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オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻

2012-07-05 23:28:24 | 日本史

 

この旅で唯一に晴天だったのは小倉と中津を訪れた二日目のみで、晴れたら晴れたで逆光に悩まされるのですから贅沢なものです。
先日に導入をしたTZ30の逆光補正でも限界があり、しかしそれでも以前に比べればマシな状態ではあります。
前日の雨の水滴の痕がレンズについているのに気がつかないままだったという失態はありましたが、やはり青空はいいものです。
そしてタイトルに大分と銘打ちながらも始発で足を運んだ小倉は福岡県ですので、ちょっと逸脱をしてしまいました。
ちょっと前も日向路と言いながらも鹿児島県の肝付に行ったりもしましたので、その辺りと思っていただければと思います。
次は福岡とぶち上げるつもりですが目玉の対馬は長崎県ですから、ちょっと納まりがよくないのは確信犯です。

その小倉と言えば小倉城で、これまでは九州には新幹線で入っていましたから、まず最初にお目見えをするのがお約束でした。
自分にとっては九州の玄関口、とも言えます。
そんな小倉城は昭和に入ってからの鉄筋コンクリートで造られた天守閣ではあるのですが、やはりテンションが上がります。
四方八方から写真を撮りまくり、さながら珍しい玩具を与えられて興奮をする幼児のようでした。
近世の小倉城は毛利勝信が関ヶ原の合戦で西軍に荷担をしたことで追われた後に入った細川忠興が改修をしたことで形作られ、その細川氏が肥後熊本に移封をされたことで小笠原忠真が城主となり、幕末には第二次長州征伐の際に自ら火を付けて灰燼に帰するという哀れな末路を迎えます。
天守閣はそれ以前に火災で焼失をしており、その後に再建をされることはありませんでした。

城内は石垣あり、堀ありと変化に富んでおり、またその規模もかなり大きいです。
しかし平日の早朝ということもあってか人っ子一人おらず、まさに独り占め状態でした。
もし船橋にこれだけの城跡があればそれこそ入り浸ってしまうこと必至で、何とももったいない気がします。
灯台下暗しとでも言いますか、あまりに身近にあることで当たり前となってしまったのかもしれません。

福聚寺は小笠原忠真が創建をした小笠原氏の菩提寺で、小倉小笠原氏の240年間をともに歩んできました。
幕末に戦火で諸堂の多くを失いましたが、本堂などは当時のものが遺されています。
説明板があったのでこちらが正面かと思っていたのですが、どうやら裏手だったようです。

菩提寺ですから藩主の墓所も当然のようにあるのですが、残念なことに今は非公開とのことです。
20年以上前には自由に入れたようですが、いろいろとあったのでしょう。
入ろうと思えば入れないことはないハードルではありましたが、それをやってしまえば犯罪ですので大人しく帰ってきました。

大分に戻っての中津でまず出迎えてくれたのは、中津藩の下級武士の出である福澤諭吉です。
自分にとっての中津は中津城でしかないのですが、地元ではむしろ福澤諭吉の存在感の方が圧倒的にあるようです。
地元出身、とは言いながらも生まれたのは大阪ですが、それでも中津では一番の名士なのでしょう。

すぐにでも中津城に行きたい気持ちを抑えつつ、その途中にある寺にまず足を運びました。
最初は赤壁で有名な合元寺で、ちょっとペンキっぽさがありながらも周りとは異質な雰囲気を醸し出しています。
城井谷を治めていた宇都宮鎮房は伊予への転封を拒んだために豊前中津に封ぜられた黒田氏の配下に組み入れられましたが、反抗の構えを崩さなかったために黒田長政に謀殺をされ、その際に合元寺には宇都宮氏の家臣が籠もっていましたが全員が討ち取られてしまいました。
そのときに壁に飛んだ鮮血がいくら洗っても塗り替えても消えなかったために、赤色で塗りつぶしたと言われています。

円応寺は河童寺として有名です。
河童の墓があるらしく、完全に専門外ですがせっかくですので寄ってみました。
檀家さんからしたら河童ってどうなんだろうとは思いつつも、中津の観光名所になっていますので悪い気はしていないかもしれません。

河童の墓ではありますが、見た目は普通の墓と何ら変わりはありません。
江戸時代に住職が河童に戒名を与えたことで、恩返しに寺を火災から守ってくれたとのことです。
その河童は三匹で、よって墓の前には三種類の戒名の書かれた卒塔婆が立てかけてありました。
ちなみに墓の前が水たまりになっているのは河童だからではなく、前日の雨の名残でしかないことは言うまでもありません。

いよいよ中津城です。
黒田孝高が築いた中津城は関ヶ原の合戦の勲功で黒田氏が筑前名島に加増転封された後は細川忠興が入り、その細川氏が肥後熊本に移ったことで小笠原氏が中津藩を興しますが5代で無嗣改易となり、丹後宮津から奥平昌成が移封をされて9代を経て幕末を迎えました。
2年ほど前に奥平氏の子孫が営む企業から埼玉の企業に模擬天守が売却をされたことが話題になりましたが、特に問題などは起きていないようです。

その模擬天守は堀にせり出したような造りとなっており、ちょっと珍しい感じです。
堀には海水が引き入れられていますので、海城としての性格を持っているとのことです。
ただこの模擬天守は史実に忠実に復元をされたものではなく観光用に他の城の天守閣を模倣して鉄筋コンクリートで造られましたので、資料的な価値はありません。
そもそも中津城に天守閣があったかどうかは議論のあるところらしく、おそらくは無かったであろうというのが大勢のようです。

こちらは模擬天守に連なる大鞁櫓で、城主の馬具等を格納するところとの説明書きがありました。
ただ模擬天守と同様に再建をされたものですから、当時にそういった性格を持ち合わせていたかどうかは不明です。
五重五階の模擬天守に対して二重二階とやや小ぶりですが、両者がいいバランスで連なっていますので観光用としては大成功でしょう。
黒塗りの板壁がいい味を出しています。

城内には三斎池がありますが、これは細川忠興の号にちなんでいます。
忠興は城の水不足を補うために近くの川から水を引く大工事を行い、その水を貯めたのがこの三斎池とのことです。
現在は上水道を用いていますし噴水などもありますので、やや趣きに欠ける感じがありました。

城内には三つの神社があります。
奥平神社は奥平氏の中興の祖である貞能、信昌、家昌を祀ったものです。
また城井神社は先に書いた黒田氏に謀殺をされた宇都宮鎮房が祭神で、祟りを怖れた長政が祀ったとは説明板でした。
その脇にある扇城神社は合元寺で討ち死にをした宇都宮氏の家臣が祀られており、主君の側で眠っているということなのでしょう。
写真は左から奥平神社、城井神社、扇城神社です。

中津城を後にして向かったのは自性寺で、奥平氏の菩提寺です。
そうなれば藩主の墓所もあるのではないかと期待をしたのですが、残念ながらありませんでした。
奥平氏は江戸の清光院を墓所としており、中津にはどうやらないようです。

その代わりというわけでもないのでしょうが、ここにも河童の墓がありました。
よほどに豊前は河童にとって住みやすい土地だったのでしょう。
イタズラをしていた河童を住職が改心をさせたとのことで、河童が書いた詫び状が寺には遺されているそうです。

浄安寺は小笠原長継の菩提を弔うために、長男の政直が建立をしたと伝えられています。
長継は小笠原中津藩の初代の長次の曾祖父である貞慶の従兄弟であり、政直は祖父の秀政の又従兄弟という近いようで遠い存在ですので、ちょっと不思議な感じがあります。
一族のつてを辿って中津に在したのかもしれませんが、詳しいことはよく分かりません。

最後は福澤諭吉の旧宅です。
ちょっとした観光名所になっているらしく、平日ながらも観光バスが留まっていました。
たまたま前を通りかかったので写真を撮ったのですが、中津は興味外の諭吉で始まり諭吉で終わるのですから皮肉なものです。


【2012年6月 大分の旅】
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雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
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雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻

2012-07-03 20:02:26 | 日本史

 

初っ端からいきなりの大雨でした。
豊後竹田駅に併設してある観光案内所でレンタサイクルを借りたのですが、担当の方に本当に行くのかと念を押されたぐらいです。
時折に小降りになったときもありましたが、どのぐらいの雨だったかは写真に写っている跳ねっ返りを見ていただければ分かるかと思います。
トップの写真は岡城跡と言えばここという定番の石垣ですが、霧にむせぶ感じはそれはそれで幻想的かもしれません。

岡城跡は今回が二度目で、前回に来たときにはかなり上まで自転車で登ったはずなのですが、今は駄目だと断られました。
もっともこれだけの雨ですからOKでも自転車では登らなかったですし、その前回は工事車両などが多くありましたので状況が違ったのだと思います。
岡城は戦国期には大友氏の一族である志賀氏の居城で、島津氏の攻勢に対して志賀親次が耐えきったことで有名です。
説明板には播磨から移封をされた中川氏が築いたような内容になっていますが、大幅に手を入れたのはその中川氏の時代ですからあながち間違ってはいないでしょう。
残念ながら明治維新の際の廃城令で全ての建物が破却をされてしまい、悲しいかな何も遺っていません。

登り口から登っていくとぶつかるのは当たり前ですが大手門跡で、しかしやはり石垣しかありません。
ただ10年ちょっと前に一時的に再建をされたそうで、近くのお土産物屋さんにそのときの写真が置いてありました。
僅か3ヶ月で壊してしまったらしいので見てくれだけで完全な再建ではなかったのでしょうが、なんとももったいない気がします。
国の史跡なので勝手なことはできないのが理由みたいなことをお店の人は言っていましたが、実際のところはよく分かりません。

そこから進んでいくといろいろな跡があるのですが、言われなければ分からないただの野っ原でしかありません。
このあたりは岡城跡に限らず多くの城跡も似たようなもので、雨の中をちょっとだけ歩いてみましたが礎石のようなものは見当たりませんでした。
こんな建物があったんだよ、ぐらいのつもりでいればいいのでしょう。
写真は左から西ノ丸御殿跡、家老屋敷跡、城代屋敷跡です。

現在で唯一の建物はこの中川覚左衛門屋敷跡で、もちろん再建をされたものです。
中川氏の家老である中川覚左衛門家は茶道織部流の祖である古田重勝の子孫との説明板ですが、しかし古田織部正は重勝ではなく重然となります。
重勝は織部正ではなく兵部少輔で、一般的には重然の弟である重則の子と言われていますので重然の甥にあたり、中川氏の家老ではなくれっきとした大名です。
また重勝の系統は子の重恒が無嗣断絶をしていますので、その子孫であるはずがありません。
ただ重然は中川清秀の妹、つまりは岡藩の藩祖である秀成の叔母を正室としたため、全くの無関係ではないでしょう。
重然は豊臣氏への内通を疑われて嫡男の重広とともに自害をしており、係累の誰かがつてを頼って中川氏に仕官をしたことは充分に考えられます。
また重然と重勝は混同をされることが多いので、単に説明板もそれが理由だと考えるのが妥当かもしれません。

この中川覚左衛門屋敷跡はちょっと道を逸れなければ行き着けないのですが、滑るのには充分な急な坂道がありますので要注意です。
元の場所に戻ってから進めば貫木門跡、鎧櫓跡、太鼓櫓跡と続きますが、この貫木門跡の脇から見えるのがトップの石垣です。
また鎧櫓跡は貫木門跡の裏手にあたりますので、この門を守るための櫓の意味合いもあったのでしょう。
いずれもしっかりとした石垣が遺されており、さすがに国の史跡だけのことはあります。
写真は左から貫木門跡、鎧櫓跡、太鼓櫓跡です。

さらに進めば三ノ丸跡、二ノ丸跡に至りますが、こちらも言われなければ分かりません。
何かそれらしきものがないかと歩き回ってみたのですが、裸足にサンダルが泥まみれになっただけでした。
写真は左が三ノ丸跡、右が二ノ丸跡になりますが、この二ノ丸跡に瀧廉太郎の像があります。

瀧廉太郎は有名な「荒城の月」をこの岡城をイメージして作曲をしたとも言われていますが、生まれは東京です。
しかし父親に連れられてこの竹田に住んだこともあったようですので、そのときの経験が活かされたのでしょう。
ちなみに瀧家はこの後に訪れた日出藩の家老だったそうで、そちらにも全く同じポーズの銅像がありました。
これは記憶違いかもしれませんが、前回に訪れたときには銅像は今とは違って城の外側を向いていたような気がします。
写真を撮るために距離をとろうとして落ちかけたはずで、あるいは何らかの理由で場所が変わったのかもしれません。
またかなり気をつけたつもりではあったのですが、レンズに水滴がついていたことによる残念な写真にかなり凹み気味です。

岡城跡の最後は本丸跡です。
こちらもありがちな社があるぐらいでこれといったものはなく、大手門と同様に以前に見てくれの天守閣が再建をされた場所がここかどうかは分かりません。
城全体の規模が大きいので当たり前かもしれませんが、、かなり広いなという感想です。

ところで山城などはどこでも似たようなものなのですが、この岡城跡にも柵などはありません。
側まで寄ればかなり危険で、雨が降っていて滑りやすいときなどはなおさらです。
アメリカなどではこの状態で万が一にでも事故に遭えば訴訟問題となるのでしょうが、自己責任が基本の日本ならではといった感じです。
下城をしたことを誰が確認をしてくれるわけでもありませんので、この険しさですから落ちたら一ヶ月ぐらいは見つからなくても不思議ではありません。

次に向かったのはおたまや公園で、その名のとおりに中川氏の墓所があります。
岡城跡では暫くは雨が弱まったのですが二ノ丸跡あたりからまた強く降りだして、このおたまや公園に着いた頃が一番に酷かったかもしれません。
2代藩主の久盛が中川氏の菩提寺として碧雲寺を創建しましたが、これは父である初代藩主の秀成の法号にちなんでいます。

ここには中川氏の歴代藩主の墓がありますが、3代の久清は城下北方の大船山に、7代の久慶は江戸に、8代の久貞は城下東方の小富士山に埋葬をされており、また10代の久貴もここ碧雲寺に墓があるはずですが見当たらず説明板にも省かれていましたので何か理由があるのかもしれません。
また12代の久昭と13代の久成の墓は青山霊園にありましたが、現当主によりここに改葬をされています。

岡藩の初代藩主である秀成は中川清秀の次男で、兄の秀政が朝鮮の役で討ち死にをしたことで家督を継ぎました。
父の清秀は賎ケ岳の合戦で佐久間盛政に攻め殺されたことが有名ですが、従兄弟である高山重友とともに荒木村重に仕えて、その村重が謀反をするきっかけとなったと言われている本願寺への兵粮米の横流しをしたのが清秀の家臣で、かつ村重を唆しながらも自らは織田信長に降ったとも言われています。
秀成は父、兄の跡を継いで播磨三木の城主となりますが、後に豊後岡に移封をされて中川氏はそのまま岡藩主として幕末を迎えました。
2代の久盛は秀成の嫡男で、祖父である清秀を討ち取った盛政の娘を母に持つというかなり特異な出自となります。
写真は左が秀成、右が久盛です。

ここからは毎度のことながら駆け足です。
久盛の跡は嫡男の久清が3代を継ぎ、4代の久恒、5代の久通、6代の久忠と直系が続きますが、7代の久慶と8代の久貞と続けて他家から養子を取ったことで男系は断たれてしまい、一族からの養女を正室に迎えて女系で血を保とうとしたものの9代の久持が養子に迎えた10代の久貴で完全に清秀の血は消え失せてしまいました。
11代の久教、12代の久昭もまた養子ですし、何ともやるせない気持ちになります。
久昭の長男である13代の久成が久しぶりの実子相続でしたが、この久成のときに幕末を迎えて最後の岡藩主となりました。
写真は上段左から久恒、久通、久忠、久持、久教、久昭&久成です。


【2012年6月 大分の旅】
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バキューン種子島 史跡巡り篇 鹿児島の巻

2012-06-05 02:38:43 | 日本史

 

二日目も天気に恵まれて順調な滑り出しだったのですが、桜島の噴火のおかげで日程を縮小せざるをえなかったのが残念でなりません。
涙にくれて時間と体力をかなりロスしましたので、まあ仕方がないと言えば仕方がないのですが、何もこのときに噴火をしなくてもとは旅人の勝手な言い分です。
それでも前回に見落としたところをきっちりとカバーするなど90点の自己採点はできますので、この勢いで次の大分、対馬、そして西九州となだれ込みたいものです。

鹿児島の最初は初日に鹿児島港からてくてくと歩いて天文館で食事をして、そこからホテルに帰る途中で見つけた大久保利通像です。
幕末は今や守備範囲外で積極的には探していないのですが、前回の西郷隆盛像などと同様に見つけたのであれば無視をすることはしません。
その西郷隆盛と並ぶ薩摩藩の維新二傑と言ってもいい大久保利通は西郷贔屓で不人気とも聞いていますが、政治家としての資質は大久保の方が優っていたと思います。
夜なのでまともに撮れるとは思っていなかったのですが、意外にまともに撮れていたのには驚きました。

二日目にまず向かったのは伊集院駅で、トップの写真にある駅構内の島津義弘人形が出迎えてくれました。
これを見て「ジャンボマックスだ」と思った方は、たぶん私と同年代です。
駅の正面には島津義弘像があり、前回の鹿児島で戦国島津氏が軽視をされていると嘆いていたのですが、これでホッと一安心です。
ただ銅像の写真を撮るのが難しいと言いますかかなり苦手で、多少でも逆光となるとこんな感じになってしまいますことをご容赦ください。
その兜の感じからしてもどこか鎌倉から室町あたりを思わせるような勇姿ですが、始発で来ただけのことはありました。

伊集院駅から反転して北上をした先は帖佐駅で、ここを根城に帖佐、加治木、そして重富を巡りました。
このあたりの町は合併をして姶良市になったのですが、レンタサイクルを営んでいる店があるのが帖佐駅ぐらいだったことがその理由です。
ただ営業時間が10時からとのんびりとしていたために帖佐は徒歩で巡ることにして、その第一歩が願成寺跡です。
ここには新納旅庵の墓があり、これが目的であることは言うまでもありません。

新納旅庵は鬼武蔵として名高い新納忠元の又従兄弟で、島津氏の庶流である新納氏のまた庶流にあたります。
僧侶でしたが島津義弘の命で還俗して家老となり、関ヶ原の役での講和に尽力をしました。
三基ある墓のどれが旅庵の、名は長住ですが、それにあたるかが分からなかったのですが、子孫が建てた墓碑が後ろにありましたのでおそらくは右端だと思います。
ただ墓石の刻字が薄れていて読み取れなかったので何とも言えず、もしかしたら一番に大きい中央のものがそれかもしれません。

次は島津義弘居館跡ですが、願成寺跡から2.5キロぐらい離れていましたのでちょっとした苦行でした。
まだ時間が早かったので日差しはさほどでもなかったのですが、申し訳ないのですがのんびりとしている自転車屋さんにぶつぶつと文句を言いながら歩いた次第です。
ここは義弘が関原の役の直前に居を移したところで、石垣があるなどちょっとした小ぶりの城のようなものだったようです。

敷地内はありがちな稲荷神社になっていてどうこう言うものはありませんでしたし、大振りな記念碑も興味をそそりませんでした。
東に大手門跡があり礎石が残されていましたが、これもあまりぐっとはきません。
それでも義弘の事績が紹介をされた立派な説明板がありましたので、地元の方にはこよなく愛されている義弘のようです。
ちなみにここにあった門は江戸時代に出水に移されて、今は市の指定文化財となっています。

帖佐での最大の目的がこの総禅寺跡で、豊州島津氏の菩提寺でした。
例によって廃仏毀釈で廃寺となってしまい、今は民間の墓地となっています。
豊州島津氏は本宗家8代の久豊の三男である季久を祖としており、その季久が豊後守を称したことから豊州家と呼ばれています。
先の都城の北郷氏から忠親が養子に入ったのがこの豊州島津氏で、北郷氏と豊州島津氏は協力して伊東氏らと対することとなりました。

初代の季久の墓は墓地の一番奥にあり、草が生え放題でかなり荒れた感じがあります。
当時の姶良町の指定文化財なのですからもうちょっと手入れをしてもらいたいのですが、いろいろと事情もあるのでしょう。
ただ同じ姶良市でも加治木などはきちんと整備がされていましたし史跡の案内板などもそこそこ充実をしていましたが、姶良と言いますか帖佐はそのあたりが言葉を選ばなければかなり手が抜かれているようで、先の願成寺跡も探し当てるのにかなり苦労をしました。
話がそれましたが季久は兄の本宗家9代である忠国の命で帖佐に侵攻をして建昌城を築き、しかし次の代に豊州島津氏は飫肥に移ることとなります。

そんなこんなで帖佐に墓所があるのは季久とこの朝久のみで、その朝久の墓も草むらに埋もれた形になっています。
中を覗いてみればかなり破損もしているようですし、何とも悲しくなってきます。
朝久は北郷氏から養子に入った忠親の跡を継いで6代となり、島津義弘の長女である御屋地を娶って義弘の配下として活躍をしました。

その御屋地の墓も、この総禅寺跡にあります。
都城でご紹介をした北郷相久に嫁いだもののその相久が父と不和となり廃嫡されて自害をしたことで、その後に朝久に嫁ぎました。
冷酷非情と言われた本宗家の忠恒もこの姉にはかなりの気遣いをしていたらしく、豊州島津氏の当主が本宗家の家老を務めていたのもそれが理由かもしれません。
ちなみに先の島津義弘居館には、義弘が加治木に移った後に御屋地が住んだとのことでした。

ここから帖佐駅に戻る途中で火山灰が降り出し、たまらずに逃げ込んだのが姶良市歴史民俗資料館です。
完全に予定外でしたが怪我の功名とでも言いますか、義弘や越前島津氏の小冊子を入手できましたのでラッキーでした。
個人的には今ひとつの展示物でしかなかったのですが、いろいろな意味で一息つけましたので感謝の言葉もありません。

ようやくにレンタサイクルを借りて加治木に向かい、最初に訪れたのが長年寺跡です。
本宗家の忠恒の三男である忠朗が興した加治木島津氏の墓所で、しかしこの加治木島津氏からその後に本宗家の当主が出ていますので本宗家の墓所と言えなくもありません。
これまた廃仏毀釈により廃寺となったようで、今はその墓所のみが残されています。

しかしここにあるのは2代の久薫の墓のみで、他は能仁寺墓地にあります。
このあたりの経緯はよく分かりません。
加治木島津氏は忠朗が祖父の義弘が領した加治木とその家臣団を引き継いでいますので、忠恒からすれば可愛い息子だったのでしょう。
久薫はその忠朗の嫡男です。

ここで有名なのは亀墓で、似たようなものを中国出張の際に泰山で見かけました。
5代の久方は本宗家に復して重豪となりましたが、その母である正覚院もここで眠っています。
その三十三回忌に重豪が建てた供養塔がこの亀墓で、正覚院は重豪を生んだその日に亡くなったためにそれだけ思いが強かったのでしょう。

その他では3代の久季の子の久連、久歓の墓がありましたが、久連の墓は撮り損ねましたので左側は久歓です。
右は椿窓寺殿供養塔で、椿窓寺殿とは島津忠良の三女の西姫のことです。
西姫は加治木肝付氏の兼盛に嫁ぎますが、その後に離別をされて実家に戻りました。
なぜに長年寺に供養塔があるのかの説明はありませんでしたが、その名前が伝わっていることからして重要な女性だったのだと思われます。

晩年を加治木で過ごした島津義弘の終焉の地が、ここ加治木島津氏の館です。
石垣は残されていますが帖佐のそれと同様に当然のごとく建物などは残っておらず、社のようなものがあるだけでした。
この加治木は義弘の孫にあたる忠朗に引き継がれたとは先にご紹介をしたとおりで、そういう意味では義弘が加治木島津氏の家祖と言ってもいいかもしれません。

この加治木は加治木氏が治めていましたが、島津季久、これまた先にご紹介をした豊州島津氏の初代ですが、この三男の満久が養子に入っています。
ところが満久の子の久平が島津氏に叛いたことで加治木を追われ、加治木氏は没落をしていきます。
この日木山宝塔はその加治木氏の墓石とも言われており、説明板には8代の親平夫婦、あるいは9代の恒平の弟である木田信経夫婦のものではないかと推定されるとあり、いずれにせよ親平は島津氏の初代である忠久と同年代の人物ですのでかなりの古さであることは間違いありません。
なかなか分かりづらいでしょうがかなりの大きさで、自分の身長よりもかなり高かったです。

こちらは加治木肝付氏の墓所です。
肝付氏の嫡流は島津氏との抗争で没落をしたとは先日の肝付でご紹介をしましたが、庶流の肝付氏は早くから島津氏に従いました。
ただ面従腹背なところもあったようで、加治木肝付氏の初代である兼演は何度か島津氏に叛いています。
しかしその子の2代の兼盛は島津忠良の娘を娶り、以降は完全に島津氏の家臣団に組み入れられていきます。

ここにある三基の墓のうち右端が3代の兼寛のものであることは分かっていますが、他の二基は刻字が読み取れないために不明のようです。
2代の兼盛とその側室ではないかと言われていますがどちらがどちらかも分からないとのことで、確かに全くと言っていいほど何も読み取れませんでした。
戒名は分かっているので一文字でもあれば何とかなると思うのですが、専門家が見ても不明なのですから自分に分かるはずもありません。

能仁寺墓地は加治木島津氏の墓所で、歴代藩主とその正室の墓があります。
ただ2代の久薫は長年寺跡に、そして4代の久門と5代の久方は本宗家を継いだために福昌寺跡に墓がありますので、それ以外のものとなります。
能仁寺は初代の忠朗が建立をしましたが今の状態を見れば、おそらくは廃仏毀釈により廃寺となったのでしょう。

初代の忠朗は本宗家の忠恒の三男で、祖父の義弘の領地と家臣団を受け継いだとは繰り返しになります。
通称の又八郎は忠恒と、初名の忠平と兵庫頭の官位は義弘と同じですので、父にも祖父にも愛された存在だったのでしょう。
当初は北郷氏に養子に入る予定が生母の反対により流れて、そして一門衆筆頭の加治木島津氏の誕生となった次第です。
ちなみに島津氏のルールなのか、当たり前のように右側が忠朗の墓となります。

一門衆筆頭ながらも、いや一門衆筆頭だからこそ、家督継承は順調にはいきません。
本宗家に跡継ぎが絶えた場合に当主を出す家系ですので、本宗家にできるだけ近い血筋を残す必要があったのでしょう。
2代の久薫は忠朗の子ですが、3代を継いだのは本宗家の綱久の次男である久季ですから久薫にとっては従兄弟の子になります。
そして4代の久門は本宗家の継豊の次男で、兄の宗信が22歳の若さで没したために本宗家に復して重年となりました。
重年の子である久方は生まれたときには父はまだ本宗家を継いでおらず、そのためか父の跡を継いでそのまま5代となりましたが、その後に父に子、つまりは自らにとっては弟ができなかったことで重年が没した後に同じく本宗家に復して重豪となりました。
6代は重豪の従兄弟である久徴が、7代はその子の久照が継ぎ、8代は久照の従兄弟、あるいは甥とも言われている久徳が、9代はその子の久長が、10代はその子の久宝が継いだことで本宗家との血脈がやや遠くなっていきましたが、これは重豪以降が子宝に恵まれたことが理由かもしれません。
写真は上段左から久季、久徴、久照、久徳、久長、久宝です。

蒲生氏と言えば近江の蒲生氏郷が有名ですが、ここ薩摩でも蒲生氏が栄えました。
同じ藤原氏の一族ですが直接的な繋がりはないようで、また近江が「がもう」に対して薩摩は「かもう」と濁りがありません。
戦国期には肝付氏らと組んで島津氏と抗争を繰り広げましたが、最終的には肝付氏とともに屈して島津氏の傘下に入ることとなりました。
蒲生氏の墓所は「蒲生どん墓」と呼ばれて整備をされており、その整然美には圧倒をされます。

大小の墓石が三列にきれいに並んでおり、前後左右の間隔もピッタリでした。
それもそのはずで、幕末の洪水で流出をしたものを昭和に入ってから有志が復元保存をしたものとのことです。
ここには8代から13代の当主とその一族の墓があるとは例によって説明板の受け売りですが、しかしどれが誰のものかの説明はありませんでした。

復元保存をしたのであれば当然のごとく最前列が当主のものであろうと、その想像どおりに8代から13代にあたる六基の墓が並んでいました。
そして並べるのであれば代順に並べるだろうと、横に並べるのであれば左からだろうと、このあたりは勝手な推測です。
あるいは復元の際に刻んだと思われる刻字は読めないところが多かったのですが、確実に分かったのは左端が蒲生宗清のものであることで、この宗清は蒲生を最初に名乗った舜清を初代とすれば7代になりますが、その父である藤原教清を家祖と考えれば8代になります。
かなり強引な論法ですが、そう考えれば写真は上段左から宗清、直清、清種、清冬、清寛、忠清です。

二列目と三列目はやや小ぶりとなりますので、おそらくは一族や正室、側室などの墓なのでしょう。
何となく適当に大きさを合わせて並べたように見えると言ってしまえば有志の方に怒られそうですが、見事なぐらいのバランスのよさです。
当主のものと同様に刻字がされてはいたのですが、こちらもかすれたり欠けていたりしたので深追いはしませんでした。

御仮屋門は鹿児島県の指定文化財で、蒲生地頭仮屋の正門です。
御仮屋とは言ってみれば役場のようなもので、市役所の正門とでも考えれば当たらずといえども遠からずでしょう。
城門に近いものですからそれなりの威容を誇っており、しかしちょっと劣化と言いますか朽ち始めているように見えたのが残念と言えば残念でした。

紹隆寺はご多分に漏れず廃仏毀釈で廃寺となりましたが、昭和の末期に再建されました。
ここには越前島津氏の墓所があります。
越前島津氏は本宗家の初代の忠久の次男である忠綱が越前守護代になったことで興したもので、しかし15代の忠長が播磨で討ち死にをして絶えてしまいました。
しかし実際には忠長の子である忠之、その子の義弘と戦国期まで血脈は続いています。
越前島津氏とは言いながらも忠綱の子の2代の忠之が播磨に下向をしたことで播磨島津氏とも称しており、忠長が赤松氏に属して播磨で戦乱に明け暮れたのもそれが理由です。
もっともそんなことはお構いなしに本宗家の継豊は弟の忠紀を16代として越前島津氏を再興させて、その領地から重富島津氏とも呼ばれました。

そういう意味では忠紀は越前島津氏の16代であり、重富島津氏の初代であると言ってよいでしょう。
本宗家の吉貴の四男で継豊の弟にあたり、嫡流かどうかはともかくとしても忠長の子孫がいる中での再興ですから無理矢理感は否めません。
ただこのあたりは完全に江戸期の話ですので、個人的には興味外だったりもします。
また忠紀よりも前の代の墓はありませんので、越前島津氏と言うよりも重富島津氏の墓所という方が正しいかもしれません。

便宜的に代数は越前島津氏のそれでいきます。
17代の忠救、18代の忠貫と直系が継ぎますが、19代には本宗家の斉宣の三男である忠公が、20代には同じく本宗家の斉興の五男の忠教、後の久光が入り、21代は忠教の四男の珍彦が、22代は珍彦の嫡男の壮之助が、23代は壮之助の嫡男の忠彦が継ぎました。
こう見ると本宗家の部屋住みを外に出すために名家を引っ張り出したと、そんな気がしないでもありません。
写真は上段左から忠救、忠貫、忠公、珍彦、壮之助、忠彦です。

ここまでは墓のオンパレードでしたので、最後ぐらいは城で締めます。
岩剣城は祁答院氏の居城で、険阻な断崖に囲まれた難攻不落とも言われた山城でした。
見るからに険しく、また整備状況が悪いと聞いてはいましたが登る気は満々で、しかし残念なことに火山灰のおかげで時間と体力を浪費したおかげで泣く泣く写真を撮るだけでパスをしたとは言い訳でしかありませんが、今回の旅で計画をしていたもので見逃した唯一ですから心残りであることは間違いありません。

岩剣城が島津氏に包囲をされて孤立無援となったことで祁答院氏は本拠の祁答院に落ちていき、島津義弘が城主となります。
しかしあまりに不便なために麓に築いたのが、この平松城でした。
現在は一部に野面積みの石垣が残っているだけで、重富島津氏の居館としてはちょっと寂しい感じがあります。
それでもその石垣すら残っていないところが少なくありませんので、いい感じで締めくくれたかなとは自画自賛です。


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バキューン種子島 史跡巡り篇 種子島の巻

2012-06-02 03:48:39 | 日本史

 

これまでの苦労が何だったんだと思えるような快晴に恵まれた種子島はしかしレンタサイクルが出払っていたために、仕方なく自らの足が頼りの史跡巡りです。
時間の許す限り海岸線を走り抜こうと思っていただけに肩すかしではありましたが、歩いたことで久しぶりに土地の方と多く会話ができたのは意外な収穫でした。
暑さにぶっ倒れそうにもなりましたし逆光にも悩まされましたが、ちょっとだけ原点に帰ったような気がします。

まず最初に向かったのは種子島総合開発センターで、俗称は鉄砲館です。
かなりユニークな形をしていますが、どうやら火縄銃をもたらした南蛮船をイメージしているとのことです。
それなりの数の火縄銃が展示をされており、それが故の鉄砲館なのでしょう。
入口に撮影用の模造銃らしきものがありましたがかなり貧弱なもので、もっとずっしりとした重みのある本物を触ってみたかったのが本音です。

鉄砲館の裏手がトップの写真のとおりに種子島氏の居城だった赤尾木城跡で、その脇に種子島時堯像がありました。
種子島に火縄銃がもたらされたときの当主だった時堯らしく、左手にしっかりとその火縄銃を持っています。
もっとも父の恵時はまだ壮年で健在であり、火縄銃の普及に尽力をしたのは時堯よりもむしろ恵時との話もあるようです。

次に向かったのは月窓亭で、市の指定文化財です。
江戸期の種子島氏の当主は鹿児島城下に屋敷を構えて住していましたが、明治維新により行き場を失った守時を旧家臣が迎え入れたのがこの月窓亭でした。
元は家臣の羽生氏の屋敷でしたが羽生道則が東京に住居を移したことで種子島氏当主が在することとなり、今は赤尾木城文化伝承館として一般に公開をされています。
どこか自分の母方の祖父母の家に近い感じがあり、何とも懐かしい感じがありました。

この月窓亭の近くにあったのが石敢当で、ここだけではなく何カ所かで見かけました。
中国から伝わった魔除けの石塔で、沖縄でも見たような気がします。
道が突き当たる場所は邪気や殺気を受ける悪い場所と考えられており、真っ直ぐにしか進めない鬼が道の突き当たりにある屋敷に突入をすることがないよう魔を除くために置かれたものとは説明板の受け売りですが、言われてみれば確かにT字路の付け根にありました。

ぐるっと回って赤尾木城跡に向かう途中にあったのが内城跡で、種子島氏が赤尾木城に移る前の居城です。
時堯もここを本拠としていましたし、赤尾木城に移ったのは孫の忠時の代になってからです。
今は榕城中学校になっており城跡らしき痕跡は見当たらず、またさすがに中に入り込むわけにもいきませんので早々に撤退をしました。

そしてこちらが赤尾木城跡で、石垣が残っていますので城の雰囲気があります。
ただやはり城跡が榕城小学校となっていますので周りから眺めるのが精一杯で、しかしそれも仕方がないでしょう。
ちなみに内城からこの赤尾木城に居城を移したのですが、先の場所から100メートルも離れていませんので、この小移動にどういった意図があったかはよく分かりません。

本源寺は種子島氏の菩提寺で、時堯の曾祖父にあたる時氏が建立をしました。
種子島を律宗から法華宗に改宗をしたのもこの時氏で、かつては広大な寺領を誇っていたそうです。
ただ例によって明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、その後に再興をされて現在に至っています。

栖林神社は時堯の玄孫の久基を祭神としています。
久基は琉球から甘藷、つまりはさつまいもを移入して栽培普及をさせたことから「からいもの神様」と呼ばれているそうです。
この甘藷も含めて殖産興業に力を入れた久基の遺徳を偲んで建立をされたのが、この栖林神社とのことでした。

栖林神社の脇にあるのが御拝塔墓地で、種子島氏の墓所となります。
そろそろ代数を書かないと説明が苦しくなってきましたが、本源寺を建立した11代の時氏が種子島氏の二番目の墓所としたのがこの御拝塔墓地です。
ただ不思議なことにその時氏の墓は見当たらず、12代の忠時から28代の時望までの当主とその室、そして一族の墓が整然と並んでいました。

江戸期に入ってからの当主はともかくとして、戦国期の当主も含めて整然と並んでいることからして改葬をされたか、あるいは供養塔のようなものではないかと思われます。
12代の忠時から16代の久時までの墓は右手奥に並んでおり、その中央が14代の時堯とはあまりに出来すぎているような気がします。
何にせよ戒名が読み取れないぐらいに劣化をしている墓石も少なくはなかったので、こうやって説明の杭が立っているのには助けられました。

12代の忠時は時氏の子で、13代の恵時はその子にあたります。
恵時は悪政を敷いたとも言われており、それを憂いた弟の時述が縁戚の禰寝氏と謀って一時は追い落としましたが、恵時は子である14代の時堯とともに反攻して和睦の際に譲り渡した屋久島を奪い返すという戦国乱世らしい戦いが繰り広げられました。
ちなみに種子島が他氏に侵されたのは、このときだけだそうです。
時堯の嫡男は15代の時次でしたが7歳で早世をしたため、次男の久時が16代を継ぎました。
この久時は武勇に秀でて朝鮮の役でも活躍をして、精強を誇った島津氏の中核を担ったのが久時の鉄砲隊との評価もされています。
17代の忠時は久時の子ですが12代と同名で、しかもその子が父と同名ですから整理をしないとかなりこんがらがります。
父の久時が没した後に生まれたことから家督を継いだものの島津氏の介入を許してしまい、この後は徐々に種子島氏としての独立性が失われていきました。
写真は上段左から忠時、恵時、時堯、時次、久時、忠時です。

18代の久時は母が島津忠恒の娘であったことから叔父である光久の加冠で元服をしており、以降は当主の通字が「時」から「久」に変わります。
その後は19代の久基、20代の久達、21代の久芳、22代の久照、23代の久道と続きましたが、しかし久道に継ぐ子がないままに37歳で没したために種子島氏は存続の危機に立たされてしまい、島津斉宣の次女である久道の正室の松寿院が島津氏から養子を迎えるまでの15年間を女当主として種子島氏を支えました。
ただこう聞くと美談のようにも思えますが種子島氏には家督を継ぐに足る一門、門葉はいたはずですので、どこか島津氏のごり押しのように思えなくもありません。
そして24代を継いだのは島津斉宣の子であり松寿院の異母弟にあたる久珍で、これで種子島氏の血脈は断たれたことになります。
25代は久珍の子の久尚が継いで明治を迎え、久尚の嫡男の時丸が26代となるも夭折をしたために次男の守時が27代となり、そして28代の時望と繋がります。
明治に入ってから通字が「時」に戻ったのが意味深で、これまでの当主も初名は久基が義時、久達が時春、久芳が包時、久照が庸時、久道が輔時、久珍が時珍と名乗っていただけに、島津氏の圧制下にあっても種子島氏の伝統は脈々と息づいていたと考えれば嬉しくもなってきます。
写真は上段左から久時、久基、久達、久芳、久照、久道、松寿院、久珍、久尚、時丸、守時、時望です。

一門としては13代の恵時の子で14代の時堯の弟の時式、時堯の子で15代の時次、16代の久時の弟の隆勝、19代の久基の子で20代の久達の兄の憲時、久達の子で21代の久芳の弟の始時、関係は不明ながらも没年が明治なのでおそらくは久尚に近い筋の時享の墓がありました。
その他にも当主の室の墓がありましたが、申し訳ないながらも興味外ですので割愛をします。
写真は左から時式、隆勝、憲時、始時、時享です。

左手前には初代の信基、そして9代の時長と10代の幡時の合同墓がありました。
さすがにこれは供養塔のようなものと思われ、開基である11代の時氏が家祖の信基と父である幡時、叔父の時長を弔ったものだと想像をします。
今さらですが種子島氏は平清盛の後裔を称しており、信基は清盛の孫で北条時政の養子になったとしています。
家紋が三つ鱗であるのもそれが理由なのでしょうが、しかし実際には北条氏の支流である名越氏の代官であった肥後氏がその出自であるようで、そうなれば血筋としては藤原氏となりますので平氏とも北条氏とも関係はなくなりますが、しかしこの程度の仮冒はさして珍しくもありません。
写真は左が信基、右が時長と幡時です。

八板金兵衛は刀鍛冶で、時堯の命で火縄銃の複製を手がけます。
その製造法を学ぶために娘をポルトガル人に嫁がせたとはあまりに有名な話で、どこか眉唾ですがそれを言っても詮無きことでしょう。
どちらが金兵衛かが分からなかったのですが、おそらくは左ではないかと思います。

先の御拝塔墓地は種子島氏の二番目の墓所でしたが、こちらが最初の墓地である御坊墓地です。
元は慈遠寺の敷地内にありましたが今は廃寺となっており、当主の墓を家臣20家の墓が囲んでいるとは例によって説明板の受け売りです。
かなり荒廃をしたのか墓石の刻字が薄れてどれが誰のものかが分からなくなったために、松寿院が整理をさせたとのことです。

初代から4代までは合祀をされており、初代の信基、2代の信式、3代の信真、4代の真時の墓がこれにあたります。
参り墓との説明がありましたが、やはり供養塔のようなものなのでしょう。
もし種子島氏の当主が空白の15年間のときのことであれば、松寿院には一族の求心力の拠り所にしたいとの思いがあったのかもしれません。

左の写真の右側が5代の時基、左側が6代の時充、右の写真が7代の頼時の墓です。
こちらはかすかに刻字が見て取れましたので、あるいは本墓かもしれません。
しかしこうなると8代の清時と11代の時氏の墓がどこにあるかが分からないのが惜しすぎで、初代から28代までのうちの欠けた2代が心残りです。

そしてここにも14代の時堯、16代の久時の墓があります。
火縄銃伝来の時堯と武勇名高い久時は、当時でも特別扱いをされたのでしょう。
写真は左から時堯、久時、そして19代の久基の子の時純です。

予定には無かったのですが近くにあるよとの案内板に誘われて足を運んだのが南蛮鉄砲撃ち始めの地で、しかしただの空き地でしかありませんでした。
初めて火縄銃の試し撃ちがされたのがこの場所らしいのですが、説明板があってもふーんといった感じです。
挙げ句の果てには売地の看板が立っている始末で、そうなると私有地ですから数年後には家が建っていてもおかしくはないのかなと、何とも微妙な感じがあります。

種子島の最後は若狭の墓です。
八板金兵衛の娘でポルトガル人に嫁いでシンガポールまでは行ったものの、異国の地での生活が合わずに日本に戻ってきたとのことです。
このあたりの話は諸説紛々で何を信じていいかは分かりませんが、全くの伝説ということもないのでしょう。
ただ刀鍛冶、転じて鉄砲鍛冶の娘が「わかさ姫」と姫様扱いとなっているのはどうかとも思いますし、どこぞのホテルの前にあった不細工な人形は勘弁をしてもらいたかったです。


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春の日向路 史跡巡り篇 飫肥の巻

2012-05-13 03:51:04 | 日本史

 

日向路の最終日は飫肥となります。
例によって朝からの小雨で天気予報によれば10時ごろには止むとのことでしたので、レンタサイクルを9時に借りて1時間ほどは目的地の場所確認をしながら時間を潰しました。
そして最後の最後に予報がピタリと当たって10時過ぎには曇り空となりましたので、機嫌が変わらないうちにと早速の城巡りです。

そうは言いながらも飫肥は比較的に一箇所に史跡が集まって残されていますので、焦ることなく順番に回っていきました。
最初は豫章館で、大手門のすぐ側にあります。
入口には薬医門があり、廃藩置県後に伊東氏の当主が飫肥城から移り住んだ屋敷です。

次に向かうは大手門ですが、飫肥城には天守閣や櫓などが残されていませんし再建もされていませんので、この大手門が唯一の城らしき建物です。
1978年に飫肥杉を使用して復元をされたもので、木造渡櫓二階建てで入母屋風の屋根の瓦には伊東氏の家紋が描かれています。
飫肥城は土持氏が築城をしましたがその後は島津氏の一族が入城し、一時期は伊東氏の手に落ちましたがその伊東氏の没落により再び島津氏の支配下に戻ったものの、島津氏が豊臣氏の九州侵攻で日向の大半を失ったことで飫肥は伊東氏に与えられて、そして幕末まで伊東氏の飫肥藩の居城として栄えました。

大手門を抜けるとトップの写真の白壁の城壁に遮られますが、ここは人間の摂理に従って時計回りに移動をします。
すると左手に見えてくるのが松尾の丸で、1979年に江戸時代初期の書院造りの御殿が再建をされました。
中にはおみやげも売っていましたし、さりげなく飫肥城のメインの建物だったりもします。

本丸跡は今は小学校の敷地になっており、そこからさらに奥に進んだところに旧本丸跡があります。
ここに藩主の御殿があったのですが江戸時代の三度の地震で地割れが発生をしたために、移転をすることとなりました。
今は飫肥杉が生えているだけですが地割れと思えるようなところは見当たらず、またNHKの連続テレビ小説「わかば」で落ち込んだヒロインが元気を取り戻した場所とのことです。
登ってきたところの反対側に門がありましたが特に説明書きなどがありませんでしたので、さしたる由緒あるものでもないのでしょう。

こちらは飫肥城歴史資料館で、今回の旅で唯一の日本100名城スタンプが設置をしているところです。
しっかりと押してきましたし、展示をしてあった場所への行き方も教えていただきましたので、毎度のことながら博物館や資料館にはお世話になりっぱなしです。
あまりそういった人がいないから、というわけでもないのでしょうが、どこでも質問などをすると親身に相談に乗ってくださる方々には頭が上がりません。

焦ることはなく、とは言いながらも最大の目的である飫肥城を終えましたので、ちょっと道をそれての旧報恩寺です。
雨も心配でしたが前回に来たときも逆光に悩まされましたので、曇天のうちにと思ったもその理由です。
残念なと言ってしまうとお天道様の罰が当たってしまいますが本音ベースでは困惑の薄日が差してきてしまい、TZ30の逆光補正でも対処ができない今ひとつな結果となりました。

飫肥藩は初代藩主が伊東祐兵ですから墓所にも祐兵らの藩主の墓が並んでいるのですが、その祐兵の父である義祐の墓もあります。
墓石には「直翁照眼大和尚」とありましたので報恩寺の住職の墓ではないかと疑ってはみたものの、説明板によれば義祐の墓に間違いのないところに位置していましたし、帰ってきてから調べてみれば「日薩隅三州大守藤原義祐朝臣前総持永平直翁照眼大和尚」と寺鐘に刻んだとの記事を見つけましたので、やはりこれが義祐の墓なのでしょう。
ただ島津氏に追い落とされて流浪の後にどこぞで野垂れ死にをしたとも言われている義祐ですから、おそらくは供養墓のようなものだと思われます。

祐兵が家督を継ぐまでにはいろいろとあったようですが、幕末まで続く伊東氏の礎を築いたのが祐兵であることは否定ができません。
同族の伊東長実のつてで豊臣秀吉に仕えたことが祐兵の前途を開き、九州征伐での功により飫肥に復帰をします。
関ヶ原の戦いにおいては嫡男の祐慶をして東軍に味方をさせたことで、5万7千石の外様大名として生き残ることができました。
写真は左が祐兵、右が祐慶です。

ここからは完全に江戸期で興味が薄れていきますので、恒例の駆け足となります。
3代の祐久は祐慶の嫡男で、次弟の祐豊に3千石を分地したために飫肥藩は5万4千石になりました。
跡は嫡男の祐由が継いで4代となり同じく三弟の祐春に3千石を分地したことで飫肥藩は5万1千石となり、子がないままに没したために四弟の祐実が5代、その祐実にも子がなかったために祐慶の次男の祐寿の孫にあたる祐永が6代、7代は祐永の九男の祐之が、8代は庶兄で三男の祐隆が、9代はその子の祐福が、10代はその子の祐鐘が、11代は祐鐘の嫡男の祐民が、12代は次弟の祐丕が、13代は祐民の子の祐相が、14代はその子の祐帰が継いで幕末を迎え、15代はその子の祐弘になります。
ちなみにここでの代数は飫肥藩の藩主としてのもので、伊東氏の歴代の代数ではありません。
写真は上段左から祐久、祐由、祐実、祐永、祐之、祐隆、祐福、祐鐘、祐民、祐丕、祐帰、祐弘で、なぜか祐相は見当たりませんでしたし、説明板にも無かったような気がします。
また明らかに祐実、祐之、祐丕の墓の形が他とは違いますが説明板によればこれらは本墓で、他は僑墓とのことです。

奥の方に整然と並んでいるのは、藩主の正室の墓です。
このあたりは島津氏の墓所とは違っていますし、むしろこちらの方が一般的です。
島津氏が特に女性を大切にしていたわけでもないでしょうし、どういった理由があるのかが知りたかったりもします。

こちらは旧伊東伝左衛門家です。
市の指定文化財で、江戸時代中期に建てられた武家屋敷としては典型的な造りとなっています。
この手のものはさして興味がないのですが、ちょっと覗いてみて立派な建物があったので、珍しくも足を伸ばしてみました。

長持寺跡は存在も知らなかったのですが飫肥城歴史資料館の展示に写真があり、場所も近いとのことで寄ってみることにしました。
廃寺となって今は成瀬伊東氏の墓所があるだけですが、墓フリークとしては外すわけにはいきません。
入口が民家の間に挟まれていて車が停まっていたことで見つけるのにちょっと苦労はしましたが、意外な発見があったので行ってよかったです。

成瀬伊東氏は伊東氏御一門三家のうち二家を出した名門ですが、しかしその名のとおりに伊東氏の男系ではありません。
初代の祐兵の娘を正室とした成瀬正武の子孫がそれにあたり、よって成瀬伊東氏と呼ばれています。
正武は尾張藩の付家老として名高い正成の三弟で順調に出世をしていきますが、江戸期に入ってから突然に謎の切腹を命じられます。
上洛をしたときに御所の女官と密通をした、あるいは大久保派だったことで本多派に粛正されたなどと理由はいろいろと言われているようですが、実際のところは分かっていません。
写真は左が成瀬伊東氏の供養碑、右が正武の墓です。

正武の遺族は母の実家である伊東氏を頼り、飫肥に落ちてきます。
罪を得て切腹をした正武の妻子を引き取るのは祐兵も勇気がいったでしょうが、それができる何らかの理由があったのかもしれません。
正武の長男の祐正は従兄弟の正虎を通じて帰参を願うものの叶わず、そして三男の正美が伊東主水家の祖となりました。
写真は左から祐正、次男の祐勝、三男の正美です。

正武の次男の祐秋は伊東氏に仕えて、その子の正粲は伊東図書家の祖となりました。
なぜに女系がここまで重用をされたのかは分かりませんが、それだけ祐兵には可愛い娘だったのかもしれません。
あるいは成瀬氏の血を大切にすることで幕閣に対してのアピールのつもりだったのかもしれず、そのあたりの政治的な思惑が絡んでいたような気もします。
写真は左が祐秋、右が正粲です。

系図を書いてみると、ざっとこんな感じになります。
そもそも将軍家の譜代に娘を嫁がせたこと自体が、祐兵の政治性の高さを物語っていると言ってもよいでしょう。
それだからこそ没落をした伊東氏を再興することができたのでしょうし、乱世の雄だった父の義祐とはまた違った治世の能吏と評してもよいかもしれません。

この伊東成瀬氏の墓所に、なぜか伊東義賢の墓がありました。
義賢は祐兵の兄の義益の嫡男で、杭には伊東氏の18代と書かれています。
義祐の嫡孫である義賢が家督を継いだかどうかは論が割れているようで、しかも朝鮮の役に出陣をした際に弟と相次いで病死をしていることから、実質的な伊東氏の当主となっていた叔父の祐兵との家督争いに絡んで暗殺をされたのではないかとも言われているようです。

飫肥での最後、つまりはこの旅の最後は振徳堂です。
11代藩主の祐民が開いた学問所で、市の指定文化財となっています。
安井息軒などを招いて文教政策を推し進め、ここから外務大臣の小村寿太郎ら幾多の俊才を輩出しました。
それにしては狭いのではないかとは正直な感想ですが、一部の選ばれた者のみが学べる場だったのかもしれません。


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春の日向路 史跡巡り篇 肝付、志布志の巻

2012-05-11 01:16:03 | 日本史

 

日向路とは言いながらも三日目は大隅で、ぶっちゃけ鹿児島です。
始発に乗って3時間ほどの志布志駅は日南線の終着駅で、まずはそこでレンタサイクルを借りての目指すは肝付です。
片道25キロ弱ですので前回に雨で断念をした菊池のリベンジみたいなものだったのですが、しかしギア比の低いママチャリは時速20キロも出ると空回りをする情けなさで、しかもそれなりのアップダウンがありましたのでバランスが良かったのか悪かったのかが微妙ではありました。

まずは肝付氏の菩提寺だった盛光寺跡で、今は肝付氏の墓所が残されています。
しかし現在は発掘調査中で、どうやらその調査も中断をしているようで何がなんだか分からない状況となっていました。
墓石はトップの写真のように反対側にまとめて並べられており、おそらくは二度と訪れることのない肝付だけに残念どころの騒ぎではありません。

墓石には誰のものかが書かれた杭が立てかけられていましたが、トップの写真と比べると微妙に差があるのが分かるかと思います。
写真を撮るときに自分が動かしたからで、つまりは適当なところに誰でも動かすことができる状況です。
その杭には戒名も書いてありましたので墓石に刻まれたものと比べて間違いがないことを確認できましたが、そこまでしなければ不安になるような放置ぶりで、中央の一番大きい墓石に立てかけられている杭の位置が変わっているのは自分の仕業ですが、これは通りかかったおじいさんが「その一番に大きいのが兼重の墓だよ」と教えてくれたことが理由で、最初に立てかけてあった右の小さな墓石とともに両者からは戒名らしきものが見当たらなかったために、あやうく間違うところでした。

肝付氏は応天門の変で有名な伴善男の玄孫である兼行が、薩摩掾となって薩摩に下向をしたことから始まります。
その孫の兼貞が大隅の肝付に移り、子の兼俊が肝付を名乗って初代となりました。
8代の兼重は南朝の忠臣として活躍をしたとは都城編で紹介をしたとおりで、しかし畠山氏に追い落とされたことで以降は大隅を根城にして勢力を広げていきます。

その後は9代の秋兼、10代の兼氏、11代の兼元と続いていきますが、勢力を伸ばしてきた島津氏の麾下に組み込まれていきます。
13代の兼連の跡を継いだ14代の兼久に対して兼元の子である兼長らが叛乱を起こしましたが、新納氏の協力を得て鎮圧して本拠の高山城に復帰をしました。
肝付氏の最盛期を築いた兼続の嫡男である17代の良兼の母は島津忠良の娘である阿南御前で、その忠良の偏諱を受けてのことですから島津氏との友好は続いていましたが、兼続が伊東氏と結んで拡大政策をとったことで島津氏と対立をすることとなり、一時期は押したものの最後は大隅に押し込められた兼続は無念の死を遂げます。
その後は阿南御前が実家の島津氏の力を背景にして家中を取り仕切り、島津氏の一家臣となった肝付氏は細々と続きましたが江戸期に新納氏から養子を取ったことで本宗家の血脈は途絶えてしまい、何とも悲しい結末となったのは弱肉強食の時代の流れによる逃れられない定めだったのでしょう。
ちなみにスネ夫の肝付兼太、本名は兼正とのことですが、この肝付氏の末裔だそうです。
写真は上段左から秋兼、兼氏、兼元、兼連、兼久、良兼、兼長、阿南御前で、阿南御前のそれには島津氏の家紋が刻まれています。

次は肝付氏の居城であった高山城跡に向かったのですが、途中でぶつかったのが御幣園城跡です。
こちらも肝付氏の城だったようですが、詳しいことはよく分かりません。
せっかくだから登ってみようと思ったものの、道らしきところには竹が折れ倒れるなどして乗り越えるには面倒だったために、ちょっと不気味だったこともありパスをしてしまいました。

そして高山城跡です。
盛光寺跡からはそれなりの距離があり、また正確な住所が分からなかったために不安に思いながら自転車を走らせたのですが、基本的には一本道だったので事なきを得ました。
事前調査では説明板があるぐらいとのことでしたので目的はまさにそれで、逆に言えば説明板が無ければ城跡とは分からないのが現状です。

そんなこともあって登るつもりはなかったのですが、説明板にあった大手口にあたるところに案内板が立っていたことで気が変わりました。
農作業の方が数人いたので本丸跡までどのぐらいかかるかを聞いたところ15分、5分、10分と答えは分かれたのですが、共通をしていたのはたいした時間もかからずに楽に登れるとの言葉で、その言葉に背中を押されての佐土原城跡に次ぐ山城攻略です。
実際のところは二の丸跡にも寄っての15分弱でしたので当たらずといえども遠からずといったところで、攻略と言うほどのこともありませんでした。

同じ山城ですので雰囲気は佐土原城跡に似ているのですが、それよりも薄暗かったのは木々の生い茂り方の違いなのでしょう。
鶴松館などの施設がある佐土原城跡とは違って何もない高山城跡だけに、意外と整備がされていたのが好印象でした。
前日の雨でしっとりと湿り気がありましたので、登りよりも降りに注意をしたことは言うまでもありません。

ところどころに説明板が立ってはいましたが、正直なところふーんといった感じです。
空堀などはなるほどと思えるような見栄えでしたが、大手門だの搦手門だのと言われてもただの跡地でしかありません。
土の盛り上がりようが土塁なのかただの盛り上がりなのかが自分の目ではよく分からず、そこにあるのはとにかく登るということの自己満足のみです。

それは二の丸跡も本丸跡も同様で、さすがに山頂部に近いので明るさがあって雰囲気は違いますが、ただの林であることに大差はありません。
これが周りが切り開けていて眼下の景色でも愛でられたのであればまた別の感慨もあったのでしょうが、あるのはなかなか訪れる人は少ないだろう山城にきたという事実のみです。
誰が悪いのでもなく眼力と想像力に欠ける自分が悪いのだと、ちょっと悲しくなってきました。

やや凹み気味の気持ちを奮い立たせて志布志まで戻る途中で雨に降られましたが、やや崩壊気味の肌にはむしろ心地よい慈雨でした。
前日並みの晴天であればそれこそやばいことになったでしょうから、これは負け惜しみではありません。
そんな自分を次に迎えてくれたのは肝付兼続の墓で、先の盛光寺跡の良兼の父で16代となります。

兼続は肝付氏の最大領土を誇った武将で、当初は島津氏と友好関係を築き島津忠良の娘を正室に迎えるなどしましたが、大隅を制覇して日向に勢力を伸ばすにあたって島津氏と対立関係となり、伊東氏と結んで一時期は忠良の次男で貴久の弟にあたり、佐土原島津家の以久の父である忠将を討ち取るなどして覇を誇りました。
しかし徐々に島津氏に押されて高山城を落とされたことで自害をしたと言われていますが、一方でそれを否定する説もあるようです。
兼続は志布志城で隠居をして良兼の後見をしていましたので、墓所が志布志にあるのはそれが理由だと思われます。

この志布志には島津氏6代の氏久の墓があります。
鹿児島の福昌寺跡にも氏久の墓があるのですが、どちらが本墓なのか、あるいはどちらも供養塔みたいなものなのかは分かりません。
氏久が開基である即心院跡にその墓はあるのですが、入口は二箇所あるので注意が必要です。
志布志駅から近い方、方角的には南にあたり写真では右側になりますが、こちらから入ると民家の玄関先を通ることになります。
即心院跡、と書かれた杭が立っているのでどうしてもこちらから入りたくもなりますが、できれば10メートルほど先の入口から入った方がよいでしょう。

福昌寺跡のそれと同様に、右側が氏久の墓です。
隣はおそらくは正室の墓だと思いますが、これだけ仲良く並んでいる当主の墓が多いのは島津氏の特徴のような気がします。
即心院は例によって廃仏毀釈で廃寺となったようで、墓所だけでも残されていることを感謝するしかありません。

行儀が悪いかとは思いましたが、せっかくですので中を覗いてみました。
外側は墓と言うよりは金色堂の覆堂のようなもので、大切なのは中身です。
北朝と南朝との間を行ったり来たりした氏久ではありましたが、墓石に刻まれていた元号は北朝の嘉慶でした。

最後は志布志城跡です。
志布志城は例によって山城で、内城と松尾城に高城と新城の4つの城から構成をされています。
その中で内城が国の史跡に指定をされていますので、そちらに登ってみることにしました。

それなりに登り口などが整備をされてはいましたが、道筋には木や竹が倒れていたりして登城者にあまり優しくはありません。
城の説明がされているようなものもほとんどありませんでしたし、そこはちょっと残念ではありました。
どうやら登ってきたところは道ではなく空堀ではないかと、何となくそんな気がします。
写真の左は曲輪3下段で、右はそこから登った本丸跡です。
どうやら矢倉場なる曲輪に新納氏の初代にあたる時久の墓があるようなのですが、本丸を優先したために時間が足りなくなり、残念ながら見て回ることはできませんでした。
もう少し日南線の電車の本数が多ければとは、自分の勝手な都合です。


【2012年4月 宮崎の旅】
春の日向路
春の日向路 旅情篇
春の日向路 旅程篇
春の日向路 史跡巡り篇 佐土原の巻
春の日向路 史跡巡り篇 都城の巻
春の日向路 史跡巡り篇 飫肥の巻
春の日向路 グルメ篇
春の日向路 スイーツ篇
春の日向路 おみやげ篇

 


春の日向路 史跡巡り篇 都城の巻

2012-05-07 02:46:00 | 日本史

 

史跡巡りの二日目は都城で、JRで都城駅まで出てから例によってレンタサイクルを借りての8時間です。
かなり無理のある日程を組んだのですがカーナビが絶好調だったために全てをクリアできたことが喜ばしく、またピーカンで最高の一日でした。
土地勘のある方でしたらどれだけ順調だったかが分かっていただけると思いますし、それなりのアップダウンもあっての健康促進な都城です。

まず向かったのは都城城で、島津氏の一族である北郷氏の居城です。
北郷氏は2代の義久が都城城を築城をしてから一時期を除いて戦国末期まで都城を支配しましたが、しかし11代の忠虎の没後に豊臣氏の肝煎りで伊集院氏に都城を奪われて祁答院に転封となり、しかしその伊集院氏が庄内の乱で島津氏に滅ぼされたことで12代の忠能が復帰し、一国一城令で廃城となった後は領主館を建てて幕末を迎えました。
大手門は再建をされたものですが櫓門となっており、かなりの風格があります。

本丸跡にはそれっぽい建物がありますが、これは都城歴史資料館です。
当時にこういった城郭があったわけではありません。
また建物跡などがありましたが発掘後に埋め戻されたせいか人造的で、城跡としては今ひとつな感じがあります。

次に向かったのが龍峯寺跡で、8代の忠相の創建です。
都城では最大の寺でしたが廃寺となり、今は北郷氏の墓所のみが残されています。
ここからがすっかりと墓フェチの側面が強くなったことによる墓巡りのスタートで、市内に点在をしている墓所を目指して自転車を走らせることとなりました。

8代の忠相は北郷氏の中興の祖とも言うべき存在で、伊東氏との抗争の末に北郷氏の最盛期を築きました。
その嫡男の忠親は9代となった後に豊州島津氏の養子に入り、北郷氏は嫡男の時久に継がせて伊東氏との抗争に身を投じます。
11代の忠虎は兄の相久が父と不和になって自害をしたことで家督を継ぎ、島津氏の先兵となって九州制圧のために各地を転戦しました。
忠虎が朝鮮の役で39歳の若さで病没をした後は嫡男の忠能が継ぎ、その子の13代の翁久が19歳で、14代の忠亮も20歳で若死にをしたことで本宗家の忠恒の三男である久直が15代となり、その久直も25歳で没したことから16代は光久の次男である久定が襲うことで、完全に北郷氏は本宗家に乗っ取られる形となります。
これは島津氏の一族では最大の領地を誇り、また独立心が強かったことで目の敵にされたといった事情があったようです。
久定の次の代で島津姓に復したことで都城島津氏と呼ばれるようになり、完全に北郷氏の血脈は断たれることとなりました。
写真は上段左から忠相、忠親、忠虎、翁久、忠亮、久直、久定、時久の五男の忠頼、六男の久栄です。

竜泉寺跡には、時久の嫡男の相久の墓があります。
相久は島津義弘の娘を正室に迎えるなどしましたが父と不和となり、廃嫡をされた後に自害をしました。
家臣の讒言があったとも言われていますが、詳しいことはよく分かりません。

仁厳寺跡には、12代の忠能の墓があります。
なぜに龍峯寺ではなく仁厳寺に葬られたかの経緯は不明ですが、その龍峯寺跡には見当たりませんでしたのでこちらが本墓なのでしょう。
本宗家の忠恒とは仲が悪かったらしく、そのことも北郷氏が乗っ取られる伏線となったのかもしれません。

この仁厳寺は2代の義久の子である秋江和尚が開基となって創建をしたもので、その秋江和尚の墓がありました。
また16代の久定の墓もあり、龍峯寺跡のそれとどちらが本墓かは微妙さが漂いますが、雰囲気としてはこちらの方が格式があります。
左が秋江和尚、右が久定です。

釣璜院跡も北郷氏の墓所となっており、そもそもは7代の数久の菩提寺として建立をされたものです。
墓所ではありながらもただの広場に墓が並んでいるだけで、まさに跡地といった感じです。
左の写真の右奥に位置しますので、この案内石碑が無ければ見逃してしまっても不思議ではありません。

一部の例外はありますが、7代までが釣璜院、8代からが龍峯寺という棲み分けとなっています。
ただ釣璜院が数久の菩提寺であったことからすれば、6代までの墓はあるいは改葬をされたものではないかと思います。
2代の義久は誼久の名も持っていますが、先に紹介をしたとおり都城城を築いたのはこの義久です。
南朝に転じた本宗家に従って今川了俊と激しい戦いを繰り広げ、跡を継いだ三男の久秀をその戦いで失ってしまいました。
そのため義久の五男である知久が4代となりますが、その子の5代となった持久の代に北郷氏に不運が襲います。
足利将軍家の跡継ぎ争いに敗れた大覚寺義昭の滞在を黙認したことで罪に問われて、本拠である都城を本宗家に預ける形で召し上げられてしまいました。
北郷氏が都城に復帰をするのは子の敏久の代で、その子の7代の数久が伊東氏に対抗をするために豊州島津氏と提携をしたことが後に忠親が豊州島津氏に入ることに繋がりましたし、忠相が最盛期を築く先鞭をつけたと言えないこともありません。
写真は上段左から義久、知久、持久、数久で、先の相久の廟所もあるとのことでしたが、それが刻まれた石碑があるのみでしたのでスルーをしました。

釣璜院からすぐのところにあるのが豊幡神社で、元は初代の資忠の菩提寺である山久院です。
山久院が廃寺となって今は豊幡神社と言われてしまえば明治の廃仏毀釈を思い浮かべてしまいますが、特にそういった記載はありませんでした。
神社とは言いながらもそういった雰囲気はあまりなく、土曜日だったこともあって子どもが駆け回って遊んでいました。

資忠は島津4代の忠宗の六男で、北郷の地を与えられたことで北郷氏を称しました。
島津氏は長兄の貞久が継ぎ、次男の忠氏は和泉氏を、三男の忠光は佐多氏を、四男の時久は新納氏を、五男の資久は樺山氏を、七男の久泰は石坂氏を興します。
その中では新納氏、樺山氏とともに北郷氏は有力一族として栄えましたが、その第一歩がこの資忠ということになります。
夫人とともに葬られていますが、左が資忠の墓です。

釣璜院や山久院のある庄内町は都城駅からそれなりの北に位置していますので、その流れで次に向かったのは月山日和城です。
肝付氏の8代である兼重が築いた城で、戦国期には島津氏と伊東氏が奪い合いました。
今は模擬天守が建てられており、その実態は高城郷土資料館です。

説明板によれば肝付兼重は南朝の忠臣として、賜った錦の御旗を掲げて北朝の畠山氏と戦ったとのことです。
郷土資料館にはそのときを描いたジオラマと言いますか、ほぼ等身大の人形が展示をされていました。
孤軍奮闘で戦い抜いた兼重でしたが力尽きて月山日和城、当時は兼重本城と呼ばれていたとはこれまた説明板の受け売りですが、敢えなく落城をして大隅の高山城に退きました。

ここまでがあまりに順調に過ぎるぐらいの行程でしたので、無謀にも次に向かったのが三股城です。
熱中症になるのではないかと思えるぐらいの日差しに何度か心が折れかけましたが、やはり城郭を見ると心が躍ります。
月山日和城と同じく肝付兼重が築いたと言われており、その後はやはり畠山氏に奪われることとなりました。

そもそもが小高いところにあり、そこから階段をえっちらおっちら登っていく羽目となったのですが、その先で待っていたのはただの展望台でした。
係の人がいるわけでもなく、何かの説明があるわけでもなく、発掘調査のときの写真が展示をされているぐらいで、まさにただの展望台です。
せっかく訪れたので何か達成感を得られるものが欲しかったのですが、反対側の遊歩道も途中で進入禁止となっており、徒労感があったことは否めません。

気を取り直して、次の目的地は大昌寺跡です。
大昌寺は3代の久秀と弟の忠通を弔うために建てられた寺で、今はその久秀と忠通の墓のみが残されています。
墓の手前にある阿吽像は当時は大昌寺の門前にあったものだそうで、おそらくは廃寺になったときに移されたのでしょう。

久秀は義久の三男でしたが、長兄と次兄が出家をしたために家督を継ぎました。
義久の正室の父、つまりは久秀の外祖父にあたる和田正覚が守る梶山城が今川氏に攻められたときに救援に向かいましたが、忠通とともに敢えなく討ち死にをしてしまいます。
そのため4代を五弟の知久が継いだとは先に紹介をしたとおりで、写真は右が久秀、左が忠通となります。

墓巡りも一段落をしましたので、整理のための例によっての系図です。
凡例は青字が当主、赤字が紹介をした一族であることも今までどおりで、もう少し鮮明であればよかったのですが、サイズ的にこれが精一杯なので悪しからずご了承ください。
ここ都城には6代の敏久を除く初代から16代まで、おそらくはもっと後代まででしょうがとりあえずは16代まで、の墓があります。
理由はよく分かりませんが敏久だけは墓が日南市にあるとのことで、こればっかりは仕方がありません。
快調に巡ったことで資忠、義久、久秀、知久、持久、数久、忠相、忠親、忠虎、忠能、翁久、忠亮、久直、久定と、その敏久と10代の時久を除く墓を訪れることができたのですが、先の龍峯寺跡にあるはずの時久の墓がなぜにご紹介ができていないかはまた後の話となります。

勢いよく南下をして目指したのが祝吉御所跡で、島津氏発祥の地です。
島津氏の初代である忠久が下向をした際に御所を構えたところと伝えられており、惟宗氏だった忠久はこの島津御荘から島津姓を名乗ったとされています。
今はただ記念碑として石碑があるだけですが、かなりの偉容を誇っており、木牟礼城を発祥の地とする出水市への対抗心が窺えます。

こちらは市街に戻っての島津家米蔵屋敷門です。
現在は摂護寺の通用門となっていますが、藩政時代の貴重な建造物とのことです。
それにしては扱いがぞんざいかなと思わないでもないのですが、残されているだけでも有難く思うべきなのでしょう。

市街にもいくつかの史跡が残されていますが、その多くは説明板のみでした。
都城領主館跡は一国一城令で都城城が廃城となった後に、北郷氏、その後は都城島津氏ですが、その当主が住んだ館の跡となります。
市役所と向かいにある小学校のあたりがその領域で、島津氏の一族の中では最大の領土を誇るだけに規模も相当なものがあったようです。

こちらは都城島津邸です。
明治に入ってから建てられたものですから完全に興味外のもので、ふーんと言ってしまえば怒られてしまうでしょうが、まあそんな感じではありました。
トップの写真はこの邸門の瓦を撮ったもので都城島津氏の家紋が描かれていますが、本宗家のそれと微妙に違っているところがポイントです。
島津氏の家紋と言えば丸に十文字ですが、その丸と十文字がくっついています。
都城島津氏、ひいては北郷氏になりますが、この丸と十文字が微妙に離れていたのですがそのすき間が小さく、本宗家と似ているのでもっとすき間を空けるようにと指示があったとのことで、このあたりにも本宗家と北郷氏の確執が透けて見えるようで面白いエピソードでした。

邸内にはいわゆる邸宅と、資料の保存のために建てられた都城島津伝承館がありました。
それぞれに入館料が必要とのことでしたので、迷わず後者のみのチョイスです。
研究員の方と少し話をさせていただきましたが、かなり興味深い情報をいただき、有意義な時間を過ごさせていただきました。

都城の最後は、再び龍峯寺跡です。
ここにある北郷氏の墓所は何区画かに分かれており、一番に奥にある一番に広い区画は柵で区切られて現当主の方の「墓参り以外はご遠慮ください」の札がかかっていました。
そのため10代の時久の墓はそこにあるのだろうなとは思いつつも立ち入ることはせず、しかしどうにも心残りだったので行く先々で問い合わせたところ、某関係者の方から「入っても止められることはない」「万が一にでも止められたら自分の名前を出してよい」とのお言葉をいただき、それに背を押されての再訪です。
迷惑をかけないようにそそっと回ったので逆光対策が不充分でしたが、これで目的が達成できましたので大満足です。
ついでと言ったら怒られてしまいますが15代の久直の墓もあり、先に紹介をしたものは見るからに供養塔のようなものでしたので、おそらくはこちらが本墓なのでしょう。
左が時久、右が久直です。


【2012年4月 宮崎の旅】
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春の日向路 史跡巡り篇 佐土原の巻
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春の日向路 史跡巡り篇 佐土原の巻

2012-05-01 22:53:34 | 日本史

 

史跡巡りの第一歩は佐土原で、宮崎駅で借りたレンタサイクルで向かいました。
曇り時々雨で降ってもたいした雨量ではないとの天気予報でしたので大丈夫だろうと、片道16キロちょっとですからQVCマリンに行くのに毛が生えた程度だと考えてのスタートでしたが、まさに「行きはよいよい、帰りはこわい」とばかりに途中から腹が立つぐらいの雨になってしまったことで初っ端からの誤算です。
ただ肝心の佐土原では全くのノープロブレムでしたので、まずまず順調な出足だったと言えないこともありません。

まず最初に向かったのは伊東氏、そして島津氏の居城となった佐土原城跡です。
かつての二の丸跡に鶴松館、これは佐土原城の別称である鶴松城からつけられた名前らしいのですが、佐土原歴史資料館があります。
トップの写真の門をくぐればそこには二棟の館が再建をされており、そもそもが江戸時代に入ってから建てられたものを図面が残されていないために礎石などを元に想像で復元をしたものとのことで、兜や鎧などの展示物の他に、簡単ではありますが佐土原の歴史を紹介した部屋がありました。
個人的には刀剣類よりは資料類の方に興味がありますので、これは嬉しかったです。

この鶴松館の背後に、山城である本丸に続く道がありました。
係の人に聞いたところ登るのにさして時間はかからないとのことでしたので、ちょっと天気が心配ながらも登ってみたのは当たり前の選択です。
意外と言ってしまうと失礼かもしれませんが予想外に整備がされており、土塁や堀切などが分かる形で残されています。
実際は写真に比べるともう少し薄暗かったのですが、登るのに躊躇をするようなところではありませんでした。

左が南の城跡、右が本丸跡です。
南の城は佐土原城の南の尾根と東の尾根を結ぶところになりますので、防御上でかなりの重要な位置を占めています。
本丸を攻めるためにはどうしても攻略をしなければならない場所であるため、虎口が設けられるなどして守りを固める構造となっていました。
そして本丸跡はただの広場にしか見えませんが建物が残されていない山城跡などはどこも似たようなものですし、ここから往時を偲べない自分の素養の無さを嘆くしかありません。

その本丸跡に残されているのが、この天守台跡です。
文献などには佐土原城に天守台があったとの記載がありながらもその存在は疑問視をされていましたが、発掘調査の結果で論争に終止符が打たれました。
いつに築かれたものなのか、二層なのか三層なのかなど詳しいことは分かっていませんが、夢が広がることだけは間違いありません。

鶴松館の側には、出土文化財管理センターがあります。
佐土原城に限らず佐土原全域で発掘をされた資料などが展示をされており、件のまむしの写真を見てもらったのもここの係の方でした。
この後に向かおうと思っていた高月院の場所や佐土原の銘菓などを教えていただき、感謝の言葉もありません。

そして佐土原島津家の菩提寺である高月院で、裏手に歴代藩主の墓所があります。
2代藩主の忠興により創建をされて、父である以久の戒名である高月院殿照誉宗憤恕大居士から寺名がつけられました。
浄土宗の寺院ですが、これが微妙さをもたらすのはまた後の話です。

初代の以久は忠将の嫡男で、義久ら四兄弟の従兄弟にあたります。
当主の血統に近い一族として、島津氏の九州制圧戦に重用をされて各地を転戦しました。
その後は2代の忠興、3代の久雄、4代の忠高と続きますが、その忠高が26歳の若さで病死をしたために従兄弟の久寿が継いだものの代数には数えないのが一般的なようで、ここ高月院には久寿の墓は無く、また5代は忠高の嫡男である惟久とされています。
もっとも惟久と6代の忠雅は浄土宗ではなく禅宗に帰依したために墓所は禅宗の自得寺にあり、明治の廃仏毀釈で自得寺が廃寺になったために大光寺に改葬をされました。
また7代の久柄、8代の忠持、9代の忠徹、10代の忠寛、11代の忠亮と直系が絶えることがありませんでしたので、これはかなり珍しいことだと思います。
写真は上段左から以久、忠興、久雄、忠高、久柄、忠持、忠徹、忠寛、忠亮です。

流れで次は大光寺、と思うのをぐっとこらえて、位置関係的に無駄の無いようにと予定どおりの次の目的地に向かいました。
その途中で見つけたのが佐土原神社で、佐土原島津家の歴代藩主を祭神としています。
明治も中期以降になってから創建をされたものですから由緒のあるものではありませんし、現状も放置状態のようにも見えました。

こちらは天昌寺跡で、天昌寺は島津家久による創建です。
看板はあったのですが工事車両に隠れていたために見落としてしまい暫くうろうろとする羽目となり、また入口から奥に至る道は幅が1メートルほどなのですが小型のパワーシャベルが置いてあったためにカバンを持ち上げてすり抜けるという、しなくてもいい苦労をさせられました。
右の四基が家久や豊久らの墓で、左に並んでいるのは関ヶ原の戦いで豊久とともに討ち死にをした家臣の墓です。

左から家久、豊久、家久夫人、家久母の墓です。
家久は島津貴久の末子で、島津四兄弟でただ一人だけ母が違い、また年齢も離れています。
しかし祖父の忠良からは高く評価をされて、龍造寺隆信を討ち取った沖田畷の戦いや仙石秀久を潰走させた戸次川の戦いで指揮をとったのが家久でした。

その家久は豊臣氏の九州侵攻の中で不可解な死を遂げて、豊臣氏、あるいは身内の島津氏による毒殺とも言われています。
豊臣氏からすれば戦略家である家久の存在を抹殺したかった、島津氏からすればその豊臣氏と単独講和をした家久の心根を疑った、などと理由はいろいろと挙げられていますが一般的には病死とされており、真相は時代の闇に葬られて今後も明らかになることはないでしょう。
後を継いだ豊久は叔父である義弘に可愛がられて行動を供にし関ヶ原の戦いに臨みますが、その義弘を逃すために戦場の露と消えました。
子がなかったために佐土原は家久の従兄弟である以久が継ぎ、よって地元では家久・豊久を前島津、以久の系統を後島津と呼んでいるようです。

次はいよいよ大光寺、と向かう途中にあったのが、島津久遐の墓です。
久遐は2代の忠興の三男で、一門の重鎮である島津又十郎家の祖となりました。
奥の方にもいくつかの墓があったのですが行けるような状態ではなく、また鶴松館でもらった史跡マップにもこの写真が載っていましたのでおそらく間違いはないと思いますが、戒名で確認をすることができなかったために実際のところは分かりません。

ようやくに大光寺です。
そもそもは田島伊東氏の菩提寺であり、また禅宗の一派である臨済宗の寺院ですので先の佐土原島津家の5代の惟久、6代の忠雅の墓が改葬をされました。
このあたりの宗教観は自分には全く分からず、しかし当時としてはかなり重要なことだったのでしょう。

その佐土原島津家の墓所は、残念ながら史跡としてはかなり不親切です。
高月院のそれとは違って誰の墓かの説明が無く、以前はあったのかもしれませんが杭が朽ち果てていて読み取れる状態ではありません。
その杭は3基のうち左の2基にあったのでこちらが藩主のものだろうと想像はしたものの、念のために戒名を控えて帰ってきてから調べたところ、これが全くの見当違いでした。

実際のところは右が5代の惟久、左が6代の忠雅、そして手前が2代の忠興の次男で久遐の兄である久富の墓でした。
そんなことを気にする人はいないだろう、と朽ちるに任せているのかもしれませんが、史跡である以上は最低限の管理はお願いをしたいところです。
写真は左から惟久、忠雅、久富です。

例によって人間関係が分かりづらいかな、と思って系図を書いてみました。
主要な人物に限定をしており、青字が当主、赤字が当主以外で墓を紹介した一族となります。
自分自身の中での整理のためにも、こういったものを作るのが癖になりそうです。

大光寺はそもそもが田島伊東氏の4代である祐聡が開基ですので、田島伊東氏の墓所もあります。
墓らしきものが4基ありましたが、これが本当に墓なのか、あるいは供養塔のようなものなのかはよく分かりません。
墓所の側には「田島氏墓所」と書かれた杭が立っている一方で、案内板には「田島氏五輪塔」との記載がされていました。

そんな状況ですのでこれらが仮に墓であったとしても、誰のものかはハッキリとしていないようです。
戒名で調べようにも刻まれているのは梵字のようなものですので、やはり供養塔と考えるのが妥当なのでしょう。
田島伊東氏は伊東氏の庶流で、しかし嫡流よりも先に長倉氏や木脇氏とともに日向に根付きました。
その後に日向に下向をしてきた嫡流と争いましたが、8代の祐休に子が無かったことで乗っ取られる形で滅んでいます。
そもそも佐土原城も田島伊東氏が築いた田島城が元となっており、弱肉強食が世の常ではありますが、何とも物悲しい話ではあります。

こちらは道すがらで見かけた、木村重成の像です。
大坂の役で名を馳せた重成の像がなぜに佐土原にあるのかが分からなかったのですが、どうやらここ佐土原が重成の生誕地だと言われているようです。
しかし花も実もある若武者として伝えられている重成の像がこれとはあんまりで、どこか人形焼きを思い出してしまったのは不謹慎に過ぎるかもしれません。

佐土原では予定をしていたもの以上の成果を挙げたので、勢いでオプションとして用意をしていた西都に向かいました。
なだらかながらもかなりのアップダウンがあり、しかも途中から雨が降り出してそれなりの雨量となったことで途中で何度か心が折れかけましたが、雨などに負けてはいられません。
目指したのは伊東氏の墓所のある大安寺で、ここのところはすっかりと墓マニアと化しています。

その大安寺の門をくぐった左手に、島津忠将の供養塔がありました。
これは伊東氏の菩提寺として創建をされた大安寺ではありますが、その後に島津忠将の菩提寺にもなったことが理由のようです。
この供養塔は5代の惟久が建立をしたもので、その名が刻まれていました。

本堂の裏の右手にある道を進んでいくと、そこに伊東氏の墓所があります。
伊東氏は曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の嫡男である祐時が初代で、その後に日向の地頭職を得たことで勢力を伸ばしていきました。
戦国期には義祐が日向のほぼ全域から大隅にまで手を伸ばすなど最盛期を築きましたが、しかしその後は島津氏との抗争に屈して日向を放棄せざるを得なくなり、姻戚の大友氏を頼るなどしましたが最後は野垂れ死に同然で世を去ったと言われています。

ここには5代の祐堯、7代の尹祐、8代の祐充、11代の義益の墓があります。
義益の墓は僑墓とありますので他に墓があると思われますが、帰ってきてから調べましたが探すことはできませんでした。
これら代数は祐時を初代とすると勘定が合いませんが、どうやらここでは都於郡に城を築いた6代の祐持を初代城主として数えているようです。
祐堯は4代の祐立の子、あるいは祐立の子である祐武の子とも言われていますが、子宝に恵まれて伊東氏の基礎を築きます。
尹祐は寵愛した福永氏の子である祐充に家督を譲るために嫡男を廃したことで家中の乱れを招きますが、反対派を強引に鎮圧しました。
そして若年で跡を継いだ祐充のときに外戚の福永祐炳が専横を極めたことで再び家中は乱れて、義祐が表舞台に出てくるまでは暫くは混乱が続くことになります。
義益はその義祐の嫡男で父とともに伊東氏の興隆に貢献をしましたが、僅か23歳で病死をしたことは大きな痛手でした。
写真は左から祐堯、尹祐、祐充、義益です。

こちらが尹祐の側室の福永氏と、その父の福永祐炳の墓です。
祐炳は祐充の代に外祖父として家中を牛耳りますが、その祐充が病死をした後に祐充の叔父である祐武に誅殺をされます。
ありがちなお家騒動ですが祐充の跡は三弟の祐吉が継ぎ、その祐吉も若死にをしたために祐充の次弟で祐吉の兄にあたる義祐が家督を継ぐこととなりました。
三人ともに福永氏の所生ですから家臣たちの思惑がいろいろと働いての迷走、といったところだったのでしょう。

このあたりも混乱をしそうですので、ちょこっと系図を書いてみました。
先の田島伊東氏や長倉氏、木脇氏の位置関係と言いますか血の繋がりも、こうしてみれば一目瞭然です。
後世の系図ですからどこまで正しいかは分かりませんし、祐堯の父とも言われている祐武と孫にあたる祐武とが同名だったりして分かりづらいのですが、まあこんなところです。
西都では都於郡城跡にも行けるのであれば行きたいと思っていましたが、さすがに雨が強くなってきたために断念をして、この日の史跡巡りを終えることとしました。


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南国放浪記 史跡巡り篇 宇土の巻

2012-03-27 00:13:54 | 日本史

 

この旅の最後は宇土です。
予定では菊池からそのままレンタサイクルで向かうつもりで距離的にもたいしたことはなかったのですが、それなりの雨が降っていたために宇土駅からの徒歩での城巡りです。
歩くとなると片道4キロ弱はちょっと厳しかったですし、帰りの飛行機の時間が迫っていたために気持ち的にも余裕が無く、ちょっと締まりのない終わり方となってしまいました。

宇土城は宇土氏が築いた中世宇土城と、小西行長が築いた近世宇土城の二つがあります。
時間がなかったために近世宇土城だけを見るつもりで、1時間弱も歩いた先に見えた石垣らしきものがそれだと思って欣喜雀躍して近づいたのですが、これが中世宇土城でした。
中世のそれにしては規模がかなり大きく、時間が気になってどうしようかと迷ったのですが、なるようになれと登ってみることにしました。

この中世宇土城は西岡台と呼ばれて近世宇土城と区別をされており、国の指定史跡です。
城の主郭である千畳敷には土塁や竪堀などがあり、いい感じで保存がされていると言ってもよいでしょう。
そんな無理をしてでも寄って良かったと思えるものだったのですが、しかしその直後にその思いが裏切られることになります。

この茶色いコンクリートで固められた堀跡などには、思わず絶句をして立ち尽くしてしまいました。
どういった理由があってのことかは分かりませんし、それなりの事情もあるのでしょうが、ガッカリどころの騒ぎではありません。
そこには作り物の雰囲気が漂っており、もうどうでもよくなってそそくさと近世宇土城を目指すことにしました。

西岡台から5分ちょっとほど歩いたところに、公園と化した近世宇土城がありました。
こちらは城山と呼ばれているようで、階段の脇の案内板が無ければそれが城跡だとは分からなかったと思います。
おそらくは本丸跡だと思うのですが、そこはだだっ広いだけのまさに公園で、ブランコなどの遊具が無かったことが救いではありました。

その奥には小西行長の像があり、やっと城跡に来た気分になりました。
キリシタンであったことを印象づけたいのか十字架のネックレスをしており、また知性を感じさせる顔立ちとなっています。
肥後の南半分を与えられて築いたのがこの宇土城で、北半分を与えられた加藤清正とのライバル関係と言いますか、敵対関係はつとに有名です。

最後がこれかよ、と気落ちをしたのですが、何の気なしに像の向こう側を覗いたところに堀と石垣を見つけました。
意外なぐらいに高さのない石垣で、元からこうだったのか、あるいは破却をされたことによるものなのかはよく分かりません。
二の丸や三の丸などがあったであろうあたりは墓地だったり宅地だったりと城の面影が失われているだけに、この石垣だけが心の支えです。
この近世宇土城は天草国人一揆などがあったために築城には時間を要したとのことで、しかし関ヶ原の戦いに敗れたために僅か20年余りでその役割を終えることとなりました。
それでもそれなりに気持ちよく九州を離れることができたのはこの石垣のおかげですので、感謝をしています。


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南国放浪記 史跡巡り篇 菊池の巻

2012-03-25 18:50:31 | 日本史

 

この旅の最終日は体を動かすことを目的に熊本から菊池の往復50キロを自転車で移動しようと計画をしていたのですが、さすがに天気予報が悪すぎて断念をしました。
朝方は曇っていてバスで菊池に着いたときにもまだ降り出していなかったのでちょっと後悔をしたものの、暫くして降ったり止んだりの断続的な雨になりましたので結果的には正解で、このチャレンジは来月の志布志、肝付町の往復まで預けておくことにします。

まず出迎えてくれたのは、勇壮な騎馬姿の菊池武光の像です。
武光は菊池氏の15代で懐良親王を支えて九州の南朝に最盛期をもたらした武将で、おそらくは菊池氏では一番にメジャーではないかと思います。
今川了俊の登場で晩年は失意の日々を送ることとなりましたが、しかしそれが武光の評価を下げるものでもないでしょう。
是非とも北方謙三の武王の門を原作に大河ドラマにしてもらいたく、昔であれば渡辺謙でしたが、今であれば誰がよいか、ちょっと思いつきません。

正観寺にはその菊池武光の墓があります。
往時はかなりの規模を誇った正観寺も今はその面影もなく、場所によってはただの田んぼになってしまっています。
この武光の墓は現在の正観寺の敷地内にありますが、自由には入れるもののお寺の方に声をかけてからの方がよいでしょう。
以前は無かったのですが今は赤外線か何かでブザーが設置をされており、いきなり鳴り響くとドキッとします。

この武光の墓の側に生い茂っている楠が墓印と言われており、よって江戸時代に作られた墓は墓碑に近いものだと思われます。
武光ほどの武将の墓がしっかりと伝えられていないのには、ちょっと不思議な感じがします。
ただ戦国時代ともなると菊池氏は衰退をしてしまいましたので、仕方のない話なのかもしれません。

同じ正観寺には武光の嫡男である16代の武政の墓もあります。
武光の晩年から北朝に押されて厳しい状況が続いていましたが、武政は阿蘇氏の協力を得て南朝のために戦い抜きます。
しかしその苦労が寿命を縮めたのか、33歳の早すぎる病死が菊池氏の凋落に拍車をかけたことは否めません。

武政の墓の前には一族の武澄と武国の墓があります。
武澄は武光の兄であり、その右腕となって活躍をした名将です。
この武澄も長命を保つことなく病死をしたことが菊池氏にとっては痛手で、甥である武政を支えることができませんでした。
武国は武光の弟の武尚の子で、武政にとっては従兄弟にあたりますが、肥後の守護代として一族に重きを置いた武将です。
左が武澄、右が武国となります。

こちらは菊池氏の22代にあたる能運の墓です。
先の武光の7代後の当主になりますが、時代的には100年ちょっとしか経っていません。
それだけ短命な当主が多かったことにもなりますし、能運も23歳の若さで没しています。
島津氏のそれとは違って左が能運の墓とのことですが、戒名などが読み取れなかったので正確なことは分かりません。
場所は正観寺実相院で、今は菊池グランドホテルの脇にこの墓だけがあります。

正観寺歓喜院には13代の武重の墓がありますが、こちらも今は田んぼの中にぽつんとある状態です。
武重は武光の長兄で、父の武時とともに鎮西探題を攻めるものの敗れて肥後に逃げ帰り、その後も南朝に属して戦いますがさしたる成果は挙げられなかったようです。
墓が武光のそれと似通っているのは同様に江戸時代に入ってから作られたものであることが理由だと思われ、そういう意味ではこちらも墓碑と考えた方がよいのかもしれません。

菊池神社の主祭神は武光と武重、そして父である武時になります。
明治に入ってからの創建ですので歴史的価値があるかどうかは微妙ですが、菊池を訪れた際には外せないポイントです。
このあたりから雨が降り出し始めたので気もそぞろになりがちでしたが、しっかりとお参りだけはしてきました。

境内には菊池神社歴史館があり、係員もいずに料金はブリキ缶に入れるという素敵な仕様となっていますが、規模は小さいながらも内容は充実をしています。
菊池氏の歴史が細かく説明をされており、また市街地の史跡の案内があったのは散策の助けとなりました。
入口の脇には菊池城本丸跡の碑があり、この菊池神社が菊池城跡に建てられたものであることが分かります。
菊池城は武光の子である菊池武政が築城し、戦国期には菊池一族の赤星親家や隈部親永が城主となった城です。

武光のそれと比べるとちゃちな感は否めませんが、菊池武時の像もありました。
12代である武時は鎮西探題を攻めて討ち死にをしますが、その功を称えられて子の武重は南朝から肥後を与えられます。
中興の祖という表現が適当かどうかは分かりませんが、多くの子にも恵まれて菊池氏の隆盛の基礎を作ったと言っても差し支えはないと思います。

ここまでは菊池武光の像を中心にさほどは離れていない場所だったのですが、ここからが勝負となります。
雨が降っていたので歩くしかなく、心が折れそうになるのを必死に支えての墓巡りです。
その途中で出会ったのが将軍木で、熊本県の天然記念物に指定をされているのですが、懐良親王のお手植えのものと伝えられています。

とぼとぼと歩いてたどり着いたのが玉祥寺で、20代の為邦の創建です。
その為邦と子の21代の重朝の墓が仲良く並んでいます。
親子の墓がこうやって並んでいるのはあまり見たことがありませんので、実際に仲が良かったのかもしれません。

為邦の代に筑後に大友氏の進出を許してしまい、菊池氏の衰退が顕著になります。
跡を継いだ重朝が必死に挽回をすべく筑後に攻勢をかけるものの成果は上がらず、子の能運の代で菊池氏の直系は途絶えてしまいました。
傍系からの当主で暫くは命脈を保ったものの阿蘇氏や大友氏からの介入を排除できず、実質的な菊池氏は22代で終わったと言ってもよいでしょう。
左が重朝、右が為邦です。

次は菊池氏の初代である則隆の墓を目指したのですが、ハッキリとした場所が分からず、地図にあった近くのマクドナルドの住所を頼りに探したのですが、とにかく遠かったです。
ようやくにそれらしきものを見つけて喜び勇んで近づいてみれば、しかしそれは菊之城跡の碑でした。
菊之城は則隆が居を構えたところで菊之池城とも呼ばれており、武政の築いた菊池城を菊池本城、こちらを菊池古城と分けてある資料もあります。
田んぼの中でやや盛り上がっているのが遺構とも思えず、ただこのあたりに居館があったということなのでしょう。

菊池則隆の墓は、もう200メートルほど歩いたところにありました。
初代の墓なのですからもっと案内板などの情報が欲しかったのですが、ここに限らず基本的に菊池にはそういったものはありません。
則隆は藤原氏の流れとのことですが、一方で藤原氏の郎党でしかなく仮冒との説もあるようです。

それにしても我ながらよく歩いたものです。
この光善寺は一見すると民家のようですが、19代の持朝が創建をしたれっきとしたお寺です。
持朝は弟の忠親を偏愛した父の兼朝と争って家督を奪い取り、子の為光を宇土氏の養子に送り込むなどして菊池氏の強化に努めましたが、その為光が兄である為邦のときは大人しくしていたものの、その後は為光には甥にあたる重朝やその子の能運と争って菊池氏の内紛を引き起こすのですから皮肉としか言いようがありません。
ここには持朝の墓もあり、これで初代則隆、13代武重、15代武光、16代武政、19代持朝、20代為邦、21代重朝、22代能運と巡りましたので、まずは上々の成果かなと思います。

バス停まで戻った頃には雨も上がっていたので、観光案内所で自転車を借りて隈部忠直観音堂まで足を伸ばしてみました。
これは観光マップで存在を知ったのでオプションみたいなもので、行けなかった18代兼朝の墓の代わりのつもりです。
これまた田んぼの中にぽつんと立っており、喜んでいいのか悲しむべきかが微妙だったりもします。

この観音堂は隈部忠直の墓を参れるようになっています。
こういったものを目にするのは初めてで、全国でも珍しいのではないかと思います。
ある意味で菊池氏のどの当主の墓よりも扱いが上のようにも思えますので、ちょっと違和感がありました。

隈部忠直は19代の持朝から21代の重朝の3代に仕えた重臣で、文武両道に秀でた武将だったとは観光MAPでの紹介です。
しかし一方で先の宇土為光を担いで22代の能運に叛乱を起こしたのがこの忠直とも言われており、もしそれが真実であれば代替わりにより立場の変化があったのかもしれません。
もっとも年代的には合致がせず、忠直の子、あるいは孫がそれにあたるのかもしれず、いずれにせよ必ずしも菊池氏に忠実だった隈部氏というわけではなかったようです。
佐々成政に反旗を翻した隈部親永は、この忠直の直系の子孫です。


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南国放浪記 史跡巡り篇 八代の巻

2012-03-24 00:04:43 | 日本史

 

人吉を出て向かったのは八代で、八代亜紀の出身地です。
江戸時代は一国一城令によってかなりの城郭が取り壊されましたが、肥後熊本藩の二つ目の城である八代城は例外とされました。
これは江戸幕府が島津氏を警戒したとも、島原の乱をきっかけとしたキリシタンへの備えのためとも言われているようですが、何にせよ城フリークとしては喜ばしいことです。

それであればまずは八代城跡に、とはいかないのが旅の難しいところで、いつ雨が降ってもおかしくはない天候だったので遠くから攻めることにしました。
そして最初に訪れたのが春光寺です。
ただ一番に遠い相良義陽の墓に行く途中に見つけてしまったというのが本当のところで、あれっ、といった感じです。

この春光寺は八代城の城代だった松井氏の菩提寺です。
ただそれだけではなく、八代城の三の丸にあった永御蔵が移築をされて、その永御蔵門と番所を見ることができます。
どういった経緯かは分かりませんが櫓などが破却をされたり払い下げられたりして残っていないことが多いですから、これは運が良かったとしか言いようがありません。

こちらは松井氏の廟所です。
松井氏は室町幕府の幕臣でしたが、その後に細川氏に仕えて筆頭家老となります。
そして大名並みの3万石の大身で八代城の城代となり、一方で江戸幕府の直臣の身分も併せ持つという複雑な立ち位置のまま明治維新を迎えました。

初代の松井康之は足利義輝に仕えましたが、その義輝が三好三人衆に攻め殺されたことから細川藤孝のもとに身を寄せます。
関ヶ原の戦いでは豊後杵築城に攻め寄せた大友義統を寄せ付けず、その功を賞されて細川忠興から2万6千石を賜りました。
2代の興長は康之の次男で八代城の城代となり、宮本武蔵で有名な松井佐渡とはこの興長のことです。

興長は細川忠興の六男の寄之を養子に迎えて3代とし、松井氏は細川氏の準一門の立場になります。
4代の直之、5代の寿之、6代の豊之と直系が跡を継いでいったようですが、詳しい事蹟などはよく分かりません。
写真は左から寄之、直之、寿之、豊之です。

そして相良義陽の墓ですが、シャレにならないところにありました。
手前から左上の方に辛うじて登り口が見えるのですが、案内の杭が無ければ見落とすところです。
しかも線路の向こう側で心岳寺跡とは違って遮断機どころか踏切すら見当たらず、線路を渡っても朽ち果てたガードレールと思しきものを踏み台にしなければ登り口に行き着けませんので、どこをどう探しても墓に行くためにはそのルートしかありませんから、これは八代観光協会の公認なのだと自分に言い聞かせて無理をさせていただきました。
一見するとガードレールが折れ倒れているので登りやすいようにも見えますが、実際には膝から腰の間ぐらいの高さがあるためにそう簡単なものでもありません。
熊本県のHPにも「義陽の墓には肥薩線を横切らないと行けないため、訪れる人はほとんどいません。」と書いてあります。

願成寺にも相良義陽の墓はありますが、こちらは首塚とのことです。
義陽の子の頼房が葬り石碑を建てた場所は今の線路の辺りだそうで、工事のために今の位置に移されました。
その後も人吉に移したり元に戻したりしたようですが、それらも含めて義陽の首も一緒に動かしたのかどうかが気になります。
今の石碑も当時のものとは思えない感じがありますし、供養塔的な位置づけでなのかもしれません。

次に向かったのが宗覚寺で、加藤忠正の菩提寺です。
忠正の菩提寺は本成寺でしたが移転をした際に墓所だけが残され、その後に松井直之の斡旋で細川綱利が創建をしました。
なぜに墓所だけ残して菩提寺が移転をしたのかは分かりませんが、そのために忠正の菩提寺は二寺あることになります。

忠正は加藤清正の次男で、兄が早世をしたために嫡子となりました。
そして父と同じ主計頭となりましたが、しかし僅か9歳で疱瘡により病死をします。
熊本ではなく八代に墓所があることについては、清正の夢枕に立って「谷川の側で遊んでいる」と指を差した地がここだと伝えられているそうです。

宗覚寺の次は懐良親王御陵で、しかしこれは完全に予定外です。
まるで行けと言わんばかりに案内があったのと、宗覚寺から数分のところなのでリスクも少なかったこと、そして翌日に菊池に行くのでグッドな発見ではあります。
南朝の皇子ながらも天皇家に連なる懐良親王ですので柵も二重と規模も大きく、またさすがに乗り越えて中に入る勇気も出ませんでした。

懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、征西将軍宮として肥後隈府を拠点に勢力を広げて、一時は太宰府を制圧するなど九州の南朝の最盛期を築きました。
その懐良親王を支えたのが菊池武光で、この南朝の戦いを描いた北方謙三の「武王の門」は名著ですのでお奨めです。
南北朝はやや守備範囲から外れるものの今回も菊池を訪れようと思ったのは、この北方謙三のエキスが体内に残っていることが最大の理由です。

そして八代城跡ですが、思っていたよりも規模が大きいことに驚かされました。
往時は天守閣がありましたが落雷などで焼失をしてしまい、明治に入ってからの廃城に際して櫓や門などの全てが取り壊されたり払い下げられたりしてしまったために今は一切の建物が残っていませんが、幅の広い堀とそそり立つ石垣だけでも圧倒的な存在感を見せつけてくれます。
いくつかの櫓跡などには礎石が残されており、しかし石垣には柵もなく一歩間違えば堀に落ちかねませんので、荒天のときや薄暗いときには冒険をしない方がよいでしょう。

城跡には八代宮がありますが、しかし城代だった松井氏とは何の関係もありません。
主祭神は懐良親王で、明治になってから建立をされたものです。
懐良親王の陵墓が八代にあること、これは先に紹介をしたもので宮内庁もそれと認めているそうですが、そのことで八代に南朝の功労者を祀ろうとの運動が起こり、懐良親王が八代城を居城としていたことがあったとの繋がりから場所が定められたのですが、しかし当時の八代城は現在のものとは違ったところにあったと気がついたのは後の祭りです。

八代の最後は本成寺です。
加藤忠正の菩提寺の一つですが、その忠正の墓所のある宗覚寺にやられっぱなしとは勝手な感想です。
右の写真が高麗門で、これは八代城のものを移設したものですので数少ない遺構になります。
幕末のどさくさに紛れての払い下げなどではなく、細川忠興の寄進によるものとのことです。
それだけ藩主にも重んじられていたということなのでしょうが、やはり墓を置き去りにしたことは理由がどうあれ痛恨の一事でしょう。


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南国放浪記 史跡巡り篇 人吉の巻 願成寺の章

2012-03-21 01:01:37 | 日本史

 

人吉城を出て次に向かうは願成寺で、相良氏の菩提寺です。
最寄り駅はくま川鉄道の相良藩願成寺駅ですが、人吉駅から向かう場合は9時48分を最後に次は12時21分という信じられないようなダイヤですし、人吉城から行けば人吉駅に戻るよりは直接に願成寺に行く方が近かったりもしますので、何の迷いもなくそのまま自転車で向かいました。

相良氏は藤原氏の流れで遠江相良荘に住んだことで相良を称し、よってこの願成寺も初代の相良長頼が遠江の常福寺から招いた弘秀上人を開基として創建しました。
すぐそこに相良氏墓地が見えていたことで気がせっていたこともあって中までは入らなかったのですが、それなりの規模のお寺のようです。
隣が保育園なのか小さな子がじっとこちらを見ていた、というのが理由だったりもします。

鳥居をくぐってすぐのところにあるのが、相良長頼の墓です。
さすがに初代は別格なのか墓地の中央に鎮座をしていますし、存在感をアピールしまくりです。
当初は願成寺の金堂前に埋葬され、その後に金堂の須弥壇の下に移されたことで金堂そのものが廟所とされましたが、しかし西南の役の際に金堂が焼失をしたことで現在の場所に改葬をされたものらしく、そういう意味では正真正銘の墓ということになります。

墓地は5区画に分かれていますが、見事なぐらいに整然と並んでいます。
2代から18代まではそれなりに一族間での争いがありながらも代数順に横一列であることがあまりに不自然で、改葬をされたものや、あるいは供養塔なども含まれているのでしょう。
長頼には頼親、頼氏、頼俊、頼村、頼員、頼貞と多くの子がいましたが、2代は頼親が継ぎ、頼氏は多良木氏、頼村は上村氏、頼員は犬童氏、頼貞は稲富氏を興します。
相良氏は人吉荘と多良木荘の地頭でしたが分割相続をしたことで、人吉荘を継いだ頼親の系統が下相良氏、多良木荘を継いだ頼氏の系統が上相良氏となり、下相良氏が上相良氏を滅ぼして統一をするまで主導権を巡って200年に渡って争い続けました。
頼親には頼明という子がありながらも家督を弟の頼俊に譲り、頼明は永富氏を興して後に11代の長続が出るまで雌伏のときを過ごすことになります。
3代の頼俊、4代の長氏、5代の頼広、6代の定頼、7代の前頼、8代の実長、9代の前続と南北朝の動乱などに翻弄をされながらも着実に地盤を固めていきますが、前続の子の10代の堯頼のときに上相良氏の多良木頼観、頼仙の兄弟に人吉城を奪われてしまいました。
写真は上段左から頼親、頼俊、長氏、頼広、定頼、前頼、実長、前続、堯頼となります。

この混乱を鎮めたのが永富長重で、多良木兄弟を討って人吉城を奪還することで二流に分裂をしていた相良氏を統一しました。
その後に堯頼が早世をしたことで長重改め長続が11代を継ぎますが、永富氏は2代の頼親の流れですので長続からすれば家督を取り戻したとの思いがあったかもしれません。
12代は三男の為続が継ぎ、その子の長毎が13代となりますが、このことが再び相良氏に騒動を起こすこととなります。
写真は左から長続、為続、長毎です。

長続には頼金という長男がありながらも病弱だったために三男の為続に跡を継がせましたが、面白くないのは頼金の子の長定です。
長毎の跡は三男で嫡出の長祗が14代を継ぎましたが、長定はこれを襲って人吉城から追放をして長祗を自害に追い込み、自らが15代となって家督を簒奪します。
しかし長祗の庶兄である義滋と長隆がその長定を追い落とし、今度は兄弟間での争いになりますが、上村氏の協力をとりつけた義滋が16代を継ぎました。
写真は左から長祗、長定、義滋ですが、長定の墓がここに平然と並んでいることからして先の疑問となった次第です。

14代の長祗には、理由は今ひとつ分かりませんが墓がもう一基あります。
その形式からして後世になってから作られたものでしょうが、一時的にではありながらも家督を簒奪されて25歳の若さで自害をさせられたことを悼んでのものかもしれません。
ただそれであれば似たような境遇であった堯頼にも、と思ったりもしています。

戦国期に入ってからの当主は17代の晴広と18代の義陽です。
晴広は2代の頼親の子である頼村が興した上村氏の流れで上村頼興の嫡男ですが、義滋を後押ししたことの見返りとして養子に送り込まれました。
義滋に継ぐべき子がいなかったこともありますが、傍から見ればこれも体のいい家督の簒奪です。
ただ晴広の祖父である頼廉は13代の長毎の次弟で相良氏から上村氏に入りましたので義滋と頼興は従兄弟になり、つまりは義滋から見れば晴広は従兄弟の子ですからかなり近いところで血脈は保たれているわけで、また相良氏法度を制定するなど晴広には名君の評がありますので相良氏にとっては悪い話でもなかったのでしょう。
父である上村頼興は相良一族内で相当な力を持っていたことから、その後ろ盾を得て晴広は安定した基盤を築いてくことになります。
その跡を嫡男の義陽が継ぎ、しかしそれを不満に思った叔父の上村頼孝が子の頼辰らとともに謀反を起こすものの、深水氏らの活躍で鎮圧をされました。
しかし父の時代には友好だった島津氏との関係が崩れ、猛攻に屈して支配下に組み入れられてしまいます。
そして島津氏の阿蘇氏攻めに駆り出された義陽は敢えなく討ち死にをしてしまい、この後に相良氏が大きな勢力を築くことはありませんでした。
写真は左が晴広、右が義陽ですが、義陽の墓、と言いますか首塚が八代にもあります。

義陽の跡を嫡男の忠房が継いで19代となりますが、僅か14歳で病死をしてしまいます。
そのため弟の頼房が20代となり引き続き島津氏に従い、豊臣秀吉の九州征伐の後は小大名ながらも独立をします。
そして関ヶ原の戦いでは西軍に与しながらも土壇場で寝返り、大垣城で熊谷直盛や垣見一直を殺すことで家を保ち、肥後人吉藩の初代藩主となりました。
写真は左が忠房、右が頼房です。

また願成寺の相良氏墓地には、当主以外にも一族の有力者の墓もあります。
写真は上段左から永富実重、上村長国、上村長種、上村頼孝、相良頼泰、相良長泰、相良長弘、相良長誠です。
永富実重は11代の長続の父で、上村長国は17代の晴広の母方の祖父で子は岡本頼春、長種は同じく晴広の叔父、頼孝は晴広の弟となり、また相良頼泰は長続の三男で長泰と長弘はその子、長誠は18代の義陽の三男ですからいずれも当主に近い存在ではあります。
ただ長種はその人望を怖れた兄の頼興に殺害され、頼孝は義陽、頼泰と長泰は13代の長毎、長弘も子の治頼が16代の義滋に謀反を起こしており、その一方で上村氏の墓所は別の場所にはありながらも相良氏で権力を誇った上村頼興の墓が相良氏墓地に無いのが不思議でなりません。

このあたりの人間関係はかなり複雑ですので、系図を書いてみました。
青字が当主で、赤字が当主以外で墓があり写真を載せた一族です。
サイズの関係からちょっと不鮮明になってしまってはいますが、こうやって書いてみると血脈の繋がりがよく分かるのではないかと思います。

こちらの写真は左から石田三成、熊谷直盛、垣見一直ですが、さすがに墓と言うよりは墓碑、供養塔といったものでしょう。
先に書いたとおり20代の頼房は関ヶ原の戦いで西軍を裏切りましたので、その後ろめたさもあってのことではないかと思います。
ただそれにしてもいつの時期のものかは分かりませんが、外様の僅か2万2千石の小藩としては思い切ったことをしたものだと拍手を送りたい気分にもなります。

ここからは江戸期ですので、申し訳ないながらも完全に惰性です。
21代は頼寛、22代は頼喬と無難に嫡男が跡を継ぎますが、頼喬の子が早世をしたために頼房の次男の長秀の子で頼喬の従兄弟にあたる頼福が23代となり、24代はその子の長興、長興に子が無かったために25代は弟の長在、26代はその子の頼峯、頼峯が子が無いままに24歳で病死をしたために跡は弟の頼央が継いで27代となりますが、こともあろうか国元にて鉄砲で狙撃をされて暗殺をされてしまいます。
これは竹鉄砲事件と呼ばれて藩財政の立て直しの方策を巡っての対立が引き起こしたものと言われていますが、そこに負い目でもあったのか継ぐべき一門は他にあったものの血の繋がりのない秋月氏から養子を迎えて28代の晃長となり、29代の頼完、30代の福将、31代の長寛と他藩から養子を迎えまくったことで完全に相良氏の血は絶えてしまいました。
その後は32代の頼徳、33代の頼之、34代の長福と嫡男が継ぎ、35代は長福の弟の頼基が継いで最後の藩主となりますが、あくまで備前池田氏の血でしかありません。
36代は長福の子の頼紹、37代は頼基の子の頼綱が継ぎますが状況は変わらず、血にこだわっている自分としては嘆かわしい現状です。
写真は上段左から頼喬、頼福、長興、長在、頼峯、頼央、晃長、頼完、福将、長寛、頼徳、頼之、長福、頼基、頼綱で、21代の頼寛は見落とし、36代の頼紹は見当たりませんでした。


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南国放浪記 史跡巡り篇 人吉の巻 人吉城の章

2012-03-18 02:20:20 | 日本史

 

晴れ予報だった前日を熊本市街の散策に充てたことで、翌日は午後から雨予報でしたので早めに回ろうと始発での移動です。
しかし一日中が夕方のようなどんよりとした曇り空だったものの、幸いにも雨に降られることなく無事に目的を達することができました。
人吉でも八代でも思っていたよりは移動距離が多かったため、雨で徒歩にでもなれば何かを諦めなければならなかったかもしれません。

まず始発電車に揺られて訪れたのが人吉で、人吉城は前回に続いて2度目となります。
その前回は駅から歩いたのですが、昨今の健康ブームの影響でもないでしょうが、最近はレンタサイクルを扱っている駅が増えているので助かります。
15年ぶりながらも球磨川沿いの櫓が記憶に新しく、建造物があるとどうしても興奮が抑えきれません。

城の北西にある隅櫓は1989年の復元で、球磨川と支流の胸川が合流をしている要所を守る役割を担っていました。
上部は漆喰、下部は板張りという、ありがちな構造です。
当初は重臣の屋敷がありましたが、焼失をした後に櫓が建てられたとのことです。

こちらは大手門の脇を固める大手門横長櫓で、1993年に復元をされました。
石垣に合わせてのL字型で、文字どおりに大手門を守る武士が詰めるための長屋風の建物となっています。
元々にあった櫓は残念なことに隅櫓と合わせて民間に払い下げられてしまったようで、城フリークとしては毎度のことながらに悲しくなります。

隅櫓と大手門横長櫓を繋いでいるのが、この続塀です。
大手門横長櫓と同時期に復元をされており、左奥に石落としが見えます。
こちらは城内から撮ったものですので、外側から撮った大手門横長櫓の左の写真の方が分かりやすいかもしれません。

人吉城には立派な石垣が残されています。
前回は櫓を見ただけで満足をしてしまったのか、日程が厳しく時間が足りなかったのか、ただ単に見落としただけなのかは覚えていませんが、いずれにせよ今回が初見参です。
ここまでの規模で石垣が整備をされている城跡は全国でもあまり多くはありませんので、そのスケールに圧倒をされてしまいました。

まずは水の手門跡です。
球磨川に面しており、ここに船着き場がありました。
門をくぐってすぐのところに間米蔵跡がありましたので、年貢米をここから城内に運び入れていたのでしょう。

水の手門を抜けたところにあるのが堀合門で、2007年の復元ですのでかなり真新しいものでした。
当時の堀合門は廃藩置県で人吉城の建築物が壊されたり払い下げられたりしたときに家臣の屋敷に移築をされて、今は武家屋敷の門として残されています。
堀合門に連なる石垣の上部にあるのが武者返しで、熊本城のそれは石垣の反りで登れないようにしてありますが、こちらは石版が突き出す形になっています。
こういった武者返しは全国的にも珍しく、他には五稜郭ぐらいだとのことですが、その五稜郭で意識をして見た記憶がありませんので未熟さが丸出しです。

堀合門を横目に東に歩いて行ったところに、御下門跡があります。
三の丸、二の丸、そして本丸に行くためにはこの門を通らなければならず、櫓門のようなものがあったようです。
当然のことながら門を抜けたところには番所があり、厳しい誰何がされていたのでしょう。

御下門を抜けて今度は西に歩いていくと、三の丸跡に突き当たります。
かなりの広さがあるのですが、これといった建物は建てられていなかったとのことです。
いろいろと事情や理由はあったのでしょうが、そのあたりの説明も特にありませんでしたのでよく分かりません。
奥はちょっとした崖となっていて、柵などもありませんので注意が必要です。

三の丸から二の丸に至るところに、中の御門跡があります。
二の丸跡は今は木々が生い茂っていますがかつては本丸と呼ばれて御殿があった場所ですので、中の御門でも御下門に増して厳しい誰何がされていたものと想像されます。
人吉城には天守閣がありませんでしたので、この二の丸にあった御殿が城の中心でした。

二の丸から石段を登っていくと、本丸跡に行き着きます。
一番に高い場所ですので本来は天守閣が建てられるところであることから本丸と呼ばれているのでしょうが、護摩堂などがあったぐらいで、その礎石が残されていました。
これだけの石垣がありますので天守閣を再建すれば観光の目玉になるだろうにと下世話な算盤勘定をしたのですが、そもそも無かったのであれば無理な話です。

三の丸は二の丸をぐるっと囲んでいますので、先の三の丸跡とは別の三の丸跡が中の御門を挟む形で広がっています。
こちらには於津賀社があり礎石も残されていましたが、その歴史は古く相良氏2代の頼親が建てたものとのことです。
相良氏が肥後人吉の地頭となって入る際に抵抗をした矢瀬主馬祐を謀殺したことで、その後の祟りを怖れて祀ったとの説明がありました。

人吉城歴史館は2005年の開館で人吉城跡に建てられており、隅櫓から石垣に向かう途中に位置します。
相良氏に関係する甲冑などが展示をされていますので博物館としての体を成してはいますが、しかし発掘調査で相良清兵衛の屋敷跡に地下室が発見をされたことがきっかけとなって造られたものですので、その目的が地下室の展示であることに疑いの余地はありません。
日本100名城のスタンプ設置はされているものの城跡としての記念スタンプが用意をされていないなど、展示物も含めて個人的には今ひとつの印象でした。

館内にある地下室は鍵がかかっていますが、係の人に頼めば案内と説明をしてくれます。
土壌の汚れもあり水はやや濁り気味でしたが、雨が降った後にはかなり透き通って底の方まで見えるそうです。
相良清兵衛は相良頼房に信頼をされ家老となったことで相良姓を賜りましたが、元は犬童頼兄ですのでこちらの方が通りがよいかもしれません。
頼房の子の頼寛とは不仲だった清兵衛は専横の罪を問われて津軽藩にお預けの身となりますが、それを不服とした一族が屋敷に立て籠もったことでお下の乱となります。
その鎮圧の際に屋敷が炎上をしてしまいこの地下室も歴史の闇に消え去りましたが、発掘調査の際に日の目を見たとは先に書いたとおりです。
何の目的で作られたものかは記録が残されていないことで全くの不明で、しかし底に刀が一振り沈められていたことで水神を祀っていたのではないかと、またこの地下室が持仏堂の下にあったことから身を清めるための場所だと推測をされているとは係の人の説明でした。

地下室はもう一箇所、博物館からそれなりに離れた場所にもあり、しかし残念なことに立ち入り禁止です。
博物館のそれと似たような構造で、こちらは大井戸遺構と呼ばれているようです。
それにしてもこれも相良清兵衛の屋敷跡とのことですからどれだけ広い屋敷だったのかと、その権力の一端を見せつけられたような気がしました。


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2012-03-16 01:21:07 | 日本史

 

熊本城の次は加藤清正の墓がある本妙寺に向かう予定だったのですが、熊本城のチケットを買うときに近くにある旧細川刑部邸との共通券にするかどうかを聞かれて勢いでそちらにしてしまったため、貧乏性ですのでさして遠くもないこともあって足を伸ばすこととしました。
途中に監物櫓がありましたし、時間に余裕もあったことでの道草みたいなものです。
ちょっと上り坂があったのが誤算と言えば誤算でしたが、熊本城で気持ちが高揚をしていたために苦にもなりませんでした。

細川刑部家とは細川忠興の五男の興孝が興したもので、刑部少輔を名乗っていたことから家名がつけられています。
旧細川刑部邸とはこの細川刑部家の屋敷であり、熊本県の重要文化財に指定をされています。
子飼という地にあったものを1993年に現在の場所に移築をされたもので、その移築には4年もの歳月がかけられました。

長屋門をくぐると御玄関があり、全てではありませんが邸内が公開をされています。
万石級の家臣の屋敷ですから贅沢ではあるのですが、しかし六尺の身としては全体的な作りの小ささは否めません。
砂利などがきれいに敷き詰められて落ち着きのある佇まいに気品は感じたものの、やはり守備範囲ではないなとちょっぴり後悔です。

気を取り直して本妙寺です。
本妙寺と言えば石段、とは自分としてのイメージで、とにかくひたすら石段を登ることになります。
帰りに数えてみたら170ぐらいありましたので、運動不足の人には汗をかくのにちょうどいいぐらいでしょう。

本妙寺は3度目ぐらいのはずですが、この六喜廟には初めて気がつきました。
説明の銅板がやたらと新しかったので、以前はアピール不足で見過ごしていたのかもしれません。
加藤清正の三男の忠広、生母の正応院、忠広の子の光正、正良、正良の生母の法乗院を祀ったものです。

加藤忠広は改易をされて生母とともに出羽に、光正は飛騨に、正良と生母は信濃に流されて、そこで没します。
そのため昭和に入ってから清正の側で眠らせてあげようと、有志で建立をしたといった内容の説明がありました。
しかし改葬をしたわけではないようなので墓ではありませんし、言ってみれば供養塔のようなものなのでしょう。

石段を登り切ったところに、浄池廟があります。
この建物の下に加藤清正の墓がありますが、残念ながら中に入ることはできません。
本妙寺宝物館も土日祝のみ開館という羨ましい勤怠状況で、悲しいかな月曜日でしたので当然のように拒絶をされました。

ここから石段を300も登れば加藤清正の像があるのですが、真夏だった前回は自分に言い訳をしてパスをした記憶があります。
さらに年齢を重ねているので迷ったのですが、登ってみればたいしたことはありませんでした。
世界遺産の泰山に登ったときもそうでしたが、自転車ライフのおかげで自分が思っている以上に足腰は鍛えられているようです。
どうやら敵は自分の中にある弱い心だけのようで、どこかのチームの選手とよく似ています。

その加藤清正の像ですが、とにかくでかいです。
あまりにでかくて距離が遠く、せっかくの表情が影になって見えないのが残念でなりません。
まるで熊本を守ってやると言わんばかりの勇姿で、市街を見下ろすところに建立をしたのはナイスな判断でしょう。
トップの写真はこの頂上から熊本市街を写したもので、分かりづらいかもしれませんが米粒ぐらいの大きさの熊本城が見えます。
つまりはそれだけの高い場所にあり、そこまで登ってきたことになるわけです。

次に向かったのは泰勝寺跡で、今は立田自然公園となっています。
細川氏の菩提寺だったところで、今は墓所のみが残されているようです。
立田山公園と間違えて来る人が少なくないらしく、入園をする際に念押しをされましたのでトラブルが絶えないのでしょう。

こちらが細川氏の墓所となります。
公園などには興味はないので墓所をめがけて一直線で、さして広くはないのであっさりと見つかりました。
今回の旅はとにかく墓、墓、墓で、写真の整理をするときにあまり細かくチェックをしないように心がけた理由は敢えて述べません。

まずは肥後細川藩の藩祖である細川藤孝の墓で、細川幽斎の名の方が通りはよいかもしれません。
足利義稙の落胤との説が当時から根強くあったようで、もしそうであれば義輝や義昭の庶兄にあたります。
文武両道に秀でた武将で、また義昭や明智光秀を見限るなど抜群の政治的なセンスで戦国乱世を生き抜きました。
古今伝授の継承者であったことから関ヶ原の戦いの際に落城寸前の田辺城に籠もっていた藤孝を、後陽成天皇が勅命で救ったことはあまりに有名です。

こちらは肥後細川藩の初代藩主である細川忠興の墓です。
藤孝の嫡男で父と同様に文武ともに優れた武将ですが、一般的には細川ガラシャの夫としての知名度の方が高いかもしれません。
その妻にかける愛情は異様なぐらいで、ガラシャが関ヶ原の戦いの際に命を落としたときに嫡男の忠隆の妻、前田利家の娘の千世ですが、同じ屋敷にいながらも逃れたことに激怒をして離縁を迫りますが、それを拒んだ忠隆を廃嫡したぐらいですから偏執的と言ってもいいぐらいです。
もっとも徳川政権下では前田氏との関係を断つことが細川氏としてプラスになると考えた上での行動との見方もあり、父譲りの政治的センスを発揮したのかもしれません。

そして細川ガラシャの墓です。
明智光秀の三女で玉という名でしたが、キリスト教に帰依をしてガラシャという洗礼名を受けます。
本能寺の変で逆賊の娘となったものの一時期に幽閉をされましたが忠興からは離縁をされず、その後も何人かの子を授かりました。
これだけ愛されれば女性としては本望かもしれませんが、一方で関ヶ原の戦いの頃には既に夫婦仲は冷え切っていたとも言われているようです。

この泰勝寺跡には他の歴代藩主の墓もありますが、藩祖の藤孝や初代藩主の忠興、その正室が覆屋で風雪から守られているのに対して、言葉は悪いですが野ざらしです。
これは細川氏の墓所に限った話ではありませんが、やはり待遇が違ってくるのは仕方のない話です。
9代の斉滋は支藩である宇土藩から養子として入りましたが、遡れば忠興の四男の立孝の流れですので血脈は受け継がれています。
斉滋の嫡男の立之は宇土藩を継いだために三男の斉樹が10代となり、しかし11代は立之の子である斉護に譲ることとなります。
12代の韶邦と13代の護久はそれぞれ斉護の次男と三男で、護久のときに明治維新を迎えましたので最後の藩主となりました。
14代の護成は護久の嫡男ですが跡は末弟の護立が継ぎ、そして護貞、護煕と続きますので、元首相の護煕にとって護成は祖父の兄ですから大叔父にあたります。
代数の数え方はいろいろとあるようですし、細川氏の場合は豊前小倉藩を経由しているので面倒ではあるのですが、ここでは忠興を初代として数えてみました。
写真は上段左から斉滋、斉樹、韶邦、護久、護成となります。

細川氏の墓所は妙解寺跡にもあり、やはり北岡自然公園として整備がされています。
こちらも菩提寺だったようですが今は廃寺となっており、泰勝寺と同じく明治に入ってからの廃仏毀釈の流れによるものなのでしょう。
今となっては意味のないことではありましたが、この手のものは熱病のようなものですので諦めるしかありません。

こちらも公園には興味がないために墓地に向かって一直線でしたが、そもそも公園としての美しさも感じられません。
自然公園だから自然にしているとの言い訳が聞こえてくるような、最低限の手入れしかされていないようにも見えます。
これであれば旧細川刑部邸の方がよほどに見る価値がありますし、どうしたいのかもよく分かりませんが、墓地にしか目が行かない人間の言うことではないかもしれません。

まずは2代の細川忠利の墓ですが、写真には3代とありますので藤孝を初代と数えているようです。
ここでは忠興を初代藩主としていますが肥後熊本藩という意味では忠利が初代藩主で、豊前小倉藩の初代藩主だった忠興の跡を継いで2代藩主となった後に、加藤忠広の改易を受けて小倉40万石から熊本54万石に加増転封をされて幕末まで熊本を治めていくこととなります。
忠利は忠興の三男で、長兄の忠隆と次兄の興秋と同じくガラシャの子ですが、忠隆が件の理由で廃嫡をされたことで嫡子となりました。
長幼の順序から言えば興秋が嫡子となるべきところを忠利となったのは、おそらくは忠利が人質として江戸にいたことが理由だと思われます。
これでは興秋が不満に思うのも無理はなく、暫くして興秋は出奔をした後に大坂の役で大坂城に入り、戦後に捕らわれて父の手で自害をさせられたと伝えられています。

その隣にあるのが3代の細川光尚の墓で、忠利の嫡男です。
森鴎外の「阿部一族」で有名な騒動を鎮圧したのがこの光尚ですが、小説と史実が微妙に違うのはよくある話です。
殉死をせずに藩内で辛い立場となったと言われている阿部弥市右衛門は実際には忠利が没した同日に腹を切っており、なぜ阿部一族が叛乱を起こしたかはよく分かっていません。

しかし理由はどうあれ一族の叛乱のきっかけとなった阿部弥市右衛門の墓が、忠利の墓の側にあるのはちょっと意味深ではあります。
忠利と光尚の墓はやはり他の藩主とは別格で覆屋がされて区画も別な場所にあり、もちろん他の殉死者の墓もありますので特別視をされているわけではありませんが、それでも場合によっては墓を暴かれて晒されてもおかしくはありませんので、何か小説や伝えられている史実とは違った事情でもあったのかもしれません。

江戸期の当主は例によって駆け足です。
4代の綱利は光尚の嫡男で、しかし子がいずれも早世をしたために弟で新田藩を興した利重の次男である宣紀を養子に迎えて5代とします。
その跡は四男の宗孝が継いで6代となりますが江戸城中で紋所を見誤った人違いにより板倉勝該に殺害をされてしまい、弟の重賢が末期養子で7代となりました。
この重賢が名君で多額の借金を抱えていた藩財政を立て直し、肥後の鳳凰と賞されたとのことです。
8代は重賢の子の治年ですが子に先立たれたことで宇土藩から斉滋を迎えたとは先に書いたとおりで、そのため藤孝や忠興の血脈は受け継がれましたが、立孝はガラシャの子ではないためにその血は断たれることとなりました。
また藤孝と忠興を除けば妙解寺跡には8代まで、泰勝寺跡には9代以降が葬られているのですが、なぜか11代の斉護だけは妙解寺跡に墓がありました。
写真は上段左から綱利、宣紀、宗孝、重賢、治年、斉護ですが、宣紀と重賢、そして斉護の墓がちょっと変わったものとなっています。

熊本の最後は千葉城跡です。
NHK熊本放送局のあたりがそうらしいのですが、碑があるだけで城らしき遺構は特に見当たりませんでした。
肥前千葉氏の一族でも流れ着いての千葉城かとも思ったのですが、築城をしたのは菊池一族の出田秀信とのことですので関係はないようです。
鹿子木親員の築いた隈本城跡にも行ってみたかったのですが場所がよく分からず、さしたる遺構もなさげでしたのであっさりと諦めました。


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2012-03-14 01:00:49 | 日本史

 

熊本の初日は人吉に行く予定でしたが、熊本城を訪れる翌日が雨模様の予報だったことで順番を入れ替えることにしました。
雨の城散策ほど悲惨なことはないとは四国巡りのときの松山城で経験をしましたので、快晴での熊本城のチョイスは当然と言えば当然のことです。
櫓などがかなりありましたし城内での徒歩も相当な歩数でしたので、翌日は結果的に雨こそ降りませんでしたが不順な天候だったことを考えれば、まずまず正解ではありました。

特に狙ったわけでもありませんが、熊本駅から自転車で素直に熊本城に向かったところ加藤清正の像に出くわしました。
これがあるということは正面に出たことになりますので、まずは幸先のよいスタートです。
築城の名手だった清正が築いた熊本城をしっかりと見てくれと、そんな声が聞こえたとはもちろん戯言です。

城の南側、馬具櫓と平御櫓を繋ぐ長塀は国の重要文化財で、かなり地味ですが当時の遺構の一つです。
全長は242メートルもあり現存の城郭では最長で、これがそのまま残されていることは素晴らしいの一語に尽きますし、是非とも大切に後世に残したいものです。
城内に入ってしまうとなかなか気がつきませんので、まずは外側からじっくりと眺めることをお奨めします。

城内に向かうところで馬具櫓が見えてくるはずでしたが、コンクリートで再建をされたその馬具櫓は復元工事のために2008年に解体をされてしまったようです。
復元ですから今度は木造で再建をしてくれるものと勝手に期待をしていますが、その工事が完了をするのは2013年とのことです。
合わせて続塀も復元をされるらしいので、数年後に訪れるときが楽しみでなりません。

城内の有料エリアに入るためには3箇所の入口がありますが、その一つである櫨方門です。
料金所になっていますし貼り紙がベタベタと貼ってありますので再建をされたものだとは思いますが、どうしても興奮は抑えきれません。
日本100名城スタンプと記念スタンプをしっかりと押したことで後顧の憂いはなくなりましたので、勇んで城内に突入です。

櫨方門を抜けてすぐ左手に見えるのが、飯田丸五階櫓です。
城の南西方面を守るための櫓で、重臣の飯田覚兵衛が管理をしていたことで名前がつけられたとのことです。
2005年に木造で再建をされましたので自分としては初めて見るのですが、いきなりこれですから落ち着けという方が無理でしょう。
城内に入ったばかりなのにアングルを求めて出たり入ったりを繰り返して、料金所のお姉さんに笑われてしまいました。

そうなれば一気に天守閣を攻めたいところですが、そこは美味しいものは最後に置いておく主義ですのでじっと我慢の子です。
長塀に沿って東に歩いて行けば、次に見えたのは平御櫓でした。
おそらくは連なる須戸口門を守るための櫓、そんな役割を担っていたものと思われます。

その須戸口門です。
門と言うよりは単なる入口にしか見えませんが、往時はきちんとした櫓門のようなものがあったのでしょう。
ここも料金所になっていますが半券を持っていれば出入りは自由ですので、先の平御櫓は外に出てから撮影をしたものとなります。

須戸口門から北に向かうと見えてくるのが東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓で、いずれも当時の遺構で国の重要文化財に指定をされています。
誰が名付けたのか方角と長さがそのまんまの命名で、東十八間櫓と五間櫓を北十八間櫓がL字型に連ねる作りとなっています。
城の北東を守る役割で築かれた櫓だと思われますが、熊本城らしい反り立った石垣の上に建っていますので攻めるのは容易ではないでしょう。
写真は左から五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓です。

こちらは五間櫓の脇にある未開門と、その門を抜けて西側に見える平櫓です。
いずれも国の重要文化財で、もちろん当時の遺構であることは言うまでもありません。
城の北東は鬼門にあたりますので普段は閉ざされており、よって名は体を表すとばかりの未開門です。

やや写真が小さくて何ですが、繋がりを見せたかったので敢えて並べてみました。
左から源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓で、これらも当時の遺構で国の重要文化財です。
源之進櫓だけが離れていますが他の櫓は連なっており、櫓というよりは長屋といった感じがあります。
もちろん狭間などがありますので櫓としての機能を有していますが、どちらかと言えば倉庫といった趣きがあるのは個人的な感想です。
ここだけではなく全ての写真がそうなのですが、クリックをしていただければ拡大をしますので試してみてください。

そしていよいよ天守閣です。
鉄筋コンクリートで再建をされたものですが、それでもやはり城と言えば天守閣は外せません。
大天守と小天守が連なる連結式望楼型で、小天守だけでもちょっとした城の天守閣に負けないぐらいの偉容を誇っています。

大天守は外観3層内部6階地下1階で、小天守は外観2層内部4階地下1階となっています。
大天守が先に作られて後に小天守は増築のような形でやや西側にずれて建てられており、再建ながらもその作りの違いを忠実に再現をしているらしいのですが、素人目にはちょっと小天守の石垣の方が一つ一つの石が小さいかな、ぐらいしか分かりませんでした。
内部は鎧などが展示をされている博物館のようになっていますが、復元のための一口城主の札が鬱陶しいぐらいに並んでいるのはさすがにやりすぎでしょう。
自分の名前が掲げられるのはもちろん嬉しいでしょうが、誰もあそこまでは望んでいないはずです。

木造の模型も展示をされており、これはあまりに素敵すぎます。
値段が許せばA4サイズぐらいのものを発売して欲しいぐらいで、結構なニーズがあるような気がします。
最近は城のプラモデルなどもあるようですがプラスチックでは味気なく、しかもここまで精緻であれば作り上げるには根気どころの騒ぎではないでしょうから、怠け者のために木造での完成品を製造、販売してくれるメーカーを急募したいぐらいの魅力に溢れていました。

天守閣の脇には普段の生活の場である、本丸御殿が2008年に再建をされています。
居間や台所があり、予約をすれば3000円で当時の料理を食べられるとのことでしたが、知ったのは当日ですので後の祭りです。
それにしても語弊があるかもしれませんが迷惑を顧みず走り回る韓国人の子どもが目障りで、それを叱らない親にも腹が立ちます。
子どもなどは元気に飛び跳ねるのが普通ではあるのですが、こういったところでやらかせば叱るのが日本人です。
もちろんどんな場合にも例外はありますが、どこの観光地でも騒がしいのは中国人と韓国人で、文化の違いと言ってしまえばそれまでですが、特に九州は地理的に近いこともあって中韓の観光客が多く地元としては潤っているという側面もありますので、係の人と話したところでは何とも複雑な表情を見せていました。

宇土櫓は小西行長の居城であった宇土城の天守閣を移設したものとも言われていたようですが、発掘調査の結果では築城当初からあったことが裏付けられたそうです。
それでも天守閣と呼んでもいいぐらいの立派さですし、熊本城で現存をしている多層の建築物としては唯一のものとなります。
もちろん国の重要文化財ですし、歴史的な価値という意味からすれば熊本城では一番の存在だと思うのですが、残念なことに訪れる人はあまり多くはありませんでした。

数寄屋丸はその名の通り、能や茶会が開かれた建物です。
1989年に再建をされたものですが、天守閣の脇でひっそりと息をしているような感じがあります。
中には入れるのかと思って覗いてみたのですが、残念ながら公開はされていないようです。

その数寄屋丸の側の石段を下りていけば頬当門に至りますが、こちらも須戸口門と同様に単なる入口でしかありません。
きっと同じく往時には櫓門があったに違いないとは勝手な想像ですが、そうでなくともかなりの重厚な作りとなっています。
時間が来ればおそらくは門は閉じられるので見てみたい気がしたのですが、その時刻になったときにはすっかりと忘れていた自分がいます。

頬当門を抜ければ西出丸に出ますが、その北西にあるのが戌亥櫓です。
2003年に復元をされたもので、木造二重三階の隅櫓となります。
天守閣から北西を望めば宇土櫓と戌亥櫓が連なって見えますので壮観ですし、城の守りとしても重要な役割を担っていたのでしょう。

西出丸から外への出入り口となっているのが西大手門と南大手門で、2002年に再建をされました。
当然のように木造での復元ですし、入れるものなら内部に入ってみたいです。
これだけのものであれば姫路城のようにぐるっと回れるようにもできるのではないかとも思うのですが、保全などの問題もあってなかなか難しいのかもしれません。

西出丸の南西にあるのが未申櫓で、こちらもその名のとおりに城の南西を守るための櫓です。
戌亥櫓と同じく2003年の復元で、同時期に一気に工事をしたのでしょう。
やはり木造というところが喜ばしく、嬉しくもあり、前回に訪れたときには何もなかったところがこの変貌ぶりですので、また10年後が楽しみでなりません。

西大手門のはす向かいにあるのが元太鼓櫓で、こちらも2003年に木造で復元をされたものです。
それにしても西出丸だけで3箇所も隅櫓があり、また城門も堅固にできていますので、清正が防備に絶対の自信を持っていたのも頷けます。
熊本城といえば武者返しと呼ばれる石垣の反りが有名ですが、こういった櫓群があってこその鉄壁の防御です。

最後は監物櫓です。
城の北方のやや離れたところにありますが、当時の遺構で国の文化財に指定をされています。
当時は長岡図書の屋敷内にあったことから長岡図書預り櫓と呼ばれていましたが、明治になってから隣の長岡監物の屋敷と間違われたことで監物櫓と呼ばれるようになりました。
嘘のような話ですが、熊本城の公式サイトでの説明ですので信じるしかありません。

ここまで建造物が多いと何がなんだか分からなくなりそうですので、ご参考までに城内の地図を載せておきます。
これは自分自身のためでもありますし、今後に訪れる方への予備知識にもなるかと思います。
こういった地図があったからこそ漏れずに全ての門や櫓などを見て回ることができたわけで、いい時代になったものです。
ほんの10年ぐらい前までは観光ガイドで必死に探して、しかし現地に行ってみれば場所がよく分からずなんてことが少なくはありませんでしたが、今やインターネットでの事前調査とカーナビがあれば余程のことがなければ見逃すことはありません。
その余程のことを今回の旅でも何度かやらかしてしまうのが自分だったりもするのですが、それも次の旅へのきっかけだと考えていきたいと思います。


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