電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

読む年表 戦国~江戸 《 足利義政が慈照寺を建立——渡部昇一 》

2024-11-01 | 04-歴史・文化・社会
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義政は一種の天才であった。審美眼と美的感覚が抜群で、唐や宋の名画を集め、シナでは忘れられた牧谿(もっけい=13世紀後半、宋末期から元にかけての画家)の水墨画を高く評価した。茶碗でも、彼がほめたものは「大名物(おおめいぶつ)」と呼ばれ、信長や秀吉の時代には特別重要な茶器として尊ばれた。自ら茶をたて、四畳半の茶室の始まりとされる書院「同仁斎(どうじんさい)」を東山殿東求堂(とうぐどう)のなかにつくった。お茶の師匠は「わび茶」の創始者である大徳寺の村田珠光(しゅこう)とも言われる。


◆足利義政が慈照寺を建立

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p98 )

1482(文明14年) 足利義政が慈照寺を建立
無力な将軍が日本人の新たな感性「幽玄の美」を創出した

美的センスに恵まれていた八代将軍足利義政(よしまさ)は長禄2年(1458)、祖父義満が造営した室町第(花の御所)の復旧工事をはじめ、美しい盆山(ぼんやま)を築き、立派な大庭園を造り上げて、翌年、この室町新第(しんだい)に移った。この当時、諸国に飢饉が起こり、寛正(かんしょう)2年(1461)の大飢饉では悪疫の流行も加わって賀茂川を死体が埋めるほどだったが、義政は一向に気にかけず、造園に夢中だった。当時は挿花(さしばな)といった華道も好み、造園、盆景、挿花など、日本人の自然趣味の原型が、義政のもとで全国に広まった。

義政の贅沢の極みが寛正6年(1465)3月4日の華頂山(かちょうざん)の花見であった。公家や武家を引き連れ、黄金で箸を作るなど、衣服調度は華美を極めた。花の下で連歌会を催し、義政自ら「咲き満ちて花より外(ほか)の色もなし」と詠じた。これは平安時代、藤原氏の最盛期に藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだのと好一対をなしている。

この豪奢な花見の2年後に「応仁の乱」が起こったのだが、政治に関心を失い、武力もない義政自身は何もしなかったし、また何もできなかった。門の外では戦争をやっているが、門の中では詩歌の会と宴会ばかりが行われていたわけである。

義尚(よしひさ)に将軍職を譲った義政は、東山の月待山(つきまちやま)山麓に隠居所の造営を始めた。幕府の勢力が衰えていたため費用の捻出に苦しみながらも、ようやく東山殿(ひがしやまどの=東山山荘)を完成させた。義政は東山殿に十一の楼閣を建てたが、現在残っているのは銀閣だけである。延徳(えんとく)2年(1490)の義政歿後(ぼつご)は、その菩提を弔うため東山殿は慈照寺に改められた。

義政は一種の天才であった。審美眼と美的感覚が抜群で、唐や宋の名画を集め、シナでは忘れられた牧谿(もっけい=13世紀後半、宋末期から元にかけての画家)の水墨画を高く評価した。茶碗でも、彼がほめたものは「大名物(おおめいぶつ)」と呼ばれ、信長や秀吉の時代には特別重要な茶器として尊ばれた。自ら茶をたて、四畳半の茶室の始まりとされる書院「同仁斎(どうじんさい)」を東山殿東求堂(とうぐどう)のなかにつくった。お茶の師匠は「わび茶」の創始者である大徳寺の村田珠光(しゅこう)とも言われる。日本の「茶の湯」は鎌倉時代の禅宗の僧侶たちによって精神修養的な意味を強めながら広まったものだが、文化の中心として躍り出てくるのは、この義政の時代である。

義満が建てた金閣寺のきらびやかさと美しさは外国人にも大いに理解できるだろう。だが、われわれ日本人には、むしろ銀閣寺のほうが好ましいと感じられる。その「しぶさ」に趣味のよさと高尚な美を見るからである。義政は日本人の新しい感受性を発掘したといってもいい。日本人は義政によって「幽玄」の美というものを理解できるようになったのではないだろうか。
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