが、記者氏は「売買代金・売買高が多い=頻繁に売買する個人が指数を吊り上げた」という断定をしてしまってるんですね。事実だけから言えることは普通そんなに多くはないのです。何かの推測か示唆が得られる程度でしかない事も多いのですが、記者ともなれば「裏付けた」まで言い切らないとダメなんでしょうかね。上の証拠からだけでは、「ひょっとして個人かな?」程度しか推測できないはずなのに、です(実際は個人が売り越し、外国人が大幅買い越し)。


で、「個人投資家がたくさん買った為に、株価が上昇した」ということであれば、本来は株価上昇の期間で「誰が最も多くの資金投入(買い越し)をしたか」ということが重要なことなので、その証拠を調べてみる、ということが普通なんですね。売買高増加が株価指数の上昇を意味しないし、売買代金増加も同じく指数上昇を意味しないのですから。ですが、そういう証拠に対する検証という面で問題があったのですね。文系的な分野の方々は、こういう検証作業をあんまり熱心にやっていないからなのかもしれませんけど。証拠1についても、「口座数の増加」と純粋な個人の「新規参加人数増加」は一致するとは限りません。昔は、1人平均所有口座が1くらいだったのに、今は平均3.5とかに増加していれば、増加分がほとんど昔からやってた人達だった、ってことも考えられなくはないですからね。でも、多くのメディアは、今は「新規参入者が増加してる、特に若年のデイトレーダーや女性など」などと勝手に結論を導き出してるのですけどね。多分新規参入者は結構増えてると思うけど、実際どうなのかは調べてみないと判らんのですよ。


このように、普通は観察される事実と別な結論を出してくるとなれば、新たな証拠を追加せねばならんのです。その為の検証もしてみないと判らんのです。そういう作業がなされないまま、勝手に「証拠1~4によって、個人投資家云々・・・」という結論を出してくるのが変なんですね。なので、まずは必要な証拠が何か決めてそれを調査し、結果には客観性があるかどうか、証拠として採用するに十分か複数で検証すること、そういう手順がない議論が多いように思えます。


この記者さんばかりじゃなくて、色々な学者さん達もそうなんですが、本当の事実だけから導き出せることを言うのならば、凄く少ない結論になるんですね。それ以外にいくら議論しても、言葉遊びというか、未知の領域・事柄について双方が推量を言い合ってるだけなんです。そういう意識に乏しいと、無駄に相手の推量を「間違ってる」などと断定するんだろうと思うんですね。その「間違ってる」も限りなく自己の推量に過ぎないのに。これは私もよくやってしまいますけど。「オカシイんじゃないか」「間違ってる」などと非難するんですが、本当の答えは逆だったり、とか。まあ、自分達の議論の土台となっている部分の、何が事実で何が確かめられてない事柄なのか、ということも考えないで、他人の推量を否定するだけでは、到底「論理性」が備わってるとも思えないけどね。


多くの社会的な事柄について、客観性を持って調べ始めたのは、実はマーケティングだったんじゃないか、とも思います。全然そういうマーケットがどうのこうのは知らないんですけど。
また変な例で言うと、昔は飲み物の嗜好というのは、「日本人はサイダーやコーラをよく飲むようになった」という現象があったとしましょう。すると、コーラだけじゃなくて、ファンタも発売されたり、ファンタもオレンジ味だけじゃなくて、グレープ味とかフルーツミックス味も出してみよう、ということになる。でも消費者達が本当にフルーツミックス味が好きだった訳でもなく、炭酸飲料が一番好きだった訳でもなかったりするんですが、そういうある種の幻想(炭酸飲料が好きだ)が信じられてきたから、炭酸飲料が多い市場が形成されてきたのかもしれないですね。


でも、消費者に色々聞いてみたら、コーヒー飲料も好きだ、ということであれば、コーヒー飲料を出そう、ってことになり、コーヒーの次は紅茶だ、ってなってくる。もっとよく聞いてみたら、甘い味のコーヒーや紅茶は嫌いだ、とかの意見もあって、昔のようなコーヒーに「ミルクと角砂糖3つ」(こりゃ甘すぎですな、多分)みたいな甘いのは嫌だ、と。なーるほど、と思ってじゃあコーヒー飲料から甘みを抜けばいいんだ、ってなことで、無糖とか濃いブラックとかが出されるんだけど、そういう「甘い飲み物」という意味じゃなくて、よくよく聞いてみたら本当は「お茶」が好きだったりする。ということで、お茶飲料が増えて、確かに「甘くない」飲料はこれだったんだね、と判明したりするんですね。昔は「お茶なんか、誰が金出してまで買うんだ」というような錯覚というか思い込みがあって、そういう商品は出されなかった(昔の駅弁には熱いお茶がついてたけど。今もあるのかな?)。「甘くない飲み物」ということで=「ブラックコーヒー」「ストレートティ」、となってしまってたんですね。でもよくよく調べると実は、お茶や水、というものに需要が結構あったのですね。「甘くない」ということに先入観というか勝手な推測がそこには潜んでいたのかもしれないですね(上の株の話と近いですよね。でも本当のところはどうなのか知りません。勝手に想像しただけですから)。


時代によって価値観も変わりますし、一概に言えないのですが、こういった現象やある意味証拠と思われるものを幾つか検証する過程で、本当の求められてるものに行き着いたんだろうと思えます。そういう検証作業が、マーケティングということにかなり近いのだろうな、と。その検証をしていくと、実は従来の幻想というものが案外と覆されたりしてきたんじゃないかな、と。そういう意味では、昨今流行となった『下流社会』というのは、社会現象とマーケティングの接点というのか、通じる部分は結構あるかもしれません(中身は知らないけど)。


このようなマーケティングに近い作業をやっていかないと事実の積み上げは難しいと思うし、そこら辺も踏まえて内閣府とかその他省庁でもアンケート調査とか実態調査などの資料を集めてるんだろうと思います。でも、そのデータから読み取ることとか、さらに踏み込んで現実世界でどのような施策を考えるか、という部分においては、研究者・学者さん達の能力に欠けてる部分が多すぎるように思えます。逆に、深く研究してるが故に簡単には言えない、という面もあるのかもしれないですけど。


「人間力」という言葉、「ニート」という言葉、これが気に入らねえんだ、ということであれば、別な呼び方に変えて、自分達の世界に通用する用語をきちんと定義して、分類もキッチリやって、その中で救済するべき若者達を救ってくれりゃいいんですよ。現実世界の中で、本当に困っている引き篭もりを持つ親御さんとか本人を少しでも救ってみたらどうですか。いくら言葉遊びをやったって、誰1人として救ってないんですよ。ニートやフリーターって呼び名がダメならダメでいいですから、「遊び人の金さん」とか「プー太郎」でも何だっていいですから、そういう人達を少しでも救ってやってくれりゃいいんですよ。現実世界で結果を出せ、と言いたいね。

普通の人々にとっては、用語が重要なのではなく、現実の事柄や結果だ。ニートって存在を世の中から抹消したけりゃ、そうすりゃいいだけだが、人間そのものが消えることもなければ、急に働きに出るわけでもねえ。今までと同じように引き篭もってたり、仕事に就かずにプラプラしてたり、夜な夜な遊びに出かけたり、日中は死んだようにゴロゴロと寝てたりするだけだ。名称なんてどうだっていい。そういう人々の存在が変わる訳ではないからな。


仮に、つくば市と同じくらいの人口規模の都市が全員そういう状態―「プー太郎」か「ニート」か何でもいいけど―にあって、自分がそこの市長になるとして、彼らをどうにか今後生活させてやっていくことを考えなけりゃならねえ。今は親の寄附で生活の収入は補ってるが、今後彼らが本当に生活していけるのか?親達が死んでいくと市の収入がどんどん減っていく。だが、彼らを食べさせていかねばならんのだ。医療も受けさせてやらねばならん。どうすんだ?誰が一生面倒をみるんだ?そういう想像力すら欠けてんだよ、学者さまってのは。


個人的資質の問題じゃない、単なる景気動向だ、ってんなら、今みたいな好景気となって、みんな自分達で働いて生活していけるだろう?来年度からは、親達からの寄附もすっかり必要なくなるんだろう?上場企業の経常収益は過去最高水準だぞ?これよりもっと景気回復が進まないと、改善しないのか?もっと高い水準の好景気が必要なのか?

そうか、今は、ニートが消滅したのかもしれんな、ひょっとすると。最新データがないしね。今年とかの数が出てないから、きっと数十万人規模で減ってるはずだよね?

なーんだ、景気回復で若年層の就業状況が大幅に良くなっていれば、ニート・フリーター対策もいらねえし。放置で大丈夫に決まってら。そうなんですね。それなら、誰も何の心配もいらんのじゃないか?今そういう人々が存在してないなら、議論自体が全くの無用なことなんですな。そうか、ようやく答えが見つかりましたね。「存在しない」が本当の答えですか。くだらねえ。