いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

企業のダイバーシティ

2005年12月01日 22時27分04秒 | 社会全般
先日に書くとお約束した「ダイバーシティ」ネタを。いつだったか、例のWBSで雇用と就業形態についての「ダイバーシティ」という感じの特集があった。「ダイバーシティ」って、耳慣れない言葉だったので、田舎者の私は「台場シティ」かと勘違いしましたよ。何だかマンションのネーミングみたい。ですがね、違うんですよ、これが。


「diversity」ってことで、「相違点、多様性」(by goo辞書)なんだそうです。聞けば、ああそうか、と思いますが、普通に「雇用・就業の多様化」とか「他企業との差別化」とか言ってくれればいいのに。でもね、そういう表現だと、誰も興味を持ってくれないんですけれども、英語で言うと何だかカッコイイので説得力が増すんですよ。例えて言えば、「メトロセクシャルな男」みたいなもんですよ(笑)。


中身に戻りますが、企業における「ダイバーシティ」の原点は、雇用がどうのとか就業がどうの、ということではなくて、本来企業自体の多様性―つまりは多角化(多角経営)―ということであろうと思われます。であれば、「diversity」というよりも「diversify」(多角化する、資本を分散する)とか「diversification」ということだろうな、と。でも昨今は、「雇用環境の多様性」ということが主流で「diversity」が流行っているのかもしれませんが。きっとコンサルタントとかの入れ知恵だろうと思いますね。人事にまつわる問題などが多いですから、そういうときにはコンサルが「時代の先端を行く企業は、何処もダイバーシティに対応してますから」(何か変?うまく使えない・・・)とかってカッコよく説明してるんですよ、きっと。時代の先端を行ければいいけど、別な方向に「逝ってよし」(笑)だったらヤダな。


脇道に逸れすぎですが、要するに多角経営というのはひと昔前に流行った訳ですね。そして、ダイエーとか丸井みたいに多角化が失敗することも多くあって、いつも「diversification」という企業戦略が必ずしも正しいとは限らないのですね。多角化・多様化を求めるというのは、前の記事で触れた「エコノミー・オブ・スコープ」(economy of scope)=「範囲の経済」が働くという経済理論に基づいているはずなのです。実際には、範囲の経済が働くとしても、そこに至るまでに過大な投資が必要であったり、期待していたよりも「範囲の経済」によってもたらされる利益が少なかったり、そういうこともあって多角化失敗という憂き目を見ることになる訳です。多様性の獲得というのは案外と難しく、成功を収める企業の方がむしろ少ないのではないか、というのが印象です。

でも、金融分野では割と成功している企業が多く誕生してきており、それは異業種からの参入が成功することが多いかもしれません。例えばネット証券業(ライブドアとか楽天とか)、アイワイバンク(ヨーカドー=小売から参入、貸出のない専業銀行)、TFS(トヨタファイナンシャルサービス、自動車からリース・カード事業)などですね。ああ、代表的好例を忘れてた。「suica」もそうですね、鉄道事業から電子マネーですから、大転換ですね。これは立派な多様性獲得・多角化ですね。


この「diversification」が政府系金融機関の統合問題のところでもどういった意味があるか、「範囲の経済」が働くかどうか、というのが現実の問題となってくる訳です。国際融資業務とリテール部門や弱小企業向けの商業銀行業務が、本当に「範囲の経済」が働くんですかいな?ということですね。それで、具体的な資料を探してみました、一応。銀行の合併・統合などに関するものです。


これを見てみると、過去の研究の話も少し出てまして、総じて銀行の合併統合においては、コスト削減面では範囲の経済が働かなさそう(銀行規模によって多少違いがあるかもしれませんが)、商品の取り揃え増加による収益面でのシナジー効果は期待出来そう、というようなものと思いました。なので、銀行の合併統合の場合には、「範囲の経済」が働くということ(によってコストが大きく削減出来ること)がインセンティブとはなり得ず、異業種参入のようなメリットもさほど見当たらず、現実的な本音の部分では「頭数減らし」という面が大きいのかもしれません。単純に銀行が多すぎだった、ということです。

これは日本の銀行が、内向きの業務にばかり目を奪われていて、国際的業務には太刀打ち出来ない(海外銀行との競争力が全くない)ということでもあります。なので、うまみの大きい投資銀行業務などは外資系に持っていかれるということになっているのです。そればかりか、国内においてさえ、最近の企業再生についても、アリックス参入とか、GSを初めとする外資系の温泉旅館・地方ホテル買い漁り現象が見られ、いいように仕事を奪われることにも繋がっているのです。結局、自分達で何かをやって行こう、ということを日本の銀行は放棄してきたんですよ。で、仕事を奪われたのは、官業金融のせいにして、本当はオイシイ仕事がゴロゴロあるんだけれども、手出しすることなく捨ててきたのを、外資が拾って歩いてるんですね。ゴルフ場とかリゾートホテルなども外資が買い集めて、再生しとるんですね。でも、日本の銀行は何もやってこなかったんですよ。切り捨ててきただけ。放置してただけ。国内に引き篭もってきただけ。


国内市場が外資に荒らされるのは国内金融機関が弱すぎるからで、国内金融機関が海外にどんどん仕事を取りに行けばリストラだっていらないし、逆に銀行員だって足りなくなってしまうはずなんですよ、本当は。でもね、そういう競争力を養ってこなかった、人材も育ててこなかった、国内でさえ外資に仕事を奪われる、という有様。狭い範囲の仕事(主に預貯金と貸出)だけで官民で競争をして、尚且つ異業種参入組からも攻められる、ということになってるんですね。だから、メガバンク誕生ということで、とりあえず「頭数を減らす」しかなかった、ということでしょうね。


政府系金融機関の統合によって、新組織に「diversification」というようなことを期待するのは難しく、「範囲の経済」がどの程度働くか、というのも難しいかもしれんな。よっぽど工夫したり、トップに素晴らしい人材を据えたりして、新たな組織の将来像を作らないと、「儲けちゃいけない」(民業圧迫となるから)でも「大幅赤字もダメ」だから、どうすりゃいいかね?実際。大体儲かるならば民間がちゃんとやればいい訳だし、儲かんないから官業でやるんですけれども、何が本当に国民から求められてることなのか、整理しておくことも必要ですね。


コトリコフと年金改革

2005年12月01日 03時09分04秒 | 社会保障問題
ちょっとネタが古いですけれども、今までにも何度か取り上げてきた読売の「地球を読む」欄の論説に関連する話です。27日付朝刊には、伊藤元重東大教授が書いておりました。その中で、コトリコフ教授の著書『破産する未来―少子高齢化と米国経済』の引用をして、米国の将来債務水準(あれこれ計算するとGDPの4倍水準)を示し、「つまり国家は”技術的には破産状態”ということになる」という強いメッセージを紹介している。これと似たような状況が日本についても言えるのであり、米国よりもむしろ日本の方が危機がすぐ目前に迫っていることに憂慮を述べていました。昨今の増税論議についても、「重要な鍵」とも述べていました。


丁度時期を同じくして、この少し前の「本のよみうり堂」では清家篤慶応大教授が、このコトリコフの著書(『破産する未来』)と小塩隆士著『人口減少時代の社会保障』について書評を書いていました。偶然同じコトリコフの著書が取り上げられていて、機会があったら読んでみようかな、とも思いました。コトリコフについては、高橋洋一氏の論文の中で登場したので、その時少し触れました(社会保障改革の文献的考察)。


余談ですが、清家教授は政府の委員などをされていて、以前にもちょっと書いた(公示後の選挙違反行為って・・・(追記あり))経産省の産構審委員とか厚労省の社会保障審議会委員などにもメンバーとして入っておられます。伊藤先生については以前に何度かご登場頂いたので、もういいですね。両先生ともに政府内の仕事をされておられますから、是非とも頑張って頂いて、政治的にも良い方向に進めるようにご発言をしていって頂ければと思います。


で、伊藤先生のご意見としては、今の改革推進という政治を評価しながらも、「問題は、こうした手法を続けていくことで、日本が直面する財政問題が解決できるわけではないということだ」と述べており、財政再建の道筋としては増税というような「辛い政策」ということを将来的に選択していけるかどうかが重要なのだ、ということです。


清家先生は、「そのポイントは、〈1〉高齢者の中でも経済力のあるひとたちにはきちんと負担をしてもらう、〈2〉現役層から高齢層への所得移転は社会保険ではなく、税、とくに消費税で行う、〈3〉その所得移転は現役層の経済力に見合った範囲に抑える、ということである。」とまとめており、同時に「給付と負担のバランスは国民の選択によるというとき、選択権のない将来の国民に負担を押し付けるという誘惑に負けてはならない。」との戒めを示していました。それと、米国独立運動時代のスローガン、「代表なくして課税なし」という言葉と、結果的に将来世代への「ツケ回し」をしようとする今の状況を重ねています。


社会保障改革としては、「まず医療改革」ということで進められていますが、これでは現実的に解決されないでしょう。社会保障改革の要諦は、やはり「年金改革」なのです。しかも国民の多くの要望も「年金改革」であるのに(優先順位的にも第一です)、全く進められようとはしていません。それは「自分達の誤りを認める」ということが出来ないからです。「既にやったじゃないか」という下らないプライドがあるからです。将来世代へ負担を「先送り」していっているだけなのです。

部分的に改革は進んでいますが、本当に必要なはずの年金改革は捨てておかれたままであり、これで「国民との約束」を果たしていると考えているならば、反対表明出来ない将来世代に負担を押し付けるだけの政治、ということなのでしょう。コトリコフの警告も理解出来ない、ということなんだろうと思います。