電脳筆写『 心超臨界 』

我われの人生は我われの思いがつくるもの
( マルクス・アウレリウス )

般若心経 《 般若心経も「如是我聞」で読む――松原泰道 》

2024-05-08 | 03-自己・信念・努力
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釈尊は自分の教えが、いわゆる“人格宗教”になることを極力戒められたのです。釈尊という人柄に憧れるあまり、釈尊を神格化してしまうと、釈尊の本当の教えである「法(ダルマ)」の考え方が、ぼやけてしまうからです。そこで釈尊は、いつも「私の身体は、刻々に老い、やがて死んでいく無常の存在である。だから私という形を具(そな)えた人間を尊敬してはならぬ。私がさとった法(真理)を信じ、法を頼りにするがよい。法は永遠に存在するからだ」と、「法灯明」を説いたのです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p60 )
1章 自らを光とせよ――般若心経を本当に理解するカギとは

◆般若心経も「如是我聞」で読む

「稽古照今(けいこしょうこん)(古(いにしえ)を稽(かんが)え、今を照らす)という語があります。この語は、現存する日本最古の史書『古事記』の序文に見えます。それまでは日本古代の出来事を、稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)(暗唱しながら学ぶ)していたのを、元明(げんめい)天皇の命により紀元712年に、太安万侶(おおのやすまろ)がはじめて書物に編集したのが『古事記』三巻です。

太安万侶は『古事記』を元明天皇に献上するにあたり、序文を認(したた)めて、

「古(いにしえ)を稽(かんが)え、今を照らし、昔をよく学んで現在の規準とするために、失われようとする貴重な文献を補うために、この書を書きあらわす」

と、『古事記』編集の目的を明らかにしていますが、大乗経典が作られた目的も、また同じように思えます。

現代の大乗仏教徒も、つねに“釈尊がいま在(ま)します”と、過去完了形でなく現在進行形に「如是我聞」して、現代にふさわしい新しい思索を積み重ねていく努力をしなければならないのではないでしょうか。

「如是我聞」の四字を、大乗経典のはじめに置く意味は以上に尽きますが、『般若心経』にはこの四字がなく、後に学ぶように、いきなり本文がはじまります。その理由は、弘法大師・空海がいうように、

「『般若心経』は、六百巻からなる大部の『大般若経』の内容を圧縮した最も簡潔な経典であるから、周知の『如是我聞』を除いた」

と考えられます。しかし、「如是我聞」を念頭において心経を読むと、一段と深い味を覚えます。

それは、はるか後のことですが、わが国にはじめて浄土宗を開いた法然(1212年没)の臨終にあたり、弟子たちが再び師の法然に会えなくなるのを歎き悲しんだときです。そのとき、法然が弟子たちに遺した次の一首があります。

  恋しくば南無阿弥陀仏と称(とな)うべし 六字のみ名の中にこそ住め

意味するところは「私に会いたくなったら、ただひたすらに『南無阿弥陀仏』の名号(みょうごう)を称えるがよい。私の姿や形はなくなっても、私はこの六字の名号の中に住んでいるから、名号を称えるとき、私はあなた方に会っているのだ――」という教えでありましょう。

法然の遺誡(ゆいかい)(後の人に遺す教え)は、もちろん先の釈尊の「私に会いたいと思うなら、法を学ぶがよい、法を依(たよ)りとするがよい」の遺訓(ゆいくん)によるものです。

釈尊は自分の教えが、いわゆる“人格宗教”になることを極力戒められたのです。釈尊という人柄に憧れるあまり、釈尊を神格化してしまうと、釈尊の本当の教えである「法(ダルマ)」の考え方が、ぼやけてしまうからです。

そこで釈尊は、いつも「私の身体は、刻々に老い、やがて死んでいく無常の存在である。だから私という形を具(そな)えた人間を尊敬してはならぬ。私がさとった法(真理)を信じ、法を頼りにするがよい。法は永遠に存在するからだ」と、「法灯明」を説いたのです。

いま心経を学ぶ私たちにとっては、釈尊を見たいなら「般若心経を読むべし」と言い切れるはずです。空(くう)の法を依り所とするなら、何ものにも足を引っぱられず、何かにしがみつかなくとも安全に生きていける道理です。

釈尊がどれほど偉大なお方であっても、人間であるかぎりは、釈尊がいわれるように亡くなるのです。事実、釈尊は80歳で入滅されたではありませんか。しかし、釈尊のさとられた宇宙と人生とを貫く真理は、いつ・どこにあっても、また誰もが知ることができるのです。さらに、その真理には時と処(ところ)とにより、新しい思想が加上(かじょう)されて、常に新しい生命を得て躍動するものでなければなりません。

このように人格中心でなく、法を中心とすると、「仏説(ぶっせつ)」を釈尊の口から出た説法と限定する必要はどこにもありません。親鸞が、仏説を釈尊に限定することなく「真理をさとった人の説」と広く解したのもうなずけます。釈尊の説法の基盤の法のこころ、すなわち釈尊の思想を、仏教徒は光とし依り所とするのです。具体的にいうと、経典の文字や言葉、いわゆる言句(ごんく)の意味を明らかにする詮議や詮索ではなく、言句が表象する思想を身につけるのが、大乗経典の読み方である、ということを学びました。

岡本かの子さんの「大乗経典はドラマである」が名言であることも、わかってまいります。

大乗仏典の中でも最も古く、つまり早い時期に成立した『般若心経』を学ぶにあたり、以上の事柄を念頭に置かないと、正しく心経を身につけることはできないでしょう。煩わしいと知りつつ学習したゆえんです。
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