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オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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バキューン種子島 史跡巡り篇 鹿児島の巻

2012-06-05 02:38:43 | 日本史

 

二日目も天気に恵まれて順調な滑り出しだったのですが、桜島の噴火のおかげで日程を縮小せざるをえなかったのが残念でなりません。
涙にくれて時間と体力をかなりロスしましたので、まあ仕方がないと言えば仕方がないのですが、何もこのときに噴火をしなくてもとは旅人の勝手な言い分です。
それでも前回に見落としたところをきっちりとカバーするなど90点の自己採点はできますので、この勢いで次の大分、対馬、そして西九州となだれ込みたいものです。

鹿児島の最初は初日に鹿児島港からてくてくと歩いて天文館で食事をして、そこからホテルに帰る途中で見つけた大久保利通像です。
幕末は今や守備範囲外で積極的には探していないのですが、前回の西郷隆盛像などと同様に見つけたのであれば無視をすることはしません。
その西郷隆盛と並ぶ薩摩藩の維新二傑と言ってもいい大久保利通は西郷贔屓で不人気とも聞いていますが、政治家としての資質は大久保の方が優っていたと思います。
夜なのでまともに撮れるとは思っていなかったのですが、意外にまともに撮れていたのには驚きました。

二日目にまず向かったのは伊集院駅で、トップの写真にある駅構内の島津義弘人形が出迎えてくれました。
これを見て「ジャンボマックスだ」と思った方は、たぶん私と同年代です。
駅の正面には島津義弘像があり、前回の鹿児島で戦国島津氏が軽視をされていると嘆いていたのですが、これでホッと一安心です。
ただ銅像の写真を撮るのが難しいと言いますかかなり苦手で、多少でも逆光となるとこんな感じになってしまいますことをご容赦ください。
その兜の感じからしてもどこか鎌倉から室町あたりを思わせるような勇姿ですが、始発で来ただけのことはありました。

伊集院駅から反転して北上をした先は帖佐駅で、ここを根城に帖佐、加治木、そして重富を巡りました。
このあたりの町は合併をして姶良市になったのですが、レンタサイクルを営んでいる店があるのが帖佐駅ぐらいだったことがその理由です。
ただ営業時間が10時からとのんびりとしていたために帖佐は徒歩で巡ることにして、その第一歩が願成寺跡です。
ここには新納旅庵の墓があり、これが目的であることは言うまでもありません。

新納旅庵は鬼武蔵として名高い新納忠元の又従兄弟で、島津氏の庶流である新納氏のまた庶流にあたります。
僧侶でしたが島津義弘の命で還俗して家老となり、関ヶ原の役での講和に尽力をしました。
三基ある墓のどれが旅庵の、名は長住ですが、それにあたるかが分からなかったのですが、子孫が建てた墓碑が後ろにありましたのでおそらくは右端だと思います。
ただ墓石の刻字が薄れていて読み取れなかったので何とも言えず、もしかしたら一番に大きい中央のものがそれかもしれません。

次は島津義弘居館跡ですが、願成寺跡から2.5キロぐらい離れていましたのでちょっとした苦行でした。
まだ時間が早かったので日差しはさほどでもなかったのですが、申し訳ないのですがのんびりとしている自転車屋さんにぶつぶつと文句を言いながら歩いた次第です。
ここは義弘が関原の役の直前に居を移したところで、石垣があるなどちょっとした小ぶりの城のようなものだったようです。

敷地内はありがちな稲荷神社になっていてどうこう言うものはありませんでしたし、大振りな記念碑も興味をそそりませんでした。
東に大手門跡があり礎石が残されていましたが、これもあまりぐっとはきません。
それでも義弘の事績が紹介をされた立派な説明板がありましたので、地元の方にはこよなく愛されている義弘のようです。
ちなみにここにあった門は江戸時代に出水に移されて、今は市の指定文化財となっています。

帖佐での最大の目的がこの総禅寺跡で、豊州島津氏の菩提寺でした。
例によって廃仏毀釈で廃寺となってしまい、今は民間の墓地となっています。
豊州島津氏は本宗家8代の久豊の三男である季久を祖としており、その季久が豊後守を称したことから豊州家と呼ばれています。
先の都城の北郷氏から忠親が養子に入ったのがこの豊州島津氏で、北郷氏と豊州島津氏は協力して伊東氏らと対することとなりました。

初代の季久の墓は墓地の一番奥にあり、草が生え放題でかなり荒れた感じがあります。
当時の姶良町の指定文化財なのですからもうちょっと手入れをしてもらいたいのですが、いろいろと事情もあるのでしょう。
ただ同じ姶良市でも加治木などはきちんと整備がされていましたし史跡の案内板などもそこそこ充実をしていましたが、姶良と言いますか帖佐はそのあたりが言葉を選ばなければかなり手が抜かれているようで、先の願成寺跡も探し当てるのにかなり苦労をしました。
話がそれましたが季久は兄の本宗家9代である忠国の命で帖佐に侵攻をして建昌城を築き、しかし次の代に豊州島津氏は飫肥に移ることとなります。

そんなこんなで帖佐に墓所があるのは季久とこの朝久のみで、その朝久の墓も草むらに埋もれた形になっています。
中を覗いてみればかなり破損もしているようですし、何とも悲しくなってきます。
朝久は北郷氏から養子に入った忠親の跡を継いで6代となり、島津義弘の長女である御屋地を娶って義弘の配下として活躍をしました。

その御屋地の墓も、この総禅寺跡にあります。
都城でご紹介をした北郷相久に嫁いだもののその相久が父と不和となり廃嫡されて自害をしたことで、その後に朝久に嫁ぎました。
冷酷非情と言われた本宗家の忠恒もこの姉にはかなりの気遣いをしていたらしく、豊州島津氏の当主が本宗家の家老を務めていたのもそれが理由かもしれません。
ちなみに先の島津義弘居館には、義弘が加治木に移った後に御屋地が住んだとのことでした。

ここから帖佐駅に戻る途中で火山灰が降り出し、たまらずに逃げ込んだのが姶良市歴史民俗資料館です。
完全に予定外でしたが怪我の功名とでも言いますか、義弘や越前島津氏の小冊子を入手できましたのでラッキーでした。
個人的には今ひとつの展示物でしかなかったのですが、いろいろな意味で一息つけましたので感謝の言葉もありません。

ようやくにレンタサイクルを借りて加治木に向かい、最初に訪れたのが長年寺跡です。
本宗家の忠恒の三男である忠朗が興した加治木島津氏の墓所で、しかしこの加治木島津氏からその後に本宗家の当主が出ていますので本宗家の墓所と言えなくもありません。
これまた廃仏毀釈により廃寺となったようで、今はその墓所のみが残されています。

しかしここにあるのは2代の久薫の墓のみで、他は能仁寺墓地にあります。
このあたりの経緯はよく分かりません。
加治木島津氏は忠朗が祖父の義弘が領した加治木とその家臣団を引き継いでいますので、忠恒からすれば可愛い息子だったのでしょう。
久薫はその忠朗の嫡男です。

ここで有名なのは亀墓で、似たようなものを中国出張の際に泰山で見かけました。
5代の久方は本宗家に復して重豪となりましたが、その母である正覚院もここで眠っています。
その三十三回忌に重豪が建てた供養塔がこの亀墓で、正覚院は重豪を生んだその日に亡くなったためにそれだけ思いが強かったのでしょう。

その他では3代の久季の子の久連、久歓の墓がありましたが、久連の墓は撮り損ねましたので左側は久歓です。
右は椿窓寺殿供養塔で、椿窓寺殿とは島津忠良の三女の西姫のことです。
西姫は加治木肝付氏の兼盛に嫁ぎますが、その後に離別をされて実家に戻りました。
なぜに長年寺に供養塔があるのかの説明はありませんでしたが、その名前が伝わっていることからして重要な女性だったのだと思われます。

晩年を加治木で過ごした島津義弘の終焉の地が、ここ加治木島津氏の館です。
石垣は残されていますが帖佐のそれと同様に当然のごとく建物などは残っておらず、社のようなものがあるだけでした。
この加治木は義弘の孫にあたる忠朗に引き継がれたとは先にご紹介をしたとおりで、そういう意味では義弘が加治木島津氏の家祖と言ってもいいかもしれません。

この加治木は加治木氏が治めていましたが、島津季久、これまた先にご紹介をした豊州島津氏の初代ですが、この三男の満久が養子に入っています。
ところが満久の子の久平が島津氏に叛いたことで加治木を追われ、加治木氏は没落をしていきます。
この日木山宝塔はその加治木氏の墓石とも言われており、説明板には8代の親平夫婦、あるいは9代の恒平の弟である木田信経夫婦のものではないかと推定されるとあり、いずれにせよ親平は島津氏の初代である忠久と同年代の人物ですのでかなりの古さであることは間違いありません。
なかなか分かりづらいでしょうがかなりの大きさで、自分の身長よりもかなり高かったです。

こちらは加治木肝付氏の墓所です。
肝付氏の嫡流は島津氏との抗争で没落をしたとは先日の肝付でご紹介をしましたが、庶流の肝付氏は早くから島津氏に従いました。
ただ面従腹背なところもあったようで、加治木肝付氏の初代である兼演は何度か島津氏に叛いています。
しかしその子の2代の兼盛は島津忠良の娘を娶り、以降は完全に島津氏の家臣団に組み入れられていきます。

ここにある三基の墓のうち右端が3代の兼寛のものであることは分かっていますが、他の二基は刻字が読み取れないために不明のようです。
2代の兼盛とその側室ではないかと言われていますがどちらがどちらかも分からないとのことで、確かに全くと言っていいほど何も読み取れませんでした。
戒名は分かっているので一文字でもあれば何とかなると思うのですが、専門家が見ても不明なのですから自分に分かるはずもありません。

能仁寺墓地は加治木島津氏の墓所で、歴代藩主とその正室の墓があります。
ただ2代の久薫は長年寺跡に、そして4代の久門と5代の久方は本宗家を継いだために福昌寺跡に墓がありますので、それ以外のものとなります。
能仁寺は初代の忠朗が建立をしましたが今の状態を見れば、おそらくは廃仏毀釈により廃寺となったのでしょう。

初代の忠朗は本宗家の忠恒の三男で、祖父の義弘の領地と家臣団を受け継いだとは繰り返しになります。
通称の又八郎は忠恒と、初名の忠平と兵庫頭の官位は義弘と同じですので、父にも祖父にも愛された存在だったのでしょう。
当初は北郷氏に養子に入る予定が生母の反対により流れて、そして一門衆筆頭の加治木島津氏の誕生となった次第です。
ちなみに島津氏のルールなのか、当たり前のように右側が忠朗の墓となります。

一門衆筆頭ながらも、いや一門衆筆頭だからこそ、家督継承は順調にはいきません。
本宗家に跡継ぎが絶えた場合に当主を出す家系ですので、本宗家にできるだけ近い血筋を残す必要があったのでしょう。
2代の久薫は忠朗の子ですが、3代を継いだのは本宗家の綱久の次男である久季ですから久薫にとっては従兄弟の子になります。
そして4代の久門は本宗家の継豊の次男で、兄の宗信が22歳の若さで没したために本宗家に復して重年となりました。
重年の子である久方は生まれたときには父はまだ本宗家を継いでおらず、そのためか父の跡を継いでそのまま5代となりましたが、その後に父に子、つまりは自らにとっては弟ができなかったことで重年が没した後に同じく本宗家に復して重豪となりました。
6代は重豪の従兄弟である久徴が、7代はその子の久照が継ぎ、8代は久照の従兄弟、あるいは甥とも言われている久徳が、9代はその子の久長が、10代はその子の久宝が継いだことで本宗家との血脈がやや遠くなっていきましたが、これは重豪以降が子宝に恵まれたことが理由かもしれません。
写真は上段左から久季、久徴、久照、久徳、久長、久宝です。

蒲生氏と言えば近江の蒲生氏郷が有名ですが、ここ薩摩でも蒲生氏が栄えました。
同じ藤原氏の一族ですが直接的な繋がりはないようで、また近江が「がもう」に対して薩摩は「かもう」と濁りがありません。
戦国期には肝付氏らと組んで島津氏と抗争を繰り広げましたが、最終的には肝付氏とともに屈して島津氏の傘下に入ることとなりました。
蒲生氏の墓所は「蒲生どん墓」と呼ばれて整備をされており、その整然美には圧倒をされます。

大小の墓石が三列にきれいに並んでおり、前後左右の間隔もピッタリでした。
それもそのはずで、幕末の洪水で流出をしたものを昭和に入ってから有志が復元保存をしたものとのことです。
ここには8代から13代の当主とその一族の墓があるとは例によって説明板の受け売りですが、しかしどれが誰のものかの説明はありませんでした。

復元保存をしたのであれば当然のごとく最前列が当主のものであろうと、その想像どおりに8代から13代にあたる六基の墓が並んでいました。
そして並べるのであれば代順に並べるだろうと、横に並べるのであれば左からだろうと、このあたりは勝手な推測です。
あるいは復元の際に刻んだと思われる刻字は読めないところが多かったのですが、確実に分かったのは左端が蒲生宗清のものであることで、この宗清は蒲生を最初に名乗った舜清を初代とすれば7代になりますが、その父である藤原教清を家祖と考えれば8代になります。
かなり強引な論法ですが、そう考えれば写真は上段左から宗清、直清、清種、清冬、清寛、忠清です。

二列目と三列目はやや小ぶりとなりますので、おそらくは一族や正室、側室などの墓なのでしょう。
何となく適当に大きさを合わせて並べたように見えると言ってしまえば有志の方に怒られそうですが、見事なぐらいのバランスのよさです。
当主のものと同様に刻字がされてはいたのですが、こちらもかすれたり欠けていたりしたので深追いはしませんでした。

御仮屋門は鹿児島県の指定文化財で、蒲生地頭仮屋の正門です。
御仮屋とは言ってみれば役場のようなもので、市役所の正門とでも考えれば当たらずといえども遠からずでしょう。
城門に近いものですからそれなりの威容を誇っており、しかしちょっと劣化と言いますか朽ち始めているように見えたのが残念と言えば残念でした。

紹隆寺はご多分に漏れず廃仏毀釈で廃寺となりましたが、昭和の末期に再建されました。
ここには越前島津氏の墓所があります。
越前島津氏は本宗家の初代の忠久の次男である忠綱が越前守護代になったことで興したもので、しかし15代の忠長が播磨で討ち死にをして絶えてしまいました。
しかし実際には忠長の子である忠之、その子の義弘と戦国期まで血脈は続いています。
越前島津氏とは言いながらも忠綱の子の2代の忠之が播磨に下向をしたことで播磨島津氏とも称しており、忠長が赤松氏に属して播磨で戦乱に明け暮れたのもそれが理由です。
もっともそんなことはお構いなしに本宗家の継豊は弟の忠紀を16代として越前島津氏を再興させて、その領地から重富島津氏とも呼ばれました。

そういう意味では忠紀は越前島津氏の16代であり、重富島津氏の初代であると言ってよいでしょう。
本宗家の吉貴の四男で継豊の弟にあたり、嫡流かどうかはともかくとしても忠長の子孫がいる中での再興ですから無理矢理感は否めません。
ただこのあたりは完全に江戸期の話ですので、個人的には興味外だったりもします。
また忠紀よりも前の代の墓はありませんので、越前島津氏と言うよりも重富島津氏の墓所という方が正しいかもしれません。

便宜的に代数は越前島津氏のそれでいきます。
17代の忠救、18代の忠貫と直系が継ぎますが、19代には本宗家の斉宣の三男である忠公が、20代には同じく本宗家の斉興の五男の忠教、後の久光が入り、21代は忠教の四男の珍彦が、22代は珍彦の嫡男の壮之助が、23代は壮之助の嫡男の忠彦が継ぎました。
こう見ると本宗家の部屋住みを外に出すために名家を引っ張り出したと、そんな気がしないでもありません。
写真は上段左から忠救、忠貫、忠公、珍彦、壮之助、忠彦です。

ここまでは墓のオンパレードでしたので、最後ぐらいは城で締めます。
岩剣城は祁答院氏の居城で、険阻な断崖に囲まれた難攻不落とも言われた山城でした。
見るからに険しく、また整備状況が悪いと聞いてはいましたが登る気は満々で、しかし残念なことに火山灰のおかげで時間と体力を浪費したおかげで泣く泣く写真を撮るだけでパスをしたとは言い訳でしかありませんが、今回の旅で計画をしていたもので見逃した唯一ですから心残りであることは間違いありません。

岩剣城が島津氏に包囲をされて孤立無援となったことで祁答院氏は本拠の祁答院に落ちていき、島津義弘が城主となります。
しかしあまりに不便なために麓に築いたのが、この平松城でした。
現在は一部に野面積みの石垣が残っているだけで、重富島津氏の居館としてはちょっと寂しい感じがあります。
それでもその石垣すら残っていないところが少なくありませんので、いい感じで締めくくれたかなとは自画自賛です。


【2012年5月 鹿児島の旅】
バキューン種子島
バキューン種子島 旅程篇
バキューン種子島 旅情篇
バキューン種子島 史跡巡り篇 種子島の巻
バキューン種子島 グルメ篇
バキューン種子島 スイーツ篇
バキューン種子島 おみやげ篇

 

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墓博士に学ぶ。 (けんぴん)
2012-06-05 04:07:08
夜の大久保利通像、キレイですねぇ。
背景の植物が南国を感じさせます。

今回も「頭の体操」になりそうな文章を有難うございます。村長様の事ですので仕事にぬかりはないと思いますが、書いていて頭脳が混同されてないのがまず素晴らしいです。

内容につきましてはついていけないんで、「脳トレ」と思ってながめていますが、
「墓のオンパレード」などのワードには笑いを禁じえません。ちなみにジャンボマックスはうっすらと記憶にありますので、どうやら村長は少々先輩であられるようですね。
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ジャンボマックス (ウニちくちく)
2012-06-06 01:04:04
 ドリフですよね?懐かしいです。 荒井注やゴールデンハーフのエバが「何だ○○ヤロー」と言っていた頃でしょうか?
 島津義弘の写真を拡大して見ましたが、似てると言われれば、似ていない事も無いような気がします。

 志村がドリフに加入する前の話ですが、トンボ鉛筆を一ダース買うと「首ちょんぱ人形」というノベルティーグッズが貰えるというプロモーションがありまして、私のいた海神小学校でも大人気になりました。
 加藤茶の人形はどこの文房具屋に行ってもなくて、泣く泣く高木ブーの人形で妥協した記憶があります。

 種子島の話と全く関係の無いコメントで失礼しました。
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お返事 (オリオン)
2012-06-06 01:46:26
>けんぴんさん
いやいや、混同しまくりです(笑)
さすがにこのあたりになると予備知識はゼロに近く、いろいろと調べて書いているのが現実です。
系図などを書けばもっと分かりやすくなるのですが、さすがに時間が時間だったので端折りました・・・
推敲もしないままに寝ましたので、誤字脱字が残っているかもしれません。
後追いで、この後からやるつもりです。

>ウニちくちくさん
ドリフです。
和田アキ子と絡んでいたような記憶があります。
ちなみに島津義弘とは似ていないかと(笑)
第一印象ですね、手足の感じで「ジャンボマックスだ」とつぶやいてしまいました。
ドリフ、あの予定調和のコントが懐かしい・・・
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