オリオン村(跡地)

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南国放浪記 史跡巡り篇 熊本の巻 本妙寺の章

2012-03-16 01:21:07 | 日本史

 

熊本城の次は加藤清正の墓がある本妙寺に向かう予定だったのですが、熊本城のチケットを買うときに近くにある旧細川刑部邸との共通券にするかどうかを聞かれて勢いでそちらにしてしまったため、貧乏性ですのでさして遠くもないこともあって足を伸ばすこととしました。
途中に監物櫓がありましたし、時間に余裕もあったことでの道草みたいなものです。
ちょっと上り坂があったのが誤算と言えば誤算でしたが、熊本城で気持ちが高揚をしていたために苦にもなりませんでした。

細川刑部家とは細川忠興の五男の興孝が興したもので、刑部少輔を名乗っていたことから家名がつけられています。
旧細川刑部邸とはこの細川刑部家の屋敷であり、熊本県の重要文化財に指定をされています。
子飼という地にあったものを1993年に現在の場所に移築をされたもので、その移築には4年もの歳月がかけられました。

長屋門をくぐると御玄関があり、全てではありませんが邸内が公開をされています。
万石級の家臣の屋敷ですから贅沢ではあるのですが、しかし六尺の身としては全体的な作りの小ささは否めません。
砂利などがきれいに敷き詰められて落ち着きのある佇まいに気品は感じたものの、やはり守備範囲ではないなとちょっぴり後悔です。

気を取り直して本妙寺です。
本妙寺と言えば石段、とは自分としてのイメージで、とにかくひたすら石段を登ることになります。
帰りに数えてみたら170ぐらいありましたので、運動不足の人には汗をかくのにちょうどいいぐらいでしょう。

本妙寺は3度目ぐらいのはずですが、この六喜廟には初めて気がつきました。
説明の銅板がやたらと新しかったので、以前はアピール不足で見過ごしていたのかもしれません。
加藤清正の三男の忠広、生母の正応院、忠広の子の光正、正良、正良の生母の法乗院を祀ったものです。

加藤忠広は改易をされて生母とともに出羽に、光正は飛騨に、正良と生母は信濃に流されて、そこで没します。
そのため昭和に入ってから清正の側で眠らせてあげようと、有志で建立をしたといった内容の説明がありました。
しかし改葬をしたわけではないようなので墓ではありませんし、言ってみれば供養塔のようなものなのでしょう。

石段を登り切ったところに、浄池廟があります。
この建物の下に加藤清正の墓がありますが、残念ながら中に入ることはできません。
本妙寺宝物館も土日祝のみ開館という羨ましい勤怠状況で、悲しいかな月曜日でしたので当然のように拒絶をされました。

ここから石段を300も登れば加藤清正の像があるのですが、真夏だった前回は自分に言い訳をしてパスをした記憶があります。
さらに年齢を重ねているので迷ったのですが、登ってみればたいしたことはありませんでした。
世界遺産の泰山に登ったときもそうでしたが、自転車ライフのおかげで自分が思っている以上に足腰は鍛えられているようです。
どうやら敵は自分の中にある弱い心だけのようで、どこかのチームの選手とよく似ています。

その加藤清正の像ですが、とにかくでかいです。
あまりにでかくて距離が遠く、せっかくの表情が影になって見えないのが残念でなりません。
まるで熊本を守ってやると言わんばかりの勇姿で、市街を見下ろすところに建立をしたのはナイスな判断でしょう。
トップの写真はこの頂上から熊本市街を写したもので、分かりづらいかもしれませんが米粒ぐらいの大きさの熊本城が見えます。
つまりはそれだけの高い場所にあり、そこまで登ってきたことになるわけです。

次に向かったのは泰勝寺跡で、今は立田自然公園となっています。
細川氏の菩提寺だったところで、今は墓所のみが残されているようです。
立田山公園と間違えて来る人が少なくないらしく、入園をする際に念押しをされましたのでトラブルが絶えないのでしょう。

こちらが細川氏の墓所となります。
公園などには興味はないので墓所をめがけて一直線で、さして広くはないのであっさりと見つかりました。
今回の旅はとにかく墓、墓、墓で、写真の整理をするときにあまり細かくチェックをしないように心がけた理由は敢えて述べません。

まずは肥後細川藩の藩祖である細川藤孝の墓で、細川幽斎の名の方が通りはよいかもしれません。
足利義稙の落胤との説が当時から根強くあったようで、もしそうであれば義輝や義昭の庶兄にあたります。
文武両道に秀でた武将で、また義昭や明智光秀を見限るなど抜群の政治的なセンスで戦国乱世を生き抜きました。
古今伝授の継承者であったことから関ヶ原の戦いの際に落城寸前の田辺城に籠もっていた藤孝を、後陽成天皇が勅命で救ったことはあまりに有名です。

こちらは肥後細川藩の初代藩主である細川忠興の墓です。
藤孝の嫡男で父と同様に文武ともに優れた武将ですが、一般的には細川ガラシャの夫としての知名度の方が高いかもしれません。
その妻にかける愛情は異様なぐらいで、ガラシャが関ヶ原の戦いの際に命を落としたときに嫡男の忠隆の妻、前田利家の娘の千世ですが、同じ屋敷にいながらも逃れたことに激怒をして離縁を迫りますが、それを拒んだ忠隆を廃嫡したぐらいですから偏執的と言ってもいいぐらいです。
もっとも徳川政権下では前田氏との関係を断つことが細川氏としてプラスになると考えた上での行動との見方もあり、父譲りの政治的センスを発揮したのかもしれません。

そして細川ガラシャの墓です。
明智光秀の三女で玉という名でしたが、キリスト教に帰依をしてガラシャという洗礼名を受けます。
本能寺の変で逆賊の娘となったものの一時期に幽閉をされましたが忠興からは離縁をされず、その後も何人かの子を授かりました。
これだけ愛されれば女性としては本望かもしれませんが、一方で関ヶ原の戦いの頃には既に夫婦仲は冷え切っていたとも言われているようです。

この泰勝寺跡には他の歴代藩主の墓もありますが、藩祖の藤孝や初代藩主の忠興、その正室が覆屋で風雪から守られているのに対して、言葉は悪いですが野ざらしです。
これは細川氏の墓所に限った話ではありませんが、やはり待遇が違ってくるのは仕方のない話です。
9代の斉滋は支藩である宇土藩から養子として入りましたが、遡れば忠興の四男の立孝の流れですので血脈は受け継がれています。
斉滋の嫡男の立之は宇土藩を継いだために三男の斉樹が10代となり、しかし11代は立之の子である斉護に譲ることとなります。
12代の韶邦と13代の護久はそれぞれ斉護の次男と三男で、護久のときに明治維新を迎えましたので最後の藩主となりました。
14代の護成は護久の嫡男ですが跡は末弟の護立が継ぎ、そして護貞、護煕と続きますので、元首相の護煕にとって護成は祖父の兄ですから大叔父にあたります。
代数の数え方はいろいろとあるようですし、細川氏の場合は豊前小倉藩を経由しているので面倒ではあるのですが、ここでは忠興を初代として数えてみました。
写真は上段左から斉滋、斉樹、韶邦、護久、護成となります。

細川氏の墓所は妙解寺跡にもあり、やはり北岡自然公園として整備がされています。
こちらも菩提寺だったようですが今は廃寺となっており、泰勝寺と同じく明治に入ってからの廃仏毀釈の流れによるものなのでしょう。
今となっては意味のないことではありましたが、この手のものは熱病のようなものですので諦めるしかありません。

こちらも公園には興味がないために墓地に向かって一直線でしたが、そもそも公園としての美しさも感じられません。
自然公園だから自然にしているとの言い訳が聞こえてくるような、最低限の手入れしかされていないようにも見えます。
これであれば旧細川刑部邸の方がよほどに見る価値がありますし、どうしたいのかもよく分かりませんが、墓地にしか目が行かない人間の言うことではないかもしれません。

まずは2代の細川忠利の墓ですが、写真には3代とありますので藤孝を初代と数えているようです。
ここでは忠興を初代藩主としていますが肥後熊本藩という意味では忠利が初代藩主で、豊前小倉藩の初代藩主だった忠興の跡を継いで2代藩主となった後に、加藤忠広の改易を受けて小倉40万石から熊本54万石に加増転封をされて幕末まで熊本を治めていくこととなります。
忠利は忠興の三男で、長兄の忠隆と次兄の興秋と同じくガラシャの子ですが、忠隆が件の理由で廃嫡をされたことで嫡子となりました。
長幼の順序から言えば興秋が嫡子となるべきところを忠利となったのは、おそらくは忠利が人質として江戸にいたことが理由だと思われます。
これでは興秋が不満に思うのも無理はなく、暫くして興秋は出奔をした後に大坂の役で大坂城に入り、戦後に捕らわれて父の手で自害をさせられたと伝えられています。

その隣にあるのが3代の細川光尚の墓で、忠利の嫡男です。
森鴎外の「阿部一族」で有名な騒動を鎮圧したのがこの光尚ですが、小説と史実が微妙に違うのはよくある話です。
殉死をせずに藩内で辛い立場となったと言われている阿部弥市右衛門は実際には忠利が没した同日に腹を切っており、なぜ阿部一族が叛乱を起こしたかはよく分かっていません。

しかし理由はどうあれ一族の叛乱のきっかけとなった阿部弥市右衛門の墓が、忠利の墓の側にあるのはちょっと意味深ではあります。
忠利と光尚の墓はやはり他の藩主とは別格で覆屋がされて区画も別な場所にあり、もちろん他の殉死者の墓もありますので特別視をされているわけではありませんが、それでも場合によっては墓を暴かれて晒されてもおかしくはありませんので、何か小説や伝えられている史実とは違った事情でもあったのかもしれません。

江戸期の当主は例によって駆け足です。
4代の綱利は光尚の嫡男で、しかし子がいずれも早世をしたために弟で新田藩を興した利重の次男である宣紀を養子に迎えて5代とします。
その跡は四男の宗孝が継いで6代となりますが江戸城中で紋所を見誤った人違いにより板倉勝該に殺害をされてしまい、弟の重賢が末期養子で7代となりました。
この重賢が名君で多額の借金を抱えていた藩財政を立て直し、肥後の鳳凰と賞されたとのことです。
8代は重賢の子の治年ですが子に先立たれたことで宇土藩から斉滋を迎えたとは先に書いたとおりで、そのため藤孝や忠興の血脈は受け継がれましたが、立孝はガラシャの子ではないためにその血は断たれることとなりました。
また藤孝と忠興を除けば妙解寺跡には8代まで、泰勝寺跡には9代以降が葬られているのですが、なぜか11代の斉護だけは妙解寺跡に墓がありました。
写真は上段左から綱利、宣紀、宗孝、重賢、治年、斉護ですが、宣紀と重賢、そして斉護の墓がちょっと変わったものとなっています。

熊本の最後は千葉城跡です。
NHK熊本放送局のあたりがそうらしいのですが、碑があるだけで城らしき遺構は特に見当たりませんでした。
肥前千葉氏の一族でも流れ着いての千葉城かとも思ったのですが、築城をしたのは菊池一族の出田秀信とのことですので関係はないようです。
鹿子木親員の築いた隈本城跡にも行ってみたかったのですが場所がよく分からず、さしたる遺構もなさげでしたのであっさりと諦めました。


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2 コメント

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お久しぶりです (AKI)
2012-03-16 07:50:12
お久しぶりです とても読みごたえがありました。有難うございます。謎が多い細川家のエピソードは実に面白いですね
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お返事 (オリオン)
2012-03-17 00:42:42
最近は本が読めていないのでごめんなさい。
細川氏は出自からしてグレーですし、藤孝のその出自が絡んだ田辺城での空芝居なんて評もあるようです。
武将と言うよりは政治家だったのでしょうが、しかし若い頃は武芸に秀でていて馬を持ち上げたなんて話もあったようで。
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