goo blog サービス終了のお知らせ 

オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

三本の矢を探して 史跡巡り篇 北広島の巻

2013-06-15 23:21:16 | 日本史

 

四日目は北広島まで遠征です。
広島駅や広島バスセンターから直通で向かうことができないために、地元の観光協会に問い合わせをしてバスで乗り継いでの1時間弱の実質的には2時間半の行程です。
バスですので何があるかが分からず、1時間に1本も無いようなところですからリスクを考えてかなり乗り継ぎに余裕を持ったことがその理由で、結果的には余裕を持ちすぎました。
乗り継ぎ場所である道の駅で時間を潰せるかと思いきや朝が早くて開いておらず、まだ息が白くなるような気温で凍えましたので電話ボックスに入ったものの耐えきれず、仕方がないのでちょっと離れたセブンイレブンに緊急避難でギリギリに凌いだといった感じです。

その目的は吉川元春の旧跡で、戦国の庭として整備がされています。
毛利元就の次男で吉川氏を継いだ元春は弟の隆景とともに甥の輝元を支えましたが、しかし毛利氏が豊臣政権に組み込まれたことに嫌気がさしたとも言われていますが家督を嫡男の元長に譲って隠居をして、そして自らの隠居館として建築をしたのがこの吉川元春館です。
しかし完成の前に元春は豊臣氏の九州征伐に駆り出された中で病死をしてしまい、元長も後を追うように病に倒れ、跡を継いだ広家が出雲に移った後は廃墟となってしまいました。

館とは言いながらも元春ほどの武将が隠居をしてのものですから、小規模な城といった感じがあります。
堀もありますし立派な石垣も備えていますので、城館と呼んだ方がよいのかもしれません。
駿河丸城跡や小倉山城跡、日野山城跡など吉川氏の代々の居城跡とともに、国の史跡に指定をされています。

建物が建ち並んでいるわけではありませんので、派手さは感じられません。
石切場跡は石垣を作るための石を切り出した場所なのでしょうが、しかしその石垣のすぐ側にありますのでちょっと違和感があります。
主殿舎や門、築地塀の跡もありますが礎石のようなものが遺されているだけですから、時間が早かったこともありますが自分しかいなかったのも頷けます。
写真は左から石切場跡、主殿舎跡、門・築地塀跡です。

こちらは便所跡です。
さすがに木桶は当時のものではないでしょうが、これが便所跡と見なされた経緯がなかなかに面白いです。
中の土を分析したところ寄生虫の卵やベニバナの花粉などが見つかり、ベニバナは虫下しの薬として使われていたことから便所跡であることが分かりました。
その他にも稲や稗、梅や茄子、瓜などの種子が見つかっています。

その他にもいろいろなものがありましたが、正直なところあまりグッとくるものがありませんでした。
やはり城跡と同じく建物が無いともう一つと感じてしまうのは、自分の嗜好なので仕方がありません。
むしろ土塁とかの方がよかったかなと、庭園跡や堀跡も水が流れていればなとは勝手な思いです。
写真は左から水溜跡、井戸跡、庭園跡です。

唯一の建物は、こちらの台所とそれに連なる倉庫です。
内部は当時の食事の内容が紹介をされており、秋口にある吉川戦国まつりでは戦国大名の食事復元というイベントがあるとのことでした。
囲炉裏や竈の跡があったことから、台所跡と想定をされての復元です。

館の背後には海応寺があり、その境内に吉川氏の墓所があります。
九州で没した元春、元長はこの地に送葬をされて、それぞれ随浪院殿前駿州太守四品海翁正恵大居士、萬徳院前禮部中翁空山大居士として葬られました。
その元春、元長と、元春の四男と言われている禅岑法師の三基の墓があります。

三本目の矢となる元春の墓です。
不本意ながら順番どおりとはいきませんでしたが、これで元就、隆元、元春、隆景に加えて元清の墓を巡りましたので大満足です。
母の実家である吉川氏を継いだ元春は山陰地方を主戦場に、隆景とともに毛利氏の両輪となりました。
隆景は小早川氏を継ぐ際に元服をしたことで主君であった大内義隆の「隆」と竹原小早川氏の通字である「景」からそう名乗りましたから毛利氏の「元」が名前に入っていませんが、しかし元春は元服後に吉川氏を継ぎましたので毛利元春と名乗った時期があります。
同名の元春は安芸毛利氏の4代当主で毛利氏が大きく伸びる基礎を築いた武将ですから、元就はその名にあやかったのかもしれません。
その元就の期待どおりに元春は勇猛な武将に成長をしましたが、一方で国の文化財に指定をされている吉川本太平記を書写するなど単なる猪武者ではありませんでした。
五輪塔でも宝篋印塔でもなく墳墓のようなものであるのが意外と言いますか残念と言いますか、生え繁る木々が恨めしかったりもします。

元長の墓も、同じような地味なものとなっています。
元春の嫡男である元長は父譲りの勇将として知られており次世代のホープでしたが、40歳の若さで病死をしてしまいました。
毛利の両川に支えられた毛利氏は二代目に人材を欠いたことが、その後の停滞に繋がったことは否めません。

元春は元長、元氏、広家、そして禅岑法師の4人の男子に恵まれました。
元長の跡を継いだのが三男の広家で、次男の元氏は同母ながらも仁保氏、次いで繁沢氏を継いでいたことから外されたのでしょう。
しかし元氏は後に毛利氏に復して阿川毛利氏を興しましたので、疎まれていたわけではないようです。
禅岑法師のものと伝えられるこちらの墓は父兄のそれとは違って墓石があり、しかし戒名などは刻まれていません。
幼くして死したようで、その事績はほとんど分かっていないようです。

海応寺の境内とは書きましたが、その海応寺跡には何もありません。
案内板はあったものの唖然とするような状態で、まあいろいろと事情もあるのでしょう。
吉川氏の菩提寺だったわけではないようですが、元春らの墓所があることからして崇拝をされていたものと思われます。

吉川元春館跡の北側のちょっと離れたところにあるのが、松本屋敷跡です。
元春の正室である新庄局、熊谷信直の娘ですが、日野山城から吉川元春館に移るまでの間に住んでいたと伝えられる館の跡です。
石垣も遺されてはいますが今はすっかりと農地になっているようで、しかし時期的なものを考えれば単なる空き地でしかないのかもしれません。

その松本屋敷跡と吉川元春館跡の間にあるのが、八丁馬場跡です。
この石垣が連なる道と直交をしている道は80~100メートル間隔で、整然と区画割りがされていたことが分かっているそうです。
几帳面だったと言われている元春の、その性格が表れているのかもしれません。


【2013年4月 広島、山口の旅】
三本の矢を探して
三本の矢を探して 旅程篇
三本の矢を探して 旅情篇
三本の矢を探して 史跡巡り篇 広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 安芸高田の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 福山、三原、竹原の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 岩国の巻
三本の矢を探して グルメ篇
三本の矢を探して スイーツ篇
三本の矢を探して おみやげ篇

 


三本の矢を探して 史跡巡り篇 福山、三原、竹原の巻

2013-06-08 20:15:56 | 日本史

 

三日目は東部の福山、三原、そして竹原です。
かなり詰め込みましたし移動時間もかかることから珍しくも新幹線を使っての福山入りで、予定の全てを巡るのは厳しいかなと思っていたのですが無事にクリアすることができました。
ちょっと朝日、夕日で色合いが今ひとつな写真となってしまったのが残念でしたが、まあ仕方がありません。

その最初は福山城で、こちらも日本100名城の一つです。
築城は1622年と大坂の役が終わった後ですのでかなり新しく、譜代大名の水野勝成が築きました。
勝成の父である忠重は徳川家康の生母である於大の方の弟ですから、勝成は家康の従兄弟になります。
まず迎えてくれるのが筋鉄御門で、当時の遺構で国の重要文化財に指定をされています。
伏見城からの移築と説明板には記載をされており、しかしその様式などから疑問視をされているものの往時の姿を残していることに違いはありません。

その左手に見えるのが伏見櫓で、こちらも当時の遺構で同じく国の重要文化財に指定をされています。
解体修理の際の調査から正真正銘の伏見城から移築をされたことが明らかとなっており、三重三階の造りとなっています。
ただし時期的に豊臣時代のそれではなく関ヶ原の戦いにて西軍に攻め落とされて炎上をした後に家康が再建をした伏見城からの移築で、武器庫として使われていました。

筋鉄御門を抜けて左手にあるのが鐘櫓で、こちらは1979年の再建です。
二階建ての入母屋造りで、時を告げる鐘を鳴らしていました。
その一部が当時のものであるためか福山城の公式サイトには遺構として紹介をされていますが、往時の姿での復元ではありませんので微妙さがあります。

筋鉄御門の右手にあるのが湯殿です。
こちらも伏見城から移築をされましたが、残念ながら福山大空襲で焼失をしてしまいましたので1966年の再建です。
その名のとおりに風呂があったとのことですが、中を見ることはできませんでした。

湯殿の東、本丸の南東の隅に位置するのが月見櫓です。
明治に入ってから取り壊されてしまったものを1966年に再建をされたものですが、残念ながら鉄筋コンクリートによる復元です。
こちらも往時は伏見城から移築をされたもので、福山城は伏見城が廃城となった資材を用いての築城であったためにこれだけの規模ながらも僅か3年で完成をしています。

月見櫓の北には鏡櫓があり、1973年に再建をされた鉄筋コンクリート造りです。
内部は資料が展示をされているとのことでしたが見てのとおり扉は閉ざされており、係の方に聞いても普段は公開をしていないと断られました。
ネットで調べてみれば中には最近でも入れた方もいるようで、朝が早くて自分だけだったので面倒くさがられたのかもしれません。

そして天守閣です。
五重六階の堂々たる姿を見せてくれましたが、しかしこちらも湯殿、月見櫓と同じく1966年に再建をされた鉄筋コンクリート造りです。
慶長期の建築技術の貴重な資料として国宝にも指定をされていた福山城の天守閣は湯殿や涼櫓などとともに福山大空襲で焼失をしてしまい、しかも再建に際しては古写真などがありながらも華美さを意識したことから「戦後に再建をされた天守では最も不正確」と評されているとはwikipediaからの受け売りです。
内部は福山城博物館となっており、売店のグッズは屈指のラインアップとなっていました。

福山藩は勝成から始まった水野氏5代の勝岑が2歳で没したことで改易となり、天領、奥平松平氏の忠雅の12年間を経て、譜代大名の阿部氏が入って幕末まで続きました。
阿部氏としての7代藩主である正弘は老中首座を務めて、安政の改革で幕政を立て直した名君とされています。
写真は城内にある左が水野勝成、右が阿部正弘の像です。

妙政寺は勝成の嫡男で2代藩主の勝俊の菩提寺です。
勝俊は日蓮宗に帰依して妙政寺の大檀越となっていたことで、死後にここ妙政寺に葬られました。
戦国期に水野氏が拠点とした三河刈谷に創建をされた妙政寺は、水野氏とともに福山に移ってきたとのことです。

その妙政寺に勝俊の墓があるとのことで訪れたのですが、境内にそれらしきものは見つかりませんでした。
代わりというわけではありませんがこちらは勝俊の廟所で、なかなかに立派な建物です。
廟所はいろいろな意味合いがあり墓所だったり位牌堂だったり骨壺が納められたりしていますのでこれがそうなのかなと、中に入れなかったのでちょっとガッカリです。

それでも諦めきれずにお寺の方に聞いてみれば、すぐ近くに勝俊の墓があるとのことでした。
喜び勇んで向かってみれば、立派な五輪塔です。
勝俊は波瀾万丈な一生を送った勝成の陰に隠れがちではありますが、内政に力を尽くした名君と伝えられています。

賢忠寺は水野氏の菩提寺で、勝成が父の忠重の菩提を弔うために建立をしました。
寺名は忠重の戒名である瑞源院殿勇心賢忠大居士からきています。
幼稚園を併設している寺院は少なくありませんが賢忠寺はスケールが違い、学校法人として50年以上の伝統を誇っています。
右の写真の二階に赤いジャージの上下の10代と覚しきうら若き乙女な保育士がゾロゾロと、それこそ学校の一クラス分ぐらいの人数が出てきたのには驚きました。

妙政寺と同じく水野氏の墓所がどこにあるかが分からなかったのでその保育士の一人に聞いたところ、新幹線の線路を挟んで賢忠寺と反対のところにありました。
道路に面した入口は閉ざされていますが、右手に入り込めば開いている扉がありますので柵を乗り越えないよう願います。
福山藩水野氏にかかるいくつかの墓があり、しかし以前にあった場所から山陽鉄道の敷設の際に移転をされたものとのことです。

初代藩主の勝成は父と諍いを起こしたことで出奔して全国を放浪するなど苦労をしたようですが、やはり家康の従兄弟というブランドが効いたのか帰参を果たします。
仙石秀久、豊臣秀吉、佐々成政、小西行長、加藤清正、立花宗茂、黒田孝高、三村親成と仕えた武将は錚々たる顔ぶれですから、やはり優秀だったのでしょう。
独断専行で家康に疎まれた時期もあったようですが10万石ながらも大規模な築城を認められたのも、その出自によるところが大きかったのではないかと思います。

勝成の父である忠重も、負けず劣らずの人生を送っています。
織田氏の配下でしたが兄の信元との不和により織田氏を出て家康に仕えたのは、やはり姉の於大の方との関係によるものなのでしょう。
その信元が武田氏との内通を疑われて織田信長に謀殺をされましたが、これは尾張と三河の間に位置する水野氏の力を弱めるための言いがかりとも言われています。
そういった後ろめたさからでもないでしょうが信元の跡に入ったのが忠重で、このときに織田氏に復帰をしています。
信長の死後は次男の信雄に仕えて、徳川氏に戻ったのは豊臣秀吉の死後でしたが、その僅か2年後の関ヶ原の戦いを前にして加賀井重望に酒宴の席で斬り殺されました。
これは徳川氏の有力武将である忠重の暗殺を石田三成、あるいは大谷吉継が謀ったとも言われていますが、実際のところはただの喧嘩によるもののようです。

勝成、勝俊に続くは3代藩主の勝貞で、勝俊の嫡男です。
島原の乱に参戦をするなど戦国の最後の風を浴びた武将ではありますが、38歳で早世をしてしまいました。
4代藩主は僅か3歳で家督を継いだ勝種で、こちらも37歳での若死にでかつ子の多くが夭折をしたために5代藩主となったのは2歳の勝岑で、将軍家へのお目見えで江戸に向かった際に発病してそのまま江戸で無位無冠のまま病没をしたために無嗣断絶で改易となったとは先に書いたとおりです。
ここ水野氏墓所には勝岑の墓もあるとのことでしたが見つからず、賢忠寺の説明板にもその記載がありませんでしたので誤報だったのでしょう。
写真は左が勝貞、右が勝種です。

その他の一族の墓として、成貞と勝則、そして数馬の墓があります。
成貞と勝則は勝成の子で勝俊の弟、数馬は勝種の子で勝岑の兄にあたります。
旗本奴と町奴との対立で幡随院長兵衛を殺すなどして今もその名が知られる水野十郎左衛門の成之は成貞の子で、行跡怠慢により切腹とされて家名断絶となりました。
写真は左から成貞、勝則、数馬です。

次に向かった三原で最初に訪れたのは三原城跡で、その中央を線路がぶった切っています。
そのため天主台跡は駅の構内から行くことになり、つまりは時間外は見学をすることができません。
駅の近くにあるのでと油断をして計画をすると泣くことになりますので、注意が必要です。

天主台の石垣は見事な偉容を誇っていますが、逆に言えば三原城の遺構はこれぐらいしかありません。
しかし天主台とは言いながらも天守閣があったわけではないようです。
小早川隆景が築城をして名島に移った後は養子の秀秋が入り、広島に福島正則が入ったときに甥で養子の正之が、浅野氏の時代には三原浅野氏の居城となりました。

天主台跡には見事なぐらいに何もありません。
建物のない城跡などはこんなものですが、写真を見ただけではただの公園といった感じです。
三原城は海に向かって船入りを開いた城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えることから浮城と呼ばれていました。
瀬戸内海を掌握する水軍を率いていた隆景らしい城と言えます。

近くには小早川隆景の像があります。
言われなければ徳川家康かと思ってしまうような福々しい表情となっており、どこか痩身をイメージしていましたので違和感がありました。
国の重要文化財である絹本著色小早川隆景像の肖像画とはあまり似ていません。

その絹本著色小早川隆景像を所蔵しているのが米山寺で、小早川氏の菩提寺です。
距離的には駅から12.3キロとお茶の子さいさいだったのですが、川沿いの向かい風が強烈でかなり往生しました。
小早川氏は宗家の沼田小早川氏と分家の竹原小早川氏の二流がありますが、こちらは沼田小早川氏の菩提寺となります。
近くにはその沼田小早川氏の墓所があり石造りの宝篋印塔が整然と並んでいますが、遠祖である土肥氏のそれがあったり並びが代数順だったりもしますので改葬をされた、あるいは供養塔のようなものではないかとも思うのですが、実際のところはよく分かりません。

二本目の矢となる隆景の墓です。
父の才能を一番に受け継いだとも言われている隆景は分家の竹原小早川氏の興景が子が無いままに病死をしたことで、家臣団や大内義隆の薦めで養子に入りました。
これは興景の正室が隆景の従姉妹にあたる興元の娘、つまりは元就の姪であったことが理由なのでしょうが、ただ元就が周到な根回しをした上で押し込んだとも言われており、その方が信憑性が高いと感じてしまうのは謀略の人である元就の人となりによるものなのでしょう。
その後に本家の沼田小早川氏の繁平が盲目であることからその妹を正室に迎えることで跡を継ぎ、二流に分かれていた小早川氏を統一しました。
この際には繁平派の家臣を粛正するなど元就が露骨な介入をしたようで、これによって毛利の両川が成立をしたことになります。
長兄の隆元が病没をした後は次兄の元春とともに甥の輝元を支えて重きをなし、また豊臣政権では五大老の一人として秀吉に「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」と評されるほどの名将として筑前などに37万石もの大領を得るなどしましたが、しかし隆景はあくまで毛利氏の家臣との立場を崩しませんでした。
これは父の教えはもちろんのこと輝元が頼りなかったこともその理由の一つとされ、伊予や筑前など秀吉に与えられた領地が毛利氏の近くであったのは輝元を一人にはできないと考えていた隆景が望んだからとも伝えられており、もし隆景があと5年、あるいは3年でも長生きをしていれば輝元が西軍の盟主に祭り上げられることはなかったのではないかと、もしくは西軍があそこまで大敗をすることはなかったのではないかと思います。
もっともそうであれば前田利家の死をじっと待った家康ですから10歳年長の隆景に無闇に手を出すようなことをしたとも思えず、結果は変わらなかったかもしれません。

小早川氏の祖とされるのは土肥実平で、よって代々の当主は「平」を通字としています。
実平は源頼朝に質実剛健な資質を愛されて鎌倉武士の重鎮として見なされていましたが、一方で義経にも近かったようで晩年は政治的に失脚をしたとも言われています。
嫡男の遠平が小早川村に居を構えたことから小早川氏を名乗り、その初代となり沼田に下向をしました。
写真は左が実平、右が遠平です。

遠平には維平という実子がありましたが土肥宗家と土肥郷を継がせて小早川氏には養子の景平を据えたため、小早川氏の2代は景平となります。
土肥維平は和田合戦に際して和田氏に味方をしたために処刑をされてしまい、よって実平の系統は小早川氏のみとなってしまいました。
しかし景平は平賀義信の五男で土肥氏との血縁関係もないため、景平の代で桓武平氏から河内源氏に血が入れ替わったことになります。
3代の茂平は景平の嫡男で、小早川氏の本拠となる高山城を築きました。
茂平の三男の雅平が4代を継ぎ、その弟の政景が父から竹原荘を譲られて竹原小早川氏として分家をしたことで小早川氏は二流に別れます。
その後は5代の朝平、6代の宣平、7代の貞平、8代の春平、9代の則平、10代の煕平、11代の敬平、12代の扶平、13代の興平、14代の正平、15代の繁平と血を絶やすことなく直系で繋いできましたが、一時は竹原小早川氏と抗争をするなど順風満帆に勢力を広げていったというわけではなかったようです。
そしてその血の繋がりが繁平を最後に毛利氏に結果的に乗っ取られたのは皮肉な話ですし、しかし負い目を感じていたのか隆景は側室を取らずに繁平の妹を愛し続けたと言われており、これは殺伐とした戦国期のある種の美談と言ってもよいでしょう。
写真は上段左から景平、茂平、雅平、朝平、宣平、貞平、春平、則平、煕平、敬平、扶平、興平、正平、繁平です。

代々の本拠だった高山城から沼田川を挟んだ地に隆景が築いたのが新高山城で、三原城に移るまでの隆景の居城となりました。
その新高山城の城門だったと伝えられるのが、宗光寺の山門です。
宗光寺は隆景が父母の菩提を弔うために建立をしたもので、城の西側を守る砦の意味合いもありました。

この日の最後は竹原です。
目指すは竹原小早川氏の墓所だったのですが、正直なところ行くかどうかを直前までかなり悩みました。
正確な住所が分からず地図上の場所も幹線道路からちょっと離れた曖昧なものしかなく、駅から9.4キロですので迷うのには充分な距離というのがその理由です。
しかし沼田小早川氏だけでは片手落ちと気持ちを奮い立たせての挑戦で、近くにある商店などの住所を頼りに向かったところ意外にあっさりと見つかりました。
ただ立派な宝篋印塔や五輪塔がありながらも誰のものかは分かっていないようで、ちょっともの悲しさがあります。
ちなみに竹原小早川氏は初代の政景の「景」を通字としており、隆景は元服前に養子に入ったために毛利氏の通字である「元」の字を持たずに主君である大内義隆の「隆」と竹原小早川氏の「景」を合わせて隆景と名乗りました。

そこから少し登ったところにあるのが、小早川興景夫妻のものと伝えられている二基の墓です。
それなりの道はありながらもただの山肌のような感じですから、途中で断念をした人も少なくはないようです。
何の説明もありませんし戒名のようなものなかったためにどちらが興景のそれかが分からなかったのですが、帰ってきてからネットでいろいろと調べてみれば左側がどうやら興景の墓ではないかと、その伝承も含めてもうそう信じるしかないでしょう。
ちなみに説明板には隆景の養父とありましたが、隆景が小早川氏に入ったのは興景の死後ですから養父、養子という表現は適当ではないかもしれません。

帰り際に見かけたのが和賀神社で、小早川神社とも呼ばれているようです。
隆景を祀る神社ですが、1945年に豪雨による山津波で損壊をして現在に至っています。
見てくれはただの廃墟でしかありません。

長生寺は河野通直の死を悼んで、隆景が建立をした寺です。
豊臣秀吉の四国攻めで通直は進退定まらずに湯築城に籠城をしますが、しかし隆景の薦めにしたかがって降伏をしました。
所領は没収をされましたが命だけは許されてここ竹原に身を寄せますが、子が無いままに24歳の若さで没してしまい名門河野氏はここで実質的な命脈が絶たれたことになります。

その通直の墓が、長生寺にあります。
戦国末期の河野氏はなかなかに混乱をしており、通直が誰の子であるかもハッキリとはしていません。
本宗家と予州家で家督が争われていたこともその理由でしょうが、これまで有力とされていた通吉の子ではなく村上水軍の村上通康の子であるとの説が浮上をしているようです。
3代前の当主に同じ名前の通直がいるために分かりづらいですが通康はその弾正少弼通直の娘が母親ですから伊予守通直が家督を継いでも血筋的に不思議はなく、また伊予守通直の母が通康の死後に先代の通宣に再嫁をしたことで後継者の地位を手にしたのでしょう。
ちなみに伊予守通直の母は宍戸隆家の娘で、その跡を継いだとされている通軌は隆家の孫ですから毛利氏の影響は当初から強かったものと思われます。


【2013年4月 広島、山口の旅】
三本の矢を探して
三本の矢を探して 旅程篇
三本の矢を探して 旅情篇
三本の矢を探して 史跡巡り篇 広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 安芸高田の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 北広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 岩国の巻
三本の矢を探して グルメ篇
三本の矢を探して スイーツ篇
三本の矢を探して おみやげ篇

 

コメント (6)

三本の矢を探して 史跡巡り篇 安芸高田の巻

2013-05-29 20:46:58 | 日本史

 

史跡巡りの二日目は安芸高田です。
毛利輝元が広島城に移るまでの約250年間に毛利氏の居城であった吉田郡山城があり、それだけを目指してバスで1時間ほど揺られての移動です。
到着をしたのが8時過ぎで麓にある安芸高田市歴史民俗博物館が開館前だったので、まずは城攻めとばかりにその吉田郡山城跡に向かいました。

吉田郡山城とは書きましたが正しくは郡山城で、他の郡山城と区別をするために一般的には吉田郡山城と呼ばれています。
郡山をすぽっとくるむように城域が広がっており、よって典型的な中世の山城となっています。
それなりに親切に案内板があるのですがしかしそれに従って歩いて路頭に迷うなど中途半端なところもありますので、登山口にある地図は必携だと思った方がよいでしょう。
写真は例によってクリックをしていただければ大きくなりますが、見比べていただくのであれば「右クリック→リンクを新しいウィンドウで開く」を選んでいただいて、そのウィンドウを横に置いていただければどういったルートで城攻めをしたかが分かると思います。

同じく登山口にある杖も、邪魔にはなりませんので借りた方がよいです。
この手の山城を登るに際しては両手が空くスタイルが必須なのは言うまでもありませんが、登るときも下るときも杖があるとかなり楽になります。
登り始めたときには雨は上がっていたのですが濡れ落ち葉で足を取られがちでしたので、この杖にはかなり助けられました。

安芸高田市歴史民俗博物館を起点に右回り、左回りのルートがあるのですが、右回りをする人は少ないのではないかと思います。
トラック競技で左回りが当たり前で右回りをしようとするとたたらを踏むのは利き手が右だからということではなく、無意識に心臓を守るように体ができているからなどという説もあるようですが、そうなればサウザーは右回りの方が得意かもしれません。
それはさておき最初に巡り会ったのは毛利元就の像で、そのイメージどおりに老将の姿となっています。
ただそれにしても鎧兜が重すぎるのではないかと思えるぐらいの老齢ですから、もうちょっと若くてもよかったような気もします。

行き先案内板に従って歩いて行けば何かの施設の敷地内に入ってしまったのですが、そこにあるのが三矢の訓跡碑です。
訓の跡というのが意味が分からないのですが、ここは毛利元就が隠居をしてから住んだ御里屋敷跡になります。
やはり毛利氏のエピソードともなれば一番に挙げられるのが「三矢の訓」ですから、それが創作であろうがそんなことはもう関係はないのでしょう。
昭和になってから建てられたものですが、その題字は当時の毛利氏の当主であった毛利元道の手によるものです。

そこから清神社の脇を回って登り口を探したのですが、これがまた分かりにくかったです。
駐車場がある場所に出てそこの案内板を頼りに10分ほど探したのですが見つからず、また清神社まで戻って見ればその背後に「ここ?」と思うような細い道が続いていました。
山城に登るのは珍しくもないのですが1メートルあるかないかの道幅とすぐの斜面というのはそれなりのリスクを伴いますので、悪天候のときの挑戦は避けた方がよいでしょう。

いきなり横道に逸れて最初に向かったのが旧本城跡です。
安芸毛利氏の初代である時親が築城をしてから元就が大幅な拡張をするまでの本城があった場所で、かなり行きづらかったです。
矢印に従順になってみれば両手を使って這うように登る必要があるような場所で、同じ場所を下ると足を滑らせて崖下にまっしぐらになりかねません。
実のところは矢印がトラップで少し遠回りをすればちょっとは傾斜の緩い道があったのですが、いずれにせよ安芸高田市歴史民俗博物館の方曰く「お奨めはしません」とのことです。

尾崎丸の堀切と、尾崎丸跡です。
堀切とは尾根部の各郭間に掘られた堀のことで、城を守るには重要なものとなります。
尾崎丸に屋敷があったから尾崎殿なのか尾崎殿だから尾崎丸なのかは分かりませんが、隆元の屋敷があったと伝えられています。

勢溜の壇は本丸から南西に延びる尾根を堀切で区切って独立をさせて十段の曲輪からなる守備の要で、本丸を守護する兵が詰めていたと想定をされています。
その上部にある御蔵屋敷は兵糧などが貯蔵をされていた屋敷が建ち並んでいた場所であり、また勢溜の壇まで攻め込まれたときにはここから攻撃ができます。
写真は左が勢溜の壇跡、右が御蔵屋敷跡です。

元就のときに大幅な拡張が行われて隆元、輝元に引き継がれましたが、石垣はその頃のものです。
廃城になった際にそのほとんどが崩されましたが、三ノ丸の石垣が僅かですが残されています。
土塁はここそこにあるのですが、それが土塁なのかただの土盛りなのかは正直なところよくは分かりません。
写真は左が三ノ丸石垣跡、右が土塁跡です。

二ノ丸は本丸の南にあり、東西36メートル、南北20メートルの広さがあります。
周囲を石垣や石塁で囲まれており、いくつかの区画に分かれていました。
三ノ丸は東西40メートル、南北47メートルと城内最大の曲輪で、吉田郡山城では一番に新しい遺構と考えられているようです。
写真は左が二ノ丸跡、右が三ノ丸跡です。

そして本丸です。
35メートル四方で北側に櫓台がありますが、天守閣ではなく物見のための櫓があったと考えられています。
一説に三層三階の天守閣が輝元のときにあったとも言われていますが、詳しいことは分かっていません。
写真は左が本丸跡、右が櫓台跡です。

ここから本丸を取り巻くいくつかの壇を見て回りました。
釣井の壇は長さが75メートルの長大な曲輪で、手前に見えるのが本丸に一番に近い水源だった井戸です。
本丸から北に延びる峰にある姫の丸壇で長州藩士の武田泰信が「百万一心」の礎石を見つけたとの話が伝わっていますが、本人の言葉のみで何ら裏付けはありません。
写真は左が釣井の壇跡、右が姫の丸壇跡です。

釜屋の壇は本丸に一番に近いところにあり、炊事場だったと伝えられています。
すぐ下が馬場であったことから厩舎が並んでいたものと想定をされているのが厩の壇で、いくつかの小さな区画に区切られていたようです。
写真は左が釜屋の壇跡、右が厩の壇跡です。

壇巡りを終えて毛利氏の墓所に向かう途中にあるのが、元就が吉田に招き入れた嘯岳禅師の墓です。
嘯岳禅師は筑前博多の人で二度も明に渡って修行をし、元就の逝去に際しては葬儀の導師を務めて、また元就の菩提寺である洞春寺の開山でもあります。
ちなみに洞春寺は毛利氏に従って山口に移っています。

そして元就の墓です。
菩提寺が山口に移ったことで先祖の墓も改葬をすることが珍しくはないのですが、生まれ育った吉田の地に元就は眠っています。
墓標に「はりいぶき」が植えられていて堂々とした姿を誇っていますので、その形状からして墓石は後世のものかもしれません。
名高い謀将である元就の墓にしては、ちょっと寂しい気もします。

その側に百万一心の石碑がありますが、先に書いたとおり当時のものではありません。
元就が城を拡張した際に人柱の代わりに埋めたと言われていますが、武田泰信が残した拓本を元に復元をされたものです。
復元というのも微妙な表現ですが、何にせよその伝えられる「皆で力を合わせれば何事も成し得る」という元就の思いは吉田町のモットーとなっています。

元就の墓があるのは洞春寺跡ですが、そこに毛利氏の墓地があります。
おそらくは輝元の代に改葬、あるいは供養塔のような意味合いのものではないかと思います。
元就のそれと同じで門には鍵がかかっていて入れなかったのが残念でしたが、LUMIXの望遠での激写で凌ぎました。

元就の兄の興元の墓です。
毛利氏は源頼朝の側近であった大江広元が祖であり、その四男の季光が父から毛利庄を相続したことで毛利を名乗りました。
そのため毛利氏の本姓は大江であり、よって墓石にも大江朝臣興元之墓と刻まれています。
興元は父の弘元が45歳で病死をしたために15歳で家督を継ぎ、大内義興に従って上京をして合戦に明け暮れるなど活躍をしましたが、25歳の若さで早世をしました。
元就は父、兄が酒毒によって若死にをしたと考えていたようで、酒は飲まなかったと伝えられています。
ちなみに季光が継いだ毛利庄は相模にあり自分が通っていた高校の近くに南毛利中学校がありましたので、そのあたりが毛利庄だったのでしょう。

興元の跡を継いだのは嫡男の幸松丸で、僅か2歳での当主ですので叔父の元就と母方の祖父の高橋久光が後見となりました。
しかし9歳で病死をしてしまい、多治比元就と名乗っていた分家の元就が家督を継ぎました。
幸松丸の死は無理矢理に首実検に立ち会わせられて体調を崩してのものと言われており、大河ドラマでは緒形拳の扮する尼子経久に無理強いをされたことに中村橋之助の演ずる元就が恨むシーンがあったように思いますが、一方でその死の僅か10日のうちに将軍家の許可を持っての相続ですから、元就と一部の家臣による暗殺との説も根強いようです。
またその名のとおりに隆元の正室の尾崎局の墓もあります。
大内氏の重臣であった内藤興盛の娘で輝元の母である尾崎局は、甥の隆世が大内氏に殉じて毛利氏に滅ぼされる悲哀がありながらも兄の隆春が毛利氏に降って周防内藤氏として幕末まで続きましたので、複雑な思いで当主の妻、そして母として生き抜いたのでしょう。
写真は左が幸松丸、右が尾崎局です。

こちらは安芸吉田に下向をした安芸毛利氏の初代である時親から、元就の祖父である豊元までの当主の合同墓です。
さすがにこれは供養墓でしょうし、ここから外れている興元や元就らの父である弘元の墓は隠居城であった猿掛城の近くにある悦叟院跡にありますが、毛利氏の重臣であった福原氏の墓所のある鈴尾城跡とともに今回は足を伸ばすことはできませんでした。
時親から元春、広房、光房、煕元、豊元、そして弘元、興元、幸松丸、元就と続いていきますが、この間に坂氏や福原氏などの有力な庶子家が誕生をしています。

一本目の矢である隆元の墓は、洞春寺跡から少し離れたところにあります。
元就の隠居後に家督を継いだ隆元は偉大な父と優秀な弟との間に挟まれて苦悩をしていたようで、遺されている書状からもそれが窺えます。
隆元は尼子攻めに向かう途中で毛利氏に降っていた備後の和智誠春の饗応を受けた直後に41歳で急死をしており、当時から毒殺が噂をされていました。
弟ほどには優れてはいなかった隆元ではありますが父には愛されていたようで、怒り狂った元就は尼子氏を滅ぼした4年後に隆元の重臣であった赤川元保の関与を疑って切腹をさせるとともに、その翌年には厳島神社に立て籠もった誠春と久豊の兄弟を攻め殺しています。
すぐには手を下さずにタイミングを見計らっていたところなどは元就の深慮遠謀さが見て取れますが、しかし元保は誠春の誘いを断るよう隆元に強く進言をしていたことが後に判明をしたことで一族に赤川氏を再興させており、また誠春の子である元郷は許されていますのでやはり隆元は病死だったのでしょう。

ぐるっと回って駐車場のあるところまで降りれば、そこには元就の火葬場跡があります。
御里屋敷で波乱の一生を閉じた元就は、この火葬場で荼毘に附されました。
近代日本であれば火葬は当たり前ですが戦国期には土葬が一般的だと思っていましたので、ちょっと意外な感じがあります。
そうなると墓の下には骨壺があるのかもしれず、いろいろと興味は尽きません。

1時間が目安とされているらしい吉田郡山城跡を2時間半ほどかけて攻めた後は、ようやくに安芸高田市歴史民俗博物館です。
写真は完全に雨が上がった後ですので青空が広がっていますが、展示を見ている間にそれまでとは違ってかなりの大きさの雨粒が叩きつけるように降り出しました。
仕方がないので普段よりもじっくりと展示物を見て回ったりショートムービーを見ているうちに雨が上がりましたので、次の目的に向かって突撃です。

予定では元就の女婿で一門衆となった宍戸隆家やその一族の墓を巡る予定だったのですが、地元の観光課の担当者の方に事前に送っていただいた地図を持って出るのを忘れてしまった失態に加えて、貸していただいた自転車が長距離の移動にはちょっとあれな状態だったので諦めて次回の課題に繰り越しました。
そのためにまずは尼子義勝の墓で、途中で斜め45度の大雨に遭遇をしたのは旅情篇で書いたとおりです。
尼子義勝は経久の弟で久幸の名の方が知られていますが、尼子氏が吉田郡山城を攻めた際の宮崎長尾の戦いで毛利氏の救援に駆けつけた陶隆房、後の晴賢の急襲を受けて混乱をした尼子本陣を守るために奮戦をしましたが敢えなく討ち死にをしてしまいました。

安芸高田の最後は相合元綱の墓です。
元綱は興元、元就の弟で、元就が家督を継いだ際に一部の家臣に担がれて対抗をしたことで元就に攻め滅ばされました。
一説には尼子氏が糸を引いて新宮党の豊久を毛利氏の家督に、元綱はその後見にとの目論見だったとも言われていますが、元就の機敏な対応にしてやられた形で坂広秀、渡辺勝らもあっけなく討ち取られたのですからさすがとしか言いようがありません。
もっとも元就と元綱は仲が良かったようで大河ドラマでもそういった描写がされており、その策略に怒った元就が尼子氏の傘下から大内氏に転じた理由の一つともされています。
そんなこともあってか元綱の子の元範は許されて敷名氏を興しており、また元就が自ら書き起こした系図には元綱、元範だけではなく孫までもが書き込まれているそうです。
ちなみにこの墓は元綱のものではなく、元就の末弟である北就勝のものとも言われているとはwikipediaの受け売りでした。


【2013年4月 広島、山口の旅】
三本の矢を探して
三本の矢を探して 旅程篇
三本の矢を探して 旅情篇
三本の矢を探して 史跡巡り篇 広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 福山、三原、竹原の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 北広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 岩国の巻
三本の矢を探して グルメ篇
三本の矢を探して スイーツ篇
三本の矢を探して おみやげ篇

 

コメント (4)

三本の矢を探して 史跡巡り篇 広島の巻

2013-05-26 22:54:14 | 日本史

 

史跡巡りの初日は広島市街を自転車で駆け巡りました。
市街とは言いながらも東西南北に約90キロを走りましたので、いきなりで足が痙攣を起こしたとは旅程篇に書いたとおりです。
途中でカーナビのバッテリーが切れてしまい、もちろん充電池は持っていたのですが0%になってしまえば充電ができないことを知ったのが収穫と言えば収穫です。

まずは日本100名城の一つである広島城です。
毛利輝元が築城をしましたが関ヶ原の戦いで敗れたことで周防・長門に減封をされてしまい、代わりに入城をしたのが福島正則です。
この福島時代に城下町を含めた本格的な整備が進められましたが、洪水で崩れた石垣を幕府に無断で補修をしたとの理由で改易をされてしまい、浅野長晟が和歌山から入って幕末までの約250年を浅野氏の居城として栄華を誇りました。
天守閣は国宝に指定をされていましたが残念なことに原爆投下により倒壊をしてしまい、今の天守閣は昭和33年に鉄骨鉄筋コンクリートで再建をされたものです。

平成元年には二の丸跡に表御門、太鼓櫓、多聞櫓、平櫓が再建をされました。
これらは天守閣と同じく原爆投下で倒壊をしてしまったのの復元で、しかし古写真を使った写真解析で高さ、軒の出、窓の位置などの数値をはじき出しての木造によるものですので、ほぼ当時のものが再現をされているものと考えてよいのではないかと思います。
こちらの表御門は渡り櫓の下に門を備えた櫓門形式の門です。

太鼓櫓は時を告げる太鼓が置かれていたことからそう呼ばれており、二の丸の南東隅にある二層二階建ての櫓です。
二の丸の南西隅にある一層一階の櫓が平櫓で、長屋形式で三十五間の長さの多聞櫓が太鼓櫓と平櫓を繋いでいます。
写真は左から太鼓櫓、多聞櫓、平櫓です。

これら連なった三櫓の内部は公開をされており、中にはいろいろな展示がされています。
鯱瓦は再建をされたときのものですが、詳細が分からなかったために福山城のそれを参考にして作られました。
平成元年の台風で破損をしたために二代目に代替わりをし、その二代目も平成13年の芸予地震で破損をしたことで、今の広島城の鯱瓦は三代目となります。

妙頂寺には浅野忠吉の墓があります。
忠吉は浅野長政の従兄弟ですが先代の長勝の弟の長忠の子ですから、妹の子である長政よりも男系という意味では浅野氏の血を色濃く継いでいます。
長政の子の長晟に従って備後三原3万石を預けられて筆頭家老となり、一門衆として重きをなしました。
備後浅野氏の菩提寺は3代の忠真が創建をした三原の妙正寺で歴代の墓もそこにありますが、その開基が妙頂寺の住職ですので浅野氏との繋がりが強かったのでしょう。
ちなみに妙正寺も2代の忠長や福島正則の甥の正之の墓がある宗光寺も三原駅からほど近いところにあるのですが、こうやって記事をまとめるためにいろいろと調べていく過程で存在を知るのですから後の祭りで、かなり悔しいのですが次に訪れるためのエネルギー源とでも思うしかありません。

妙頂寺にはその他に3代の忠真、14代の忠純、おそらくは一門であろう忠之の墓があります。
忠真のそれは五輪塔の地輪の部分しかありませんので、長い年月を経て失われてしまったのでしょう。
また忠之の「之」を「の」と読めば12代の忠の墓となるのですが正七位が低すぎるような気がしますし、いろいろと調べたのですがよく分かりませんでした。
写真は左から忠真、忠純、忠之です。

ここから東西南北に遠出が始まります。
国泰寺は広島藩2代の長晟の墓があるとのことで西に8.5キロでなだらかな上り坂をえっちらおっちらと登ったのですが、浅野氏の墓所があり立派な五輪塔もあったのですが戒名から長晟のそれではなく、境内の案内板にも何の説明もありませんでしたので誤報だったのかもしれません。
浅野氏の墓所は神田山墓地と新庄山墓地にあるのですがいずれも非公開のために国泰寺に期待をしていただけに、かなりガッカリとさせられました。

その代わりというわけでもありませんが、豊臣秀吉と安国寺恵瓊のそれぞれ遺髪墓です。
豊臣秀吉のそれは恵瓊が形見分けでもらったもので建立をしたとのことですが、真偽の程は分かりません。
また法体であった恵瓊の遺髪とは何ぞや、生臭坊主だったのかとの突っ込みを墓前でしてしまったことは内緒話です。

また大石氏の墓所もこちらにあります。
大石内蔵助良雄が元禄赤穂事件で英雄化をしたため広島藩が遺児である大三郎良恭を家臣に欲しがり、以降の大石氏は浅野氏の家臣として続きました。
またいつの時代のものかは分かりませんが赤穂義士追遠碑があり、赤穂義士の人気ぶりがうかがえます。

その大三郎と、内蔵助の正室の理玖の墓です。
父と同じく1500石の大身で迎えられた大三郎ですが、人物としては優秀ではなかったようです。
妾腹ではありながらも実子ではなく内蔵助の叔父にあたる良速の曾孫の良尚を養子として跡を継がせており、しかし良尚に跡を継ぐ子が無かったことで一時は断絶をした大石氏は大三郎の次男である良遂が養子入りをした横田氏から温良が入って再興をしましたので、辛うじて内蔵助の血が保たれたことになります。
写真は左が大三郎、右が理玖です。

禅林寺は福島正則の創建で、浅野氏の家老である上田氏の菩提寺です。
正しくは初代の上田重安の菩提寺とのことで、しかし原爆投下によりその全てが焼失をしてしまいました。
現在の禅林寺は戦後に再建をされたものです。

上田重安の遺髪塚です。
武人として知られる重安は一方で千利休、古田織部の門下としての茶人としても有名で、むしろ上田宗箇としての名の方が知られているかもしれません。
上田宗箇流の流祖であり、また名古屋城二の丸庭園などを手がけるなど造園家としても手腕を発揮した文武両道の武将です。
関ヶ原の戦いで西軍に味方したために改易をされましたがその後に蜂須賀至鎮に請われて客将として招かれ、また正室、継室ともに浅野氏の姻戚である杉原氏の出であることから浅野幸長の家臣となったことからして、この敗将には珍しい復権も重安の資質によるものなのでしょう。

歴代の上田氏の墓は重安のそれと同じく禅林寺の墓地の一角にあります。
しかし一部を除いて五輪塔の地輪しかなく、原爆投下により飛ばされて戒名が刻まれている地輪を除いてどれがどれだか分からなくなってしまったからなのか、あるいはこの地輪も戦後に作られたのものなのかは分かりませんが、ただ積み上げられているだけではなくコンクリートで固められているのにはちょっと驚きました。

この墓所には3代の重次と12代以降を除いた歴代の当主の墓があり、戒名付きで説明板がありましたのでこういうのは助かります。
しかし残念なことに10代の安世だけは見つからず、固まっていた一角から外れたところも見て回ったのですが骨折り損のくたびれ儲けでした。
浅野氏家老としての上田氏は嫡男の重秀が徳川氏の旗本となったために次男の重政が継ぎ、その後は重次、重羽、義行、義従、義敷、義珍、安虎、安世、安節と続きます。
上田氏は広島藩の国家老として三原浅野氏、東城浅野氏とともに浅野氏三家老の一つとして栄えました。
写真は上段左から重政、重羽、義行、義従、義敷、義珍、安虎、安節です。

次に向かったのが西南に9.3キロの海蔵寺で、やはり広島藩の家老である東城浅野氏の菩提寺です。
これまた延々と上り坂が続く苦行の第二弾で、しかも道案内で50メートル先を下るとあったので100段以上もある階段を延々と下ったのですが民家しか見当たらず、実際のところは100メートルほど先がそれでしたので疲れた体には厳しすぎるトラップでした。
その先も45度に近い下り坂で自転車で下ったことを後悔させられましたので、痛烈なダブルパンチです。

墓所には東城浅野氏の歴代当主の墓がありましたが、一部を除いて説明もなく戒名を控えたのですが誰が誰だかはほとんど分かりませんでした。
東城浅野氏の始祖は堀田高勝で、浅野長政の嫡男である幸長の守り役となったことから後に浅野姓を許されます。
その後は高英、高次、高尚、高方、俊峰、高明、道寧、高景、高通、高平、道博と続きますが、ところどころに養子が入っているようですので血縁関係は今ひとつ分かりません。

ざっと見た感じで特定ができたのが高勝を初代とした11代の高平と、12代の道博です。
高平のそれは珍しい墳墓になっており、何か謂われがあるのかもしれません。
写真は左が高平、右が道博です。

この海蔵寺に東城浅野氏の墓所があることを知ったのは実のところは訪れたときで、かなりのラッキーパンチでした。
本来の目的は山中氏の墓所で、尼子氏の重臣であった山中鹿介幸盛の後裔となる吉和屋山中氏の一族が葬られています。
幸盛の娘の盛江が毛利氏の家臣である児玉氏に出入りをしていた商人の吉和義兼に嫁ぎ、その子の範信から本姓山中氏の吉和屋彌右衛門として栄えました。
幸盛の嫡男である幸元は盛江の次男とも言われているようですが鴻池財閥の始祖であり、武辺一辺倒であった幸盛の子が商いで身を立てるのですから不思議な感じがします。

その盛江の墓ですが、昭和に入ってから改葬をされたものです。
墓前には幸盛を語る際には欠かせない「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」が刻まれた石碑がありますが、これもそのときのものかもしれません。
幸盛の首塚もあるとの情報もそういった案内板はなく、しかし帰ってきてから調べてみれば墓の左に辛うじて映っている松の大木に幸盛の首級が埋められているとのことで、これほどのものであれば現地で情報は得られるだろうと手を抜いた甘さを次回の糧にしたいと思います。

また面白いことに、小田原北条氏の5代の氏直の墓がありました。
小田原城が落城をした後の氏直は家康の女婿とのことで許されて高野山に謹慎し、その後に大名に復活をしたものの30歳の若さで病没をしてしまいましたがその地は大阪であり、この広島の海蔵寺とどういった縁があったのかは今ひとつ分からず、しかし小田原の早雲寺にある墓は供養塔でこちらが本墓との説もあるようです。

こちらはこの日の最大の難関だった福王寺で、これまでの多くの旅の中でも一番に大変でした。
距離的には北に22.3キロですからさしたることはなかったのですが延々と上り坂だったのには閉口どころの騒ぎではなく、痙攣をする足を引きずっての到達です。
トップの写真がその苦難を物語っていますし、それであれば帰りが楽かと言えばそうでもなく、スピードが出過ぎればうねうねとくねった道を飛び出して崖下に転落をしかねないのでブレーキをかけっぱなしで、握力をかなり浪費しましたので行きも帰りも怖い福王寺でした。

福王寺にあるのが武田氏信の供養塔で、氏信は安芸武田氏の初代です。
氏信は甲斐武田氏の10代である信武の次男で、その信武が同族の石和流武田氏から甲斐守護職を奪い取るまでは安芸を本拠としており、信武の嫡男である信成が甲斐守護職を、そして氏信が安芸守護職を継いで二流に分かれました。
安芸武田氏はその後に若狭武田氏が分かれますが、毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の最後の当主である信実は若狭武田氏の出です。

気力を振り絞って最後に訪れたのが妙風寺で、加藤清正の重臣だった加藤正方の墓があります。
熊本藩が改易となった後は片岡風庵と名乗り風庵相場と呼ばれるほどに相場で巨利を手にしたとのことですので、武将と言うよりは能吏だったのかもしれません。
その後に広島藩の預かりの身となったことで、ここ妙風寺に葬られました。

初日に取りこぼした、と言うよりはそもそも一日で巡るには詰め込みすぎたのが実状ですが、その取りこぼしを二日目に拾って巡りました。
安国寺不動院は安芸武田氏の菩提寺で、一時は大内氏との抗争で焼け落ちてしまいましたが、安芸武田氏の一族である安国寺恵瓊が復興をして現在に至ります。
楼門は国の重要文化財であり、また国宝である金堂は絶賛工事中でした。

裏手の墓地には安国寺恵瓊の墓があります。
毛利の外交僧として活躍をした恵瓊は伊予に6万石もの領地を豊臣秀吉から与えられて直臣になったとも言われていますが、あくまで毛利の臣であったとの説も根強いようです。
関ヶ原の戦いにおいて石田三成と共謀して毛利輝元を西軍の盟主に祭り上げたことが有名で、しかし吉川広家や福原広俊との対立が毛利氏を迷走させた感は否めません。

その他もてんこ盛りです。
福島正則は広島藩を改易された後は信濃に移りそこで没していますので、こちらの墓は供養塔のようなものではないかと思います。
また豊臣秀吉の遺髪墓は国泰寺もそうでしたがあちらこちらにあるようで、実際に遺髪が葬られているかどうかは微妙なところでしょう。
武田刑部少輔は歴代当主の誰にあたるかは戒名などが削れているために判然としませんが、刑部少輔は元繁、光和、信実が名乗っていますからこのいずれかだと思われます。
調べてみれば信実が有力とのことではありますが、きちんとした裏付けはありません。
写真は左から福島正則、豊臣秀吉、武田信実(仮)です。

次に向かった才蔵寺が16時半で門を閉じる早寝がモットーのようでしたので間に合わず、仕方なく適当に市街を散策しました。
明星院は毛利輝元が母の位牌所として創建をしましたが、今は堂内にある赤穂義士四十七士の木像の方が有名なようです。
お願いをすれば見せていただけるという話もあるようですが、自分としてはあまり興味がなかったので踏み込みませんでした。
そして原爆ドームは遠目ですが見たのは二度目ではないかと、原爆の悲惨さを訴えかけているかのようです。

初日、そして二日目に取りこぼした才蔵寺は、四日目にしてようやく訪れることができました。
才蔵寺は笹の才蔵で名高い可児才蔵吉長を祀る寺で、またミソ地蔵が有名なようです。
才蔵は槍術の名手で斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と錚々たる武将の配下として渡り歩きましたが、その大半が滅亡をしていますから運が無かったのか、はたまた才蔵が何かを背負っていたのかもしれません。

境内には槍を持った才蔵の像と、その墓があります。
さすがにひらがなの墓石は初めて見ましたので、当時のものではなく近年になってから造られたものではないかと想像します。
その手前にあるのがミソ地蔵で、福島正則の改易に際して籠城のために才蔵が味噌を集めたのが由来とのことですが、実際の改易は才蔵の没後ですから伝説の域を出ません。

その脇には「肥後藩 可児才助藤原重喬」と刻まれた石灯籠がありました。
才蔵の子孫なのか一族なのかは分かりませんが、血の繋がりの重さを感じさせてくれます。
いろいろと調べてみましたが才蔵の子にかかる情報は見当たりませんでしたが、きっと綿々と系譜は続いているのだろうと思いたいです。

広島の巻に入れるのにはちょっと無理があるのですが、他のどこでも無理がありますので気にしないで特攻です。
才蔵寺を後にして向かったのが宮島で、言わずとしれた厳島神社です。
毛利元就が策略にて陶晴賢を討ち取った厳島の戦いの舞台で、ここそこにその戦いの跡が残されていますので前回に訪れたときには時間をかけて見て回ったのですが、今回は予定になかったものを寄り道気分での散策ですので大鳥居と本殿をちょろっと見た後は鹿と戯れただけで宮島は終わりとしました。

廿日市の洞雲寺は厳島神主家の藤原教親が創建をした、藤原氏の菩提寺です。
その後に厳島の支配者が大内氏、陶氏、毛利氏と変わっても尊崇と保護を受けました。
福島氏の時代に寺領を没収されるも浅野氏により復興され、そして現在に至っています。

この洞雲寺のお目当ては、毛利元清の墓です。
元清は元就の四男ですが庶子であり、正室の子である隆元、元春、隆景とはかなり年齢が離れています。
一番に近い隆景とすら18歳の年齢差がありますし甥である輝元の2歳の年長でしかありませんので、兄弟よりも親子という関係に近かったのかもしれません。
その多くの庶子の中でも元清は文武優れた武将であったようで、桂元澄が死去した後の桜尾城を任されました。
居城の位置関係もあってか特に隆景と親しく、戦陣を共にすることが多かったようです。
一時期は輝元の継嗣となった秀元の父であり、よって長府毛利氏の始祖とも言えます。
また穂井田氏の養子となったことで穂井田元清と名乗っていた時期もありましたので、その名の方が有名かもしれません。
47歳の若さで亡くなってしまいましたがもし元清が関ヶ原の戦いまで健在であれば、毛利氏の動向がまた違ったものになったのではないかと夢は広がります。

元清の前の桜尾城主だった桂元澄の墓も、この洞雲寺にあります。
厳島の戦いにおいて陶晴賢が決戦を決意したのは元澄の偽りの内応が理由の一つとされていますが、そもそもこの戦いが毛利氏と陶氏のものではなく村上氏と陶氏のものであるとの学説もあるようで、そうなると元澄の策略も講談の世界の話なのかもしれません。
右が一見すると元澄の墓よりも立派な継室のもので、やはり毛利氏の重臣である志道広良の娘の墓です。

厳島で討ち取られた陶晴賢は桜尾城で首実検がされた後に、ここ洞雲寺に葬られました。
負けるはずのない戦いに敗れて首とされたのですから、さぞや無念だったでしょう。
また藤原氏の実質的な最後の当主であるこれまた桜尾城主だった友田興藤の墓もあり、新旧の桜尾城主が眠っていることになります。
写真は左が陶晴賢、右が友田興藤です。

最終日に訪れたのが上深川の吉川興経の墓です。
興経は毛利元就の正室である妙玖の甥にあたりますので、跡を襲った元春の従兄弟にもなります。
大内氏と尼子氏の間をフラフラとしたことで家臣の不興を買い、半ば強制的に隠居をさせられました。
そんな興経を元就がそのまま放っておくはずもなく、嫡子の千法師とともに謀殺をされました。
その千法師の墓も近くにあるとのことでしたが、空港に向かう前で重い荷物を抱えていたことで坂道を登るのが億劫だったので今回はパスです。


【2013年4月 広島、山口の旅】
三本の矢を探して
三本の矢を探して 旅程篇
三本の矢を探して 旅情篇
三本の矢を探して 史跡巡り篇 安芸高田の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 福山、三原、竹原の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 北広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 岩国の巻
三本の矢を探して グルメ篇
三本の矢を探して スイーツ篇
三本の矢を探して おみやげ篇

 

コメント (3)

仕上げの西九州 史跡巡り篇 五島の巻

2012-10-26 00:23:02 | 日本史

 

最終日は五島です。
前日の夜から雨が降っていたようでホテルを出たときに路面が濡れていて焦ったのですが、しかし長崎まで出てフェリー乗り場に着くまでに雨に降られることはありませんでした。
ところがフェリーが出航をしてすぐに大雨となり、海が荒れていることから徐行航行となるとのアナウンスで空を見上げれば真っ暗で、長崎には大雨洪水警報の発令です。
フェリーのダイヤの都合で五島には3時間ちょっとの滞在予定だったために航行が遅れれば大変なことになると頭を抱えたものの、幸いなことに15分ほどで雨が弱まり五島があるあたりの空は明るかったので何とかなるのではないかと気を取り直し、結果的にはかなり雲が厚かったものの無事に島巡りを終えることができました。

福江港を出て数分も歩けば石垣や堀、そして城郭風の建物が見えてきますが、これは五島観光歴史資料館です。
五島藩の資料や民俗資料が展示をされており、例によっていろいろと話を聞かせていただきお世話になりました。
もう少し時間に余裕があればじっくりと見て回りたかったのですが、天気の心配もあり先を急いだのがちょっともったいなかったです。

石田城とも呼ばれる福江城は五島氏の居城ですが、しかし歴史はかなり浅いです。
完成は1863年ですから幕末も幕末で、明治維新により1872年に解体が始まりましたので僅か9年の命でした。
当時の建物の遺構は蹴出門のみで、しかし野面積みの石垣はきれいに遺されています。
内側からもっとぐるっと回りたかったのですが城跡には五島高校があるため、残念ながら外から眺めるしかできませんでした。

同じく城跡には福江藩の10代藩主である五島盛成が造った五島氏庭園があり、国の名勝に指定をされています。
入園料は500円もしますしその手のもにはさして興味がないために寄るつもりもなかったのですが、しかし休園であることを知ると不思議と悔しくもなります。
城郭内にこういった日本庭園があるのは珍しいらしく、それが名勝に指定をされた理由との説明板でした。

城跡から10分ほどのところには武家屋敷が建ち並んでいますが、実際にはそのほとんどが門のみです。
敷地内は荒れ放題だったりアパートが建っていたりと武家屋敷通りといった趣きは感じられず、むしろ悲しげですらありました。
レンタサイクルがこの近くの史料館らしきところでの貸し出しだったために寄ったのですが、あまり見たくはない現実です。

その武家屋敷の石垣塀の上に、あまり見たことのない石積みがありました。
これは「こぼれ石」と呼ばれるもので、全国的にも類を見ないものだと評価をされているそうです。
塀を乗り越えようとした際に石がこぼれて音が鳴ることで外部からの侵入を知らせたり、いざというときには武器にもなるためにこういった石垣塀になったそうなのですが、しかし今はガッチリと固められていてこぼれることはないでしょうし、武器として使えば塀の高さが低くなって侵入を許しやすくなるのではないかと、そんなことを思ったりもしました。

大円寺は五島氏の菩提寺で、五島氏の墓所があります。
五島氏は元は宇久氏であり、その17代の盛定が開基となります。
しかし説明板に「荒廃のままに」と書かれているようにまさに荒廃状態で、お寺の方も好きに見てくださいと突き放したような感じでした。
ここには16代の宇久囲から25代の五島盛暢までの墓があるはずなのですが、戒名などから特定ができたのは僅かに四基です。

五島盛利は22代で、福江藩の2代藩主です。
17代の盛定の曾孫にあたり、父は宇久盛長で、その父の従兄弟にあたる初代藩主の玄雅の養子となりました。
この盛利のときに居城だった江川城が焼失をしてしまい、幕末に福江城を築くまでは石田陣屋で藩政を執り行っていたとのことです。

盛利の長男が3代藩主の盛次で、しかし病弱であったことから38歳で早世をします。
盛次の長男の盛勝が4代藩主、盛勝の長男の盛暢が5代藩主と直系が続いたものの、これまた34歳、30歳での若死にです。
そのため若年での襲封が続いたために一族の有力者が後見をすることとなり、1万5千石だった福江藩は盛勝の叔父である盛清に3千石を分知したために1万2千石となりました。
写真は左から盛次、盛勝、盛暢です。

五島氏の墓所は、大円寺の前を流れる川を挟んだ反対側にもう一箇所あります。
こちらには26代の盛佳から34代の盛輝までの墓があります。
大円寺の境内にあるそれと比べればまだ整備がされており、その違いの理由はよく分かりません。
説明板にはどの墓が誰のものかの案内までされている丁寧ぶりで、しかし微妙に間違っていたと言いますか右左の解釈が難しい案内ではありました。

6代藩主は盛暢の長男の盛佳で、久しぶりに48歳と長命とは言わずともまずまずの寿命を保ちました。
その盛佳の長男の盛道が7代藩主で、これは正真正銘の長命で70歳と長生きをしたことでやや風向きが変わってきます。
盛道の次男の盛運が8代藩主で57歳、盛運の次男の盛繁が9代藩主で75歳、盛繁の長男の盛成が10代藩主で75歳と、藩政初期の苦労が嘘のようです。
しかし盛成の長男の盛徳が11代藩主となるも病弱で、明治維新後に36歳で病没をしました。
写真は上段左から盛佳、盛道、盛運、盛繁、盛成、盛徳ですが、そのうち盛道の写真の三基のうち右端が盛道で、左端は33代の盛光、中央は34代の盛輝です。

五島の最後は常灯鼻です。
福江城を築く際の防波堤と灯台の役割のために築かれたもので、築城にあたった石工集団の手によるものです。
150年以上も経った今でも波風に耐えて往時の姿を遺しており、それだけ石工の技術が秀でていたということなのでしょう。


【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 平戸の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇

 

コメント (10)

仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻

2012-10-25 01:25:46 | 日本史

 

四日目は島原半島をぐるっと回りたかったのですが島原鉄道の島原外港駅から加津佐駅の路線が2008年に廃止となってしまったため、原城跡や日野江城跡を候補に挙げながらもバスの便が今ひとつ上手く計画立てられなかったので断念せざるをえず、ここは次回の楽しみに置いておくことにしました。
その代わりと言うわけでもないのですが諫早を追加して大村と合わせてちょっと駆け足にもなりましたが、この日もまずまず天気に恵まれましたので大助かりです。
この旅での最後の日本100名城である島原城に墓フリーク炸裂で、充実をした一日となりました。

その島原城は島原駅を背にして5分も歩けば行き着きますので、島原観光の中心です。
残念ながら建物は全て明治以降に取り壊されてしまいましたので、現在の天守閣や櫓は昭和に入ってからの再建です。
こちらの巽櫓は1972年の再建で、長崎平和祈念像で有名な北村西望が今の南島原市の出身なために中は西望記念館になっていました。

時計回りに歩いて行くと、次に見えてくるのが西櫓です。
1960年の再建で、中には日本全国の城の写真などありがちな展示がされていました。
他の櫓と同じく三層三階となっており、しかし当時のままに復元をされたかどうかの説明はありませんでした。

丑寅櫓は1980年の再建で、中は民具資料館になっています。
その手のものには興味がないので軽く覗いただけで時間をかけなかったため、搦手門であった諫早門の門扉が展示をされていることに気がつかなかったのが痛手でした。
この丑寅櫓と先の巽櫓がどっちがどっちかが実は曖昧で、旅のメモにはこちらが巽櫓と書いてあったのですが、民具資料館は丑寅櫓とのことですのでそちらに従うことにしました。

そして天守閣です。
1964年に鉄筋コンクリートで再建をされたもので、見上げるぐらいの巨大さに圧倒をされました。
島原城は有馬氏が日向延岡に転封となった代わりに入った松倉重政が江戸期に入ってから築いた城で、往時は四層四階の天守閣に49もの櫓が建ち並んでおり、4万石の小大名にしては過分な城郭の築城に苦しんだ領民の不平不満も島原の乱の原因の一つとされています。
重政の子である2代藩主の勝家は、その責任を取らされて大名には珍しく斬首をされたそうです。

城内にはその島原の乱の首謀者の一人である天草四郎と、若き日の織田信長の像がありました。
天草四郎は分かるのですが織田信長と島原との関係が分からず、同じものを岐阜城で見た記憶があるのですが、どうやら両方ともに北村西望の作品のようです。
中が西望記念館の巽櫓の前にありましたので、そういうことなのでしょう。

時鐘楼は松倉氏の跡に島原藩に入った深溝松平氏の忠房が建てたもので、「おかみの鐘」として親しまれてきました。
しかし太平洋戦争の際に供出をされてしまい、今のものは1980年の再建です。
鐘の銘文模様はこれまた北村西望によるもので、余程に地元の名士として敬愛をされていたのでしょう。

本光寺はその深溝松平氏の菩提寺です。
当たり前ですが以前は三河深溝にあったものが、当主の移封とともに武蔵忍、三河吉田、そしてこの肥前島原と転地を繰り返してきました。
現在の本光寺は明治に入ってから末寺の浄林寺を合併し、この山門は初代の忠房が生母を弔うために建立をしたその浄林寺のものです。

ここには深溝松平氏の墓所があります。
深溝松平氏は十八松平氏の一つで、宗家の三代信光の七男でやはり十八松平氏の一つである五井松平氏の祖である忠景の次男の忠定が興しました。
この墓所は島原氏の砦であった丸尾城があったところで、その遺構を利用しています。

島原藩主としての深溝松平氏は初代が忠房で、長男の好房が21歳で早世、次男の忠倫が愚昧にして廃嫡をされたために、2代藩主には分家から忠雄が入ります。
その忠雄も実子の忠英が早世をしたために同じく分家から忠俔を養子にとって3代藩主とし、4代藩主は旗本から入った忠刻、5代藩主がその子の忠祇で、この忠祇のときに下野宇都宮に転封となって入れ替わりで宇都宮からの戸田氏が島原藩主となりました。
しかし忠祇の跡を継いだ弟の忠恕のときに再び戸田氏との入れ替わりで島原に復帰をして、何をやりたかったのかはよく分かりません。
写真は左が忠雄、右が忠英です。

江東寺は松倉重政の菩提寺で、しかし有名なのは涅槃像のようです。
幅は8メートル、高さは2メートルで、鉄筋コンクリート造りの涅槃像としては日本最大のものとは、例によって説明板の受け売りです。
入寂をするまで説法をした釈尊の最後の姿を表したものとのことですが、宗教には疎いのでよく分かりません。

松倉重政は筒井氏に仕えて島清興とともに「右近左近」と呼ばれた重信の嫡男で、筒井氏が大和から伊賀に転封となった際に致仕して豊臣氏の直臣となります。
その後は徳川氏に近づいて関ヶ原の戦いでの功で大和五条1万石から肥前日野江4万3千石に加封をされて、そして一国一城令に従って原城と日野江城を廃して島原城を築いたとは先に書いたとおりですが、陪臣からここまでのし上がったのですからそれなりに秀でた武将だったのでしょう。
中央の墓は1828年の再建で、右側にある上部が欠けた墓が1792年の普賢岳の噴火、群発地震により眉山が崩落をした際に流されてしまい、後に発見をされた当初のものです。

板倉重昌は京都所司代を務めた勝重の次男で、兄はやはり京都所司代の重宗です。
島原の乱に際して鎮圧の上使として赴くも官吏であり1万5千石の小身であることから各大名を統制しきれず、業を煮やした幕府が知恵伊豆こと松平信綱を派遣したことを聞くや焦って無謀な突撃を行い、銃弾に撃ち抜かれて討ち死にをしてしまいました。
やはり眉山崩落の際に江東寺が埋没をしてしまい墓が流されてしまったため、一門の依頼で一族である深溝松平氏の老臣の板倉勝彪が再建をしたのが左の大きめの墓で、そして右の小さめの墓がその後に井戸を掘った際に見つかった当初のものです。
島原の乱の遠因を作った重政と、その鎮圧の際に討ち死にをした重昌の墓が並んでいるのは皮肉と言えば皮肉です。

こちらは沖田畷古戦場跡、龍造寺隆信供養塔です。
龍造寺隆信は有馬氏を攻めるための出陣をして、沖田畷にて有馬・島津連合軍と戦って討ち死にをしました。
ここがその場所であるというわけではありませんが、地元の有志がこの付近にあった129もの祠を一箇所にまとめたものがぱっと見は墓にも見える供養塔です。
戦国の梟雄の最期の地にしては寂しさがありますが、田楽狭間の今川義元も似たようなものでしたので、あるだけでも恵まれているのかもしれません。

諫早では天祐寺で、諫早氏の菩提寺です。
ここには諫早氏の初代から18代までの墓が整然と並んでおり、これだけのために諫早に足を運びました。
諫早氏は佐賀の巻でご紹介をした系図のとおり、龍造寺隆信の又従兄弟にあたる家晴を祖としています。
鍋島氏の肥前継承を容認して龍造寺四家の一つとして、佐賀藩の家老を輩出するなど中枢に位置する存在となりました。
ちなみに龍造寺四家は家晴の諫早氏の他には、隆信の次弟である信周の須古鍋島氏、隆信の三弟である長信の多久氏、隆信の三男である家信の武雄鍋島氏となります。

初代の龍造寺家晴は鑑兼の子で、祖父の家門が隆信の祖父の家純の弟になります。
少弐氏に龍造寺氏が討伐をされた際に家門も謀殺をされましたが、鑑兼は生き延びて一時は家臣に担がれて隆信を筑後に追いやったこともあります。
そういった経緯もあったのでしょうが家晴は隆信とは微妙な距離を置いていたようで、それが隆信の死後に鍋島氏に近づいた理由の一つかもしれません。
家晴の子で2代の直孝が諫早氏を称し、これは藩主のかつての主君であった龍造寺氏を名乗ることをはばかってのことだと思います。
写真は左が家晴、右が直孝です。

3代は直孝の子の茂敬で、4代は茂敬の子の茂真、茂真の子の茂門が5代を、茂元が6代を継ぎましたが、7代には白石鍋島氏から茂晴が入ったことで家晴の男系が断たれました。
8代は茂晴の子の茂行で、茂行の子の行孝が9代、茂成が10代、茂図が11代と横滑りをした跡は、茂図の嫡孫の茂洪が12代、茂洪の子の茂喬が13代、茂孫が14代、茂孫の跡は甥で茂喬の子である武春が15代、16代の一学は茂喬、茂孫の弟で武春の叔父にあたり、17代の家崇は茂孫の子ですから一学の甥、武春の従兄弟で、このあたりはかなり複雑です。
ようやくに家崇の子の家興が18代を継いだことで直系が続きましたが、いずれにせよ龍造寺氏の血ではありませんので嗜好としては残念です。
写真は上段左から茂敬、茂真、茂門、茂元、茂晴、茂行、行孝、茂成、茂図、茂洪、茂喬、茂孫、武春、一学、家崇、家興です。

この日の最後は大村です。
まずは大村氏の居城であった玖島城跡で、大村藩の初代藩主である喜前の手によるものです。
連郭式の平山城で、しかし例によって明治維新後に建物の全てが取り壊されてしまいました。
本丸跡にはありがちな神社があり、大村氏を祀っている大村神社です。

同じく本丸跡には、12代藩主の純熈の像があります。
その洋装からも分かるとおり大村藩の最後の藩主で、しかしこれといった事績はありません。
あるいは一般的には知られていない功績があってこその像のモデルなのかもしれませんが定かではなく、特に説明板などもありませんでした。

玖島城跡の唯一の建物が板敷櫓で、1992年の再建です。
二層二階の櫓があるのも嬉しいのですが、その櫓台の石垣の扇勾配の曲線美が際立っています。
築城の際に喜前と親しかった加藤清正に指導を受けたとの話もあるようで、それであればなるほどといった感じです。

大村藩お船蔵は4代藩主の純長が造ったもので、御座船などの藩の船が格納をされた場所です。
玖島城は大村湾に突き出す形で築かれていますので、船は重要な交通手段だったのでしょう。
また五教館御成門は通称黒門と呼ばれており、藩校である五教館に藩主が訪れたときの専用門でした。
現在は大村小学校で入学式と卒業式のときに開かれて、入学生と卒業生がくぐる栄誉を受けるとの説明板でした。

そして大村氏の菩提寺である、日蓮宗の本経寺です。
ここには大村氏の墓所があり、外からもこれ見よがしに見える大きな墓が有名です。
初代藩主の喜前の父である純忠は日本最初のキリシタン大名で、しかし徳川の世になりキリスト教が禁じられたことでやはりキリシタンだった喜前は棄教して日蓮宗に改宗し、幕府からつけ込まれないよう日蓮宗に帰依していることをアピールするためのものと言われています。

ここ大村氏墓所には、大村藩の歴代藩主の墓があります。
また初代藩主の喜前の系図上の祖父である純伊の墓があり、別格なのか他の墓とは違って立派な覆屋の中にありました。
純伊は有馬氏に追われて一時は放浪をしたものの、後に反抗して領地を回復した中興の祖と言われています。
しかし子の純前のときに再び有馬氏の圧迫を受けて、純前は実子がありながらも有馬氏から純忠を養子に迎え入れます。
よって純忠からの大村氏は血脈としては有馬氏で、よって純伊と喜前に男系としての血縁関係はありません。

喜前は家を守るためか改宗の後はキリスト教徒に厳しい弾圧を加えて、その恨みを買って毒殺をされたとの逸話も残されています。
大村氏で一番にメジャーなのは天正遣欧少年使節で有名な純忠ですが、しかしその墓がどこにあるかは分かっていません。
かつての居城だった三城城に葬られたものの、キリスト教の弾圧の中で掘り起こされてどこぞに捨てられたなんて話もあるようです。
喜前にとっては父よりは家、だったのかもしれません。
写真は左が喜前、右が純伊です。

巨大さもそうですが、墓石に刻まれた「南無妙法蓮華経」の文字がかなり露骨です。
中期以降はもう大丈夫だとでも思ったのか位牌のような小さなものに変わっていきますが、それでも大ぶりな石霊屋に覆われていました。
2代藩主の純頼は喜前の長男で、以降の藩主は大村氏の通字である「純」を受け継いでいきます。
純頼の長男が3代藩主の純信ですが、子が無いままに33歳で没したために正室の兄である純長が伊丹氏から入って4代藩主となったことで有馬系大村氏もここで男系が断たれたものの、その正室が有馬氏だったことで5代藩主の純尹は辛うじて女系で続いたことになります。
しかしその跡を異母弟の純庸が6代藩主を継いだことで女系も断たれてしまい、7代藩主はその子の純富、8代藩主はその子の純保、9代藩主はその子の純鎮、10代藩主はその子の純昌、11代藩主はその子の純顕、12代藩主はその弟の純熈で幕末を迎えましたが、この順調な継承も男女系ともに有馬氏、大村氏ではないために興味が薄れました。
写真は上段左から純頼、純信、純長、純尹、純庸、純富、純保、純鎮、純昌、純顕です。

そんな墓の行方も不明な藩祖とも言うべき純忠ではありますが、その晩年に住した居館の跡が史跡公園として遺されています。
隠居をした純忠はキリシタンの信仰に明けくれる余生を過ごしていましたが、豊臣秀吉のバテレン追放令の1ヶ月前に病死をしました。
まさか秀吉も純忠の死を待って発令をしたわけでもないでしょうが、純忠にとっては表現は微妙ながらもいいタイミングでの死ではなかったかと思います。

史跡公園ではありながらも、そう言われなければただの公園です。
むしろ裏手にある石垣とおぼしきものの方が、史跡といった感じがあります。
元は重臣の屋敷で坂口館と呼ばれており、純忠はここで晩年の二年間を過ごしました。

その純忠が居城としていたのが、この自らが築いた三城城です。
しかしこれといった遺構は見当たらず、忠霊塔のようなものが建設中なのか改修中なのか、そんなものしかありませんでした。
子の喜前がほど近いところに玖島城を築いたことで僅か35年での大村氏の居城としての役目を終えて、その後に完全に破却をされて今は城跡の面影はほとんどありません。

最後は大村市立史料館です。
一階は図書館で平日の夕方ながらも新聞や雑誌を読む人で満席に近く、そして二階が展示室となっています。
さして広くはないのですがキリシタン関係の資料や大村市の史跡が紹介をされており、なかなかの充実ぶりでした。


【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 平戸の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 五島の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇

 

コメント (2)

仕上げの西九州 史跡巡り篇 平戸の巻

2012-10-17 20:54:32 | 日本史

 

三日目は平戸です。
時間を有効に使うために二日目の夜に佐世保まで出たのですが、松浦鉄道の往復に3時間もかかったのと墓巡りで予定をかなりオーバーする時間をかけたためにちょっと不経済な日程になってしまい、しかしそれで途中で腹をくくったことで時間を気にせずに気分的には楽に過ごせました。
連日の晴天で漕ぐペダルも軽かったですし、やはりお天道様の下での旅はいいものです。

まずは日本100名城の一つである平戸城ですが、オーソドックスに巡ろうとすると最初にぶつかるのが当時の遺構である北虎口門です。
ただし門扉は復元をされたもので、朽ち果て気味の本物は天守閣の内部に展示をされていましたが撮影はNGでしたので写真はありません。
遺構とは言いながらもどう見ても窓ガラスのようにしか見えないところもありますので、それなりに手は入れられているのでしょう。
また城内で唯一の木造遺構との説明でしたが、では同じく当時の遺構である狸櫓は何なのだろうとは素朴な疑問です。

その北虎口門に連なる狸櫓で、正式名称は多聞櫓です。
言い伝えによると「この狸櫓と呼ばれる多聞櫓の床下に狸が住んでいたが櫓の修理のために床板を全部はがしたところ、狸が小姓に化けて松浦藩主の寝床にやってきて「私達一族を櫓に住ませていただきたい。そうしていただければ私達一族は永代に渡ってこの城を守ります。」と嘆願をしたため、松浦藩主が床を元のように張ったところ狸がずっと住み着いた。」とのことで、そのため誰もが多聞櫓とは呼ばずに狸櫓と呼んでいるそうです。
もちろんおとぎ話の世界でしょうが平戸藩の10代藩主である熈が狸櫓由来記として遺していますので、当時はそれが信じられていたのでしょう。

その狸櫓とは反対側に北虎口門に連なっているのは地蔵坂櫓で、こちらは1962年の再建です。
二層二階の櫓ですが、絵図などでは平櫓だったようなので資料に忠実に復元をしたものではないのでしょう。
それでも櫓台の石垣や、狸櫓から北虎口門に連なる白壁の曲線が美しいです。

そして天守閣です。
平戸城には天守閣は無かったので完全に模擬天守で、鉄筋コンクリートの三層五階でこちらも1962年に再建をされました。
本丸にあった二重櫓の場所に建てられているために窮屈な感じがありますが、それでも模擬だろうが何だろうが天守閣のある城は興奮をします。
内部は平戸松浦氏の資料が展示をされており、性善説に則った城内地図のパンフレットも販売をされていました。

天守閣の入口から見て裏手にあたるところにあるのが見奏櫓で、これまた1962年の再建です。
うっかりすると見落としがちですが、案内板があるのでかなりの粗忽者でなければ大丈夫でしょう。
狸櫓などと同じく内部は自分としてはさして興味のない展示がされていましたので、ちょっと覗いただけで次を目指しました。

懐柔櫓も1962年の再建で、これだけ同時期に再建工事に入った理由が何かあったのか、いろいろと聞いてみましたがよく分かりませんでした。
見奏櫓から下り階段が繋がっているのですが門は閉じられており、おそらくは有料エリアと無料エリアを区切ることが目的なのでしょう。
そのため行き着くには先の地蔵坂櫓の脇を通って亀岡神社をぐるっと回り、草ぼうぼうで廃墟のようになった土俵を横目に歩いていく必要があります。
それにしても見奏櫓とか懐柔櫓とか珍しいネーミングの櫓が多く、人質でも住まわせたのかとは勝手な想像です。

平戸城には天守閣が無かったために代用をされていたのが乾櫓で、三層三階で同じく1962年の再建です。
しかし二階のガラス窓を見れば分かるとおり当時のものを忠実に復元をしたものではないことが一目瞭然で、内部は売店となっています。
いろいろと事情はあったのでしょうがいくら何でもこれは酷すぎで、櫓風の建物にしか見えません。

再建をされたものがほとんどですが多くの櫓などがコンパクトにまとまっていますので、城郭を訪れたという充実感のある平戸城です。
それだけではなく石垣も見事に遺されており、6万3千石の小大名の城としてはかなりの規模を誇ります。
やや交通アクセスに難がありますし、アップダウンもそれなりにあるのですが、長崎を訪れた際には是非とも足を伸ばしていただければと思います。

ここからは墓巡りのスタートです。
最教寺は平戸藩の初代藩主である鎮信が建立をしたものですが、菩提寺というわけではないようです。
1989年に建立をされた三重塔が有名らしく、日本では最大級との説明がされていました。

しかし目的は当然のようにそれではなく、こちらの松浦鎮信の墓です。
平戸藩の初代藩主である鎮信は曾孫の4代藩主の重信が隠居後に鎮信と名乗ったため、区別をするために法印鎮信と呼ばれています。
南蛮貿易で得た財力を背景に各地に蟠踞をしていた松浦党をまとめ上げた父の隆信とともに、戦国大名としての松浦氏の礎を築きました。

平戸藩の藩祖とも言うべき隆信の墓は、三重塔の脇の階段を登った先にある道を右手に100メートルほど歩いた民家の脇を抜けたところにあります。
隆信も曾孫、法印鎮信にとっては孫に同名の隆信がいるため、法名から道可隆信と呼ばれています。
徳川幕府の大名として生き残ったことでこの平戸を本拠とした松浦氏が松浦党の嫡流のように思われがちですが、しかし実際は下松浦党の庶流でしかありません。
しかし次第に平戸松浦氏は惣領家を凌ぐようになり、本家筋である相神浦松浦氏を屈服させたことで戦国大名にのし上がりました。
また付近には法印鎮信の嫡男である2代藩主の久信の墓があるとの情報もあったのですが、暫くうろついたのですが見つけられなかったのが残念です。

正宗寺には道可隆信の父である興信の墓があるとの情報をネットで拾っていたのですが、やはり見つけることはできませんでした。
その代わりというわけでもありませんが、特に説明板などはありませんでしたが戒名から松浦長の墓と思しきものがありましたのでポジティブに考えればいってこいです。
長は平戸城を築いた5代藩主の棟の嫡男ですが、しかし早世をしたために6代藩主は棟の弟の篤信が継ぐこととなります。

この正宗寺は一般的には3代藩主の隆信、やはり法名から宗陽隆信と呼ばれていますが、その墓があることの方が有名です。
平戸が南蛮貿易で最も栄えた頃の藩主で、しかしその後にオランダ商館が平戸から長崎に移されたために藩の財政は一気に苦しくなりました。
それは宗陽隆信が死してから4年後のことでしたので、一番にいい時代を生きた藩主だったのでしょう。

雄香寺は松浦氏の菩提寺で、5代藩主の棟から最後の藩主である12代の詮までの墓があります。
残念ながら説明板などは一切無く、しかし戒名から調べたところではなぜか4代藩主の鎮信、これまた法名から天祥鎮信と呼ばれていますが、それらしき墓がありました。
また見つけることができたのは7代藩主の有信、8代藩主の誠信、9代藩主の清、11代藩主の曜、12代藩主の詮の墓だけで、奥の方までざくざくと踏み入って「前肥前太守」のような文字が刻まれている墓石はかなりあったのですが、しかし5代藩主の棟、6代藩主の篤信、10代藩主の熈の墓は特定ができませんでした。

ざっと平戸松浦氏の血脈を辿ってみれば、興信の嫡男が道可隆信で、その嫡男が平戸藩を興した法印鎮信です。
道可隆信の次男が本家筋である相神浦松浦氏を襲った親で、このことで松浦党が平戸松浦氏によって束ねられました。
法印鎮信の嫡男の2代藩主である久信は32歳で病死をしましたが、自害をしたとの話もあるようです。
久信の嫡男が3代藩主の宗陽隆信、その嫡男が4代藩主の天祥鎮信、その嫡男が5代藩主の棟、棟の嫡男である長が早世をしたために6代藩主は四弟の篤信が継ぎ、嫡男の有信が7代藩主、次男の誠信が8代藩主となり、その世子だった政信が早世をしたために長男で誠信の嫡孫にあたる清が9代藩主となります。
この清のときから祖である嵯峨源氏渡辺氏にちなんだのか、その後の藩主は全て一字名となりました。
清は長命かつ子宝に恵まれての17男16女ですから出費も大変だったでしょうが、十一女の愛子は中山忠能に嫁いで慶子を産み、その慶子が孝明天皇の側室となって明治天皇の生母になりましたので現在の天皇家には松浦氏の血が入っていることになります。
その清の三男である熈が10代藩主、その嫡男の曜が11代藩主、曜が子が無いままに没したたために12代藩主は曜の三弟の秋の長男、つまりは曜の甥にあたる詮が継いで幕末を迎え、その後も厚、陞と他家から養子が入ることなく道可隆信の血が現代まで続いています。
ちなみにどういった経緯かは分かりませんが詮の次男は大隈重信の養子となって大隈信常となり、早稲田大学の名誉総長だけではなく、巨人の前身である大日本東京野球倶楽部の会長やNPBのルーツである日本職業野球連盟の初代総裁を務めました。
写真は上段左から天祥鎮信、有信、誠信、清、曜、詮です。

平戸城は先に書いたとおり5代藩主の棟が築城をしたもので、それ以前は「中の館」と呼ばれる居館を政庁として用いていました。
初代藩主の法印鎮信は日ノ岳城を築き始めるも完成間近で破却をしてしまい、これは豊臣氏と近かったことで江戸幕府の疑いから逃れるためだとも言われています。
この居館が現在の松浦資料博物館で、松浦氏にかかる多くの資料が展示をされています。
また4代藩主の天祥鎮信は茶を好み、茶道鎮信流の祖となりました。
博物館の敷地内にある閑雲亭では、その茶道鎮信流で点てられたお茶と菓子を楽しむことができます。

博物館に至る階段の途中に、道可隆信の像があります。
1メートルほどの小さなものではありますが、やはり平戸の礎を築いた武将として親しまれているのでしょう。
その墓はちょっと分かりづらいところにあるために道行く人に聞いたのですが、「松浦隆信」では「えっ?」という感じでしたが「道可隆信」では「あ~」となったのには驚かされました。


【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 五島の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇

 

コメント (3)

仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻

2012-10-14 02:51:12 | 日本史

 

史跡巡りの二日目は佐賀の北部に向かい、名護屋と唐津が中心です。
唐津はこれまで何回か訪れたことがあるのですが名護屋は初めてで、これも日本100名城の効果の一つと言ってよいでしょう。
時間を有効に使うには唐津から自転車という選択肢が無いわけでもなかったのですが、その無謀さはバスに乗ってすぐの上り坂で思い知らされました。
基本的にはただひたすらに上っていく名護屋ですので、現実的には車での移動しかありえません。

そんなこんなで唐津から40分ちょっとをバスに揺られて着いたのが名護屋城博物館前で、道の駅である桃山天下市の前にあります。
しかし実際の名護屋城博物館はそこから5分ぐらいは歩く必要があります。
その途中にあったのが名護屋城跡の大手口前井戸で、あまり大きなものではありませんが水が張っていましたので子どもがはまったら事故にもなりそうで心配になりました。

名護屋城博物館の開館時間がまだだったため、先に名護屋城跡を見て回ることにしました。
名護屋城は朝鮮に攻め込むための前線基地として築かれた城で、相当な規模を誇りながらも僅か8ヶ月での築城ですから豊臣秀吉の権威は恐るべしといったところでしょう。
しかし朝鮮の役が失敗に終わり、関ヶ原の合戦で実質的に豊臣政権が崩壊をしたことで名護屋城も廃城となり、唐津城の築城の際の資材として解体をされました。
よって建物としての遺構は全くありませんが、その石垣を見るだけでも往時の偉容が想像できます。

登城口はいくつかあるようですが、オーソドックスに時計の反対回りに登ってみました。
東出丸跡を抜けて暫くすると三ノ丸跡があり、そこを右手に回って登っていくと本丸跡に至ります。
両者ともにかなりの広さがあり、ちょっとした規模の城の本丸であれば名護屋城の三ノ丸にすっぽりとはまってしまいそうです。
他の城跡と同じく礎石らしきものぐらいしか目に見えた城としての痕跡はありませんが、ここそこにある石垣がタイムスリップをしたような気分にさせてくれます。
写真は左が三ノ丸跡、右が本丸跡です。

本丸跡の奥には天主台跡があり、ここには五層七階の天守閣がありました。
天守閣は30メートルほどの高さがあり、そこから城下を見下ろせばさぞやいい気分だったでしょう。
ただ秀吉が住んだのは手前に建てられた本丸御殿で、13棟もの建物が建ち並んでいたことが発掘調査で分かっているそうです。

本丸跡には他に多聞櫓跡と南西隅櫓跡があります。
しかし学術的な意味はあるのでしょうがやはり跡だけでは寂しいのと、保護と当時の状況を見せるためなのでしょうが赤っぽいアスファルトのようなもので覆われているのが全体的な景色の中では違和感があったのが正直なところで、説明板には発掘時の写真がありましたが復元図などがあればまた違ったような気がします。
写真は左が多聞櫓跡、右が南西隅櫓跡です。

三ノ丸跡に戻って二ノ丸方面に歩いて行くと、三ノ丸櫓台にぶつかります。
城内では最大規模を誇る櫓台で、本丸への侵入を防ぐための最後の砦といった意味合いがあったのでしょう。
野面積みというのが違和感があったのですが、突貫工事という事情もあったのだと思います。

ここから二ノ丸に至る道筋にあるのが馬場で、そして馬場櫓台があります。
馬場の通路の途中にある馬場櫓台は他の櫓台の配置からして特異な例であり、その理由は分かっていません。
櫓はあっても門の痕跡は発見がされていないようで、どういった目的で設けられたものかが気になります。

そして二ノ丸跡ですが、全くの広場と言ってよい様相です。
三ノ丸跡と同じく礎石などが遺されているのかもしれませんが、これだけ草が生え茂っていれば何も分かりません。
そもそも二ノ丸跡を示す碑もなく城内地図からここだろうと思っているだけで、おそらくはそうだと思うのですが違う可能性ももちろんあります。

廃城に際して建物は全て解体をされましたが、一部を除いて石垣はそのまま遺されています。
そしてご多分に漏れず木々が所狭しと繁茂状態で、自然の力に押し出されて石垣が崩落をしているところが少なくありませんでした。
危険が無いようにそれなりの整備はしているのでしょうが、天候が悪いときに石垣の側を歩くのは避けた方がよいでしょう。

そして名護屋城博物館ですが、その城の規模に比例をするのが使命かのようにかなり大きいです。
平屋のようにも見えますが二階建てで、展示スペースも広々としていますが入館料が無料とは太っ腹です。
この日に最終日を迎える特別展を見るために日程調整をしましたので、台風が来なくて助かりました。
その展示ですが名護屋城の短く、しかし濃厚な歴史がコンパクトにまとめてあり、ターゲットにしてよかったと大満足です。

残念と言いますか後悔をしたのがこの城内模型で、やはり巡る前に見ておけばよかったと思わされる出来です。
これは知人からも最初に見ておけとアドバイスを受けていたのですが、開館まで1時間近くもあったので待ちきれませんでした。
この模型だけでも名護屋城の規模が容易に見て取れますし、これを頭にインプットをしてから歩けばもっとイメージが膨らんだでしょうからこの旅の第一の失敗です。

名護屋城跡には大名の陣跡が118もあり、そのうち遺構が遺されているのが65、特別史跡とされているのが23です。
こちらはその特別史跡の1つである木下延俊の陣跡で、名護屋城博物館の裏手にあり博物館の内部にある入口から入る必要があります。
木下延俊は先日に訪れた豊後暘谷城の城主で、豊臣秀吉の正室である寧々に連なる一族ですので秀吉にとっては身内も同然、それもあって名護屋城にほど近いところに陣を構えたのではないかとも思うのですが、城の近くには前田利家、加藤清正、福島正則、小西行長、片桐且元、豊臣秀保らの陣がありましたので当たらずといえども遠からずでしょう。
その陣跡は説明がなければただの雑木林でしかないのですが、上から全体を俯瞰できるようになっていますので助かりました。

陣跡はあちらこちらに散らばっていますので短時間で全部を巡るのは不可能で、しかも徒歩ですのでポイントを絞って見て回ることにしました。
ただの雑木林や野原では悲しいので、目に見える遺構が遺されている前田利家の陣跡は桃山天下市の駐車場の側にありますので行きやすくてお奨めです。
石垣に囲まれたかなり広い敷地は豊臣氏では屈指の大名だった利家の存在感を表しており、小ぶりな城郭ではなかったかと思うぐらいです。

やはり長宗我部フリークとしては長宗我部元親の陣跡は外せないだろうと、それなりに歩いて行き着いたのですが期待はずれでした。
あのあたりがそうだよ、との説明板があるだけで、その絵を見てあのあたりだろうなと思って撮ったのが右の写真です。
歩き回ってまたこんなのではやっていられませんので、陣跡巡りはこれで切り上げて唐津に戻ることにしました。

唐津に戻ってから最初に向かったのは唐津城で、唐津湾に突き出た満島山に天守閣がそびえています。
豊臣秀吉の数少ない譜代の武将である寺沢広高が関ヶ原の合戦の後に築いた城で、先に書いたように名護屋城の解体資材を多く使って築城をされたと言われています。
秀吉が没した後は徳川家康に近づいて生き残った広高ですが、しかし子の堅高が島原の乱の責任を取らされて自害をしたために僅か2代で寺沢氏は断絶となりました。

唐津城の天守閣は1966年に五層五階の鉄筋コンクリートで再建をされたものですので、資料的な価値はありません。
そもそも唐津城に天守閣があったかどうかも議論の余地があるようで、幕府の記録や絵図、設計図などからも天守閣の存在は裏付けられていないとのことです。
鉄筋コンクリートであるとともに前回に訪れたときに工事中だったエレベーターが完成をしていて趣きもへったくれもないのですが、やはり建物があると興奮をしてしまいます。

その天守閣は絶賛工事中で、どうやら石垣の修復工事をやっているようでした。
遠くから見たときに赤色の鉄材があれがエレベーターかとも思ったのですが、工事のための足場であり、また天守閣を支える目的もあるのでしょう。
途中でバッサリと切り落とされたようなところもあり、その先に何があったのかが気になりますが、まあ珍しいものを見せてもらったとでも思うことにします。

こちらは本丸に至る城門で、天守閣と同じく1966年の再建です。
攻めづらいようにか階段から90度の角度で建てられていますし、工事中で本丸の内側から撮ることもできませんでしたので、全景は天守閣の最上階から見下ろしたものになります。
櫓が連なった櫓門となっており、しかしこちらも絵図などから復元をしたものではないとのことでした。

特に説明はありませんでしたがおそらくはこちらの平櫓も1966年の再建で、地味ながらも全体を締めるアクセントになっています。
これまた工事中で行き止まりになっていて近づくのに回り込まなければならず面倒だったのですが、そんなことにめげてはいられません。
幅が3メートルほどのあまり大きなものではありませんが、外郭を守るための重要な櫓だったのでしょう。

やや離れたところにあるのが三ノ丸辰巳櫓で、1993年の再建です。
こうやって地元自治体が城郭を再建してくれるのは城フリークとしては喜ばしく、財政的に厳しいでしょうが全国各地にこういった動きが出てくれればと思います。
どうやらこちらは絵図を基にして復元をされたようで、昨今のできるだけ資料に忠実にといった流れに沿ったものなのでしょう。

市役所の周りには肥後堀と石垣が復元をされており、肥後堀は三ノ丸と外曲輪との間に掘られたものです。
往時は幅が20メートル、長さが300メートルほどもあったそうです。
気をつけなければならないのは側にある櫓風の建物で、バスターミナルの近くにありますので観光客が初めて目にする城の遺構らしきものですので勘違いをしがちですが、よくよく見てみれば厠、つまりは公衆便所ですので写真を撮ってしまえば後で気恥ずかしくなること請け合いでしょう。

城跡を一通りは見て回ったので、その他の史跡を巡ることにしました。
まずは時の太鼓で、寺沢氏の後に入った土井氏、水野氏、小笠原氏の当時の絵図にも描かれているもので、1992年に再建をされました。
ただ二度目に通りかかったときにたまたま時報とともに動き出したことでからくり時計だったことを知り、ちょっと興ざめをしたのが正直なところです。

埋門ノ館は唐津藩時代のそれの名前を冠しただけで文化会館のような位置づけで開放をされており、特にこれといった資料価値はなさそうです。
また西門ノ館も同様で、中ではお爺ちゃんが何やら創作活動に勤しんでいました。
写真は左が埋門ノ館、右が西門ノ館です。

近松寺には人形浄瑠璃の作者として名高い近松門左衛門の墓があります。
生まれが越前とも言われる門左衛門と唐津との繋がりはよく分かりませんが、本人の遺言でここに葬られたとのことですし、近松寺は門左衛門が生まれる前からありますので、本名は杉森信盛である門左衛門は近松寺と何らかの関係があり名前をそこからもらったのでしょう。
ちなみに近松寺は「きんしょうじ」と読みます。

もちろん近松寺の目的はそれではなく、こちらの寺沢堅高の墓です。
堅高は広高の次男で、父の死により17歳で唐津藩の2代藩主となりました。
しかし島原の乱に際しての不手際を咎められて天草四万石を召し上げられたことで、それを苦にして江戸にて自害をしたと言われています。
そのため寺沢氏は無嗣断絶となり、その後は大久保氏など譜代の大名が唐津城に入ることとなりました。

ここ近松寺には、他にも唐津藩の藩主の墓があります。
小笠原長和は小笠原氏としては唐津藩の4代藩主で、柳沢氏から養子で入りました。
しかし藩内の一揆に悩まされたことが原因か、20歳で病死をします。
またその隣にある墓は説明板などはありませんでしたが、その戒名から小笠原長生のものではないかと思います。
藩主にはならなかったものの江戸幕府の老中になった小笠原長行の長男で、大日本帝国海軍の中将です。
長行は唐津藩の初代藩主である長昌の長男ですから長生は嫡孫にあたり、そういった繋がりからここに葬られているのでしょう。

浄泰寺には安田作兵衛の墓があります。
明智光秀の重臣である斎藤利三の配下で、本能寺の変で織田信長に一番槍をつけるとともに森蘭丸を討ち取ったことで有名です。
その後は明智氏の滅亡とともに浪人をしますが、蘭丸の兄である森長可に「武功は武功」と言わしめて召し抱えられるなど武勇を誇った武将で、最後は旧知であったとも言われる寺沢広高に仕えたことで唐津でその生涯を終えることとなりました。
ちなみに浄泰寺の山門は、名護屋城の大門とのことです。

寺沢広高の墓は、鏡神社の裏手にあります。
神社から向かうと鬱蒼とした山林を100メートルほども抜けなければなりませんが、ちょっとした公園のようになっていて外側からぐるっと回る方がよかったようです。
広高は唐津の基礎を築いた武将として評価をされており、唐津城ではその広高の特別展が開かれていました。
治水工事など文治派として手腕を揮った広高は、豊臣氏時代には武断派の加藤清正らに憎まれていたそうです。

唐津から佐賀に戻る途中で寄ったのが多久で、目指すは専称寺です。
ここには少弐氏の墓があり、またどれかは分かりませんでしたが前多久氏の墓群もあるとのことでしたので、やはり佐賀の龍泰寺のそれは後多久氏のものだったのでしょう。
バスの時間が合わなかったので歩いたのですが、往復6キロはさすがに厳しかったです。

少弐政資は教頼の子で、対馬で没した嘉頼の甥にあたります。
少弐氏の15代として長年の敵で父を死に追いやった大内氏との抗争を繰り広げて一時は筑前や豊前で勢力を誇りましたが、その後は防戦一方で肥前に追いやられてしまい、最後は義父でもある配下の多久宗時の裏切りもあってここ専称寺で自害をしました。
資元は政資の三男で父と兄が大内氏に攻め滅ぼされたことで16代を継ぎましたが、大友氏と結んで抵抗をするもやはり大内氏に攻められて自害をします。
佐賀の真正寺に墓がある17代の冬尚は資元の子で龍造寺氏に攻められて同じく自害をしましたし、戦国乱世とは言いながらもこれだけ当主が自害に追い込まれるなど畳の上で死ねなかった戦国大名はかなり珍しいと思いますので、それだけ九州北部を巡る戦いが激しいものだったということなのでしょう。
写真は左が政資、右が資元です。


【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 平戸の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 五島の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇

 


仕上げの西九州 史跡巡り篇 佐賀の巻

2012-10-09 00:03:46 | 日本史

 

ここのところはずっと雨に悩まされ続けてきましたが、九州も最後になってようやくお天道様との巡り合わせがピタリです。
時折に雲が厚くなったりはしましたが、逆光が苦になるぐらいの晴天続きで二日目にして鼻の頭の皮が剥けるぐらいの好天に恵まれました。
なかなかに見所の多い佐賀と長崎でしたので助かりましたし、今後に向けて是非とも晴れ男の復活といきたいところです。

まず最初に向かったのは真正寺で、ここには少弐氏の最後の当主である冬尚の墓があります。
冬尚は家臣の馬場氏や龍造寺氏の支えで細々と少弐氏の命脈を繋いでいましたが、その両氏の内訌により龍造寺氏を討伐したことで一気に家運は傾いてしまい、最後は龍造寺隆信に攻められて居城であった勢福寺城で自害をしたことで少弐氏は十七代にして滅亡をしました。
その冬尚の墓は境内の裏手にありますが工事中で中からは回れないため、お寺の方に教えていただいた道をぐるっと回って行き着きましたが、ポツンと寂しげな感じがあります。

次に向かったのは吉野ヶ里歴史公園で、日本100名城の一つとなります。
城じゃないだろうと突っ込みたくもなりますし、そうでなければ訪れることはなかったのでしょうが、これも縁だと思って駆け足ではありましたがぐるっと巡ってきました。
公園内はバスでの移動という足もあるようにかなり広大な敷地で、昨年に訪れた青森の根城の数倍の広さがあります。
朝一番で入園をして一時間半ほど経っても誰とも会わなかったのは土曜日にしてはちょっと寂しく、一時期のブームは去ったのかもしれません。

奥に見えるのは墳丘墓で、いわゆる古墳なのだと思います。
ただの盛り土のようにも見えますがぐるっと回り込んでみると入口があり、内部は展示館のようになっています。
この甕棺は説明板を信ずればレプリカではなく本物で、発掘をされたときのままに展示をされているとのことでした。

この時代の知識はせいぜい学生時代の教科書レベルですので、ふーんといったところからはなかなか抜け出せません。
きっとこれが高床式倉庫なんだろう、有名な鼠返しとはこれか、そんな感じでつらつらと歩き回りました。
これだけのものを復元するのにいくらぐらいかかったのか、維持費はどのぐらいなのかとは下世話な話ではありますが、縄文時代風の衣装を着けたスタッフが大勢いるのに入園者が自分だけというのがいかにも申し訳なく、できるのは挨拶ぐらいでしたので居心地が悪かったと言えば悪かったです。

佐賀駅から13キロほど離れている吉野ヶ里散策を終えて、えっちらおっちらと佐賀市街に戻ってきました。
まずは同じく日本100名城の一つである佐賀城に直行です。
佐賀城は龍造寺氏の居城であった村中城を鍋島氏が改修をしたもので、かつては五層の天守閣がありましたが惜しくも江戸期に焼失をしてしまいました。
そして当時の唯一の遺構がこの鯱の門と続櫓です。
二重二階の櫓門に一重二階の続櫓を組み合わせたもので、屋根の両端に青銅製の鯱があることからそう呼ばれています。

鯱の門をくぐってすぐのところに、佐賀城本丸歴史館があります。
2004年に本丸御殿を復元したものですので、自分にとっては初めてとなります。
かなりの規模で広々と整然としており、こういったところで生活が出来る身分になってみたいものですが、全国でも有数の規模を誇った佐賀藩の偉容を感じさせられました。

第8代および第17代の総理大臣であり早稲田大学の前身である東京専門学校の創設者でもある大隈重信は佐賀藩の出身で、ここ龍泰寺にその墓があります。
あるいは鍋島氏はともかくとしても龍造寺氏よりは大隈重信の方が地元でもメジャーかもしれず、あちらこちらで大隈詣といった旗を目にしました。
幕末は既に守備範囲外なのでたまたま見つけたら写真を撮るといった程度でしかないのですが、もしかすると鹿児島と同じぐらいに佐賀は維新の史跡が多いかもしれません。

この龍泰寺は村田氏の菩提寺で、元は龍造寺氏の菩提寺でもありました。
よって自分の目的はむしろこちらで、しかし一般的には大隈重信ですから、残念ながら村田氏墓所は説明板もなく寂しい限りです。
村田氏は龍造寺政家の次男である安良が興したと言えば聞こえはいいですが、鍋島氏に遠慮をして改姓をしたのが実状でしょう。
たまたま居合わせた歴史愛好家と思しき団体の会話から右の写真が5代の墓のようなのですが、流水院殿露山性玉大居士との戒名からは誰かが特定できませんでした。

高伝寺は鍋島氏の菩提寺で、その鍋島氏と龍造寺氏の墓所があります。
龍造寺氏のそれは各地に点在をしていたものを10代藩主の鍋島直正が改葬をしたもので、驚くぐらいに整然と並んでいます。
それが時代の流れであったとは言っても結果的に龍造寺氏の所領を簒奪した形で成立をした佐賀藩だけに、その成立当初から龍造寺氏に連なる一族には並々ならぬ配慮があったようで、その多くが家老やあるいは鍋島一門に組み入れられることで両氏が同化をしたという経緯もあってのことなのでしょう。
ただ不思議なことに、直正の墓はここにはありません。

龍造寺隆信は肥前の熊とも呼ばれた猛将で、乱世の梟雄として名を馳せました。
馬場氏に唆された少弐冬尚に討伐をされたことで隆信は曾祖父の家兼とともに筑後の蒲池鑑盛を頼りますが、その後に隆信は鑑盛の子である鎮竝を謀殺しています。
耳川の戦いで島津氏に大敗を喫した大友氏が零落をするのに付け込んで勢力を拡大しますが、同じく島津氏との沖田畷の戦いで討ち取られてしまいました。
ここから隆盛を誇った龍造寺氏が転がり落ちたのですから、あまりに痛すぎる隆信の戦死です。

龍造寺氏は藤原氏の流れをくむ高木季家が肥前龍造寺の地頭となって龍造寺を称したとも、あるいは龍造寺季慶の跡を継いだとも言われていますが、このあたりは他の戦国大名と同様に伝説の域を出ませんし、藤原秀郷まで遡るなどしての仮冒の可能性は充分にありそうです。
資料的にはっきりとしてくるのは13代の家氏の頃からで、少弐氏に仕えて勢力を拡大していきます。
家氏の跡は嫡男の康家が14代を継ぎ、その嫡男の胤家に跡を譲りましたが、胤家は家中の混乱に嫌気がさして出奔をしてしまいました。
そのため弟の家和が継いだことで15代とされており、胤家は代数に数えられていません。
16代は家和の嫡男である胤和が継いだものの早世をしたためにさしたる事績はありませんが、娘が隆信の母であり鍋島直茂の継母になる慶尼であることがポイントで、結果的に龍造寺氏の凋落に手を貸すことになってしまったのは皮肉と言えば皮肉です。
また父の家和が再び家督となったためかここ高伝寺墓地では胤和は当主として扱われていませんし、その墓もありませんでした。
17代は胤和の弟の胤久で、しかしこの頃から分家である水ヶ江龍造寺氏に実権を握られてしまいます。
この流れは胤久の子の胤栄が18代となっても変わらず、その死後に家就という子がありながらも19代を水ヶ江龍造寺氏の隆信に奪われたのは必然だったのでしょう。
そして隆信の嫡男である政家は20代となるものの因果応報なのか鍋島氏の傀儡でしかなく、跡を継いで21代となった四男の高房がその傀儡であることを嘆いて自害、その一ヶ月後に政家も病死をしたことで龍造寺氏の本家は断絶となってしまいました。
写真は上段左から季慶、家氏、康家、家和、胤久、胤栄、政家、高房です。

14代の康家の五男が家兼で、父の隠居城であった水ヶ江城を貰い受けて水ヶ江龍造寺氏を興します。
そして本家の村中龍造寺氏を凌いで少弐氏の家老まで上り詰めますが、他の家臣の妬みを買って討伐をされたとは先に書いたとおりです。
このとき家兼は逃げ延びましたが子の家純、家門、家純の子である周家、純家、頼純、家門の子である家泰が謀殺をされてしまい、水ヶ江龍造寺氏はほぼ壊滅をしてしまいました。
しかし家兼と周家の子である隆信が蒲池氏の助けを受けて再興し、本家を乗っ取った上で少弐氏を滅ぼして肥前の雄となります。
その他にも17代の胤久の子ともされている胤明の墓もあり、むしろ鍋島氏のそれよりも充実をしています。
写真は上段左から家兼、家純、家門、周家、純家、頼純、家泰、胤明です。

せっかくですので系図を書いてみました。
政家の子である安良が村田氏を称したのは先に書いたとおりで、また隆信の弟である長信の子は多久氏を、家門の孫である家晴は諫早氏を称して鍋島氏に同化をしていきます。
凡例は青字が当主、赤字が墓を紹介した一族です。

鍋島直茂は清房の子で、龍造寺隆信の母である慶尼が継母となったことで隆信の義弟となります。
当時は信生と名乗って隆信の右腕として重きをなし、隆信の死後は豊臣秀吉に高く評価をされたことで家政を取り仕切り、朝鮮の役では龍造寺家臣団を率いたことで家中の掌握を成し遂げるとともに、江戸期に入ってからも幕府から実質的な国主として佐賀藩の立藩を認められました。
沖田畷の戦いで隆信を見殺しにしたという黒い噂もあるようですが、力のある者が必然的に権力を握ったということなのでしょう。

鍋島氏が水ヶ江龍造寺氏の家臣となったの大内義隆が少弐資元を攻めた田手畷の戦いで龍造寺家兼を助けたのがきっかけで、赤熊の面を被っていたことで赤熊武者と呼ばれていたとは地元の広報誌の受け売りですが、次男の清房は家兼の子である家純の娘を娶ったことで一族となり、よってその子の直茂(信生)は隆信の従兄弟にもなります。
さらには隆信の義弟でもありますので、家中で力を持ったことは自然な流れだったのでしょう。
その直茂は藩祖となり初代藩主は嫡男の勝茂で、関ヶ原の戦いでは西軍についたものの本戦の前に東軍に寝返ったことで本領を安堵されました。
世継ぎであった四男の忠直が早世をしたことで2代藩主は忠直の子である光茂が継ぎ、3代藩主は光茂の長男の綱茂が、4代藩主は次男の吉茂が、5代藩主は十五男の宗茂と横滑りが続き、6代藩主は宗茂の長男の宗教が、7代藩主は七男の重茂が、8代藩主は十男の治茂と再び横滑りという珍しい継承ながらも直系が保たれているのは目出度い限りで、9代藩主は治茂の長男の斉直、10代藩主は斉直の十七男の直正、11代藩主は直正の次男の直大が継いで幕末を迎えました。
写真は上段左から清久、清房、慶尼、勝茂、忠直、光茂、綱茂、吉茂、宗茂、宗教、重茂、治茂、斉直です。
ただし清久と清房、そして慶尼の墓は他とは離れた場所にありますので注意が必要です。

どういう関係かは分かりませんが、副島種臣の墓もありました。
大隈重信と同じく佐賀藩の出身で、外務卿など主に外交で手腕を発揮したとのことです。
名前ぐらいしか知らなかったのですが説明板があるなど扱いはかなりのもので、地元では名士として評されているのでしょう。

龍雲寺には、多久氏の墓所があります。
とは言いながらもお寺の方に聞いて初めて知った次第で、あのあたりと教えていただいた場所が右の写真です。
ただこれが龍造寺氏の後裔である後多久氏のものなのか、あるいは古くから多久を治めていた前多久氏のものなのかは分かりません。

そもそもの龍雲寺の目的は、山本常朝の墓です。
山本常朝は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で有名な葉隠の口述者で、江戸初期の佐賀藩士です。
そういう意味では完全に守備範囲外ではあるのですが、敬愛する隆慶一郎の未完の作である「死ぬことと見つけたり 」に強烈な印象が残っているために足を運んでみました。
山本氏の一族の墓が並ぶ中にある小さめの墓がちょっと意外ではあったのですが、案内板もありやはり地元でも有名なようです。

本行寺にはやはり佐賀藩士で、維新十傑の一人にも名前を挙げられている江藤新平の墓がありました。
維新後は初代の司法卿となり、司法制度の基礎を築いたことで高く評価をされています。
しかし征韓論に与して下野をした後に佐賀の乱に身を投じ、自らが推進をした写真手配制度により捕縛をされて斬首されたとは先日のTVの特集で見た記憶があります。

本行寺も目指していたのは別のもので、それが成富茂安の墓です。
茂安は龍造寺氏に仕えて武勇だけではなく外交などでも活躍し、佐賀藩でも家老となりました。
また初代藩主の勝茂の四男である直弘は一時期に茂安の養子となっており、その後に鍋島氏に復して白石鍋島氏の初代となりましたが、その死に際して養父の菩提寺に納めるよう遺言をしたことでここ本行寺に墓があります。
それだけ茂安が文武に秀でるとともに、人望があったということなのでしょう。
写真は左が成富茂安、右が鍋島直弘です。

この本行寺でのめっけものは、この龍造寺胤家の墓です。
伝との注釈付きではありましたが、出奔をしたことで鍋島直正の改葬の対象にはならなかったのかもしれません。
説明板には96歳と信じられないような享年が書いてありましたが、もしあちらこちらを放浪しながらのことであれば相当な労苦があったでしょう。
その年齢からして龍造寺氏の栄枯盛衰を見ていたでしょうから、複雑な思いで生き続けたのだと思います。

児童公園の片隅には、龍造寺隆信生誕地碑と胞衣塚がありました。
よってこのあたりが水ヶ江城があった場所なのでしょう。
胞衣とは胎盤のことらしく、それを埋めた塚があることでの生誕地碑ということらしいです。

佐賀の最後は佐嘉神社と松原神社です。
佐嘉神社の祭神は10代藩主の直正と11代藩主の直大で、松原神社の祭神は藩祖の直茂と祖父の清久、初代藩主の勝茂と龍造寺隆信、政家、高房です。
建物に興味があるわけでもありませんし、時間があれば寄ろうと思っていただけですので一瞬で通り過ぎてしまいました。
写真は左が佐嘉神社、右が松原神社です。

早朝からの自転車の乗り回しに一区切りをつけて、この日の最後は鹿島城跡です。
佐賀駅から肥前鹿島駅まではJRで40分ほどかかりますので日が暮れてしまうかと心配になったのですが、全くのノープロブレムでした。
鹿島城は佐賀藩の支藩である鹿島藩の居城で、しかし城ではなく居館であったのが実状のようです。
鹿島藩は鍋島直茂の次男である忠茂が初代藩主となりましたが、その子で2代藩主である正茂に対して忠茂の兄で正茂にとっては叔父にあたる勝茂が自らの子である直朝を養子に送り込もうとしたことに反発をして鍋島氏と義絶し、忠茂の系統はその後は幕府の旗本になり続いていきました。
結局は直朝が3代藩主となったものの、このあたりは直茂が勝茂と折り合いが悪く忠茂を重用したことへの反発があったのかもしれません。

鹿島城の遺構は石垣と、佐賀県の重要文化財に指定をされている赤門と大手門です。
赤門は本丸の正門で、今は鹿島高校の校門になっています。
また赤門は道案内の絵地図に記載があったので探すのは簡単だったのですが、大手門はそういったものが無かったために適当に歩いて見つかったのはラッキーでした。
切妻造り桟瓦葺きの高麗門で、こちらもぱっと見は赤門ですので取り違えられる可能性はありそうです。
帰りの電車の時間を気にしながらの鹿島巡りでしたが、こういった城門を見ると報われた気持ちでハッピーになれます。
写真は左が赤門、右が大手門です。


【2012年9月 佐賀、長崎の旅】
仕上げの西九州
仕上げの西九州 旅程篇
仕上げの西九州 旅情篇
仕上げの西九州 史跡巡り篇 名護屋、唐津の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 平戸の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 島原、大村の巻
仕上げの西九州 史跡巡り篇 五島の巻
仕上げの西九州 グルメ篇
仕上げの西九州 スイーツ篇
仕上げの西九州 おみやげ篇

 

コメント (2)

ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 柳川、久留米の巻

2012-08-27 05:35:46 | 日本史

 

最終日もやや曇りがちではありましたが、雨の心配がないだけでも心が晴れました。
どうにも天候を気にせずに毎月のように旅立っていただけに、こういう旅もたまにはいいだろうと思ってしまいます。
さすがにANAマイレージも尽きかけてきましたので今後は通常モードの夏休みでの旅ですから、台風にでもぶつからない限りは空模様の心配はしないで済みそうです。

まずは柳川城跡です。
蒲池治久が築いたものを孫の鑑盛が改修をして本格的な城郭としたのがこの柳川城で、難攻不落の名城として知られています。
鑑盛の子の鎮漣は龍造寺隆信と対立をしたことで攻められましたが、猛将の隆信をしても落とすことが出来ませんでした。
しかし鎮漣は和睦の後に隆信に謀殺をされてしまい、その後は立花氏の居城として立花宗茂が入ります。
そして宗茂が関ヶ原の合戦で改易をされたことで田中吉政が入り、田中氏が断絶をしたことで再び宗茂が立花城主として戻りました。
現在の城跡は中学校の片隅にあり、僅かな石垣が遺されているだけです。

福厳寺は立花氏の菩提寺で、立花の梅岳寺養孝院を移して改称したものです。
立花氏の墓所があり、歴代の藩主が眠っています。
墓は覆屋で風雨から守られており、あまり広くはありませんが整然とした雰囲気には圧倒をされました。

柳川藩の藩祖と呼んでいいのかどうかは微妙ですが、立花道雪の墓です。
ここでは初代に数えられており、しかしやはり立花の梅岳寺養孝院にあるそれが本墓なのでしょう。
この福厳寺は宗茂が建立をしたものですが、寺名が道雪の戒名からきていることからしてその目的が分かります。

柳川藩の初代藩主は道雪の養子で高橋紹運の長男である宗茂ですが、ここでは道雪を初代とした数え方とします。
猛将で知られる宗茂は関ヶ原の合戦で改易をされますが、その真っ直ぐな性格が愛されて西軍の敗将としては唯一の復活を遂げます。
子がなかったために跡は弟の直次の四男である忠茂が継いで3代藩主となり、宗茂は76歳で大往生しました。
写真は左が宗茂、右が忠茂です。

忠茂の四男が4代藩主の鑑虎で、5代藩主はその次男の鑑任が継ぎましたが子がないままに39歳で没したために、父の庶兄で立花帯刀家の茂虎の孫である貞俶が6代藩主となり、その次男の貞則が7代藩主、三男の鑑通が8代藩主、鑑通の五男の鑑寿が9代藩主、その父の兄で鑑通の四男である鑑一の子の鑑賢が10代藩主、その長男の鑑広が11代藩主、次男の鑑備が12代藩主を継ぎ、鑑寿の孫である鑑寛のときに幕末を迎えました。
鑑通の嫡子である鑑門、鑑一が続けて早世をしたり、鑑広が17歳で没したために弟の鑑備が身代わりとなってみたりと何度か危機はありましたが、立花氏の男系は続いています。
写真は上段左から貞俶、貞則、鑑通、鑑賢、鑑広、鑑備、鑑門、鑑一です。

そうなると鑑虎、鑑任、鑑寛の墓が見当たらないのですが、最後の藩主である鑑寛は東京で没しましたのでそちらにあるのかもしれませんが、鑑虎と鑑任には違和感があります。
なぜか説明の立て札だけはありましたので、何か理由があるのかもしれません。
また鑑を通字としていることも不思議な感じがあり、立花道雪の戸次鑑連からきているのかもしれませんが、やはり茂を通字として欲しかったとは個人的な感慨です。

関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政が論功行賞で柳川に封じられましたが、その吉政の墓の上に建てられたのが真勝寺です。
つまりは本堂そのものが吉政の廟所とも言えますし、床下に藩祖の墓があるとは恐れ多いことでもあります。
田中氏は吉政の四男の忠政が2代藩主となるものの子がないままに39歳で死したため、無嗣断絶となり改易をされてしまいました。
継ぐべき一族は多くいたはずですが、これも外様大名の悲哀なのでしょう。

吉政の墓は本堂の下ですので、当たり前ですが勝手に入ることはできません。
お寺の方に声をかければ、気さくに入口の鍵を開けてくれます。
その通り道は高さが1メートルもないぐらいで屈んで進まなければなりませんので、閉所恐怖症の方にはちょっと無理な相談でしょう。

こちらがその田中吉政の墓です。
高さは30センチほどでかなり小さく、逆にそれが当時ものと思わせるのは立花道雪のそれと似たような思いです。
吉政は近江出身で、豊臣秀次の筆頭家老となりましたが秀次が失脚をした後は秀吉の直臣となり三河岡崎の城主に、そして関ヶ原の合戦では東軍について仲が良かったとも言われている三成を捕縛したことで筑後柳川32万石に大出世をするのですから皮肉としか言いようがありません。
そんな栄華がまさか2代で終わるとは思ってもいなかったでしょうが、豊臣系の大名の典型的な末路とも言えます。

そして痛恨の立花家資料館です。
立花氏の資料が展示をされており、宗茂の甲胄などもあってやや興奮気味に見て回ったのですが、悲劇はその後にやってきました。
記念スタンプを押したはいいのですが、ここで買った冊子をしまうなどしてソファーで店を開いたときに色紙と記念スタンプ用の用紙を入れたケースを置き忘れてしまったようです。
気がついたのは柳川から久留米に向かう途中の大牟田駅でスタンプを押そうとしたときで、もう目の前が真っ暗になりました。
電話をしたのですが見つからず、100キロの走行でも折れなかった心があっさりと折れた悔やんでも悔やみきれない一事でした。

そんなことが起こっているとは露知らずに向かったのが天叟寺で、高橋紹運の菩提寺です。
孫にあたる3代藩主の忠茂が建立をしたもので、紹運の墓もありました。
かなり立派な五輪塔ではあるのですが岩屋城跡で墳墓のごとき墓所を見ただけに、ちょっと落ちる感は否めません。

崇久寺は蒲池氏の菩提寺で、蒲池氏の墓所があります。
蒲池氏は筑後の名族で、戦国期には蒲池鑑盛が筑後の旗頭として大友氏に忠節を尽くしました。
その鑑盛が耳川の戦いで壮絶な討ち死にを遂げたことで大友氏の筑後支配に暗雲が漂い始めて、その零落に拍車がかかることになります。

墓所とは言いながらもどれが鑑盛の墓かも分からず、墓石もかなり風化をして辛うじて梵字ぐらいしか読み取れませんので手も足も出ません。
鑑盛は肥前を追われた龍造寺家兼や隆信を保護してその復帰の後押しをしましたが、その子の鎮漣が隆信に謀殺をされたことで隆信の暴虐さが語り継がれています。
斜陽の大友氏を支えた義将、仁将としての評価は立花道雪や高橋紹運にも肩を並べると評されており、その墓がどれかが分からないのが悲しくてなりません。

柳川の最後は三柱神社です。
10代藩主の鑑賢が創建をしたもので、立花道雪と宗茂、そして道雪の娘で宗茂の正室の千代が祭神です。
何がどうというものでもないのですが、ちょっと寄ってみましたといった感じです。

久留米の最初は有馬氏の菩提寺である梅林寺で、初代藩主の有馬豊氏の創建です。
寺名は父の則頼の戒名から名付けられました。
久留米藩の歴代藩主の墓所があり、墓フリークとしては見逃す手はありません。

やはり藩祖や初代藩主は別格なのか、覆堂に囲われた廟所となっています。
写真は左が則頼、右が豊氏、忠頼、頼旨です。
忠頼は豊氏の嫡男で2代藩主なので分からないでもないのですが、なぜに5代藩主の頼旨が同じ廟所となっているのかは分かりません。
豊氏は徳川家康の養女を正室としたことで破格の出世をしますが、家康が見込んだのですから武将としての資質は高かったのでしょう。
その婚姻は関ヶ原の合戦の直前だったため、豊臣系の大名の懐柔の意味合いもあったのかもしれません。

3代藩主は忠頼の長男の頼利ですが、その就封にはありがちな話が伝えられています。
忠頼には長く子に恵まれなかったために小出氏から豊祐を養子に迎えますが、豊祐の母は豊氏の娘ですから忠頼には甥にあたります。
しかし実子の頼利が生まれたために豊祐は廃嫡をされて松崎藩を立藩しますが、親族の騒動に連座して改易をされる不憫な一生となりました。

頼利が17歳で早世をしたために弟の頼元が4代藩主となり、その長男の頼旨が件の5代藩主ですがこれまた子が無いままに22歳で没したために則頼の女系である石野氏から則維を養子に迎えて6代藩主としたことで有馬氏の男系は途絶えてしまいました。
継ぐべき一門はいくらでもいたと思うのですが、このあたりの流れと言いますか意図はよく分かりません。
四男の頼童が7代藩主、その子の頼貴が8代藩主、頼貴の嫡孫である頼徳が9代藩主となり、その四男の頼永が10代藩主、七男の頼咸が11代藩主として幕末を迎えました。
女系でも則頼の血脈が続いていることを喜ぶべきか、何とも悩ましい感じです。
写真は上段左から頼元、則維、頼童、頼貴、頼徳、頼永で、頼咸の墓は黒田長政と同じ東京の祥雲寺にあります。
また頼童の童は正しくはぎょうにんべんが付くのですが、文字化けをして表示ができませんのでご容赦ください。

日輪寺には久留米城の乾門が移築をされましたが1989年に老朽化を理由に解体をされてしまい、現在のものは復元をされたものとなります。
かなり小ぶりの門で久留米城ではどういった役割を担っていったのかが気になりますが、そもそもが往時のままかどうかも分かりません。
このあたりの文化財に手を入れることを行政が管理をしなければ、経済的な事情なども含めてどんどんと消えていくことになるでしょう。

久留米城は有馬氏の居城で、豊氏が大改修をして近世の城郭に生まれ変わりました。
天守閣の代わりに御殿が本丸にあり、多くの櫓のあるかなりの規模を誇っていたようです。
しかし今は石垣のみが遺されており、トップの写真からしてもその偉容が容易に想像がつきます。
豊臣系の外様でありながらも徳川氏に上手く取り入った、と言ってしまうとイヤらしい表現になりますが、その結果がこの久留米城なのでしょう。
本丸跡には豊氏らを祀る篠山神社がありました。

この旅の最後は有馬氏の資料が展示をされている、有馬記念館です。
さほどの広さはありませんが、何種類ものビデオを上映するなどかなり積極的な感じがあります。
それが理由か建築物がない城にはあまり多くはない記念スタンプがあり、しかしそれを押すための色紙はありません。
これで完全に意気消沈をしてしまい、この後に草野氏の史跡を巡る予定をしていたのですが早々に切り上げてしまいました。
忘却は罪だと、そう痛感をした失態でした。


【2012年7月 福岡の旅】
ボーダーレスな対馬 
ボーダーレスな対馬 旅程篇
ボーダーレスな対馬 旅情篇
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 対馬の巻
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 福岡の巻
ボーダーレスな対馬 グルメ篇
ボーダーレスな対馬 スイーツ篇
ボーダーレスな対馬 おみやげ篇

 


ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 福岡の巻

2012-08-26 07:00:14 | 日本史

 

二日目も朝方にちょっとだけ雨が降りましたが、雨具を引っ張り出すほどのことはありませんでした。
昼前からは晴れ空も見られましたし、ただ午後に入ったぐらいに遠くの方で雷鳴が聞こえたのでびびったのですが、何とか雷神に巡り会うこともないままの逃げ切りです。
太宰府、博多、立花と100キロを超える行程をこなせたのもお天道様の頑張りのおかげだと、感謝感激雨あられです。

まずは日本100名城の一つである大野城跡で、太宰府の近くにあります。
四王寺山のあたりが城跡となっており、飛鳥時代の朝鮮式山城とのことです。
百済を救うことを大義名分に朝鮮半島に進出をした倭でしたが、しかし白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れたとは中学生ぐらいの歴史の授業で習いました。
つまりは完全に専門外でその程度の知識しかないということで、根室のチャシ跡群と同じく日本100名城だからこそ足を運んだといったところです。
ここは百間石垣で、平均して4メートルほどの石垣が180メートルも続いていることから名付けられたそうです。

標高400メートルを超える四王寺山を囲む形で築かれた大野城ですから規模としてはかなりのものがあったようで、登るのに苦労をするわけです。
山頂というわけではありませんが駐車場などがある場所に俯瞰図が掲示をされており、先の百間石垣もしっかりと載っていました。
この他にも大石垣や小石垣、北石垣などが遺されているようでしたが、とりあえず大野城跡に行ったという手応えを手にすることが目的でしたので百間石垣で充分です。
これが中世の城であれば石にかじりついてでも巡ったのでしょうが、興味が薄かったのでここから素直に太宰府に向かったことが幸運に結びついたのはまた後の話です。

こちらは百間石垣の側を流れる四王寺川の川底から見つかった、宇美口城門の礎石です。
ただ他に発見をされた礎石は円柱なのに対してこちらは角柱であることから、研究の余地があるとは説明板からの受け売りです。
そんな貴重なものがレプリカではなく路傍の石のように置かれているのには違和感がありますが、せっかくですので写真を撮らせていただきました。

大野城跡から太宰府に向かう途中で偶然に見つけたのが、岩屋城跡と高橋紹運の墓です。
岩屋城は同じく四王寺山の中腹に築かれた城ですので実際のところは偶然でも何でもないのですが、事前の調べでは詳しい住所や場所が分からずに運を天に任せるぐらいのつもりでいたので、辛い思いをして山を登り切った甲斐がありました。
この高橋紹運の墓は脇道を逸れて数分ほど歩かなければなりませんので、看板が無かったら完全に見落としていたでしょう。
高橋紹運は大友氏の重臣である吉弘鑑理の次男で、謀反を起こした高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種となりました。
立花宗茂の実父であり、北上する2万の島津氏を700の兵で防いだ岩屋城の戦いはあまりに有名です。
半月あまりの攻防の末に岩屋城は落城をして紹運もここで腹を切りますが、島津氏の被害も甚大で九州制圧が頓挫した理由の一つに挙げられています。

すぐ近くには岩屋城の本丸跡への登り口がありました。
難攻不落の山城のイメージがあったので登るのは大変だろうと思っていたのですが、しっかりと整備がされていましたし本丸跡までは数分です。
何があるわけではありませんが、やはりこういった史跡が遺されていることは嬉しい限りです。

本丸跡はさして広くはありません。
ざっと三十メートル四方ぐらいで、天守閣などのある近世の城郭ではありませんのでこれぐらいが一般的なのでしょう。
嗚呼壮烈岩屋城趾、とは珍しい碑ですが、それだけ激しい戦いが世に知れ渡っているからこそだと思います。
この右の写真を撮るのにはそれなりのリスクがあり、本丸跡を背に外側を向いているので張ってあるロープの内側からでは近すぎて全景が入りきらなかったために外側に出て、左手でロープを握ってできるだけ遠ざかっても広角25ミリをしてこの程度でしかありませんでした。
分かりづらいかもしれませんがロープから外側には1メートルぐらいしかなく、踏ん張っている右足は既に斜面の上でしたので、かなりがっしりとしたロープを信じて体重のほとんどを預けていたのでもし杭が外れたら崖下に転落をしていたでしょう。

その本丸跡から見た太宰府で、雨は上がっていましたが未明から降っていたことで湿気があったせいかかなりもやっていました。
左の写真の中央部を拡大して撮ったのが右の写真で、おそらくは太宰府政庁跡だろうなと思ってのことです。
これだけの標高があり、かつ登り口が狭ければ大軍で攻めても攻めきれないのは容易に想像がつきますので、一番の戦略はやはり兵糧攻めでしょう。
ただ島津氏としては豊臣秀吉が九州に向かったことは分かっていただけに、時間のかかる兵糧攻めではなく力押しをするしかなかったのだと思います。

そんなこんなで太宰府政庁跡です。
守備範囲外なので予定にはなかったのですが、岩屋城趾からの遠景を見たことでの気まぐれでしかありません。
両方の写真を見比べていただけると分かると思いますが、向きは逆になっています。
つまりは岩屋城趾からこの太宰府政庁跡に至るにはぐるっと回り込む必要があるということで、よって左の写真の背景の山が岩屋城趾ということになります。
太宰府政庁は西国の守りの要として、また外国との交渉の窓口として、往時は数千人が詰めていたと言われています。
しかしいくつかの礎石が遺されているぐらいで、ぐっとくるものはありませんでした。

寄り道ではあった太宰府政庁跡ではありましたが、実はそんなに大層なものでもありません。
すぐ隣にある太宰府展示館には大野城の日本100名城スタンプが置いてありますので、そもそも近くまでは行く予定でした。
その太宰府展示館は狙っていたわけではないただの僥倖でしかないのですが、その日から企画展としての大野城の展示がされていましたのでラッキーではあったものの、しかし朝鮮半島にある朝鮮式山城の写真がずらずらと並んでいただけで、肝心の大野城についてのものはほとんど無かったので肩すかしです。
ちなみにスタンプを押していると年配の方がいきなり話しかけてきて、日本100名城検定があるけど受けないのかなど暫しの歓談タイムに突入です。
相変わらずに地方の方はフレンドリーだなと、やはり旅は楽しいです。

太宰府展示館からほど近いところに、安養院跡があります。
安養院は観世音寺49子院の一つとされていますが、今はその面影のかけらもありません。
しかしここには開基をした少弐資頼の墓と伝えられるものがあり、その子である資能の墓とともに並んでいます。

少弐資頼は少弐氏の初代で、しかし少弐を称したのは子の資能からですので武藤資頼と書かれた資料も少なくはありません。
太宰府の次官である太宰少弐から姓を取ったのは、この武藤氏改め少弐氏が代々受け継いできたことが理由です。
資頼は西国の重鎮として鎮西奉行となり、同じく資能もその職を引き継ぎます。
しかし資能は老齢となってからの元寇の際に奮戦をしましたが子の景資とともに討ち死にをして、ここ安養院に葬られました。
写真は左が資頼、右が資能です。

太宰府では時間があれば九州国立博物館などにも行きたかったのですが、空模様が心配だったので早々に博多に戻ることにしました。
しかし雨は上がったものの曇り空だった太宰府に対して博多は青空が見えていましたので、結果的には急ぐ必要はなかったかもしれません。
そんなこんなで太宰府天満宮は素通り、よって中途半端はイヤなので香椎宮も筥崎宮も素通りをしたのですが、以前に来たときとは違って手当たり次第に何でもかんでもといったことはなくなりオプションでしかありませんでしたので、予定どおりと言えば予定どおりではあります。

そして福岡城です。
黒田長政が関ヶ原の合戦の論功行賞で中津から加増転封をされたことで築いた城で、よって時代背景からしての平城となっています。
この潮見櫓と大手門はいわゆる福岡城跡からはちょっと離れたところにあり、意識をして行かないと見落としてしまうでしょう。
潮見櫓は当時の遺構ですが大正期に移築をされたものが戦後に再移築をされましたが、しかし平成に入ってからの調査で別の櫓ではないかとの疑いが出てきたようで、よって説明板には「(伝)潮見櫓」というちょっと弱気な説明がされていました。
大手門、下之橋御門という呼び名の方が通りがよいようですが、残念なことに2000年の失火で焼失をしたために2008年の復元です。
しかしその復元方法についてはいろいろと異論があったようで、こちらもかなり微妙な言い回しの説明板となっていました。

その近くには名島門と、そして母里太兵衛邸長屋門があります。
筑前に入った黒田長政はまず小早川隆景が築いた名島城に入りましたが、しかし水軍の性格が強かった小早川氏とは違って海辺の狭隘の地にある名島城は近世の城郭としての発展の余地が無いとの判断から福岡城を築いたため、名島城はその福岡城を築く際の部材などに使われて廃城となりました。
名島門はその名島城の脇門だったもので、そのときに家臣の邸宅の門に払い下げられたものです。
また母里太兵衛邸長屋門は福島正則から名槍日本号を飲み取ったことで名高い母里友信の屋敷門で、当時の場所からここに移築をされました。
名島門は福岡市の、そして母里太兵衛邸長屋門は福岡県の文化財に指定をされています。

本丸跡に向かって最初に出くわすのが、この鴻臚館跡です。
平和台球場の改修の際に発見をされたもので、海外からの使節を迎えるためのものだと伝えられています。
鴻臚館展示館は内部に遺構を、と言いますかこの遺構を囲むように建てられており、ちょっとした別世界の雰囲気です。

福岡城むかし探訪館には福岡城の往時の模型があり、また城跡を紹介したビデオを観ることができます。
何の気なしに入って軽くスルーをするつもりが担当の方の強い薦めでそのビデオを観たのですが、これは大正解でした。
遺構が徒歩視線で紹介をされていて城内を巡るにあたっての参考になりましたので、是非とも福岡城に足を運ばれた際にはまず訪れることをお奨めします。

福岡城には多くの櫓が遺されていますが、この祈念櫓もその一つです。
本丸の東北に位置しており、東北は鬼門にあたりますのでそれを封じるために建てられました。
こちらも大正期に移築をされたものが昭和に入ってから元の場所に戻されたもので、しかし往時の写真と比べればかなり外観が変わってしまっているのは移築の際にかなりの改築がされたことが理由だろうと、そんな説明板に書いてあった悲しい物語でした。

城内には多くの井戸があり、ざっと目に付いたところでも三箇所もありました。
これは長政と言うよりは父の孝高、黒田如水の意向が働いていたのではないかとは勝手な想像です。
自身が捕虜となってしまった有岡城など多くの兵糧攻めを経験してきただけに、水の手を切られることの痛手はよく分かっていたはずです。
その答えがこの多くの井戸ではないかと、繰り返しになりますがもちろん勝手な想像でしかありません。

どうしても櫓などに目を奪われがちになりますが、もちろん福岡城にも多くの石垣がここそこに遺されています。
毎度のことながら複雑な形の石をよくぞここまで見事に積み上げるものだと感心をしてしまいますが、高い技術と多くの労働力が費やされたのでしょう。
写真は左が鉄御門跡、右が埋門跡です。

そして天守台跡と、そこから臨んだ福岡市街です。
遠くの方に見えるのはおそらくはヤフードームで、当初の計画ではビジター応援デーがあるときに訪れる予定でしたので寂しさを伴う景色です。
天守台とは言いながらも福岡城に天守閣があったかどうかは議論が分かれるところで、一度は築いたものの徳川幕府に遠慮をして破却したのではないかとの論もあるのは外様大名の悲哀なのでしょうし、しかしそういったアピールが意図的なものであれば処世術に長けていると言えなくもありません。

福岡城で国の指定文化財となっているのは、この多聞櫓とそれに連なる二の丸南隅櫓です。
多聞櫓は二層の隅櫓に挟まれた三十間ほどの平櫓で、説明板には西日本短大の学生寮として使われていたことがあったとの恐ろしい説明がありました。
16の小部屋に区切られているとのことですので、平時は蔵として使われていたのかもしれません。

多聞櫓を挟むのは左が二の丸南隅櫓、右が二の丸北隅櫓となります。
南隅櫓はとても国の指定文化財とは思えないような白壁が剥がれた状態で、再建をされた北隅櫓との差が顕著です。
あるいは南北が逆ではないかとも思ったのですが、残念ながら間違いはありませんでした。

福岡城の最後は赤坂門石垣で、土曜日の10時から17時の週一回だけの公開を狙って旅の計画を立てました。
歩道にポツンと入口があるのになかなか気がつけずに探すのに苦労をしたのですが、無事に見つけることができてよかったです。
係の人の説明によれば今は廃止となった市電の工事の際に発見をされたもので、その多くは壊されてしまいましたが一部だけを史跡として残したそうです。
海に近いために海水が浸入をするのを防ぐことが主目的だったそうで、それが理由なのか本丸の石垣などに比べると手抜きのような感じがしないでもありません。
見るからに野面積みで、なるほどと思ってしまった説明でした。

ここからは墓巡りです。
黒田氏の菩提寺は二箇所ありますが、まずはその一つである東長寺です。
両寺の宗派が違うことが二箇所に分かれている理由かもしれず、ちなみに東長寺は真言宗です。

かなり立派な五輪塔で、3メートル近い大きさです。
こちらは2代藩主の忠之の墓で、忠之は長政の長男です。
しかし黒田騒動を引き起こすなど愚昧な人物だったようで、一時は廃嫡をされそうになったことから兄弟仲も悪かったと伝えられています。

ここ東長寺には他に3代藩主の光之、8代藩主の治高の墓があります。
やはり立派な五輪塔で、花崗岩で作られています。
光之は忠之の長男で、自身の長男である綱之を廃嫡するなど第二黒田騒動を引き起こしました。
治高は京極氏の出自で7代藩主の治之の養子となりましたが、その治之も徳川氏からの養子でしたので既に如水、長政の血は絶えていたことになります。

もう一つの菩提寺は、臨済宗の崇福寺です。
一般的には黒田氏の菩提寺と言えば、この崇福寺を指すようです。
左の山門は福岡城の表御門を、右の唐門は名島城から移築をされたものです。

そして黒田氏墓所はサッカーコートが取れるぐらいの広さがありますが、これも往時に比べれば1/5ほどに縮小をされたものだそうです。
戦後に整理をされたときに墓、と言うよりは墓碑のようにも思えますが、きれいに並び替えたことで整然とした雰囲気があります。
ただあまり手入れはされていないようで草ぼうぼうの蚊がうようよには閉口をしましたが、今回はしっかりと虫よけを持っていましたのでノープロブレムでした。

入口は施錠をされていますが、記帳をすれば鍵を貸してもらえます。
境内に入る際にお寺の方に声をかける習慣がないと、隙間から覗いて諦めて帰るというパターンに陥ります。
最近はイタズラが多いのか鍵がかかっている場所が少なくはありませんので、熱意を持って当たるにしくはありません。

まずは藩祖である黒田如水の墓ですが、京都で没したことからその京都の大徳寺龍光院にあるそれが本墓で、こちらは墓碑だと思います。
自分としては黒田孝高、一般的には黒田官兵衛の名が通りやすい如水ですが、豊臣秀吉の帷幕にあって豊臣政権の成立に大きく寄与しました。
しかしその才能を忌避されて冷遇をされたとも言われており、九州平定後に早々に長政に家督を譲って隠居をします。
かなり才気走った性格だったようで、両兵衛と並び称された竹中半兵衛こと竹中重治にたしなめられたという話が伝えられています。

初代藩主の長政も京都で没しましたが、長政らしく江戸の祥雲寺に五輪塔がありますのでそちらが本墓なのでしょう。
父ほどの才は無かったものの当時としては一流の部類に入る武将で、関ヶ原の合戦における暗躍が有名です。
そして如水に次男の熊之助がいたことは、あまり知られてはいません。
朝鮮の役で軍監として渡鮮した如水の代わりに中津城の留守居役を務めましたが、父や兄を助けたい一心で密かに船出をしたものの玄界灘で遭難をして溺死をしました。
18歳とのことですので元服はしていたはずですが、その名は伝わっていません。
写真は左が長政、右が熊之助です。

その他はかなりいい加減です。
4代藩主の綱政、5代藩主の宣政、6代藩主の継高、7代藩主の治之、9代藩主の斉隆、10代藩主の斉清は、あっさりと一つの墓碑にまとめられています。
綱政は3代藩主の光之の三男で、先にご紹介をした長兄の綱之が廃嫡をされたことで家督を継ぎました。
宣政は綱政の次男で、また継高は光之の四男の長清の長男ですから、ここまでは如水、長政の男系が保たれていたことになります。
しかし治之、斉隆、斉清はいずれも徳川の出自で、これも長政の生き方を考えればらしいと言えなくもありません。
また長政は四男の高政に4万石を分知して直方藩を立藩し、その初代藩主の高政、2代藩主の之勝、4代藩主の長清が同じく一つの墓碑にまとめられています。
このあたりは人間関係がややこしいのですが、高政には子が無かったために兄で福岡藩の2代藩主である忠之の次男で甥にあたる之勝を養子に迎えて2代藩主とし、しかし之勝にも子が無かったために同じく兄で福岡藩の3代藩主である光之の三男で甥にあたる長寛を養子として3代藩主としましたが、その長寛が福岡藩に戻って綱政となり4代藩主となったために、その弟である長清が4代藩主となりました。
しかしその長清の子の継高も福岡藩を継いだために跡継ぎがいなくなり、直方藩はここで消滅をして所領は本藩に吸収をされてしまいました。
写真は左が綱政らの、右が高政らの墓碑です。

次に目指すは立花です。
立花山の山頂には立花山城があり、西の大友とも呼ばれた立花氏の居城でした。
大野城跡を自転車で巡ったことを鴻臚館展示館の係の方と話をした際に「じゃあ次は立花山城だな」と言われていたのですが、さすがにその気力も体力も勇気もありませんでした。
しかし帰ってきてから調べてみれば最初こそきつい上り坂ながらもハイキングコースが整備をされており、これまで登ってきた山城とさして変わらなかったようです。

そんな後悔も文字どおりに後の祭りですが、目的である梅岳寺には行き着けましたので気にないことにします。
それなりにアップダウンを乗り越えてきましたので、見つけたときには小さくガッツポーズです。
ここ梅岳寺は戸次鑑連、後の立花道雪の母である養孝院を埋葬したことから梅岳寺養孝院と改称し、そして道雪もここに埋葬されました。
その墓所は鍵がかかっていて中に入ることはできませんでしたが、塀が低いために写真を撮るのに不自由はありません。

立花道雪の墓です。
あまりに小さく、また土台がコンクリートで固められているように見えるのが気にはなりましたが、まさに当時ものという雰囲気でした。
道雪は大友氏の重臣としてその最盛期、また凋落期を支えた武将で、立花宗茂の養父でもあります。
大友氏の一族である戸次氏の出自ですが、立花鑑載が毛利氏の誘いに乗って謀反を起こしたことで討伐をされて道雪が名跡を継ぎました。
しかし道雪が立花氏を名乗ったことは無いらしく、便宜的に立花道雪とは書いたもののどうやら北条早雲と同じ位置づけのようです。

並んだ三基の墓の右が道雪で、左は薦野増時の、そして中央が養孝院の墓です。
薦野増時は立花氏の重臣で、鑑載から道雪、そして宗茂の三代に仕えました。
しかし宗茂にとっては老臣は小うるさい存在だったようで、関ヶ原の合戦で宗茂が改易をされたときに立花氏を離れて黒田氏に仕官をします。
そして道雪の眠る梅岳寺を守ることを自らの使命と考えたようで、それが道雪母子とともに葬られている理由なのでしょう。
左が薦野増時、右が養孝院です。

梅岳寺だけで博多に戻るのももったいないので、ちょっと遠回りをして寄り道をすることにしました。
もっとも行きはかなりのアップダウンがあったものの帰りはかなり平坦な道が続き、距離はありましたが結果的には寄り道が体には優しかったようです。
まずは浦宗勝の墓がある、その名のとおりの宗勝寺です。

浦宗勝は小早川隆景の重臣で、あるいは乃美宗勝の方が通りがよいかもしれません。
乃美氏の出自で父の賢勝が浦氏を継いだために浦宗勝が正しいのですが、父が乃美氏を名乗り続けたために宗勝も一般的には乃美宗勝のようです。
乃美水軍を率いて小早川水軍の一翼を担い、数々の戦いで活躍をしました。
ここ宗勝寺は妻の菩提を弔うために建立をしたもので、その墓は仲良く並んでいます。
勝手に右側の大きなものがそれだと思っていたのですが、左側の墓石にはしっかりと宗勝寺殿天與勝運大居士と戒名が刻まれていたために気がつくことができました。

この日の最後は泉蔵寺で、ここには大内盛見の墓があります。
盛見は大内氏の11代当主で、足利義満に反旗を翻し応永の乱を起こして滅んだ義弘の弟です。
義弘が敗死をした後は足利幕府の意向をくんだ弟の弘茂、道通を滅ぼして家督を継ぎ、しかし大友氏や少弐氏らと対立をして争った挙げ句に討ち死にをしてしまいました。
その際に家臣が戦場から首を持ち帰って葬り、そして建立をしたのが泉蔵寺です。
ちょっと分かりづらい場所にあり、お寺の方が案内をしてくれたことで助かりました。


【2012年7月 福岡の旅】
ボーダーレスな対馬 
ボーダーレスな対馬 旅程篇
ボーダーレスな対馬 旅情篇
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 対馬の巻
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 柳川、久留米の巻
ボーダーレスな対馬 グルメ篇
ボーダーレスな対馬 スイーツ篇
ボーダーレスな対馬 おみやげ篇

 

コメント (2)

ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 対馬の巻

2012-08-19 00:59:19 | 日本史

 

心配をしていた天気も夜明けから暫くは曇った感じでしたが、それもすぐに逆光に困るぐらいの日差しとなりました。
トップの写真は夜明けからさして時間が経っていない清水山城跡から見下ろした厳原港で、よってまだまだもやった感じがあるのは仕方がありません。
約10時間ほどの対馬での滞在でしたが、ここ清水山城跡がその第一歩目です。

レンタサイクルを借りられる時間帯までは3時間ほどあったので、その自転車では行けそうにないところから攻めたのがこの清水山城跡です。
この登り口まで達するまでも汗だくになるような坂がありましたし、ここから数分は鬱蒼とした山林の中を登る必要があります。
さして歴史が古くはない清水山城は朝鮮出兵の際の兵站基地として築かれたもので、残念ながら建築物は遺されていませんが石垣はかなりのものがありました。
その目的からすれば山城である必要はないと思うのですが、それなりの思惑と事情があったのでしょう。

清水山城のある清水山の麓にあるのが金石城跡で、こちらは宗氏の居城です。
それまでの池の館が内乱で炎上をしたことで14代の将盛がここ金石に金石の館を築き、21代の義真が櫓などを築いて金石城と称しました。
ただ天守閣はなく、いくつかの門と櫓、そして居館のある平城だったようです。

その金石城の二重櫓門と、高麗門です。
左の二重櫓門は大正時代に解体をされたものを古写真を基にして1990年に木造で再建をされたもので、入母屋二重櫓の下が城門となっています。
右の高麗門は金石城が拡張をされた際に同時期に築かれた桟原城の大手門だったもので、1988年に今の場所に移築をされました。
この金石城と桟原城を合わせて金石城とも呼んでいたらしく、これは一国一城令との絡みもあるのかもしれません。

金石城跡からほど近いところに、宗氏の菩提寺である万松院があります。
対馬藩2代藩主の義成が父である初代藩主の義智を供養するために建立をしたもので、その名は義智の戒名からきています。
ここにある宗氏墓所は金沢の前田氏墓所、萩の毛利氏墓所と並ぶ日本三大墓所の一つで、対馬に来たらここを外す手はありません。

百雁木と呼ばれる132段の石段の両脇には石灯籠が並び、秋の万松院まつりの際には明かりが灯されるそうです。
この先に宗氏墓所があり、下御霊屋、中御霊屋、上御霊屋の三箇所に分かれていますが、右は歴代藩主が眠る上御霊屋です。
日本で名だたる墓所だけのことはあり、その規模に圧倒をされました。

中御霊屋と下御霊屋には一族や側室などの墓があるのですが、例外として10代の貞国の墓が中御霊屋にあります。
一般的には11代とも言われている貞国ですが、ここ宗氏墓所では10代とされています。
初期の宗氏の系図には混乱が見られて6代と7代には同名の頼茂がありますので、あるいはこれを一代と数えているのかもしれません。
先にご紹介をした14代の将盛も貞国を10代としての代数で、その他の場所でも対馬ではこの数え方をしています。
この貞国が対馬藩初代藩主の義智の祖であることは間違いないようですが、しかしその出自が直系かどうかは異論があるようです。

その義智は宗氏としては19代で、14代の将盛の四男です。
長兄の成尚が17代、次兄の義純が18代ではありましたが、それにしても父との代数が離れすぎています。
これは本来の直系である晴康が将盛の嗣子として15代を継ぎ、その子の義調が16代となったことが理由ですが、そこに一族内の争いが感じられてなりません。
将盛が金石の館を築いたのが1529年で、また1509年生まれとも言われていますから嗣子とした1475年生まれの晴康よりも年下です。
晴康が家督を継いだのが1539年ですから将盛はまだ壮年ですので、家督を奪われたと考えるのが妥当でしょう。
結局は将盛の子が義調の跡を継ぎましたので元に戻った形にはなりましたが、何とも微妙な感じです。
そんな義智は小西行長の娘を正室としたことで朝鮮の役でも行長の第一軍に属し、行長と石田三成の和睦交渉に荷担をします。
関ヶ原の戦いでも西軍として伏見城や大津城の攻撃に参加をしましたので戦後に改易をされても当然のはずが、しかし朝鮮との交渉窓口としての存在を重要視されたのか所領を安堵されて、幕府と朝鮮との仲立ちをすることで生き抜いていくことができました。
長男の義成は20代となりますが国書偽造に絡む柳川一件の罪で改易の危機に面したものの、やはりその特殊な立ち位置から切り抜けて逆に藩内の統制を強めることになります。
写真は左が義智、右が義成です。

ここからは駆け足です。
21代の義真は義成の嫡男で、隠居をした後も死するまで藩政を握り続けました。
そして次男の義倫が22代を継いだものの24歳で、四男で23代の義方も35歳で、七男で24代の義誠も39歳で早世をしたために九男の方熈が25代となるなど義真の子が続けて家督を継ぎましたが、方熈はそもそもが繋ぎの継承だったために義誠の子の義如が17歳となったところで隠居をして家督を譲ります。
26代となった義如はしかし父と同じく39歳で早世をしたために次弟の義蕃が繋ぎの27代として続き、義如の子の義暢が28代、その子の義功が29代となり、義功の子の義質が30代、その子の義章が31代、弟の義和が32代となって幕末を迎えました。
早世の当主が多いながらも男系が続いていることは喜ばしく、それも対馬という閉鎖された環境があってのことかもしれません。
写真は上段左から義真、義倫、義方、義誠、方熈、義如、義蕃、義暢、義功、義質、義章、義和です。

ここまでが対馬藩の当主の全てでしたが、実はもう一人だけ影の当主がいます。
それが高源院殿とされている猪三郎で、28代の義暢の四男です。
8歳で家督を継いだものの元服をすることなく15歳で病死をしてしまい、幕閣も黙認をして弟の種寿が猪三郎の替え玉として29代の義功となりました。
よって公式には存在をしない当主ではありますが、29代を猪三郎、30代を種寿義功とするのが本当のところのようです。

中御霊屋と下御霊屋にある一族の墓のうち、その中で男系と思われるものだけをピックアップしてみました。
台林院は23代の義方の子で岩丸、覚源院は26代の義如の一子で万千代、顕光院は28代の義暢の子で富寿、春泰院は同じく義暢の子、龍珠院は29代の種寿義功の子、玉了院は32代義和の嫡男で彦三郎、大明院は次男で勝千代、天樓院は輝之允、雲行院は田鶴丸、情潔院も義和の子です。
ただ情潔院はその戒名からして女性かもしれず、確たることは分かりません。
写真は上段左から台林院、覚源院、顕光院、春泰院、龍珠院、玉了院、大明院、天樓院、雲行院、情潔院です。

暫くは墓巡りが続きます。
太平寺は少弐氏に所以のある寺で、ここでは住職さんにいろいろとお世話になりました。
目指す墓には何の標識もなく、おそらくは一人で探していれば見つけることはできなかったでしょう。
わざわざ案内を、また対馬や宗氏のことなどのお話を聞かせていただきました。

門をくぐって左の方にひっそりとたたずむのが、少弐氏の13代である嘉頼の墓です。
大内氏との抗争で父の満貞と兄の資嗣が討ち死にをしたために家督を継ぎましたが、ここ対馬に亡命を余儀なくされます。
宗氏の援助を受けて再興の戦いを繰り広げるものの夢破れて、願いが叶わないままに対馬で没しました。

竹藪などを払いながら数分ほど裏山を登ると、宗氏の16代の義調の墓があります。
ここにもやはり何の案内もなく「46」と側の石に貼ってあるシールを見てここだと住職さんが教えてくれましたので、自分の生き方に間違いはないと確信をした次第です。
義調は14代の将盛の弟である調親の叛乱を鎮めて宗氏の統一を成し遂げましたが、やはりその叛乱があったことからして父の晴康の家督継承はいわく付きだったのでしょう。
将盛の子を養子として家督を譲ったのも、そのあたりが理由なのかもしれません。

知足院跡には宗氏の12代の義盛の墓がありますが、今は西山寺の裏手となっています。
これまた寺の方に場所を聞かなければなかなか行き着けない場所にあり、ここでもお世話になりました。
義盛は10代の貞国の孫ですが、さしたる事績はないようです。

この義盛だけではなく11代の材盛、18代の義純の墓の情報も現地に入ってから手に入れたのですが、残念ながら他の墓を探し出すことはできませんでした。
材盛の墓は醴泉院にあるとのことで訪ねたのですが過去帳まで持ち出して調べてもらいましたが分からないままで、それではとスマフォを駆使してチェックをしてみれば隣の天沢院ではないかとのことになったのですが、やはりここの住職さんもご存じないとのことでしたので諦めるしかありません。
義純の墓があるはずの長寿院では住職さんがお留守でお子さんしかいなかったことで、これはもうあっさりと断念です。
それでも醴泉院、天沢寺ともにいろいろとお話をさせていただき、いい時間を過ごすことができました。
写真は左から醴泉院、天沢寺、長寿院です。

これらの現地で入手をした情報は、長崎県立対馬歴史民俗資料館に展示があった対馬の年表のボードにあったものです。
ただ資料館の方に聞いても具体的な場所までは分からなかったので、どこまで正しいものかは不明です。
展示としてはそのボードが興味を引いただけで、自分の嗜好に合うものはほとんどありませんでした。

この資料館の脇には朝鮮通信使之碑がありましたし、市街のここそこに朝鮮通信使幕府接遇の地の跡が残されています。
いわゆる史跡と言えるようなものではないのですが、やはり対馬の歴史は朝鮮とは切っても切れない関係にあるようです。
写真は左が朝鮮通信使之碑で、右が朝鮮通信使幕府接遇の地です。

国分寺は朝鮮通信使の来聘に際して、その客館として使われました。
やはりここにも朝鮮通信使幕府接遇の地、との説明の碑が立っています。
対馬では唯一の四脚門の山門は市指定有形文化財ですが、残念ながら絶賛工事中でした。

対馬での最大の失敗は、対馬藩お船江跡に行き着けなかったことです。
近くまでは行けたのですが案内も何もないのでよく分からず、近くの老人ホームの方に聞いたところ橋の途中にある階段を降りたところだと教えていただき船着き場っぽい雰囲気のあった左の写真がそれだと思ったのですが、どうやらこの左の方をもっと奥に行ったところが正しい場所だったようです。
観光マップに載っているものとは違ったので先の資料館の方に写真を見てもらったのですが、あっさりと否定をされました。
藩船が係留をされていた場所とのことで石垣なども遺されているようなのですが、しかし実のところはさして興味がなかったので痛手ではなかったと強がりを言ってみるものの、それでもそれなりのアップダウンの3キロをこなしてのことなのでもったいなかったのが正直な思いです。
また宗家館跡はありがちな役所になっており、この看板が虚しく感じられました。

対馬での最後の目的地に向かう途中で見つけた、文字どおりに見つけたのが対馬藩家老屋敷跡と藩校日新館門です。
左の対馬藩家老屋敷跡は宗氏の一門であり家老でもあった氏江氏のもので、当時ものとのことです。
右の藩校日新館門は宗氏の中屋敷門だったものが幕末に転じられましたが、勤王党の拠点として粛正の舞台となったそうです。

そして今は陸上自衛隊の対馬駐屯地と化した、桟原館跡です。
本来は桟原城なのでしょうが、先に書いた理由もあってか館という扱いとなっています。
もっとも天守閣などがなければ城も館もさして変わらないでしょうし、そこを気にしても仕方がありません。
金石城が拡張をされた際に築かれて、その後は幕末まで対馬藩の中心はこの桟原館が担うこととなりました。
それであればもっと詳しく見たいところなのですが、お国のためを思えば我慢をするのが日本人です。

まだ日が高かったのですが、博多に戻るフェリーが15時過ぎに出港となりますのでこれにて終了です。
予定では宗氏の初代である重尚の墓がある木武古婆神社や2代の助国の首塚や胴塚などにも行きたかったのですが、島の中腹部を目指して暫く行ったところで半端ない上り坂に気弱になってしまい、ただ結果的に帰りのフェリーがギリギリの乗船でしたので正解だったかもしれません。
次の機会があるかどうかは分かりませんが、そのときには原チャリでチャレンジをしてみようと思います。


【2012年7月 福岡の旅】
ボーダーレスな対馬 
ボーダーレスな対馬 旅程篇
ボーダーレスな対馬 旅情篇
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 福岡の巻
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 柳川、久留米の巻
ボーダーレスな対馬 グルメ篇
ボーダーレスな対馬 スイーツ篇
ボーダーレスな対馬 おみやげ篇

 

コメント (13)

雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻

2012-07-15 01:57:08 | 日本史

 

この日も朝方からそれなりの雨が降っていたのですが暘谷に着いたときには小降りとなり、杵築で傘を差すことはありませんでした。
そのため大分に戻ってから府内城をもう一度回ろうと思ったのですが戻ってみれば大雨で、たかだか30キロでこんなにも天気が違うのかと驚いた次第です。
そんなこんなで最初から最後まで雨に翻弄をされた大分でしたが、それでも杵築が救われたましたので前向きに考えることにします。

まずは暘谷の暘谷城跡です。
暘谷城は日出城とも呼ばれており、日出藩の初代藩主である木下延俊が関ヶ原の合戦の後に築城をしました。
こちらは隅櫓で、二層二階となっています。
一時は別の場所に移築をされたものですが当時の遺構で、来年の竣工予定で保存修理工事を行っているとは説明板でした。
もっとも見た感じでは工事は完了をしているように思えますので、前倒しとなったのかもしれません。
この色合いの櫓は珍しく、ちょっと違和感があります。

こちらは裏門櫓で、同じく移築をされたものが2000年にこの場所に復元をされました。
中では日出藩にかかるものが展示をされているのですが、始発で来たことで当たり前ですがまだ開いていませんでしたので計画どおりの断念です。
午後の予定が雨で潰れたことを考えれば悔いが残るのですが、こればっかりは仕方がありません。

この裏門櫓とそれに連なる門の奥にあるのが二の丸館で、こちらはただの館風の建物です。
休憩所かつ物販のために裏門櫓と同じ時期に建てられたもので、観光案内所も兼ねています。
駐車場もありましたので、本来であればここが暘谷観光の拠点なのでしょう。

暘谷城は海沿いに築かれた城で、分かりづらいですが奥に見えるのは別府湾です。
かつては三層三階の天守閣がありましたが、例によって廃城令で破却をされてしまいました。
それでも見事な石垣が遺されていますし、あまり知名度は高くはないですが訪れるだけの存在感がありますのでお奨めです。

そしてここでも瀧廉太郎です。
色合いは違いますが岡城跡にあったものと全く同じで、おそらくは同一の型で作ったのでしょう。
ここでも、とは言いながらも暘谷城は瀧廉太郎にとっては関係の深い場所で、先祖はここを居城とした日出藩の家老を務めた家柄でした。
興味外なので足は運びませんでしたが、近くの龍泉寺には瀧家の墓所があるとのことです。

日本一の大蘇鉄の松屋寺は自分にとっては木下氏の菩提寺で、トップの写真が木下氏の墓所です。
木下氏は豊臣秀吉の縁者で、初代藩主の木下延俊は高台院、つまりは秀吉の正室である寧々の甥にあたります。
徳川幕府はその政策上から高台院を大切にしましたので、よって木下氏は秀吉の縁者ながらも生き残ったのでしょう。

木下家定は初代藩主の延俊の父で、その他にも歌人で名高い長嘯子こと勝俊や、関ヶ原の合戦での寝返りが有名な小早川秀秋の父でもあります。
寧々の兄とも弟とも言われており、自身は備中足守の初代藩主で、しかし死後に家督争いから断絶をしたことで三男である延俊が引き取ったのでしょう。
その延俊は関ヶ原の合戦で東軍として活躍をしたことで豊後日出を与えられて日出藩を興し、三男の俊治が2代を継ぎました。
ちなみに延俊の四男、俊治の弟にあたる延次が実は豊臣秀頼の遺児である国松だった、という伝説があるそうです。
写真は左から家定、延俊、俊治です。

ここからはいつもどおりに駆け足です。
3代の俊長、4代の俊量、5代の俊在と順調に系統は続きましたが、俊在に子がないままに18歳で病死をしたために叔父で俊量の弟である長保が6代となりました。
しかし長保にも子がなかったために7代は甥にあたる俊在の弟の長監が8代を継ぎ、しかしこれまた早世で弟の俊能が8代、次の弟の俊泰が9代となります。
ここまで必死に繋いできましたが弾切れで、10代には戸田氏から俊胤を迎えて初代藩主の延俊の弟である利房の系統の娘を養女にして娶せたことで辛うじて女系で木下氏の血は保たれ、11代の俊懋、12代の俊良、俊良の弟で13代の俊敦、14代の俊方、俊方の弟で15代の俊程、さらに弟の16代の俊愿が幕末を迎えました。
ちなみに13代の俊敦と16代の俊愿の墓はここには無く、写真は上段左から俊長、俊量、俊在、長保、長監、俊能、俊泰、俊胤、俊懋、俊良、俊方、俊程です。

杵築ではやはり杵築城で、とりあえずは雨が上がってくれて助かりました。
杵築城は大友氏の一族である木付頼直が築いたもので、大友氏が豊後を追われた後は五奉行の前田玄以、木下延俊の遠縁にあたる杉原長房、そして細川忠興の家臣である松井康之が城代のときに関ヶ原の合戦で西軍についた大友義統の攻撃を凌ぎきり、細川氏が肥後熊本に転じた後は豊前小倉藩の小笠原忠真の弟の忠知が、忠知が三河吉田に転封となった後は十八松平の能見松平氏の英親が入って幕末まで続きました。
松平英親の父である重直は小笠原氏からの養子で忠知の弟になりますので、つまりは英親は忠知の甥にあたります。

1970年に鉄筋コンクリートで再建をされた天守閣は模擬天守であり、往時のものを再現したものではありません。
それでもやはり天守閣を見ると興奮をしますし、やはり城は日本文化の極みです。
この方向以外は切り立った崖と生い茂った木々に遮られていますので、このぐらいの時間帯であればいつもは逆光ですから今回は曇り空に感謝です。

杵築城の周りには武家屋敷然とした町並みがあり、そしてやたらと坂があります。
この坂が一つの名所になっているようで、パンフレットにも着物姿の美女が坂にたたずむ写真がありました。
写真は左が飴屋の坂、右が志保屋の坂です。

これらの坂を登った先にあるのが養徳寺で、能見松平氏の菩提寺です。
当然のように能見松平氏の墓所があるのですが、右の写真の左にある大きな五輪塔は小笠原忠知の正室のもので、大分県内の最大級の花崗岩で作られています。
なぜに松平氏の墓所にの答えは、おそらくは先の血縁関係にあるのでしょう。

松平氏の墓所とは言いながらも、ここにあるのは6代の親貞と弟の7代の親賢の二基のみです。
他の多くが江戸にあるのは親藩大名という事情があるのかもしれません。
かなり大きな墓で圧倒をされましたし、地元の方がきっちりと整備をされているようで嬉しくなりました。
写真は左が親貞、右が親賢です。

養徳寺の並びには安住寺、木付氏の菩提寺があります。
大友氏2代の親秀の六男である親重が木付氏を興し、その親重が創建をしたのがこの安住寺です。
木付と杵築の関係はよく分かりませんが、何となく木付の方がしっくりときます。

この旅の最後の史跡が、木付親重の墓です。
しっかりと覆屋があり、大切にされているのがよく分かります。
親重は文武両道の名将と伝えられており、元寇の際には兄の大友頼泰の名代となって大活躍をしました。
木付氏はその後も大友氏の一族として従いましたが、その大友氏の改易の際に当主の統直が自害をしたことで17代344年間の歴史の幕を降ろすことになります。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇

 

コメント (5)

雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻

2012-07-12 01:37:47 | 日本史

 

この日の大分が今回の旅の象徴のような荒天でした。
朝からかなりの雨で自転車での移動を躊躇するぐらいのものだったのですが、しかし目的地にはバスや徒歩では無理なものも多かったために頑張るしかありません。
竹田に続いてレインコートにレインパンツを着込んでの70キロ超の自転車による移動は、おそらくは今後も含めての最長不倒になると思います。

まずは大分駅前にある大友宗麟の像ですが、しかし空模様は晴れです。
それもそもはずでこの写真のみが二日目に小倉に向かう前に撮ったもので、しかし前日の竹田の雨滴がレンズに残っているのに気がついていなかったのは失態でした。
やはり首から十字架を提げて、また刀を杖代わりにしているオーソドックスな宗麟で、もうこのイメージが脳裏に焼き付いて離れません。

雨の中をまず向かったのは長宗我部信親の墓で、長宗我部フリークですから外すわけにはいきません。
片道15キロほどですので前日の臼杵での大友義鑑の墓と似たような距離だったのですが、かなりの雨の中でしたので難渋をしました。
比較的に平坦な道だったのでそういう意味での苦労はなかったのですが、しかし最後の最後にはかなり長い坂道を登らなければならなかったのは産みの苦しみだったのでしょう。
たどり着いたときの喜びは思わず叫んでしまったほどで、周りには誰もいなかったので助かりました。

長宗我部信親は元親の嫡男で、文武に秀でた武将として家中の期待を一身に集めていました。
しかし豊臣秀吉の九州征伐の先鋒隊として十河存保らと出陣をした際に軍監だった仙石秀久の軍功を焦っての暴走に引きずられる形で戦場で孤立をしてしまい、元服の際に織田信長から与えられた左文字の銘刀がボロボロになるぐらいに奮闘をしたものの23歳の若さで討ち取られてしまいました。
このときに桑名親光や本山親茂らも戦死し、その後の家督騒動に絡んで吉良親実や比江山親興らといった一族が粛正されるなどして長宗我部氏の力は著しく落ちましたので、この信親があまりに早く逝ってしまったことが惜しくてなりません。

近くには奮戦してちぎれんばかりだった信親の鎧が埋められたと伝えられている、鎧塚があります。
おそらくは伝承に過ぎないのでしょうが、それだけ信親の戦いぶりが壮烈なものだったのでしょう。
700人余りだった信親の部隊の一人と欠けることなく討ち死にをしたことに、島津氏で鬼武蔵と怖れられた新納忠元も敬意を表したそうです。

この長宗我部信親が逝った戦いは戸次川の戦いと呼ばれていますが、その発端は島津氏が大友氏の敦賀城を囲んだことから始まりました。
敦賀城の城主だったのが利光鑑教で、出家をした際の宗魚の号の方が有名です。
こちらは利光氏の祈願寺であった成大寺で、利光宗魚の墓があります。

島津氏の大軍を相手に奮戦をした宗魚でしたが、戸次川の戦いの前に敢えなく討ち死にをしてしまいます。
逆に言えば城主であった宗魚が死したことで落城の危機にされされた敦賀城を守るための戦いが、戸次川の戦いのきっかけとなったとも言えます。
これは敦賀城が落ちれば大友氏の本拠である府内が直接に狙われる危険があったことが理由で、しかし肝心の大友義統、宗麟の嫡男ですが、その戦意は低かったとも言われていますので援軍として参じた豊臣軍、つまりは長宗我部氏や十河氏からすればいい迷惑だったことでしょう。

その戸次川古戦場には場所を示す看板が立っているだけで、その激戦を思わせるものは当たり前ですが何も残っていません。
そもそも戸次川はこの戸次付近に流れる部分をそう呼んでいただけで、今も昔も本来は大野川です。
ざっと見た感じでは軽く100メートルは超えるであろう川幅がありますので、調子に乗って渡れば進退窮まるのは目に見えています。
一部には四国勢の勢力を削るために敢えて無謀な戦いを挑んだとも言われていますが、これだけの失態をして改易をされながらも仙石秀久は数年後には大名として復活をしましたので全くない話でもないかなと、そうなれば長宗我部フリークとしては腸の煮えかえる話であることは言うまでもありません。

川に沿って走る国道の脇に、長宗我部信親終焉の地の碑があります。
これは気がつかない方が不思議なぐらいなのですが、なぜか見つけるのに一時間以上もかかりました。
相当な雨で人が歩いていなかったことで場所を聞くことができなかったという理由もありましたが、あまりの雨に気持ちが焦っていたこともあったのでしょう。
何はともあれ無事に目的の全てをクリアしましたので、少しだけ気が楽になりつつ大分市街まで戻ることとなりました。

その大分市街で最初に目についてしまったのが、道路に挟まれたところにある瀧廉太郎終焉の地です。
瀧廉太郎は華々しく活躍をしたかと思いきや、僅か23歳で結核のために亡くなっています。
その最後の場所が府内町で、ここに自宅がありました。

ほど近いところに、フランシスコ・ザビエルの像があります。
このポーズを見て、前回に訪れたときに三脚のケースを十字架に見立てて同じポーズをして写真を撮ったことを思い出しました。
そのときは今回とは違って晴天でしたので人通りも多く、この怖いもの知らずは齢を重ねても変わりはありません。

いよいよ日本100名城の府内城跡です。
豊後の中心地とも言える府内の城ですので大友氏の居城と思いがちですが、築いたのは福原直高です。
同じ府内に大友館がありましたので大友氏の本拠であったことは間違いありませんが、しかしあくまで館であり城郭ではありません。
この府内城は関ヶ原の戦いの直前から築城が始まったものの西軍に加わった福原直高が改易をされたために、現在の形にしたのは府内藩を興した竹中重利です。
重利は竹中重治の従兄弟であり、またその妹を娶ったことで義兄弟でもあります。
こちらは着到櫓で、1965年に復元をされました。

着到櫓は文字どおりに城に着いた者を出迎えるような場所に位置していますので、そこに大手門が連なっています。
よってそのまま城内に入りたい誘惑に駆られましたが、何とかこらえて時計と反対回りに回ることとしました。
写真は上から平櫓、二重櫓、人質櫓、西南隅二重櫓ですが、このうちで遺構なのは人質櫓だけです。
他は着到櫓と同時期に復元をされたものですが、特に違和感はありません。
これで天守閣があればもう完璧なのですが、やはりそこまでを一度に望むのは無理なのでしょう。
少しずつでも現状復帰の方向に向かってくれれば、残り長い人生でもありませんが気長に待つことができます。

そう思えるのはこの廊下橋が1996年に復元をされたからで、きっといつかは天守閣がそびえる日が来るだろうと期待が持てます。
かなりの雨で自転車を放置するのが躊躇されましたが、せっかくですのでしっかりと往復を渡らせてもらいました。
ただ中の灯りが電灯なのがちょっと興ざめで、もちろん火の用心ですから仕方のないところではあるのですが、それであれば無灯でもよかったのではないかと思います。

廊下橋の脇には慶長の石垣がありました。
府内城は先の福原氏、竹中氏、日根野氏、そして大給松平氏が城主となりましたが、慶長は1615年までですから福原直高か竹中重利のときのものとなります。
必ずしも築城当時の石垣が残っているわけではなく、改修によって失われることもままありますので、よってこうやって特別に展示がされているのでしょう。

何かが足りないと暫く考えて、ようやくに気がついたのが宗門櫓です。
こちらも人質櫓と同じく当時の遺構で、これを見落とすわけにはいきません。
城の外側から見ればかなり地味な感じですが、内側から見るとしっかり二重櫓となっています。
雨が全盛で見るも無惨な写真となってしまったことで、ご紹介できないことが残念至極です。

外側からの堪能も終わりましたので、いよいよ城内に踏み込みます。
迎え入れるのは大手門で、いわゆる櫓門となっています。
こちらも他の復元櫓と同じく1965年の復元ですので、ちょっと親近感がわいてくるのは個人的な事情であることは言を俟ちません。

ここにも当たり前のように大友宗麟の胸像がありました。
府内城は大友氏の居城ではありませんでしたので本来は違和感がありありなのですが、それを感じさせない存在感です。
他の像と違うのはおそらくは洋装であることで何となくこちらの方がしっくりとしますし、一方で顔つきが似た感じなのはやはり共通のモデルがあるのでしょう。

府内城には四重の天守がありましたが、火災で焼失をした後は再建をされることはありませんでした。
経済的な問題が大きかったのでしょうが、江戸期ともなれば城郭としての天守閣はもはや不要ということだったのでしょう。
城内に遺されている天守台の規模からすればそれなりの天守閣だったと思いますので残念ではありますが、こればっかりは仕方がありません。
トップの写真はその天守台を登ったところで、天気さえよければのんびりと時間を潰すには最高の場所だと思います。

雨は止むどころか雨足がむしろ強まったことで心が折れかけましたが、近場だけでも回っておこうと向かったのが浄土寺です。
ここには徳川家康の孫にあたる、松平忠直の廟所があります。
忠直の父は家康の次男の秀康であることから本来であれば自らが将軍だったはずとの思いがあったらしく、そのことで叔父の2代将軍の秀忠との仲は悪かったと言われています。
しかし秀忠は娘を娶せるなどして兄の秀康と同様に一定の配慮をしますが、粗暴な忠直の行状が改まらないために隠居を命じて府内に配流としました。
忠直は出家をして一伯と名乗りここ府内で30年近い謹慎生活の後に56歳で病死をし、菩提寺とした浄土寺で眠っています。

浄土寺の近くにある神宮寺浦公園、公園と呼ぶにはあまりに狭い場所ですが、ここにも大友宗麟の像がありました。
宗麟が南蛮貿易をした跡地ですので銅像があっても不思議ではないのですが、それにしても同じようなものばかりで食傷気味です。
同一人物かよ、みたいなものもどうかとは思いますが、さすがにここまでくればやり過ぎでしょう。
もう少しバラエティさが欲しかったかなと、いろいろと事情はあるのでしょうがちょっと残念ではありました。

最後は円寿寺で、日根野吉明の廟所があります。
吉明は美濃斎藤氏の重臣だった弘就の孫で、竹中氏が改易となった後に府内城に入りました。
城下町の整備と治水事業に大きな成果を上げたことで名君として称えられましたが、無嗣断絶で日根野氏は一代で途絶えています。
死の直前に末期養子を申し出たものの家中の足並みが揃わなかったことで幕府に認めて貰えなかった、という話もあるようです。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇

 


雨と城の大分 史跡巡り篇 津久見、佐伯、臼杵の巻

2012-07-08 00:50:05 | 日本史

 

朝から降っていた雨も津久見に着く頃には小降りとなり、その後は基本的には薄曇りで時折に日が差すような三日目でした。
たまにパラパラッと降られながらももしかしたらこれで天気は回復をするのではないかと期待をさせるほどで、しかしその願いは夜からの本格的な雨で打ち破られます。
臼杵から大分に戻る途中からシャレにならない雨が降り始めて翌日の苦難に繋がったものの、しかしこの日の天気が持ってくれたと考えれば少しは前向きになれます。

まず最初に向かったのは津久見で、目的は大友宗麟の墓です。
戦国期の大友氏の当主であった大友宗麟は一時は九州の北部をほぼ手中に収めて大友氏の全盛期を築いた武将ですが、しかし後半生は毛利氏や島津氏との抗争に追い詰められて中央の豊臣秀吉を頼り、そして最後はこの津久見の地で病死をしました。
ここ宗麟公園はその大友宗麟の墓があり、入ってすぐのところに墓所への階段があります。

ドン・フランシスコの洗礼名を持つ宗麟らしく、その墓は戦国武将らしからぬキリスト教式のものとなっています。
しかしこれは1977年に作られたもので、当時からこういったものがあったわけではありません。
死の直後にはキリスト教式で葬儀が行われたものの暫くして嫡男の義統が仏式で葬儀をやり直し、よってこの墓が出来るまでは仏式の墓が宗麟の墓だったことになります。

同じ墓所内に、その仏式の墓がありました。
当時のものかは分かりませんが、戒名が刻まれていましたので間違いありません。
そもそも宗麟という呼び方は出家をした際の休庵宗麟からきており、本来の名前は大友義鎮です。
洗礼を受けたのは晩年ですので、いろいろと国内の事情がありながらもキリシタン大名とひとくくりにするには異質な存在ではあります。

戦国期の島津氏当主が軽視をされているようにも見える鹿児島に対して、この大分での大友宗麟は異様なぐらいに存在感があります。
あちらこちらに銅像や胸像などがあり、この墓所にも1メートルにも満たない小さなものですが十字架を手にした宗麟像がありました。
どこのものも老齢の顔つきに左手で刀を杖代わりにしているものが多く、また当然のように首には十字架がぶら下がっています。
おそらくはモデルになるものから派生をしたのだと思われますが、ここまでイメージが共通をしているのはそれはそれでありでしょう。

宗麟公園があるのとは反対側の津久見駅前には、やはり大友宗麟の像があります。
先のものに比べれば穏やかな表情で、終焉の地だけに険がない表情にしたのかもしれません。
駅前にある銅像は駅の方を向いているものと背にしているものがありますが、訪れた人を迎えるがごとく駅の方を向いているものが多いようです。

津久見を出て佐伯に着いた頃には、ほとんど雨は上がっていました。
まず向かったのは佐伯城跡で、関ヶ原の合戦の後に佐伯に転封をされた毛利高政が築きました。
こちらは三の丸櫓門で、唯一の遺構です。

なぜにこのタイミングで山城よ、というのが正直な感想です。
世は既に平城が主流となりつつある中で、あるいはまだもう一騒動も二騒動もあると考えたのかもしれません。
海抜140メートルですからそれなりの高さで、しかも山城らしさ爆発かつ朝からの雨で滑りやすかったために、少しでも雨が降っていたら登らなかったでしょう。
際を歩くと危険だったので、歩きづらくとも山肌にそって登ったためにかなりハードでした。

そんな山城ながらも山頂にはしっかりと石垣があり、これは感動ものです。
使役をされたであろう民百姓の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったでしょうが、その苦労が少しでも報われるようしっかりと鑑賞をさせてもらいました。
登り口から直角に曲がっているのは攻められたときのことを考えたのでしょうし、藩政の中心と言うよりはやはり城郭としての意味合いが強かったのでしょう。

二の丸跡や本丸跡はご多分に漏れずに単なる野っ原の装いでしたが、それでも天守台の石垣がありますのでいろいろと夢想できます。
この天守台の規模からすればさほど大きなものではなかったのでしょうが、かつては三重の天守閣がありました。
しかし失火により天守閣を含む本丸、二の丸の建物はほとんどが焼失し、三の丸に建てられた御殿が藩政の中心となります。
その後にいくらかの整備はされたとのことですが廃城令によって多くが払い下げられたり破却をされたりしたことで、現在の状態に至りました。
写真は左から二の丸跡、本丸跡、天守台跡で、トップは本丸跡から城下を望んだものです。

佐伯城跡の登り口は「登城の道」と「独歩碑の道」があるのですが、帰りは車両が通れるように舗装をされた後者で下りてきました。
さすがに前者で下りると滑って崖を転げ落ちるリスクが高いだろうとの判断で、また同じ景色を繰り返すのもつまらないということもあります。
三の丸櫓門をくぐったところにある御下櫓も登りには気がつきませんでしたので、視線が変わることは大切です。
もっともこの御下櫓は櫓の形をした公衆トイレですから、何ら資料的な価値はありません。
また佐伯城から移築をしたらしい薬医門がありましたが、すっかりと民家の門となっていました。
写真は左が御下櫓、右が薬医門です。

養賢寺は初代藩主の毛利高政が建立をした毛利氏の菩提寺です。
修行僧の道場とのことで拝観は断られる、木で鼻をくくったような態度をされるとは事前の情報でしたが、しかし墓フリークとしては諦めきれません。
ダメモトで特攻をしたところやはり拝観については断られましたが、目的が墓所であれば自由に見てくださいと丁寧な対応をいただきました。

毛利氏と言えば安芸毛利氏を思い浮かべてしまいますが、しかし毛利高政はその毛利氏とは血の繋がりはありません。
尾張の出身で森高次の子であり、羽柴秀吉の中国大返しの際に毛利氏に人質として出されたのが高政と兄の重政でした。
能力的には今ひとつだった毛利輝元はしかしいたって好人物だったようで、その輝元に気に入られた高政は毛利姓を名乗るように奨められて以降は毛利高政となります。
その高政を初めとした藩主、一族、正室の墓が、ここ毛利氏墓所に整然と並んでいました。

やはり初代藩主である高政は別格のようで、奥に霊廟がありました。
どの墓が誰のものかの説明が一切無かったので不安はあったのですが、その戒名で確認をしましたので間違いはありません。
高政は見ようによっては豊臣氏から徳川氏に上手く乗り替えたと言えなくもありませんが、2万石程度の身代ですから当たり前の出処進退だったのでしょう。

高政の跡を継いだのは高成で、高政の次男です。
正室の子であったために庶兄の高定ではなく高成が嫡男となりましたが、そのことが後の騒動に繋がりました。
2代藩主となってから4年余り、30歳の若さで没しましたのでさしたる事績はありません。

3代は高成の嫡男である高直が継ぎましたが僅か4歳だったために、高直にとって叔父にあたる高定を担ごうとする一派が現れました。
その中心が初代藩主の高政の弟である吉安だったために大きな騒動となりましたが、最終的には吉安が藩を追われたことで決着をします。
そして高直の子の高重が4代となるものの嗣子無きままに21歳で没したために、5代は養子の高久が継ぎました。
この高久は同じ豊後の森藩の久留島通清の三男で、毛利氏との血縁関係はありません。
このあたりが自分には全く理解ができないところで、家中も含めて血の繋がりを重視するのが一般的でそれが故にお家騒動が絶えないのですが、しかし江戸期に入ると血の繋がりよりも中央との関係を重視するために大藩であれば将軍家から、そうでなくとも幕閣から養子を迎えることが多くなってきます。
それでも外様の小藩である毛利氏はそういった流れからは歯牙にもかけられなかったでしょうから一族から当主を出すのが妥当ではないかとも思うのですが、あるいは直系が絶えたことで外部から迎えなければ逆に各々の思惑からお家騒動に発展をすることを危惧したのかもしれません。
何はともあれ同じく子の無かった高久は自身の弟である高慶を6代に迎えて自らは隠居をしたことで、毛利佐伯藩は実質的には久留島氏の血脈となってしまいました。
高慶の長男の高通は一時は嫡子となるものの病弱であったことで廃嫡をされて弟の高能が嫡子となり、しかしその高能も26歳で早世をしたために甥の、つまりは高通の子であり高慶にとっては孫にあたる高丘が7代となります。
その後は無難に8代の高標、9代の高誠、10代の高翰、11代の高泰、そして12代の高謙と続いて幕末を迎えました。
写真は上段左から高直、高重、高久、高慶、高通、高能、高丘、高標、高誠、高翰、高泰、高謙ですが、いくつかは間違っているかもしれません。
墓石の背面に官位が刻まれたものの全てがこれらの墓で、その官職と戒名を頼りに特定をしたつもりなのですが、どうにも戒名が読めなかったり同じ官職のものがあったりしたために3基ほどは消去法的にこれだろうと見なしたものがありますので、不幸にも違っていたとしても責めないでやってください。

この日の最後は臼杵で、まずはやはり臼杵城です。
大友宗麟が築いた城で今は埋め立てられたことで陸続きとなっていますが、築城当時は丹生島と呼ばれる孤島にあった海城でした。
大友氏が改易をされた後は福原直高、太田一吉が入り、そして関ヶ原の合戦の後に美濃から加増転封をされた稲葉貞通が臼杵藩を興します。
稲葉貞通は美濃三人衆の一人である稲葉良通の嫡男ですので、稲葉氏の正統がここ臼杵に根付いたことになります。

この臼杵城には嬉しいことにいくつかの遺構がありますが、その一つが畳櫓です。
二階建ての入母屋造りの屋根を持つ櫓で、臼杵稲葉氏の4代である信通の頃に建てられたとのことです。
しかしその後に焼失をしたことで今の畳櫓は9代の泰通の頃に再建をされたもので、それでも300年近い歴史が刻み込まれた重みが感じられました。

大門櫓も畳櫓と同時期に建てられ、また焼失をして再建をされたものですが、残念ながらこちらは遺構ではありません。
明治の廃城令に際して取り壊されてしまい、現在のものは復元をされたものです。
しかし綿密な発掘調査や絵図を基に忠実に再現をしたとのことで、楼門形式や二枚開戸、入母屋屋根などは当時のものと遜色はないとのことでした。
いわゆる櫓門で、おそらくはその両側にも櫓が連なっていたものと思われます。

この大門櫓を抜けると本丸跡に至りますが、やはりただの公園です。
ただそれでもいくつかの跡には石垣が遺されていますので、市民にとっては憩いの場所として重宝しているものと思われます。
写真は左から本丸跡、会所櫓跡、井楼櫓跡です。

本丸跡には大友宗麟のレリーフと、佛狼機砲がありました。
やはり大分と言いますか豊後は大友宗麟なんだなと、これは薩摩などとは違い大友氏が改易をされた後は小藩が分立をしたことでこれといった有名になるような武将が出なかったことと、やはり何だかんだ言いながらも独特の輝きを見せた宗麟だったということなのでしょう。
また佛狼機砲はポルトガル人から大友宗麟に贈られたもので、宗麟はこれを国崩と名付けて臼杵城の備砲としました。
もちろんこれはレプリカで、本物は靖国神社にあるそうです。
城に大砲が備え付けてあったとはいかにも西洋的で、大友宗麟らしいかもしれません。

臼杵城に天守閣を建てたのは福原直高で、その後に稲葉氏が何度か修築をしたと伝えられています。
この天守台跡がそれにあたり、約10メートル四方で高さが12メートル程度との記録が残されていますので、見た感じではだいたいそんなところかと思います。
戦国末期に建てられたということもありますが、石垣が野面積みなのがちょっと意外ではありました。

本丸跡を抜けて反対側に至ると、卯寅口門櫓が見えてきます。
これも当時の遺構で、見た目は畳櫓と同様の黒っぽい板塀になっています。
側に卯寅口門がありますのでここを守るための櫓だったのでしょうが、その大きさからして実際は武具などの備蓄倉庫といった目的で使われていたのでしょう。

次に向かったのは稲葉氏の菩提寺である月桂寺ですが、これはあくまでも儀式に過ぎません。
20年以上も前の学生のときに臼杵を訪れた際にも来たのですが、けんもほろろで追い返されました。
いろいろと事情もあるのでしょうがそれは今も変わらないようで、地元の方と話した感じでも「月桂寺さんはねぇ・・・」みたいな反応でしたのでやはり異質な存在なのだと思います。
菩提寺とは言いながらも藩主の墓の大半は東京や京都にありますので、そういう意味でももう未練はありません。

その後は大友氏の当主の墓を探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。
事前に住所を調べてそこには至ったものの見当たらず、しかも住所としての番地と表札などにかかっている組という表記が一致をしないためにかなり混乱をしました。
もう少し粘ろうとも思ったのですが次のイベントが時間を要するために一時間ほどで断念し、その代わりでもないですが分かりやすかった臼杵氏の墓所に突撃です。
臼杵氏は豊後に古くからある在地武士の一族で、立花道雪で有名な戸次氏もこの臼杵氏の庶家になります。
しかし大友氏が豊後に入ったことで徐々に浸食をされていき、戸次氏も大友氏から養子を取ったことで大友氏の一族となり、臼杵氏もその戸次氏から時直が入ったことで同じく大友氏の有力庶家となり、戦国期には長景、鑑続、鑑速と大友家臣団の中核となる武将を輩出しました。
写真は左が時直、右が鑑速です。

同じ場所に臼杵統景の供養塔がありました。
統景は鑑速の子で、主に外交面で活躍をした父や叔父の鑑続とは違って武に秀でていたと言われています。
しかし残念なことに大友氏が斜陽となるきっかけとなった耳川の合戦で、もう一人の叔父の鎮続とともに壮絶な討ち死にを遂げてしまいました。

そして臼杵の最後が、大友義鑑の墓です。
このために他の大友氏の当主の墓の探索を諦めたようなもので、往復30キロ弱ですから雨が降り出さないかとかなりヒヤヒヤとしました。
義鑑は義鎮、つまりは宗麟の父で、世継ぎを義鎮と決めながらも三男の塩市丸を溺愛したことで家中が割れ、反対派に殺されてしまいました。
この反対派の襲撃が大友館の二階で行われたことから二階崩れの変と言われており、裏で義鎮が糸を引いていたとも言われています。
その大友館跡や他の当主の墓に行けなかったのは残念ですが次の楽しみと考えれば活力となりますし、肝の義鑑と義鎮の墓に行けたのでかなり満足をしています。


【2012年6月 大分の旅】
雨と城の大分
雨と城の大分 旅程篇
雨と城の大分 旅情篇
雨と城の大分 史跡巡り篇 竹田の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 小倉、中津の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 大分の巻
雨と城の大分 史跡巡り篇 暘谷、杵築の巻
雨と城の大分 グルメ篇
雨と城の大分 スイーツ篇
雨と城の大分 おみやげ篇

 

コメント (4)