電脳筆写『 心超臨界 』

他者の働きによるのではなく
自ら他者に尽くすことにより成功をつかめ
( H・ジャクソン・ブラウン Jr. )

フランス革命の悲惨な轍(わだち)を踏まぬようにと、皇帝の退位を奏請させた――袁世凱

2012-03-11 | 04-歴史・文化・社会
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誰が「南京大虐殺」を捏造したか[3]
古荘光一・フリージャーナリスト
【「WiLL」2012年4月号
http://tinyurl.com/74bcyp6、ワック出版、p276 】

  ◆清朝の末期症状
  ◆反乱軍、敵将を頭に戴く
  ◆北京の中華民国

◆北京の中華民国

武漢の反乱を平定するため、清朝が派遣した軍隊は役に立たなかった。そこで、いったん罷免した袁世凱に出馬を求めた。

袁世凱は自分が皇帝になる野心を秘めていた。朝廷の要求をうけて、かねて養ってきた私兵の「北洋軍」を動員し、最高幹部の馮国璋(ひょうこくしょう)に第一軍をまかせて漢口を、ついで段祺瑞(だんきずい)に第二軍を託して漢陽を改めさせ、武漢を平定した。

しかし、袁世凱はとことん改めることを手控えた。反乱軍の力が不足していると見て、懐柔で取り込み、利用する腹だった。

袁世凱と反乱軍を取り持ったのは汪精衛(おうせいえい)だったようだ。のちに孫文の病死に立ち会い、革命継続をまかされたと主張する人物だ。袁世凱の長男の袁克定(えんこくてい)と義兄弟の契りを結んでいたといわれる。

秘密の交渉で孫文らは清朝廃止を要求し、実現すれば臨時総統の地位を譲るとの条件を出した。

袁世凱は腹のなかで舌を出していたにちがいない。大掛かりな芝居に打って出る。部下たちに立憲君主制の採用などを奏上させ、さらに駐露公使の陸徴祥(りくちょうしょう)に命じて、フランス革命の悲惨な轍(わだち)を踏まぬようにと、皇帝の退位を奏請させた。

袁世凱は、陸徴祥の奏請を受けるなりすぐ宮中に入り、載澧とライバル関係にあった隆裕
(りゅうゆう)皇太后と謁見し、宣統帝が引き続き紫禁城に住むことを認めるなどの優待条件を示して退位を薦めた。

この後、皇太后と袁世凱はこもごも泣きながら、陸徴祥の電報を宣統帝(溥儀)に奏上した。

翌日、隆祐皇太后は、皇帝の退位と共和国樹立を宣言する詔勅を発表した。清朝が認めた「中華民国」は、袁世凱が臨時大総統を名乗った。

こうして、南京の「中華民国」に次いで北京にも「中華民国」が出現した。

北京と南京の二つの「中華民国」はいずれ対立する宿命にあったが、、この時は一本化することになった。

孫文は臨時大総統の地位を袁世凱に譲るとともに南京で発足していた参議院を率いて北京に移り、希望して鉄道大臣(全国鉄路督弁)に任命された。

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