三日目は弘前で、またしても肌のダメージが心配になるぐらいの晴天でした。
曇りや雨は困るものの、晴れたら晴れたで写真を撮る際の逆光が気になるという贅沢な悩みを抱えての散策でしたが、見るところが多くてかなり楽しく過ごすことができました。
前日からのギャップもあってかなりのハイテンションで、カーナビの使い方に慣れたこともあってこの旅で一番にアクティブに動き回った弘前です。
弘前城には日本で12箇所しか残されていない現存天守があり、また3つの櫓と5つの門も天守閣と合わせて国の重要文化財に指定をされています。
これだけの遺構が残されている城は日本でも数少なく、もっと注目をされてもよいように思います。
どこの門から入って巡るのが一番に効率的かを考えもしたのですが、面倒くさくなったので弘前駅から最寄りの東門から中に入りました。
東門を抜けると三ノ丸となり、その三ノ丸と二ノ丸の間に鎮座をしているのが東内門です。
これだけの構えの門が一つでもあれば感動ものなのですが、ここ弘前城には複数残されているのですから恐れ入るしかありません。
どういった経緯で解体をされなかったのかは分かりませんが、津軽氏の尽力もあったのでしょう。
東内門を抜けると二ノ丸から冒頭の天守閣を望むことができます。
これを見てしまうと一気に向かいたくもなるのですが、ここは気持ちをグッと抑えて右手、方角で言えば北に向かって進むと与力番所があります。
こちらは再建をされたものだからなのかもしれませんが入ろうと思えば入れる状態となっていたのですが、入っていいのかどうかが分からなかったのでやめておきました。
さらに北に進むと丑寅櫓があります。
文字どおりに城の北東を守るための櫓で、ここ二ノ丸に配されています。
城内は道路整備のためかあちらこちらで工事をしており、この丑寅櫓の近くもパワーシャベルなどが所狭しと動き回っていたために通行が制限をされていたのですが、写真を撮るために行ったり来たりで交通整理の方にかなり迷惑をかけてしまって申し訳なかったです。
そのまま北に向かうと一気に広い場所に抜けますが、あまり他では聞かない四ノ丸がそこにあります。
護国神社があったのですが軽くスルーをして、北門を抜けて場外に出ることにしました。
中をぐるっと回ろうかとも思ったのですが通行止めになっている所がままあったことと、堀を眺めるのもよいだろうと思ったのが理由です。
その堀を頼りに時計回りにぐるっと反対側に回ると追手門があります。
その名のとおりに城の正面を守る門で、本来はここから入って城を巡るのが王道なのでしょう。
東門には無かった弘前城趾の碑がこちらにはありましたし、ほんのちょっとだけ後悔をしました。
ただ築城当時は北が正面口だったようで、先に抜けてきた北門が追手門と呼ばれていたらしいとは豆知識です。
いずれにせよ東門から入った自分には、どうにも関係のない話だったりもします。
追手門を抜けて北に進むと南内門があります。
天守から見て南にあるので南内門であり、東内門と同じく三ノ丸と二ノ丸を遮断する役割を担っているのでしょう。
どの門もそうですが外側ら見れば門の正面が狭くなっており、コの字に曲げることで一気に攻められるのを避ける造りとなっています。
ほとんどの写真が斜めからしか撮れていないのがその理由で、かなり立派な門であるためにそれなりの距離を取らなければ全体が写らないためにこういった構図になっています。
しばらく歩くと植物園があるのですが、その陰でうっかりすると見落としがちなところに辰巳櫓があります。
位置的には南内門を抜ければ見えてもおかしくはないのですが、鬱蒼とした木々がその姿を隠してしまっているのが残念だったりもします。
こちらもその名のとおりに城の南東を守るための櫓で、かなり広い面積を占めている植物園に入ればもっときちんと見ることができたらしいのですが、そのときにはよく分からなかったのでスルーをしたことで遠目にしか見ることができなかったのが残念ではありました。
二ノ丸の南西に位置するのが、同じくその方角から名付けられたのであろう未申櫓です。
一見すると丑寅櫓、辰巳櫓との違いが分かりづらいのですが、窓の作りなどが微妙に違います。
ただどれがどれかと問われても自分にはハードルが高すぎますし、同じ城を守る櫓としての統一美と考えればよいのかなと思います。
いよいよお目当ての天守閣です。
築城当時の天守閣は五層の巨大なものであったようで、現在とは違い本丸の南西の場所にありました。
落雷で焼失をして以降は再建がされなかったのですが、本丸の南東にあった辰巳櫓、二ノ丸の辰巳櫓とは別の櫓を改築したものが現在の天守閣になります。
武家諸法度により天守閣の新築は禁じられていたために、正式には御三階櫓と呼ばれていたとのことです。
そんなこともあってか、やや小ぶりな天守閣ではあります。
それでも日本最北の現存天守ですし、末永く大切にしていきたいものです。
また近くに桜のトンネルもありましたし、城内にもいたるところに桜が植えられていましたので、できれば次は桜が満開の時期に訪れてみたいと思います。
弘前城を出て次に向かったのは、藩祖である津軽為信の菩提寺である革秀寺です。
その津軽為信の霊屋は柵に囲まれており寺の方に声をかけて中に入らせてもらったものの、国の重要文化財ですので当然のことながら霊屋の中まで入ることはできません。
当時としては希少だった朱色に彩られた霊屋は、藩祖に対する崇高の念が感じられました。
誓願寺の山門は日本で唯一のこけら葺き重層四脚門で、これまた国の重要文化財です。
懸魚に鶴と亀が彫刻をされていることから鶴亀門とも呼ばれているらしいのですが、残念ながらよく分かりませんでした。
左から長勝寺黒門、栄螺堂、そして長勝寺です。
この長勝寺黒門から長勝寺に至る500メートルちょっとの間に33もの寺院が建ち並び、長勝寺構えとも禅林街とも呼ばれており、有事の際の出城の役割を担っていたとのことです。
まっすぐに伸びた道路の両脇の寺院群は威圧感すらあり、なるほどと思わせるだけの偉容を誇っていました。
また栄螺堂は回廊式の構造になっており会津若松にも倍以上の大きさのものがあり昇ることができるのですが、弘前では非公開となっています。
こちらは法源寺にある、大浦城から移設をしたとされている城門です。
その規模からして信憑性が今ひとつなのですが、それらしき立て看板はありました。
津軽為信は久慈氏の出身と言われており、大浦為則の婿養子となって大浦城主となりましたので、そういう意味では原点の城の遺構と言えなくもありません。
最勝院の五重塔です。
もしかすると弘前城に匹敵をするぐらいに、弘前ではメジャーな観光地かもしれません。
国の重要文化財に指定をされた五重塔としては最北に位置するもので、完成までに10年以上を要したとのことです。
こういったものに疎い自分ですら、しばし見とれるだけの様式美があります。
弘前城の東門の近くにある弘前文化センター前に、津軽為信の像が建っています。
元々は本丸に建立をされていたものが戦時中に金属供出のために鋳つぶされてしまい、2004年にこの場所に復元をされました。
よって以前に弘前を訪れたときにはまだ無かったものですので、今回に初めて見ることになります。
触れなかったので材質は分からないものの同寸のものが弘前市観光館に展示をされており、ミニチュアを販売して欲しいと思うぐらいの素晴らしさに感動をしました。
個人的にはどうでもいいご当地キティちゃんグッズなどを作るぐらいでしたら、こういったものに力を入れてもらいたいものです。
【2011年8月 北東北の旅】
がんばろう東北
がんばろう東北 旅情篇
がんばろう東北 旅程篇
がんばろう東北 史跡巡り篇 盛岡、三戸の巻
がんばろう東北 史跡巡り篇 八戸の巻
がんばろう東北 史跡巡り篇 秋田、横手の巻
がんばろう東北 グルメ篇
がんばろう東北 おみやげ篇