ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

しかし、果たして私自身はオーラソーマから離れるときが来るんでしょうか?

2011-05-21 09:18:00 | オーラソーマ

またまた昨日の続きですが。

そして、「香りレイキマスター講座」のその日の記事にも書きましたが、近々の私のなかで起こったことのなかではとても重要なことなので、今日も書こうと思います。

香りレイキマスター講座のなかに、こんな一説がありました。

『香りレイキでは純粋なアロマ精油の11本を“宇宙のシンボル”として扱ってゆきます。この世に存在するすべての自然の香りは、私たちの意識の“何か”の象徴です。好きな香りも、苦手な香りも、すべて自分自身の内側にある“何か”の写し鏡なのです。これは、自分と言う存在のなかにあるものしか、現実に見ることができないという、タオ(道教)の捉え方でもあります。』

この世のすべてのことが自分の内側にあることの写し鏡だとするならば、その写し鏡で一度現実の世界にそれを取り出し、読み取り、確認したあとで、もう一度、自分の腹におさめる、という作業は大切なことです。

そのために、オーラソーマのボトルも、精油もあるのだ、と思います。
しかし、そんなツールを介することなく、宇宙とつながることができる人がいたとしたら、それらのツールは自分の直感と宇宙が直接つながることを妨げる、かえって邪魔なくらいのものかもしれません。


こういう考え方に気付いたときは、今まで何かしらの目に見えるツールがないものは全部“怪しい”と思ってきた私にとっては天地がひっくり返るくらいの発見だったのです。コロンブスの卵的発見でした。

最初からわかっている方には何言ってんの? いまごろ・・・と言われるかもしれませんが。

今まで私は、何となくすべてのスピリチュアルな高みを目指す人というものは、○○という入門から入って、次に△△へ進み、そして××すると、なかにはパアッと視界が開けるように高次の存在のことがわかるようになるものだ、というようにどこかで思っていたに違いありません。

僧侶が滝行や火行や断食をして到達する境地というものがあるように。

そのようにして、僧侶としての位も阿舎利にまで登りつめていくように。

だからいきなり特に修行を積んだわけでも努力したわけでもないのに「私には見える」とか、「感じることができる」という人のことを胡散臭く思っていたのでしょう。

しかし、学校の勉強と違って、スピリチュアルな次元の話というのは、ちょっと視点をズラしたり逆にしてみることで、本人が望むと望まないとにかかわらず、あるときオセロの黒がその同じ場所で白に変わるように「あ、見えるものがある。」とか「天の存在がどういうことか感覚でわかった。」ということなのに違いありません。

1年生から2年生、という手順を踏むわけでもなく、とくに決まったテキストをその通りに進めばそうなる、というわけでないところが難しいところです。

でも私にはそういう手順を踏んでしかるべきだ、という思い込みがあったんでしょうね。


それがなぜだか急に手放せてしまったのです。

そこが手放せると、ツールに執着する必要もない、と思えるようになったので、もしオーラソーマがボトルを使って現行のようなコンサルテーションのシステムをする、ということそのものが変わってしまったとしてもそれはそれでしかり、と受け止められる気がします。


その場合、オーラソーマや私は今後、どうなっていくんだろう?

どう変化するんだろう?ということは全く想像ができませんが。

いずれにしても、その人がたどった道は万にひとつも無駄なものはない、ということは信じられるので、少なくとも私がオーラソーマと出会い、これまでの経緯をたどって今日、こういう境地にいる、ということは私にとっては一片の無駄も無理もないところだと思えます。

格別の転機があったとも思えないのですが、突如、このように考えるようになったのには何があったんだろう?

私に何が起こったんだろう?

マスターボトルのB56「セントジャーメイン」とワークして、魂が飛翔しちゃったんだろうか?

バタフライ&シーエッセンスの講座を受けて、いつもいつも第三の目のところに2プッシュ、エッセンスを降りかけていたからかしら?

オーラソーマ仲間の友人が「わたし、オーラソーマ手放しちゃったんだよね。なんか突然必要じゃなくなっちゃった。」と言ったことに動揺しているのかなぁ?

先日、ゴルフの話をときどきする友人が、

「ようやくスイングの基本がわかってきた。不思議やなぁ。20代の頃からゴルフをやってきて、そのときの方が練習したし、スコアも良かったのにそのときにはわからなかったことが今はわかる。今、あのときほど練習にも行かないし、スコアも悪いけれど、なんか、わかった。」と言うのです。

それを聞いたとき、その友人が20代からこれまでに歩んできた人生でのすべてがそのスイングに生きたのだな、と思いました。

そういうことです。

常々私はこのブログでも、「私は自己探求が好きなんであって、そのためのツールとして一番の出来の良いものがオーラソーマシステムだと思っている。だから、もしオーラソーマ以上にこれだ、と思うツールに出会ったら、そのときにはオーラソーマから離れるのかもしれない。」なんてことを書いてきました。

でもそれは、離れない自分がわかっていたから逆に自信を持ってそう書けたことだった、と今では思います。

オーラソーマより優れたツールがある、ということも信じられなかったし。(これについては今でもそうですが)

ツールの中での優劣、という話じゃないな、ということに気付いた今、マジでオーラソーマから離れることもあるのだろうか、と思うとそれを想像しただけで寂寥感が体を通り抜けていくのがわかります。

これからオーラソーマシステムがどう変わって、私もどう変化していくのかわかりませんが、ただひとつ、私は自分をよりよく知り、この命を現実のこの世で輝かせたい、という気持ちはいくつになっても変わらないだろう、ということだけが今は言えます。

そして、オーラソーマが、天とつながることが目的なのではなくて、それを知ったうえで現実のこの世でそれをいかに生かしていくか、というツールである、ということもこれからも変わりません。

つまり、お遊びでスピリチュアルなことにちょっと興味あるぅ、という人のためにではなく、あくまで自分を現実世界で燃焼しきりたい、と思う人のためのシステムであるということも変わりはない、ということも断言できると思っています。




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オーラソーマシステムは何があっても残るでしょう

2011-05-20 09:17:00 | オーラソーマ

さて、昨日も書きました、「オーラソーマのニューボトル発表ということが今年を持って終了し、オーラソーマシステムにおいても1つの時代の終焉を迎えることになる。」というのが本当だとして、かといって、オーラソーマがこの世からいきなりドロンと消えてなくなるわけもなく、何かしらの新たな展開を見せるのだとしたら・・・

オーラソーマのレベル1~3という講座以外のニュー本講座のようなものが誕生するんだろうか?(これについても先日「あ、そういえば私、来年から数秘だけのコースができるって話は聞いたよ。」と発言したプラクティショナーの方がいました。ほうらね。こういうそれぞれのプラクティショナーがなぜか知っている、という情報でひとつひとつパズルを埋めていったら、大体の全貌はわかりそうな感じです。)

天使を呼び寄せることによって、もうボトルというものを使わなくても自己探求ができ、自らに授けられた使命を知り、よりよく生きる、ということができる、というコースでもできるんだろうか?

そのときには今までのボトルを使ったコンサルテーションはどうなるの?

これらについて今、あまり詮索をしても始まらないと思います。

どうなろうとも、今までのオーラソーマシステムが残る、ということは間違いないと思えるし。

間違いないと思える根拠は、残念ながら私がオーラソーマシステムが永遠に必要なものだと確信しているから、ということではなくて、オーラソーマ社がこの世に送り出してきた今までの製品を見てもそこからその姿勢をうかがいしることができるからです。

例えば、化粧品。

いまは、AEOS一辺倒で、オーラソーマのほうもこの化粧品シリーズを力を入れて売り出しているようです。

確かにこれはすばらしいものだと思いますが、以前にもオーラソーマから出している化粧品ってあるんですよね。

それらは今、どういうポジショニングに立っている、ってことになるのか、その立ち位置がよくわからない。


化粧品についてより極めに極めた結果、今までの化粧品では実現しえなかったすべてを実現した画期的な化粧品シリーズがAEOSなのか、いや、今までのは今までので、AEOSより優れた点があるんですよ、だからそのまま残してあるんですけどね、ってことなのか、それともあれはあれ、AEOSはAEOSで役割が違うんですよ、ということなのか、そことのところがうやむやになったまま、ただひっそりと販売は続けられている、AEOS以前の化粧品アイテムたち・・・

まぁ、在庫あるうちは売り減らししとけばいいんじゃないの、なんていい加減な考えで売り続けているんだとしたら、消費者なめとるわ!

ま、この一事をしても、オーラソーマが万が一、ボトルを使う必要がない、ってシステムが出来上がったとしても、絶対残ります。(きっぱり)

化粧品のように論理の矛盾点が生じたままであっても。


もし、ボトルを使わずしても自己探求ができ、自分の命をより輝かせる方法があり、それは特殊な能力や直感にたけた人でなくても、ある一定の学習を積み、ノウハウを教えてもらえれば誰でもできることなのだ、という展開が新たに始まるのだとしたら、それはそれで結構なことだと思います。

けれど、そこに現行のオーラソーマシステムとは決定的な論理の矛盾を含んでいる、ということがあれば、私はそれを許さないでしょう。
こういうところは昔から鉄板のようにアタマがちがちに硬い私がいるんです。

まぁ、別に私が許さないったって世界の何も変わるわけはなく、マイク・ブース氏も岐阜の1プラクティショナーがなにやら自分のブログ内だけで気炎をあげている、なんてことも知るよしもないわけですから、世界の空気は穏やかに流れていくことでしょう。

しかし、いくら新システムが良いものであったとしても、決定的な論理の矛盾があったとしたら、私はその時点でオーラソーマのすべてから身を引くかもしれません。

それくらい嫌だ。

オーラソーマのティーチャーの方の中には、なにか質問をしても、「それはもうそれ以上追究したって仕方がないことなの。そういうものだ、ってしといてください。だって、マイクが理由を語らずにそうだ、っていう事実だけがティーチャーに降りてきているんだから、それ以上どうしようもないでしょう。」とおっしゃる方、けっこういらっしゃいます。

昔はそう言われるとそこで押し黙りはするものの、納得できず腹をたてていた私がいました。(自分も納得していないんだったら、なんで、マイクに質問するなり、アザイアクトに質問するなりしてくんないんだよ。スクールやっといて自分のサロンに来た生徒の矢面にも立てないのかよ。)って。

でもね~

この前も書きましたが、マイク自身が例えば、ニューボトル誕生はもう終了だ、って言っておいたあとにもし「やっぱりまた降りてきた」って言って誕生させたとしても、同じことを言うんだろう、と思ったら、こりゃどうしようもないわ、と肩の力が抜けました。

マイクはきっとこう言うでしょう。

「僕のせいじゃないもん。僕にはこの前確かに終わりだ、ってお告げがあったのに、天がまたやっぱり必要性を感じた、って僕に言うんだよ。」って。

こうなると、文句があるなら天に言ってくれ、って話になるだけじゃないですか。

しかし、ですよ。

このことを不思議なことに私自身はなぜか実に穏やかに受け止めています。

以前の私であれば、それこそキャンキャン吠えまくり、周りにも「ちょっとぉ、どう思うぅ?」と火の勢いで巻き込み、asiactにもそれを糺そうとし、さんざ一人相撲をとったあげくに辞めるでしょう。

でも、今の私はオーラソーマがそうなるのであれば、それもまたありのままの姿なのだ、と思うだけです。


こう思うようになったのは、以前に「香りレイキマスター講座を受けて」でも書きましたが、なんでかふと「そうだ、直感で受け取れればそれが一番確実だ。」と思うようになったからです。

このことは最近の私のなかで実に大きな出来事でしたね。

世界は何も変わっていないし、オーラソーマも変わっていないし、私自身も見た目には何も変わっていないし、私とじかに会った友人も私が変わった、とは思わないでしょう。

でも私のなかではひそかに大きな核分裂、いや、再臨界かなぁ、(いま、こういうたとえはよくないね。)が起こっていた、という感じなんですよね。

ま、今日のところは、新たなオーラソーマシステムが始まり、今までのオーラソーマがひとつの終焉を迎えるのだ、としても、今までのものはそのまま残るだけで何も変わらないと思う、という推測にすぎない結論を述べて終わりたい、と思います。






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オーラソーマシステムにおける1つの時代の終焉?

2011-05-19 09:15:00 | オーラソーマ

オーラソーマ仲間の友人から、イクイリブリアムボトルが年内にもう1本誕生するかどうかというところで、その後はもうこれ以上は誕生しないらしい、という噂を耳にしました。

その友人も、どこかのサロンに赴いたときに耳にした話だというので、まぁ、これはあくまでも噂の域を出ない話です。

しかし、噂とはいっても、その内容によって、(あぁ、それなら、あのときのこういう事実に尾ひれがついてこういう話になったんだろうな。)と見当がつくものから、いったいぜんたいどこからどう出てきたんだ!?とまさに火のないところなのに煙がたっちゃった、という話までさまざまです。

この話については、私から見れば火のないところに・・・の方に思えるので、逆に信憑性高いかしら、と思いました。

この話を聞いて、驚くと同時にまたいろんなことを思いました。

驚いた、ということのひとつには、「なんでこういう話が漏れちゃうの?」という感想が最初に浮かんだ正直な思いです。

ここでちょっとオーラソーマのボトルの誕生の流れについてご存知のない方のためにご説明しておきますと、オーラソーマのボトルは現在109本あります。

これは、創始者のヴィッキー・ウォール女史亡き後も、現在のトップであるマイク・ブース氏によって、ニューボトルが誕生し続けてきました。

その間隔は平均すると大体2年に1本です。

ここ数年は1年に1本という割合でした。


誕生については、誰もどんなボトルが誕生するのか、それはいつなのか、ということを知りません。(でも、これも先日シェアリングデーに参加したときのランチ休憩で、参加者のお一人の方が、「あ、私、この夏ごろには次の1本が誕生するって聞いたよ。いま、マイクは妊娠中らしい。」とおっしゃっていたので、マイクにもいきなり降りてきて、いきなり産み出す、というものでもないみたいですね。ある程度、時期が近づくと「来てる、来てる」とマイクが言うからなのか、周りには漏れてるんですね。)

あくまでマイク・ブース氏の直感によって、降りてくるらしいのです。

理屈の世界じゃないんです。

しかし、時代の要請に従って、つまり人類が必要とするボトルが必要とされるときに誕生している、とのことでした。

だから、オーラソーマのボトルは時代に応じて増え続けるのだ、と思っていました。(事実、あるティーチャーは、「マイクはボトルは1000本まで増えるよ~ん」と言っていた、と聞いたとおっしゃっていました。)

正直、いつまでも増え続けるのは、いろんな面において大変なこっちゃなぁ、という思いはありました。だからそれを決して歓迎していたわけでもありません。

新しくプラクティショナーになる方というのは、いちどきに覚えなくてはならないボトルの数が増える一方、ということになりますし、まとめてボトルを揃えるときの金額も大変なものとなります。

私のようにすでにプラクティショナーの資格を持っている者としても、増え続けると今使っているディスプレイ棚はいつかは使えなくなったらどうしたらいいんだろうとか、置き場所も困るな、とか色々大変な面については時々憂えていました。

単純に色の意味から4本リーディングをする、と言うことだけを考えたら、そこまで本数がなくても十分に対応できるという気がします。実際、ヴィッキーさんもそんなようなことをおっしゃっていたらしいですし。

でも、オーラソーマのボトルは単に選んで読み解くためだけのものではなく、ワークすることを考えると、やはり、その時代に応じたボトルというものが必要になるだろうなぁ、それなら仕方がないよなぁ、という思いもありました。

その時代の要請に応じて変化をし続けるのがオーラソーマであって、人類がどんなココロの問題を抱え、どんなボトルを要請しているのかという思いが天に伝わり、またそれが降りてくるのがイスラム教における預言者モハメッドのように、マイク・ブース氏という人を通してくるのであれば、「もうボトルは次の1本をもってこれ以上は誕生しない。」という情報は、マイク・ブース氏しか知らないはずです。

それが、日本のこんな片田舎の1プラクティショナーの耳にも伝わってしまう、というのは、この話が本当だとすればいったいどんな経路でそうなったんだろう・・・

単純に考えて、マイク・ブース氏が側近にもらし、そこからまた・・・という経路をたどって海を渡った、としか考えられないじゃないですか。

つまり、マイク・ブース氏本人が漏らした、ということになります。

そうなんだろうか・・・?

だとしたら、ティーチャーやプラクティショナー達に対して、正式な発表を行うのを待たずして、チョロチョロとこんな一大事について漏らしちゃうトップって信用できないわ。(ていうか、もともと今までのいろんな言動からして信用してないけど。)

そして驚いたということのもうひとつが、このことに引き続いてですが、「では、オーラソーマが時代の写し絵だと言っていたことは嘘だったの!?」という思いです。

この一事においてのみ、ボトルが増え続けるということを納得してきた、という部分もあるというのに。

このことについて、この噂を教えてくれた友人とは別の友人と、お互いいろんな見解についてあーでもない、こーでもない、と議論しました。

彼女は、「ということは、あと1本っていうのはやっぱり大天使だわよね。そいでもって水瓶座の時代に入った、ってことをさんざ言ってきたわけだから、その1本にもやっぱりターコイズカラーが使われているんだよね、きっと。」と推測していました。

「マイク・ブースは、昔からさんざ天使、天使って言ってきて、天使が大好きだったみたいだから、大天使シリーズが終わりを告げることで、1つこれでオーラソーマのシステムは完成をみた、ってことにしたいんだろうか。」と私。

「そもそも『オーラソーマとカバラの72の天使』の講座にしたって、どうしてあれだけオーラソーマの授業をまったくとったことのない人でもあれだけでティーチャーになれる、っていう制度にしたんだろう、って考えると、これからはああいうふうにオーラソーマとは別個の天使に関する講座が増えるんだろうか?」

「しかし、完成ったって、今までさんざ時代を反映してボトルは増えていくんだ、って言ってきたわけだからそこ、どう説明つくわけよ。もう増えない、ってことは。」

「・・・だよねぇ。」

と、どう考えても、やはりそこまでで行き詰ってしまい、堂々巡りになってしまうのでした。

もし、マイク・ブース氏がもう1本ボトルが増えたところで“ひとつの時代が終わりを告げた”と考え、オーラソーマが時代に対して果たしてきた役割というものも“1つ終わりを迎えた”と考えているならば、これはオーラソーマシステムにとっての一大事です。

2012年にマヤ暦からして、1つの時代が終わるということに合わせて・・・とかそんなものではないと思います。

これ以上噂だけが先行しないうちに、早く正式に声明を発表して欲しいものです。(あ、でもこれがまったくの根も葉もない噂だった場合は、声明もへったくれもないか・・・)

でも、マイクのことだから、「・・・というわけで、一応、ニューボトルの発表は今回をもって最後といたします。」と言った舌の根も乾かないうちに、「ん? 僕、そんなこと言いましたっけ~? しょうがないじゃん。だって、また降りてきちゃったんだもん。僕のせいじゃないよ。天に言ってよ。」と来年またしゃらっとニューボトルを誕生させるというような暴挙もありえる、という気がして、どこまで行っても私のマイクに対する懐疑的な態度は変わりませんけどね・・・




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人の気持ちが透けて見えるとき

2011-05-18 09:17:00 | 身辺雑事

電話が鳴りました。

誰からかな?と思って携帯のウィンドウをのぞくと時々購入する通販の化粧品のメーカーからでした。

5つで鳴り止みました。

私の携帯は自動的に留守電に切り替わるまでの呼び出しコール音が長めに設定してあります。

15回ぐらい鳴ります。

それが5回で切られたのを見て、(あぁ、この人、ついに本音を見せたな。)と思いました。

実はそれまでにも毎日のように掛かってきていたんですが、出ませんでした。

初めは、留守電にメッセージが入っていました。「○○です。お忙しそうですね。また掛けなおしいたします。」という丁寧なものでした。

それが、2回目から留守電にメッセージは入らなくなりました。

ただ着歴だけが残っているようになりました。

そんなことが4、5回続いて今日はついに最後の留守電に切り替わるのを待たずに5回で自分のほうから電話を切ったわけです。

そこには、彼女が「私も忙しいのよ。出ないなら出ないで結構。ほかの人にすぐかけなきゃならないんだから、10回も15回もコール音なんて聞いてられますかって。」と言っているような気がしました。

この通販の化粧品会社は、「お使いになっていてお肌の調子はいかがですか?」という電話が月に1回はかかってくることになっています。

本当にそのお肌の調子を尋ねてくれるだけならそれはいい、と思っていました。

けれど、今度の担当者になってからやたらと月に何回も電話がかかってくる。

それは、「月刊誌のほうは届きましたでしょうか? それをごらんになっていただくとわかったと思いますが、新製品が出ましてね・・・」という話であったり、「今、キャンペーンを行っているんですが、お得になりますからどうですか? 是非!」という話であったりですが、早い話が常に「買ってくれ。」という用件なわけです。

ある意味、「月に1回のお肌の様子をうかがう電話以外はいたしません。」を売り文句にしている会社としてはルール違反です。

「それは必要ありませんから、けっこうです。」

「まだありますからいりません。」

そんな答えにはびくともしないのが電話セールスに手馴れている人です。

そこからがはじめて自分の出番だ、と思っているくらいです。

語る、語る。

「はぁ、はぁ・・」とだけおとなしく聞いているとちっとも話が終わらない。

結局、断ることも多いのですが、そのたびに時計をみると確実にいつも20分以上かかっている。

そのほとんどの時間が先方がしゃべっている時間です。

タフだなぁ、と感心しますわ。


こっちもヒマじゃないですから、この人の電話に今出たら20分はかかる、と思うともうよほど注文したい商品が確定しているようなときしか電話に出なくなりました。

するとあるとき、いつものようにさんざ商品を推してきて、それでも「いりません。」と繰り返し、最後訪れた沈黙にもびくともせず受話器を握っていると、先方がため息をつきながら、

「ごめんなさいね~、なんだか・・・ 私の説明がヘタだから、いつもあなたは必要ないってことになっちゃうのかしら。」って言いました。

この発言、発想にはびっくらこきましたね~

違うポイントで反省してほしいんですけど・・・

でまた、あるとき。

そのときには私は注文したいものがあったので、その人が一生懸命、キャンペーン中の別の商品を説明するのをさえぎって、「あ、そういえば、○○、ください。」と注文しました。

すると「あ、はい。」とその注文を承ったあと、なんとその人は、あんなに熱弁をふるっていたキャンペーン中の商品の話には戻らず、

「それでは、ごきげんよう~」とまさにごきげんそのものって声でそのまま電話を切ったのです。

まぁ、別にその商品について説明を続けて聞きたかったわけではないですからいいんだけど、なんて現金なんだろう、と思い、そのときから、「ただこの人は1回の電話につき何らかの売上をたてたいだけだな。」という気持ちが透けて見えるようになったので、信用できなくなりました。

そして、今日の5回コール切りです。

5回で切ることがいけないわけでもマナー違反なわけでもなんでもありませんよ。

ただ今までずっと留守電に切り替わるまでは鳴らす、というようにしていたんだったら、そのマイルールは続けないと、私のような容赦のない人間には、「やってらんないわ。この人のコール音15回聞いてるくらいなら、見込みがありそうな人にバンバンかけまくったほうがましよ。」と、この人おもってるんだろうな~というふうに思われてしまうんです。

でも、たぶん、そんなとこだろうな、と踏んでいます。

電話セールスを仕事にしている人って、「顔もみえない、見知らぬ人にどう思われたってかまわないわ。」とへいちゃらなのかもしれませんが、電話の向こうの相手は、あなたのちょっとした変化や口ぐせなどからあなたの本音を見透かしていますよ~と教えてあげたくなります。

ちなみに私は、顔も見えない、見知らぬ人だからこそ、細心の注意を払って応対しないといけない、と思っています。

顔がみえないからこそ起こった誤解などがあったら取り返しがつきませんもん。

そして、顔が見えないからこそ、でも、いま、この人とつながっているんだ、という波長を大切にしたいから。

・・・でも、ときどき、この化粧品会社の人のような神経の図太さもちょっとわけて欲しいな、と思ったりもします。




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上原美優さんが亡くなって考えたこと

2011-05-17 09:26:00 | 精神世界

上原美優さんの衝撃的な死からもはや1週間。

衝撃的、といっても私は彼女のファンだったわけではありません。

でもすごくショックを受けました。

だから今でも、私は頭から離れないことがあります。

「神様は、その人が耐えられる試練しか与えないっていうけど、ほんとなんだろうか?」

っていうことについて、です。

そもそも私は、タレントとしての上原美優さんのほとんどを知りません。

テレビで、1,2度みかけたことがある人だな、くらいの感じです。

確か初めてみたのは、「サンデージャポン」かなんかで、「小さい頃にどうしてもブランコに乗りたいって言ったら、お父さんが家のなかで天井に釘打って、ブランコを作ってくれたんですよ。で、喜んで乗って遊んでたら、いきなりダ~ン!って天井が落っこちてきちゃって・・・」という、皆が「ええ~っつ」とのけぞる話をしているところをたまたま見て、そのときに初めて、「貧乏子沢山タレント」というジャンルがあることを知ったのでした。(なんかこう言うと彼女自身がたくさん子どもを産んだみたいだね。)


それくらいしか見た覚えがないのに、そのときになぜか、(あぁ、この子は芸能界には来ちゃいけない子だったんじゃないかなぁ。)とふと感じたことを覚えています。

ほら、笑っていても、子犬のように怯えたような目をしている人っているでしょ。そんでもって頬の上のあたりの筋肉がこわばっちゃってるような人。

彼女もそんな表情をしていたからです。

私はそんな彼女になぜか強烈な「イエロー」と「ピンク」を感じたのでした。


オーラソーマでイエローとピンクの組み合わせと言えば、B59「レディポルシャ」とB61「サナトクマラ&レディヴィーナスクマラ」。

彼女に感じたのは、B61「サナトクマラ&レディヴィーナスクマラ」の方でした。

このボトルを選ぶ人というのは(何も彼女が選んだわけじゃないですよ。勝手に私がイメージしただけで)、普遍的な父性と母性の象徴ですから、自己の中にある役割モデルとの最も深いレベルにおける調和がテーマとなる人です。
それが、良い個性となって現れたときには、深い養育と温かさで喜びや幸せを感じていられるし、すべてのものごとには相互に良い意味での依存が成り立っていることを知っている、となりますが、いったんドツボにハマってしまうとひとりになることに不安や恐れを抱き、両親との関係から自己喪失感を抱き、常に愛に飢え、不安を感じ、何かあると自分のせいだと思ってしまうようになる。

単に、彼女に「子どもっぽさ」「無邪気さ」と「家族愛」をみたから、「イエロー」と「ピンク」の人だな、と思っただけなんですけど、こういうことになってみて改めてこうしてB61「サナトクマラ&レディヴィーナスクマラ」のメッセージを紐解いてみるとあまりに当たっている気がするのでびっくりです。

話は戻りますが、そんなテレビで1,2度しか見たこともない人にそれほど思いいれがあったわけではないのですが、彼女が亡くなった、という報道を知り、たまたま見ていた番組で、彼女が以前に出していた本のなかの話を引用しながら、彼女の生い立ちを振り返っていたのを見たら、なぜか涙が止まらなくなってしまったのでした。

最近、年齢のせいかほんと、涙もろいわ~

特に、親のほうの立場から感じる年齢になったからかしら・・・


そこで知ったのが、彼女の出身は種子島で、彼女の家では中学を出たら独立する、ということが家族のなかでの掟のようになっていたんだそうです。

やはり、家計が苦しかったからですかね。

それに反発して高校に行きたい、と思った彼女はその日から親とろくに口をきかなくなり、勝手に鹿児島市内の高校を受験して入学を決め、勝手に家を飛び出したそうです。

船に乗り、「あぁ、この島にももう帰ってくることはないんだなぁ。」と思ってふと後ろを振り返るとお母さんが港で一生懸命手を振っているのが見えたそうです。

びっくりした彼女は手を振り返すことも、まばたきをすることもできなかったんだとか。

そうしてお母さんの姿が見えなくなったときに今度はバッグのなかに手を突っ込むと自分が入れた記憶もない茶封筒が・・・

中を開けると、3万円という見たこともない大金が入っていたそうです。

お母さんは働き者で、10人の子どもを育てながら、近所で芋ほりのアルバイトをしていたそうですが、そのアルバイト代が月に3万円。

その全額を入れてくれたんだ、と思うと涙が止まらなかったそうです。

    ・・というところをきいていて、私も涙が止まらなかったのでした。


と同時に、いろんな事情を抱えた家庭があるでしょうが、今のこの日本の中で親のほうから、うちは中学出たら働くのが当たり前よ、家からは高校に行かせてやるお金は出せんよ、行くな、という家は圧倒的に少ないことでしょう。

むしろ、子どもがそう言い出したら、泣いてすがって「お前、なんとか高校ぐらいは出てくれ。」と頼む親のほうが多いんじゃないでしょうか。

そんななか、彼女は自分だけの力で高校に通おうとしました。

生活が大変で、彼女だけが中学のときのままの制服で高校に通ったそうです。

それだけでも浮いているから、友達ができなかったそうですが、授業が終わると働きに行く彼女にいつしかクラス内で「あいつは夜遊んでいる。」という噂がたちはじめ、学校にいづらくなって、やめてしまったそうです。

ここまで聞いたときにふと思ったのです。

私が22歳で大学を出てからようやく社会に出て、10年働き、最初の会社をやめ独立した、という頃の、社会的にはようやく一人前になりました、という精神状態が24歳で死んだ彼女の状態だったのか、と。

15歳でひとりで社会に出て、約10年働いたんですものね。

テレビで彼女がやたらと結婚願望が強かった、というのを聞いて最初は、「ふぅん。24歳なんてまだ焦るような年齢でもなんでもないのになぁ。」と不思議でしたが、彼女が社会に出てから10年たっているんだ、ということに思いを馳せると納得できました。

私の場合は10年働いたとき、ひとつの達成感がありましたが、彼女にとってはそれがひとつの喪失感となってしまったのかもしれません。

確かにちょっとここいらでピリオドを打ちたくなるようなときだね。

彼女は永遠に後がつづかないピリオドを打ってしまったけれど・・・

そして、もし彼女が東京へ出てタレントにならずに、種子島に残るか、せいぜい鹿児島で就職していたとしたら、こんな結末になっただろうか、と思うとならなかったような気がするんですよね。

どんなことがあったか知らないけれど、種子島を出てくるときには3万円が今まで見たこともない大金だった子に対して、そりゃあ東京は刺激が強すぎたと思うよ。

貧乏だったことだって、そりゃもう笑って話せる、ってことも中にはあるかもしれないけれど、何から何までが笑って話せることではなかったと思う。

ましてや、20歳やそこそこでデビューしているんなら、自分がまだほんの子どもで親が貧乏と奮闘しているさまを見ていたのって、たかが3~5年前のことじゃないですか。

それほど「もう過去のことですからね~」なんて昔でもないし。

だから、自分の泣きたいような出来事をテレビという公共の電波で売り物にしなければ食べていけなかった、ということも辛かったと思うよ。


でも、これが天の配慮、彼女に与えたギフト&チャレンジだったとしたら・・?

最初の疑問に戻りますが、「神様はその人が耐えられないような試練は決してお与えにならないというけれど、それは本当だろうか?」

中には例外もあるよ、で片付けていいの?

神様も時には采配ミスがあるよ、ってこと?

どんな小さなミスであろうとミスなんて犯さない全能の存在が神ではないの?

ここで私の中で現れる結論というのが、「神は、人間にも自由意志をお与えになった。」です。

アダムとイブが善悪の木の実を食べた、ということそのものから始まっているこの自由意志。

神は「自分に似たように人をお創りになった。」と聖書のはじめにも書かれていますが、「まったくコピーとして創られた」とは書かれていません。

そもそもコピーなら創る必要なんてないじゃんね。

神は自分と“本質的には”似ている愛の存在として人をお創りになったけれど、「似ている」ものは「どこかが違う」ということ。

それがそれぞれの個性=思考→物事に対する決断のくだしかた、だったということなのではないかと思いました。

だから、自分の命をどう扱うかも自由なのだ、というのは飛躍にすぎるでしょうが、少なくとも私は、選択はあくまでひとつの選択以上のなにものでもないのであって、そこに正誤も善悪もないのではないか、とふとそのような気になったのでした。

以前、私は「生きがいの創造」の中に書かれていた、「自殺した魂だけは、みんながいる光の源に還ることはできない。ただひとりだけ闇の虚空をさまようことになる。だから自殺はいけないのだ。」という説をなるほど、と思っていました。

けれど、人が究極の選択として採択した結論に対して、神様は「ハイ、あんたの出した結論はまちがい~。だから天に帰ってきてから罰を与えます。」というようなことをするだろうか?と思うと、神はそんなことはしない、と思うのです。

ま、確かに、ちょっとほかの人より大目に休ませてあげよう、とは思うかもしれませんけど。

永遠に闇に葬り去る、なんてことはなさらない、と思えます。

ということで、「神様はその人が耐えられないような試練は決してお与えにならないというけれど、それは本当だろうか?」にまた戻りますと、今までの話から導きますとNOということになります。

耐えられないことだってあるんだ、ってことですね。(神様は耐えられるだろうと思って与えたかもしれないけど、結果的には、ってことね)

でも、ほんとうにそうなのかな?

耐えられないことも時に人生には配置されているかもしれませんが、耐える必要もないようには本来、配慮されているんじゃないでしょうか。

だから、「神様はその人が耐えられないような試練は与えない」という言い方は、「神様は耐えられないかもしれない試練も中には入れるけれど、耐える必要があるとは言っていないよ。」がしっくりきます。

その人が自分に厳しくて、いい加減なところで「ごめんね、ごめんね~」とドロップアウトすれば済むことをそれを罪悪と考えてしまうから、どうしたらいいのかわからなくなってしまうんだろうね。


私は耐えられないことには無理に耐えずにいこうと思います。

ぶざまだと言われてもいいから、そのときにはドロップアウトを宣言します。

ディズニーランドのスプラッシュマウンテンをはじめ、スピード系のアトラクションに並んでいるとところどころで「いいですかぁ~?」「ほんとに大丈夫ですかぁ~?」というように、心臓の弱い人のために脇へそれて「ここでやっぱり私はやめる」というドロップアウトのための道が用意されていますね。

あれです。

あれに、さっさと逃げ込むことにします。

でも、実際にはディズニーランドでも、人生においても、さっさとドロップアウト道を選んだこと、って言うのは実は今までにないんだよね・・・

性分だと思うけれど。

でも、ディズニーランドのドロップアウト道を選ぶのも、また勇気いることだと思うよ~

せっかく2時間も3時間も並んでもったいない、って思っちゃうもんね、やっぱ。


でも、自分がほんとに「もう無理」ってときには、勇気を出してドロップアウトの道をこれからは選ぼう、と思いました。

しかし、そのドロップアウトするときも、「この試練に立ち向かえるだけの準備とパワーと智恵を積んでから出直します。」と再チャレンジを胸に誓えるといいですね。




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