オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

南国放浪記 史跡巡り篇 八代の巻

2012-03-24 00:04:43 | 日本史

 

人吉を出て向かったのは八代で、八代亜紀の出身地です。
江戸時代は一国一城令によってかなりの城郭が取り壊されましたが、肥後熊本藩の二つ目の城である八代城は例外とされました。
これは江戸幕府が島津氏を警戒したとも、島原の乱をきっかけとしたキリシタンへの備えのためとも言われているようですが、何にせよ城フリークとしては喜ばしいことです。

それであればまずは八代城跡に、とはいかないのが旅の難しいところで、いつ雨が降ってもおかしくはない天候だったので遠くから攻めることにしました。
そして最初に訪れたのが春光寺です。
ただ一番に遠い相良義陽の墓に行く途中に見つけてしまったというのが本当のところで、あれっ、といった感じです。

この春光寺は八代城の城代だった松井氏の菩提寺です。
ただそれだけではなく、八代城の三の丸にあった永御蔵が移築をされて、その永御蔵門と番所を見ることができます。
どういった経緯かは分かりませんが櫓などが破却をされたり払い下げられたりして残っていないことが多いですから、これは運が良かったとしか言いようがありません。

こちらは松井氏の廟所です。
松井氏は室町幕府の幕臣でしたが、その後に細川氏に仕えて筆頭家老となります。
そして大名並みの3万石の大身で八代城の城代となり、一方で江戸幕府の直臣の身分も併せ持つという複雑な立ち位置のまま明治維新を迎えました。

初代の松井康之は足利義輝に仕えましたが、その義輝が三好三人衆に攻め殺されたことから細川藤孝のもとに身を寄せます。
関ヶ原の戦いでは豊後杵築城に攻め寄せた大友義統を寄せ付けず、その功を賞されて細川忠興から2万6千石を賜りました。
2代の興長は康之の次男で八代城の城代となり、宮本武蔵で有名な松井佐渡とはこの興長のことです。

興長は細川忠興の六男の寄之を養子に迎えて3代とし、松井氏は細川氏の準一門の立場になります。
4代の直之、5代の寿之、6代の豊之と直系が跡を継いでいったようですが、詳しい事蹟などはよく分かりません。
写真は左から寄之、直之、寿之、豊之です。

そして相良義陽の墓ですが、シャレにならないところにありました。
手前から左上の方に辛うじて登り口が見えるのですが、案内の杭が無ければ見落とすところです。
しかも線路の向こう側で心岳寺跡とは違って遮断機どころか踏切すら見当たらず、線路を渡っても朽ち果てたガードレールと思しきものを踏み台にしなければ登り口に行き着けませんので、どこをどう探しても墓に行くためにはそのルートしかありませんから、これは八代観光協会の公認なのだと自分に言い聞かせて無理をさせていただきました。
一見するとガードレールが折れ倒れているので登りやすいようにも見えますが、実際には膝から腰の間ぐらいの高さがあるためにそう簡単なものでもありません。
熊本県のHPにも「義陽の墓には肥薩線を横切らないと行けないため、訪れる人はほとんどいません。」と書いてあります。

願成寺にも相良義陽の墓はありますが、こちらは首塚とのことです。
義陽の子の頼房が葬り石碑を建てた場所は今の線路の辺りだそうで、工事のために今の位置に移されました。
その後も人吉に移したり元に戻したりしたようですが、それらも含めて義陽の首も一緒に動かしたのかどうかが気になります。
今の石碑も当時のものとは思えない感じがありますし、供養塔的な位置づけでなのかもしれません。

次に向かったのが宗覚寺で、加藤忠正の菩提寺です。
忠正の菩提寺は本成寺でしたが移転をした際に墓所だけが残され、その後に松井直之の斡旋で細川綱利が創建をしました。
なぜに墓所だけ残して菩提寺が移転をしたのかは分かりませんが、そのために忠正の菩提寺は二寺あることになります。

忠正は加藤清正の次男で、兄が早世をしたために嫡子となりました。
そして父と同じ主計頭となりましたが、しかし僅か9歳で疱瘡により病死をします。
熊本ではなく八代に墓所があることについては、清正の夢枕に立って「谷川の側で遊んでいる」と指を差した地がここだと伝えられているそうです。

宗覚寺の次は懐良親王御陵で、しかしこれは完全に予定外です。
まるで行けと言わんばかりに案内があったのと、宗覚寺から数分のところなのでリスクも少なかったこと、そして翌日に菊池に行くのでグッドな発見ではあります。
南朝の皇子ながらも天皇家に連なる懐良親王ですので柵も二重と規模も大きく、またさすがに乗り越えて中に入る勇気も出ませんでした。

懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、征西将軍宮として肥後隈府を拠点に勢力を広げて、一時は太宰府を制圧するなど九州の南朝の最盛期を築きました。
その懐良親王を支えたのが菊池武光で、この南朝の戦いを描いた北方謙三の「武王の門」は名著ですのでお奨めです。
南北朝はやや守備範囲から外れるものの今回も菊池を訪れようと思ったのは、この北方謙三のエキスが体内に残っていることが最大の理由です。

そして八代城跡ですが、思っていたよりも規模が大きいことに驚かされました。
往時は天守閣がありましたが落雷などで焼失をしてしまい、明治に入ってからの廃城に際して櫓や門などの全てが取り壊されたり払い下げられたりしてしまったために今は一切の建物が残っていませんが、幅の広い堀とそそり立つ石垣だけでも圧倒的な存在感を見せつけてくれます。
いくつかの櫓跡などには礎石が残されており、しかし石垣には柵もなく一歩間違えば堀に落ちかねませんので、荒天のときや薄暗いときには冒険をしない方がよいでしょう。

城跡には八代宮がありますが、しかし城代だった松井氏とは何の関係もありません。
主祭神は懐良親王で、明治になってから建立をされたものです。
懐良親王の陵墓が八代にあること、これは先に紹介をしたもので宮内庁もそれと認めているそうですが、そのことで八代に南朝の功労者を祀ろうとの運動が起こり、懐良親王が八代城を居城としていたことがあったとの繋がりから場所が定められたのですが、しかし当時の八代城は現在のものとは違ったところにあったと気がついたのは後の祭りです。

八代の最後は本成寺です。
加藤忠正の菩提寺の一つですが、その忠正の墓所のある宗覚寺にやられっぱなしとは勝手な感想です。
右の写真が高麗門で、これは八代城のものを移設したものですので数少ない遺構になります。
幕末のどさくさに紛れての払い下げなどではなく、細川忠興の寄進によるものとのことです。
それだけ藩主にも重んじられていたということなのでしょうが、やはり墓を置き去りにしたことは理由がどうあれ痛恨の一事でしょう。


【2012年2月 南九州、沖縄の旅】
南国放浪記
南国放浪記 旅情篇
南国放浪記 旅程篇
南国放浪記 キャンプ篇 石垣島の巻 下見の章
南国放浪記 キャンプ篇 石垣島の巻 初日の章
南国放浪記 キャンプ篇 石垣島の巻 二日目の章
南国放浪記 キャンプ篇 薩摩川内の巻
南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 鹿児島城の章
南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 福昌寺の章
南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 南洲墓地の章
南国放浪記 史跡巡り篇 熊本の巻 熊本城の章
南国放浪記 史跡巡り篇 熊本の巻 本妙寺の章
南国放浪記 史跡巡り篇 人吉の巻 人吉城の章
南国放浪記 史跡巡り篇 人吉の巻 願成寺の章
南国放浪記 史跡巡り篇 菊池の巻
南国放浪記 史跡巡り篇 宇土の巻
南国放浪記 グルメ篇
南国放浪記 スイーツ篇
南国放浪記 おみやげ篇

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
« さすがにロサは一から出直し | トップ | 肉体派ホームズ »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
武王の門 ()
2012-03-25 03:13:11
さきほどアマゾンで注文しました。
「破軍の星」ほか、北方氏の南北朝ものをごっそり注文しましたので、5000円超の買い物でした。
「よつばと!」やその関連グッズがいずれも大当たりだったこともあり、男(オヤジ)の趣味の案内人としてのオリオンさんの存在は、私の中でもはや神格化していると言っても過言ではありません(笑)
返信する
お返事 (オリオン)
2012-03-25 23:34:37
オヤジ趣味にご賛同いただけたようで(笑)
「破軍の星」も秀作ですが、「武王の門」はその上をいくと思います。
またちょっと時代は遡りますが、「絶海にあらず」も是非ご一読の程を。
このあたりの時代を描かせたら、おそらくは北方謙三の右に出る者はそうはいないと高く評価をしています。
返信する