北海道は広大ながらも私が守備範囲とする戦国期を中心とした時代の史跡は、その歴史との関わり合いに比例をするかのようにあまり多くはありません。
そのために北海道はこれまで函館しか訪れたことがなかったのですが、その函館も大きく脚光を浴びたのは幕末の箱館戦争ですので私からすればちょっと外れています。
それでも城があれば足を運ぶのが私の習性ですので、今回の旅の最初の地に函館を選んだことは必然とも言えます。
その函館にあるのが五稜郭で、もしかしたら知名度からすればかなり高位に位置するかもしれません。
築城をされたのが幕末も幕末、1866年にヨーロッパの稜堡式の城として産声を上げました。
日米和親条約による函館港の開港がそのきっかけとも言われており、しかし内戦の舞台となったのですから皮肉なものです。
そしてその箱館戦争により落城をしたことで1869年に廃城となりましたので僅か3年の命であり、建物も全て取り壊されてしまいました。
それでも堀や石垣が残されていますので城フリークとしては胸が高鳴りますし、きっちりと整備をしてくれていることに感謝の念でいっぱいです。
五稜郭は星形をしていることが有名で、五つの稜堡があることからそう呼ばれています。
当時は柳野城、あるいは亀田御役所土塁とも言われていたそうで、国の特別史跡に指定をされています。
この日本の城としては特異な構造であることがメジャーである理由だと思われ、そして当然のごとく大手にあたる場所に全容が分かる模型が設置をされていました。
当時の遺構は残されていませんが、昨年に箱館奉行所が復元をされています。
ただいわゆる櫓などとは違うために個人的な興味が薄く、外から眺めただけでスルーをしました。
それなりの展示がされているとの案内はあったものの、言葉の分からない集団が騒ぎながらの混雑状態だったのも理由の一つです。
周りを見れば修学旅行と思しき集団もいましたし、時期が悪かったのかもしれません。
この砲台は本物だとの説明板がありましたが、意外に小さいなとは正直な感想です。
もちろん大きさと威力に直接的な関係は無いのかもしれませんが、ちょっとした肩すかしです。
そもそもが時代遅れの要塞だったとの評価もされている五稜郭に、どれだけの砲台が設置をされていたのかが気になります。
その五稜郭を訪れた際に、どうしても避けられないのが五稜郭タワーです。
星形に大きな意味があるために城内を歩いただけでは物足りませんので、840円とぼったくりの料金ながらも利用をせざるをえません。
この五稜郭タワーを訪れずして五稜郭に行ったことにはならない、とは言い過ぎかもしれませんが、そのぐらいに重要なポジションを占めています。
展望台には当然のように、その全容が分かる模型が設置をされています。
先の模型よりもこちらの方が立体感がありますし、展望台から見える五稜郭と見比べられるのは嬉しいです。
もっともこれぐらいはやってくれなければ高い料金が泣きますので、必要以上の感謝はしないことにします。
ようやくに全貌が明らかとなる、これが五稜郭です。
残念なことにガラスの幅が狭いために、窓枠に邪魔をされて全体を撮すことができません。
航空写真でもない限りは、あるいはかなりの広角レンズでもなければ全部を撮すことは無理ですので、世の中に出ている五稜郭の写真の多くがこういったものになっています。
自分の目でしっかりと見てきたので多少なりとも満足はしましたが、その五稜郭タワーで売っていた絵はがきなども同様なのには笑わせてもらいました。
五稜郭を舞台とした箱館戦争で有名なのは、やはり土方歳三です。
箱館政権、続に言う蝦夷共和国では陸軍奉行並と現在の知名度からすれば低いところに位置していましたが、その土方よりも重職だった面々は全て箱館戦争後も生き残っていますので、壮烈な戦死を遂げた土方に人気が集まるのは判官贔屓の日本人のDNAによるものなのでしょう。
残された写真では坂上忍を思わせる二枚目の土方も、展望台にある銅像では冴えないオヤジとなっています。
五稜郭タワーの一階にも、これでもかと土方歳三の像があります。
徳川家の三つ葉葵と箱館政権の主力部隊として活躍をした額兵隊の旗に守られるように立っていますので、やはり新撰組の鬼の副長が一番のヒーローなのでしょう。
総裁であった榎本武揚などは形無しですが、こればっかりは仕方がありません。
展望台のそれと比べればまだマシですが、それでも34歳で世を去った土方歳三と考えればオヤジの印象は拭えません。
単に写真うつりが良かっただけなのかもしれませんが、ヒーローとして持ち上げるのであればもう少し配慮があってもよいでしょう。
こちらの像の脇には経歴の紹介とともに件の写真の載った説明板があるだけに、その出来に不満を持った方も多いのではないかと思います。
五稜郭を後にして次に向かったのは、こちらも国の史跡となっている四稜郭です。
四つの稜堡があることからそう呼ばれているのは五稜郭と同様で、その五稜郭の支城的な位置づけで築城をされました。
そうは言いながらも城と呼ぶにはあまりに小さく、建物も無かったとのことですから砦と呼ぶのもおこがましいかもしれません。
遺構は土塁のみで、しかしきちんと整備をされていました。
国の史跡ではありながらも観光マップからは忘れられた存在で、また五稜郭からそれなりの距離がありますのでカーナビの導きがなければ行き着かなかったかもしれません。
派手さがないので観光の目玉にはなりえないのでしょうが、その状態からすればもったいない気がします。
もっとも訪れる人が少ないからこそ状態が保たれているのかもしれず、平日ではあったのですが私以外には犬の散歩をしている人が一人いただけでした。
以前に来たときには函館山から夜景を見たり、あるいはトラピスチヌ修道院や赤レンガ倉庫などを見て回ったのですが、今回は偶然に賭けることとしました。
つまりは五稜郭などに行く途中で見かけたら、という消極的なもので、これは年齢を重ねるにつれて守備範囲が狭まっていることが理由です。
その偶然はしかしながら一回しか訪れず、中島三郎父子最後之地のみです。
四稜郭からの帰りがけに土方歳三が討ち死にをした場所の案内板もあったのですが、ただの場所を見に行くには天気の下り坂が気になりすぎていたため、あっさりとパスをしました。
そして今回の旅の最大の目的である松前に向けて、函館の地を後にします。
【2011年9月 北海道の旅】
でっかいどー北海道
でっかいどー北海道 旅情篇
でっかいどー北海道 旅程篇
でっかいどー北海道 史跡巡り篇 松前の巻
でっかいどー北海道 史跡巡り篇 根室の巻
でっかいどー北海道 グルメ篇
でっかいどー北海道 おみやげ篇