オリオン村(跡地)

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でっかいどー北海道 史跡巡り篇 松前の巻

2011-09-24 22:45:49 | 日本史

 

予定では松前には夜に入るつもりだったのですが昼過ぎから雲が厚くなってきたことと、翌日の予報が悪かったために函館を早めに切り上げて松前に向かいました。
結果的にはそれが大成功で、翌日は朝から小雨ながらもハッキリとしない天気だったために、既に夕方でしたが晴れ間の見える時間帯に松前城を回れたのはラッキーでした。
こういったハラハラドキドキ感も、旅の醍醐味の一つです。

松前城が今の形となったのは幕末であり、それまでは福山館、あるいは福山城と呼ばれていました。
北方警護の目的で幕府からの指示で福山館を改築したのが松前城であり、日本式の城郭としては最も新しいものとなります。
箱館戦争の際には土方歳三の率いる軍勢に攻め落とされてしまいますが、幸いなことに戦火に巻き込まれることなく天守閣などは重要文化財に指定をされて保全をされてきました。

しかし天守閣は残念なことに昭和に入ってから失火から焼失をしてしまい、現在の天守閣は鉄筋コンクリートで再建をされたものです。
それでもやはり血が騒ぐことに違いはなく、無理をしてでも晴れているうちに松前に入ってよかったです。
閉館間際の時間帯だったのでやや駆け足になってしまいましたが、係の方にも夜のライトアップを教えていただくなど親切にしていただきました。

こちらはその天守閣に連なる、当時からの建築物である本丸御門です。
国の重要文化財に指定をされており、史跡としての価値があるのは天守閣ではなくこの本丸御門であることは言うまでもありません。
かつての福山館の本丸御殿に至る正門であり、その偉容には圧倒をされます。
どうしても天守閣に目が行きがちですが、松前城に足を運ばれた際にはこの本丸御門に注目をされることをお奨めします。

この本丸御門を抜けた本丸にあたるところの脇に、ひっそりと建っているのが本丸玄関です。
本丸御殿の玄関であり、明治維新後は小学校の玄関として使われていたとのことですから驚きです。
その後はこの場所に移築をされて、北海道の有形文化財として今に至ります。

本来は城の外側から門を通って天守閣に至るべきなのでしょうが、閉館の時間が気になり焦ったことで直接に天守閣に向かったために、帰りに門を抜けることとなりました。
この搦手二ノ門は2000年の再建で、残された写真や発掘調査から忠実に再現をされた高麗門です。
天守閣の入口に相対する場所にありますので搦手ということに違和感がありますが、大手門は海に面した南側にあったようです。

搦手二ノ門を抜けると次に見えるのは天神坂門で、こちらは2002年の再建です。
やや小ぶりな門ですが、きちんと外側から登っていけば最初に出くわしたはずですので何とも微妙な感じがします。
様式美、というわけではありませんが、やはり登城をするに際しては順序を間違えてはいけないということなのでしょう。
今回は時間との戦いだったので仕方がありませんが、いい経験になりました。

その思いを強くしたのは搦手二ノ門と天神坂門との間、おそらくは二ノ丸にあたるのでしょうが、そこに松前城の模型を見つけたからです。
天神坂を登って天神坂門を抜け、そしてこの模型を見て松前城の全容を頭にインプットをした上で、搦手二ノ門をくぐって天守閣に至るのが登城の作法なのでしょう。
その割には天神坂門に誘導をする案内がなかったのが残念で、だからこそ一気に天守閣に至ってしまったのですが、このあたりはもう少し配慮が欲しいところです。

それでも夜間はライトアップをするなど、地元の人が松前城を愛する気持ちは痛いほどに感じられました。
無料で開放をされていましたし、また係のおじさんがナイター中継をラジオで聞きながらもいろいろと説明をしてくれました。
こういった町のシンボルがある生活は羨ましく、リタイアをした後はこんな場所でのんびりと余生を過ごしたいものです。
このライトアップはあまり知られていないようですので、松前城に行かれる際には見逃さないようご注意を願います。

翌日は雨の音で目が覚めたのですが、宿を出たときには小雨になっていましたので急いで松前家の菩提寺である法幢寺に向かいました。
松前城の山側にあり、おそらくは有事の際の砦とする意味合いがあったのでしょう。
しかし箱館戦争の際には海側に比べて手薄な山側を突かれて落城をしましたので、あまり役には立たなかったのかもしれません。

この法幢寺には歴代藩主の位牌が安置をされている御霊屋がありますが、公開はされていないようです。
説明板には中の格天井に松前応挙とも言われた蠣崎波響の花鳥の絵が掲げられているとありましたが、当然のごとく見ることはできません。
そもそも寺内に入るに際して声をかけたのですが、時間が早かったこともあってか誰もいなかったようです。

この法幢寺の裏手に松前家の墓所があります。
鬱蒼と茂った木々のおかげで小雨でしたので傘を差さずとも濡れずに済んだのには助かりましたし、晴れていれば逆光が厳しかったでしょう。
もっとも蚊の攻撃にはうんざりとするぐらいで、写真を撮るのとトレードオフで血を差し出してきた気分です。

まずは松前慶広の墓です。
初代の蠣崎信広から5代目にあたり、松前藩の初代藩主でもあります。
蠣崎から松前に姓を変えたことはあまりに有名であり、松平と前田を両天秤にかけた世渡り上手との評が一般的なようです。
松前家の墓所はさほど広い敷地ではないのですが、慶広の墓は他の墓の影に隠れるようにあるために最初は見落としてしまいました。
墓所を後にして歩きながら、それならiPhoneで慶広の墓はどこにあるのかを調べて、この墓所にあると分かって蚊に食われながらも粘って探した結果です。

その慶広の墓と並んでひっそりと隠れるようにあるのが、蠣崎季繁、蠣崎信広、蠣崎光広、蠣崎義広、蠣崎季広、蠣崎舜広の墓です。
蠣崎季繁は信広の義父であり、コシャマインの戦いで武功のあった信広に養女を嫁がせて家督を譲ったとされています。
蠣崎家当主の正室との合同墓であり、蠣崎家の初代とされることもあるようです。
またその季繁の養子となって蠣崎家の隆盛の礎を築いた信広は若狭武田氏の出身で、元は武田信広と名乗っていました。
松前家の家紋は武田菱であり、この松前家墓所にも武田菱が飾られていました。
信広が若狭武田氏の出であることには異論もあり、南部光政に厚遇をされたことから南部氏の出身とも言われているようですが、いずれにせよ源氏であることに違いはありません。
この信広の墓も、子である2代の光広、孫である3代の義広、ひ孫である4代の季広との合同墓であり、法幢寺が開基をされたときに建立をされたとのことです。
また慶広の兄である舜広は、理由は不明ですが姉に毒殺をされています。
同じく慶広の次兄にあたる元広も姉に毒殺をされており、そのために三男である慶広が季広の跡を継いで5代となりました。
しかしその姉が慶広を推していたわけでもないようで、その裏に何があったのかはよく分かりません。

慶広の嫡男が盛広ですが、父に先立って世を去りました。
従って歴代藩主に名を連ねてはいませんが、ここでは6代に数えられています。
その盛広の子が7代の公広で、祖父の慶広の跡を継いで松前藩の2代藩主となります。

ここからは守備範囲から外れつつありますので、ちょっと駆け足になります。
8代の氏広は公広の次男で、兄の兼広が早世をしたために家督を継ぎます。
しかし27歳の若さで氏広も没し、跡を継いだ嫡男である9代の高広も23歳で没するなど松前家の受難は続きます。
ようやくに高広の嫡男の矩広が10代として長命を繋ぎますが、今度は3人の息子に先立たれて一門から養子を取ることになるのですから皮肉としか言いようがありません。
その11代となる邦広は慶広の次男である忠広のひ孫にあたり、他にも近しい一門がいながらも家督を継いだのは忠広の系統が幕臣となっていたからなのでしょう。
その後は12代の資広、13代の道広、14代の章広と穏やかに長男が跡を継ぎましたが、章広の嫡男であった次男の見広が父に先立って22歳で亡くなったために見広の長男である良広が15代を継ぎ、その良広も子がないままに16歳で卒したために弟の昌広が16代となります。
しかしこの昌広も病弱で29歳で世を去り、嫡男の徳広が幼少だったために叔父にあたる14代の章広の六男である崇広が17代を継ぐことになるのですが、この崇広が福山館を松前城に改築をしたときの藩主であり、また寺社奉行から老中と幕府の要職に就くなどかなりの人物であったようです。
その崇広の跡は件の徳広が継いで18代となりますが、やはり病弱で僅か25歳で死したのですから重臣の専横が続いて藩内が混乱をするのも当然でしょう。
そんな中で徳広の長男である修広が19代となりますが、この修広が松前藩の最後の藩主として明治維新を迎えることとなりました。

短命な藩主が多かった割には基本的には直系が継いでおり、家祖である蠣崎信広や藩祖である松前慶広の血が受け継がれているのは歴史ファンとしては嬉しいことです。
これは松前藩が幕末には3万石になったものの基本的には1万石とぎりぎりの大名格だったことで、他の大名のように将軍家の一門から養子を送り込まれることがなかったからなのかもしれず、また将軍家から偏諱を受けることなく通字である「広」を守り通せた理由ではないかと考えます。
このあたりは戦国乱世を泳ぎ切った松前慶広からすれば痛し痒しのところはあるでしょうが、伊達慶邦や前田慶寧などのように先祖が泣くような名前で幕末を迎えた家に比べればマシだと、そう草葉の陰で喜んでくれているのではないかと思います。


【2011年9月 北海道の旅】
でっかいどー北海道
でっかいどー北海道 旅情篇
でっかいどー北海道 旅程篇
でっかいどー北海道 史跡巡り篇 函館の巻
でっかいどー北海道 史跡巡り篇 根室の巻
でっかいどー北海道 グルメ篇
でっかいどー北海道 おみやげ篇

 


どうすりゃいいんだ

2011-09-24 20:53:28 | 千葉ロッテ

 

今日の試合展開で勝てなければ冗談抜きで18連敗の記録も更新ができそうな、そんな気がしてきます。
エースが投げて先制をしてもあっさりと逆転をされてしまい、終盤にベテランの一振りで勝ち越しをしても守護神が打たれるのですから、もうどうにもなりません。
試合前に球場の敷地の外周を早足で歩いていた石川球団運営本部長はこの現状に何を考えるのか、誰も気がついていないようだったのがその悪名に比して不思議な感じがしましたが、突然のことだったので「お疲れ様でした」と声をかけることができなかった自分に悔いが残ります。

そんな不完全燃焼チックな引き分け試合ではありましたが、ここのところではベストゲームと言ってよいと思います。
二回の先制は無死一塁三塁から角中が詰まりながらも内寄りのストレートに腕を上手くたたんで振り抜いたタイムリーに、ようやくに一軍に戻ってきた細谷がきっちりと送り、的場はファールで粘った上での内野ゴロでの追加点ですから、西武からすれば嫌な点の取られ方だったでしょう。
さらに伊志嶺に一本が出ていれば完全に主導権を握れたのでしょうが、それでもこういった攻撃ができていなかっただけに珍しいものを見た気分です。

そして八回に同点に追いついた後の福浦の勝ち越しツーベースは身震いがするぐらいの興奮状態をもたらし、柄にもなく福浦コールをしてしまいました。
スタメンに若手が名を連ね、ここぞという場面でベテランが活躍をするという、まさに理想的な展開です。
まともに走れない今江を今日もDHで起用をしたこと以外はベストに近い布陣でしたし、こういった選手起用をしてくれれば球場に足を運ぼうという気にもなれます。

また私がいろいろな意味で福浦の後継者として期待をしている角中は、先制タイムリーを含むマルチヒットで今日も打率を上げました。
井口の同点打に続いて外角のボールを逆らわずに逆方向に弾き返した角中のヒットが福浦の勝ち越し打を呼んだとも言えますので、勝っていれば今日のお立ち台だったでしょう。
これで今季は28安打ですので、残り試合からしてノルマの50安打を簡単にクリアをしてくれそうです。
広角に打てるのが角中の持ち味ですし、やや頭が突っ込み気味で無様なスイングに見えながらも抜群のバットコントロールで芯を捉える技術は浦和レベルを超越していますので、荻野貴の復帰を考えると来季の外野戦争はかなり熾烈なものになると思います。
そういう意味では清田とともに、一塁の守備練習を始めるのもよいかもしれません。

先発の成瀬は6回を9安打3失点、101球での降板ですからベンチの信頼が薄れてきているのでしょう。
立ち上がりからコーナーを狙いすぎで球数を増やしてのガス欠というわけでもないでしょうが、どうにもこういったピッチングが続いているのが気になります。
タイプ的にねじ伏せるといった成瀬ではありませんが、それでももう少し大上段から相手を飲むぐらいの気概を見せてもらいたいものです。
ピッチングとしては五回に先頭打者の秋山を簡単に追い込みながらも不用意な高めのボールを打たれたのが全てと言ってもよく、そこから一気に崩れていきました。
まさに痛恨の一球であり、下位打者に打たれて失点を重ねるという悪癖がもろに出たと言ってよいでしょう。
このあたりは成瀬だけではなく的場の責任でもありますので、山中コーチも含めてよく話し合ってもらいたいです。

成瀬を継いだロサは相変わらずに2イニングを投げさせられる涙目状態で、よほど年俸を奮発しなければ来季はいないだろうと覚悟をしています。
伊藤の離脱でこういった場面で投げる投手を育てなければならないはずが、ロサの負担を増やしただけなのですから仕方がありません。
球団がロサに最低でも80万ドルを払うつもりがあればいいのですが、まあ期待薄でしょう。
そして最終回に追いつかれた挙げ句に打球を受けて悶絶をした藪田は、やはり登板間隔が空きすぎたことによる乱調だと思われます。
抜けるボールが多く、ここまでコントロールに苦しむ藪田は久しぶりに見ました。
本人も間隔が空いていることを意識した調整をしていたようですが、やはり実戦ともなると違うのでしょう。
もったいない試合ではありましたが、ここまで頑張ってきた藪田が打たれてのことですから負けなかっただけでもよしとします。

休養がよかったのか井口が久しぶりに猛打賞でしたが、上体だけのスイングで下半身がついてきていないのが気になります。
それでもヒットを打てるのですからさすがと言うべきなのでしょうが、このままフル出場を続ければまた調子が落ちてくるのは必至です。
今回の不調でベンチと井口が何かを学んでくれていればいいのですが、今後に点差の離れた試合での途中交代があるかどうかに注目をすることにします。
また走れない今江は登録抹消をすべきで、高濱をもっと使ってもらいたいです。
細谷と高濱のどちらをショートで起用をするかは悩ましいですが、根元も含めて守備に不安があると判断をした選手をDHにすべきでしょう。
あるいは清田をライトで使って角中をDHでもよく、いずれにせよ右左を意識せずに育てるべき選手を育てる布陣を明日も期待をします。



  1 2 3 4 5 6 7 8 9
西武 0 0 0 0 1 2 0 0 2 5 12 0
千葉ロッテ 0 2 0 0 0 0 0 3 0 5 11

0


◆9月24日(土) 千葉ロッテ-西武20回戦(ロッテ11勝8敗1分、13時、QVCマリン、21,818人)

▽バッテリー
千葉ロッテ 成瀬、ロサ、藪田―的場
西武 西口、ミンチェ、星野、牧田―上本、銀仁朗

 

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