電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

自分を鍛える! 《 この貴重な「知識源」を最大限に利用し、自分の血肉とすること――ジョン・トッド 》

2024-09-21 | 03-自己・信念・努力
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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古人は絵画や彫刻でも、われわれをはるかにしのいでいた。それでも、彼らの所有する本はきわめてわずかであった。しかし、その少数の本は繰り返し熟読されたのである。彼らは自分たちの持てる知識源を最大限に利用して、それで間に合わない場合は、求める知識源を貸してくれそうな人間を探し求めたのだった。われわれのおかれている状況とは、雲泥の違いがある。われわれは見境なしに多読するが、得るところはほとんどないのだ。「量より質」というのは、まさに読書にぴったりの言葉である。


『自分を鍛える!』
( ジョン・トッド、三笠書房(2002/02)、p130 )
4章 緻密な頭をつくるための読書法!

◆この貴重な「知識源」を最大限に利用し、自分の血肉とすること

昔の人は、本が少なかったために、その少数の本をどうしても徹底して読まざるを得なかった。その点で昔の人には、本の少なさという不利な面を充分補ってあまりあるものがあったと言える。

当時、本を所有するには手で書き写すしかなかった。そして、所有したいばかりに本を書き写した人が、その本の中身をも自分のものとすることが往々にしてあった。印刷術のない時代には、本の数はきわめて少なかったので、キケロの『演説家について』やクィンティリアヌスの『弁論術教程』などの写本を請うために、使節がフランスからローマへ派遣されたものである。これらの本の完全な写本がフランスのどこにもなかったからである。

ジェムブルー修道院長のアルベールは、信じ難いほどの労力と費用を投下して、150冊のありとあらゆる蔵書を収集した。当時、これは実に驚くべきことだったのである。

1494年、ウィンチェスターの司教の書斎には、種々の分野の書物が断片的に17冊あるにすぎなかった。司教がスィジン修道院から1冊の聖書を借りた時は、必ず傷一つつけずに返却するという、仰々しい誓約書を提出しなければならなかった。

かつては本を購入するというのは重大事だったので、その場合は然るべき人に保証人として立ち会ってもらわねばならなかった。1300年以前のオックスフォード大学の蔵書は数冊の小冊子があるだけで、しかも、なくならないようにと小さな箱に厳重に保管されているか、あるいは、鎖をかけられていた。また、14世紀初頭のフランス王室の蔵書は、たった4冊の古典と数冊の祈祷書しかなかったのである。

昔は数冊の本でもあればまだましだったであろう。知識は四方八方に分散しており、真実は深く埋もれていたのだから。

リュクルゴス(伝説的なスパルタの立法者)やピタゴラスは、霊魂再生の教義を理解するためにエジプトやペルシアやインドまで旅して回らなければならなかった。ソロンやプラトンは自分の知りたい知識を得るためにエジプトまで出向いていかねばならなかった。ヘロドトスやストラボンは史実を採集するために旅をし、旅をしながら地図も製作しなければならなかった。一般大衆は蔵書を持つことなど考えもしなかったし、一方、6冊も本を持っていると、それだけで尊敬された。

それほど書物が稀少だったにもかかわらず、当時の学者たちはわれわれをはるかにしのいでいた。われわれは、ホメロスのように詩を書くことも、ツキディデスのように歴史を書くこともできない。われわれは、アリストテレスやプラトンのような天才でもなく、デモステネスのように周囲の人間を魅了する弁論術も持たない。

古人は絵画や彫刻でも、われわれをはるかにしのいでいた。それでも、彼らの所有する本はきわめてわずかであった。しかし、その少数の本は繰り返し熟読されたのである。彼らは自分たちの持てる知識源を最大限に利用して、それで間に合わない場合は、求める知識源を貸してくれそうな人間を探し求めたのだった。

われわれのおかれている状況とは、雲泥の違いがある。われわれは見境なしに多読するが、得るところはほとんどないのだ。「量より質」というのは、まさに読書にぴったりの言葉である。
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