電脳筆写『 心超臨界 』

自分がいま生きている時代は
歴史としてながめることはできない
( ジョン・W・ガードナー )

カテリーナ・スフォルツァ――塩野七生

2024-04-22 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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反乱側の家臣たちは、彼女の子供たちを人質にとる。子供を人質にとれば、伯爵夫人も意のままになると思ったのであろう。しかし、並の女ならばそこで屈するところだが、カテリーナは屈しなかった。城塞に逃げ込んでしまい、出てこなければ子供たちを殺すと脅した反乱者たちに対し、城壁の上にあらわれた彼女は、やおらスカートをぱあっとまくり、叫んだのである。全イタリアの年代記作者が、筆を惜しまなかったエピソードだ。


◆カテリーナ・スフォルツァ

『わが友マキャヴェリ2』
( 塩野七生、新潮社 (2010/4/24)、p53 )

2回目の出張も、傭兵契約に関してだった。だが、今度は、交渉の相手が女だったのである。しかも、政府の決定を伝えるだけが仕事の前回とはちがって、今度は交渉する任務をゆだねられていたから、30歳のマキアヴェッリにとっては、事実上の最初の対外折衝になるわけだった。

目的のためならば手段を選ばず、などという聴くもオソロシイ政治哲学を打ちたて、20世紀の今日にいたるまで善男善女のひんしゅくを買ってきたマキアヴェッリが、いかに若輩当時とはいえ、女を交渉相手にもったという一事は、マキアヴェッリの研究家たちでさえ、いたく刺激する出来事のようである。15年の官僚生活中に彼が書いた膨大な報告書のすべてには眼を通さない学者も、この際の報告書は眼を皿のようにして読むらしく、やっぱりヤラレタ、いや、それほどはヤレテイナイなどと論じた研究論文を読むたびに、女である私はおかしくてたまらない。だが、これも、しわくちゃの婆さん相手であったらこうも議論に熱が入らないであろうと思い、女は女でも、カテリーナ・スフォルツァであったからだと納得することにしている。

なにしろ彼女ときたら、マキアヴェッリの会った当時は36歳になっていたが、まさに満開の花の美しさに輝いていた。顔が美人であるだけでなく、姿かたちもしなやかでくずれがない。10人以上の子を産んだにしては、驚くばかりの魅力の持ち主だ。先のミラノ公スフォルツァの庶出にしても息女で、ごく若いときに、法王シスト4世の甥ジローラモ・リアーリオと結婚している。パッツィの陰謀の首謀者の一人だ。そのために、ロレンツォ・イル・マニーフィコに執拗に狙われてついに暗殺されるが、愛してもいなかった粗暴なだけの夫に死なれて、若い未亡人は痛手も受けなかったようである。痛手は、暗殺が家臣たちの仕業であり、そのために、フォルリとイーモラという、小国とはいえ領国の主(あるじ)の地位が危うくなったことだった。そのとき、反乱側の家臣たちは、彼女の子供たちを人質にとる。子供を人質にとれば、伯爵夫人も意のままになると思ったのであろう。

しかし、並の女ならばそこで屈するところだが、カテリーナは屈しなかった。城塞に逃げ込んでしまい、出てこなければ子供たちを殺すと脅した反乱者たちに対し、城壁の上にあらわれた彼女は、やおらスカートをぱあっとまくり、叫んだのである。全イタリアの年代記作者が、筆を惜しまなかったエピソードだ。

「なんたる馬鹿者よ。子供ぐらいこれであといくらだって産めるのを知らないのか!」

カテリーナ・スフォルツァ、25歳当時の事件である。この大胆な振舞の後、家臣たちの反乱も押さえこむのに成功したフォルリの伯爵夫人は、この他にさらに二度、自分の好きな男と結婚して二度とも未亡人になったが、「イタリア第一の女(プリマ・ドンナ・デイターリア)」「イタリアの女傑(ラ・ヴィラ-ゴ・デイターリア)」と讃えられて、当時は最も有名な女であった。

この、大胆で美しい伯爵夫人は、女手ひとつで国を守っているのだから、必死な印象を与えるのが普通なのに、余裕さえ感じさせたのだから面白い。彼女は、マキアヴェッリが会ってから数ヵ月も経たない同じ年に、チェーザレ・ボルジアの軍に攻撃されることになるが、その籠城戦の最中でも、敵陣にこんな文句を書いた石弾を投げこむのを忘れなかった。

「大砲は、もう少しゆるやかに撃ったらいかが? あなたがたのきんたまがちぎれないように」

こんなふうだから、偽善的な上品さなど問題にしなかった当時の男たちから、大変に人気があったのである。騎士道精神そのものの純愛を捧げたフランスの武将は有名だったし、有名人でなくても、ファンは大勢いた。マキアヴェッリの同僚であるブォナコルシもその一人であったらしく、公用でフォルリ滞在中のマキアヴェッリに、情報を知らせるついでにこんなことを書き加えた手紙を送っている。

「伯爵夫人の画像を見つけて、帰国の際にもち帰ってくれ。高価でもかまわない。折ってたたんだりしないで、巻いてもってきてほしい」

このようなわけだから、勝利を手中にした直後のチェーザレ・ボルジアが、敗者であるカテリーナを自分の宿舎に連れて行き、その夜と次の日一日中、彼女と二人だけで閉じこもっていたという事実に、ファンたちはおおいに憤慨したのであった。勝者であるのをよいことに、強姦したのだというのである。当時のチェーザレは24歳。まもなくイタリアをかきまわすことになるこの法王の美男の息子も、このときが初陣だった。私は、『ルネッサンスの女たち』でカテリーナ・スフォルツァをとりあげたときにすでに、普通の意味での強姦説に加担しきれなかったのだが、その後ますます、この想いを強めている。どうでもよいことではあるけれど、カテリーナ・スフォルツァが自分で男を選ぶと、若くて美しい男を選ぶのが常だったのだ。
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