電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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『書経』には『上帝、常ならず。善をなせばこれに百祥を降す。不善をなせばこれに百殃(多くの禍)を降す』とある。もし生まれた時に一定した天命があって、一生涯絶対不変であるというのならば、たとえ善をなしたとてどうしてこれに福を降すことができるか。悪をしたとてどうしてこれに禍を降せようか。『詩経』にも『天命常なし』といっている。常なしとは禍福とも人の善悪次第で動くもので、決して膠(にかわ)づけのような決まりきった命があるのではないということです。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p100 )
[2] 人生心得
2 運命
◆命は我より作(な)すもの――袁了凡の悟り
命は天命であるととともに、その意味では「我より作(な)す」ものであります。自分から造るものでもあります。宇宙は時々刻々の新しい造化、創造、変化でもありますから、我々も常にいわゆる「義理再生の身」となっていかねばなりません。
このことを説かない教えはないのですが、世の中に昔から最もよく知られております一例は、明の袁了凡がその子に教えた物語『了凡四訓』とか『陰隲録(いんしつろく)』と申すものがあります。
この人の名は「黄」、了凡はその号、あるいは「学海」とも号しました。明末の人でありまして、我が国で申しますと足利末期から徳川の初期まで在世しておった人であります。面白い因縁は、秀吉が朝鮮に出兵いたしました時に、これに対抗いたしました明の李如松(りじょしょう)に先んじて、朝鮮にも参っておったこともある博学多才の人であります。
彼は少年の時、父に亡くなられて、母の手一つに育ちました。その母から、身体は大切にして、人助けのできるような医者になることを命じられました。当時の彼の国の習わしでありました高等官の試験、即ち科挙の受験をあきらめておったのであります。
ところがある時、一人の老人に出会いました。髯の長い、丈の高い、気品のある立派な人物でありまして、それにいろいろのことを占ってもらいましたところが、百発百中、何一つ違うことがありません。
爾来、彼はすっかり感心してしまいまして、人間には一定の運命というものがあって、立身出世も何もかも、もうちゃんと決まっておる。人間の一生、即ち「命数」と申しますが、それはいくら煩悩を起こしてジタバタしてみてもしかたがない。こういうふうに堅く信ずるようになりました。そこで妙なもので、心がすっかり落ち着いてしまいまして、齷齪(あくせく)することがなくなって、一種悟ったような気持ちになったのであります。
ある時、南京の近所の棲霞山にありますお寺に、名高い雲谷禅師を訪れました。そして3日にわたって禅師の話を聞いたのでありますが、雲谷禅師は不思議に思いまして、一体人間は邪念があるためにどうも不出来なものがありがちであるが、君に会っておると、実に人物がよくできておる。どういう修養をしてそこまで解脱(げだつ)されたか、と申しましたので、彼は、実はある易に達した老翁に一生のことを占ってもらって、人の吉凶禍福、栄辱、死生、存亡皆生まれながらに定められた運命があるということを体験いたしまして、そこで妄想も何も胸中に浮かばぬようになったのでありますと答えました。
すると雲谷禅師は大笑いいたしまして、「私はあなたを大変立派な修養した人物と感心しておったのに、なんだ、それじゃただの平々凡々の男でしかないじゃないか」と、こう言うので驚いて、「それはどういうわけですか」と聞きますと、雲谷禅師は、「一体人間は無心であるということができないものだ。この世のいろいろの事物に心を捉えられて、そのもののために自分というものを全く支配せられる。即ち運命というものに捉われるものである。無心であればそこに神の慧智が発し、ものの道理、因果の関係、命数というものが明らかに観ぜられ、自分が自分の運命の主になってそれを使いこなしていけるのである。禅家でいう隋処に主となるというものである。もちろんそういう立派な人々も、因果の法則の中にはあるのではあるが、命数というものの中にあるのではあるが、彼らはその法則を知って、即ち運命を知って、おのずからこれを支配して行く。しかし、凡人は物欲に眼がくらんで、因果の法則が分からずに、おのずからそれに支配されてしまう。そこが大事な相違点である。だから平凡人は生まれつきの運命のままであり、即ち唯物的であり、聖人とか達人とかいわれる人々は、それを自分で自由に変化造成することができる。あなたは年来その老人に占われたままで、少しも自分を大成させることができなかった。全くの凡人ではないか」。
こう言われて、大いに驚きまして、「それならば運命は自由にすることができるのですか」と反問いたしました。
雲谷禅師はこれに答えまして、「『命は我より作(な)す。福は己より求む』とは、あなたが勉強した『詩経』や『書経』というような書物に述べてある。『書経』には『上帝、常ならず。善をなせばこれに百祥を降す。不善をなせばこれに百殃(多くの禍)を降す』とある。もし生まれた時に一定した天命があって、一生涯絶対不変であるというのならば、たとえ善をなしたとてどうしてこれに福を降すことができるか。悪をしたとてどうしてこれに禍を降せようか。『詩経』にも『天命常なし』といっている。常なしとは禍福とも人の善悪次第で動くもので、決して膠(にかわ)づけのような決まりきった命があるのではないということです。仏教の経典の中にも『功名を求めようとすれば功名を得ることができる。富貴になろうと求めれば富貴を得る』と説かれておる。妄語(虚言)することは仏者の大戎とするところであり、慈悲深い諸仏諸菩薩がどうして人を欺くなどしましょうか。お前はこれらの言説を何と思いますか」。
諄々と説かれて、彼は今まで知らなかった心に一つの光がさしたのであります。
『孟子』にも「求むればこれを得。我に在るものを求むればなり」とあります。これは仁義道徳のような精神的なものは、自分の心の中に備わっておるものであるから、努めて求めさえすれば得られるが、功名富貴のような物的なものは我が身の外にあるもので、いわば天に属するもので、いかに求めたとて、天運がなければ得られるものでない。
「それではこの孟子の言は誤りでありましょうか」。このことを彼が尋ねますと、雲谷禅師は「孟子の言そのものは誤りではない。ただあなたが自分で誤り解しておるまでのことである。今あなたのために一切の吉凶禍福皆我が心から求め得られるということを、この孟子の語で説き明かしましょう。他人に恨みを抱くものが丑の刻詣りをする。人形(ひとがた)を作って釘を打ち込んで人を呪うということが昔からある。あれは一身の環境によって、あるいは人の目をつぶし、あるいは人の手足を悩まし、命(いのち)を取り殺すのである。さすれば目をつぶす釘も、手足を悩ます金槌も、命を取る刀も、ちょっと考えると外から持ってきたように思えるが、みな怨み・瞋(いか)りの心の中から取り出したものである。我にあるものとはただ仁義道徳のみではない。功名富貴一切の福分も皆我が心中にあるもので、心がなかったならば何ものもあり得ようがないのである。心に従って求めれば応じて何ものでも得られるのである。故に孟子も『万物我に備わる』と明示してあるではないか。それをもし我の心内、心の中に求めないで、あるいは他におもねり、あるいは人を欺くなど、種々の謀計を巡らして求めようとしても、天命の理がなければ成就せぬものである。たとえ一時天を欺いても、『人盛んにして天に勝つが、天定まって人に勝つ』という諺がある通り、遂にはこれを失って、それが却って大害になるものである。故に孟子もその次に『これを求むるに道あり。これを得るに命あり』と説いておる所以(ゆえん)である。我が禅家の大祖慧能大師も、『一切の福田―幸福の田地は、方寸、このわずかな胸のうち、この方寸を離れず』と説いておられる」。
こういうことを諄々と誨(おし)えてくれました。彼はこれに初めて活眼を開いたのであります。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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『書経』には『上帝、常ならず。善をなせばこれに百祥を降す。不善をなせばこれに百殃(多くの禍)を降す』とある。もし生まれた時に一定した天命があって、一生涯絶対不変であるというのならば、たとえ善をなしたとてどうしてこれに福を降すことができるか。悪をしたとてどうしてこれに禍を降せようか。『詩経』にも『天命常なし』といっている。常なしとは禍福とも人の善悪次第で動くもので、決して膠(にかわ)づけのような決まりきった命があるのではないということです。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p100 )
[2] 人生心得
2 運命
◆命は我より作(な)すもの――袁了凡の悟り
命は天命であるととともに、その意味では「我より作(な)す」ものであります。自分から造るものでもあります。宇宙は時々刻々の新しい造化、創造、変化でもありますから、我々も常にいわゆる「義理再生の身」となっていかねばなりません。
このことを説かない教えはないのですが、世の中に昔から最もよく知られております一例は、明の袁了凡がその子に教えた物語『了凡四訓』とか『陰隲録(いんしつろく)』と申すものがあります。
この人の名は「黄」、了凡はその号、あるいは「学海」とも号しました。明末の人でありまして、我が国で申しますと足利末期から徳川の初期まで在世しておった人であります。面白い因縁は、秀吉が朝鮮に出兵いたしました時に、これに対抗いたしました明の李如松(りじょしょう)に先んじて、朝鮮にも参っておったこともある博学多才の人であります。
彼は少年の時、父に亡くなられて、母の手一つに育ちました。その母から、身体は大切にして、人助けのできるような医者になることを命じられました。当時の彼の国の習わしでありました高等官の試験、即ち科挙の受験をあきらめておったのであります。
ところがある時、一人の老人に出会いました。髯の長い、丈の高い、気品のある立派な人物でありまして、それにいろいろのことを占ってもらいましたところが、百発百中、何一つ違うことがありません。
爾来、彼はすっかり感心してしまいまして、人間には一定の運命というものがあって、立身出世も何もかも、もうちゃんと決まっておる。人間の一生、即ち「命数」と申しますが、それはいくら煩悩を起こしてジタバタしてみてもしかたがない。こういうふうに堅く信ずるようになりました。そこで妙なもので、心がすっかり落ち着いてしまいまして、齷齪(あくせく)することがなくなって、一種悟ったような気持ちになったのであります。
ある時、南京の近所の棲霞山にありますお寺に、名高い雲谷禅師を訪れました。そして3日にわたって禅師の話を聞いたのでありますが、雲谷禅師は不思議に思いまして、一体人間は邪念があるためにどうも不出来なものがありがちであるが、君に会っておると、実に人物がよくできておる。どういう修養をしてそこまで解脱(げだつ)されたか、と申しましたので、彼は、実はある易に達した老翁に一生のことを占ってもらって、人の吉凶禍福、栄辱、死生、存亡皆生まれながらに定められた運命があるということを体験いたしまして、そこで妄想も何も胸中に浮かばぬようになったのでありますと答えました。
すると雲谷禅師は大笑いいたしまして、「私はあなたを大変立派な修養した人物と感心しておったのに、なんだ、それじゃただの平々凡々の男でしかないじゃないか」と、こう言うので驚いて、「それはどういうわけですか」と聞きますと、雲谷禅師は、「一体人間は無心であるということができないものだ。この世のいろいろの事物に心を捉えられて、そのもののために自分というものを全く支配せられる。即ち運命というものに捉われるものである。無心であればそこに神の慧智が発し、ものの道理、因果の関係、命数というものが明らかに観ぜられ、自分が自分の運命の主になってそれを使いこなしていけるのである。禅家でいう隋処に主となるというものである。もちろんそういう立派な人々も、因果の法則の中にはあるのではあるが、命数というものの中にあるのではあるが、彼らはその法則を知って、即ち運命を知って、おのずからこれを支配して行く。しかし、凡人は物欲に眼がくらんで、因果の法則が分からずに、おのずからそれに支配されてしまう。そこが大事な相違点である。だから平凡人は生まれつきの運命のままであり、即ち唯物的であり、聖人とか達人とかいわれる人々は、それを自分で自由に変化造成することができる。あなたは年来その老人に占われたままで、少しも自分を大成させることができなかった。全くの凡人ではないか」。
こう言われて、大いに驚きまして、「それならば運命は自由にすることができるのですか」と反問いたしました。
雲谷禅師はこれに答えまして、「『命は我より作(な)す。福は己より求む』とは、あなたが勉強した『詩経』や『書経』というような書物に述べてある。『書経』には『上帝、常ならず。善をなせばこれに百祥を降す。不善をなせばこれに百殃(多くの禍)を降す』とある。もし生まれた時に一定した天命があって、一生涯絶対不変であるというのならば、たとえ善をなしたとてどうしてこれに福を降すことができるか。悪をしたとてどうしてこれに禍を降せようか。『詩経』にも『天命常なし』といっている。常なしとは禍福とも人の善悪次第で動くもので、決して膠(にかわ)づけのような決まりきった命があるのではないということです。仏教の経典の中にも『功名を求めようとすれば功名を得ることができる。富貴になろうと求めれば富貴を得る』と説かれておる。妄語(虚言)することは仏者の大戎とするところであり、慈悲深い諸仏諸菩薩がどうして人を欺くなどしましょうか。お前はこれらの言説を何と思いますか」。
諄々と説かれて、彼は今まで知らなかった心に一つの光がさしたのであります。
『孟子』にも「求むればこれを得。我に在るものを求むればなり」とあります。これは仁義道徳のような精神的なものは、自分の心の中に備わっておるものであるから、努めて求めさえすれば得られるが、功名富貴のような物的なものは我が身の外にあるもので、いわば天に属するもので、いかに求めたとて、天運がなければ得られるものでない。
「それではこの孟子の言は誤りでありましょうか」。このことを彼が尋ねますと、雲谷禅師は「孟子の言そのものは誤りではない。ただあなたが自分で誤り解しておるまでのことである。今あなたのために一切の吉凶禍福皆我が心から求め得られるということを、この孟子の語で説き明かしましょう。他人に恨みを抱くものが丑の刻詣りをする。人形(ひとがた)を作って釘を打ち込んで人を呪うということが昔からある。あれは一身の環境によって、あるいは人の目をつぶし、あるいは人の手足を悩まし、命(いのち)を取り殺すのである。さすれば目をつぶす釘も、手足を悩ます金槌も、命を取る刀も、ちょっと考えると外から持ってきたように思えるが、みな怨み・瞋(いか)りの心の中から取り出したものである。我にあるものとはただ仁義道徳のみではない。功名富貴一切の福分も皆我が心中にあるもので、心がなかったならば何ものもあり得ようがないのである。心に従って求めれば応じて何ものでも得られるのである。故に孟子も『万物我に備わる』と明示してあるではないか。それをもし我の心内、心の中に求めないで、あるいは他におもねり、あるいは人を欺くなど、種々の謀計を巡らして求めようとしても、天命の理がなければ成就せぬものである。たとえ一時天を欺いても、『人盛んにして天に勝つが、天定まって人に勝つ』という諺がある通り、遂にはこれを失って、それが却って大害になるものである。故に孟子もその次に『これを求むるに道あり。これを得るに命あり』と説いておる所以(ゆえん)である。我が禅家の大祖慧能大師も、『一切の福田―幸福の田地は、方寸、このわずかな胸のうち、この方寸を離れず』と説いておられる」。
こういうことを諄々と誨(おし)えてくれました。彼はこれに初めて活眼を開いたのであります。