オリオン村(跡地)

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春の日向路 史跡巡り篇 都城の巻

2012-05-07 02:46:00 | 日本史

 

史跡巡りの二日目は都城で、JRで都城駅まで出てから例によってレンタサイクルを借りての8時間です。
かなり無理のある日程を組んだのですがカーナビが絶好調だったために全てをクリアできたことが喜ばしく、またピーカンで最高の一日でした。
土地勘のある方でしたらどれだけ順調だったかが分かっていただけると思いますし、それなりのアップダウンもあっての健康促進な都城です。

まず向かったのは都城城で、島津氏の一族である北郷氏の居城です。
北郷氏は2代の義久が都城城を築城をしてから一時期を除いて戦国末期まで都城を支配しましたが、しかし11代の忠虎の没後に豊臣氏の肝煎りで伊集院氏に都城を奪われて祁答院に転封となり、しかしその伊集院氏が庄内の乱で島津氏に滅ぼされたことで12代の忠能が復帰し、一国一城令で廃城となった後は領主館を建てて幕末を迎えました。
大手門は再建をされたものですが櫓門となっており、かなりの風格があります。

本丸跡にはそれっぽい建物がありますが、これは都城歴史資料館です。
当時にこういった城郭があったわけではありません。
また建物跡などがありましたが発掘後に埋め戻されたせいか人造的で、城跡としては今ひとつな感じがあります。

次に向かったのが龍峯寺跡で、8代の忠相の創建です。
都城では最大の寺でしたが廃寺となり、今は北郷氏の墓所のみが残されています。
ここからがすっかりと墓フェチの側面が強くなったことによる墓巡りのスタートで、市内に点在をしている墓所を目指して自転車を走らせることとなりました。

8代の忠相は北郷氏の中興の祖とも言うべき存在で、伊東氏との抗争の末に北郷氏の最盛期を築きました。
その嫡男の忠親は9代となった後に豊州島津氏の養子に入り、北郷氏は嫡男の時久に継がせて伊東氏との抗争に身を投じます。
11代の忠虎は兄の相久が父と不和になって自害をしたことで家督を継ぎ、島津氏の先兵となって九州制圧のために各地を転戦しました。
忠虎が朝鮮の役で39歳の若さで病没をした後は嫡男の忠能が継ぎ、その子の13代の翁久が19歳で、14代の忠亮も20歳で若死にをしたことで本宗家の忠恒の三男である久直が15代となり、その久直も25歳で没したことから16代は光久の次男である久定が襲うことで、完全に北郷氏は本宗家に乗っ取られる形となります。
これは島津氏の一族では最大の領地を誇り、また独立心が強かったことで目の敵にされたといった事情があったようです。
久定の次の代で島津姓に復したことで都城島津氏と呼ばれるようになり、完全に北郷氏の血脈は断たれることとなりました。
写真は上段左から忠相、忠親、忠虎、翁久、忠亮、久直、久定、時久の五男の忠頼、六男の久栄です。

竜泉寺跡には、時久の嫡男の相久の墓があります。
相久は島津義弘の娘を正室に迎えるなどしましたが父と不和となり、廃嫡をされた後に自害をしました。
家臣の讒言があったとも言われていますが、詳しいことはよく分かりません。

仁厳寺跡には、12代の忠能の墓があります。
なぜに龍峯寺ではなく仁厳寺に葬られたかの経緯は不明ですが、その龍峯寺跡には見当たりませんでしたのでこちらが本墓なのでしょう。
本宗家の忠恒とは仲が悪かったらしく、そのことも北郷氏が乗っ取られる伏線となったのかもしれません。

この仁厳寺は2代の義久の子である秋江和尚が開基となって創建をしたもので、その秋江和尚の墓がありました。
また16代の久定の墓もあり、龍峯寺跡のそれとどちらが本墓かは微妙さが漂いますが、雰囲気としてはこちらの方が格式があります。
左が秋江和尚、右が久定です。

釣璜院跡も北郷氏の墓所となっており、そもそもは7代の数久の菩提寺として建立をされたものです。
墓所ではありながらもただの広場に墓が並んでいるだけで、まさに跡地といった感じです。
左の写真の右奥に位置しますので、この案内石碑が無ければ見逃してしまっても不思議ではありません。

一部の例外はありますが、7代までが釣璜院、8代からが龍峯寺という棲み分けとなっています。
ただ釣璜院が数久の菩提寺であったことからすれば、6代までの墓はあるいは改葬をされたものではないかと思います。
2代の義久は誼久の名も持っていますが、先に紹介をしたとおり都城城を築いたのはこの義久です。
南朝に転じた本宗家に従って今川了俊と激しい戦いを繰り広げ、跡を継いだ三男の久秀をその戦いで失ってしまいました。
そのため義久の五男である知久が4代となりますが、その子の5代となった持久の代に北郷氏に不運が襲います。
足利将軍家の跡継ぎ争いに敗れた大覚寺義昭の滞在を黙認したことで罪に問われて、本拠である都城を本宗家に預ける形で召し上げられてしまいました。
北郷氏が都城に復帰をするのは子の敏久の代で、その子の7代の数久が伊東氏に対抗をするために豊州島津氏と提携をしたことが後に忠親が豊州島津氏に入ることに繋がりましたし、忠相が最盛期を築く先鞭をつけたと言えないこともありません。
写真は上段左から義久、知久、持久、数久で、先の相久の廟所もあるとのことでしたが、それが刻まれた石碑があるのみでしたのでスルーをしました。

釣璜院からすぐのところにあるのが豊幡神社で、元は初代の資忠の菩提寺である山久院です。
山久院が廃寺となって今は豊幡神社と言われてしまえば明治の廃仏毀釈を思い浮かべてしまいますが、特にそういった記載はありませんでした。
神社とは言いながらもそういった雰囲気はあまりなく、土曜日だったこともあって子どもが駆け回って遊んでいました。

資忠は島津4代の忠宗の六男で、北郷の地を与えられたことで北郷氏を称しました。
島津氏は長兄の貞久が継ぎ、次男の忠氏は和泉氏を、三男の忠光は佐多氏を、四男の時久は新納氏を、五男の資久は樺山氏を、七男の久泰は石坂氏を興します。
その中では新納氏、樺山氏とともに北郷氏は有力一族として栄えましたが、その第一歩がこの資忠ということになります。
夫人とともに葬られていますが、左が資忠の墓です。

釣璜院や山久院のある庄内町は都城駅からそれなりの北に位置していますので、その流れで次に向かったのは月山日和城です。
肝付氏の8代である兼重が築いた城で、戦国期には島津氏と伊東氏が奪い合いました。
今は模擬天守が建てられており、その実態は高城郷土資料館です。

説明板によれば肝付兼重は南朝の忠臣として、賜った錦の御旗を掲げて北朝の畠山氏と戦ったとのことです。
郷土資料館にはそのときを描いたジオラマと言いますか、ほぼ等身大の人形が展示をされていました。
孤軍奮闘で戦い抜いた兼重でしたが力尽きて月山日和城、当時は兼重本城と呼ばれていたとはこれまた説明板の受け売りですが、敢えなく落城をして大隅の高山城に退きました。

ここまでがあまりに順調に過ぎるぐらいの行程でしたので、無謀にも次に向かったのが三股城です。
熱中症になるのではないかと思えるぐらいの日差しに何度か心が折れかけましたが、やはり城郭を見ると心が躍ります。
月山日和城と同じく肝付兼重が築いたと言われており、その後はやはり畠山氏に奪われることとなりました。

そもそもが小高いところにあり、そこから階段をえっちらおっちら登っていく羽目となったのですが、その先で待っていたのはただの展望台でした。
係の人がいるわけでもなく、何かの説明があるわけでもなく、発掘調査のときの写真が展示をされているぐらいで、まさにただの展望台です。
せっかく訪れたので何か達成感を得られるものが欲しかったのですが、反対側の遊歩道も途中で進入禁止となっており、徒労感があったことは否めません。

気を取り直して、次の目的地は大昌寺跡です。
大昌寺は3代の久秀と弟の忠通を弔うために建てられた寺で、今はその久秀と忠通の墓のみが残されています。
墓の手前にある阿吽像は当時は大昌寺の門前にあったものだそうで、おそらくは廃寺になったときに移されたのでしょう。

久秀は義久の三男でしたが、長兄と次兄が出家をしたために家督を継ぎました。
義久の正室の父、つまりは久秀の外祖父にあたる和田正覚が守る梶山城が今川氏に攻められたときに救援に向かいましたが、忠通とともに敢えなく討ち死にをしてしまいます。
そのため4代を五弟の知久が継いだとは先に紹介をしたとおりで、写真は右が久秀、左が忠通となります。

墓巡りも一段落をしましたので、整理のための例によっての系図です。
凡例は青字が当主、赤字が紹介をした一族であることも今までどおりで、もう少し鮮明であればよかったのですが、サイズ的にこれが精一杯なので悪しからずご了承ください。
ここ都城には6代の敏久を除く初代から16代まで、おそらくはもっと後代まででしょうがとりあえずは16代まで、の墓があります。
理由はよく分かりませんが敏久だけは墓が日南市にあるとのことで、こればっかりは仕方がありません。
快調に巡ったことで資忠、義久、久秀、知久、持久、数久、忠相、忠親、忠虎、忠能、翁久、忠亮、久直、久定と、その敏久と10代の時久を除く墓を訪れることができたのですが、先の龍峯寺跡にあるはずの時久の墓がなぜにご紹介ができていないかはまた後の話となります。

勢いよく南下をして目指したのが祝吉御所跡で、島津氏発祥の地です。
島津氏の初代である忠久が下向をした際に御所を構えたところと伝えられており、惟宗氏だった忠久はこの島津御荘から島津姓を名乗ったとされています。
今はただ記念碑として石碑があるだけですが、かなりの偉容を誇っており、木牟礼城を発祥の地とする出水市への対抗心が窺えます。

こちらは市街に戻っての島津家米蔵屋敷門です。
現在は摂護寺の通用門となっていますが、藩政時代の貴重な建造物とのことです。
それにしては扱いがぞんざいかなと思わないでもないのですが、残されているだけでも有難く思うべきなのでしょう。

市街にもいくつかの史跡が残されていますが、その多くは説明板のみでした。
都城領主館跡は一国一城令で都城城が廃城となった後に、北郷氏、その後は都城島津氏ですが、その当主が住んだ館の跡となります。
市役所と向かいにある小学校のあたりがその領域で、島津氏の一族の中では最大の領土を誇るだけに規模も相当なものがあったようです。

こちらは都城島津邸です。
明治に入ってから建てられたものですから完全に興味外のもので、ふーんと言ってしまえば怒られてしまうでしょうが、まあそんな感じではありました。
トップの写真はこの邸門の瓦を撮ったもので都城島津氏の家紋が描かれていますが、本宗家のそれと微妙に違っているところがポイントです。
島津氏の家紋と言えば丸に十文字ですが、その丸と十文字がくっついています。
都城島津氏、ひいては北郷氏になりますが、この丸と十文字が微妙に離れていたのですがそのすき間が小さく、本宗家と似ているのでもっとすき間を空けるようにと指示があったとのことで、このあたりにも本宗家と北郷氏の確執が透けて見えるようで面白いエピソードでした。

邸内にはいわゆる邸宅と、資料の保存のために建てられた都城島津伝承館がありました。
それぞれに入館料が必要とのことでしたので、迷わず後者のみのチョイスです。
研究員の方と少し話をさせていただきましたが、かなり興味深い情報をいただき、有意義な時間を過ごさせていただきました。

都城の最後は、再び龍峯寺跡です。
ここにある北郷氏の墓所は何区画かに分かれており、一番に奥にある一番に広い区画は柵で区切られて現当主の方の「墓参り以外はご遠慮ください」の札がかかっていました。
そのため10代の時久の墓はそこにあるのだろうなとは思いつつも立ち入ることはせず、しかしどうにも心残りだったので行く先々で問い合わせたところ、某関係者の方から「入っても止められることはない」「万が一にでも止められたら自分の名前を出してよい」とのお言葉をいただき、それに背を押されての再訪です。
迷惑をかけないようにそそっと回ったので逆光対策が不充分でしたが、これで目的が達成できましたので大満足です。
ついでと言ったら怒られてしまいますが15代の久直の墓もあり、先に紹介をしたものは見るからに供養塔のようなものでしたので、おそらくはこちらが本墓なのでしょう。
左が時久、右が久直です。


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3 コメント

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Unknown (宮崎オリオンズ)
2012-05-07 21:49:13
庄内から三股から、都城中心部まで、すごい移動距離ですね。さすがに、すべてに行ったことはないですが、一部のお城や島津資料館などは、幼い頃に見たことがあり、何となく覚えていました。祝吉御所跡は痺れますね。大人になってから行ってないので、今度行ってみようと思いました。
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素晴らしい (AKI)
2012-05-08 01:40:53
あまりにも面白かったので食い入るように読んでしまいました。北郷氏のことはほとんど知りませんでした。逆に知らないことに出会うと感動します。
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お返事 (オリオン)
2012-05-08 01:50:35
>宮崎オリオンズさん
たぶん半分近くは自転車に乗っていたかと(笑)
車であればたいしたことはないのでしょうが、小回りが利く自転車はそれはそれで有意義です。
祝吉御所跡は住宅街みたいなところにポツンとありましたが、きれいに整備をされていたのに感心をしました。
それなりに汚れているところ、珍しくはありませんので。

>AKIさん
写真が多くて表示が遅い、なんて評判が悪い旅日記、喜んでいただけてありがとうございます(笑)
昨年から一箇所に長くいる旅になってきているので、以前に比べると自分としては深くなってきたかなとは自己満足です。
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