オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

バキューン種子島 史跡巡り篇 種子島の巻

2012-06-02 03:48:39 | 日本史

 

これまでの苦労が何だったんだと思えるような快晴に恵まれた種子島はしかしレンタサイクルが出払っていたために、仕方なく自らの足が頼りの史跡巡りです。
時間の許す限り海岸線を走り抜こうと思っていただけに肩すかしではありましたが、歩いたことで久しぶりに土地の方と多く会話ができたのは意外な収穫でした。
暑さにぶっ倒れそうにもなりましたし逆光にも悩まされましたが、ちょっとだけ原点に帰ったような気がします。

まず最初に向かったのは種子島総合開発センターで、俗称は鉄砲館です。
かなりユニークな形をしていますが、どうやら火縄銃をもたらした南蛮船をイメージしているとのことです。
それなりの数の火縄銃が展示をされており、それが故の鉄砲館なのでしょう。
入口に撮影用の模造銃らしきものがありましたがかなり貧弱なもので、もっとずっしりとした重みのある本物を触ってみたかったのが本音です。

鉄砲館の裏手がトップの写真のとおりに種子島氏の居城だった赤尾木城跡で、その脇に種子島時堯像がありました。
種子島に火縄銃がもたらされたときの当主だった時堯らしく、左手にしっかりとその火縄銃を持っています。
もっとも父の恵時はまだ壮年で健在であり、火縄銃の普及に尽力をしたのは時堯よりもむしろ恵時との話もあるようです。

次に向かったのは月窓亭で、市の指定文化財です。
江戸期の種子島氏の当主は鹿児島城下に屋敷を構えて住していましたが、明治維新により行き場を失った守時を旧家臣が迎え入れたのがこの月窓亭でした。
元は家臣の羽生氏の屋敷でしたが羽生道則が東京に住居を移したことで種子島氏当主が在することとなり、今は赤尾木城文化伝承館として一般に公開をされています。
どこか自分の母方の祖父母の家に近い感じがあり、何とも懐かしい感じがありました。

この月窓亭の近くにあったのが石敢当で、ここだけではなく何カ所かで見かけました。
中国から伝わった魔除けの石塔で、沖縄でも見たような気がします。
道が突き当たる場所は邪気や殺気を受ける悪い場所と考えられており、真っ直ぐにしか進めない鬼が道の突き当たりにある屋敷に突入をすることがないよう魔を除くために置かれたものとは説明板の受け売りですが、言われてみれば確かにT字路の付け根にありました。

ぐるっと回って赤尾木城跡に向かう途中にあったのが内城跡で、種子島氏が赤尾木城に移る前の居城です。
時堯もここを本拠としていましたし、赤尾木城に移ったのは孫の忠時の代になってからです。
今は榕城中学校になっており城跡らしき痕跡は見当たらず、またさすがに中に入り込むわけにもいきませんので早々に撤退をしました。

そしてこちらが赤尾木城跡で、石垣が残っていますので城の雰囲気があります。
ただやはり城跡が榕城小学校となっていますので周りから眺めるのが精一杯で、しかしそれも仕方がないでしょう。
ちなみに内城からこの赤尾木城に居城を移したのですが、先の場所から100メートルも離れていませんので、この小移動にどういった意図があったかはよく分かりません。

本源寺は種子島氏の菩提寺で、時堯の曾祖父にあたる時氏が建立をしました。
種子島を律宗から法華宗に改宗をしたのもこの時氏で、かつては広大な寺領を誇っていたそうです。
ただ例によって明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、その後に再興をされて現在に至っています。

栖林神社は時堯の玄孫の久基を祭神としています。
久基は琉球から甘藷、つまりはさつまいもを移入して栽培普及をさせたことから「からいもの神様」と呼ばれているそうです。
この甘藷も含めて殖産興業に力を入れた久基の遺徳を偲んで建立をされたのが、この栖林神社とのことでした。

栖林神社の脇にあるのが御拝塔墓地で、種子島氏の墓所となります。
そろそろ代数を書かないと説明が苦しくなってきましたが、本源寺を建立した11代の時氏が種子島氏の二番目の墓所としたのがこの御拝塔墓地です。
ただ不思議なことにその時氏の墓は見当たらず、12代の忠時から28代の時望までの当主とその室、そして一族の墓が整然と並んでいました。

江戸期に入ってからの当主はともかくとして、戦国期の当主も含めて整然と並んでいることからして改葬をされたか、あるいは供養塔のようなものではないかと思われます。
12代の忠時から16代の久時までの墓は右手奥に並んでおり、その中央が14代の時堯とはあまりに出来すぎているような気がします。
何にせよ戒名が読み取れないぐらいに劣化をしている墓石も少なくはなかったので、こうやって説明の杭が立っているのには助けられました。

12代の忠時は時氏の子で、13代の恵時はその子にあたります。
恵時は悪政を敷いたとも言われており、それを憂いた弟の時述が縁戚の禰寝氏と謀って一時は追い落としましたが、恵時は子である14代の時堯とともに反攻して和睦の際に譲り渡した屋久島を奪い返すという戦国乱世らしい戦いが繰り広げられました。
ちなみに種子島が他氏に侵されたのは、このときだけだそうです。
時堯の嫡男は15代の時次でしたが7歳で早世をしたため、次男の久時が16代を継ぎました。
この久時は武勇に秀でて朝鮮の役でも活躍をして、精強を誇った島津氏の中核を担ったのが久時の鉄砲隊との評価もされています。
17代の忠時は久時の子ですが12代と同名で、しかもその子が父と同名ですから整理をしないとかなりこんがらがります。
父の久時が没した後に生まれたことから家督を継いだものの島津氏の介入を許してしまい、この後は徐々に種子島氏としての独立性が失われていきました。
写真は上段左から忠時、恵時、時堯、時次、久時、忠時です。

18代の久時は母が島津忠恒の娘であったことから叔父である光久の加冠で元服をしており、以降は当主の通字が「時」から「久」に変わります。
その後は19代の久基、20代の久達、21代の久芳、22代の久照、23代の久道と続きましたが、しかし久道に継ぐ子がないままに37歳で没したために種子島氏は存続の危機に立たされてしまい、島津斉宣の次女である久道の正室の松寿院が島津氏から養子を迎えるまでの15年間を女当主として種子島氏を支えました。
ただこう聞くと美談のようにも思えますが種子島氏には家督を継ぐに足る一門、門葉はいたはずですので、どこか島津氏のごり押しのように思えなくもありません。
そして24代を継いだのは島津斉宣の子であり松寿院の異母弟にあたる久珍で、これで種子島氏の血脈は断たれたことになります。
25代は久珍の子の久尚が継いで明治を迎え、久尚の嫡男の時丸が26代となるも夭折をしたために次男の守時が27代となり、そして28代の時望と繋がります。
明治に入ってから通字が「時」に戻ったのが意味深で、これまでの当主も初名は久基が義時、久達が時春、久芳が包時、久照が庸時、久道が輔時、久珍が時珍と名乗っていただけに、島津氏の圧制下にあっても種子島氏の伝統は脈々と息づいていたと考えれば嬉しくもなってきます。
写真は上段左から久時、久基、久達、久芳、久照、久道、松寿院、久珍、久尚、時丸、守時、時望です。

一門としては13代の恵時の子で14代の時堯の弟の時式、時堯の子で15代の時次、16代の久時の弟の隆勝、19代の久基の子で20代の久達の兄の憲時、久達の子で21代の久芳の弟の始時、関係は不明ながらも没年が明治なのでおそらくは久尚に近い筋の時享の墓がありました。
その他にも当主の室の墓がありましたが、申し訳ないながらも興味外ですので割愛をします。
写真は左から時式、隆勝、憲時、始時、時享です。

左手前には初代の信基、そして9代の時長と10代の幡時の合同墓がありました。
さすがにこれは供養塔のようなものと思われ、開基である11代の時氏が家祖の信基と父である幡時、叔父の時長を弔ったものだと想像をします。
今さらですが種子島氏は平清盛の後裔を称しており、信基は清盛の孫で北条時政の養子になったとしています。
家紋が三つ鱗であるのもそれが理由なのでしょうが、しかし実際には北条氏の支流である名越氏の代官であった肥後氏がその出自であるようで、そうなれば血筋としては藤原氏となりますので平氏とも北条氏とも関係はなくなりますが、しかしこの程度の仮冒はさして珍しくもありません。
写真は左が信基、右が時長と幡時です。

八板金兵衛は刀鍛冶で、時堯の命で火縄銃の複製を手がけます。
その製造法を学ぶために娘をポルトガル人に嫁がせたとはあまりに有名な話で、どこか眉唾ですがそれを言っても詮無きことでしょう。
どちらが金兵衛かが分からなかったのですが、おそらくは左ではないかと思います。

先の御拝塔墓地は種子島氏の二番目の墓所でしたが、こちらが最初の墓地である御坊墓地です。
元は慈遠寺の敷地内にありましたが今は廃寺となっており、当主の墓を家臣20家の墓が囲んでいるとは例によって説明板の受け売りです。
かなり荒廃をしたのか墓石の刻字が薄れてどれが誰のものかが分からなくなったために、松寿院が整理をさせたとのことです。

初代から4代までは合祀をされており、初代の信基、2代の信式、3代の信真、4代の真時の墓がこれにあたります。
参り墓との説明がありましたが、やはり供養塔のようなものなのでしょう。
もし種子島氏の当主が空白の15年間のときのことであれば、松寿院には一族の求心力の拠り所にしたいとの思いがあったのかもしれません。

左の写真の右側が5代の時基、左側が6代の時充、右の写真が7代の頼時の墓です。
こちらはかすかに刻字が見て取れましたので、あるいは本墓かもしれません。
しかしこうなると8代の清時と11代の時氏の墓がどこにあるかが分からないのが惜しすぎで、初代から28代までのうちの欠けた2代が心残りです。

そしてここにも14代の時堯、16代の久時の墓があります。
火縄銃伝来の時堯と武勇名高い久時は、当時でも特別扱いをされたのでしょう。
写真は左から時堯、久時、そして19代の久基の子の時純です。

予定には無かったのですが近くにあるよとの案内板に誘われて足を運んだのが南蛮鉄砲撃ち始めの地で、しかしただの空き地でしかありませんでした。
初めて火縄銃の試し撃ちがされたのがこの場所らしいのですが、説明板があってもふーんといった感じです。
挙げ句の果てには売地の看板が立っている始末で、そうなると私有地ですから数年後には家が建っていてもおかしくはないのかなと、何とも微妙な感じがあります。

種子島の最後は若狭の墓です。
八板金兵衛の娘でポルトガル人に嫁いでシンガポールまでは行ったものの、異国の地での生活が合わずに日本に戻ってきたとのことです。
このあたりの話は諸説紛々で何を信じていいかは分かりませんが、全くの伝説ということもないのでしょう。
ただ刀鍛冶、転じて鉄砲鍛冶の娘が「わかさ姫」と姫様扱いとなっているのはどうかとも思いますし、どこぞのホテルの前にあった不細工な人形は勘弁をしてもらいたかったです。


【2012年5月 鹿児島の旅】
バキューン種子島
バキューン種子島 旅程篇
バキューン種子島 旅情篇
バキューン種子島 史跡巡り篇 鹿児島の巻
バキューン種子島 グルメ篇
バキューン種子島 スイーツ篇
バキューン種子島 おみやげ篇

 

コメント (6)    この記事についてブログを書く
« 山は動かず | トップ | 西村監督もご満悦 »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いつも旅紀行楽しみです。 (米作)
2012-06-02 08:56:19
火縄銃を造る時に一番苦労したのが銃身の筒元を塞ぐ時のネジ止めする所だと聴いた記憶があります。粗悪品は、そこが暴発したとの事、そのあたりを知る為に娘を嫁がせたのかしら。(娘を嫁がせた件は知りませんでした)
鉄砲S (マツドマリンズ)
2012-06-02 16:17:38
時堯の子は朝鮮の役に参加していたのですね。ゲームでの種子島氏の鉄砲能力の高さは伝来だけでなく、実践での強さも反映されていたのですね。今回も勉強になりました。
墓マイラー (雅)
2012-06-02 18:19:22
毎回、墓の紹介記事を見るたびに、日本史マニアというものはその墓が誰の墓であるのか容易に見分けることができるのか、すごいなぁ、といつも感心してました。
が、その認識は間違いで、日本史好きだからといって誰にでもできることではない特殊技能であることを先日歴女さんに教わりました。
もし墓マニア日本選手権が開催されればオリオンさんは千葉県代表の最有力候補ではないかしら、とのことでした(驚&汗)
お返事 (オリオン)
2012-06-02 22:52:54
>米作さん
その技法を学ぶために娘を、ということのようです。
伝説の域を出ませんし、苦労したとの例えとしての話なのでしょうが、舶来ものを自らのものとしてしまう日本人らしさがあります。

>マツドマリンズさん
そうみたいですね。
島津氏の鉄砲部隊は信長の野望でも手がつけられませんが、史実でも朝鮮の役や関ヶ原の役で実証をされていますので、その中核として種子島氏があったのでしょう。

>雅さん
いやいや、無理ですって(笑)
その場で分かるわけではなく、戒名が分かるように写真を撮って、帰ってきてから調べてようやくといった感じです。
もうアップアップ・・・
素晴らしい! (AKI)
2012-06-03 11:25:12
取材内容も写真も100点満点です。素晴らしい!もう言葉がありません!
お返事 (オリオン)
2012-06-03 21:45:11
素直にお誉めの言葉を頂戴いたします(笑)