電脳筆写『 心超臨界 』

他者の働きによるのではなく
自ら他者に尽くすことにより成功をつかめ
( H・ジャクソン・ブラウン Jr. )

「徳」の字がついた六人の天皇への鎮魂――井沢元彦さん

2018-08-28 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写の記事の中からこれはと思うものを メルマガ『心超臨界』
にて配信しています。是非一度お立ち寄りください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★残念な石破氏の現状――阿比留瑠比・論説委員兼政治部編集委員
【「阿比留瑠比の極言御免」産経新聞 H30.08.23 】https://tinyurl.com/y6w77rl7

★新疆自治区は「青空地獄」――石平さん
【「石平のChina Watch」産経新聞 H30.08.23 】https://tinyurl.com/yd9krnlq

★日本、慰安婦指摘に反論/国連委・委員からは謝罪要求
【 産経新聞(1面) H30.08.17 】https://tinyurl.com/y9beazhs
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

●「徳」の字がついた六人の天皇への鎮魂

『日本史真髄』https://tinyurl.com/ybklo2aj
【 井沢元彦、小学館 (2018/8/3)、p108 】

「和」の重要性を説いた聖徳太子の本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」という。聖徳太子という名は、生前に彼が用いていた名ではなく、後世の人物が太子の道徳を偲んで贈った諡(おくりな)である。大変に素晴らしい名だが、日本史を怨霊史観で見る場合、「徳」の字は特別な意味を持ってくる。

厩戸皇子以前の天皇に仁徳天皇と言う諡号(しごう)を持つ天皇がいる。

「仁」は儒教第一の徳目だから、仁徳という名は、「ベストオブ徳」を兼ね備えた素晴らしい天皇という意味になる。戦前の教科書には必ず載っていたのだが、第16代仁徳天皇(5世紀前半頃)には次のようなエピソードが伝わっている。

仁徳天皇は大変に慈悲深い方で、ある時、宮殿の高殿(高い階)から眼下に広がる街を見ていたところ、食事時だというのに、民家のかまどから煙が上がっていないことに気がついた。これは税金が高いせいだと悟った仁徳天皇は、ほとんどの税の徴収を止めてしまわれた。その3、4年後、天皇の住まいは修繕する金もなくボロボロになってしまったが、眼下の家々からは食事時にかまどの煙が見られるようになった。それを見た仁徳天皇は、「神のかまどは賑わいけり」と喜ばれた。

この逸話からも分かるように、聖徳太子以前の「徳」の字は、本当に徳を持った(とされる)天皇に贈られるものであった。ところが、聖徳以後の天皇の諡号を見ると、徳を持っていたと言えない人に贈られているケースが多く見られるのである。

その筆頭が第八十一代安徳天皇(1178~1185年/在位1180~1185)である。

安徳天皇とは、平家全盛の頃、平清盛の娘徳子(後の建礼門院)が高倉天皇に嫁して産んだ、平家の血を引く天皇である。清盛は娘徳子が子を産むと、高倉天皇を強引に退位させ、まだオムツも取れない幼子を即位させた。

しかしその後間もなく、清盛が死に、さらに追いうちをかけるように源氏が攻めてきた。源平の戦いに敗れた平家一門は、男子はことごとく討ち死にし、女子供は壇ノ浦の水面に身を投げた。その時、安徳天皇も清盛の未亡人である二位尼に抱かれて入水した。

これも怨霊信仰だと私は考えた。安徳という素晴らしい名を贈ることで、幼くして命を絶たれた天皇の霊を慰めようとしたということだ。

たまたまなのではないか、と思う方もあるだろう。だが、実際に聖徳太子以降で、諡に「徳」の字がつく天皇を調べてみたところ、六人しかいない上に、その全員が不幸な死に方をしているのだ(下の表参照)。事実上殺された者もいれば、島流しに遭った者もいる。一見、不幸には見えないが、実は無念の思いを抱いて亡くなった「憤死」と見られる者もいる。


【「徳」の字がつく天皇 】
〈天皇諡号〉〈代数〉     〈現世への不満〉        〈死の状況〉
  孝徳   36  皇太子(中大兄皇子)に妻を奪われ  家臣に放置されて旧都で
           旧都に置き去りにされる       孤独死
  
  称徳   48  弓削道鏡を天皇にしようとするが   病死だが、暗殺説あり
           急死して果たせず
  
  文徳   55  最愛の第一皇子(惟喬親王)を皇太  発病わずか4日で急死
           子にできず死亡
  
  崇徳   75  政権奪回のため乱(保元の乱)を   「天皇家を没落させる」
           起こすが敗北し讃岐へ流罪となる   と呪いをかけて憤死
  
  安徳   81  平家の血を引く幼帝。わずか8歳で  二位尼に抱かれ海中へ
           源氏に追われ一族もろとも滅亡    投身自殺
  
  順徳   84  武家政権を打倒するため父とともに  流罪地で、都への帰還を
           挙兵するが敗れ佐渡へ流罪となる   切望しながら憤死


六人全員ともなれば、「徳」の字がある意図に基づいて贈られたものであることは明らかだ。

称徳大使以降の「徳」の字は、出雲大社の社殿の代わりと言える。社殿よりも遥かに安上がりだし、メンテナンスも要らない鎮魂方法である。

誰がこの新しい方法を考えついたのかは分からないが、聖徳太子がターニングポイントであったことは確かだろう。

聖徳太子もまた、悲運の人なのだ。推古女帝の皇太子に指名されながら、彼は最終的に天皇になれず、皇太子の身分のまま亡くなっている。その上、彼の子孫は、子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)の代に、蘇我入鹿(そがのいるか)によって滅ぼされ絶えてしまっているのだ。

  倭(わ)では、蘇我入鹿が厩戸王(うまやとおう)(聖徳太子)の子の
  山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子(なかの
  おおえのみこ)は、蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)
  や中臣鎌足(なかとみのかまたり)の協力を得て、王族中心の中央集
  権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷(えみし)・入鹿を滅ぼ
  した。(乙巳(いっし)の変)
  (『詳説日本史B』山川出版社刊)

優秀な人物であったのに皇位に就くことも叶わず、その子孫までもが滅ぼされてしまった。これではあまりにも太子が気の毒だと後世の人は思ったのだろう。いつ、誰の発案で「聖徳」という名が贈られたのかははっきりしないが、太子の魂が安んずることを願って、もっとはっきり言えば太子が怨霊となることを恐れた者が、聖徳という諡号を贈ったと見るべきである。

聖徳太子とその一族の死については、実はまだまだ大きな謎があるのだが、本章のテーマからは少々外れるのでここでは割愛する(詳しくは『逆説の日本史(2)古代怨霊編』参照)。

ここで重要なのは、聖徳太子の死が不幸なものであり、太子が怨霊化することを恐れた後世の人々が、素晴らしい諡号を贈ったと考えられる、ということだ。

諡号は中国にも朝鮮にもあるが、徳のある人に徳を贈る、というのが当たり前で、このようなことが行なわれた形跡が見られるのは日本だけである。

日本では、実際には徳がなくても、というよりも、不幸な死に方をした人には「徳」を贈るということが定型化しているのだから、これは怨霊信仰に伴う鎮魂の一つの形態であると言えるだろう。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ある船長からの手紙――安倍晋... | トップ | 自衛隊明記の意義を説け――産... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事