ばあさまの独り言

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美しい顔

2016年11月02日 | 随筆
 顔というのは、個人を判別し理解する最も重要な人体の要です。言うまでもなくDNAに左右されていますから、何処か母親似だったり、父親似だったりします。
 「生まれたままの顔というものはどんなに醜くても醜いなりの調和がある」と伊丹万作(映画監督)は「日本の名随筆」(作品社)に書いています。同時に「医者の手にかかった顔というものは、無残や、これはもうこの世のものではない。もし世の中に美容術というものがあるとすれば、それは精神的教養以外にはないであろう。顔面に宿る教養の美くらい不可思議なものはない。
 精神的教養は形のないものである。従って目に見える道理がない。しかし、それが顔に宿った瞬間にはそれは一つの造形的な美として吾人の心に触れてくるのである。」とも言っています。
 伊丹万作は、まだ美容整形の技術のレベルがさしたるものでは無く、持って生まれた自分の顔を整形してしまうことに反対だったのです。
そして精神的教養が顔に宿った瞬間に美しいと感じさせ、見ている人の心に触れて来るのだと言っています。
 私も自分の顔にメスを入れようとは思いませんが、事故や病気で、やむを得ず形成外科のお世話になる人も、また「プチ整形」と言って少しばかりの皺を取る等も、最近は身近にあるようです。
 若い頃は、両親のどちらに似ている顔なのか、判然としないところもありますが、段々年を取ってくると、遺影の亡母そっくりになっている自分に気づいたりします。それは何とも懐かしいような、ほのぼのとした感じで、亡母の子育ての苦労を偲んだりします。
 精神的教養論は、まさにその通りだと感じます。目に見えない「教養」が、顔に宿った瞬間に、造形的な美しさとして、見ている人の心に触れて来るものだ、というところは実に説得力があります。
 またリンカーンの名言として「40になったら自分の顔に責任を持て」というのがあります。これも40歳ともなれば、己の努力で教養を積めば、どのような顔に生まれたとしても、それなりに気品や味わいに満ちた顔立ちになると言うことでしょう。その逆も当然成り立つわけですが。
 遠藤周作によると、哲学者サルトルは、生来のやぶ睨みの顔であり続けたそうです。若い時に手術によって、眼を治せると言われても、「これが自分の顔なんだから」と。
 遠藤はサルトルが日本に来た時、二言三言話しをする機会があったのですが、「その顔には、彼がつくった魅力があった」と言っています。だから「親がくれた顔をいかにして魅力あるものに変容するかも男の仕事の一つだと思う」と「眠れぬ夜に読む本」(光文社)に書いています。
 ここまで読むと、親から貰って来た顔を捨てて、美容整形手術など行わず、自分の顔に「これが私です」と誇りを持ってほしいと思うようになります。
 教養を積み心豊かな人の顔は、にじみ出る個性が周囲の人達の心に安らぎや温もりを与えます。これこそ本当の意味で「魅力のある顔立ちの人」と言えるでしょう。そしてこの本当に美しく魅力ある顔立ちの人には、男女を問わず誰でもなれるのです。顔より心の美しさこそ大切なのだとしみじみと思いす。
 私の家の本棚に濱谷浩写真集「学芸諸家」(岩波書店)があります。ノーベル賞を受章した原子物理学者の「湯川秀樹」やノーベル文学賞の「川端康成」哲学者の「安倍能成」詩人・翻訳家の「堀口大学」仏教哲学者の「鈴木大拙」ウ゛ァイオリニストの「巌本真理」能楽師喜多流14世宗家「喜多六平太」などジャンルを超えて、それぞれに学芸を究めた人達ですが、本当によい顔をしています。
 伊丹万作は「私の顔も死ぬる前になれば、これはこれなりに、もう少ししっくりと落ち着きを持ち、今よりはずつと安定感を得てくるに相違ない。だから私は鏡を見て自分の顔の未完成さを悟るごとに、自分の死期はまだまだ遠いと思つて安心するのである。」と書いています。
 死は何時訪れるか、それは解りませんが、多くの人が私と同じように「未だ少しは先があるだろう」と思って生きています。従ってまだなすべきことはあるわけです。私も一層教養を積む努力をして、ホイットマンの残した言葉

 若い女性は美しい。しかし老いた女性はもっと深く美しい
                 ウォルター・ホイットマン

のように「深く美しい」人間に向かって努力しようと思っていす。