電脳筆写『 心超臨界 』

神はどこにでも存在するというわけにはいかない
そこで母をつくられた
( ユダヤのことわざ )

日本史 鎌倉編 《 「聖戦思想」ゆえ降伏しない正成軍――渡部昇一 》

2024-07-30 | 04-歴史・文化・社会
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楠木正成の奮戦は、その戦術がゲリラ的であるという点のみでなく、戦争理念においても近代的であった。「一所懸命」でないのである。彼は、明らかに自分の領土拡張のために戦っているのでもなければ、勝ち目があるから戦っているのでもない。それは戦うべき戦争であるから戦っているといった姿勢である。つまり聖戦思想なのである。これは宋学的というよりほか言いようがない。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p95 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(1) 私情に基づく「皇統」の分裂

◆「聖戦思想」ゆえ降伏しない正成(まさしげ)軍

楠木正成は宋学を学び、玄恵(げんえ)法師とも関係があったという説もあるが、実際にはわからない。ただ、楠公(なんこう)が写したという論語が存在していたらしいことから、少なくとも儒教に通じていたことはわかる。その儒教は、おそらく朱子学であったと推察するのは、当時の状況からいって無理ではないであろう。

また南朝側に立つ『太平記』や、北朝側に立つ『梅松論(ばいしょうろん)』から見ても、また、楠公の唯一の手書きの文書から見ても、ほとんど私利を考えずに言動していたことは確かであって、これは当時の武士の意識ではない。どうしても、そこに一つのプリンシプル(原理)というものがあった、と考えるのが自然のようである。そしてそのプリンシプルが、後醍醐天皇やその周囲の宋学信者の公卿たちのそれと同質であったことを疑うことは、はなはだむずかしいのである。

元弘(げんこう)元年(1331)、後醍醐天皇の幕府討伐計画が洩れたため、天皇は中宮(ちゅうぐう)とお別れを惜しまれる暇もなく、三種の神器(じんぎ)を奉じて奈良に脱出、そこからさらに笠置(かさぎ)(京都府南端)に逃げられた。まったく成功の見込みのない逃亡であったが、そこに現われたのが楠木正成という河内(かわち)の田舎侍であった。しかし、ここから何人(なんびと)も予想しかった戦闘がはじまったのである。

幕府は「承久の変」のときの例もあって、大仏貞直(おさらぎさだなお)、金沢貞冬(かなざわさだふゆ)、足利高氏(あしかがたかうじ)(のちの尊氏)らの諸将を派遣した。一説には50万の大軍ともいう。笠置は地の利がよく、天皇軍は約20日ばかり天下の大軍を相手にして戦った。だが、結局陥落したので、後醍醐天皇は、高良(たかなが)親王などがすでに出かけている楠木正成の郷里の赤坂(あかさか)の城に向かった。

しかし途中で幕府軍に捕まり、隠岐(おき)に流され、日野資朝(ひのすけとも)らは首を斬られ、新しい天皇が持明院統から即位したが、これが光厳(こうごん)天皇である。

「承久の変」ならこれで終わりである。しかし一つ違ったことがあった。赤坂の城では、楠木正成が依然として頑張っているのである。

笠置が落ちてから、さらに1ヵ月あまり激しい攻防戦が続いていた。そしてついに赤坂(大阪府南河内(みなみかわち)郡)は落城し、鎌倉からの軍隊は一部を残して帰還した。

ところが赤坂落城のとき、戦死したものと思われていた楠木正成は、1年以上も潜伏したあとに、突如、食糧を運び込んでいる人足に混入して幕府の留守部隊が守っている赤坂城を奇襲し、これを占領、それに引き続いて赤坂城を拡大し、支城を造り、さらに背後にはこれと連繋させて、千早(ちはや)城(奈良県御所(ごぜ)市)を造り、徹底抗戦をはじめたのである。

幕府は再び動員令を下したが、楠木勢はかえって摂津(せっつ)に出兵したりしたため、京都は奇襲を恐れて戦々兢々(せんせんきょうきょう)たるありさまであった。しかし何と言っても幕府は大軍である。赤坂城も落ち、大塔宮(だいとうのみや)(後醍醐天皇の第一皇子・護良(もりなが)親王)の立て籠っていた吉野(よしの)も落ちた。

しかし、最後の拠点の千早城だけはゲリラばりの戦闘を続行し、最後まで落ちなかったのである。どうしても「落ちない」ということが天下に知れてくると、つまり、幕府が大和(やまと)の小城一つ落とせないのだ、ということが天下に知れてくると、方々に幕府に反対して兵を挙げる者が現われてくるのである。そうして天下の大勢派は急に一変した。

昭和43年から4年にかけて、私はアメリカの大学で日本史の話をしていた。そして、この楠木正成のことに触れた。幕府の大軍が押しかけても小さいゲリラ軍を潰せなかったために、天下の大勢が変わってしまったことを指摘し、赤坂城の奪回はベトコンのテント大攻勢を思わしめるものがあると言った。そしてアメリカもベトナム戦争を終結するつもりなら、ハノイを絨毯爆撃するか、あるいは即時撤兵するのが賢明であろう、という趣旨のことを述べたのである。

学生たちは複雑な顔をしていたが、これという反応もなかったようである。ただニュージャージーの大学で、もとグリーン・ベレーだったという軍隊あがりの学生が、北ベトナムに原爆を使わなければ駄目だと思う、と言っていたのが印象的であった。

小さな抵抗が最後まで保持されたために、天下の大勢が変わってしまうということは史上ままあることである。1877年の露土(ろと)戦争のとき、イギリス国民は反トルコであった。ところがオスマン・パッシャがプレヴナの要塞で、怒涛のごとく南下するロシヤ軍を5ヵ月も食い止めたのである。このためイギリス世論が引っくり返り、さらにビスマルクが動いてロシヤが退(ひ)いたということがあった。

楠木正成の奮戦は、その戦術がゲリラ的であるという点のみでなく、戦争理念においても近代的であった。「一所懸命」でないのである。彼は、明らかに自分の領土拡張のために戦っているのでもなければ、勝ち目があるから戦っているのでもない。それは戦うべき戦争であるから戦っているといった姿勢である。つまり聖戦思想なのである。これは宋学的というよりほか言いようがない。

後醍醐天皇にしても楠木正成にしても、理想のために戦っていたのであり、鎌倉側では、何のために楠木正成がそんなに頑張るのか、最後までわからなかったのではなかろうか。

さらにわからなくなるのは「建武の中興」で失敗し、理想が裏切られてからも、なぜ楠木正成とその一族が何代にもわたって後醍醐天皇側のために戦い続けたのか、ということである。本当に納得のゆく説明を聞いたことがない。北朝も同じ皇室であり、元(げん)に対する宋(そう)、清(しん)に対する明(みん)とは話が違うからである。
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