予定では松前には夜に入るつもりだったのですが昼過ぎから雲が厚くなってきたことと、翌日の予報が悪かったために函館を早めに切り上げて松前に向かいました。
結果的にはそれが大成功で、翌日は朝から小雨ながらもハッキリとしない天気だったために、既に夕方でしたが晴れ間の見える時間帯に松前城を回れたのはラッキーでした。
こういったハラハラドキドキ感も、旅の醍醐味の一つです。
松前城が今の形となったのは幕末であり、それまでは福山館、あるいは福山城と呼ばれていました。
北方警護の目的で幕府からの指示で福山館を改築したのが松前城であり、日本式の城郭としては最も新しいものとなります。
箱館戦争の際には土方歳三の率いる軍勢に攻め落とされてしまいますが、幸いなことに戦火に巻き込まれることなく天守閣などは重要文化財に指定をされて保全をされてきました。
しかし天守閣は残念なことに昭和に入ってから失火から焼失をしてしまい、現在の天守閣は鉄筋コンクリートで再建をされたものです。
それでもやはり血が騒ぐことに違いはなく、無理をしてでも晴れているうちに松前に入ってよかったです。
閉館間際の時間帯だったのでやや駆け足になってしまいましたが、係の方にも夜のライトアップを教えていただくなど親切にしていただきました。
こちらはその天守閣に連なる、当時からの建築物である本丸御門です。
国の重要文化財に指定をされており、史跡としての価値があるのは天守閣ではなくこの本丸御門であることは言うまでもありません。
かつての福山館の本丸御殿に至る正門であり、その偉容には圧倒をされます。
どうしても天守閣に目が行きがちですが、松前城に足を運ばれた際にはこの本丸御門に注目をされることをお奨めします。
この本丸御門を抜けた本丸にあたるところの脇に、ひっそりと建っているのが本丸玄関です。
本丸御殿の玄関であり、明治維新後は小学校の玄関として使われていたとのことですから驚きです。
その後はこの場所に移築をされて、北海道の有形文化財として今に至ります。
本来は城の外側から門を通って天守閣に至るべきなのでしょうが、閉館の時間が気になり焦ったことで直接に天守閣に向かったために、帰りに門を抜けることとなりました。
この搦手二ノ門は2000年の再建で、残された写真や発掘調査から忠実に再現をされた高麗門です。
天守閣の入口に相対する場所にありますので搦手ということに違和感がありますが、大手門は海に面した南側にあったようです。
搦手二ノ門を抜けると次に見えるのは天神坂門で、こちらは2002年の再建です。
やや小ぶりな門ですが、きちんと外側から登っていけば最初に出くわしたはずですので何とも微妙な感じがします。
様式美、というわけではありませんが、やはり登城をするに際しては順序を間違えてはいけないということなのでしょう。
今回は時間との戦いだったので仕方がありませんが、いい経験になりました。
その思いを強くしたのは搦手二ノ門と天神坂門との間、おそらくは二ノ丸にあたるのでしょうが、そこに松前城の模型を見つけたからです。
天神坂を登って天神坂門を抜け、そしてこの模型を見て松前城の全容を頭にインプットをした上で、搦手二ノ門をくぐって天守閣に至るのが登城の作法なのでしょう。
その割には天神坂門に誘導をする案内がなかったのが残念で、だからこそ一気に天守閣に至ってしまったのですが、このあたりはもう少し配慮が欲しいところです。
それでも夜間はライトアップをするなど、地元の人が松前城を愛する気持ちは痛いほどに感じられました。
無料で開放をされていましたし、また係のおじさんがナイター中継をラジオで聞きながらもいろいろと説明をしてくれました。
こういった町のシンボルがある生活は羨ましく、リタイアをした後はこんな場所でのんびりと余生を過ごしたいものです。
このライトアップはあまり知られていないようですので、松前城に行かれる際には見逃さないようご注意を願います。
翌日は雨の音で目が覚めたのですが、宿を出たときには小雨になっていましたので急いで松前家の菩提寺である法幢寺に向かいました。
松前城の山側にあり、おそらくは有事の際の砦とする意味合いがあったのでしょう。
しかし箱館戦争の際には海側に比べて手薄な山側を突かれて落城をしましたので、あまり役には立たなかったのかもしれません。
この法幢寺には歴代藩主の位牌が安置をされている御霊屋がありますが、公開はされていないようです。
説明板には中の格天井に松前応挙とも言われた蠣崎波響の花鳥の絵が掲げられているとありましたが、当然のごとく見ることはできません。
そもそも寺内に入るに際して声をかけたのですが、時間が早かったこともあってか誰もいなかったようです。
この法幢寺の裏手に松前家の墓所があります。
鬱蒼と茂った木々のおかげで小雨でしたので傘を差さずとも濡れずに済んだのには助かりましたし、晴れていれば逆光が厳しかったでしょう。
もっとも蚊の攻撃にはうんざりとするぐらいで、写真を撮るのとトレードオフで血を差し出してきた気分です。
まずは松前慶広の墓です。
初代の蠣崎信広から5代目にあたり、松前藩の初代藩主でもあります。
蠣崎から松前に姓を変えたことはあまりに有名であり、松平と前田を両天秤にかけた世渡り上手との評が一般的なようです。
松前家の墓所はさほど広い敷地ではないのですが、慶広の墓は他の墓の影に隠れるようにあるために最初は見落としてしまいました。
墓所を後にして歩きながら、それならiPhoneで慶広の墓はどこにあるのかを調べて、この墓所にあると分かって蚊に食われながらも粘って探した結果です。
その慶広の墓と並んでひっそりと隠れるようにあるのが、蠣崎季繁、蠣崎信広、蠣崎光広、蠣崎義広、蠣崎季広、蠣崎舜広の墓です。
蠣崎季繁は信広の義父であり、コシャマインの戦いで武功のあった信広に養女を嫁がせて家督を譲ったとされています。
蠣崎家当主の正室との合同墓であり、蠣崎家の初代とされることもあるようです。
またその季繁の養子となって蠣崎家の隆盛の礎を築いた信広は若狭武田氏の出身で、元は武田信広と名乗っていました。
松前家の家紋は武田菱であり、この松前家墓所にも武田菱が飾られていました。
信広が若狭武田氏の出であることには異論もあり、南部光政に厚遇をされたことから南部氏の出身とも言われているようですが、いずれにせよ源氏であることに違いはありません。
この信広の墓も、子である2代の光広、孫である3代の義広、ひ孫である4代の季広との合同墓であり、法幢寺が開基をされたときに建立をされたとのことです。
また慶広の兄である舜広は、理由は不明ですが姉に毒殺をされています。
同じく慶広の次兄にあたる元広も姉に毒殺をされており、そのために三男である慶広が季広の跡を継いで5代となりました。
しかしその姉が慶広を推していたわけでもないようで、その裏に何があったのかはよく分かりません。
慶広の嫡男が盛広ですが、父に先立って世を去りました。
従って歴代藩主に名を連ねてはいませんが、ここでは6代に数えられています。
その盛広の子が7代の公広で、祖父の慶広の跡を継いで松前藩の2代藩主となります。
ここからは守備範囲から外れつつありますので、ちょっと駆け足になります。
8代の氏広は公広の次男で、兄の兼広が早世をしたために家督を継ぎます。
しかし27歳の若さで氏広も没し、跡を継いだ嫡男である9代の高広も23歳で没するなど松前家の受難は続きます。
ようやくに高広の嫡男の矩広が10代として長命を繋ぎますが、今度は3人の息子に先立たれて一門から養子を取ることになるのですから皮肉としか言いようがありません。
その11代となる邦広は慶広の次男である忠広のひ孫にあたり、他にも近しい一門がいながらも家督を継いだのは忠広の系統が幕臣となっていたからなのでしょう。
その後は12代の資広、13代の道広、14代の章広と穏やかに長男が跡を継ぎましたが、章広の嫡男であった次男の見広が父に先立って22歳で亡くなったために見広の長男である良広が15代を継ぎ、その良広も子がないままに16歳で卒したために弟の昌広が16代となります。
しかしこの昌広も病弱で29歳で世を去り、嫡男の徳広が幼少だったために叔父にあたる14代の章広の六男である崇広が17代を継ぐことになるのですが、この崇広が福山館を松前城に改築をしたときの藩主であり、また寺社奉行から老中と幕府の要職に就くなどかなりの人物であったようです。
その崇広の跡は件の徳広が継いで18代となりますが、やはり病弱で僅か25歳で死したのですから重臣の専横が続いて藩内が混乱をするのも当然でしょう。
そんな中で徳広の長男である修広が19代となりますが、この修広が松前藩の最後の藩主として明治維新を迎えることとなりました。
短命な藩主が多かった割には基本的には直系が継いでおり、家祖である蠣崎信広や藩祖である松前慶広の血が受け継がれているのは歴史ファンとしては嬉しいことです。
これは松前藩が幕末には3万石になったものの基本的には1万石とぎりぎりの大名格だったことで、他の大名のように将軍家の一門から養子を送り込まれることがなかったからなのかもしれず、また将軍家から偏諱を受けることなく通字である「広」を守り通せた理由ではないかと考えます。
このあたりは戦国乱世を泳ぎ切った松前慶広からすれば痛し痒しのところはあるでしょうが、伊達慶邦や前田慶寧などのように先祖が泣くような名前で幕末を迎えた家に比べればマシだと、そう草葉の陰で喜んでくれているのではないかと思います。
【2011年9月 北海道の旅】
でっかいどー北海道
でっかいどー北海道 旅情篇
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でっかいどー北海道 史跡巡り篇 函館の巻
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