
鹿児島城を後にして次に向かったのは福昌寺跡で、明治に入ってからの廃仏毀釈で破壊をされるまでは島津氏の菩提寺として1500人を越える僧侶を抱えていたとのことです。
しかし今は見る影もなく跡地には高校が建てられており、残されているのは島津氏の墓地のみです。
九州に覇を唱えた戦国大名の名残としてはあまりに悲しく、それでもきちんと整備をされているだけでも感謝をしなければならないのかもしれません。
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墓地は三区画に分かれていますが、本宗家の当主が葬られているのは中央と向かって左の門をくぐった区画になります。
そのうち戦国期の当主である島津貴久や義久、そして義弘の墓があるのは左手、地元の方の言葉を借りれば黒門が入口になっている一番に狭い区画です。
中央の一番に広い区画にどうしても目がいってしまいますが、看板での案内がありますのでおそらく見逃すことはないでしょう。
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まずは伊作家・相州家から本宗家に養子に入った、15代の貴久です。
短命、そして文弱化していた本宗家を立て直した中興の祖であり、いろは歌で有名な島津忠良の嫡男となります。
島津四兄弟の父でもあり、戦国島津氏の基礎を築いた名将と言ってもよいでしょう。
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その貴久の跡を継いだのが、16代の義久です。
貴久の嫡男であり、義弘と歳久、そして家久の長兄にあたります。
薩摩・大隅・日向の三州をしっかりと掌握し、一時は九州を席巻するほどの猛威を振るって島津氏の最大版図を手にしました。
豊臣秀吉の九州征伐で隠居を余儀なくされますが、その後も79歳の長命を保ち家中に影響力を誇ったと言われています。
娘を娶せた甥の忠恒も義久が健在の間は不仲であっても離縁ができず、義久が死してようやくに側室を持ったそうです。
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義久が隠居をした跡は次弟の義弘が継ぎ17代となりますが、国元での当主は義久だと認識をされていたようです。
朝鮮の役での活躍や関ヶ原での敵中突破など武名の高い義弘ですが、その関ヶ原では兵力が足りずに義久に懇願をする書状が残されているとのことです。
学術的には義久から義弘、忠恒ではなく、義久から忠恒と継がれていったとも言われているようですが、一般的には義弘を17代として数えても不都合はないでしょう。
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この黒門の区画には義弘の子である久保と、弟の歳久の墓もあります。
久保は義久の娘を娶って早くから後継者と目されていましたが、朝鮮の役で21歳の若さで病死をしてしまいました。
また当主、あるいは当主に準ずる一門が葬られた墓所に歳久の墓があるのには違和感がありますが、これもその最期への罪悪感に近い思いがあったからかもしれません。
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初代の忠久から5代の貞久までは混乱なく家督継承をしてきましたが、貞久の次の代で総州家と奥州家に分裂をしてしまいます。
庶長子の頼久は川上氏の初代となり、次男の宗久が早世をしたために、貞久は三男の師久に薩摩守護職を、四男の氏久に大隅守護職を譲ります。
家督は総州家の師久が継いで6代、その子の伊久が7代となりますが、その後に奥州家が家督を奪ったために氏久も6代、その子の元久も7代とされており、元久の弟の久豊が8代でようやくに両家を統一する形になったのは南北朝の混乱も手伝ってのことでした。
左の写真の左が師久で右が宗久、真ん中の写真の中央が氏久、そして右の写真の一番に背の高いのが元久でその右が久豊となります。
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久豊の子が9代の忠国で、父が伊久の孫の久世を討ったのに続いて、その子の久林を自害に追い込み総州家を断絶させることで本宗家を盤石なものとしました。
その忠国には友久、立久、久逸、勝久と子がいましたが、庶長子の友久は相州家の祖となり、三男の久逸は伊作家を継ぎ、四男の勝久は桂氏を興します。
よって10代は立久となりましたが、その後に本宗家を襲う貴久の系譜はこの立久の代に萌芽があったことになります。
そして11代は立久の子の忠昌が継ぎますが文弱化の兆しが見え始め、その子の12代の忠治と13代の忠隆が短命だったために三男の勝久が14代となり、しかしさらに混乱を極めて忠良、貴久親子の登場によってようやくに収拾がついたのは先に述べたとおりです。
写真は上段左から忠国、立久、忠昌、忠治、忠隆、勝久となりますが、二基ある忠国と立久、そして忠昌はそれぞれ右側になります。
それが一般的かどうかは分かりませんが、この島津氏の墓所では常に右側が当主の墓となっており、説明もそうなっていましたし戒名の確認もしましたので間違いはありません。
勝久の後は戦国期の貴久、義久、義弘と続き、18代は義弘の三男の忠恒です。
忠恒は薩摩藩の初代藩主であり、徳川家康から偏諱を受けて家久と改名をしますが、島津四兄弟の末弟の家久と同名なためにここでは敢えて忠恒と書いています。
かなり酷薄な性格とも伝えられており、伊集院忠棟と子の忠真の謀殺や叔父であり義父でもある義久の重臣であった平田増宗の暗殺にも関与をしており、自らの血脈を守るためにライバルだった義久の外孫にあたる島津久信の血流を徹底的に潰したとも言われています。
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江戸期に入ると一気に興味が薄れますので、ここからは駆け足になります。
19代の光久は忠恒の子で薩摩藩2代藩主であり、その子の綱久が父に先立ったために綱久の子で光久の孫にあたる綱貴が20代となります。
このあたりは秩序が重んじられるようになった江戸期だけに、能力よりも嫡男、嫡孫が無難に跡を継いでいったのでしょう。
21代の吉貴、22代の継豊と順調に系譜は続いていきますが、継豊の子である23代の宗信と24代の重年が20代の若さで早世をしたために、重年の子であり継豊の孫にあたる25代の重豪の後見をすることとなったものの、その重豪が蘭癖大名として長寿を保ったことで持ち直しました。
この重豪に可愛がられたのが曾孫の斉彬ですが、その前に子の26代の斉宣と孫の27代の斉興を挟むことになります。
写真は上段左から光久、綱久、綱貴、吉貴、継豊、宗信、重年、重豪、斉宣です。
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幕末に近づいてきましたので、少し歩みを緩めることにします。
こちらは27代の斉興と、その側室である由羅の墓です。
斉興は祖父の重豪が作った膨大な借金を返済するために調所広郷を重用して藩財政の立て直しを図りますが、その重豪が可愛がり、また曾祖父と同じく蘭学に興味を示して浪費をするのではないかと心配をした嫡男の斉彬を廃して五男の久光を立てようとしたことで、有名な由羅騒動が起きることとなりました。
この由羅騒動により結果的に斉彬が28代を継ぐこととなりますが、その由羅が福昌寺に葬られているのは後に子である久光が藩政を握ったからでしょう。
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その28代の斉彬の墓ですが、なぜか背後にもう一基の墓がありました。
特に説明もありませんでしたし、どういった経緯で二基の墓があるのかはよく分かりません。
それはさておき墓地の外れにあり幕末の名君としては扱いが小さいような感じがするのは気のせいかもしれませんが、いろいろと複雑な事情もあるのでしょう。
西郷隆盛らを引き立てたことで有名ですが思想としては公武合体派とも言われており、その急死後は弟の久光がその思想の下で藩政を牛耳っていくことになります。
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斉彬の跡は久光の子であり斉彬の甥にあたる忠義が29代を継ぎますが、実権は父である久光が握ることとなります。
この福昌寺でも墓地の中央に鎮座をしているのが久光の墓で、久光が興した玉里家の2代目である忠済の墓も右の門をくぐった区画にあります。
久光は兄の斉彬の路線を引き継いで中央に進出をするものの時代の流れに翻弄をされ、西郷や大久保らに引きずられる形で維新を迎えることになりますが、その結末に相当な不満を持っていたようで、明治政府も久光にはかなりの気遣いを見せたとのことです。
肝心の29代の忠義の墓もこの福昌寺跡にあるはずなのですが見つからず、と言うよりは見つからないことに気がつかないままに帰ってきてしまいました。
総州家の7代の伊久の墓も見当たりませんでしたし、これがこの福昌寺跡での心残りであり、また次への課題となります。
そしてここまで整然と並んでいるのは他の場所から改葬をされたものがあることも理由でしょうから、そういった元の場所にもいつかは訪れてみたいものです。
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福昌寺跡の塀の外ではありますが、その脇に長寿院盛淳と調所広郷の墓もありました。
長寿院盛淳は義弘の重臣であり、関ヶ原の敵中突破の際に義弘の影武者として討ち死にをしています。
子孫が阿多氏を名乗ったこともあり、その墓石にも阿多の字が見えます。
また調所広郷は笑左衛門の名の方が有名だと思われますが、斉興の下で膨大な借金の返済に奔走をします。
しかし密貿易などに手を染めたこともあり最期は責を負って自害をしたとも伝えられていますので、功労者という意味合いで斉興の近くに葬られたのでしょう。
【2012年2月 南九州、沖縄の旅】
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トップの写真の背景の木々がセピアがかって見えるのと、まったく人の気配が感じられないところが、もの悲しさを増幅させてます。
全国的な廃仏毀釈も場所によって温度差はあったようですが、この薩摩ではかなり激しいものがあったようです。
国学に対する考え方の違い、とはWEBで拾った解説ですが、100年以上が経った今に理解をしようとすること自体に無理があるのかもしれません。
大名の菩提寺ですらこれですから、どれだけの寺が破壊をされたのか・・・
島津義久、義弘、忠恒の関係は微妙だったようで、義久と忠恒の不仲は割と有名と言いますか史実に近いらしいですが、しかし義久vs義弘、忠恒といったものでもなかったようです。
義弘が不出来な息子として忠恒にあたっていたなんて話もあるようですし、それこそ家康ではないですが「久保が生きていれば・・・」なんて話もあったような。
桐野作人の島津義久も秀作ですので、機会があれば目を通されてはと。
ちなみに今回は天草には行きませんでしたが、天草名物は食べましたのでグルメ篇をお楽しみに(笑)