電脳筆写『 心超臨界 』

現存する良品はすべて創造力の産物である
( ジョン・スチュアート・ミル )

セレンディビティの予感 《 人間の体は数カ月で置き換わる――ルドルフ・シェーンハイマー 》

2024-07-14 | 07-宇宙・遺伝子・潜在意識
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


たんぱく質でできている器官は日々、分子レベルに分解され、そこに食事で摂取したたんぱく質の分子が素早く置き換わる。ネズミでは3日で、身体のたんぱく質のほぼ半分が置き換わっている。「人間の体も数カ月たてば、脳も心臓も分子のレベルで新たに置き換わるのです」。実験を基に福岡さんは言う。


◆人間の体は数カ月で置き換わる

「妙なお話――生命観を変えた男」特別編集委員・足立則夫
( 2006.08.26 日経新聞 NIKKEIプラス1 )

毎日食事するのは、主に身体各部の筋肉にエネルギーを送り、活動を続けるため。ガソリンが車のエンジンを動かすのと同じような役割が食事にある。私たちはそう考えがちだ。

米国の分子生物学者、ルドルフ・シェーンハイマーは1937年、食事には他にも大切な役割があることを突き止めた。

分子生物学者で『もう牛を食べても安心か』の著者である青山学院大教授、福岡伸一さん(46)。シェーンハイマーがネズミの実験で明らかにした、食べたたんぱく質の行方について話す。

摂取したたんぱく質は消化管に送り込まれ20種のアミノ酸に。消化管から吸収されたアミノ酸は分子レベルに分解される。これが腸壁や腎臓、脾臓(ひぞう)、肝臓などの臓器や、血液中のたんぱく質である血清に姿を変える。

つまり、たんぱく質でできている器官は日々、分子レベルに分解され、そこに食事で摂取したたんぱく質の分子が素早く置き換わる。ネズミでは3日で、身体のたんぱく質のほぼ半分が置き換わっている。

「人間の体も数カ月たてば、脳も心臓も分子のレベルで新たに置き換わるのです」。実験を基に福岡さんは言う。

ジグソーパズルのように身体各部が分子レベルで動的な変化をする。全く新しい生命観を提起したこの学者は、41年謎の自殺を遂げる。享年43だった。

ユダヤ人だったシェーンハイマーは、発生学の研究をしていた妻と、ドイツから米国に亡命。妻は、彼が自殺したときには別居中で。その翌年、同じ亡命ユダヤ人学者と結婚している。ノーベル賞確実と言われたのに、自殺のため棒に振ってしまった。BSE(牛海面状脳症)などの解明に彼の研究は大いに貢献している。なのに彼の名前や研究成果が知られていないのは、あまり早くに自らの生命を絶ったためなのだろう。


◆自分とは何とも不思議なもの

『森政弘の仏教入門』
( 森政弘、三笠書房 (1985/07)、p58 )

ある晩のこと、ぼくは友人に誘われて、すきやきナベをつつきにいった。

友人が自慢して誘ってくれただけあって、じつにおいしい味である。夢中になってパクついていて、ふと、ぼくは奇妙な考えにとりつかれてしまったのである。

「これまで、ぼくとまったくかかわりあいのなかった一頭の牛の肉が、いま、こうして、ぼくの口からおなかに入って、いつのまにか、ぼく自身になってしまう……」

「おい、どうしたんだ。食べないのか?」

ぼくが、ナベの肉をハシでつまんだまま、ぼんやりしているのを見て、友人が声をかけた。

「ねえ、君。このすきやきの肉は、どの瞬間からぼくになっていくのだろうか。口に放り込んだときは、まだ、ぼくではない。ぼくのものにはなるが、ぼくではない。食道を通っていくとき、胃袋に納まったときは、この肉はぼくになったのだろうか、それとも、まだ体にとり入れられたというだけの別個の存在なのだろうか?」

そのぼくに、友人は明快な断を下してくれた。

「そんなの簡単じゃないか。この肉が胃袋でこなれて吸収され、ぼくらの血となり、肉となったとき、ぼくら自身になるんじゃないか」

「なるほど」と、ぼくも一応、うなずいた。

「けれどもね、じゃ、空気はどうだろう。ぼくの体のまわりにある空気は、ぼくのものじゃない。けれども、息を吸って、ぼくの肺に入ってきたときは、ぼくなのだろうか、どうだろう?」

「うーん」

こんどは、友人も首をかしげてしまった。

ぼくの思案は、どんどん広がっていった。

……この野菜は、どの瞬間から自分になるのだろうか? このしらたきは、どの時点から自分になるのだろうか? このコップの水は、いつから自分のものになるのだろうか?

それをハッキリさせようとすると、いろんな問題にぶつかってしまうのである。

たとえば、水を飲んで、体内に吸収されたとき、完全に自分の体になったと考えているうちに、その水が水蒸気になってドンドン蒸発していってしまう。その水は、どこからどこまで自分なのだろうか?

(中略)

……こんなことを考え進みながら、そのとき、じつは、ぼくの頭のすみに「諸法無我(しょほうむが)」ということばが浮かんできていた。

「この世界に存在するすべてのものは、互いにつながり合っていて、孤立して存在するものは一つもない」というのが「諸法無我」の考え方で、これがお釈迦さまの教えの根本の一つになっていることは、みなさん、ご承知のとおりである。この考え方「自分というものにとらわれず、自分を無にしなければ、この世界や人間をあるがままに見ることはできない」という「無我」の教えが生まれてくる。

この真理は、考え方としては、だれにも容易に理解できることであろう。自分の目の前にある机や本や万年筆は、それらによって自分が勉強させてもらえるのだ、というふうに“かかわりあい” “つながり”を実感できる。家族のだれかが不幸に見舞われたりすれば、自分も心配でいたたまれなくなって、“血のつながり”を痛感しないではいられない。けれども、アフリカの山中に住んでいる原住民と、日本の東京という大都会の真ん中で、あくせくと暮らしているぼくが“つながっている”ことを、実感として感じとることは、至難なことである。

「無我」について考えてみても、同じではないだろうか。いかに自分を滅して無になろうと努力してみても、見れば、そこに自分の二つの腕がある。足も二本、ちゃんとついている。ほっぺたをなぐられれば痛さで飛び上がる自分が厳然として存在している。この自分の存在は否定できない。

「無我になれなんていわれたって、できるものじゃない」

と、たいていの人が考えてしまうのも、やむを得ないことである。けれども、その確かに存在している自分について、では、どこからどこまでが自分なのか、と考えつめていくと、それが皆目わからなくなってしまうのだから、自分とは、また何とも不思議なものなのだ。


◆鬼に食われた旅人

『ユング心理学と仏教』
( 河合隼雄、岩波書店、p121 )

子どものときに読んで、強く印象に残った仏教説話があります。

ある旅人が一軒家で一夜を明かすことになりました。夜中に一匹の鬼が人間の死骸をかついで来ました。すぐ後ろにもう一匹の鬼が来て、その死骸は自分のものだと争いますが決着がつきません。そこで二匹の鬼は旅人に判断を仰ぎました。旅人が最初の鬼のものだと言うと、後から来た鬼は怒って旅人の手を体から引き抜きました。それを見た先の鬼は死骸の手を抜きとって代わりにつけてくれました。他の鬼はますます怒り、もう一方の腕を引き抜くと、また先に来た鬼が死骸の腕を取ってつけてくれる。こんなことをどんどんやっているうちに、旅人と死骸の体はすっかり入れ代わってしまいました。二匹の鬼はそうなると争うのをやめ、死骸を半分ずつ食べて行ってしまいました。驚いたのは旅人です。自分の体は鬼に食われてしまったのですから、今生きている自分が、いったいほんとうの自分かどうかわからなくて困ってしまいます。

子ども心にもこの話が何とも言えず不気味で、それで何だか滑稽な感じもしました。それで忘れられなくて今もよく覚えているのです。ところで、ここまでは覚えているのですが、この話の結果をどうしても思い出せないのです。そこでわざわざこの本を持っている人を探し出して読んでみまして。それによると結果は次のとおりです。

旅人は困って坊さんに相談しました。坊さんは「あなたの体がなくなったのは、何も今に始まったことではないのです。いったい、人間のこの『われ』というものは、いろいろの要素が集まって仮にこの世に出来上がっただけのもの、愚かな人達はその『われ』に捉えられいろいろ苦しみもしますが、一度この『われ』といものが、ほんとうはどういうものかということがわかって見れば、そういう苦しみは一度になくなってしまうのです」。

今読んでも深遠極まりない教えであり、子どものときに記憶に残らなかったのも当然です。皆さんはこの話についてどう思われますか。皆さんはこの結論に賛成されようがされまいが、ともかく「私」という存在が、実に理解し難く、把握し難い、ということはわかって下さったと思います。以下、「私」とは何かについて考えてみることにします。
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