オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 南洲墓地の章

2012-03-13 01:07:41 | 日本史

 

鹿児島城跡と福昌寺跡でかなりの時間を費やしたのですが、それでもまだ昼過ぎだったのはやはり自転車とカーナビのおかげです。
前回に鹿児島を訪れたときには観光地図を片手に路面電車がもっぱらの足だったのですが、ちょっと道に迷うともうどうにもなりません。
またバスの時間が合わずに磯庭園まで歩いたことも懐かしい思い出ではあるのですが、あの長いトンネルを歩いて抜けるのはもう勘弁です。
そんなこんなで次に向かったのは照国神社で、計画ではここが鹿児島で最後の目的地でした。

この照国神社の祭神は島津斉彬で、かなりの規模を誇ります。
西南の役や第二次世界大戦の戦災などで何回か焼失をしましたが、戦後に次々と再建をされるのですから歴史は浅くとも由緒があるのでしょう。
天皇陛下のご快癒を願う記帳が行われており、微力ながらも名前を書かせていただきました。

脇には照国記念館があり、無料とのことで予定外に吸い込まれてしまいました。
さほど広くはない館内でしたが簡単な島津氏の歴史や幕末にかけての動向などがビデオで流されており、時間に余裕があったこともあっての30分強の小休止です。
何か物販でもしていれば触手を伸ばしたのですが、残念ながらそういったものはやってはいないようです。

島津斉彬が祭神ですので、当然のように境内にはその像があります。
好奇心に富んだ斉彬ですので西洋技術である写真撮影にも興味を示し、かなり痛んではいますがその姿が残されています。
この像が似ているかどうかには微妙さが漂いますが、しかし威厳のある顔立ちとなっています。

こちらも境内と言っていいのかどうかは分かりませんが、近くには斉彬の弟である久光の像がありました。
本宗家の当主でもないのに、とは思いましたが、維新前後の藩政の実権を握っていたのは国父とも呼ばれた久光ですので、本人は当然だと思っていることでしょう。
やや狡猾な印象を受けるのは先入観もあるのでしょうが、つり上がった目尻がその理由ではないかと思います。

こちらは久光の子で斉彬の跡を継いだ忠義の像ですが、父や叔父とは違って洋装と言いますか軍服姿となっています。
顔立ちも若々しいですし、維新直後ぐらいの姿を描いたものなのでしょう。
久光の像よりもさらに照国神社から離れているのはただの偶然なのでしょうが、主体性をあまり発揮できなかった立ち位置を表しているようにも思えます。

効率よく巡れたことで思ったよりも早くノルマを果たしてしまったので、やや遅めの昼食でパワーをつけた後は南洲神社に向かうこととしました。
スルーをした磯庭園にするかどうかを迷ったのですが、あまりに西郷どんを無視するのもなんだろうという理由による決断です。
その途中で見かけたのが坂本龍馬の像で、確かに日本で初めて新婚旅行で薩摩を訪れたとも言われていますが、さすがにここまでくれば食傷気味です。

以前に来たときの記憶とはやや違って高台にあったことで立ち漕ぎでようやくに到着をした南洲神社は、もちろん西郷隆盛の号である南洲からきています。
どうやら順番からすれば南洲墓地が最初にあり、そこに参る人が増えたことで隣に参拝所を設けて、その後に南洲神社に格上げをされたとのことです。
そうなればまず向かうは南洲墓地となるのですが、団体ツアー客がガイドの説明を聞いてたむろっていたので後回しにすることにしました。

その時間潰しというわけでもないのですが、南洲墓地の隣にある西郷南洲顕彰館を訪れました。
ジオラマなどで西郷隆盛の半生が描かれており、思っていたよりも本格的で意外な感じがしたのが正直なところです。
以前にも訪れたことがあるのですが、そのときの記憶は言葉は悪いですがちんけな印象があり、帰ってから調べてみたところ一昨年に全面リニューアルをしたとのことです。

暫くして戻ってみれば、南洲墓地は人っ子一人いない静寂の地となっていました。
観光客は嵐のように去っていったようで、明るいから何ともありませんでしたが、薄暗ければちょっと不気味だったかもしれません。
どうにも最近の史跡巡りは「城」「墓」「博物館」の三本立てになりつつありますが、第三者からすれば何が楽しくて墓を見るのだろうといったところでしょう。

それはさておき、西郷隆盛の墓です。
最初はトップの写真の鳥居のあたりに仮埋葬をされたものを、その後に現在の場所に改葬をされました。
いろいろと調べてみれば隆盛は父の名前で本名は隆永らしく、知人が届出を間違って隆盛としたことで以降は父と同じ名を名乗ったとのことです。
当時は西郷吉之助、と諱ではなく通称が一般的だったこともあり、弟の西郷信吾も本名は隆興のリュウコウを間違えてジュウドウ、従通となったとの話もありますが、何にせよ戦国期にもいくつもの諱を持つ武将が少なくはありませんでしたので、今ほどは重きを置かれていなかったのかもしれません。

桐野利秋は中村半次郎の名の方が通りがよく、かなりお洒落な人となりだったそうです。
そのためか歴女に絶大な人気があり、墓前にお供えをしてある花は西郷隆盛を凌ぐものがあります。
篠原国幹は桐野利秋と同じく陸軍少将でしたが、西南の役で迷わず西郷軍に身を投じて戦死をしてしまいました。
村田新八は軍人と言うよりは政治家としての能力に長けていたようで、勝海舟の評では大久保利通に次ぐとされています。
別府晋介は西郷隆盛の介錯をしたことで有名で、その後に追い腹を切りました。
辺見十郎太と西郷隆盛の四弟である西郷小兵衛は今で言えば親友の間柄で、熊本で戦死をした小兵衛の遺髪を持ち帰ったのは十郎太とのことです。
写真は上段左から桐野利秋、篠原国幹、村田新八、別府晋介、逸見十郎太、西郷小兵衛となります。

西郷らの墓とは少し離れたところですが、西南の役が勃発をしたときの鹿児島県令の大山綱良の墓です。
南洲墓地は西郷軍の戦没者が葬られているところですので厳密にいえば場違いではあるのですが、西郷軍に資金や武器弾薬を提供するなどの協力者であったからなのでしょう。
戦後に罪を問われて斬首をされてしまいましたが、西郷隆盛の側で眠ることで成仏をしてくれているものと思います。

そんなこんなで門外漢だった幕末絡みでも気持ちが盛り上がってきたところで、冷や水を浴びせてくれたのがこの西郷隆盛の像です。
西郷洞窟の側の空き地に放置といった感じであったのですが、いかにも安物の張りぼては酷すぎます。
誰がどういった意図で作ったものかは知りませんが、これではいくら何でも逆効果でしょう。

肝心の西郷洞窟は、思っていたよりも小さいという印象です。
西郷隆盛が最後の五日間を過ごしたそうですが、奥行きもありませんし大柄だった隆盛が横になるのも苦しいぐらいの広さです。
その他に別府晋介や村田新八らも立て籠もったとのことですので、当時はもう少し規模が大きかったのかもしれません。


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南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 福昌寺の章

2012-03-12 01:35:06 | 日本史

 

鹿児島城を後にして次に向かったのは福昌寺跡で、明治に入ってからの廃仏毀釈で破壊をされるまでは島津氏の菩提寺として1500人を越える僧侶を抱えていたとのことです。
しかし今は見る影もなく跡地には高校が建てられており、残されているのは島津氏の墓地のみです。
九州に覇を唱えた戦国大名の名残としてはあまりに悲しく、それでもきちんと整備をされているだけでも感謝をしなければならないのかもしれません。

墓地は三区画に分かれていますが、本宗家の当主が葬られているのは中央と向かって左の門をくぐった区画になります。
そのうち戦国期の当主である島津貴久や義久、そして義弘の墓があるのは左手、地元の方の言葉を借りれば黒門が入口になっている一番に狭い区画です。
中央の一番に広い区画にどうしても目がいってしまいますが、看板での案内がありますのでおそらく見逃すことはないでしょう。

まずは伊作家・相州家から本宗家に養子に入った、15代の貴久です。
短命、そして文弱化していた本宗家を立て直した中興の祖であり、いろは歌で有名な島津忠良の嫡男となります。
島津四兄弟の父でもあり、戦国島津氏の基礎を築いた名将と言ってもよいでしょう。

その貴久の跡を継いだのが、16代の義久です。
貴久の嫡男であり、義弘と歳久、そして家久の長兄にあたります。
薩摩・大隅・日向の三州をしっかりと掌握し、一時は九州を席巻するほどの猛威を振るって島津氏の最大版図を手にしました。
豊臣秀吉の九州征伐で隠居を余儀なくされますが、その後も79歳の長命を保ち家中に影響力を誇ったと言われています。
娘を娶せた甥の忠恒も義久が健在の間は不仲であっても離縁ができず、義久が死してようやくに側室を持ったそうです。

義久が隠居をした跡は次弟の義弘が継ぎ17代となりますが、国元での当主は義久だと認識をされていたようです。
朝鮮の役での活躍や関ヶ原での敵中突破など武名の高い義弘ですが、その関ヶ原では兵力が足りずに義久に懇願をする書状が残されているとのことです。
学術的には義久から義弘、忠恒ではなく、義久から忠恒と継がれていったとも言われているようですが、一般的には義弘を17代として数えても不都合はないでしょう。

この黒門の区画には義弘の子である久保と、弟の歳久の墓もあります。
久保は義久の娘を娶って早くから後継者と目されていましたが、朝鮮の役で21歳の若さで病死をしてしまいました。
また当主、あるいは当主に準ずる一門が葬られた墓所に歳久の墓があるのには違和感がありますが、これもその最期への罪悪感に近い思いがあったからかもしれません。

初代の忠久から5代の貞久までは混乱なく家督継承をしてきましたが、貞久の次の代で総州家と奥州家に分裂をしてしまいます。
庶長子の頼久は川上氏の初代となり、次男の宗久が早世をしたために、貞久は三男の師久に薩摩守護職を、四男の氏久に大隅守護職を譲ります。
家督は総州家の師久が継いで6代、その子の伊久が7代となりますが、その後に奥州家が家督を奪ったために氏久も6代、その子の元久も7代とされており、元久の弟の久豊が8代でようやくに両家を統一する形になったのは南北朝の混乱も手伝ってのことでした。
左の写真の左が師久で右が宗久、真ん中の写真の中央が氏久、そして右の写真の一番に背の高いのが元久でその右が久豊となります。

久豊の子が9代の忠国で、父が伊久の孫の久世を討ったのに続いて、その子の久林を自害に追い込み総州家を断絶させることで本宗家を盤石なものとしました。
その忠国には友久、立久、久逸、勝久と子がいましたが、庶長子の友久は相州家の祖となり、三男の久逸は伊作家を継ぎ、四男の勝久は桂氏を興します。
よって10代は立久となりましたが、その後に本宗家を襲う貴久の系譜はこの立久の代に萌芽があったことになります。
そして11代は立久の子の忠昌が継ぎますが文弱化の兆しが見え始め、その子の12代の忠治と13代の忠隆が短命だったために三男の勝久が14代となり、しかしさらに混乱を極めて忠良、貴久親子の登場によってようやくに収拾がついたのは先に述べたとおりです。
写真は上段左から忠国、立久、忠昌、忠治、忠隆、勝久となりますが、二基ある忠国と立久、そして忠昌はそれぞれ右側になります。
それが一般的かどうかは分かりませんが、この島津氏の墓所では常に右側が当主の墓となっており、説明もそうなっていましたし戒名の確認もしましたので間違いはありません。

勝久の後は戦国期の貴久、義久、義弘と続き、18代は義弘の三男の忠恒です。
忠恒は薩摩藩の初代藩主であり、徳川家康から偏諱を受けて家久と改名をしますが、島津四兄弟の末弟の家久と同名なためにここでは敢えて忠恒と書いています。
かなり酷薄な性格とも伝えられており、伊集院忠棟と子の忠真の謀殺や叔父であり義父でもある義久の重臣であった平田増宗の暗殺にも関与をしており、自らの血脈を守るためにライバルだった義久の外孫にあたる島津久信の血流を徹底的に潰したとも言われています。

江戸期に入ると一気に興味が薄れますので、ここからは駆け足になります。
19代の光久は忠恒の子で薩摩藩2代藩主であり、その子の綱久が父に先立ったために綱久の子で光久の孫にあたる綱貴が20代となります。
このあたりは秩序が重んじられるようになった江戸期だけに、能力よりも嫡男、嫡孫が無難に跡を継いでいったのでしょう。
21代の吉貴、22代の継豊と順調に系譜は続いていきますが、継豊の子である23代の宗信と24代の重年が20代の若さで早世をしたために、重年の子であり継豊の孫にあたる25代の重豪の後見をすることとなったものの、その重豪が蘭癖大名として長寿を保ったことで持ち直しました。
この重豪に可愛がられたのが曾孫の斉彬ですが、その前に子の26代の斉宣と孫の27代の斉興を挟むことになります。
写真は上段左から光久、綱久、綱貴、吉貴、継豊、宗信、重年、重豪、斉宣です。

幕末に近づいてきましたので、少し歩みを緩めることにします。
こちらは27代の斉興と、その側室である由羅の墓です。
斉興は祖父の重豪が作った膨大な借金を返済するために調所広郷を重用して藩財政の立て直しを図りますが、その重豪が可愛がり、また曾祖父と同じく蘭学に興味を示して浪費をするのではないかと心配をした嫡男の斉彬を廃して五男の久光を立てようとしたことで、有名な由羅騒動が起きることとなりました。
この由羅騒動により結果的に斉彬が28代を継ぐこととなりますが、その由羅が福昌寺に葬られているのは後に子である久光が藩政を握ったからでしょう。

その28代の斉彬の墓ですが、なぜか背後にもう一基の墓がありました。
特に説明もありませんでしたし、どういった経緯で二基の墓があるのかはよく分かりません。
それはさておき墓地の外れにあり幕末の名君としては扱いが小さいような感じがするのは気のせいかもしれませんが、いろいろと複雑な事情もあるのでしょう。
西郷隆盛らを引き立てたことで有名ですが思想としては公武合体派とも言われており、その急死後は弟の久光がその思想の下で藩政を牛耳っていくことになります。

斉彬の跡は久光の子であり斉彬の甥にあたる忠義が29代を継ぎますが、実権は父である久光が握ることとなります。
この福昌寺でも墓地の中央に鎮座をしているのが久光の墓で、久光が興した玉里家の2代目である忠済の墓も右の門をくぐった区画にあります。
久光は兄の斉彬の路線を引き継いで中央に進出をするものの時代の流れに翻弄をされ、西郷や大久保らに引きずられる形で維新を迎えることになりますが、その結末に相当な不満を持っていたようで、明治政府も久光にはかなりの気遣いを見せたとのことです。
肝心の29代の忠義の墓もこの福昌寺跡にあるはずなのですが見つからず、と言うよりは見つからないことに気がつかないままに帰ってきてしまいました。
総州家の7代の伊久の墓も見当たりませんでしたし、これがこの福昌寺跡での心残りであり、また次への課題となります。
そしてここまで整然と並んでいるのは他の場所から改葬をされたものがあることも理由でしょうから、そういった元の場所にもいつかは訪れてみたいものです。

福昌寺跡の塀の外ではありますが、その脇に長寿院盛淳と調所広郷の墓もありました。
長寿院盛淳は義弘の重臣であり、関ヶ原の敵中突破の際に義弘の影武者として討ち死にをしています。
子孫が阿多氏を名乗ったこともあり、その墓石にも阿多の字が見えます。
また調所広郷は笑左衛門の名の方が有名だと思われますが、斉興の下で膨大な借金の返済に奔走をします。
しかし密貿易などに手を染めたこともあり最期は責を負って自害をしたとも伝えられていますので、功労者という意味合いで斉興の近くに葬られたのでしょう。


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南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 鹿児島城の章

2012-03-11 00:39:12 | 日本史

 

今回の旅の最大の目的は15年ぶりのキャンプ見学でしたが、もちろん史跡巡りも兼ねています。
4度目ながらも九州を訪れたのも同じく15年ぶりでしたので、懐かしさと新鮮さを楽しむことができました。
また数年前からの自転車ライフで走行可能距離が一気に増えたことで、これまでであれば諦めていた場所に行けたことも大きな収穫です。

薩摩川内キャンプの帰り道から、この旅の史跡巡りが始まります。
川内駅前には歌人として名高い大伴家持の像があり、自分としては完全に守備範囲から外れているのですが、せっかくですので写真撮影です。
当時の貴族としては比較的に地方に足を運んだ大伴家持も九州は太宰府までだったらしく、おそらくは薩摩守との繋がりによるものなのでしょう。

川内駅から肥薩おれんじ鉄道に揺られて一時間ほどの野田郷駅を降りて、歩道橋を渡って駅の出口の反対側を10分ほど歩いたところに感応寺があります。
島津氏の菩提寺であり、初代の島津忠久が命じて創建をされたものとのことです。
山門があったと思われるところに鎮座する仁王像は、出水市の文化財に指定をされています。

この感応寺の境内の西にあるのが五廟社で、島津氏の墓地になります。
初代の忠久から5代の貞久までの墓が整然と並んでいます。
ただ墓とは言いながらも例えば初代の島津忠久の墓は以前に鎌倉で見た記憶がありますし、薩摩まで下向はしていないはずですので、任地に赴いた3代の久経以降はともかくとしても、2代までは分骨、もしくは墓ではなく墓碑と言った方がよいのかもしれません。

左から初代の忠久、2代の忠時、3代の久経、4代の忠宗、5代の貞久の墓となります。
初代の忠久は源頼朝の落胤とも言われていますが、戦国期の島津氏は近衛氏を氏長者としていたようですので、現在では藤原氏に連なる惟宗忠康の子という説が有力です。
2代の忠時から5代の貞久までは無難に子が跡を継ぎ、3代の久経は元寇で名を挙げて薩摩に下向をしたようで、そして5代の貞久が守護大名としての島津氏の基礎を築きました。

翌日から本格的な史跡巡りです。
鹿児島はすっかりと維新の地となっていますが、学生時代は光栄の維新の嵐で遊んだりするなど幕末にも興味があったものの、今ではすっかりと門外漢です。
よって幕末関係は積極的に探すことはせず、目についたら、といった程度にすることとしました。
こちらは戦国期にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に伝来をしたことを記念する像ですが、どう見てもザビエルがしっかりと日本人顔です。

すぐ側にあるフランシスコ・ザビエルの胸像はさすがに西洋人顔で、似ているかどうかは別にして納得感があります。
島津貴久に許可を得て布教を始めたザビエルでしたが、しかし仏僧の反発もあり薩摩を後にして京に上ることとなりました。
それでも日本の上陸地が坊津ということもあり、鹿児島にはあちらこちらにこういった記念碑があるようです。

大河ドラマの瑛太で認知度が上がったものの、一般的にはあまりメジャーではない小松帯刀の像です。
しかし維新十傑に名を連ねていますし、36歳で若くして病死をしなければ明治政府で重要な役割を担ったであろうとも言われています。
小松氏に養子に入り小松清兼と名乗りますが、戦国期に島津貴久、義久の重臣であった肝付兼盛の流れである喜入肝付氏の出身です。
肝付本宗家は最後まで島津氏と抗争を繰り返しましたが、庶流の肝付氏は早くから島津氏に仕えていました。

こちらはあまりに有名な西郷隆盛の像で、上野にあるそれとは違って軍服姿です。
やはり鹿児島と言えば西郷隆盛となってしまうほどに慕われているようで、西郷隆盛の鹿児島と言ってもいいぐらいです。
個人的には島津義久や義弘の像が無いのが不満ですし、納得もいかないのですが、こればっかりはどうにもなりません。

小松帯刀や西郷隆盛を横目に見ながら朝イチで向かったのは心岳寺跡で、今は平松神社となっています。
この日は朝方は曇りながらも昼前には晴れるとの予報でしたので、遠くから攻めればメインである鹿児島城や福昌寺跡ではいい感じに晴れてくれるであろうとの目論見によるものでしたが、自転車で15キロほどを走っている途中にお日様が顔を見せましたので大正解でした。
国道10号線をひたすら北上するという一本道でしたので迷うことはありませんでしたが、しかし目立たないと聞いていましたので錦江湾を右手に見ながらも神経は左側に集中をして、それでも途中で見逃したかもしれないと不安になってガソリンスタンドで場所を聞いての目的地への到達です。
遮断機のない踏切を渡ってという人生初体験ではありましたが、まだまだ序の口だったと知るのはまた後の話です。

この心岳寺跡には、島津四兄弟の三男である島津歳久の墓があります。
こちらも墓ではなく歳久の最期の地の建てられた墓碑、と言った方が正しいかもしれません。
智将として島津氏の中枢を占めた歳久は豊臣秀吉の九州征伐に最後まで抵抗をしたことで疎まれ、後の梅北一揆の責を負って自害をしたと言われています。

歳久の墓の脇には殉死者の墓が並んでおり、家中で慕われていたことが分かります。
今は廃れてしまったようですが以前は「心岳寺詣り」と呼ばれる命日に詣でる習慣が地元にはあったそうで、それだけ歳久に人気があったということなのでしょう。
電車が来ないかとビクビクとしながら線路を渡ったのですが、それだけの価値がある心岳寺跡でした。

心岳寺跡からの帰り道に気がついたのが月照上人入水の地碑で、線路を挟んだ反対側にあったので今度は踏切もないところを渡って行き着きました。
こういったところがJR九州で多いのか少ないかは分かりませんが、普通に渡れるように階段があったので一般的なのかもしれません。
月照上人とはありますが西郷隆盛も一緒に入水をしており、ここから蘇生をしたことが西郷隆盛のカリスマ性を高める一つの要因となりました。

こちらも市街地に戻る途中の鶴嶺神社で、磯庭園の入口の脇にあります。
磯庭園はあまり興味がなかったのでスルーをしたのですが、こちらはお参りだけしてきました。
島津氏の菩提寺である福昌寺が明治に入ってからの廃仏毀釈の影響で破壊をされてしまった代わりに、島津氏の歴代当主を祀っています。

そしていよいよ鹿児島城跡です。
地元では鶴丸城と呼ばれているようですが、ここでは日本100名城に敬意を表して鹿児島城としておきます。
戦国期の居城だった内城から関ヶ原後に島津忠恒が築城をしたもので、しかし残念ながら石橋や石垣以外の遺構は残されていません。

そもそもが天守閣のない政庁の意味合いが強かったようで、いくつかの櫓や御殿はあったとのことですが、何にせよ維新後にその全てが焼失をしてしまいました。
城と言えば戦国期の象徴でもありますので維新の風潮が強いことも手伝ってか他の城跡とは違って再建への動きは強くないとのことで、77万石の本城としては寂しい感じがします。
もちろん財政的な理由もあるのでしょうが、もっと戦国期に光を当てて欲しいのが正直な思いです。

城跡にあるのが黎明館で、いわゆる歴史民俗博物館です。
こちらの学芸員のような方に島津義弘などの像は鹿児島にはないのですかと聞いたのですが、あっさりと知らないと言われてしまいました。
帰ってきてから調べてみれば鹿児島中央駅と川内駅の間ぐらいにある伊集院駅からほど近いところに島津義弘の像があるとのことで、今回は比較的に事前準備をしてからの旅だと思っていたのですが、まだまだ四十半ばにして未熟であることを痛感しています。
行こうと思えば時間的にも距離的にも行けたので残念でならず、次に種子島に行くときにでも忘れずに寄らなければとの備忘録です。

同じく城跡、と言うよりは黎明館の敷地内との表現の方が正しいのかもしれませんが、天璋院篤姫の像がありました。
以前に訪れたときにはありませんでしたので、ほぼ間違いなく大河ドラマをきっかけとして建立をされたのでしょう。
そうなればあるいは戦国島津氏が主人公の大河ドラマでもあれば鹿児島での復権もあるのではないかと、何となくそんな気にさせられた篤姫の誇らしげな表情でした。


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ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 今帰仁の巻

2011-10-09 19:57:37 | 日本史

 

当初の計画では帰りの飛行機の搭乗時間のリスクを考えて、距離的に遠い今帰仁城を初日に回る予定でした。
距離が遠ければバスの時間が遅れる可能性が高まりますので、万が一の場合でもタクシーで時間調整がしやすい那覇を二日目にしたのは当然と言えば当然です。
しかし初日が晴れ、二日目が曇りから雨という予報だったために移動時間が長い今帰仁城を後回しにしたのは初日の朝の決断で、これが結果的に大成功でした。
初日の中城城と首里城はほとんど晴れでしたし、二日目の今帰仁城は那覇から名護に向かう途中で激しい雨に降られたものの名護に着いたときには小雨になり、最寄りのバス停に着いたときには薄日が差し始め、そして城を登り切ったときには晴れ間が見えましたのでラッキーとしか言いようがありません。
さらには帰る頃にはまた雲が厚くなりましたので、これ以上にないタイミングでの今帰仁城となりました。

最寄りのバス停から暫く歩くと派手な案内にぶつかりますが、しかしここからまた1キロほどを歩くことになります。
中城城と同様に今帰仁城も山城ですから延々と上り坂が続き、それでも中城城に比べれば距離は半分でしたし舗装をされた一本道ですから迷うことはありません。
そうは言っても雨に降られたら大変なことになったであろうことは想像に難くありませんので、とにかく雨が上がってくれて助かりました。

山道を登り切ったところでまずは今帰仁村歴史文化センターで今帰仁城の下調べ、冷房が心地よく疲れた体を休ませるにはピッタリです。
入口の前では猫が気持ちよさそうに日光浴をしていました。
どうやら首輪をしていましたので飼い猫のようで、人慣れをしているのか近づいてもピクリともせず、俺の居場所を邪魔するなと言わんばかりの大きな態度です。

施設内には今帰仁城の模型があり、こういった気配りは助かります。
しっかりとメモをして、自分がどこにいるかを考えながら歩くことができました。
この今帰仁村歴史文化センターのチケットは今帰仁城と共通ですので、必ず最初に寄ることをお奨めします。

券売所からちょっと歩いたところにも模型があるのですが、こちらは現在地以外の説明がありません。
直前まで降っていた雨水が溜まっていたのは置いておくにしても、せっかく模型を作ったのであればもう少し踏み込んで欲しかったです。
どうにも中途半端さが否めない模型でした。

この今帰仁城跡も琉球王国のグスク及び関連遺産群の一つとして、世界遺産に登録をされています。
誇らしげに入口にその碑がありましたが、形が微妙に中城城跡のそれと違うのが意味深だったりもします。
簡単な説明文もあり、それを読むことで気持ちが高まってきました。

まずはガチガチの石門である平郎門で、今帰仁城の正門にあたります。
左右にあるのは銃眼のようにも見えますが、時代を考えればのぞき穴なのでしょう。
この平郎門は1962年の復元ですが、どうやらきちんとした発掘調査をせずに古老などの記憶に基づいての修復だったようです。

平郎門を抜けると立派な石畳に階段が一本道のように続きますが、こちらは戦後に整備をされた新道です。
それでも両側に木々が生い茂るなどして雰囲気はたっぷりで、なかなかの趣きがあります。
その手の分野に疎いのでどういった木々かが分からないのですが、季節によっては花が咲き乱れる光景になるのではないかと思います。

この新道の脇から広がるのが大隅で、兵の訓練の場だと言われているようです。
発掘調査で馬の骨も多く見つかったとのことですから、馬場としての役割もあったのかもしれません。
かつてはかなりの広さを誇ったようですが、現在は立ち入るにはちょっと躊躇うようなでこぼこの土地となっています。

新道を登り切ると広いところに出ますが、そこが大庭と呼ばれる場所です。
祭祀などを行う儀式の場だったようで、説明板にも祭礼を行う姿が描かれていました。
このあたりは沖縄の城らしい、まさに神と同居をするかのような有り様を示しているものとしての印象が残ります。

この大庭の手前には旧道があり、新道とは違った表情を見せてくれます。
これは他の城も同様ですが攻めにくいように曲がりくねっており、戦闘のための城という側面が感じられます。
新道を脇にそれてこの旧道に道が繋がっているのですが、ちょっと歩きづらいのは当たり前ではありました。

大庭から海側の階段を登ると、女官の住居であったと言われる御内原があります。
トップの写真のとおりに眺望が見事な場所で、こういった場所を城主が独り占めをしていないことにはちょっとビックリです。
城内でも崇高な場所に位置づけられていたようで、男子禁制の拝所が残されています。

本丸にあたる主郭には多くの礎石が残されており、かなりの建物があったことが想像されます。
城主の居住したところですので当然のように一番高い場所に位置しており、相応の広さと開放感があります。
例によって火神の祠があるのですが、こちらは城としての機能が無くなった後に作られたようです。
今帰仁城は北山王の居城として築城をされたものが尚氏の琉球統一の後は北山監守が置かれ、1665年にその北山監守が廃止をされてからは城の性格が変わったようです。

主郭からさらに進むとその南側に姿を現すのが、家臣たちの住居があったとされる志慶真門郭です。
城の裏門にあたることから重要な場所と位置づけられており、家臣たちがそこを守るといった構図だったのでしょう。
ここはさほど広い場所ではないので当時の兵力はどの程度だったのかが気になるのですが、おそらくは百人単位ではないかと思います。

この今帰仁城で目立つのが城壁で、見事なぐらいの野面積みです。
築城年代としては中城城や首里城に比べて1世紀ほどしか古くはない今帰仁城ですから、その歴然とした差には不思議な感じがします。
もちろん中城城などにも野面積みの城壁はありましたが一部であり、ここまで徹底しての野面積みですと爽快感すらあります。
整然とした石垣もよいですが、こういった荒々しさも城の魅力の一つです。

城の外郭の外れにあるので見落としがちですが、古宇利殿内がぽつんとあります。
これも礼拝をするための祠で、古宇利島の人が8月に参拝に訪れるそうです。
古宇利島は今帰仁城から目と鼻の先にある島ですが、今は日本一長い2キロ弱の橋で屋我地島と繋がっており、また屋我地島も同じく橋で名護と繋がっていますので地続きです。
海水浴場もありますので、次に訪れるときにはコースに入れておきたい場所です。

来た道を帰るのも芸がないので、帰りは当時の人が利用をしていたとのハンタ道をチョイスしました。
実は来るときも迷ったものの「ハブや蜂に注意」とあったので大人しく舗装道路を登ったのですが、帰り際に係の人に「半ズボンに裸足のサンダルは無謀ですかね」と聞いたところ「ダメだと思ったら戻ればいいよ、ハブなんて50年で2回しか見たことないから」との心強いお言葉をいただき、意を強くしての特攻です。
結果的にはやや険しい石段などもありましたが基本的には道も整備をされており、完全に肩すかしです。
これであれば七尾城などの方がきつかったと、春日山城なども足を滑らせたら半年は見つからないだろうなと思えるような場所でしたので、ちょっと看板倒れでした。

その途中にあったのが阿応理屋恵ノ口殿内火の神の祠と供のかねノ口殿内火の神の祠で、思わず舌を噛みそうです。
こちらは草むらをかき分けるように進まなければならないので女性などが一人では勇気がいるかもしれませんが、ちょっと進めばすぐに開けたところに出ます。
その他にも石積やら何やらあったのですが、帰りのバスの時間が気になっていたので軽くスルーをしてしまいました。
結果的にバスの時刻表が変わって時間はたっぷりあったので、最後の最後にそれはないだろうといった感じで今回の史跡巡りを締めくくることとなりました。


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ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 首里の巻

2011-10-07 20:02:36 | 日本史

 

天気が崩れないうちにと急いで向かったのが首里城跡で、中城城跡と同様に世界遺産に登録をされています。
ただ正殿も含めた大半の建築物は1990年代以降の再建ですので、これらは世界遺産には含まれていません。
戦災で焼失をしたのであれば諦めもつきますが、敷地内に大学を建設したことによって失われたものも多いとのことで、その軽率さに何とも情けなくなります。
ただこれは他の城跡も似たようなもので、かつては城跡と言えば動物園みたいなところも多かったのですが、最近の歴史を重んじる流れと言いますか観光客の誘致に利用をしようとの下心があるにせよ、保全や再建といった動きが出てきていることを前向きに歓迎をしています。

首里駅から首里城に向かって歩いて行く途中にあるのが、この中城御殿跡です。
尚氏の跡継ぎが住んだ御殿があった場所で、かつてはここに沖縄県立博物館がありましたが現在は別の場所に移転をしています。
今年の1月まで発掘調査をしていたようですが現在は終了をしており、広い敷地にぽつんとテントがあるだけで人影は見られませんでした。

まず最初に出迎えてくれるのは、首里城のシンボルとも言われている守礼門です。
今や幻と化した二千円札に印刷をされていましたし、他の門とは違って1950年代に再建をされたこともあってか沖縄県の指定文化財となっています。
この朱塗りの門を見ることで他の日本の城との違いを、中国文化が色濃く反映をしていることを感じる第一歩となりました。

その守礼門を抜けた左側にあるのが、この園比屋武御嶽石門です。
やや地味な感じがあるので目を留める人は少ないようですが、この石門が首里城跡と同格の扱いで世界遺産として登録をされています。
石門の裏が園比屋武御嶽で尚氏の当主が拝礼をした聖地であり、帰り際に寄ってみるとお年寄りが座り込んで拝む姿を見ることができました。

ここから正殿に向かって登っていくことになりますが、まずは歓会門がその入口になります。
首里城にかかる簡単な説明板があり、また城壁が見えてきますので城という感じが高まってきます。
石門になっているのは中城城と同じで、おそらくは沖縄の城の特徴なのでしょう。

歓会門を抜けると瑞泉門、漏刻門、広福門と続きますが、やはりいずれも朱塗りの中国風の門となっています。
その歴史からすれば当たり前なのかもしれませんが、何とも言えない雰囲気が漂います。
逆に言えば島津氏に征服をされながらも独自の文化を守り続けてきたことを、素晴らしいことだと称えなければならないのかもしれません。

広福門をくぐると下之御庭に出ます。
ここには首里森御嶽があり、同じような拝所が首里城には10箇所あることで十嶽と呼ばれていたそうです。
このあたりの信仰の深さは現在の日本では失われたものでしょうし、信仰とは無縁の世界で生きてきた自分にもピンとこないのが正直なところです。

この下之御庭に券売所があり、ここから先が有料となります。
おそらくは最大の規模を誇るのが下之御庭と正殿のある御庭を区切る奉神門で、正装に身を固めた係の方が切符をもいでいました。
門と言うよりは回廊のような感じがありますが、中央の門は尚氏の当主など身分の高い人だけが通れるものだったらしく、そこが現在の通路になっているのが微妙だったりもします。

そしていよいよ正殿です。
やはり日本文化とは違った、まさに中国文化が息づいているといった感じです。
映画などで見る紫禁城にも似た感じで、ここまでくるとここは日本ですかと言いたくもなります。
おそらくはその中国からも多くの観光客が訪れているのでしょうから、また妙な動きをしそうな感じがしないでもありません。

正殿には南殿から入ってぐるっと回るのですが、その途中から見えるのが二階御殿です。
尚氏の当主が普段の住居としていた場所で、残念ながら一般公開はされていないようです。
工事車両のようなものが見えましたので、もしかしたら補強工事などをしていたのかもしれません。

そして極めつけがこの玉座とも呼ぶべき場所で、まさに中国の皇帝が座っても違和感はないぐらいの代物です。
両側に龍が鎮座をしていますし、これまで意識的に「尚氏の当主」と書いてきましたが、やはり実態は「琉球王国の国王」なのでしょう。
そもそも椅子という時点で日本の文化とは相容れないところがありますし、ここに座れば「朕」と言っても不思議ではありません。

さらにぐるっと回って北殿に至ると中は売店になっていましたが、その一角に正殿の模型が展示をされていました。
どうやら中国からの冊封使を迎えるところを再現したもののようですが、島津氏に征服をされた後も表面上は独立国として中国との両属状態だったようです。
おそらくは島津氏も密貿易などのために、あまり露骨な強権発動ができなかったのでしょう。

正殿を囲むのが北殿、そして南殿です。
南殿から入ってぐるっと回って正殿に至り、そこから北殿まで歩けば出口があります。
鮮やかな朱塗りの北殿に比べて地味な感じのある南殿ですが、その北殿は外壁を塗り直している途中らしいので、近いうちに南殿も装いが変わるかもしれません。

そうこうしているうちに雲が厚くなってきたので、少し慌てながら他の門を見て回りました。
正殿から降りていくとどうしても通らなければならない門なので実際のところは見て回るという程のこともないのですが、とにかく雨にでも降られたら最悪です。
淑順門、右掖門、久慶門とやや駆け足で通り過ぎていったのですが、結果的に1時間ほどもしたら晴れ間が戻ってきたので大失敗ではありました。

久慶門を抜けた後は来た道を戻って守礼門に至るという選択肢もあったのですが、それでは面白くないので首里城の外側をぐるっと回る散策コースを歩いてみました。
途中で継世門がありましたが通り抜けることはできず、その後はやや道に迷いながらも城壁を頼りに30分ほど時計回りに歩いて元の場所に戻りました。
結果的にこの散策の間に天気が回復をしましたので、まさに失地挽回といったところです。

そして今さらながらの首里城跡の石碑と、見落とすところだった木曳門です。
この木曳門は普段は石などを詰めて城壁のようにしてあり、工事などで建設資材を搬入するときだけ開けられたとのことです。
そのためか他の門とは違って櫓のような建築物はなく、ただの石門になっています。

首里城から10分ほど歩いたところに、尚氏の墓所である玉陵があります。
第二尚氏の陵墓であり、こちらも世界遺産に登録をされている史跡ですが、戦災でかなりダメージを受けた後に大部分が復元をされたものです。
このあたりは日本100名城の選定と同様に、何が基準となるのかがよく分かりません。

さすがに当主の墓所ともなると造りが大層になり、二重の壁に囲まれています。
壁と壁との間にはかなりの広さがあり、おそらくは墓参りなどをした際にお供の人たちが待っていたりする場所なのでしょう。
それにしても平日ながらも人っ子一人いない世界遺産とは、何とも言えない幸せに浸らせていただきました。

この玉陵には3つの石室がありますが、残念ながら鍵がかかっていて中には入れません。
どうやら当時の沖縄、琉球と言った方が正しいのかもしれませんが、火葬や土葬の風習はなかったようです。
真ん中の中室に遺体を安置して骨になるまで数年を待ち、洗骨をした上で骨壺に入れて当主とその奥方は東室に、他の一門は西室に納められました。
玉陵の敷地内にある資料館には骨壺の写真と位置関係の資料があったのでもしかしたら中に入れるのかと期待をしたのですが、そんなわけもありませんでした。

その玉陵の脇には東の御番所があり、古い写真などが展示をされていました。
この御番所は法事の際に当主の控え室などとして使われていたようですが、あまりに真新しくて玉陵とのギャップが大きく、単なる建物にしか感じられませんでした。
反対側には西の御番所の跡がありましたが、こちらの方がいろいろと思いを馳せるのには充分な感じがします。
首里で最後に目にしたのがこの東の御番所だったことは、勝手な言い分ではありますがちょっと残念ではありました。


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ハジミティヤァーサイ沖縄 史跡巡り篇 中城の巻

2011-10-06 21:21:34 | 日本史

 

沖縄の戦国史には詳しくない、と言うよりは興味の対象外だったのですが、日本100名城スタンプをきっかけに触れることができたのは幸いでした。
そうでなければ訪れることなどは一生なかったでしょうし、知識の幅が広がったことは自分にとっては大きなプラスになります。
いろいろと文化や風習などが違うのでスッと吸収をするにはハードルが高いことは確かですが、それでも全く知らないよりは少しだけでも豊かになっただろうと喜んでいます。
そんな沖縄での第一歩は、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録をされている中城城跡です。

那覇バスターミナルからバスで揺られること1時間ほどで、最寄りの停留所である中城小学校前に着きました。
そこから徒歩で中城城に向かったのですが、歩いてすぐのところで1.9キロ先との標識を見て唖然とさせられたのはあまりに当然でしょう。
何せ舗装はされていますし緩やかではあるものの延々と上り坂が続いており、文句のつけようのない日差しが確実に体力を削っていきます。
かなり歩いたところでようやくに見えてきた城壁を見て、やっとの思いとまだあんなに遠いのかとの思いが錯綜をしたことは言うまでもありません。

そこからさらに汗をかきつつ歩いてやっと到着をした、これが中城城です。
この中城城は沖縄に残されている城跡の中でも遺構が良好に保全をされているとのことで、もちろん建築物などはありませんが石垣や城壁は見事な美観を誇っています。
どちらかと言えば日本の城というよりは西洋の城を思わせる作りなのは、位置関係や歴史を考えれば必然なのでしょう。

城跡に入ってすぐのところに世界遺産の碑と、その全容の模型が設置をされています。
こういった配慮は旅人としてはとても嬉しいことで、他の史跡も大いに見習ってもらいたいものです。
せっかくの名所の見落としがなくなりますし、自分がどこにいるかを感じながら巡ることで味わいが大きく変わってきます。

そんな旅人をまず迎えてくれるのは、がっしりとした城壁に囲まれた裏門です。
いきなり裏門ということに違和感はあったものの、現在の道路の場所からしてそうなったのでしょう。
その感じからしておそらくはもう少し高さがあったものと思われ、時の流れとともに風化をしてしまったのだと思います。

この裏門を抜けると三の郭、そして二の郭に続きます。
日本の城で言えば三ノ丸、二ノ丸といったところだと思われますが、さほどの広さはありません。
沖縄での城の位置づけが有事の際の詰め城なのか、普段からの居住地なのかが分からないので何とも言えませんが、あまり多くの人数が居住できるだけのものではないようです。

そしてこちらが一の郭で、おそらくは本丸にあたる場所です。
発掘調査中なのか正殿跡が工事中の装いを呈しており、ちょっと残念ではありました。
当然のごとく一番高いところに位置しますので見晴らしも絶景で、しかも標高160メートルながらも雲が近くて自分がかなりの高みに達しているような錯覚に陥りそうです。

その一の郭から望む、中城湾です。
手前の柵が登ってくるときに見えた城壁にある柵ですので、その高さが分かることと思います。
まさに下々を見下ろすような感覚になりますし、権力者が高いところに城を築きたくなる気持ちが分かったような気がします。
そして人々が城を見上げることで崇拝の念を抱かせる、そういった効果もあったのでしょう。

裏門と反対側にあるのが正門で、しっかりと中城城をアピールする石碑がありましたので、かつてはこちらが正面玄関だったのかもしれません。
この正門に連なる先にホテルの廃墟があり、もし建設業者が倒産をせずにホテルが完成をしていたら中城城も今とは違った表情を見せていたことでしょう。
もっとも当初は一の郭に建築予定だったらしいので不届き千万な話であり、中城城にとっては正解な建築中止であったと思います。

中城城は6つの郭から構成をされていますが、残りが北の郭、西の郭、南の郭です。
一の郭らのように分かりやすく城壁に囲まれているわけではないのと、その城壁が失われている箇所が多いこともあり、説明板がないと気がつくのは厳しいかなと思います。
そういう意味では件の模型は非常に有効だと思いますし、あとは各々の郭の役割などの説明があれば言うことはありません。

南の郭の脇にひっそりとあったのが、この首里遥拝所です。
この先に国主である尚氏の居城の首里城があり、そちらに向かって礼拝をするための場所とのことでした。
こういった礼拝や火之神に対する信仰は本土、と言った表現が適当かどうかは微妙ですが、それに比べればかなり強いのではないかと思わされます。
これは今帰仁城でも感じたことですが、それはまた後の話です。

中城城趾のちょっと外れにあるのが伊壽留按司の墓です。
ちょっと踏み進むのに躊躇をしてしまう草の生い茂った道を進むと、岩盤をくり抜いたような石室が姿を現します。
沖縄では石室に骨壺を置くといった埋葬法が一般的なようで、町中でも亀甲墓と呼ばれるものを多く見かけました。
伊壽留按司は中城城の城主であった護佐丸の兄で、跡を継ぐのを嫌って豪農になったと言われています。

その護佐丸の墓は、中城城跡からはちょっと離れたところにあります。
係の人に地図を書いてもらって行ったのですが、地元の人もあまり行ったことがないので自慢をしていいと言われました。
幹線道路からはちょっとそれた場所にありますし、しっかりとした階段が整備をされているので危うさを感じるようなものではありませんが、上が見通せないだけにどれだけ歩けばいいかが分かりづらいので、それなりにハードルが高いことだけは確かだと思います。

こちらが護佐丸の墓で、残されているものでは一番に古い亀甲墓とのことです。
沖縄の人の名前は構成がよく分からず、尚氏などはそれでも現在と似たような感じですのでいいのですが、護佐丸ともなると手がつけられません。
家名+称号+名乗りというのが一般的らしく、先の伊壽留按司は家名が伊壽留で称号が按司なのでしょう。
護佐丸は盛春という名乗りがあり、子は盛親と名乗頭が盛である家系ですが、護佐丸が家名にあたるのか、それでは称号は何になるのかはよく分かりません。
その護佐丸は第一尚氏に仕えた名将ながらも晩年に讒言によって攻められ、抵抗をすることなく自害をしています。
そのこともあってか忠節を称えられて人気の高い武将とのことですが、最近の研究では実際に謀反を企んでいた、あるいは第一尚氏を滅ぼして第二尚氏を興した金丸が有力按司を排除するために仕組んだ謀略との説もあるようで、いずれにしても護佐丸を滅ぼしたことで一時の栄えを取り戻した第一尚氏の春はあまりに短く、その僅か11年後に滅びます。

とにかく城であろうと墓であろうと高いところに作りたがるのは旅人のわがままからすれば迷惑至極なのですが、それでも木々に浸食をされないように整備をされているだけでも有難いと思わなければならず、また護佐丸がそれだけ地元の人に愛されているという証左なのでしょう。
もし階段だけであれば酷い状態になっていたであろうことは想像に難くありませんし、その階段がなければ埋もれてしまっていたことは確実だと思います。
これだけの知名度があり、また立派な墓所が地元の人もあまり訪れたことがないというのは意外ではありますが、何はともあれ天気に恵まれたことに感謝感激です。


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でっかいどー北海道 史跡巡り篇 根室の巻

2011-09-25 23:01:03 | 日本史

 

今回の旅が北海道をぐるっと一周をするという壮大なものとなったのは、日本100名城に根室半島チャシ跡群が含まれていることに他なりません。
どう考えても守備範囲から外れるどころの騒ぎではないのですが、ライフワークを完遂するためには避けられない道です。
結果的に納沙布岬でいい経験ができましたし、一つのきっかけと考えれば前向きにもなれます。

しかしそんな前向きな心をへし折るかのように、国の史跡に指定をされながらも手抜きが目立ちます。
いくつかあるチャシ跡の中でも代表的なのはヲンネモトチャシ跡ですが、納沙布岬から徒歩で20分ほどのところにあるとの事前リサーチとは裏腹に30分近くを歩く羽目となりました。
しかも一本道ではありながらも途中に案内板が全く無いのは不親切すぎますし、さすがに20分以上も歩いて何もないと不安になるのは人の常でしょう。
近くで昆布を干していた方に道を聞いたことで迷うことなく行き着きましたが、もし聞かずに歩いていたら手前の別れ道でどっちに行くべきかを迷ったに違いありません。
どうやら道案内だけではなくチャシ跡の整備も以前はいい加減だったらしく、観光客からの苦情が殺到をしたことでようやくに重い腰を上げたとは地元の方の言葉でした。
それにしても枝分かれの道をかなり歩いてから最後の最後になってのこの看板、ほとんど意味がありません。

その看板に従って気を取り直して歩いて行くと、草原に踏み固められた道が続いています。
これが整備をされてのものであれば、それ以前はどんな状態だったのかとゾッとしてしまいました。
あるがままを残すために手をかけないというのも一つの選択肢ではありますが、ものには限度があります。

不安になりながらも進んでいくと、ようやくそれらしき説明板に行き着きました。
ちょっと場にそぐわないぐらいの立派なもので、まだ新しいようにも見えましたのでこれが苦情により手当てをされたものの一つなのかもしれません。
それなりの説明がされているのですが、申し訳ないながらも自分にとっては守備範囲から大きく外れていることを再認識しただけのものでしかありませんでした。

それでも広がる草原のどこがチャシ跡なのか、それが分かっただけでもラッキーだったのかもしれません。
もしこの説明板が以前は無かったのであれば、ただ呆然と立ち尽くして終わってしまったであろう自分が容易に想像がつきます。
よくぞ苦情を言ってくれたと、先人の方々には感謝感激雨あられです。

さらに歩いて行くと、同じくチャシ跡を示す杭が立っていました。
こちらも新しいものですので最近に整備をされたものの一つだと思われ、逆に言えば以前はこれすら無かったのであればお話にもなりません。
もちろん以前にも何も無かったわけでもないでしょうが、今ですらこの程度ですから大体の想像はつきます。
そしてこの階段を登ったところがトップの写真で、もう少し行けそうな感じもあったのですが裸足にサンダルでは躊躇をするには充分すぎるぐらいの草の茂りっぷりです。
ここに至るまでの道の踏み固めに比べると雲泥の差で、大抵の人がここで諦めてしまったのでしょう。

この先に櫓でもあれば踏み進んだでしょうが、チャシ跡のためにそこまでの冒険はできません。
とりあえずは説明板の案内に従って、史跡に指定をされている平坦面を写真に撮って以上終了です。
なぜにこれが史跡なのかがよく分かりませんし、よくぞ見つけたと誉め称えたい気分にもなります。

こちらは帰り道に撮った全景の写真です。
ひょこっと立っているように見えるのが、先の階段の上にあったチャシ跡を示していた杭です。
世間的にヲンネモトチャシ跡として紹介をされているのはこのアングルがほとんどで、上からの写真ですとただの草原にしか見えませんので当然のことなのでしょう。

いろいろとネガティブな気持ちがもろに出た書きっぷりとなってしまいましたが、根室市観光インフォメーションセンターの担当者の愛想の悪さが拍車をかけています。
日本100名城のスタンプを借りるときにもいかにも面倒くさそうでしたし、質問にもほとんど答えてくれませんでした。
これはいろいろな意味でよくないと考えて、後から訪れる人のためにも苦情をびっしりと書いて観光客の声みたいなところの箱に入れておきました。
件の担当者が耳に痛いことを闇に葬るかのような行動に出てはいないことを願うとともに、自分が助けられたように少しでも役立ってくれればと思います。


【2011年9月 北海道の旅】
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でっかいどー北海道 史跡巡り篇 松前の巻

2011-09-24 22:45:49 | 日本史

 

予定では松前には夜に入るつもりだったのですが昼過ぎから雲が厚くなってきたことと、翌日の予報が悪かったために函館を早めに切り上げて松前に向かいました。
結果的にはそれが大成功で、翌日は朝から小雨ながらもハッキリとしない天気だったために、既に夕方でしたが晴れ間の見える時間帯に松前城を回れたのはラッキーでした。
こういったハラハラドキドキ感も、旅の醍醐味の一つです。

松前城が今の形となったのは幕末であり、それまでは福山館、あるいは福山城と呼ばれていました。
北方警護の目的で幕府からの指示で福山館を改築したのが松前城であり、日本式の城郭としては最も新しいものとなります。
箱館戦争の際には土方歳三の率いる軍勢に攻め落とされてしまいますが、幸いなことに戦火に巻き込まれることなく天守閣などは重要文化財に指定をされて保全をされてきました。

しかし天守閣は残念なことに昭和に入ってから失火から焼失をしてしまい、現在の天守閣は鉄筋コンクリートで再建をされたものです。
それでもやはり血が騒ぐことに違いはなく、無理をしてでも晴れているうちに松前に入ってよかったです。
閉館間際の時間帯だったのでやや駆け足になってしまいましたが、係の方にも夜のライトアップを教えていただくなど親切にしていただきました。

こちらはその天守閣に連なる、当時からの建築物である本丸御門です。
国の重要文化財に指定をされており、史跡としての価値があるのは天守閣ではなくこの本丸御門であることは言うまでもありません。
かつての福山館の本丸御殿に至る正門であり、その偉容には圧倒をされます。
どうしても天守閣に目が行きがちですが、松前城に足を運ばれた際にはこの本丸御門に注目をされることをお奨めします。

この本丸御門を抜けた本丸にあたるところの脇に、ひっそりと建っているのが本丸玄関です。
本丸御殿の玄関であり、明治維新後は小学校の玄関として使われていたとのことですから驚きです。
その後はこの場所に移築をされて、北海道の有形文化財として今に至ります。

本来は城の外側から門を通って天守閣に至るべきなのでしょうが、閉館の時間が気になり焦ったことで直接に天守閣に向かったために、帰りに門を抜けることとなりました。
この搦手二ノ門は2000年の再建で、残された写真や発掘調査から忠実に再現をされた高麗門です。
天守閣の入口に相対する場所にありますので搦手ということに違和感がありますが、大手門は海に面した南側にあったようです。

搦手二ノ門を抜けると次に見えるのは天神坂門で、こちらは2002年の再建です。
やや小ぶりな門ですが、きちんと外側から登っていけば最初に出くわしたはずですので何とも微妙な感じがします。
様式美、というわけではありませんが、やはり登城をするに際しては順序を間違えてはいけないということなのでしょう。
今回は時間との戦いだったので仕方がありませんが、いい経験になりました。

その思いを強くしたのは搦手二ノ門と天神坂門との間、おそらくは二ノ丸にあたるのでしょうが、そこに松前城の模型を見つけたからです。
天神坂を登って天神坂門を抜け、そしてこの模型を見て松前城の全容を頭にインプットをした上で、搦手二ノ門をくぐって天守閣に至るのが登城の作法なのでしょう。
その割には天神坂門に誘導をする案内がなかったのが残念で、だからこそ一気に天守閣に至ってしまったのですが、このあたりはもう少し配慮が欲しいところです。

それでも夜間はライトアップをするなど、地元の人が松前城を愛する気持ちは痛いほどに感じられました。
無料で開放をされていましたし、また係のおじさんがナイター中継をラジオで聞きながらもいろいろと説明をしてくれました。
こういった町のシンボルがある生活は羨ましく、リタイアをした後はこんな場所でのんびりと余生を過ごしたいものです。
このライトアップはあまり知られていないようですので、松前城に行かれる際には見逃さないようご注意を願います。

翌日は雨の音で目が覚めたのですが、宿を出たときには小雨になっていましたので急いで松前家の菩提寺である法幢寺に向かいました。
松前城の山側にあり、おそらくは有事の際の砦とする意味合いがあったのでしょう。
しかし箱館戦争の際には海側に比べて手薄な山側を突かれて落城をしましたので、あまり役には立たなかったのかもしれません。

この法幢寺には歴代藩主の位牌が安置をされている御霊屋がありますが、公開はされていないようです。
説明板には中の格天井に松前応挙とも言われた蠣崎波響の花鳥の絵が掲げられているとありましたが、当然のごとく見ることはできません。
そもそも寺内に入るに際して声をかけたのですが、時間が早かったこともあってか誰もいなかったようです。

この法幢寺の裏手に松前家の墓所があります。
鬱蒼と茂った木々のおかげで小雨でしたので傘を差さずとも濡れずに済んだのには助かりましたし、晴れていれば逆光が厳しかったでしょう。
もっとも蚊の攻撃にはうんざりとするぐらいで、写真を撮るのとトレードオフで血を差し出してきた気分です。

まずは松前慶広の墓です。
初代の蠣崎信広から5代目にあたり、松前藩の初代藩主でもあります。
蠣崎から松前に姓を変えたことはあまりに有名であり、松平と前田を両天秤にかけた世渡り上手との評が一般的なようです。
松前家の墓所はさほど広い敷地ではないのですが、慶広の墓は他の墓の影に隠れるようにあるために最初は見落としてしまいました。
墓所を後にして歩きながら、それならiPhoneで慶広の墓はどこにあるのかを調べて、この墓所にあると分かって蚊に食われながらも粘って探した結果です。

その慶広の墓と並んでひっそりと隠れるようにあるのが、蠣崎季繁、蠣崎信広、蠣崎光広、蠣崎義広、蠣崎季広、蠣崎舜広の墓です。
蠣崎季繁は信広の義父であり、コシャマインの戦いで武功のあった信広に養女を嫁がせて家督を譲ったとされています。
蠣崎家当主の正室との合同墓であり、蠣崎家の初代とされることもあるようです。
またその季繁の養子となって蠣崎家の隆盛の礎を築いた信広は若狭武田氏の出身で、元は武田信広と名乗っていました。
松前家の家紋は武田菱であり、この松前家墓所にも武田菱が飾られていました。
信広が若狭武田氏の出であることには異論もあり、南部光政に厚遇をされたことから南部氏の出身とも言われているようですが、いずれにせよ源氏であることに違いはありません。
この信広の墓も、子である2代の光広、孫である3代の義広、ひ孫である4代の季広との合同墓であり、法幢寺が開基をされたときに建立をされたとのことです。
また慶広の兄である舜広は、理由は不明ですが姉に毒殺をされています。
同じく慶広の次兄にあたる元広も姉に毒殺をされており、そのために三男である慶広が季広の跡を継いで5代となりました。
しかしその姉が慶広を推していたわけでもないようで、その裏に何があったのかはよく分かりません。

慶広の嫡男が盛広ですが、父に先立って世を去りました。
従って歴代藩主に名を連ねてはいませんが、ここでは6代に数えられています。
その盛広の子が7代の公広で、祖父の慶広の跡を継いで松前藩の2代藩主となります。

ここからは守備範囲から外れつつありますので、ちょっと駆け足になります。
8代の氏広は公広の次男で、兄の兼広が早世をしたために家督を継ぎます。
しかし27歳の若さで氏広も没し、跡を継いだ嫡男である9代の高広も23歳で没するなど松前家の受難は続きます。
ようやくに高広の嫡男の矩広が10代として長命を繋ぎますが、今度は3人の息子に先立たれて一門から養子を取ることになるのですから皮肉としか言いようがありません。
その11代となる邦広は慶広の次男である忠広のひ孫にあたり、他にも近しい一門がいながらも家督を継いだのは忠広の系統が幕臣となっていたからなのでしょう。
その後は12代の資広、13代の道広、14代の章広と穏やかに長男が跡を継ぎましたが、章広の嫡男であった次男の見広が父に先立って22歳で亡くなったために見広の長男である良広が15代を継ぎ、その良広も子がないままに16歳で卒したために弟の昌広が16代となります。
しかしこの昌広も病弱で29歳で世を去り、嫡男の徳広が幼少だったために叔父にあたる14代の章広の六男である崇広が17代を継ぐことになるのですが、この崇広が福山館を松前城に改築をしたときの藩主であり、また寺社奉行から老中と幕府の要職に就くなどかなりの人物であったようです。
その崇広の跡は件の徳広が継いで18代となりますが、やはり病弱で僅か25歳で死したのですから重臣の専横が続いて藩内が混乱をするのも当然でしょう。
そんな中で徳広の長男である修広が19代となりますが、この修広が松前藩の最後の藩主として明治維新を迎えることとなりました。

短命な藩主が多かった割には基本的には直系が継いでおり、家祖である蠣崎信広や藩祖である松前慶広の血が受け継がれているのは歴史ファンとしては嬉しいことです。
これは松前藩が幕末には3万石になったものの基本的には1万石とぎりぎりの大名格だったことで、他の大名のように将軍家の一門から養子を送り込まれることがなかったからなのかもしれず、また将軍家から偏諱を受けることなく通字である「広」を守り通せた理由ではないかと考えます。
このあたりは戦国乱世を泳ぎ切った松前慶広からすれば痛し痒しのところはあるでしょうが、伊達慶邦や前田慶寧などのように先祖が泣くような名前で幕末を迎えた家に比べればマシだと、そう草葉の陰で喜んでくれているのではないかと思います。


【2011年9月 北海道の旅】
でっかいどー北海道
でっかいどー北海道 旅情篇
でっかいどー北海道 旅程篇
でっかいどー北海道 史跡巡り篇 函館の巻
でっかいどー北海道 史跡巡り篇 根室の巻
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でっかいどー北海道 おみやげ篇

 


でっかいどー北海道 史跡巡り篇 函館の巻

2011-09-23 23:00:21 | 日本史

 

北海道は広大ながらも私が守備範囲とする戦国期を中心とした時代の史跡は、その歴史との関わり合いに比例をするかのようにあまり多くはありません。
そのために北海道はこれまで函館しか訪れたことがなかったのですが、その函館も大きく脚光を浴びたのは幕末の箱館戦争ですので私からすればちょっと外れています。
それでも城があれば足を運ぶのが私の習性ですので、今回の旅の最初の地に函館を選んだことは必然とも言えます。

その函館にあるのが五稜郭で、もしかしたら知名度からすればかなり高位に位置するかもしれません。
築城をされたのが幕末も幕末、1866年にヨーロッパの稜堡式の城として産声を上げました。
日米和親条約による函館港の開港がそのきっかけとも言われており、しかし内戦の舞台となったのですから皮肉なものです。
そしてその箱館戦争により落城をしたことで1869年に廃城となりましたので僅か3年の命であり、建物も全て取り壊されてしまいました。
それでも堀や石垣が残されていますので城フリークとしては胸が高鳴りますし、きっちりと整備をしてくれていることに感謝の念でいっぱいです。

五稜郭は星形をしていることが有名で、五つの稜堡があることからそう呼ばれています。
当時は柳野城、あるいは亀田御役所土塁とも言われていたそうで、国の特別史跡に指定をされています。
この日本の城としては特異な構造であることがメジャーである理由だと思われ、そして当然のごとく大手にあたる場所に全容が分かる模型が設置をされていました。

当時の遺構は残されていませんが、昨年に箱館奉行所が復元をされています。
ただいわゆる櫓などとは違うために個人的な興味が薄く、外から眺めただけでスルーをしました。
それなりの展示がされているとの案内はあったものの、言葉の分からない集団が騒ぎながらの混雑状態だったのも理由の一つです。
周りを見れば修学旅行と思しき集団もいましたし、時期が悪かったのかもしれません。

この砲台は本物だとの説明板がありましたが、意外に小さいなとは正直な感想です。
もちろん大きさと威力に直接的な関係は無いのかもしれませんが、ちょっとした肩すかしです。
そもそもが時代遅れの要塞だったとの評価もされている五稜郭に、どれだけの砲台が設置をされていたのかが気になります。

その五稜郭を訪れた際に、どうしても避けられないのが五稜郭タワーです。
星形に大きな意味があるために城内を歩いただけでは物足りませんので、840円とぼったくりの料金ながらも利用をせざるをえません。
この五稜郭タワーを訪れずして五稜郭に行ったことにはならない、とは言い過ぎかもしれませんが、そのぐらいに重要なポジションを占めています。

展望台には当然のように、その全容が分かる模型が設置をされています。
先の模型よりもこちらの方が立体感がありますし、展望台から見える五稜郭と見比べられるのは嬉しいです。
もっともこれぐらいはやってくれなければ高い料金が泣きますので、必要以上の感謝はしないことにします。

ようやくに全貌が明らかとなる、これが五稜郭です。
残念なことにガラスの幅が狭いために、窓枠に邪魔をされて全体を撮すことができません。
航空写真でもない限りは、あるいはかなりの広角レンズでもなければ全部を撮すことは無理ですので、世の中に出ている五稜郭の写真の多くがこういったものになっています。
自分の目でしっかりと見てきたので多少なりとも満足はしましたが、その五稜郭タワーで売っていた絵はがきなども同様なのには笑わせてもらいました。

五稜郭を舞台とした箱館戦争で有名なのは、やはり土方歳三です。
箱館政権、続に言う蝦夷共和国では陸軍奉行並と現在の知名度からすれば低いところに位置していましたが、その土方よりも重職だった面々は全て箱館戦争後も生き残っていますので、壮烈な戦死を遂げた土方に人気が集まるのは判官贔屓の日本人のDNAによるものなのでしょう。
残された写真では坂上忍を思わせる二枚目の土方も、展望台にある銅像では冴えないオヤジとなっています。

五稜郭タワーの一階にも、これでもかと土方歳三の像があります。
徳川家の三つ葉葵と箱館政権の主力部隊として活躍をした額兵隊の旗に守られるように立っていますので、やはり新撰組の鬼の副長が一番のヒーローなのでしょう。
総裁であった榎本武揚などは形無しですが、こればっかりは仕方がありません。

展望台のそれと比べればまだマシですが、それでも34歳で世を去った土方歳三と考えればオヤジの印象は拭えません。
単に写真うつりが良かっただけなのかもしれませんが、ヒーローとして持ち上げるのであればもう少し配慮があってもよいでしょう。
こちらの像の脇には経歴の紹介とともに件の写真の載った説明板があるだけに、その出来に不満を持った方も多いのではないかと思います。

五稜郭を後にして次に向かったのは、こちらも国の史跡となっている四稜郭です。
四つの稜堡があることからそう呼ばれているのは五稜郭と同様で、その五稜郭の支城的な位置づけで築城をされました。
そうは言いながらも城と呼ぶにはあまりに小さく、建物も無かったとのことですから砦と呼ぶのもおこがましいかもしれません。

遺構は土塁のみで、しかしきちんと整備をされていました。
国の史跡ではありながらも観光マップからは忘れられた存在で、また五稜郭からそれなりの距離がありますのでカーナビの導きがなければ行き着かなかったかもしれません。
派手さがないので観光の目玉にはなりえないのでしょうが、その状態からすればもったいない気がします。
もっとも訪れる人が少ないからこそ状態が保たれているのかもしれず、平日ではあったのですが私以外には犬の散歩をしている人が一人いただけでした。

以前に来たときには函館山から夜景を見たり、あるいはトラピスチヌ修道院や赤レンガ倉庫などを見て回ったのですが、今回は偶然に賭けることとしました。
つまりは五稜郭などに行く途中で見かけたら、という消極的なもので、これは年齢を重ねるにつれて守備範囲が狭まっていることが理由です。
その偶然はしかしながら一回しか訪れず、中島三郎父子最後之地のみです。
四稜郭からの帰りがけに土方歳三が討ち死にをした場所の案内板もあったのですが、ただの場所を見に行くには天気の下り坂が気になりすぎていたため、あっさりとパスをしました。
そして今回の旅の最大の目的である松前に向けて、函館の地を後にします。


【2011年9月 北海道の旅】
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がんばろう東北 史跡巡り篇 秋田、横手の巻

2011-09-06 01:43:25 | 日本史

 

最終日はやや雲が出たときもありましたが基本的には晴れ模様で、全日ともに天気に恵まれて最高の旅路となりました。
長宗我部フリークであるとともに佐竹フリークでもある自分としては羽後の地には相応の思い入れがあり、かつての本拠であった常陸が水戸徳川家によってその痕跡を完膚無きままに消し去られてしまったとはと言い過ぎかもしれませんが、そんなこともあって羽後が心の支えだったりもします。
ただ関ヶ原以降の移封であるために当然のごとく戦国時代の遺構は残されておらず、自分としては悲しい現実がそこにあります。

久保田城趾は千秋公園として整備をされており、大手門にあたるところから坂を立ち漕ぎで一気に登ると二ノ丸の地に佐竹資料館があります。
以前に訪れたときには休館日だったため、実質的には今回が初めてとなります。
さほど大きな建物ではありませんが戦旗や甲胄などが展示をされており、また親切な係の方にいろいろと説明をしていただきました。

資料館の前に自転車を留めて、長坂を登ると御物頭御番所が姿を見せます。
城内の建造物はほぼ焼失をしてしまっているため、この御物頭御番所が唯一の遺構です。
本丸に至る表門の脇に位置しており、ぱっと見は分かりにくいかもしれませんが内部は二階建ての構造となっています。

こちらは本丸の玄関口にある表門です。
2001年の再建とのことですので、おそらくは前回に来たときには無かったはずです。
残されている絵図や発掘調査の結果を基に木造二階建て瓦葺き櫓門で忠実に復元をされており、なかなか立派な作りに圧倒をされました。

本丸には佐竹義堯の像があります。
久保田藩十二代の藩主にして最後の藩主でもあり、相馬中村藩の三男から佐竹支藩の養子に入り、最終的に佐竹宗家を継ぎました。
ただ佐竹氏と相馬氏とは血縁関係があるために、佐竹義重の血は受け継がれています。
幕末の人物ですから守備範囲的には完全に外れるのですが、せっかくですのでカメラに納めたといったところです。

本丸の北西に位置する、武器庫を兼ねていた御隅櫓です。
なかなか写真を撮るのが難しいところにあり、かなり撮影者泣かせです。
久保田城は幕府をはばかってか天守閣が造られておらず、それでもこの御隅櫓がその代わりであったということでもなく、本丸には藩主が住む本丸御殿が別にありました。
それであればその本丸御殿を復元すればいいのにとも思うのですが、やはり日本人のDNAに刷り込まれているのは天守閣、そして櫓なのでしょう。
それらを見たときの血の騒ぎには痛いぐらいの覚えがありますので、とても否定はできません。

天徳寺は佐竹氏の菩提寺であり、総門と山門は城門に負けないぐらいの偉容を誇っています。
開創当時は本拠であった常陸にあったのですが、佐竹氏が移封をされたことで羽後の地に移ってきました。
ちなみに常陸にも天徳寺は残されているそうです。

その天徳寺にある佐竹家霊屋は普段は公開をされておらず、柵の外から覗くようにして写真を撮りました。
佐竹義宣の墓所もこのどこかにあるはずなのですが、当然のことながらよく分かりません。
一般公開をされるのは8月16~17日とのことですのでそこでなければ巡り合うことはできないわけで、かなりハードルが高いです。
土佐の長宗我部のように寂れてしまうのも悲しいのですが、これはこれで何とも微妙な感じがします。

この旅の最後の目的地は横手で、自分としては小野寺氏のイメージが強いのですが現在は佐竹氏の支城の色合いが濃くなっています。
伊達盛重、伊達政宗の叔父である国分盛重と言った方がとおりがよいようにも思いますが、伊達家を出奔した後に横手城の初代の城代となりました。
複雑な血縁関係もあって伊達盛重は佐竹義宣の叔父でもあるわけで、それなりの待遇をしたのでしょう。

その後は須田盛秀を経て佐竹一門の戸村氏が城代を務めて幕末を迎えます。
一時は奥羽列藩同盟に名を連ねた久保田藩は途中で新政府軍に寝返ったために、仙台藩と庄内藩に攻められて落城をしました。
現在の天守閣は模擬天守であり資料的な価値は皆無とのことで、コンクリート造りの歴史資料館と考えればよいでしょう。
それでも興奮をするのは先に書いたとおりDNAが騒ぎ出すからであろうと、そう確信をしています。

この横手には宇都宮釣り天上事件で有名な本多正純が流されてきています。
面白おかしく喧伝をされている釣り天上は事実無根であることは当時からハッキリとしていたことで、要は土井利勝らとの政争に敗れたことによる後付けの理由なのでしょう。
その本多正純は15年後に横手の地で没して正平寺に葬られますが完全に調査不足で、小野寺泰道の墓所もあるとのことで絶対に行かなければならなかったのですが、気持ちはすっかりと横手やきそばに奪われてしまったことで後の祭りです。
天気の心配ばかりをして計画が疎かになったことを反省して、今後の糧にしなければなりません。


【2011年8月 北東北の旅】
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がんばろう東北 史跡巡り篇 盛岡、三戸の巻
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がんばろう東北 史跡巡り篇 弘前の巻

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コメント (2)

がんばろう東北 史跡巡り篇 弘前の巻

2011-09-05 21:26:38 | 日本史

 

三日目は弘前で、またしても肌のダメージが心配になるぐらいの晴天でした。
曇りや雨は困るものの、晴れたら晴れたで写真を撮る際の逆光が気になるという贅沢な悩みを抱えての散策でしたが、見るところが多くてかなり楽しく過ごすことができました。
前日からのギャップもあってかなりのハイテンションで、カーナビの使い方に慣れたこともあってこの旅で一番にアクティブに動き回った弘前です。

弘前城には日本で12箇所しか残されていない現存天守があり、また3つの櫓と5つの門も天守閣と合わせて国の重要文化財に指定をされています。
これだけの遺構が残されている城は日本でも数少なく、もっと注目をされてもよいように思います。
どこの門から入って巡るのが一番に効率的かを考えもしたのですが、面倒くさくなったので弘前駅から最寄りの東門から中に入りました。

東門を抜けると三ノ丸となり、その三ノ丸と二ノ丸の間に鎮座をしているのが東内門です。
これだけの構えの門が一つでもあれば感動ものなのですが、ここ弘前城には複数残されているのですから恐れ入るしかありません。
どういった経緯で解体をされなかったのかは分かりませんが、津軽氏の尽力もあったのでしょう。

東内門を抜けると二ノ丸から冒頭の天守閣を望むことができます。
これを見てしまうと一気に向かいたくもなるのですが、ここは気持ちをグッと抑えて右手、方角で言えば北に向かって進むと与力番所があります。
こちらは再建をされたものだからなのかもしれませんが入ろうと思えば入れる状態となっていたのですが、入っていいのかどうかが分からなかったのでやめておきました。

さらに北に進むと丑寅櫓があります。
文字どおりに城の北東を守るための櫓で、ここ二ノ丸に配されています。
城内は道路整備のためかあちらこちらで工事をしており、この丑寅櫓の近くもパワーシャベルなどが所狭しと動き回っていたために通行が制限をされていたのですが、写真を撮るために行ったり来たりで交通整理の方にかなり迷惑をかけてしまって申し訳なかったです。

そのまま北に向かうと一気に広い場所に抜けますが、あまり他では聞かない四ノ丸がそこにあります。
護国神社があったのですが軽くスルーをして、北門を抜けて場外に出ることにしました。
中をぐるっと回ろうかとも思ったのですが通行止めになっている所がままあったことと、堀を眺めるのもよいだろうと思ったのが理由です。

その堀を頼りに時計回りにぐるっと反対側に回ると追手門があります。
その名のとおりに城の正面を守る門で、本来はここから入って城を巡るのが王道なのでしょう。
東門には無かった弘前城趾の碑がこちらにはありましたし、ほんのちょっとだけ後悔をしました。
ただ築城当時は北が正面口だったようで、先に抜けてきた北門が追手門と呼ばれていたらしいとは豆知識です。
いずれにせよ東門から入った自分には、どうにも関係のない話だったりもします。

追手門を抜けて北に進むと南内門があります。
天守から見て南にあるので南内門であり、東内門と同じく三ノ丸と二ノ丸を遮断する役割を担っているのでしょう。
どの門もそうですが外側ら見れば門の正面が狭くなっており、コの字に曲げることで一気に攻められるのを避ける造りとなっています。
ほとんどの写真が斜めからしか撮れていないのがその理由で、かなり立派な門であるためにそれなりの距離を取らなければ全体が写らないためにこういった構図になっています。

しばらく歩くと植物園があるのですが、その陰でうっかりすると見落としがちなところに辰巳櫓があります。
位置的には南内門を抜ければ見えてもおかしくはないのですが、鬱蒼とした木々がその姿を隠してしまっているのが残念だったりもします。
こちらもその名のとおりに城の南東を守るための櫓で、かなり広い面積を占めている植物園に入ればもっときちんと見ることができたらしいのですが、そのときにはよく分からなかったのでスルーをしたことで遠目にしか見ることができなかったのが残念ではありました。

二ノ丸の南西に位置するのが、同じくその方角から名付けられたのであろう未申櫓です。
一見すると丑寅櫓、辰巳櫓との違いが分かりづらいのですが、窓の作りなどが微妙に違います。
ただどれがどれかと問われても自分にはハードルが高すぎますし、同じ城を守る櫓としての統一美と考えればよいのかなと思います。

いよいよお目当ての天守閣です。
築城当時の天守閣は五層の巨大なものであったようで、現在とは違い本丸の南西の場所にありました。
落雷で焼失をして以降は再建がされなかったのですが、本丸の南東にあった辰巳櫓、二ノ丸の辰巳櫓とは別の櫓を改築したものが現在の天守閣になります。
武家諸法度により天守閣の新築は禁じられていたために、正式には御三階櫓と呼ばれていたとのことです。

そんなこともあってか、やや小ぶりな天守閣ではあります。
それでも日本最北の現存天守ですし、末永く大切にしていきたいものです。
また近くに桜のトンネルもありましたし、城内にもいたるところに桜が植えられていましたので、できれば次は桜が満開の時期に訪れてみたいと思います。

弘前城を出て次に向かったのは、藩祖である津軽為信の菩提寺である革秀寺です。
その津軽為信の霊屋は柵に囲まれており寺の方に声をかけて中に入らせてもらったものの、国の重要文化財ですので当然のことながら霊屋の中まで入ることはできません。
当時としては希少だった朱色に彩られた霊屋は、藩祖に対する崇高の念が感じられました。

誓願寺の山門は日本で唯一のこけら葺き重層四脚門で、これまた国の重要文化財です。
懸魚に鶴と亀が彫刻をされていることから鶴亀門とも呼ばれているらしいのですが、残念ながらよく分かりませんでした。

左から長勝寺黒門、栄螺堂、そして長勝寺です。
この長勝寺黒門から長勝寺に至る500メートルちょっとの間に33もの寺院が建ち並び、長勝寺構えとも禅林街とも呼ばれており、有事の際の出城の役割を担っていたとのことです。
まっすぐに伸びた道路の両脇の寺院群は威圧感すらあり、なるほどと思わせるだけの偉容を誇っていました。
また栄螺堂は回廊式の構造になっており会津若松にも倍以上の大きさのものがあり昇ることができるのですが、弘前では非公開となっています。

こちらは法源寺にある、大浦城から移設をしたとされている城門です。
その規模からして信憑性が今ひとつなのですが、それらしき立て看板はありました。
津軽為信は久慈氏の出身と言われており、大浦為則の婿養子となって大浦城主となりましたので、そういう意味では原点の城の遺構と言えなくもありません。

最勝院の五重塔です。
もしかすると弘前城に匹敵をするぐらいに、弘前ではメジャーな観光地かもしれません。
国の重要文化財に指定をされた五重塔としては最北に位置するもので、完成までに10年以上を要したとのことです。
こういったものに疎い自分ですら、しばし見とれるだけの様式美があります。

弘前城の東門の近くにある弘前文化センター前に、津軽為信の像が建っています。
元々は本丸に建立をされていたものが戦時中に金属供出のために鋳つぶされてしまい、2004年にこの場所に復元をされました。
よって以前に弘前を訪れたときにはまだ無かったものですので、今回に初めて見ることになります。
触れなかったので材質は分からないものの同寸のものが弘前市観光館に展示をされており、ミニチュアを販売して欲しいと思うぐらいの素晴らしさに感動をしました。
個人的にはどうでもいいご当地キティちゃんグッズなどを作るぐらいでしたら、こういったものに力を入れてもらいたいものです。


【2011年8月 北東北の旅】
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がんばろう東北 史跡巡り篇 八戸の巻

2011-09-05 00:51:36 | 日本史

 

二日目は八戸です。
この日も笑っちゃうぐらいの晴天で、天気予報にやきもきとしていたのが嘘のような展開です。
その八戸は南部氏の惣領であったとも言われている根城南部氏の本拠でしたので、初めて訪れることもあってかなりの期待感がありました。
ただ結果的には自分の守備範囲とは違ったことを痛感した、そんな一日となってしまいました。

根城は根城南部氏、一般的には八戸氏が南北朝時代に築いた城です。
そのために城と言うよりは館との表現が正しいと思われ、実際問題として自分の中の概念である城とはかけ離れた存在でした。
遺構としての土塁などがしっかりと残されているので資料的な価値は高いのでしょうが、やはり日本100名城に指定をされていなければ訪れなかったと思います。

領主が住んでいた主殿はさすがに規模が大きく、中には当時の生活を想定したのであろう人形などが配置をされていました。
ただこれも時代が下れば裕福な商家の建物と言われても分からないかもしれず、何とも複雑な気分です。
このあたりの感覚は人それぞれの嗜好や志向によるものでしょうから仕方のないところで、自分には合わなかった、ただそれだけです。

敷地内には多くの建造物が復元、再建をされています。
上段左から東門、納屋、上馬屋、中馬屋、番所、下段左から工房、野鍛冶場、鍛冶工房、板蔵、堀跡となります。
堀跡以外は柵で囲まれたいわゆる本丸に配されており、しかし納屋や工房、鍛冶工房などは竪穴式だったりもしますのでいつの時代だよと思わずつぶやいたりもしましたし、順路に沿って歩いて終わりといった感じでさほどの印象は残りませんでした。
ただ手入れがかなり行き届いていることは分かりましたし、貴重な施設であることは間違いないでしょう。

こちらは根城と八戸市博物館の敷地の境にある、旧八戸城東門です。
八戸城からこちらに移設をされたもので、八戸市の指定文化財となっています。
なぜにここにあるのかはよく分かりませんが、根城がああいったものですのでかなり違和感があったことは否めません。

八戸市博物館の前には、根城を築いたと言われている南部師行像があります。
南部師行は北畠顕家の配下として南朝を陸奥の地で支えて、そして顕家に従って上洛をした際にその顕家とともに討ち死にをしました。
この師行の系統が根城南部氏、いわゆる八戸氏となり、戦国時代の八戸政栄に繋がります。

八戸市博物館には南部氏にかかる資料の展示がされていましたが、根城南部氏のものがさほど多くはなかったのが残念でした。
惣領を三戸南部氏に奪われたことで歴史の陰に隠れてしまったところが多かったのも理由だと思われ、やはり敗者には厳しい世の中ということなのでしょう。
三戸南部氏を惣領に引き上げた南部信直が優秀な武将であったとは思っていませんが、時代を見る目だけは確かであったと言えます。

根城とは離れた場所にある八戸城は、ありがちな役所と公園に化けていました。
八戸城は江戸時代の築城で、また根城南部氏とは全く関係がありません。
根城南部氏は八戸から遠野に移されてしまい、その跡に宗家から分かれた南部直房が八戸藩を新たに立てて八戸城に入りました。
ていのいい乗っ取りのようなもので、しかし根城南部氏改め遠野南部氏は家中ではそれなりの地位を与えられましたので冷遇をされたというわけでもないようです。

藩祖ということもあってか、南部直房像が城跡に鎮座をしています。
南部信直の孫にあたりますので戦国の遺風は残っていた時代の人物なのでしょうが、申し訳ないながらも地味なイメージは否めません。
説明板などがないのは地元の方にとっては常識となっているのか、はたまた軽視をされているのかが激しく気になったりもします。

八戸城の遺構として残されているのは、先の東門とこの角御殿表門のみとなります。
現在は市の施設の門となっており、ちょっと悲しい立て看板があるなどして趣が感じられません。
出足から蹴躓いたこともありましたが、どうにも見るもの聞くものに不満たらたらとなってしまったのは自分勝手な思いであることは承知ながらも、これが八戸の正直な感想です。
ただきっと歳を重ねれば何か違ったものが見えてくるのではないかと、来るのが早すぎたのだろうと思えば受け止め方も変わってきますので、そう自分に言い聞かせることにします。


【2011年8月 北東北の旅】
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がんばろう東北 史跡巡り篇 盛岡、三戸の巻

2011-09-04 13:53:52 | 日本史

 

今回の北東北の旅は岩手、青森、秋田と時計の反対回りで巡っていくこととしました。
これまでであればのんびりと各駅列車を使うか、あるいは寝台特急で目的地に入るのが常だったのですが、今回は時間がないので新幹線の利用です。
記憶違いでなければ東北新幹線を利用するのは初めてのことで、平日の始発ということもあってかかなりガラガラだったのは当たり前と言えば当たり前です。
途中の郡山あたりでかなりの雨に遭遇をしてイヤな予感もしたのですが、最初の目的地である盛岡に着いてみれば心配無用の青空が広がっていました。

まずは城跡の側のもりおか歴史文化館で下調べです。
前回に来たときには訪れた記憶がないのですが、それも当然で今年の7月に開館をしたとのことです。
南部家の至宝と称した展示をしていましたがそもそも盛岡城が1598年に築城をされて戦国時代の末期のものですから、個人的にはちょっと期待外れではありました。
盛岡城の往時の模型があったのが収穫で、これをイメージしながら城跡に行ったことで自分がどこにいるかを意識できたのは大きかったです。

残念なことに盛岡城には櫓などの遺構は残されていません。
そもそも天守閣は最初から無かったのですが、その他の建造物も明治初頭に解体をされています。
戦災で焼失をしたのであればまだしも、なぜに歴史的遺産を自らの手で葬ってしまったのかが理解に苦しみます。
これは日本全国でのことですから明治政府の意向が働いたと思われ、まだ維新の混乱が続いていた時期ですから叛乱の拠点になることを怖れたのかもしれません。
その代わりと言ってはなんですが東北ではあまり多くはない立派な石垣が特徴で、これだけのものが残っているのはかなり珍しいです。
曲線美が見事ですし、かなり神経を使った手入れがされていることがよく分かりました。

城内は三ノ丸、二ノ丸、本丸と区切られており、しかし一見するとただの広場にしか見えません。
遺構がないのも手伝っているのでしょうが、木が生い茂っていて輪郭などが分かりづらいのがその理由だと思います。
すっかりと公園の雰囲気で涼を求めて木陰で刻を過ごしている人が多く見られましたので、地元の方にとっては憩いの場なのでしょう。
こういった場所とは縁遠いところに住んでいますので、かなり羨ましく感じたのが正直なところです。

城内の唯一の遺構がこの彦御蔵ですが、城外にあったものを移設したものですから正確には盛岡城の遺構ではありません。
場所的にも見落としがちなところにありますし、積極的なアピールはされていないようです。
なんだかもったいないような気もしますが、門や櫓に比べれば華やかさに欠けますので仕方がないのかもしれません。

盛岡からいわて銀河鉄道に揺られて数駅、次に向かったのは三戸です。
南部氏は複数の家に分かれて戦国時代末期に三戸南部氏が宗家の位置づけになったのですが、しかし三戸城がその本拠であり続けていたわけではないようです。
それでも南部信直は三戸城を本拠としていましたし、盛岡城に移った後も城代が置かれて重要な位置を占めていました。
ただし明治維新を待たずして廃城となり、当時の建造物は全て失われています。

三戸駅からの交通の便はかなり悪いです。
レンタサイクルもありませんしバスも1時間に1本もあればいいほうで、しかも電車との時間調整がされていないので下調べをせずに行けば途方に暮れることでしょう。
南部バスに乗ること10分ちょっとの距離ではあるのですが、もう少し何とかして欲しいのが旅人としての我が儘だったりします。

それなりに急な坂を登っていくと、綱御門にたどり着きます。
20年ほど前に復元をされたものですが、そもそも三戸城に来たのは初めてですのであまり関係はありません。
登城をする際の最初の門で、その脇には武者溜跡がありましたので城にとっては最初の防衛線の位置づけだったのでしょう。

再建をされた隅櫓は歴史資料館を兼ねており、南部氏の歴史を語るパネルや甲冑が展示をされています。
天守閣ではなく櫓ですからさほど大きな作りではないのですが、この旅の最初の建造物でしたので嬉しさのあまり階段を駆け上ってしまいました。
やはりコンクリート造りであっても城を見ると嬉しくなってきますし、これがあるから史跡巡りはやめられません。
景気が落ち込んでいるために地方自治体にその体力は残されていないでしょうが、できうる限り積極的にいろいろな建造物の再建を考えてもらいたいものです。

この隅櫓から少し下がったところに本丸跡があるという不思議な縄張りではあるのですが、そもそも隅櫓が模擬天守の扱いですから考えても仕方のないことなのかもしれません。
悲しかったのは売店が廃墟のようにうらぶれていたことで、もう何年も前に閉店になったかのような雰囲気を醸し出しています。
もっとも三戸城を目当てにくる人などはたかがしれていると思われますのでなかなか商売にはならないでしょうし、春先の花見のときにだけ開店をしているのかもしれず、そういう意味では海の家と同じと思えばいいのかなと、どうでもいい余計な心配をしたりもしていました。

困ったことに帰りのバスは1時間半ほど先にしかなかったため、カーナビを頼りにてくてくと駅に向かって歩き出しました。
3キロ弱ほどあったので1時間ぐらいかかったのですが、そこで予定外の発見があったのでラッキーだったりもします。
事前調査が甘かったと言ってしまえばそれまでですが、三戸城の搦め手門を移設したと言われている法泉寺の山門と、同じく表門を移設したと言われている竜川寺の山門がその路上にありましたので、ちょっとしたサプライズにかなり興奮をした自分がいます。
やたらとニコニコしながら眺め、写真を撮り、案内板を食い入るように見ていたからなのでしょうが、近くを通った人にかなり怪訝な表情をされてしまいました。


【2011年8月 北東北の旅】
がんばろう東北
がんばろう東北 旅情篇
がんばろう東北 旅程篇
がんばろう東北 史跡巡り篇 八戸の巻
がんばろう東北 史跡巡り篇 弘前の巻

がんばろう東北 史跡巡り篇 秋田、横手の巻

がんばろう東北 グルメ篇
がんばろう東北 おみやげ篇

 

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飛んで八丈島

2011-05-26 02:10:53 | 日本史

 

今日は振替休日を取って、八丈島に日帰りで行ってきました。
正直なところ守備範囲的に八丈島には見るべき史跡はあまり無いのですが、心の洗濯を兼ねての旅立ちです。
陸マイラーとして球場周辺で稼ぎまくったANAマイルが17万を越えて、そのうち来年の1月に5万マイルが有効期限切れとなることで飛行機でしか行けないところに行こうと思い立ち、沖縄や北海道に先駆けての第一弾としての八丈島です。
一日に三便しかないため、会社に行くよりも早起きをして朝の便で八丈島に入り、夕方の便で帰ってきました。
昨日までが雨、そして明日からまた天気が下り坂の中で、今日はピーカンでしたので四国旅行で失墜をした晴れ男の復権です。

10年以上前の米国出張、そして昨年から今年にかけての中国出張と仕事以外で飛行機に乗ったことがありませんでしたので、特典航空券ではありながらも自腹を切っての飛行機は初めてですし、つまりは国内線に乗るのも初めてということです。
ですから乗り慣れている方からすると失笑ものでしょうが、どうしても写真を撮ってしまいます。
それにしても国際線とは違って搭乗手続きが楽なのには驚きましたし、事前予約をしておけば携帯電話だけで済むのは日本ならではなのでしょう。
iPhoneを持ちながらもガラケーを手放せない理由は、おサイフケータイともどもこういった利便性に他なりません。

乗ってしまえば八丈島まで1時間もかからず、まさにあっという間です。
行きはやや興奮気味だったものの帰りは早起きによる寝不足で離陸にさえ気づかずの爆睡で、ようやくに着陸の衝撃で目が覚めました。
そして八丈島は東京都ながらも伊豆国立公園、そして南国の雰囲気を漂わせつつ不思議な風情で疲れた中年を出迎えてくれました。

八丈島での足は電動アシスト自転車で、一日で2500円という相応のお値段でした。
風力発電でバッテリーを充電するというのが八丈島観光協会のエコの売りで、それっぽいものがぐるぐると回っているのは壮観ですが、ちょっとうるさかったです。
ちなみに八丈島はかなりアップダウンがあるため、レンタカーを借りるのであればまだしも、レンタサイクルであれば若さと脚力に自信がある方以外は電動アシスト自転車でなければ無謀だと、これは今日の経験を踏まえて力一杯に主張をしておきます。
また飛行場の出口が市街地と逆方向にあるため、レンタサイクルに行き着くまで30分は歩かなければならないことを念頭に置いて計画を立てることをお奨めします。

私にとっての八丈島は宇喜多秀家の終焉の地であり、まずそれが目的でした。
関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家は各地に潜伏をするものの、最終的には捕らえられて八丈島に流されます。
西軍の副将でしたので本来であれば斬首をされてもおかしくはありませんでしたが、正室の実家である前田家や最後の潜伏先であった島津家への配慮もあって死罪は免れて、遠島という扱いで嫡男、次男とともに罪人として送られました。
その宇喜多秀家は83歳という長寿を保ち、そのときは既に徳川家光の世だったのですから驚きです。
ちなみに左の卒塔婆の形をした石塔が当時の墓碑だったとのことで、説明板にもその旨の記載がありました。
宇喜多家は明治維新まで八丈島で過ごすこととなりましたので一族の墓所、菩提寺もどこかにあるはずなのですが、これは事前リサーチ不足で見つからずじまいです。

次は八丈島歴史民俗資料館です。
宇喜多秀家の資料があるとのことで期待をしていたのですが、正直なところ期待はずれの展示しかありませんでした。
むしろ本拠があった岡山の写真の方が多いぐらいで、流人ということもあって八丈島にはあまり資料が残っていないのかもしれません。
また教科書ではよく見た高床式倉庫が敷地内にあり、しかも再現ものではなく当時からのものとのことで、むしろこちらの方がインパクトありました。
もっとも江戸時代後期のものらしく、高床式倉庫と言えば中世のものかと思っていただけに意外な感じがあります。

そして宇喜多秀家と、正室である豪姫の像です。
さほど大きなものではなく、また幼少時をモチーフにしたもののようですから台座の大きさとのバランスの悪さもあり、ちょっと違和感すらあります。
説明板によれば岡山の方向を向いているらしく、それって八丈島の島民からすればどうよと、思わずそう突っ込みたくなりました。

史跡めぐりとしての八丈島は以上終了で、ここからは自然と相対する刻が始まります。
八丈島は瓢箪の形をしており、北に八丈富士、南に三原山が鎮座をしています。
その周辺をぐるっと舗装をされた道路が囲んでいますので、まず北側を時計回りに、そして南側を逆時計回りに巡って八の字を描くようにペダルを踏み込んできました。

左から八丈富士、八丈島の西にある八丈小島、そして島の北端にある大越鼻灯台です。
この八丈富士には登れるようなのですがサンダル履きだったためにパス、八丈小島は無人島でバトルロワイヤルのロケ地にもなったそうで、また大越鼻灯台の先に見える水平線は地球の丸みを感じられるものとの説明がありましたが自分には無理でした。
この北部は登ったと思えば下るの繰り返しで、それこそ登っているのか下っているのかがペダルの重みでようやく分かるという錯覚に陥りがちな道が続いています。
ただこの北部が楽であったことは、次の南部で思い知らされることになります。

南部はとにかく登り坂がきつく、正直なところ途中で失敗したと後悔をしたぐらいです。
観光協会の方からも普通は南端の末吉温泉まで行って戻ってくると言われており、結局はぐるっと回って帰ったら驚かれました。
それもこれも今日は男湯が露天風呂だったみはらしの湯で30分ほどではありながらも体を休めたからこそだと、やはり温泉は偉大です。
これが無かったら挫折をして、もと来た道をすごすごと帰ったであろうことは想像に難くありません。

頑張ったご褒美が登龍峠からの眺望です。
実際は登龍峠も下り坂の途中でしたので道なりで一番高い位置ではないのですが、快晴であれば三宅島も見えるとのことで絶景でした。
それにしても自転車で標高300メートル以上を登ったことになり、ちょっと誇らしく思ったのが正直なところです。
そしてここからは一気に5キロほどの下り坂が続き、風を切るようにかなり快適に走り下りて登りの苦しさを忘れるぐらいでした。

この登龍峠からの下りはカーブが多かったのですが、特に北部では一直線の登り、下りが多くてスピード感覚を失いそうになりました。
これだけ真っ直ぐな道は初めてかもしれず、この風を切る爽快感は何とも言えない楽しさがありました。
平日の昼間ということもあるのでしょうが走っている車も少なく、まるで自分の占有道路のような感じで走れたこともよかったのだと思います。

自分がどこにいるのかを忘れそうな景色もここそこにあり、とても5月とは思えない陽気も手伝って南国気分でした。
ハイビスカスを映像以外で見たのは初めてですし、圧倒的なアロエの大群には気持ち悪ささえ感じました。
どうやら時期的にアロエの花が咲いていなかったのが残念ではあったのですが、鉢植え以外のアロエを見たのもこれまた初めてですので滅多にできない経験ではあります。

そして地方では珍しくはないのかもしれませんが、ここが都内であることを考えれば丸い郵便ポストや公衆電話は久しぶりに見た気がします。
何ともほのぼのとした感じがある、と言ってしまうと失礼かもしれませんが、思わずどこかで出すつもりで財布に入れていた懸賞ハガキを投函してしまいました。
これで当選でもしてくれれば八丈島さまさまです。

快調だった八丈島での旅ですが、もちろん誤算もありました。
旅と言えばグルメがつきものですが、八丈島は「あしたばうどん」と「島寿司」だと決めて、それぞれ「一休庵」と「あそこ寿司」と食べる店まで決めていました。
しかし前者は休業状態で後者は場所が分からずと散々な目に遭い、計画はもろくも潰えるという最悪の結末です。
それならば次善の策として用意をした八丈島空港で食べるというプランも、帰りの飛行機を待つ時間帯でと考えたことから悲劇が待っていました。

冷静に考えれば八丈島空港としての最終便に乗る予定だったのですから、早々に売り切れとなるのは当然と言えば当然です。
北部から戻ってきたときに昼食にとも思ったのですが、一度に両方であれば夕食にした方がよいと考えたのが間違いでした。
お土産としての島寿司も売り切れていましたし、おそらくは八丈島に来ることはもう無いと思いますので、一生味わうことのないグルメとなったことで悔いが残ります。
やはり思い立ったら吉日だと、そう痛感をした食べ物の恨みです。

お約束のお土産は、八丈島の文字が入った湯飲みと貝殻詰め合わせ、宇喜多秀家のライターとステッカーです。
まるで中学生が観光地の名前が入ったペナントを買うような単純さですが、まあこれも一つの旅の楽しみですから気にしないことにします。
くさやにかなり興味がありつつも冒険に過ぎると思いとどまったことが、吉と出るか凶と出るかは今後次第です。

そして今日の走行記録です。
高知では70キロ以上を走りましたので距離的には劣っていますが、アップダウンを考えれば最長不倒と言ってよいでしょう。
ちょっと気がかりなのは行きの機内で荷物を頭上の収納に入れようとしたときに後ろを強引に通ろうとした人を避けようと無理な体勢になって捻った左膝で、ペダルを踏むのに違和感はなかったのですが、しかし歩いたり階段を降りたりして体重が膝にかかるときに鈍い痛みがあります。
一昨年に高知でこけたときも大丈夫かと思っていたらなかなか痛みが引かなかったために自宅に戻ってから病院に行ったら左手首と尾てい骨が折れていたということもありますので、あまりにホットな箇所だけに妙なことになっていないことを願うばかりです。

 

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北条五代の城

2010-08-15 08:38:46 | 日本史

 

帰省がてら小田原城に行ってきました。
やはり鉄筋コンクリートだろうが建造物があるとテンションが上がり、あいにくの曇天も逆光を気にしないで写真が撮れると前向きに考えることができます。
前回から15年ぶりぐらいですので初めて見るものもあり、楽しい時間を過ごすことができました。

城跡は小田原城址公園となっており、ご多分に漏れず動物園や遊園地が敷地内にあります。
ただ以前に比べると整備が進んだのか、いわゆる史跡っぽい雰囲気となって印象がかなり変わって感じられました。
こちらの馬出門は昨年に復元をされたもので、二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形形式」の門となっています。
まだ一年も経っていませんので、白さが際立って違和感があるぐらいでした。

馬出門を抜けると右手に銅門が見えてきます。
こちらも1997年の復元ですから馬出門とともに見るのは初めてなのですが、かなり立派な作りとなっています。
二の丸の表門であり、当時の絵図を参考にして本来の工法で復元をされたとのことです。

銅門を抜けると二の丸になり、こちらが二の丸側から見た銅門となります。
二の丸には小田原城歴史見聞館や、レンタサイクルの貸し出し所がありました。
ここからは例によって自転車で巡ることになります。

二の丸から本丸に向かう途中にあるのが常盤木門で、1971年の復元ですから見たことがあるはずなのですが、不思議なぐらいに記憶に残っていません。
もしかしたら前回は反対側、遊園地がある方から登ったのかもしれず、以前の駆け足な史跡巡りが思い出されます。
最近は年齢とともに体がついていかなくなったこともありますが、時間に余裕を持ってしらみつぶしに巡る旅となっています。

いよいよ天守閣です。
どうにも体中にアドレナリンが分泌をされるのを止めようがなく、手に汗が出るなどしてハイテンションとなってしまいました。
暫くはグルグルと周りを歩き回り、ベンチで休んでいる人から奇異な目で見られたもののお構いなしに徘徊をする不審者、のごとき存在であったことでしょう。
1960年の復元ですから年季が入っていますが、どうやら本来の姿とはちょっと違った形での復元らしく、しかし関八州に覇を唱えた北条氏の居城らしい偉容を誇っています。
早起きをした甲斐があったと、そう思えるまさに至福の刻です。

その他の建造物としては二の丸の一角に、二の丸隅櫓があります。
関東大震災で倒壊したものを1935年に復興したものですが、予算の関係で1/2の大きさとなってしまっているそうです。
往事はこういった櫓が無数にあったものと思われ、小田原城に限ったことではありませんが、明治維新により多くの城郭が破棄をされたことが悔しくてなりません。

後ろ髪を引かれる思いで城跡を後にした次に向かったのは、北条氏政と氏照の兄弟の墓です。
北条4代の氏政と、軍事面で主導的立場であったと氏照は小田原開城の後に責任を取って切腹をさせられますが、墓石の前にある石の上で腹を切ったと言われています。
このあたりは唾が眉からだらだらと流れてきますが、何にせよ栄華を誇った北条氏の当主の墓にしては寂しい感が否めません。
右が氏政、左が氏照の墓で、右端の大きな墓石は氏政の夫人のものだそうです。

北条氏が滅亡をした後に徳川家康が関東に移封をされますが、小田原城は大久保忠世に与えられます。
忠世は彦左衛門で有名な大久保忠教の兄にあたる人物で、徳川十六神将にも名を連ねています。
その大久保一族の墓所があるのが大久寺で、観光マップにも載っていない城跡からちょっと離れたところにあるのですが、ボランティアの案内の方に教えてもらって行きました。
左から忠世、忠世の嫡男で徳川秀忠の側近であった忠隣、その忠隣の嫡男で若くして病死をしたことが大久保家の改易に繋がったとも言われる忠常の墓となります。
その他にも忠世の叔父の忠俊、その子で忠世の従兄弟になる忠勝、忠勝の次男の行忠の墓がありましたが、詳しくはないので割愛をします。

小田原駅から見て小田原城の反対側、西口の駅前には北条早雲の像があります。
言わずと知れた北条初代ですが、私が子どもの頃には斎藤道三と並んで素浪人から戦国大名までのし上がった奸雄と言われていましたが、今は道三は親子二代での事績であり、早雲も室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出身であることが通説となっています。
また北条を名乗るのは嫡男で北条2代の氏綱からで、ですから正しくは伊勢早雲庵宗瑞となります。

忘れてはならないのが日本100名城スタンプラリーと、お楽しみのお土産です。
先日の佐倉城に続いて関東では2個目で、これで昨年の四国旅行での9個と合わせて11個となりました。
ようやく1割を越えたところで先行きは長そうですが、ライフワークとして着々と埋めていくつもりです。
また死滅をしたと思われていたテレホンカードが売っていたことに欣喜雀躍し、その他では実用品という意味合いでうちわとメモ帳を仕入れました。

昨年から再開をした史跡巡りは今夏の長期休暇を見送ったためにペースが鈍っていますが、日帰りを前提に地道にこなしていこうと思います。
次のターゲットは江戸城ですが、こちらは来月に計画をしています。
往復で70キロほどを自転車で走破をするのか、あるいは無難に現地でレンタサイクルを利用をするか、半月ほどは悩むことになりそうです。

 

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