電脳筆写『 心超臨界 』

計画のない目標はただの願望にすぎない
( ラリー・エルダー )

早く中学生になって漁師になり、家を助けたいと思っていました――秋田清音

2024-05-19 | 03-自己・信念・努力
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「人間発見」
赤須賀漁業協同組合組合長・秋田清音(あきたすずね)さん

 甦る海、ハマグリ復活 (1)
 甦る海、ハマグリ復活 (2)
 甦る海、ハマグリ復活 (3)
 甦る海、ハマグリ復活 (4)
 甦る海、ハマグリ復活 (5)


いまの子供に比べれば大変ですが、誰もが明日のご飯を心配していた時代です。子供心にも生活の大変さはわかっていたし、つらいという思いもなかった。「働かんものは食うべからず」なんて、いうまでもないことで、早く中学生になって漁師になり、家を助けたいと思っていました。


甦る海、ハマグリ復活 (2)
(「人間発見」09.10.06日経新聞(夕刊))

祖母の魚介カレーのうまさ、中学校でもう漁へ
  叔父と2人一組、船に乗り始めれば大人扱い
    団結堅い土地柄、伊勢湾台風でも皆ですぐ避難

◆愛知県に生まれたが、4歳の時に父が戦死、母も8歳の時に
病死。母の里である赤須賀の祖父母のところに引き取られ、母
の弟である叔父夫婦に育てられた。

小さい時、赤須賀に来るとワタリガニや祖母の作るカレーが楽しみでした。カレーには頭のちぎれたクルマエビや割れたハマグリ、魚類が入っているんですが、本当におしかった。こんなうまいもんが食べられるのなら、漁師になってもいいかと思ったものです。

叔父の家はノリとハマグリ漁。いとこたちと実の兄弟のように育ちました。もともと赤須賀には、よそから来た子もわけへだてなく育てるという風土があるのかもしれません。

小さい時から、ノリ養殖や獲(と)ってきた魚の選別を手伝うようなことは当たり前でした。小学5、6年になるとシジミを売りました。売るといっても、先輩から10~15軒のお得意さんを譲ってもらい、そこに自分の家で獲ったシジミを早朝、配達する。冬は暗いうちから出かけました。

いまの子供に比べれば大変ですが、誰もが明日のご飯を心配していた時代です。子供心にも生活の大変さはわかっていたし、つらいという思いもなかった。「働かんものは食うべからず」なんて、いうまでもないことで、早く中学生になって漁師になり、家を助けたいと思っていました。

◆中学生になって漁に出始めた。地区の同級生
約70人の1割が漁師になった。

ここの漁は大体が2人一組。今は夫婦が多いけど、昔は“乗り子”といわれる若者と一緒だった。中学に入って漁師になろうというような子がいると、「ワシの船に乗らんか」「乗せてくれんか」という話になる。息子が漁師を希望しても、甘えが出るから他人の船に乗せる。そして自分の船には他人の子を乗せる。大人連中が酒を飲みながら決めたんでしょう。

私は叔父の船に乗りました。当時からここは資源管理をきちんとしていて、操業が早朝の30分、1時間ということもあった。夏場など学校に行く前に海に出ました。

海に出て舵(かじ)を持たせてもらい、叔父に「今日はワレ(お前)、好きなところに行け」と言われると、一人前の気分になりました。漁師も競争の世界。船の大きさはほぼ同じ、一斉出漁でも、港に戻って来た時の漁獲は違う。体力以上に、潮時や場所を見極める能力の差が出ます。貝も浮いたり沈んだりしますし。舵を任されるというのは、一家の家計を担うということになるんです。

2、3年、船に乗ればそれなりの、18、19になれば本当に一人前の漁師です。22歳で地区の祭りを仕切るんです。若い時から責任を持たせ、人を育てる仕組みができていました。とにかく船に乗り始めると大人扱い。16、17くらいで三味線の音を聞くような世界も知るわけです。

◆1959年(昭和34年)の伊勢湾台風。死者・
行方不明者は5000人以上に達した。

ちょうど半世紀前ですが大変な災害でした。赤須賀でも流された家が多かった。でも3000人以上の住民がいて、死者は1人も出なかった。ジイさんたちが早くから雲行きを見て「危ない」と言い、皆で警戒し、準備ををしていました。風雨が強まると、私ら若者が低い地の家々を回り避難してもらいました。漁師の知恵、地域の団結心のおかげでしょう。

台風後1年ほどの漁はひどかった。ハマグリ漁に出ても1日20~30個しか獲れない。実質的な失業です。当時、湾岸では復旧のためサルベージ船が活躍していました。半年ほどは、こんな船に乗り込むような生活をしてました。

でも自然の力はたいしたもので、2年後には漁場全体に小さいハマグリがビッシリ湧(わ)き、砂地に下りると足が痛いほど。密集していると大きくなりません。間引きして千葉などに送りました。

ちょうどこのころから、海の環境は大きく変わり始めました。これから伊勢湾全体、また私たちの漁業は難しい時代を迎えることになります。

(聞き手は解説委員・山形健介)
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