電脳筆写『 心超臨界 』

他者の働きによるのではなく
自ら他者に尽くすことにより成功をつかめ
( H・ジャクソン・ブラウン Jr. )

快感さえ覚える道元の文章――伊藤肇さん

2018-08-29 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写の記事の中から、これはと思うものを メルマガ『心超臨界』にて
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★日本、慰安婦指摘に反論/国連委・委員からは謝罪要求
【 産経新聞(1面) H30.08.17 】https://tinyurl.com/y9beazhs

★歴史の見方にも多様性を――阿比留瑠比・論説委員兼政治部編集委員
【「阿比留瑠比の極言御免」産経新聞 H30.08.17 】https://tinyurl.com/y7prhmva

★中国スパイ 慰安婦問題糾弾の先鋒――小森義久・ワシントン駐在客員特派員
【「正論」産経新聞 H30.08.14 】https://tinyurl.com/yb4mms2z
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『人間的魅力の研究』https://tinyurl.com/yaarjbjn
【 伊藤肇、日本経済新聞社 (2000/11/7)、p99 】

2 磊落豪雄の魅力

  徳を積む者に不可欠「恥じる思い」
    善行を人に知らせたい執着をまず超越

2-7 快感さえ覚える道元の文章

日蓮の文章が甲(かん)のたった朗々たる男性の文章であるとすると、道元のそれは低音の重くて朗々たる、これまた男性の文章である。どすんどすんと腹の底に響きわたってくる。

道元の文章は、すべてが「なり」「すべきなり」「すべからず」「しかあらず」という断定語、命令語、禁止語で終わっていて、声を出して読むと生理的快感を覚え、一言一句が心魂に徹する。

たとえば、こんな個所である。

「世間の人多くいう。『それがし師の言を聞けども、わが心に叶わず』と。この言は非なり。知らず、その心いかん。もしは聖教(しょうぎょう)の道理のわが心に違背して非なりと思うか。これは一向の凡愚なり。また師のいえる言がわが心に叶わざるか。もし、しからば、なんぞはじめより師に問うや。また日頃の情見をもていうか。もし、しからば、これは無始(むし)よりこのかたの妄念なり。学道の用心というは、わが心に違えども、師の言、聖教の言理(ごんり)ならば、全くそれに随って、もとの我見をすてて、あらためゆくべし、この心が学道第一の故実なり。

一分の曖昧さもない、厳しく明快な断言である。世間の人はよくいう。「どうも先生のいわれることは、わたしの気持にぴったりこない」と。

これに対し、道元は「その言、非なり」とぴしゃりと裁断する。「弟子のいい分にも多少の道理がある」などとは絶対にいわない。「その言葉は間違いである」とバッサリと切り捨てている。

理由は、師は経典に説かれている道理をきちんと踏んだうえで教えを説いているのだから、師のいわれることがピンとこないのは、聖教の道理そのものが、自分の心に違背しているということになるからだ。

もし、そうだとすると「これは一向の凡愚なり。」どうしようもない大バカ者だ。何しろ、自分の考えが正しくて、経典に書かれて何百年、何千年と大勢の人たちの心を支えてきた道理が自分にピンとこないから、あちらが間違っていると思うのは、手のつけようもない大バカ者だ。それに、「師のいう言葉が、どうしてもわが心に叶わぬ」というなら、なぜ師に質問などをするか。

これは随分と手厳しいいい方である。はじめから、相手のいうことを聞く気がないなら、なぜ、師に問うたりなどするのだ。何かいいことをいうかもしれないから聞いてやろう、という気で師を選ぶなら、これはもう仏法ではない。自分で自分の師ときめたら、その師のいうことはすべて真実だと想え、というのが仏法のいきかたである。
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