ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

原発は実はコスト高らしいですよ

2011-05-16 09:03:00 | テレビ番組

私の好きなTVのひとつのコーナーに、朝の朝日テレビ系列でのワイドショーでの「そもそも総研」というものがあります。

これは以前は「玉川総研」と言って玉川さんという番組のレポーターの方が世の中の素朴な疑問に答えるために、自ら政治家のもとや有識者のもとを訪ね歩いたりしてひとつの見解を提示する、というものです。

番組の司会者が変わっていちおー模様替えが行われたみたいなので(中身は何もたいして変わっていないと思うけれど・・・)、このコーナーの名前も「玉川総研」から「そもそも総研」になったけれど、このコーナーの切れ味の良さも変わっていません。

この玉川さんて人、やるな~と思っていました。

去る12日の話題は、「いま原発は万が一、ということがあったときこれほどの大事故になってしまうから皆引き出したけど、原発がいろんな発電のなかで最も低コストだ、ということには誰もが異論をとなえてこなかったと思う。しかし、本当にそもそもこれだけ原発という事業を推進しなければならないほど原発って低コストなのか?」ということをやっていました。

え? と思いました。

私も低コストということについてはそう信じていたからです。

思わず引き込まれてまた見てしまいました。

すると長年原子力について研究をしてきたという京都大学の小出教授という方が、

「私もそう思って原子力推進の世界に若くして飛び込んだひとりだった。けれどすぐにそのまやかしに気付いた。私たちの時代は原子力は私たちの未来を支える夢の事業だと言われていた。私はそうでないことがすぐにわかったが、いまだに夢の事業というふりをして推進が続けられている。だいたい、原子力発電に必要なウランという燃料は石油に比べたって、石炭に比べたって、もっともっと世界に微量しかない鉱物なんですよ。それだけからしてもどんどん推進したってどうなるんだ、ってことでしょう。」というようなことをおっしゃいました。

そして玉川レポーターが、

「ではどうして先生は、いまだに原子力研究の第一人者としてその世界におられるんですか?」と尋ねると、

「中に居て、反対の立場からの発言をする人間というものが必要だと思ったからです。」ときっぱりとおっしゃいました。

番組では次に立命館大学の大島教授という方が出てきて、彼が自分で計算した、というコストについて発表されました。

そもそも政府が「原子力はコストが安い」と言っていることに対しての裏づけの資料として使っているのは、電気事業連合が昔作ったモデルケースによる算出に基づいたもの。

そのモデルがどのようにして「モデル」としてふさわしいのか、つまり、本当にどこにも偏っていないスタンダードなものであるかについては明らかにされていません。

されていなくったって、それを作ったのが電気事業連合であることからしてもう紛々と漂ってくるものがありますよね。

そして立命館の大島教授が算出したコストというのは、現実にこの40年間にどれだけの発電に対して、どれだけのお金がかかったかという実質を計算したもの。

こちらのほうが信憑性が高いに決まってんじゃないの。

それによると、はっきりとした金額を覚えていませんが、1キロワットの電気をつくりだすのにかかるコストは、火力が9円ほど、原子力が8円ほど、水力はがくんと低かったように記憶しています。

決して原子力は安くはないのです。

しかも、原子力には多大な税金が投入されていますからそれを考えるとだいたい原子力が10円ほど、火力、水力は変わらずぐらいとなり、原子力が1番コストも高い、ということが露呈しました。

私たちが毎月支払っている電気料金のなかにそちらに回るお金が含まれているんですって。

しかも毎月100円程度も!

全然知らなかったわ。

純粋に自分が使用した電気量を払っているんだとばかり思っていたけれど、そのなかから毎月100円も原子力発電の推進に使われていたなんて!

さらにしかもしかも!

原子力は再処理ということを考えたら、こんなものでは済みません、という話も出ていました。

・・・いったいいくらかけてあんなとてつもない破壊力のあるものを人間は推進してるんだろう。ほかの生き物達が笑うよ。大馬鹿者って。

大島教授いわく、「この金額が表に出れば、国民の合意を得られるのはちょっと微妙だと私は思います。」

そんなこと最初っから知ってたら微妙どころか、誰も原子力なんかに目向けないって。

もういいですって。


玉川レポーターはさらに自民党の河野議員に話を聞きに行きました。

今の民主党のていたらくぶりは誰もがさじを投げかけているけれど、そもそも原発について強力に推進してきたのは自民党ということもまた誰もがわかっていることなので、自民党にもう一度政権をとってほしい、というUターン現象も起きず、ふりたい旗がひらひらと宙をさまよっている状態になっていますが、確かに私も自民党にいったい今のこの状況をどう思っているのか聞きたかった。

すると河野議員はこう言いました。

「コストについての書類は、自民党の時代から通産省や経済産業省を通じて各電力会社に要請しているんですが、肝心なところがいつも黒塗りになってつぶして提出されるんです。こんなところが黒塗りでは何もわからないじゃないか、と言うと彼らはそこは各電力会社の機密事項だから見せられない、って言うんですね。」

玉川レポーターが、「えっ、それって通産省や経済産業省の大臣でもですか?」

河野議員、「いやぁ、大臣はきっと見ることができるはずだと思います。」


玉川レポーターはさらに詰め寄りました。

「だったら、大臣がリーダーシップを発揮して見せろ!って言えば、済むことなんですね。どうですか。今、自民党が原発を推進してきたんだから、そのへんの責任はあると思いませんか?」

すると河野議員は「当時、そのあたりを野党であった民主党も厳しく追及してこなかったわけだから、どちらにだけ責任があるとは思えませんが・・」と前置きしたうえで、しかし、当時にさかのぼって自民党の通産大臣や経済産業大臣を担当した人たちには責任がある、ということは真摯に認めていました。


「各電力会社の機密事項だ。」という企業に対して、大臣が一喝すれば済むところを大臣も、各企業と手を組んだ官僚たちの固いブロックにあってにっちもさっちもいかなかったのか、同じように抱き込まれているのか知りませんが、みんな腰抜けだわ。

ここでも結局、日本を仕切っているのは官僚なのかぁ、という思いを強くしました。

しかし、こういう問題が出るといつも不思議に思うんですが、どうして官僚の人たちってそんなにも利権が大切なの?

自分が自分で思っているよりも権力の座にいるんだな、ということがわかったとき、人間は弱い生き物ですから濡れ手に粟でその権力を行使して自分がおいしい目にあいたい、という気持ちもわからないではありません。


しかし、これは長屋の大家さんが毎月家賃のほかにもまんじゅうを売っている八っつあんのまんじゅうも袖の下で多少もらってました、というレベルの話じゃないんだよ。

日本の国運、衰退がかかっているっていうのにそれでも自分の利権を守るほうが大切って考えるかなぁ。

人間の体にとりついたウイルスが人間の体から栄養をかすめとっているうちに、そのせいで人間そのものが死んでしまったら自分も死ぬしかないでしょうに。

そんなこと幼稚園のこどもでもわかるよ。

それに、官僚だからって、本来の自分の職務を正しくまっとうしたい、っていう正義感にあふれた人だっているはずだと思うんだけどなぁ。

いまだにひとりもそういう人にはお目にかからない、っていうのが不思議でしかたがない。そういう人は目立たずひそかに自分の職務をまっとうして、ひそかに去っていくんだろうか。

そして、今日もっとも腹立たしいのは、たいていこういうことが勇気あるメディアに露出すると、

「だから、国民はもっと利巧になって、何もかもを鵜呑みにして信じるのではなく、自分たちでももっと監視したり、事実を知ろうとする目を怠ってはいけないのだ。」という論調です。

そんな言い方で美しくシャンシャンと幕を下ろしてしまっては何も変わらないじゃないの。


だって私たち国民は、普通のレベルなら、毎日配達される新聞と時折目にするテレビのニュース番組から政府の情報を得ているわけでしょう。

それを鵜呑みにして信じるのではなく、もっと個人でも目を光らせよ、っていうのは具体的にどうしたらいいのかそのノウハウを教えて欲しい。

新聞やニュース番組の隅から隅まで目を通したり、目を光らせていたら、今回のような京大や立命館の教授の話を知ることができましたか?っつーの。

何かマイナーな週刊誌や月刊誌まで手を伸ばしたら、そういう情報は載っているんですか?

違うでしょう。

だったら普段からどうしたらいいのかを誰か教えて頂戴よ。

メディアの玉川レポーターのように個人的に問題を追跡して、大学教授に話を聞きにいく、なんてことはできないんだから。

どうしようもない事態にもまで発展して初めて「だから国民は・・」とか言われたって遅いんだから。

あ~、今日はさんざ愚痴っちゃいました。

まったくオーラソーマっぽくないわ。

だからあんまり政治がらみのネタは書かないようにしよう、と思ってるんですけどねぇ。

今日は皆さん、「原子力発電は、実はコストが高い。」ってことだけ覚えておいてくださいな。




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小さい頃から知っている

2011-05-15 09:12:00 | 身辺雑事

友人が、佐野洋子著「神も仏もありませぬ」という本を送ってくれました。

これは、タイトルから想像されるようなこの世の不条理を小説にしたものではなく、主人公の「私」が64歳という、「女」でも「ババア」でもなく、「中途半端なババア」になってしまったことを嘆きつつ、その実年齢に自分の精神年齢がついていかないわ、という日常のひとコマをオムニバス風に描いた短編です。

まぁ、私も精神年齢は今の実年齢にあらず、という感覚がしているので、それこそがこの世の不条理といってしまえば、まさにそこには「神も仏もありませぬ」の心境ですがね。

友人はそのなかの「何も知らなかった」という一編の登場人物のふたりが私たちみたいだね、読んでみて、と送ってくれたのです。


どれどれ、と早速読んでみました。

その「何も知らなかった」という小編は、主人公の女性と小さい頃からご近所で兄妹のようにして育った「孔ちゃん」という男性とのお話でした。

ふたりの間にはな~ぁんにもドラマがあるわけではありません。

主人公が女性で、孔ちゃんが男性で、となると果たしていつかはラブロマンスのひとつでもあった、という話なのか、と思ってもどこどこまでも読み進んでもなぁ~んにもありゃしません。(ていうか、最初から筆致で二人の間にそんなことはなかっただろうな、というのは推測がつきましたが)


物語はこの主人公の女性が、孔ちゃんが死んだ、という知らせを受けるところから始まります。

そして主人公は、孔ちゃんのことを近所に住んでいて、お互いの家を行き来してよく遊んだから何でも知っているつもりだったけれど、何も知らなかったことに気付くのです。

孔ちゃんは、大人になってからはいつからどんなところに住んでいたんだっけ?

孔ちゃんは、ほんとにやりたい仕事をしていたんだっけ?

孔ちゃんの奥さんてどんな人だっけ?

・・・あんなに何もかも知っていた、と思っていた人のことを私は何も知らなかった、もう1度だけでいいから孔ちゃんに会いたい、と言って主人公は泣くのです。

私はこのお話を読んで、でもやっぱり主人公は孔ちゃんのすべてを知っていたのだ、と思いました。

それほどに小さい頃寝食をともにした関係というのは強い、と思いました。

考えてみれば、家族だってそんなようなものではありませんか。

生まれたときから死ぬまで共に暮らす、という家族の一員の方もいるかもしれませんが、たいていは子どもは育てば親の元を巣立ち、自分で自分の巣をつくります。

どこかで離れる。

けれど、自分が幼いときに一緒に暮らした人の記憶、というのはたとえ離れていても「たぶん、あいつだったらこういうときこうするだろうな。」とか「あの子ならこれは好物だろうな。」と想像がつきますよね。

幼い頃の好みは大きくなっても、年をとってもさほど変わりませんから。

それほどに変わらないものを小さい頃に共に時間を共有した人とは、すべてを共有したといっても過言ではないような気がします。

私はその本を送ってくれた彼女とは、幼稚園の時代に知り合いました。

家も同じ町内と言うレベルのご近所ではありませんが、幼稚園の子どもの足で往来できる程度には近かったし、親同士も商売が似ていたということもあって、意気投合して仲が良かったので、文字通り家族ぐるみのお付き合いをしていました。


しかし、その彼女とは学区が同じですから小学校、中学校は同じなので合計で9年同じ学校に通いながら、一度もクラスメイトとなったことはありませんでした。

毎年クラス替えがあり、名簿が発表されると「また一緒じゃないんだ。」とがっかりしました。

小さい頃の私は単純にがっかりしていましたが、大人になってから振り返ると彼女とは同じクラスにならなくてよかった、と思いました。


彼女とはべったり、という友人になるとかえって仲良しではなくなって、友人関係が一気に終焉を迎えてしまう気がしたのです。

今では、彼女がこの世での一生の付き合いがあるようにと配置された人であることを疑う余地はありません。

神様はお互いの学びのために私たちをそれぞれの人生のあるべきところにきちんと配置したのでしょう。

彼女が結婚したときも、そのお相手のことは全く知りませんでした。

彼女が選んだ職業も、「あ、そういうのを志向していたんだ。へぇ。」と思いました。

彼女の子どもにも一度も会ったことはありません。

考えてみたら、彼女のことを何も知らないのでした。

でも、何もかも知っている気でいる。

友人でも、お互いの家を訪ねあうわけではなく、外でばかり会っていると、その友人が朝から晩までどのような生活をしているのか見当もつかない、ということはありませんか? 別に隠し立てをしているわけでなくても。

けれど、小さい頃の暮らしぶりを知っていると、今でも私は訪ねたこともない彼女の家の間取りや、朝から晩までたぶん、彼女はこういう暮らし方をしているんだろうな、お休みの日はこういう時間の使い方をしているんだろうな、ということが大体わかります。

ここは「大体想像をつけられます。」ではなくて、「大体わかる」んです。

たぶん、当たっていると思います。

親があんなに忙しく立ち働く姿をすぐ横で見て育った彼女が、サラリーマンというものに馴染めるはずがない。

弟といつも仲良く遊んでやっていた彼女が、今は別々の家庭を持っているとはいえ、たまには弟と連絡をとりあわないわけがない。

商売のスペースと自分たちのいるスペースが入り乱れていただけに、本当に考え事や集中して勉強したいときにはすっと自分の部屋にこもっていた彼女が、誰かれかまわずあけすけのスペースに耐えられるはずがない。そして、朝から晩まで人と会い続ける、ということにも耐えられないだろう。

植物が好きで、花の名前をよく知っていた。自分の住んでいるところは都会だったけれど、田舎のおじいちゃん家を訪ねるのが好きだった。私もよく一緒に連れていってもらった。

そんな彼女は緑のある少し郊外の家のほうが落ち着くだろう。

いろんなことがわかります。

今でも私たちはそんなにべたべたとしょっちゅう会いません。

たぶん、10年会わなくても、「久しぶりだねぇ。」と言い合いながら会うのではなく、「あら、そういえば久しぶりだっけ?」という感じでしょう。

だけどお互いを空気のように大切に思っている。


それがどうしてか、というと一言で言ってしまえば、小さい頃の暮らしを共有した、ということなんだろうと思うのです。

たまたまご近所だった、たまたまお互いの家でよく食事をした、たまたまよく遊んだ、お互いの家に寝泊りもした、ということが一生の大切な人かどうかの決め手になる、と言い切るのは何だか短絡的な思考にすぎる、という感じがして今までこう言い切ることにはためらいがありました。

でもよく考えてみると、ご近所で同年齢の子どもだった子はいっぱいいます。

何も彼女だけじゃない。

遊んだことがある子も、家に出入りしたことがある子も、お互いの家で食事をしたことがある子も。

でもそれらをすべて満遍なく、何年にもわたって、となると彼女しかいないのです。

何年もそれが自然に続くような関係に私たちが置かれた、ということこそが奇跡ではないでしょうか。


奇跡として出会い、成長し、お互いを見つめてきた、ということをこの年齢になって初めて認めることができるなんて遅すぎたかな、とも思いますが、この本を読んでそれを確信することができましたし、この年齢であろうと、死ぬ前にわかってよかった、と思いました。

かといってこれからも彼女とのこの距離感は変わらないような気がします。

小説のなかのように万が一ふいに彼女の死を知った、ということがあれば、私はやっぱり「もう一度だけ、会いたかった。」と言って大泣きすることでしょう。

しかしそう言って泣きながらも、もう一度会ったら何をする、何をし残した、ということがあるわけでもないことはわかっているのです。

お互いにただとりとめもなく自分の最近の心象風景を語っているだけでしょう。
それでもやはり「もう一度会いたかった」と言って泣くのです。そんな気がする・・・

彼女と私はまったく似ていない。

性格も見た目も、考え方も何もかも。

けれど、彼女は私そのものなのだ、という気もするのです。


皆さんには、そんな存在の人はいますか?

必ず近くに配置されていると思いますよ。

そしてその人とは前世も来世もまた近くにいるのかもしれません。




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メニュー改訂いたしました

2011-05-14 09:15:00 | オーラソーマ

一部、メニューを改訂させていただきましたので、今日はそのご紹介です。

値上げとかじゃないから、安心してねん。

以下が新メニューとなります。

セッションメニュー

  初めての方特典 

*オーラソーマショートセッション(ボトルなし)・・40分・・・・\3000

*オーラソーマショートセッション(50mlボトル付)・40分・・・\8460

*オーラソーマショートセッションパーフェクトお試しコース40分¥10000                                                         ( ボトル<25ml>、ポマンダー<10ml,クイントエッセンス<10ml付)

  2回目以降の方                            

*オーラソーマレギュラーセッション(ボトルなし)・・70分・・・・・・\7000

*オーラソーマレギュラーセッション(50mlボトル付)・・70分・・・\10000

*オーラソーマエクセレントセッション・・70分・・・¥13800                       (ボトル<50ml>、ポマンダー<10ml>,クイントエッセンス<10ml>)     *オーラソーマゴールデンスレッドセッション(50mlボトル付)

・120分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・¥14500


このメニューにつきましては、ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」にも載っています。

ええっと、メニューってどうなってたんだっけ?というときはそちらでご確認ください。

っていうか、本来、そっちで載せるべきもんだわねぇ。

どうしてこちらでも載せたのか、というと、ちょっとどうしてこういうメニューにしたのか、という背景について語りたかったからです。

私はいままでずっとレギュラーセッション1本やりでやってきました。

初めての方であろうと、リピーターの方であろうと、「70分 ¥10000 50mlボトル付」だけです。

最初、ボトル付にするか、ボトルはなしでセッションのみとして、ボトルはご希望の方にボトルの単品価格を別に頂く、というかたちにするかで多少は悩みました。


悩みました、とは言っても、私はボトルを使ってこそのオーラソーマと思っているので、「ボトル付」にするかどうかを悩んだというよりは、そうすることによってのお客様に対する金額の印象について悩んだだけです。

70分で¥10000、そして50mlのボトル付、ということは、ボトルのお値段を引くと、70分でセッション料金としては¥4540ということになります。(50mlのボトルのお値段は、¥5460です。)

これは自分で言うのもなんですが、10分 ¥1000が目安のヒーリング業界においても破格値だと思います。

でもそれであっても、お客様にはただ「オーラソーマを1回受けに行くには¥10000かかる」という印象だけが残ってしまうようなのです。

これは、昨日の話題、「オーラソーマってちょっと恐い」のpart2を生まないように、との配慮だったのですが・・・

実は巷では、「オーラソーマを受けに行くと、なんだかいろんなものを売りつけられちゃって・・・」という話をまれに聞くことがあります。

これが“オーラソーマは恐い”のもうひとつの側面になっているんだな、と思ったのでした。

「売りつけられた」と感じるのか、「説明を受けただけで、押し売りをされたわけではない。自分で納得して、それも必要だと思ったから買った。」の間にはかなり色々なグレーゾーンがあるような気もしますが、少なくとも、ボトル付のセッションでない限りは、「ほんとうはボトルとワークすることがとっても大切なのよ。」という説明をプラクティショナーであれば、一生懸命することでしょう。

それは、売らんかなの姿勢から出たものではなくて、オーラソーマシステムの全貌を一応説明しておきたい、というプラクティショナーの熱意からだと思いますが、それをはじめてのお客様などは「売りつけられた」と感じてしまう方もいらっしゃったのでしょうか。

どこまで説明するか、というのは本当に難しいところがあります。

初めての方で、自分の内側の4本の説明を聞いて、頭のなかがまだぼーっと興奮さめやらぬなかで、「・・・でね。オーラソーマとはこうして色の説明を聞くだけではなくて、このボトルとはワークもできるの。それは自分の気付きを促す大切なことなの。」とボトルの説明を受け、さらには、「ポマンダーとクイントエッセンスというものがあってね。こちらは香りでその瞬間に本来の自分に立ち返ることができるの。今日のあなたの4本から推し量ったポマンダーとクイントエッセンスを処方しますから、本当はこれもお持ちになるといいんだけどねぇ。」なんて言われても、もうアタマのなか何がなんだか、どれが何のためなんだか、ぐじゃぐじゃでしょう。

ましてや、これにさらにカラーエッセンスとアークエンジェロイエッセンスを加えると5本柱になりまして・・・なんて言う話はとうていキャパシティを超えちゃってると思います。

私も初めての方にそこまでの説明はしません。

しませんし、どのみち言葉だけでその素晴らしさの全貌が伝わるとも思っていないのです。

だから、とりあえず使っちゃってみてもらったほうが早い、というわけでボトル付のメニューのみを提供してきました。

私としてみれば、せっかくオーラソーマに興味を持って初めて訪れてくださったお客様が、単に自分がちょっと悩んだときの道しるべがわりの占いとしてその場のお話のセッションだけで満足してしまい、再び自分の人生によほどの転機がないかぎりはオーラソーマの門をたたくことはない、というのはあまりにも勿体ない、と思ったのでした。

これではプロダクツを使う、という機会を逸してしまう。

けれど、前述したようにとにかくオーラソーマでは1回 ¥10000かかる、というイメージだけが残ってしまうのもこれまた同じ意味で、機会を逸してしまっている人がいっぱいいるのかもしれない、と思い始めました。

もう少し安かったら、気軽に門を叩けるのになぁ、と手をこまねいている方が。

なので、少し前から口コミのみで、初めての方には限定で、時間もレギュラーセッションよりはちょっと短めですが、「40分 ¥3000」というメニューを提供していました。(短めとは言っても、40分あれば4本リーディングについて何ら語りきれなかった、ということはありませんのでご安心を。)

するとやはりこれくらいのお値段だと気軽にトライできるということもあって好評なのです。

というわけで、それがきっかけとなり、メニューを改訂する運びとなりました。

しかし私の中で「本当なら、ボトルを使ってみて欲しい。できれば、ポマンダーやクイントエッセンスも。でないと本当の“気付き”は訪れない。」という気持ちは変わっていません。

ボトル、ポマンダー、クイントエッセンスまでは是非取り入れて欲しいのだ、というのが本音を言えば、切なる願いです。

けれど、ボトルが¥5460、ポマンダー、クイントエッセンスはそれぞれ¥3990ですので、これを全部使うとすると一気に製品代だけで、¥13440となってしまいます。

これにセッション代を加えたら、約2万円となってしまう。

これは日本の平均的な暮らしぶりのなかでの「ちょっと今日は癒されようかしら。」というときに払える金額としてイタイ、というのは容易に想像ができます。

いくら、オーラソーマはその場限りの癒しなんかじゃないんだ、生きる道しるべを意識的に歩むための地図を知り、そのフォローを受けるということなんだ、だからその人本来の生き方にかかわることだから、そう考えたら、「ちょっと癒しを・・」に払える金額でなくったって構わないんじゃないか、と言ったって、それこそ押し付けであってまだ門の前にいる人にとっては、それは高い、と思っても仕方ない金額だと思います。


けれど、オーラソーマの製品はディスカウントを許されていません。

ボトルは使ってほしい、ポマンダーも、クイントエッセンスも・・と挙げていき純粋に足し算すれば先述のようなお値段になってしまうのです。

でも、どうしても私は2万円に近づくような金額にはしたくなかった。

1万円台前半であれば、美容院に行くのだって、それくらいはかかるのだから、と納得していただけるのでは、と思いました。

そこで考えました。

ボトルは50mlを使いきって初めて気付きが訪れるものだ、と思いますが、ポマンダーやクイントエッセンスは香りの働きによって、その効果は瞬時に現れるものです。

¥3990の容器には25mlが入っていますが、その容量をすべて使い切らなければ意味がない、というものではありません。

なので、私は別の容器に移し替えて10mlのお試しサイズを提供することによってトータルのお値段を何とか維持しようと考えました。

それが初めての方の場合ですと、「パーフェクトお試しコース」、2回目以降のリピーターの方ですと、「エクセレントセッション」です。どちらもポマンダーとクイントエッセンスの10mlサイズのみならず、もちろんボトルも付いています。

それで、初めての方の場合は40分で¥10000、2回目以降の方の場合ですと、70分で¥13800です。

コストパフォーマンスにすぐれたお値段だと自負しています。


ぜひ、「些々羅」の新メニューで、あらゆる意味で、“恐くない”オーラソーマをお試し下さいネ。




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オーラソーマって何だか恐い・・・とおっしゃる方へ

2011-05-13 09:08:00 | オーラソーマ

先日のチャリティイベントのときに、改めてお伝えしなきゃ、と思ったことがありました。

それは、オーラソーマのことを「何だか恐い・・」と思っている方のその“恐い”の正体について、です。


私は、てっきり、恐さ=“怪しさ”のことだと思っていました。

ほら、昔から占いのようなものは薄暗く黒いヴェールに覆われた小屋のようななかで、眼張りをばっちりとったイスラムのような表情のない女の人が、机の上の大きな水晶を見つめて、「見える、見える、あなたの将来が・・」というような“怪しさ”。

私の世代の人だと「マリー・オリギン」さんのような、と一言言えばわかってもらえるかなぁ。一時、マスコミにも出まくって一世を風靡したからねぇ。

つまり、オーラソーマのことをまっとうな社会に生きていない人がやっている、まやかしのインチキくさいものだと思っている人もいるんだろうな、というのが私の考えでした。(あ、誤解のないように言っておきますが、マリー・オリギンさんがインチキだって言うんじゃないですよ。)


そして、そこからして違う、と説明するのはもうあまりにもめんどくさいからもういいや、そう思っている人には思ってもらってて、なんていう開き直った私もいたりしたのでした。

しかし、「何だか恐い・・」の正体はそういうことではないようです。

それがわかったのは、イベントのとき私のブースの前で、私の友人がさらにその友人の人に、

「ほらぁ、やってもらいなさいよ。あなたみたいな人にこそ必要なんじゃないのぉ。」

とちょっと茶化している感じで言ったら、その人がまじめな顔をして、

「いや、オーラソーマは自分のすべてを見透かされるようで恐いからいい。」

とおっしゃったのです。

そのときに、あぁ、時々言われる「オーラソーマって何だか恐い・・」というのはそういう意味だったのか、と思いました。

オーラソーマに親しんでいらっしゃる方にはすでにおわかりだと思いますが、「自分のすべてを見透かされる」というのはある意味、言いえて妙です。

そのとおりでございます。

オーラソーマでは上下2層に分かれたボトルの色で、自分が普段は意識していない自分の意識層までもがあらわになるのですから。

けれど、それをどこの馬の骨とも知れないヤツにいきなり指摘されるのか、と思うと嫌な気分にもなろうかと思いますが、“人”にではなく、あくまでも自分の意識をそのまま映し出した“ボトル”になんですから、まぁ、許せるでしょ。

ただそのボトルのメッセージを人にわかるような言語にするためには私たちプラクティショナーという存在が必要なだけで。

お医者さんに行って、レントゲン撮ったり、CTスキャン撮ったりしても、その画像だけをもらって自分の体の内部の診断をすることは自分ではできませんよね。

やはり、専門家にまかせなければ。

それと同じことです。


そしてさらに言えば、「自分の内側を見る準備ができていない人」は、ちゃんとそれを受け取る準備ができたときにだけ出会うからそのタイミングで知ればいいだけのことですよ。

オーラソーマのボトルを眼の当たりにして、「なんてきれい! このボトルが何を語っているのか聞いてみたい!」と切に思っても、「どうしても聞くのが恐い・・」という方はいらっしゃいません。

その「どうしても聞いてみたい!」の方がそのときには勝っているはずなのです。

だから、「今はまだいいや。」という気持ちのほうが勝つ人というのは、まだ自分の内側を見る準備が出来ていないのだから、無理に見る必要はないと思います。

それについては、以前、サロンにお越しくださった方がこんな表現でおっしゃったことがあります。

「オーラソーマって自分の触れられたくない部分を無理やりほじくり返されるのかと思ったけれど、よかった。そんなことはなかった。自然に浮かび上がるべきことだけが浮かび上がった、という感じだった。」と。

その方は、その友人の方に、ここ2年ほど「是非、いいから行ってみなさいよ。」と薦められていたけれど、どうしても“恐くて”来られなかったのだ、とおっしゃいました。


上記の言葉はその彼女がまた別の友人の方に「・・・だから大丈夫だって。あなたもやってみなさいよ。」って薦めてくれたときの言葉です。

横で聞きながら、私は思わずおかしくてくすりと笑ってしまいました。

これが2年前には「絶対やだ。」「私はいい。」と言っていた人の言葉だとは思えなかったからです。

このように、いったん、なぁ~んだ、オーラソーマってこんなにもとっつきやすいものだったんだ、とわかるとまた口づてで人にその存在を教えたくなる、あなたもやってみなさいよ、と薦めたくなるのがまたオーラソーマなんです。

「いったん知ると、知らなかった世界にはもう戻れない。」

なんて言い方をすることがありますが、オーラソーマもまさにそう。

どのくらいの入り込み方をするか、ということについては人それぞれだし、ひとりの人のなかにも、マイブームの時期とちょっと波がおさまったような時期とかがあるかもしれませんが、いったん、自己探求や自己実現の道を求め始めて、それが実感できるようになると、ただただ暗闇を手探りで歩きたい、という人などいないでしょう。


だから、オーラソーマ人口は増殖するばかりだと思います。

みんな光の子だし、光の道をたどりたいから。

というわけで、自分にとっては聞きたくもなかったメッセージを受け取る、ということはオーラソーマではありえません。

自分のなかにもともと持っていたものしか出てこないのだから。

自分が持っていたメッセージで聞きたくもなかった、なんてことは何もないのですよ。

だから、“恐い”ことなんて何もありません。


さぁ、準備ができた方から是非サロンの扉を叩いてみて下さいネ。




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耳が遠くなる楽しみ

2011-05-12 09:17:00 | 身辺雑事

私の父はもう80を越えました。

少し前のことになりますが、GWの間に一度、家族で食事をしたい、と父が申すので、私とダーリン、私の両親とで夜会食をしました。

去年の暮れには、やはりうちの父がそう申し出るので、私とダーリン、うちの両親、ダーリンのご両親、娘と全員が顔を合わせて食事をしたこともありました。

しかし、うちの父は自分から言いだしっぺで提案をした割りには、いざ席につくと、まるで「来い、と言われたから俺は来ただけ。」というような涼しい顔をして誰に話題をふるともなく、じっと仏像のように座っているだけ。

去年の全員での会食のときには、たぶん、ダーリンのご両親には、「ほんとに恵津子のお父さんが会いたいって言ったのか? おまえらがしくんだことで、あちらは何もそんなこと言ってなかったんじゃないのか?」と勘ぐられているだろうな、と思うほどでした。

けれどまぁ、今回はあちらのご両親はいらっしゃらないから、そうであったとしてもまぁ、そう気を使うこともないからいいや、と思っていましたが、案の定、また仏像。
それはひとつには
父は耳がすごく遠くなっているからなのです。

以前は、団体のバス旅行などにひとりで参加してどこへでも出かけることが大好きで、日曜日のたびごとにあちこち行っていたものでした。

しかし、最近の様子を母にきくと、「もうお父さん、耳が遠いから皆さんに迷惑がかかるからって最近は全然出かけないよ。」とのこと。

あんなに「休みの日に家のなかになんか居たってしかたがない。」が口癖で、出かけることが大好きだった父がぽつねんと家のなかでひたすら読書ぐらいしかすることがなくて座っているのかと思うと可哀そうになってしまいました。

もちろん、補聴器のお世話にもなってみたようです。

しかし、値段が高いものが確実に性能がいいかというとそういうわけでもないらしくて、何個も試してみたけれど、結局、俺にはどれも合わなかった、といってめったに補聴器はつけません。

私たちが食べながら会話をして、途中で「ね? お父さん。」とふっても、それがもう聞こえない。

最初の頃は、自分が聞こえにくくなっているのだとわかっているのなら、なおさら、人の様子や表情を一生懸命見て、今、自分に話しかけられているのだな、ということを気配で感じ取ろう、という努力をもっとしたらどうなの、と腹を立てていましたが、父の身になってみれば、1mも離れていないところで人がいくら楽しそうに会話していたって自分にはほとんど何を話しているのかわからないなら、もう最初っからそんな無駄な努力やーめた、と投げてしまうのも仕方ないのかもしれません。

そして、せめて「同じ場を共有している」「同じ空気を吸っている」という感覚だけが欲しいのかもしれない、と思うともう腹もたたなくなりました。

父はもともと飄々としたところがありましたが、人の話に耳を傾けない、と決めたとたん(決めているのかどうか本当のところはよくわかりませんが・・・)、自分だけの世界をつくりあげている、というその飄々とした感じが加速したような気がします。

しかし、実際のところはどうなのでしょうね?

音のない世界になって、自分の心の声はより聞こえるようになったのか、それとも自分の心の声もやはり聞こえなくなっている、ううん、聞こうとする能力も共に失われていくものなのか・・・

ちょっと自分が年老いて、どんどん耳が遠くなっていく、ということを想像してみました。

それは恐いことでした。

時々聞く話ですが、「もう何も意識はないはずですよ。」と医者に言われ、ベッドに横たわっている病人でも、最後の最後まで耳は聞こえている、ということが往々にしてあるそうだよ、という話。それを伝えられなくなっているだけで。

身じろぎひとつしないし、医者も意識もないというからいいや、とベッドサイドでもうお葬式の話をしたり、「もう助からないよね。」なんてことは絶対に言っちゃだめだ、と聞きました。
身内にベッドサイドでそんな話をされるくらいなら、耳が遠くなったほうがましだ、なんて風にも思ったりします。

事実、もう、少しずつ遠くなっているような気がしますし・・・

例えば、お若い方だと、音楽をかけながら何かを行う、ということは日常のなかでごく空気を吸うようにあたりまえのことでしょう。

けれど、私はもともと音を聞きながら何か別のことをする、ということがあまり好きではなかった、ということもありますが、最近、喫茶店などに入って店内にかかっているBGMが少し大きめの音だったりすると、もう友人との会話の声が聞き取りにくくて仕方がない、というようになってしまいました。聞き取りにくいだけではなく、気が散って仕方が無い。集中力がなくなるのです。

わかったようなふりをして相づちを打ったりしているうちに、その話題自体の興味が薄れていったり、一生懸命聞き取らなきゃ、と思って張り詰めていた気持ちがどこかでぷつんと切れるといきなり、「もうどうだっていいや。」という投げやりな気持ちになったりします。

音楽のジャンルによっては、すごく気持ちがイライラしてくるときもあります。

挙句の果てには、「こんな音量でこんな音楽をかけているこの店が悪いんだわ。」なんて八つ当たりの感情が芽生えたり・・・

テレビを見ていても、「この音量はようやっと聞き取れる音量だな。」と思うぐらいの音量でずっと映画やドラマを見ていると、いつしかイライラしてきます。

「聞こえない」のではなく、逆に「いろんなほかの雑音が混じり込んでいて、それを聞き分けるテストをされている。」というような気持ちになるのです。

そして、1つか2つ音量のボリュームをあげてみる。

すると、すごく気持ちがすっと落ち着くのがわかります。

そして、デジタル表示されるその自分の気持ちが落ち着く音量を見ると、「あれ? ちょっと以前より大きな数字じゃないこと?」とわかり愕然とするのです。

だからひょっとすると私の父も、自然にしていてこの音は聞き取りやすいぞ、という何かしらの音のジャンルがあるとそれだけは聞くようにし、何か自分にとって努力を要請されるようなざわざわとだけ聞こえる音はもう無理に理解しようとはせず、自分には必要のない情報なんだ、と割り切ってほうっておくことにした、ということかもしれません。

年をとると、ある特定の低めの音だけがよく聞き取れ、高い音が聞き取りにくくなる、とは言われていますが、父を見ているとあれ?そうばっかりでもないのだな、と思うことがよくあります。

だから、俗に言う「勝手つんぼ」というやつかもしれませんね。

でも、もし天の声が「おまえはもう十分に人生を歩んできたから、こんな情報は必要ないんだよ。これからはもう本当におまえに必要な情報だけを手渡すようにするよ。」ということで、このようなことが起きているのだ、と考えたら、なんだか自分の人生が濃縮還元のジュースになったようだな、と楽しくなってきました。

人生最後の時期にさしかかったら、「今まではいろんな必要のない情報まで人生の彩りとしてフィルターにかけずにきたけれど、これからはもう本当に重要な情報しか通さないから、存分に無駄のない人生を楽しんでくれ。」となっているのだとしたら、人生そのものはとてもクリアになってわかりやすくなってくるような気がします。

そう思うと耳が遠くなるのも楽しみのひとつだな、と考えればいいかぁ、とまた能天気な私は思うのでした。




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