電脳筆写『 心超臨界 』

苦労に対する最大の報酬は
その引き換えに手に入れるものではない
苦労したことで形成される人物である
J・ラスキン

従軍慰安婦という嘘 《 虚名に酔った作話師――吉田清治 》

2024-09-21 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


吉田のデビューは、1963(昭和38)年8月23日号の『週刊朝日』が掲載した、「私の8月15日」という読者手記の公募コンテストだった。2195本の応募作から人選・佳作計16本が選ばれたうち、吉田東司の筆名で、ビリとはいえ佳作に名を連ねたのだから、筆と舌は達者な男だった。


◆虚名に酔った作話師

「従軍慰安婦」を捏造した朝日植村隆記者への公開質問状
 ――本郷美則・時事評論家
「WiLL」2012年11月号、ワック出版、p223 )

もともと、「従軍慰安婦」「慰安婦狩り」などという言葉は、戦後の1970年代(昭和45年~)以降に現れた比較的新しい言葉だ。精緻(せいち)な検証は言語学などの権威に委(ゆだ)ねるが、それ以前の国語辞典には載っておらず、戦時中には使われていなかった。

ではどういう経過で、このような新語が作られたか。いずれにしても、これらの「造語」の全てに新聞、とりわけ朝日が深く関わっている。

まず、「元凶(げんきょう)」と呼ぶべき人物は、自らを「告白懺悔(ざんげ)する戦犯」に仕立て虚実(きょじつ)ないまぜに戦時中の非人道的な体験談を語りつつ虚名を追った作話師(さわし)・吉田清治である。

吉田のデビューは、1963(昭和38)年8月23日号の『週刊朝日』が掲載した、「私の8月15日」という読者手記の公募コンテストだった。2195本の応募作から人選・佳作計16本が選ばれたうち、吉田東司の筆名で、ビリとはいえ佳作に名を連ねたのだから、筆と舌は達者な男だった。

手記は、戦中に「労務報国会下関支部動員部長」だったと証する彼が、非道な手口で朝鮮人の男性労務者の調達に携(たずさわ)ったとの体験を披露して懺悔する筋。彼はこの入選を転機に関門・北九州で“名士”扱いされるようになり、講演や著書で「慰安婦狩り」という架空の蛮行を語り出す。

朝日が、早速これに飛びついた。特に、小倉で発行する西部本社版、大阪の大阪本社版には1980年代初めから、吉田の講演や韓国への「告白と土下座の行脚」などの美談がしばしば報じられ、「従軍慰安婦」「慰安婦狩り」の言葉が、吉田の口先から発し、朝日の紙面に乗って、国中に、そして国外へと広まっていった。

虚名にのぼせた吉田は、1977年(昭和52年)に新人物往来社から刊行した『朝鮮人慰安婦と日本人』で、「旧日本軍の兵士が、朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした」という言説を活字にする。

さらに、この話を巨大に膨らませ、1983(昭和58)年7月、三一書房から上梓した『私の戦争犯罪/朝鮮人強制連行』では、西部軍司令部の命によって済州島に出動し、皇軍慰問に仕える朝鮮人、「女子挺身隊員」2百人を調達するため、憲兵の援護の下、9人の部下とともに現地の貝ボタン工場などを襲って、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中に任務を果したという話を書く。

しかし、虚構の上に虚構を重ねる捏造は、自ずと別々の作品の記述の数々の矛盾を生む。これに気付いた現代史学者の秦郁彦氏が、1992(平成4)年3月、自ら済州島を訪ね、克明な調査の結果、吉田の告白録は、全くの作り話であることを突きとめた。

しかも吉田の『私の戦争犯罪』は、すでに1983年には韓国側に翻訳されていた。その後、これを読んで疑念を抱いた『済州新聞』の女性記者・許栄善(ホヨンソン)が、地元の郷土史家・金奉玉(キムポンオク)らの事情通に取材した結果、吉田告白録は裏付けの全くない、まさに根も葉もない虚言集であるとして、1989年8月14日の同紙に告発書評を書いていた事実も知った。

秦氏が掴んだこの驚愕的事実が、1992(平成4)年4月30日の『産経新聞』に、日本で初めて報じられる。さしもの朝日も、以後は吉田関係の記事を掲載しなくなった。しかし、すでに大罪は膨(ふく)れ過ぎていた。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 南京大虐殺という嘘 《 戦犯... | トップ | 不都合な真実 歴史編 《 南北... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事