電脳筆写『 心超臨界 』

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( トニー・ロビンズ )

読む年表 戦国~江戸 《 天下動乱後の変化——渡部昇一 》

2024-06-19 | 04-歴史・文化・社会
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中央政府(足利幕府)は、九代将軍義尚(よしひさ)以降はもう名ばかりのようなものだったから、地方の豪族たちは、あてにならない将軍よりも、その奥に不変なものが存在するのではないかということに気づいた。つまり、天皇に対する意識がだんだん高まってきたのである。そして戦国も末期になると、上杉謙信・織田信秀(信長の父)、毛利元就など、天皇家に寄附したり献金したりする武士が出てくる。日本を再統一するためには京都へ出て天皇をバックにして命令するのが最良の方法であるという明確な意識を持つ武将も生まれてきた。


◆天下動乱後の変化

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p100 )

15世紀後半~16世紀 天下動乱後の変化
下克上と朝廷の困窮を経て一段高い文化が芽生えた

応仁の乱によって、将軍の権威が衰えただけでなく、一向宗徒が加賀一国を支配して“宗教国”が生まれたり、守護大名の実権を家臣が奪ったりするような現象が起きた。身分の低い者が実力で上の者を倒す風潮は「下克上」と呼ばれ、小田原の北条早雲、美濃の斎藤道三に代表される新しい戦国大名が日本中に生まれた。全国に広がった戦いが収束した後も、各地で家督相続をめぐる争いは収まらず、将軍の後継者問題を巻き込んで混乱が続いていた。

この動乱は、朝廷にも大きな影響をおよぼし、明応(めいおう)9年(1500)、五土御門(ごつちみかど)天皇が亡くなられたが、打ち続く戦乱のせいで朝廷は窮乏し、葬式を出す費用もなかったため、亡くなってから四十余日、遺体は内裏の黒戸(くろど)の御所にずっと置かれたままであった。

喪中に践祚(せんそ)した後柏原(ごかしわばら)天皇の即位の礼を行うことすらできなかった。足利幕府や本願寺からの献金によって、ようやく即位の礼が行われたのは、践祚されてから22年目のことだった。22年間、即位式をするだけの金が集まらなかったことになる。

その次の後奈良(ごなら)天皇が即位の礼を行ったのは、践祚から10年後、その次の正親町(おおぎまち)天皇は3年後のことであった。正親町天皇のときは毛利元就(もうりもとなり)が金を出したと言われている。

践祚してから即位の礼が行われるまでの期間がだんだん短くなっているのは、大動乱のあと、さすがに地方の大名たちのなかで皇室に対する関心が高まり、皇室をたてようという気運が少しずつ起こってきたということであろう。

生活に窮した公家が地方に散り、禅宗の僧侶たちが乱を避けて各地を回ったことによって地方に文化が興(おこ)り、新しい宗教が全国に広まったことは、応仁の乱のプラス面であった。混乱の時代が何十年も続くうち、泥沼から蓮の花が咲くように、日本人全体に一段高いレベルの文化が芽生えたのである。

中央政府(足利幕府)は、九代将軍義尚(よしひさ)以降はもう名ばかりのようなものだったから、地方の豪族たちは、あてにならない将軍よりも、その奥に不変なものが存在するのではないかということに気づいた。つまり、天皇に対する意識がだんだん高まってきたのである。

そして戦国も末期になると、上杉謙信・織田信秀(信長の父)、毛利元就など、天皇家に寄附したり献金したりする武士が出てくる。日本を再統一するためには京都へ出て天皇をバックにして命令するのが最良の方法であるという明確な意識を持つ武将も生まれてきた。

それを最初に実行しようとしたのが百万石の大大名、今川義元だった。義元は、将軍家につながる血筋から言っても実力からしても、自分こそ上洛して乱世を立て直す人間であると考えた。そこに立ちはだかったのが、皇室尊重派である織田信秀の嫡男信長であった。
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