不倫・・
今日は、重いテーマです。
でも世の中の人の多くが悩まされていることでもあります。
私は、不倫を「良いこと」か「許されることか」という論点で論じる気は毛頭ありません。
不倫は読んで字のごとく「倫理にもとる」と書きますね。
だから、法律上でもし正式の配偶者が訴えたら罰せられる、とかそういう問題だけではなく、人の心のなかにある倫理観においてもいけないことだ、というのは大抵の人がわかっていることでもあります。
でも、ふと思ったりします。
この「名称」が衝撃的すぎるのであって、仮に「婚姻後自由恋愛」とか言ったらどういうことになるのか?
その名前が、「いい」「悪い」は関係ない、ただ好きだから自由に恋愛しているだけ、という意味になったとしたら・・・ そこに「良い」「悪い」とかの後ろ暗さを感じさせるような言葉が一切入っておらず、ただの現象面のみを言い当てた言葉にしたとしたら・・・
また人の倫理観も変わってくるのではないでしょうか。
このように私たちはそのネーミングやイメージに結構自分の印象や意見も惑わされています。
なぜ、不倫がいけないことだという倫理観を多くの人が抱いているのか?
これも大抵の人がそこしかないっしょ、というとおり「それによって傷つく人がいる」ということに尽きるかと思います。
これは実にまともな感覚だとは思いますが、傷つく、傷つかない、というのもしょせん現行の法律に左右されることです。
今でも一夫多妻が許されている国がありますが、第一夫人は第二夫人にたいして、そういった法律が許されていない国のようなやきもちを焼くものでもないと思います。
これが正夫人が愛人に対して、というと急に嫉妬の炎が燃え盛る。
法律にかかわりなくいつの世にも不変、というイメージのある倫理観とてそんな程度のものなのだ、という気もします。
では今度は、「傷つく人がいなければいいのか?」という問題はどうでしょう?
たとえば宗教上の問題で、絶対的に離婚はいけないこと、と決めているご夫婦がいて、でもふたりの愛は冷めていることがふたりとも理解している・・
そんなときの不倫はどうなるのでしょう?
形式的な結婚をそこまで重要視してどうなんだ?
そもそも結婚なんて制度そのものが便宜上現代では取り決められているだけのことではないか。
時代が変わればまた制度なんて変わる。
現に平安時代ではとくに結婚という紙切れやお上が認めるかどうか、なんてことは問題ではなかったはず。
男が三日つづけてその姫のもとに通ったかどうかという事実のみが大切だった時代です。
結婚と言う形態も通い婚でした。
その平安時代からほんの1000年しか経過していないんだ、と思うのか1000年もたっているのだから倫理観や制度も変わっても当たり前だろう、と思うのかそれまた人それぞれです。でも、「永遠」とはしょせん1000年はもたない、という話なんだな、と言うのは事実ということです。
そんな程度の「永遠」のなかで、少なくともそのときの政治的な思惑や時代の風潮に流されて自分の倫理観が左右されるのはかなわない、と思うのが人ではないでしょうか。
不変の真理で判断したいものだ、それを養う目が欲しいものだ、と思ったりすると思います。
愛は永遠だ、というのであれば、1000年だろうが1億年たとうが、その真理は本来変わることがあってはいけないはずですよね。
でも現実はうつろいでいく・・
その移ろいでいく中に生きていて、環境やら周囲の反応やら人の意見やらに影響されて変わっていく倫理観をまたよし、とするのか、よし、ではないけれど、認めていかざるを得ないでしょ、と思うのかそれも人それぞれです。
ちなみに江原啓之さんは、「不倫は将来的には結婚を目的としている、という場合においてのみよし、とする。」と言う見解です。
映画監督の新藤兼人監督は、女優の乙羽信子さんと何十年にも渡る不倫を彼女が亡くなるまで貫きました。これはどういう事情が二人の間にあったのかは知りませんが、「不倫も貫けば不倫ではない。」という見解だということでしょう。
女優の石原真理子さんがその昔、玉置浩二さんと不倫だったとき、「だったら、結婚してる男の人は絶対に薬指に結婚指輪をしているとか、一目でわかるようにしておいてほしいわ。いちいち、知り合ったときに結婚してますか?なんて聞かないもん。」と言いましたが、それも一理あると思います。
ひとつだけいえることは、一人ひとりの事情が違うかぎり、私たちは一言のもとに断罪する権利はない、ということです。
自分がその人の立場におかれたとき、絶対にそんなことはしない、と言い切れるのか? そう自問したとき、「絶対しませんよ。」と言い切れる人はいないでしょう。いるとしたら、それは一応その時点での決意表明である、というレベルではないでしょうか。
不倫であろうとなかろうと男女の出会いというのはある日突然降って沸いたようなときがあります。
今日、次の瞬間にそれが自分の身には起こらないと誰がいえるでしょうか?
恋に落ちるのは仕方がないとしても、そのあとの対処が問題。
「不倫は文化」と開き直るつもりもないけれど、ばっさりと「不倫は罪悪」と決め付けるのもどうなのかな、と言う気もするのです。
そんななかで、不変の真理とはなんだろう?と考えたとき、「ほかの人が傷ついたりすることをするのだけはやめよう。」と思うのは、実に人間としてまっとうな感覚だろうな、と思うわけです。
では今度は、「ほかの人が一切傷つかない方法なんてあるのか?」という問題にぶちあたります。生きている限り、あっちも立ててこちらもうまくいって、なんてことはないんじゃないか、という疑問が湧き上がるのです。
どのみち、私たちは生きている限り、自分が気づかないうちに3人は殺していることになるはずだ、という恐ろしい推測?意見?もあったりします。
たとえば、極端な例でいえば、友達とおしゃべりに夢中になっていて歩道をあるいているとき、それを避けて先に前へ出ようとした人が一瞬車道に出たとたん、車に轢かれて死ぬ、とか・・そういうことです。
妻子ある人を好きになってしまった・・ 相手もどうも自分に好意をもってくれていることがわかり、その勢いは止められずついにつきあうようになった。
相手も奥さんも、自分の周りの人たちも自分も誰も傷つけずにこの状況をなかったことにしよう、ということはもうできない。
どのみち誰かを傷つけて終息するしかないなら、自分を傷つけて終わろう、とする人。
相手にも傷ついてもらいましょう、と思う人。
いや、好き同士のふたりが傷つくことはない。しょうがない、奥さんに傷ついてもらいましょう、と思う人。
様々な人がいます。
そして、それのどれが正しいか、正しくないかなんてどのみち現代の尺度で言っているならば意味がない、と思う人。
いやいや、しょせん我々の寿命は何十年。あるいはよく生きても100年。その間くらいには変わらない倫理観なら、それは守るべきだ、不変と同じことだ、と考える人。
そのジャッジメントもまた様々なわけです。
ようは、自分の力で悩んで、考えて、自分で結論を出すしかない、ということ。
そして、その出した結論の責任は全部自分が負うしかない、ということ。
他の誰でもない、自分から動き出さなければ何も始まらない、ということ。
人のせいにしたり、人が決めてくれるのを待っていては何も始まらないということ。
それだけをよぉく噛み締めるしかない、と思うのです。
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