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責任感の欠如とエラー

2008年08月14日 16時16分02秒 | 社会全般
こちらでの議論>
刑事免責主張に関する私なりのまとめ(その2) - 元検弁護士のつぶやき


横入りで恐縮ですが、とても気になったので。コメントに書こうと思ったら、長くなったので、コメント欄に書くのもちょっと問題かな、ということもあり、記事にしました(言い訳が長い…)。


「???さん」は(大きなor取り返しのつかない)ミスを生じるのは、医療者に責任感や緊張感が欠けているからという理解であり、そういう主張(前提)だろうと思います。
No.134のコメントに
>投薬ミスが起こるということは(しかるべき時に)緊張していないということであり、(ミスの質が低ければ)責任感がなかったと言われても仕方がないと思う。
とありますので、大体そういうことだろうと思います。

まず議論の仕方として、自分がこう思う・信じるというのは自由でいいですが、その主張を他人に同意を求めるとか納得してもらうには手続が必要かと思います。少なくとも、自分の主張が妥当なものであるかどうかを確認しながら、双方の合意を築きつつ進む必要があります。それができないといつまで経っても、「信じない」とか「話せない」ということで、何ら得ることがありません。それぞれの主張について、事実確認を積み重ねることがまず必要です。


例示で申し訳ありませんが、交通事故で書いてみます(数字は全くの適当であり統計数値とは違います)。
ある人が「死亡事故を起こすようなドライバーは責任感に欠け暴走族みたいなドライバーだからだ」と主張(以後便宜的に「主張1」と呼ぶ)したとします。この主張の正当性を確かめることがまず必要ということです。事実確認とは、警察の交通事故統計のような「客観性のある」データ(根拠)から行うべきで、自分の考えや印象といった主観的評価によるものは、とりあえず除かれるべきです。
事実とは、例えば「1年間の死亡事故者数は6000人」というようなものです。ある人が「オレが見た交通事故のドライバーは全部暴走族だった」といった「特殊な事例」だけを持ち出すのは、例外的な場合です。

で、事故統計から
・ドライバーの無事故無違反者は約25%
・ドライバーは60歳以上の人が約40%
という客観性のある事実が存在するとしますと、暴走族が死亡事故の大半(例えば9割以上)を起こしているわけではない、ということが予想されます。

「事故ドライバーが暴走族の一員で検挙歴があるか構成員だった」とか「ドライバーの95%が25歳未満だった」というような事実を立証しないと上の「主張1」が正当であるとは言えません。それとも、「60歳以上の暴走族がいる」とか「無事故無違反の暴走族が多い」みたいな事実を提示するとかでしょうか。こうした条件は通常の社会常識範囲では「極めて考え難い」ということが推測でき、すると、やはり「主張1」を補強できる根拠というものがないのではないか、ということが判るでしょう。「主張1」の根拠が崩されてしまう、ということです。なので、死亡事故ドライバーは必ずしも「暴走族だからだ」とは言えない、ということが合意されるでしょう。

また、「責任感がある」とか「責任感に乏しい」という評価についてですが、これを客観的に調べる(認識する)手法というものは、どのように考えるでしょうか。小さな子に家事の手伝いをさせた時、皿を落として割るのは「責任感がないからだ」とか「緊張感がないからだ」というような批難をするでしょうか?自分の子に向かって、皿を割ったら「お前はタルンデいるからだ、緊張してやれ、責任感がないからそんなミスを犯すんだ」みたいに言うのでしょうか?そういうわけではないんですよ、ミスをするというのは。「子どもの手の大きさに比べ、皿が重くて持ち方が悪かったから」とか、「持って運ぶ(歩く)時バランスに気を取られてしまい、滑り落ちることが事前に予期できなかったから」というような、原因というか要因があるわけです。別に「責任感の大きさによって、皿が落ちやすくなる」というわけではないのです。
そもそも責任感の有無(大きさ)、緊張感の有無といった指標は、客観的に評価できるものではありません。あくまで傍目から見た時の主観でしかないのです。疲労困憊や強ストレス状態の時と、緊張感(集中力)のなさというのは、一体どのように明確に区別できるでしょうか?もしも客観的に評価できるのであれば、それを提示するべきでしょう。それは「主張している者」が立証するべきなのです。

事実を積み上げるとは、「死亡事故者数は6000人」「無事故無違反者は25%」「60歳以上が40%」といったことを明らかにすることであり、これは死亡事故原因とかについて「何かを語る」ものではありません。「ミスの理由」も教えてくれません。「~したのは~だからだ」みたいな要素を含んでいない、ということをまずお考え下さい。事実確認をしてはじめて、その後に「どう考えるか、分析するか」という話が出てくるだけです。


次に、エラーについて考えてみます。また例示ですみませんが、ある電気製品を考えてみましょう。
電気製品Pの製造工程では、1万個について10個程度の不良品が発生することがあるとします。発生頻度はバラツキがありますが、検査過程Qでこれを除外しているとします。製品エラーは100個中に5個あることもあるし、10000個に1個しかないこともあり、決まってはいません。検査Qではエラーを検出して不良品を除外するのですが、この検査を潜り抜けてしまうことが有り得ます。すると、市場に不良品が出回ることになりますね。この検査で10個程度の不良品を1個くらいのレベルまで低減できるとします。つまり市場には1万個に1個くらいの不良品が出回ることになります。

さて、この市場に出回る不良品というものを「ゼロにできる」かどうかを考えましょう。完璧というものはないので、無理かもしれませんね。だとしても、限りなくゼロに近づけることは努力次第かもしれません。すると、製品Pを1000万個につき1個しか不良品が出回らなくできるかもしれません。製造工程では1万個に10個の割合で発生しますが、検査過程Rによってこれを1000万個に1個とする、ということです。精度を1万倍に上げる、ということですね。運悪く市場に出回ってしまった製品については、保証書付きにしておくので交換に応じるということになっていることが多いでしょう。

ここまでで、
・エラーはゼロにはできない
・検査でかなり除外可能かもしれない
・検査を潜り抜ける製品はある
・不良品は交換される
ということが言えそうです。(言えそう、というのは、個人的意見とかを含むものではなく、単なる記述であるという意図です。夏休みにありがちな「アサガオの観察日記」でいうと、「芽が出た」「葉っぱは3センチのびた」というようなものです。「3センチのびた」のは「気分が良かったから」とか「やる気満々だったから」とか、そういう個人(感情)的意見を含まない、ということです。)

大事なのはここからで、「不良品の交換は無償」だと信じているでありましょうが、これは製品Pの価格に転嫁されているものです。企業が製品Pを販売するにあたり価格決定を行うには経費全部を勘案するのは当然で、製造エラーの発生率とか交換率などから想定されるコストなんかを全部含めて考えねばならないのです。なので、不良品を検出する検査過程のコストも、不良品の無償交換コストも、価格転嫁されているものである、ということです。これは不良品じゃない製品Pを購入した人であっても負担するものであり、平たくいえば「製品Pの購入者全員で負担」していることになるのです。

また、製品の検査精度が1万個中1個の不良品が出回る程度である場合と、1000万個中1個である場合では、コストが変わってきます。一般に精度を上げれば上げるほど、多額のコストがかかっていきます。重さであろうと、距離であろうと、何らかの測定精度を上げれば、そのコストは跳ね上がっていきます。簡単な例で言えば、「100円で買える定規」で測定できる1mmと、測定精度が1000分の1mmの定規で測った1mmでは、コストが数百倍か数万倍か判りませんが、違います。そういうことです。製品Pの不良品を除外することの精度を上げていこうと思えば、努力できなくはないですが、その為のコストは大きく跳ね上がることになるのです。その検査コストは当然のことながら、購入者が払うことになります。ここで、検査コストが検査Q場合と検査Rの場合では10億円違うとします。1000万個を販売すると、市場に出回る不良品は検査Qを実施する場合には1000個、検査Rだと1個ということになります。不良品の交換コストを1個につき1万円だとすれば、検査Qと検査Rの差は999個ですので交換コストは999万円にしかなりません。ならば、検査Rを採用せずに検査Qを実施して、不良品が出た場合には「無償交換」した方がお得なのではないか、ということが考えられます。製品Pの販売量が10億個以上であると検査Rと検査Qではほぼ差がなくなり、交換コストと検査コストが同じくらいになりますけれども、そこまで売る(売れる)想定でなければ、検査Qを行って無償交換を選択した方が有利だ、ということです。製品Pの購入者全部も、検査QとRとの差額10億円分を価格に転嫁されないので、「購入者全員が得している」ことになるのです。

まとめますと、
・エラーを減らす精度を高める努力は可能
・その為のコストは増える
・ゼロに近づくにつれコストは跳ね上がる
・そのコストは消費者が負担する
ということです。


翻って医療を考えますと、「ゼロに近づける」為のコストを「全国民が負担する」という決意というか同意が最低限必要です。これは医療者の責任感の大きさとか、そういうことには無関係のことです(まさか責任感があれば不良品をゼロにできる、とは主張しませんでしょう?)。製品Pのように「供給側が価格決定できる」という仕組みにはなっていないので、医療制度の中でコスト負担を国民にお願いすることになります。これが受け入れられなければ、医療側が勝手に「高精度の検査Rを実施します」ということにはできないのです。ご指摘の投薬ミスについても同じで、チェック体制を整えたりエラーを防ぐシステム構築などによって、エラーの発生確率を大幅に下げることは不可能ではありません。が、その為のコストは現在の医療制度に比べると大幅に増加します。そのコストを国民が負担しない限り、「高精度検査Rの実施」は到底不可能である、ということを認識することがまず必要です。

医療は製品ではなく人間の命に関わるものなのだから、エラーが低くなければならない、というのは当然のご意見です。ならば、エラーが10000回に10回程度発生し、チェック体制でこれを10分の1に低下させられる社会か、1000分の1に低下させられる社会かを選択するとすれば、後者ということになるでしょう。では、その選択を行うのは誰でしょうか?結局は、国民なのです。高精度のチェック体制を設けましょう、その為のコストを負担しましょう、という決意を国民が持たない限り、実現できないのです。


デパートの包装係の仕事を考えてみますと、仮にベテランのAさんは1個包装に3分、普通のBさんは5分かかるとします。一度でも包装紙に折り目をつけるとそこで包まねばならず、誤って余計な折り目がついてしまうとエラーとしてやりなおさねばなりません(幾度か畳み直すとグチャグチャになるので包装としては失格です)。
この2人の違いは、緊張感とか責任感の違いによって「誤った折り目」がついてしまうでしょうか?エラーによるやり直し個数は、「失敗しちゃいけない」と考えているかいないかで、大きく違ってくるでしょうか?
多分、ベテランのAさんなら「包みなおし」になっていまう個数は極めて少なく、たとえ「誤った折り目」がつきそうか少しついてしまってもうまく中に織り込んでリカバリーできたりするという能力もあるので、Bさんよりも円滑に仕事をこなし個数も多く包めるし「包みなおしが少ない」という結果となるでしょう。Bさんは「失敗しないように」と思って慎重に包んでいるにも関わらず、Aさんよりも多くの個数を包みなおしをすることになるし、捌ける数もずっと少ないでしょう。

「投薬ミスは重大な失敗をしないという責任感を持っていないからだ」という主張をするのは、まるでBさんが「やる気がない、責任感もない、緊張感がない」という『原因』によって「包みなおしが発生するんだ」と言っているのと同じようなものです。そうではなく、錬度の問題とか、ミスを少なくするトレーニングを積んでいるとか、経験数とか、そういった違いによるものであり、「誤った折り目」はAさんもBさんも完璧にゼロにはできないでしょう。ただベテランのAさんは鼻歌まじりに包んだとしてもミスは少なく、Bさんは集中して真剣に取り組んでいるのに包みなおしが発生するのです。
恐らくAさんの仕事の中には、「誤った折り目」を減らすためのシステムが組み込まれているのです。包みの重さの感じ方とか、紙との位置関係とか、手の返し方とか、一瞬で折り目をつける指捌きとか、何が該当するのか判りませんけれども、そうした全ての要素です。少なくとも、「間違ってもいいや」と思っているかどうかで「包みなおし」となる個数に大きな違いを生むとは思われない、ということです。

それから、「Aさんクラスの人」を作り上げるためのコストがかかるので、それを考えておくべきでしょう。そう簡単に易々とは「Aさんクラスの人」が生み出されるわけではないのです。誰かが教育コストを払い、育て続けなければ誕生しません。コスト負担は利用者(消費者)なのだ、ということは考えておくべきでしょう。



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