
初っ端からいきなりの大雨でした。
豊後竹田駅に併設してある観光案内所でレンタサイクルを借りたのですが、担当の方に本当に行くのかと念を押されたぐらいです。
時折に小降りになったときもありましたが、どのぐらいの雨だったかは写真に写っている跳ねっ返りを見ていただければ分かるかと思います。
トップの写真は岡城跡と言えばここという定番の石垣ですが、霧にむせぶ感じはそれはそれで幻想的かもしれません。
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岡城跡は今回が二度目で、前回に来たときにはかなり上まで自転車で登ったはずなのですが、今は駄目だと断られました。
もっともこれだけの雨ですからOKでも自転車では登らなかったですし、その前回は工事車両などが多くありましたので状況が違ったのだと思います。
岡城は戦国期には大友氏の一族である志賀氏の居城で、島津氏の攻勢に対して志賀親次が耐えきったことで有名です。
説明板には播磨から移封をされた中川氏が築いたような内容になっていますが、大幅に手を入れたのはその中川氏の時代ですからあながち間違ってはいないでしょう。
残念ながら明治維新の際の廃城令で全ての建物が破却をされてしまい、悲しいかな何も遺っていません。
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登り口から登っていくとぶつかるのは当たり前ですが大手門跡で、しかしやはり石垣しかありません。
ただ10年ちょっと前に一時的に再建をされたそうで、近くのお土産物屋さんにそのときの写真が置いてありました。
僅か3ヶ月で壊してしまったらしいので見てくれだけで完全な再建ではなかったのでしょうが、なんとももったいない気がします。
国の史跡なので勝手なことはできないのが理由みたいなことをお店の人は言っていましたが、実際のところはよく分かりません。
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そこから進んでいくといろいろな跡があるのですが、言われなければ分からないただの野っ原でしかありません。
このあたりは岡城跡に限らず多くの城跡も似たようなもので、雨の中をちょっとだけ歩いてみましたが礎石のようなものは見当たりませんでした。
こんな建物があったんだよ、ぐらいのつもりでいればいいのでしょう。
写真は左から西ノ丸御殿跡、家老屋敷跡、城代屋敷跡です。
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現在で唯一の建物はこの中川覚左衛門屋敷跡で、もちろん再建をされたものです。
中川氏の家老である中川覚左衛門家は茶道織部流の祖である古田重勝の子孫との説明板ですが、しかし古田織部正は重勝ではなく重然となります。
重勝は織部正ではなく兵部少輔で、一般的には重然の弟である重則の子と言われていますので重然の甥にあたり、中川氏の家老ではなくれっきとした大名です。
また重勝の系統は子の重恒が無嗣断絶をしていますので、その子孫であるはずがありません。
ただ重然は中川清秀の妹、つまりは岡藩の藩祖である秀成の叔母を正室としたため、全くの無関係ではないでしょう。
重然は豊臣氏への内通を疑われて嫡男の重広とともに自害をしており、係累の誰かがつてを頼って中川氏に仕官をしたことは充分に考えられます。
また重然と重勝は混同をされることが多いので、単に説明板もそれが理由だと考えるのが妥当かもしれません。
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この中川覚左衛門屋敷跡はちょっと道を逸れなければ行き着けないのですが、滑るのには充分な急な坂道がありますので要注意です。
元の場所に戻ってから進めば貫木門跡、鎧櫓跡、太鼓櫓跡と続きますが、この貫木門跡の脇から見えるのがトップの石垣です。
また鎧櫓跡は貫木門跡の裏手にあたりますので、この門を守るための櫓の意味合いもあったのでしょう。
いずれもしっかりとした石垣が遺されており、さすがに国の史跡だけのことはあります。
写真は左から貫木門跡、鎧櫓跡、太鼓櫓跡です。
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さらに進めば三ノ丸跡、二ノ丸跡に至りますが、こちらも言われなければ分かりません。
何かそれらしきものがないかと歩き回ってみたのですが、裸足にサンダルが泥まみれになっただけでした。
写真は左が三ノ丸跡、右が二ノ丸跡になりますが、この二ノ丸跡に瀧廉太郎の像があります。
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瀧廉太郎は有名な「荒城の月」をこの岡城をイメージして作曲をしたとも言われていますが、生まれは東京です。
しかし父親に連れられてこの竹田に住んだこともあったようですので、そのときの経験が活かされたのでしょう。
ちなみに瀧家はこの後に訪れた日出藩の家老だったそうで、そちらにも全く同じポーズの銅像がありました。
これは記憶違いかもしれませんが、前回に訪れたときには銅像は今とは違って城の外側を向いていたような気がします。
写真を撮るために距離をとろうとして落ちかけたはずで、あるいは何らかの理由で場所が変わったのかもしれません。
またかなり気をつけたつもりではあったのですが、レンズに水滴がついていたことによる残念な写真にかなり凹み気味です。
岡城跡の最後は本丸跡です。
こちらもありがちな社があるぐらいでこれといったものはなく、大手門と同様に以前に見てくれの天守閣が再建をされた場所がここかどうかは分かりません。
城全体の規模が大きいので当たり前かもしれませんが、、かなり広いなという感想です。
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ところで山城などはどこでも似たようなものなのですが、この岡城跡にも柵などはありません。
側まで寄ればかなり危険で、雨が降っていて滑りやすいときなどはなおさらです。
アメリカなどではこの状態で万が一にでも事故に遭えば訴訟問題となるのでしょうが、自己責任が基本の日本ならではといった感じです。
下城をしたことを誰が確認をしてくれるわけでもありませんので、この険しさですから落ちたら一ヶ月ぐらいは見つからなくても不思議ではありません。
次に向かったのはおたまや公園で、その名のとおりに中川氏の墓所があります。
岡城跡では暫くは雨が弱まったのですが二ノ丸跡あたりからまた強く降りだして、このおたまや公園に着いた頃が一番に酷かったかもしれません。
2代藩主の久盛が中川氏の菩提寺として碧雲寺を創建しましたが、これは父である初代藩主の秀成の法号にちなんでいます。
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ここには中川氏の歴代藩主の墓がありますが、3代の久清は城下北方の大船山に、7代の久慶は江戸に、8代の久貞は城下東方の小富士山に埋葬をされており、また10代の久貴もここ碧雲寺に墓があるはずですが見当たらず説明板にも省かれていましたので何か理由があるのかもしれません。
また12代の久昭と13代の久成の墓は青山霊園にありましたが、現当主によりここに改葬をされています。
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岡藩の初代藩主である秀成は中川清秀の次男で、兄の秀政が朝鮮の役で討ち死にをしたことで家督を継ぎました。
父の清秀は賎ケ岳の合戦で佐久間盛政に攻め殺されたことが有名ですが、従兄弟である高山重友とともに荒木村重に仕えて、その村重が謀反をするきっかけとなったと言われている本願寺への兵粮米の横流しをしたのが清秀の家臣で、かつ村重を唆しながらも自らは織田信長に降ったとも言われています。
秀成は父、兄の跡を継いで播磨三木の城主となりますが、後に豊後岡に移封をされて中川氏はそのまま岡藩主として幕末を迎えました。
2代の久盛は秀成の嫡男で、祖父である清秀を討ち取った盛政の娘を母に持つというかなり特異な出自となります。
写真は左が秀成、右が久盛です。
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ここからは毎度のことながら駆け足です。
久盛の跡は嫡男の久清が3代を継ぎ、4代の久恒、5代の久通、6代の久忠と直系が続きますが、7代の久慶と8代の久貞と続けて他家から養子を取ったことで男系は断たれてしまい、一族からの養女を正室に迎えて女系で血を保とうとしたものの9代の久持が養子に迎えた10代の久貴で完全に清秀の血は消え失せてしまいました。
11代の久教、12代の久昭もまた養子ですし、何ともやるせない気持ちになります。
久昭の長男である13代の久成が久しぶりの実子相続でしたが、この久成のときに幕末を迎えて最後の岡藩主となりました。
写真は上段左から久恒、久通、久忠、久持、久教、久昭&久成です。
【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇
自分の中では岡城跡と福昌寺の写真がお気に入りです。
「裸足にサンダルが泥まみれ」のくだりには失礼ながら笑ってしまいました。
大分に比べれば、きのうの雨で20キロは屁でもない、に同感です(笑)
やはり日程をずらしても結果的に変わらなかったようですから、こういった風情を楽しめたと思うことにします。
今回はかなり蚊に食われたこともあり、裸足にサンダルは卒業しようかなと思案中・・・