電脳筆写『 心超臨界 』

リーダーシップとは
ビジョンを現実に転換する能力である
( ウォレン・ベニス )

憲法を改正しないことの危険――渡部昇一教授

2014-12-03 | 04-歴史・文化・社会
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『日本史から見た日本人 昭和編』http://tinyurl.com/mzklt2z
【 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p387 】

3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
   ――なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場は逆転したのか

   (1) 「日本型」議会政治の奇蹟

3-2-1 憲法を改正しないことの危険

新憲法がアメリカ人の草案に基づいていることは、今や公然の秘密である。

日本人の手で自主憲法を作るべきだ、というのも筋論として正しい。しかし、第九条の戦争放棄の条項を変えられてはたまらぬ、というので野党の反対が強く、自民党は衆議院の3分の2を占めるに至らず、今日に至っている。

だが、憲法の成立の事情が事情だから、しばらくすると、多くの問題が出てきた。

たとえば、憲法第一条は、天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」であると規定している。その天皇が神道(しんとう)の祀りをなさることは公知周知の事実である。(この問題については『日本史から見た日本人・古代編』で詳しく展開した)。

天皇の式典、たとえば即位、大喪(たいそう)、大嘗祭(だいじょうさい)などの儀式は、「日本国の象徴、日本国民統合の象徴」(憲法第一条)のなさる儀式であるから、つまりは、国家、国民の儀式となる。だから、国民が儀式として、神道の祭儀に参加するのは第一条から考えて当然に思われる。

それは、イギリス国王や女王の参加するアングリカン教会(英国国教会)の儀式――戴冠(たいかん)式や葬儀――に、ピューリタンでも儀式として参加した場合に、イギリス人が不思議に思わないのと似ている。

ところが、日本の憲法第二十条を左翼的にねじまげて解釈すると、昭和天皇の御大喪の時みたいな揉(も)め方をする。靖国神社参拝もしかりである。

本来ならば、第一条と第二十条(信教の自由)の優先順位とか整合性について、議会で堂々と論議があって、必要ならば憲法改正もすべきであるが、明治憲法の時と同じく、憲法の金甌無欠(きんおうむけつ)(完全無欠)観が支配的で、手直しなどをしようという気運はない。

憲法は、不断に変えてゆくのが常道である。

イギリスは成文憲法を持たぬから、しじゅう手直しをしているに近く、また、現存する世界最古の成文憲法であるアメリカ憲法も、平均すると数年に一度くらいは微調整みたいな改正をやっている。

成文典の生命を保つためには、そのほうが自然であるが、日本はそういうことをやらずに条文を極限まで無理に解釈するほうを選んできた。新憲法は、日本人としては占領軍に与えられたものだったが、幸いなことに、日本の復興と繁栄の基礎になることができた。欠陥憲法と言われながら、今までは大過なく機能してきたと言うべきであろう。

明治憲法は発布後、ちょうど40年で統帥権干犯問題を産み出し、敗戦に至るまで不幸なコースを日本にとらせる原因となった。

新憲法も、公布後約40年で御大喪の儀式の混乱を産んだが、これがどのような展開になるかは、まったく今後の問題である。

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