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万人に「本を読んでから意見を言え」と要求するのは不適切

2008年01月06日 17時45分23秒 | 俺のそれ
どうも誤解を招いているかもしれない面があるので、書いておきたい。
この記事の中で、簡単に言うと「読んでから意見をいえ」ということを書いたのですけれども、これはその要求が妥当であるという対象だからであって、これを万人に適用せよ、などとは考えていません。「当事者の立場になってみろ」という要求(参考記事)も同じく、文中に示した通りに国会議員やマスメディアに向けたものとして書いています。どちらも国民全員がこれを実践せよ、ということを言っているわけではないのです。そもそも、全員が同じようにやるなんてできないと思っていますので。

随分昔に書いた記事ですが、こちらにもその旨書いています。意見表明する際に一般個人が課せられる努力義務というものが、高い水準を求められるとは考えていない、ということです。このことについて、もう少し書いてみます。


1)意見表明による影響力には差がある

普通に考えると誰でも判ると思いますが、総理大臣が見解を述べるのと、一般個人が述べるのでは影響の大きさは全く異なるのであって、「一個人が表明することに変わりない」ということにはなりません。みのもんたがテレビで言うのと、近所のおっさんが全く同じことを言うのでも、全然違いますよね。影響力の大きさには違いがあることについては、争う余地はないと思います。


2)表明者は意図や故意性の有無によらず影響力を行使している

これも当たり前といえば当たり前でしょう。本人に何らかの意図がなくても、故意でなかったとしても、その影響力は発揮されてしまうことになってしまいます。政治家や大臣などのちょっとした発言が、影響力が元々大きかったが故に、失言問題として大問題となってしまったりします。また、テレビで著名人が「~すべし」と発言すると、大多数の人間によって実際にそれが行われてしまうこともあります。これら影響力がどのようにして発揮されるかは一概にはいえませんが、表明者は影響力を行使している(本人の意思とは限らないかもしれないが)ことになるでしょう。


3)影響力に応じて努力義務の要求水準は異なる

理想的には、万人がみな最善の努力をして、専門家と同等になれればいいのですが、現実には無理です。専門家はいなくなってしまうというか、全員が専門家であり凡人でもあるということになってしまいます。こんな社会は存在しないので、自分の得意(専門)領域は詳しいけれども、それ以外のことについては「あまりよく知らない」とか「人並み程度にしか知らない」というのがごく普通なのです。ですから、普通の人々が何かの意見を表明する場合には、大抵の場合には「専門家と同じ知識を持ってないけれども」意見表明を行う、ということになります。これが許容されない社会を求める人たちは存在するのかもしれませんが、一応今のところそのような社会にはなっていないでありましょう。

しかし、影響力の大きい方々については、求められる水準は高くなるでしょう。「専門外のことだから凡人と同様に何でも好き勝手に言っていいですよ」ということにはなりません、ということです。国会議員がいい加減なことを言うとか、新聞に誤ったことが書かれたりすると、社会の受ける損害(不利益?)が大きいことが有り得るので、よく勉強して下さい、勉強した上で正しい意見を発言して下さい、ということが求められて当然でしょう。行使される影響力が大きい人間ほど(一般個人に比べて)より高い要求水準を課せられる、ということです。


これらを踏まえて、ここからは例で考えてみます。

ある人が自分の家の郵便箱に次のような掲示を貼りだしました。
「朝日新聞は思想が偏向しているので、勧誘お断り!!」
いかに新聞購読の勧誘を撃退する為とはいえ、強烈な字句ではあります(普通なら「新聞勧誘お断り」とだけ書けば済む話ですが)。この貼り紙に書かれたものは、この人のある種の意見表明と見ることができます。
「朝日新聞の思想は偏向している」、だから、
「勧誘をお断りします(言外には購読したくない、とか、勧誘に来るな)」ということですね。
さて、ここで、後段は問題ないと思いますが、前段はどうなのか、ということを考えてみます。

①「郵便箱の掲示」は、不特定又は多数の人に知れ渡るような態様の伝達である、といえる
②「朝日新聞の思想は偏向している」という事実の摘示を行っている、といえる

もしも①と②が成立していると、これは名誉(信用)毀損の虞があると思われます。この人が掲示をすることによって、訪れた不特定の人が目にすることになり、結果的に「朝日新聞の購読をしていた人が購読を中止」したり、「今後朝日新聞の購読を考えていた人が選択から除外」するなどして、朝日新聞の購読費に損失を与えるとか、「朝日新聞は偏向しているらしいので信頼できないな」などと考える人たちを生み出し名誉を毀損してしまうことがあるやもしれません。となれば、この人は刑事罰を与えられるべきであり、損害に対しては賠償するべきということになるかもしれません。

しかし、この掲示による影響力というものを考えるとどうでしょうか。この人の家に訪れる不特定の人たちは、数万人というような数にはならないと推測でき、掲示を目にする人数には限度があります(=量的な基準)。一定程度に少ない数である、ということです。更に、「朝日新聞」(というブランド)に対する信頼と「この人の掲示」に対する信頼の比較によって、どのくらい信憑性を持つものであるのか(=質的な基準)、ということです。この人の掲示を見た殆ど多くの人が、「朝日新聞に対する信頼は十分備わっており、この掲示の意見の方がおかしい」とか、「掲示はタダの嫌がらせ的なものであって信頼性はなく、取るに足らない落書きである」と判断するのであれば、朝日新聞の社会的評価が著しく低下させられたとも考えられず、法的に罰するべきほどの損害を与えているものではない、ということかもしれません。

現実にこのような掲示は存在してないと思いますし、もしあったとしても、これで刑事罰となるケースはないと思いますけれども(単に掲示は不適切なので変えてくれ、とか申し入れれば大概解決するものでしょう)、掲示に書かれた意見表明によって受ける損害というものが量的評価と質的評価によって行われるべきものであるなら、本来持っていたと思われる影響力に対しての評価が行われているのと同じような意味を持つのではないか。量的及び質的評価から想定される影響力が極めて軽微である場合には、「朝日新聞の思想が偏向している」事実について調査判断する水準が低く正確性に劣るとしても、罰を与えられるほどの義務が課せられているわけではない、ということである。

では、同じ字句を個人の掲示ではなく、別な新聞に書いた場合にはどうなるであろうか。仮に、産経新聞に「朝日新聞の思想は偏向している」と書いたら、その損害の程度は明らかに先の「郵便箱の貼り紙」レベルではないであろう。影響力について、伝達される対象は数百万人規模の大多数に及ぶこと(量的評価)、「産経新聞」という一定程度に信頼性のある表明者であること(質的評価)、といった具合に評価されるであろう。そうなれば、たとえ「朝日新聞の思想が偏向している」という事実が真実であったとしても、事実の摘示によって社会的評価を低下させ実質的損害を与えることがあると考えるのは妥当であろう。法的に罰せられることを回避できるのは、この摘示された事実の真実性を証明する(特例の適用規定、法第230条の二)以外にはなく、意見表明に伴う努力義務は高くなって当然ということになる。

つまり、
・ある人の郵便箱の掲示:影響力小(伝達対象・少数、信頼性・低)→真実性の証明は緩い
・マスメディア記事:影響力大(伝達対象・多数、信頼性・高)→真実性の証明は必須
と考える。

(影響力の比較は、表明者との相対的関係によるので、ある人の隣家の主人について何か書いたりすれば、双方に大きな違いがあるとも認められず、「○○家の主人は~狂である」みたいに書くと、たとえ真実であるとしても(そもそも公益性も公共性もないからどうせダメだけど)、名誉毀損になってしまうであろう。)


それから、影響力の質的評価についてであるが、実人数の問題と、率の問題とがあるかもしれない。
郵便箱の掲示が来客100人に対して90人は信じてもらえず、10人が信じたものとしよう。偏向がある、ということを信じた割合は10%ということになる。実人数では10人である。通常人の9割が信じることがなかったのであれば、普通の注意力を持つ人であれば「これはウソの情報だ」と見破ることができるので、刑事罰を与えて禁止するべきほどのことでもない、という判断が成り立つであろう、ということ。一方、健康食品会社のHPに「○○病に効く~という商品」と謳っていて、これを読んだ100万人のうち1万人が実際に購入したとしよう。率でいえば1%に過ぎないが、本当は「○○病には全く効果がない」ということになれば、被害に遭った実人数は1万人ということになる。「郵便箱の掲示」よりも信憑性は劣る可能性はあるものの、影響を与えた実人数が1万人という多数に及ぶとなれば、意見表明として問題です、ということになるだろう。ああ、これは量的評価ということになるか。
いずれにせよ、「○○病に効く」という意見表明を行う以上、この真実性を担保する為の水準は「高くて当然」ということだ。普通の注意力があれば回避できるとか、引っ掛かる人の割合は圧倒的に小さいとか、言い訳を考えることはできるが、実人数が多いのであれば、社会全体で見た場合の影響が小さいとは言えない、ということだ。従って、影響力が大きくなれば意見表明をする前の段階として、「それが本当なのかどうか、十分検証しておくべき」という努力義務が課せられる、ということになるだろう。

郵便箱の掲示に限らず、個人のブログもこれと同様に考えることが可能ではないかと思う。一般個人がブログに「インフルエンザになった時、ネギを首に巻きつけると効果があったよ」(そんな言い伝えはないと思うけど、単なる民間療法信仰の例として)と書くと、「この記事に書いてあったので、オレは実際やってみた。けど、何にも効果がなかったじゃないか、どうしてくれる」といえるだろうか?
もし高い要求水準であるなら、個人のブログに書く場合であっても「ネギを首に巻くと効果がある」ことの検証を行うとか文献検索をして確認しておくなどといった、努力義務が課せられることになる。真実性を担保する為のハードルは高く設定されて当然ということになる。「ウチのおばーちゃんが言ってたよ」というレベルのものであれば、「真実性の証明となりえるか、誤信の合理的根拠となりえるか」みたいなことになってしまって、当たり前だけど「おばーちゃんが言ってたから」などというものを出してきても、真実性の証明には何の足しにもならないだろう。誤信の根拠になろうはずもない。すると、刑事罰を与えろ、損害賠償せよ、ということも可能になってしまうことになる。

しかし、前述したように、一般個人のブログというものが影響力が極めて小さいと考えられる時、「首にネギを巻くと効果がある」と意見表明したとしても、罰を与えるほどのものではない、と考えた方がよいと思う。要求水準は高いにこしたことはないが、いちいち全ての事柄について真実性を十分確認して表明しなければならないとなれば、何も言えなくなってしまう、ということになるからである。普通の注意力を持つ人が読んだ時に、ブログ記事の信頼性は低いなと判定できる程度の事柄であるなら、たとえ意見表明の前に「真実であるか否かについて検討する」という努力を怠っていたとしても許容される、ということだ。
これと同じことをテレビで表明したりすると、ネギが売り切れになってしまったりするかもしれず(笑、有り得ないと思うけど)、影響力が大きいので予め「真実であるか否か」について検討しておく努力義務が課せられるだろう。それを怠ったのが「あるある報道」の納豆みたいなものである。


では、こんな報道であればどうだろうか。
『「栄養ドリンクW」には放射能があった』
見出しにこうしたタイトルが付けられている場合、これが問題となるであろうか(用語の用い方が変かもしれないが、マスコミにはありがちな表現を想定してみました)。
事実として、
・「栄養ドリンクW」の測定実験を行った
・放射線の放出が検出された
・よって「栄養ドリンクW」には放射能がある、というのは真実
であったとしよう。
公共性、公益性の要件は満たしており、真実性も担保されている、と。
ということは、報道としては問題ない、ということだろうか?

この報道によって、栄養ドリンクWが「放射能のある危険な飲料」であるかのような印象を与えることになるであろう。放射線は実際に検出されたが、本当は自然界のどこにでもあるような「放射性同位元素」による微量放射線であり、人体には何らの影響も与えるものではなく、被爆といっても自然放射線の何十分の一といったレベルであったとすればどうだろう?「真実を報道した」という理屈で信用毀損などには該当しないのだろうか?
確かに「放射能があった」と言うことはできる。けれども、「栄養ドリンクWには放射能があった」と報じることで予想される結果というのが、一般人には「放射能が怖い、そんな怖い飲み物は飲めない」というように誤認させるものである。これで、事実確認の努力義務を本当に果たしていると言えるだろうか。真実を報道するということは、「放射線はあった」だけではなく、最低限「自然放射線以下だ、人体には何らの影響もなく危険性もない、ごく普通の物質によくある程度だ」ということまで含めなければならない。「放射能があった」という断片的事実だけを報じて、「これは真実だ」と主張できるから努力義務が達成されている、などとは到底言えないであろう。むしろ、「人体に影響はない、問題ない」というような事実を故意に伏せて報じたのではないか、とさえ思われ、この場合に何らの罰を受けずともよいのであれば「栄養ドリンクW」の売上減少の損害や会社の名誉毀損などについては賠償されないことになってしまうであろう。

報道機関への要求水準が低くてもいいという場合なら、上記見出しであったとしても「賠償責任を負わない」ということになってしまうかもしれない。しかし、本来真実性を担保するべく努力義務はもっと高いものであるはずである。故意かどうかは不明であるとしても、重要な事実を隠して(或いは知らずして)報道することによる被害は、現実に有り得る話だからである。C型肝炎に関する報道は、まさにこれだ。個人が果たすべき努力義務のレベルと、報道機関が果たすべき努力義務では、大きく異なるのである。国会議員たちに要求される努力義務も高いのは当然なのであって、一般個人以下の真実性でしかないのは懈怠である。


求められる水準が異なるものとしては、医療水準なんかもそうである。簡単にいえば、1次医療機関に求められる医療水準と3次医療機関では異なる、ということだ。それは高度な医療が提供されるであろう、ということが事前に予測されているものであれば、1次医療機関でできなくても過失にはならないが、3次医療機関で同じことができないと過失認定されることがある、ということになる。要求される水準が異なってもしかるべき、ということである。なので、事実の検証についての水準が、ある個人には緩い水準しか要求されない(法的責任は発生しない)としても、事前により高度な検証が期待されている個人は要求水準は高くなり、それだけの努力義務が課せられていると考えることは妥当であろう。


いずれにせよ、普通の個人が課せられているであろう努力義務は、低くても止むを得ない(それとも、別にいいんじゃないか)、と個人的には考えている。




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