電脳筆写『 心超臨界 』

現存する良品はすべて創造力の産物である
( ジョン・スチュアート・ミル )

潜在意識が働く 《 人生の偶然——遠藤周作 》

2024-07-16 | 07-宇宙・遺伝子・潜在意識
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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  誰もがアラジンの魔法のランプを持っている。ランプをこすれば、
  強力な召使が現われ、願いを叶えてくれる。それを知る人は成功し、
  知らずに過ごせば平々凡々たる生涯を送ることになる。魔法のラン
  プの正体は潜在意識。仏教の唯識(ゆいしき)では阿頼耶識(あらやし
  き)ともいう。潜在意識が働くのは、あなたが自分の願いをどれだ
  け強く具体的にイメージしているかによる。


私が書きたいのはその時のグレアム・グリーン氏との楽しかった会話ではない。ふしぎなこの偶然についてである。私が彼の小説の背景を歩きまわった日々の最後に、小説の作者と同じエレベーターに乗り、彼と酒を飲んだ偶然の結末である。しかし、この結末を偶然と断定していいのか。何か別のひそかな論理がそこに働いたのか。私は人生で同じような、ふしぎな偶然にたびたび出会っているので、その解明をしてみたいのである。


◆人生の偶然

『万華鏡』
( 遠藤周作、朝日新聞社 (1996/03)、p178 )

ふしぎなことは、私の好奇心をそそる。他の人から見れば偶然と片づけられることも、私はなぜか、と首をひねる。

次の話は既にある文芸雑誌に書いたことだが、多くの読者を持つ「万華鏡」で語ってみたい。

どこかに私は旅をする時、その土地を描写した本を持っていく。たとえばこの春、ほんの三、四日、花見がてら京の嵯峨野で泊まったが、その時、鞄(かばん)に放りこんだのは六如という江戸時代の坊さまで漢詩人の詩集だった。彼が嵯峨に庵室(あんしつ)をかまえ、二つの風景を詩にしたと人から教えられたからである。

四、五年前に野暮用でロンドンに出かけたことがある。その時も愛読している小説の中からグレアム・グリーンの『情事の終り』を持参した。いうまでもなくこの作家は、映画『第三の男』の原作者として、日本でも名の知られている世界的大作家である。

お読みになった方は御存知だろうが、この作品は戦争中のロンドンを背景にした一人の小説家と人妻との悲劇的な恋愛の話で彼の作品群のなかではあまり評判の良くなかったものだが、私個人は小説技術的には非常に熟達したものだと考えている。

だから私は毎夜、頁(ページ)をめくりながらロンドンの地図を拡(ひろ)げ、彼や彼女が歩いた大通りや、二人の情事を行ったホテルのある場所、恋人への思いをたち切ろうとする人妻がたち寄った教会など――小説に出てくる場所に赤い丸をつけた。

そして翌日、そこを訪れては、

(ははあ、ここは、こういううまい描き方をしている)

とか、

(俺なら、もっと別の設定をするがなあ)

と、生意気にも、この大作家と競いあう気持ちになったり、その描写の巧みさに舌をまいたりしたのだった。

そうやって、数日の滞在中、その細部まで暗記するほど『情事の終り』をくりかえし読み、ミーハーのような気持ちでその舞台を丹念に歩きまわった。

明日、ロンドンを引きあげようか、と考えた日の夕暮れ、私は盛り場のピカデリー・サーカスから自分のホテルまで歩いて戻ってきた。ピカデリー・サーカスに出かけたのも、そこの一角で主人公の小説家が公衆電話を使う場面があったので、その電話の存在を確認しておきたかったからだ。(断わっておくが、こんな馬鹿馬鹿しい行動は私の小説技術の勉強には役だたない。生まれつきの好奇心からにすぎぬ)

ホテルに入って、すぐエレベーターに飛びこんだ。エレベーターのなかに一人の老紳士がいて、親切にも「何階ですか」とたずねてくれた。そして私の代わりにボタンを押してくれた。礼を言って自分の階でおり、部屋に入った途端、落雷にうたれたようにアッと思った。

今の紳士の顔、見おぼえがある。あれは写真で見たグレアム・グリーンの顔だ。

受話器に飛びつくようにフロントに電話をかけた。フロントの人は、

「たしかにお泊りになっておられますが……御部屋番号をお教えできません」

では……私の名をグリーン氏にお伝えください」

私がそんな勇敢なことを口に出せたのはそれより四年前のある日、私は突然思いもかけず、グレアム・グリーンからきた手紙を毎日の郵便物の中に発見したからだ。彼は偶然、英訳になった私の小説を読み、その感想をわざわざ書き送ってくれたのである。

五、六分たって予期したように部屋の電話のベルがなった。グリーン氏の少ししゃがれた声で、今からホテルの酒場で飲もうという誘いだった。

私が書きたいのはその時のグリーン氏との楽しかった会話ではない。ふしぎなこの偶然についてである。私が彼の小説の背景を歩きまわった日々の最後に、小説の作者と同じエレベーターに乗り、彼と酒を飲んだ偶然の結末である。

しかし、この結末を偶然と断定していいのか。何か別のひそかな論理がそこに働いたのか。私は人生で同じような、ふしぎな偶然にたびたび出会っているので、その解明をしてみたいのである。
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