鹿児島城跡と福昌寺跡でかなりの時間を費やしたのですが、それでもまだ昼過ぎだったのはやはり自転車とカーナビのおかげです。
前回に鹿児島を訪れたときには観光地図を片手に路面電車がもっぱらの足だったのですが、ちょっと道に迷うともうどうにもなりません。
またバスの時間が合わずに磯庭園まで歩いたことも懐かしい思い出ではあるのですが、あの長いトンネルを歩いて抜けるのはもう勘弁です。
そんなこんなで次に向かったのは照国神社で、計画ではここが鹿児島で最後の目的地でした。
この照国神社の祭神は島津斉彬で、かなりの規模を誇ります。
西南の役や第二次世界大戦の戦災などで何回か焼失をしましたが、戦後に次々と再建をされるのですから歴史は浅くとも由緒があるのでしょう。
天皇陛下のご快癒を願う記帳が行われており、微力ながらも名前を書かせていただきました。
脇には照国記念館があり、無料とのことで予定外に吸い込まれてしまいました。
さほど広くはない館内でしたが簡単な島津氏の歴史や幕末にかけての動向などがビデオで流されており、時間に余裕があったこともあっての30分強の小休止です。
何か物販でもしていれば触手を伸ばしたのですが、残念ながらそういったものはやってはいないようです。
島津斉彬が祭神ですので、当然のように境内にはその像があります。
好奇心に富んだ斉彬ですので西洋技術である写真撮影にも興味を示し、かなり痛んではいますがその姿が残されています。
この像が似ているかどうかには微妙さが漂いますが、しかし威厳のある顔立ちとなっています。
こちらも境内と言っていいのかどうかは分かりませんが、近くには斉彬の弟である久光の像がありました。
本宗家の当主でもないのに、とは思いましたが、維新前後の藩政の実権を握っていたのは国父とも呼ばれた久光ですので、本人は当然だと思っていることでしょう。
やや狡猾な印象を受けるのは先入観もあるのでしょうが、つり上がった目尻がその理由ではないかと思います。
こちらは久光の子で斉彬の跡を継いだ忠義の像ですが、父や叔父とは違って洋装と言いますか軍服姿となっています。
顔立ちも若々しいですし、維新直後ぐらいの姿を描いたものなのでしょう。
久光の像よりもさらに照国神社から離れているのはただの偶然なのでしょうが、主体性をあまり発揮できなかった立ち位置を表しているようにも思えます。
効率よく巡れたことで思ったよりも早くノルマを果たしてしまったので、やや遅めの昼食でパワーをつけた後は南洲神社に向かうこととしました。
スルーをした磯庭園にするかどうかを迷ったのですが、あまりに西郷どんを無視するのもなんだろうという理由による決断です。
その途中で見かけたのが坂本龍馬の像で、確かに日本で初めて新婚旅行で薩摩を訪れたとも言われていますが、さすがにここまでくれば食傷気味です。
以前に来たときの記憶とはやや違って高台にあったことで立ち漕ぎでようやくに到着をした南洲神社は、もちろん西郷隆盛の号である南洲からきています。
どうやら順番からすれば南洲墓地が最初にあり、そこに参る人が増えたことで隣に参拝所を設けて、その後に南洲神社に格上げをされたとのことです。
そうなればまず向かうは南洲墓地となるのですが、団体ツアー客がガイドの説明を聞いてたむろっていたので後回しにすることにしました。
その時間潰しというわけでもないのですが、南洲墓地の隣にある西郷南洲顕彰館を訪れました。
ジオラマなどで西郷隆盛の半生が描かれており、思っていたよりも本格的で意外な感じがしたのが正直なところです。
以前にも訪れたことがあるのですが、そのときの記憶は言葉は悪いですがちんけな印象があり、帰ってから調べてみたところ一昨年に全面リニューアルをしたとのことです。
暫くして戻ってみれば、南洲墓地は人っ子一人いない静寂の地となっていました。
観光客は嵐のように去っていったようで、明るいから何ともありませんでしたが、薄暗ければちょっと不気味だったかもしれません。
どうにも最近の史跡巡りは「城」「墓」「博物館」の三本立てになりつつありますが、第三者からすれば何が楽しくて墓を見るのだろうといったところでしょう。
それはさておき、西郷隆盛の墓です。
最初はトップの写真の鳥居のあたりに仮埋葬をされたものを、その後に現在の場所に改葬をされました。
いろいろと調べてみれば隆盛は父の名前で本名は隆永らしく、知人が届出を間違って隆盛としたことで以降は父と同じ名を名乗ったとのことです。
当時は西郷吉之助、と諱ではなく通称が一般的だったこともあり、弟の西郷信吾も本名は隆興のリュウコウを間違えてジュウドウ、従通となったとの話もありますが、何にせよ戦国期にもいくつもの諱を持つ武将が少なくはありませんでしたので、今ほどは重きを置かれていなかったのかもしれません。
桐野利秋は中村半次郎の名の方が通りがよく、かなりお洒落な人となりだったそうです。
そのためか歴女に絶大な人気があり、墓前にお供えをしてある花は西郷隆盛を凌ぐものがあります。
篠原国幹は桐野利秋と同じく陸軍少将でしたが、西南の役で迷わず西郷軍に身を投じて戦死をしてしまいました。
村田新八は軍人と言うよりは政治家としての能力に長けていたようで、勝海舟の評では大久保利通に次ぐとされています。
別府晋介は西郷隆盛の介錯をしたことで有名で、その後に追い腹を切りました。
辺見十郎太と西郷隆盛の四弟である西郷小兵衛は今で言えば親友の間柄で、熊本で戦死をした小兵衛の遺髪を持ち帰ったのは十郎太とのことです。
写真は上段左から桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介、逸見十郎太、西郷小兵衛となります。
西郷らの墓とは少し離れたところですが、西南の役が勃発をしたときの鹿児島県令の大山綱良の墓です。
南洲墓地は西郷軍の戦没者が葬られているところですので厳密にいえば場違いではあるのですが、西郷軍に資金や武器弾薬を提供するなどの協力者であったからなのでしょう。
戦後に罪を問われて斬首をされてしまいましたが、西郷隆盛の側で眠ることで成仏をしてくれているものと思います。
そんなこんなで門外漢だった幕末絡みでも気持ちが盛り上がってきたところで、冷や水を浴びせてくれたのがこの西郷隆盛の像です。
西郷洞窟の側の空き地に放置といった感じであったのですが、いかにも安物の張りぼては酷すぎます。
誰がどういった意図で作ったものかは知りませんが、これではいくら何でも逆効果でしょう。
肝心の西郷洞窟は、思っていたよりも小さいという印象です。
西郷隆盛が最後の五日間を過ごしたそうですが、奥行きもありませんし大柄だった隆盛が横になるのも苦しいぐらいの広さです。
その他に別府晋介や村田新八らも立て籠もったとのことですので、当時はもう少し規模が大きかったのかもしれません。
【2012年2月 南九州、沖縄の旅】
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