電脳筆写『 心超臨界 』

偶然は用意の出来ている人間しか助けない
( ルイ・パスツール )

非まじめな画集・『画家の手もとに迫る原寸美術館』――結城昌子

2024-07-07 | 04-歴史・文化・社会
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森政弘博士は、『「非まじめ」のすすめ』 のなかで非まじめを次のように定義する。

●われわれは今、窓ガラスにぶち当たって遮二無二もがいている
ハエのようなものではなかろうか、不まじめなハエはガラス窓を
見ようともしない。まじめなハエは頑張りさえすればガラスが
通過できるとしか思っていない。

●では非まじめなハエならどうするか。――透明なガラスと空気
とちがいを見極め、押してだめなら引いてみなの態度で一歩退く、
そうすれば本当にあいているガラス窓のすき間が発見でき、そこ
から外へでられるのである。

この非まじめの定義を借りて絵画を鑑賞する人について考えてみたい。非まじめの定義でいえば、絵画を鑑賞しようともしない者は「不まじめ」、複製でオリジナルとまったく同じ仕上がりを求めようとする者は「まじめ」、そして複製ではあるけれど、ならば複製の特徴を生かした画集を作ってしまおうというのが「非まじめ」となる。


◆非まじめな画集・『画家の手もとに迫る原寸美術館』――結城昌子さん

「袖のボタン――画集の快楽」 丸谷才一
( 2006.04.04 朝日新聞 )

仏像はついこのあいだまで芸術ではなく、宗教に属していた。あるいは呪術に。そのことを極端な形で示すのは、1884(明治17)年、フェノロサが無理やり開けさせるまで、法隆寺の救世(ぐせ)観音は布でぐるぐる巻きにされていて、僧たちも見たことのない、まったくの秘仏だったという事態である。その夢殿の観音を含む奈良の仏たちは、和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919=大正8年)以降、はっきりと芸術品になった。この移り変りでよくわかるように、芸術という概念はごく新しい。たとえば室町のころ金屏風(きんびょうぶ)は葬式のときの調度で、よその邸から借りて来た。現在、四国の金毘羅宮の若冲(じゃくちゅう)その他の絵が一般に公開されていないのは、秘仏あつかいの名残りと見立てることができよう。

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こういう歴史的な見晴らしを頭に入れると、複製芸術についてのベンヤミンの考え方がわかりやすくなる。彼に言わせると、古代においては芸術品はまず魔法の儀式、次に宗教的儀式に使われるもので、礼拝のための道具であった。ルネサンスにはいると非宗教的な形で美があがめられ、展示的価値が強調される。19世紀末には芸術のための芸術という一種の神学、あるいは裏返しの神学が生れる。しかしこの場合、礼拝的価値は残っていて、この古い要素が展示的価値にまつわりつく

印刷や写真や録音という、技術と商業主義との結合によって複製技術が生まれると、それにはこの礼拝性が脱落した。オリジナルという「ほんもの」は「今」「ここ」にしかないという一回性のせいでアウラを持つ。複製芸術にはそれがない。アウラとは、微妙で独特な雰囲気、発散する魅力、輝かしさ。CDで聴くカラヤン指揮のベートーヴェンの交響曲や、画集で見るセザンヌ『サン・ヴィクトワール山』の何か不思議に物足りない感じを独創的な手つきで分析して、これは批評の名人芸だと言えよう。第一、話の柄が大きくていい。

ところで最近、結城昌子さんの『画家の手もとに迫る原寸美術館』(小学館)という新趣向の画集が、朝日新聞書評欄の再三にわたる推薦のせいもあってよく売れている。わたしは偶然の機会から手に取って、いろいろとおもしろがった。数日ページを繰って飽きなかった。これは音楽の複製技術が、ハイファイとかステレオとか工夫を凝らしたと同じように、何とかして画集の欠点を補おうとしたものである。広大な原画をせいぜい30センチX40センチくらいの(普通はもっとずっと小さい)書物に収めるため、当然、大きさの感覚が伝わらない、それを、部分だけでも原寸で差出して鑑賞させようという狙いだった。

部分を原寸で見せることは、個々の作品ではこれまでもなされているが、33点の代表的名画でおこなおうというのは初めてではないか。これによって受容者と画家との関係が改められた。たとえばミケランジェロの、システィーナ礼拝堂の天井絵など、近寄って見ることがぜったいできないわけだから、なにか安全地帯にあっての秘境探検みたいな気持ちにさえなって、興趣が尽きない。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』では、カメラ・オブスクラ(小穴にレンズの代りをさせて暗箱の片側に倒立した像を映し出し、それをカンヴァスに写し取る)を利用したことさえよくわかる。

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そんなふうに楽しんだ上で言い添えるのだが、しかしこれはやはり本式の絵の見方ではない。大きな絵の前に適当な距離を置いて立ち、絵の世界に包まれて生きる感じは味わえない。ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』と『春』は、わたしが長い時間かけてオリジナルを見たと言うことができる2点だが、そのときの総合的な幸福感や陶酔は、原寸のヴィーナスの顔や首や髪の1ページによっても、ヴィーナスの両足とサンダルと足もとに咲き乱れる花々の見開き2ページによっても与えられない。それぞれ比類なく美しいディテイルなのだが、大きな画面の前に立つわたしには、細部に見入っているときにも画面の他の要素がおのずと視野にはいっていて、微妙で豊かであでやかな効果をあげているのだ。人間の眼とカメラのレンズとは違うと言えばそれまでだけれど。

ただそれとは別に、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』の中央下部、花を二輪いけたグラスや果物を盛ったガラス器の描き方の、速度のある美しい筆触にはほれぼれした。これは印象派の画家たちが東洋美術から取り入れた技法で、同じことはモネ『睡蓮(すいれん)、緑の反映』の粗くて速い絵筆の運び方にも見える。わたしはそれらのページに夢中になって、全体から切り離したいわば残欠の美だからこそこんなに感銘を受けるのかもしれぬ、オリジナルと向かい合ったときは味わえない興奮かもしれない、世にはこんな形のアウラもある、などと思った。
(作家)
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