人吉城を出て次に向かうは願成寺で、相良氏の菩提寺です。
最寄り駅はくま川鉄道の相良藩願成寺駅ですが、人吉駅から向かう場合は9時48分を最後に次は12時21分という信じられないようなダイヤですし、人吉城から行けば人吉駅に戻るよりは直接に願成寺に行く方が近かったりもしますので、何の迷いもなくそのまま自転車で向かいました。
相良氏は藤原氏の流れで遠江相良荘に住んだことで相良を称し、よってこの願成寺も初代の相良長頼が遠江の常福寺から招いた弘秀上人を開基として創建しました。
すぐそこに相良氏墓地が見えていたことで気がせっていたこともあって中までは入らなかったのですが、それなりの規模のお寺のようです。
隣が保育園なのか小さな子がじっとこちらを見ていた、というのが理由だったりもします。
鳥居をくぐってすぐのところにあるのが、相良長頼の墓です。
さすがに初代は別格なのか墓地の中央に鎮座をしていますし、存在感をアピールしまくりです。
当初は願成寺の金堂前に埋葬され、その後に金堂の須弥壇の下に移されたことで金堂そのものが廟所とされましたが、しかし西南の役の際に金堂が焼失をしたことで現在の場所に改葬をされたものらしく、そういう意味では正真正銘の墓ということになります。
墓地は5区画に分かれていますが、見事なぐらいに整然と並んでいます。
2代から18代まではそれなりに一族間での争いがありながらも代数順に横一列であることがあまりに不自然で、改葬をされたものや、あるいは供養塔なども含まれているのでしょう。
長頼には頼親、頼氏、頼俊、頼村、頼員、頼貞と多くの子がいましたが、2代は頼親が継ぎ、頼氏は多良木氏、頼村は上村氏、頼員は犬童氏、頼貞は稲富氏を興します。
相良氏は人吉荘と多良木荘の地頭でしたが分割相続をしたことで、人吉荘を継いだ頼親の系統が下相良氏、多良木荘を継いだ頼氏の系統が上相良氏となり、下相良氏が上相良氏を滅ぼして統一をするまで主導権を巡って200年に渡って争い続けました。
頼親には頼明という子がありながらも家督を弟の頼俊に譲り、頼明は永富氏を興して後に11代の長続が出るまで雌伏のときを過ごすことになります。
3代の頼俊、4代の長氏、5代の頼広、6代の定頼、7代の前頼、8代の実長、9代の前続と南北朝の動乱などに翻弄をされながらも着実に地盤を固めていきますが、前続の子の10代の堯頼のときに上相良氏の多良木頼観、頼仙の兄弟に人吉城を奪われてしまいました。
写真は上段左から頼親、頼俊、長氏、頼広、定頼、前頼、実長、前続、堯頼となります。
この混乱を鎮めたのが永富長重で、多良木兄弟を討って人吉城を奪還することで二流に分裂をしていた相良氏を統一しました。
その後に堯頼が早世をしたことで長重改め長続が11代を継ぎますが、永富氏は2代の頼親の流れですので長続からすれば家督を取り戻したとの思いがあったかもしれません。
12代は三男の為続が継ぎ、その子の長毎が13代となりますが、このことが再び相良氏に騒動を起こすこととなります。
写真は左から長続、為続、長毎です。
長続には頼金という長男がありながらも病弱だったために三男の為続に跡を継がせましたが、面白くないのは頼金の子の長定です。
長毎の跡は三男で嫡出の長祗が14代を継ぎましたが、長定はこれを襲って人吉城から追放をして長祗を自害に追い込み、自らが15代となって家督を簒奪します。
しかし長祗の庶兄である義滋と長隆がその長定を追い落とし、今度は兄弟間での争いになりますが、上村氏の協力をとりつけた義滋が16代を継ぎました。
写真は左から長祗、長定、義滋ですが、長定の墓がここに平然と並んでいることからして先の疑問となった次第です。
14代の長祗には、理由は今ひとつ分かりませんが墓がもう一基あります。
その形式からして後世になってから作られたものでしょうが、一時的にではありながらも家督を簒奪されて25歳の若さで自害をさせられたことを悼んでのものかもしれません。
ただそれであれば似たような境遇であった堯頼にも、と思ったりもしています。
戦国期に入ってからの当主は17代の晴広と18代の義陽です。
晴広は2代の頼親の子である頼村が興した上村氏の流れで上村頼興の嫡男ですが、義滋を後押ししたことの見返りとして養子に送り込まれました。
義滋に継ぐべき子がいなかったこともありますが、傍から見ればこれも体のいい家督の簒奪です。
ただ晴広の祖父である頼廉は13代の長毎の次弟で相良氏から上村氏に入りましたので義滋と頼興は従兄弟になり、つまりは義滋から見れば晴広は従兄弟の子ですからかなり近いところで血脈は保たれているわけで、また相良氏法度を制定するなど晴広には名君の評がありますので相良氏にとっては悪い話でもなかったのでしょう。
父である上村頼興は相良一族内で相当な力を持っていたことから、その後ろ盾を得て晴広は安定した基盤を築いてくことになります。
その跡を嫡男の義陽が継ぎ、しかしそれを不満に思った叔父の上村頼孝が子の頼辰らとともに謀反を起こすものの、深水氏らの活躍で鎮圧をされました。
しかし父の時代には友好だった島津氏との関係が崩れ、猛攻に屈して支配下に組み入れられてしまいます。
そして島津氏の阿蘇氏攻めに駆り出された義陽は敢えなく討ち死にをしてしまい、この後に相良氏が大きな勢力を築くことはありませんでした。
写真は左が晴広、右が義陽ですが、義陽の墓、と言いますか首塚が八代にもあります。
義陽の跡を嫡男の忠房が継いで19代となりますが、僅か14歳で病死をしてしまいます。
そのため弟の頼房が20代となり引き続き島津氏に従い、豊臣秀吉の九州征伐の後は小大名ながらも独立をします。
そして関ヶ原の戦いでは西軍に与しながらも土壇場で寝返り、大垣城で熊谷直盛や垣見一直を殺すことで家を保ち、肥後人吉藩の初代藩主となりました。
写真は左が忠房、右が頼房です。
また願成寺の相良氏墓地には、当主以外にも一族の有力者の墓もあります。
写真は上段左から永富実重、上村長国、上村長種、上村頼孝、相良頼泰、相良長泰、相良長弘、相良長誠です。
永富実重は11代の長続の父で、上村長国は17代の晴広の母方の祖父で子は岡本頼春、長種は同じく晴広の叔父、頼孝は晴広の弟となり、また相良頼泰は長続の三男で長泰と長弘はその子、長誠は18代の義陽の三男ですからいずれも当主に近い存在ではあります。
ただ長種はその人望を怖れた兄の頼興に殺害され、頼孝は義陽、頼泰と長泰は13代の長毎、長弘も子の治頼が16代の義滋に謀反を起こしており、その一方で上村氏の墓所は別の場所にはありながらも相良氏で権力を誇った上村頼興の墓が相良氏墓地に無いのが不思議でなりません。
このあたりの人間関係はかなり複雑ですので、系図を書いてみました。
青字が当主で、赤字が当主以外で墓があり写真を載せた一族です。
サイズの関係からちょっと不鮮明になってしまってはいますが、こうやって書いてみると血脈の繋がりがよく分かるのではないかと思います。
こちらの写真は左から石田三成、熊谷直盛、垣見一直ですが、さすがに墓と言うよりは墓碑、供養塔といったものでしょう。
先に書いたとおり20代の頼房は関ヶ原の戦いで西軍を裏切りましたので、その後ろめたさもあってのことではないかと思います。
ただそれにしてもいつの時期のものかは分かりませんが、外様の僅か2万2千石の小藩としては思い切ったことをしたものだと拍手を送りたい気分にもなります。
ここからは江戸期ですので、申し訳ないながらも完全に惰性です。
21代は頼寛、22代は頼喬と無難に嫡男が跡を継ぎますが、頼喬の子が早世をしたために頼房の次男の長秀の子で頼喬の従兄弟にあたる頼福が23代となり、24代はその子の長興、長興に子が無かったために25代は弟の長在、26代はその子の頼峯、頼峯が子が無いままに24歳で病死をしたために跡は弟の頼央が継いで27代となりますが、こともあろうか国元にて鉄砲で狙撃をされて暗殺をされてしまいます。
これは竹鉄砲事件と呼ばれて藩財政の立て直しの方策を巡っての対立が引き起こしたものと言われていますが、そこに負い目でもあったのか継ぐべき一門は他にあったものの血の繋がりのない秋月氏から養子を迎えて28代の晃長となり、29代の頼完、30代の福将、31代の長寛と他藩から養子を迎えまくったことで完全に相良氏の血は絶えてしまいました。
その後は32代の頼徳、33代の頼之、34代の長福と嫡男が継ぎ、35代は長福の弟の頼基が継いで最後の藩主となりますが、あくまで備前池田氏の血でしかありません。
36代は長福の子の頼紹、37代は頼基の子の頼綱が継ぎますが状況は変わらず、血にこだわっている自分としては嘆かわしい現状です。
写真は上段左から頼喬、頼福、長興、長在、頼峯、頼央、晃長、頼完、福将、長寛、頼徳、頼之、長福、頼基、頼綱で、21代の頼寛は見落とし、36代の頼紹は見当たりませんでした。
【2012年2月 南九州、沖縄の旅】
南国放浪記
南国放浪記 旅情篇
南国放浪記 旅程篇
南国放浪記 キャンプ篇 石垣島の巻 下見の章
南国放浪記 キャンプ篇 石垣島の巻 初日の章
南国放浪記 キャンプ篇 石垣島の巻 二日目の章
南国放浪記 キャンプ篇 薩摩川内の巻
南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 鹿児島城の章
南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 福昌寺の章
南国放浪記 史跡巡り篇 鹿児島の巻 南洲墓地の章
南国放浪記 史跡巡り篇 熊本の巻 熊本城の章
南国放浪記 史跡巡り篇 熊本の巻 本妙寺の章
南国放浪記 史跡巡り篇 人吉の巻 人吉城の章
南国放浪記 史跡巡り篇 八代の巻
南国放浪記 史跡巡り篇 菊池の巻
南国放浪記 史跡巡り篇 宇土の巻
南国放浪記 グルメ篇
南国放浪記 スイーツ篇
南国放浪記 おみやげ篇
ちなみに系図フェチなので学生のときから積み上げた系図から、関係する人物だけ残して色づけをしただけですので、意外に手間はかかっていません。
もっともそのために一太郎から足抜けできないのですが・・・